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批判的地域主義再考──コンテクスチュアリズム・反前衛・リアリズム | 五十嵐太郎
Rethinking Critical Regionalism: Contexturalism/ Antivanguard/ Realism | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) pp.205-216

野蛮ギャルドの住宅

それは大地に「映える」のではなく、大地から「生える」建築だった。数年前、建築史家の藤森照信氏が設計した《神長官守矢史料館》を見に行ったとき、小雨が降りしきる視界のすぐれない天候だったせいか、なんとも幻想的な第一印象を抱いた[図1]。おそらく山村を背景にして建物の正面に並ぶ、原木さながらの四本の柱が想像力をかきたてたのだろう(村に生えるミネヅオウの立木らしい)。妙なたとえであるが、靄に包まれたそれは直感的に「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくる目玉オヤジの家を連想させた。ただし、屋根から柱が突き出す初期のスケッチを本人自ら「少々オドロオドロしい」と述べていたから、妖怪の世界を連想したのも、あながち突飛ではないかもしれない[図2]。この建物は大昔より自然をあがめる神長官守矢家の史料を展示することから、自然の素材や地元産の素材の使用をテーマにしている。だが、純粋な自然あるいは伝統の建築ではない。鉄やコンクリートの近代的な構造を自然の素材で覆い、伝統的な鉄平石葺きの屋根を五〇年ぶりに復活させている。またかつて屋根に使われていた割り板の技術は壁のために転用された。つまり、失われた伝統を人工的に再生している。造形も独特だ。方形の収蔵庫と斜めにかむ長方形の展示空間は大胆な角度の屋根をもつ。懐かしいようで新しい。見たことがありそうで見たことがない。土地に根づきながら、単なる復古主義ではない。
設計者はインターナショナル・ヴァナキュラーという言葉を使っていたように思うが、「私のやり方は、大まかに言うと記念碑的な建築や歴史的な様式が成立する以前の民家の味に近い。民家は現在、各国各地域ごとに独特の形をとっているが、私の求める味はそうした各国各地域ごとのどれかではなく、どの民家にも共通の味があるはずで、それを引き出したい」と説明している★一。つまり、近代工業化や古典主義だけがインターナショナルなのではなく、ある意味で最もヴァナキュラーな民家にこそ反転して、もうひとつのインターナショナルの可能性を求めているのだ。世界の集落調査から普遍的な原理を導く、原広司にもこれと近い態度を認めることは可能だが、メタリックな表情を好む点において、自然の素材を徹底して使う藤森氏とは違う。藤森氏の分類によれば、抽象性の白派(原、伊東豊雄ら)と実在性の赤派(藤森、石山修武ら)の両極に位置するはずだ。
次に藤森氏の自邸《タンポポハウス》(一九九五)や赤瀬川原平邸の《ニラハウス》(一九九七)を見よう[図3・4]。前者は壁面から屋根にかけてタンポポを、後者は大きな屋根面の全体にニラを植えたことで知られる住宅である。いずれも東京の郊外に建ち、《神長官守矢史料館》ほどの強い場所性はない。したがって、あからさまな土着主義ではなく、ここで自然の素材にこだわることは一種のフィクションを伴う(それにしても本当の都心に建築を設計するとしたら、どうするのだろうか?)。ただし、環境に配慮したスケール感は絶妙であり、強い作家性にもかかわらず、意外なほどに周囲からは浮いていない。《タンポポハウス》では住宅地にありがちな塀を設置しなかったり、《ニラハウス》ではガードレールを緑でくるみ、坂道のアプローチ側からは大きさを感じさせないなど、境界のつくり方も巧みである。ところで、これらの住宅は日本風のものなのか? それとも地域性を表現しているのか?
なるほど住宅の屋根に植物を生やすのは奇抜に思えるかもしれない。しかし、古代からル・コルビュジエまで屋上庭園は存在するし、なによりも本人が自ら述べているように、イチハツやニラを棟に生やす東北の芝棟の民家を意識している。とすれば、これはあまり注目されていなかった芝棟を現代的な技術によって蘇生する試みであり、しかもわれわれがイメージする「日本」風が実はかなり限定されていたことに気づかせてくれる。伊勢神宮や桂離宮、有名な民家や数寄屋だけが日本の伝統ではない。そうした凝り固まった伝統への考えについて、藤森の「野蛮ギャルド」は批判的な視座を投げかける。さらに素材の選択や構築の発想において個性を発揮することで、記号的なデザインの操作に頼らないアプローチを示している。藤森の建築は、通常の地域主義では括れない余剰を抱えているがゆえに興味深いものだ。それは地域性そのものを逆に問う。

1──藤森照信+内田祥士《神長官守矢史料館》(1991) 筆者撮影

1──藤森照信+内田祥士《神長官守矢史料館》(1991) 筆者撮影

2──藤森照信「神長官守矢史料館のスケッチ」 『藤森照信 野蛮ギャルド建築』(TOTO出版、1998)

2──藤森照信「神長官守矢史料館のスケッチ」
『藤森照信 野蛮ギャルド建築』(TOTO出版、1998)

3──藤森照信+内田祥士《タンポポハウス》(1995) 筆者撮影

3──藤森照信+内田祥士《タンポポハウス》(1995) 筆者撮影

4──藤森照信+大嶋信道《ニラハウス》(1997) 筆者撮影

4──藤森照信+大嶋信道《ニラハウス》(1997) 筆者撮影

コンテクスチュアリズムの系譜

誤解を恐れずに言えば、二〇世紀前半の建築が世界に遍在するインターナショナリズムを志向したのに対し、二〇世紀後半にはその批判的勢力として地域性を強調するリージョナリズムが注目されたと言える。しかし、前者が浸透することではじめて後者が覚醒されるという意味で、両者は補完的な関係をもつ。一九六〇年代のバーナード・ルドフスキーの『建築家なしの建築』(一九六四)やミロン・ゴールドフィンガーの『太陽の中の村落』(一九六九)は、レヴィ=ストロースが西洋の外部から構造的な知を抽出したように、世界のヴァナキュラー建築を通してモダニズム以外の普遍的な原理への関心を促した。一方、西洋の内部においても、ヴェンチューリは路上の商業建築を現代アメリカのヴァナキュラーとして発見し、レオン・クリエらはヨーロッパの歴史的な街並みを重視するコンテクスチュアリズムを推進した[図5]。また一九八〇年代には鈴木博之氏が土地のもつ可能性としてゲニウス・ロキ(地霊)を説く。すなわち、均質的な「空間」から個別的な「場所」へのパラダイム・シフトである。だが、かつてないグローバル化の時代にどうしたら地域主義が可能となるのか? 経済のグローバリゼーションによる「国家領土の脱国家化」(サスキア・サッセン)が発生し、純粋な未開文明が消え、世界レヴェルで文化の相互汚染が進む現在、単純な共同体の表象としての地域主義を信じることはあまりにも素朴だろう。
ところで、建築における地域性の考えは近代以前にさかのぼる。アレグザンダー・ツォニスとリアンヌ・ルフェーヴルの整理に従い、概観しよう★二。すでに古代のウィトルウィウスは、天候の地域差で人間が異なるように、建物の配置も変えるべきとし、「北天の下では、ヴォールト式の、特に四方囲まれた、開放的ではないが暖かい方へ向いた室が造られるのが適当であると思われる。これに反し、強烈な太陽を受ける南の方角の下では、暑さの重圧を受けるから、なるべく開放的で、北と東北に向いた室が造らるべきである」と語った★三。が、この地域性は規範となるローマの古典主義からの偏差であり、標準から劣ったものを含意する。ローマ帝国の古典主義建築が地域を超えた最初のインターナショナリズムであったからこそ、同時に地域性の意識が生まれたのである。ただし、ツォニスらは単に「地域的な」建築と「地域主義者」の建築を区別し、後者は単に地域的な要素を使うのではなく、普遍的な秩序に抗する批判的な意図をもつという。こうした事例としては、ルネサンスの当初は教皇の権力に抵抗した共和主義者側のローマの古典建築(後に教皇側と古典主義は結びつく)、反君主制と結びついたイギリスのピクチャレスク庭園(地形をいかした非規則性が形式的な庭園を批判するが、やがて政治性を失う)、一八世紀以降に国民性や民族性を鼓舞したロマン主義的地域主義(ゴシックを参照したゲーテやラスキンの文学的想像力を伴う)などが続く。しばしば、ロマン主義的地域主義は、遠い過去の建築を失われた起源としてもちあげ、共同体の絆を強化し、ゲーテやラスキンにしても当時から見れば、数百年前のゴシックを賞賛した。それに比べて、現在、こうした同時代の建築を創造するにはより多くの困難を伴う。
ツォニスらはルイス・マンフォードに注目する★四。今世紀前半にマンフォードは、建築批評家として地域主義に関する独自の思想を洗練させたからだ。彼は専制的なボザールへの抵抗としてアメリカのH・H・リチャードソンのロマネスク風建築を解釈する一方、地域主義であっても、ナチスのハイマート(郷土)建築を攻撃している[図6]。なぜなら、ナチスのロマン的な地域主義は、単一の民族共同体への帰属感覚を生み、抑圧的なものだからである。つまり、すべての地域主義を支持したわけではない。むろん、ソ連の折衷的な古典主義やナチスが非難の対象になった背景にアメリカのイデオロギーを読むこともできよう。ただし、戦後のマンフォードは人間性の復権を唱えて、アメリカ発の機械的なインターナショナル・スタイルの建築さえ批判しており、代わりに「地域主義」の建築を掲げて、例えば、カリフォルニアのベイ・リージョン・スタイルを高く評価した。彼によれば、土着的で人間的なモダニズムでありながら、東洋と西洋の出会いがもたらしたものだからである。それはいわゆるインターナショナル・スタイルと単なるリージョナリズムの両方を批判的に考察する射程をもっていたが、当時、マンフォードの思想はきちんと受けとめられなかったようだ。ケネス・フランプトンは、マンフォードの言う「バイオ・リージョナリズム」の事例をフランク・ロイド・ライトであると指摘していたが、フランプトンも一九八〇年代に地域主義の概念を洗練させることになる★五。

5──レオン・クリエ「ルクセンブルグの新街区」計画(1978)と 「旧街区」 “Leon Krier” (Academy Editions, 1984)

5──レオン・クリエ「ルクセンブルグの新街区」計画(1978)と
「旧街区」 “Leon Krier” (Academy Editions, 1984)

6──リチャードソン《トリニティ聖堂》(1872─77) 筆者撮影

6──リチャードソン《トリニティ聖堂》(1872─77)
筆者撮影

フランプトンの批判的地域主義

ケネス・フランプトンが唱える「抵抗の建築」としての批判的地域主義はいかなるものなのか。『反美学』(一九八三)に収録された彼のマニフェスト的な論文を検討しよう★六。

「批判的地域主義」の基本的戦略とは、普遍的文明のインパクトと、個別的な場所の特色から間接的に引き出されてくる諸要素とを和解させることである。(…中略…)「批判的地域主義」の実践は二重の媒介の過程に依存することになる。第一に、それはみずからが引き継がざるをえない世界文化の全側面を「脱構築」しなければならない。第二に、それは総合的対決を通じて、普遍的文明のはっきりとした批判を達成しなければならない。


フランプトンは、ポール・リクールを引用しながら、批判的地域主義とは普遍性と個別性のあいだの弁証法的なプロセスであり、両者の微妙な舵取りが要請されるという。彼によれば、普遍的な文明が地方的な文化に勝利し、ポストモダン・アヴァンギャルドがメディア社会を太らせるだけになった現在、「後衛主義だけが、普遍的技術を慎重に利用しつつ、同時に抵抗する文化や、アイデンティティを与える文化を展開することができる」。ただし、その後衛主義が批判的実践であるためには、啓蒙主義の進歩の神話からも、ノスタルジックに過去へ回帰する反動からも距離をおかなければならない。むろん、「高度な批判的自己意識の維持の上に成り立つ」がゆえに、チャールズ皇太子のような愛国的かつ反動的な保守主義とは違う★七。批判的地域主義は特定の地域の土着形式に頼らず、抑圧に加担するものではない。したがって、ヨーロッパ文明中心主義にもつながらない。フランプトンはそうした事例としてヨーン・ウッツォンによるコペンハーゲンの《バクスバート教会》(一九七三─七六)を挙げている。規範的合理性(グリッドによる反復的なコンクリート・ブロック)と特異な形式の非合理性(東洋風にも見える聖なる空間を示す不経済なヴォールト架構)が結びついているからだ[図7]。
フランプトンは批判的地域主義の戦略を思索しながら、テクトニクスの概念と連動させる★八。大衆的な商業建築に学ぶポピュリズムが情報戦であり、伝達手段として記号を扇動的に使うのに対し、批判的地域主義は地勢や独特なテクトニクスから着想を得るという。テクトニックは地形、あるいは土着的な素材や構造形式と不可分だからだ。彼はテクトニクスが「ロバート・ヴェンチューリの装飾された小屋が世界的な勝利を収めようとしていることへの反抗」だと表明している★九。いずれも近代建築の推進した「空間」信仰への異議申し立てという点では共通するが、両者の立場は建築の本質を何とするかをめぐって対立している。フランプトンの経歴を察すれば、アカデミズム一辺倒ではなく、三〇代の前半に建築の実務を行なったことが、視覚的な記号や様式への懐疑を強めたと思われる。つまり、彼は建築の自律性が主にテクトニクスにあると考え、「ファサードによる表象ではなく、詩的なものの構造における現前」を重視する。そこから彼は視覚優位の建築を批判しつつ、触覚の復権を計るのだ。例えば、アアルトの《セイナッツァロの役場》(一九五二─六六)を分析し、視覚以外に「音、香り、手触り、(…中略…)床の弾力のあるたわみ」といった身体的な経験を読む[図8]。アアルトと同じく北欧の感性を共有するためなのか、建築理論家のラスムッセンも、光、色彩、音の響き、素材の触感などを含む空間の経験を重視したことを付記しておこう。視覚中心の遠近法によって抑圧されてきた他の感覚をとりもどすこと。おそらく、設計する際の七つの原則に「場所の表現」と「五感に訴える」の項目を、そして一二の方法のうちに「土地をつくる」ことをもりこんだ象設計集団の活動も、同様の試みと言えるのではないだろうか★一〇[図9]。いずれにしろ、中村雄二郎が『共通感覚論』において「近代世界における視覚の優位、さらには視覚の専制支配と、それに対する触覚の回復あるは復権ということが、五感の組み換えに関して問題になる」と論じたことが想起されよう★一一。興味深いことに、彼も場所(トポス)の問題に向かう。かつてルソーは感覚を単純化せずに二重化すること、すなわち過ちを起こしやすい視覚を触覚などの他の器官によって検査する建築家は的確に空間を把握すると述べていたが、批判的地域主義では、まさにこうした建築家が要請されているのだ★一二。
フランプトンは主著『近代建築・批判的歴史』(一九八一)の第二版(一九八五)以降において、最終章「批判的地域主義──現代建築と文化」を追加している★一三。やはり彼は限定を強いる地域主義に対して解放を与える地域主義、すなわちキッチュに陥らない反中心主義的な地域主義を推奨し、欧米以外ではメキシコのルイス・バラガン、日本の安藤忠雄、ヨーロッパならば周縁のスペインのオリオル・ボイガス、ポルトガルのアルヴァロ・シザらを代表的な建築家とみなした★一四[図10]。ここでフランプトンは、七つの基本戦略を表明する。第一に、ユートピア主義と関わらない周縁的実践であること。第二に、独立したオブジェではなく、境界を作る建築であること。第三に、背景画的な建築ではなく、テクトニクスの建築を実現すること。第四に、敷地の特殊要素を強調すること。第五に、メディアに抗して、触覚的なものを重視すること。第六に、ときには地方の語法を再解釈し、現在的な全体の分断を計ること。第七に、それは普遍的文明から免れる文化の隙間に現われること。
したがって、批判的地域主義は決まった形態によって規定されるわけではなく、一定の建築様式をもたない。運動ですらない。ここには作品と批評の転倒が起きている。つまり、批判的地域主義とは、建築家側が宣言するというよりは、批評家側が読解する認識の枠組なのだ。フランプトン自身、これを「ある共通した特徴を目指している批判的カテゴリー」だという。当然、こうしたレッテル貼りに苛立つ建築家もいるようだ。例えば、スペインのラファエル・モネオはフランプトンが自分を批判的地域主義と呼ぶことを嫌がっており、あえて言うならば、自分は環境を反映したレフレクティヴ・デザインであると主張している★一五。邪推するに、おそらく彼は批判的地域主義の背後に、田舎の国もよく頑張っているじゃないかというニュアンスを感じているのではないだろうか。確かに批判的地域主義の建築とされるものは、欧米でもアメリカやフランスにはなく、スペイン、ポルトガル、スイスといった周縁の国に多い。

7──ヨーン・ウッツォン《バクスバート教会》(1973─76) 『反美学』(1991)

7──ヨーン・ウッツォン《バクスバート教会》(1973─76)
『反美学』(1991)

8──アルヴァ・アアルト《セイナッツァロの役場》(1952─66) “Modern Architecture in Finland” (Praeger, 1970)

8──アルヴァ・アアルト《セイナッツァロの役場》(1952─66)
“Modern Architecture in Finland” (Praeger, 1970)

9──象設計集団《縄文真脇温泉の遺跡公園》(1993) 筆者撮影

9──象設計集団《縄文真脇温泉の遺跡公園》(1993) 筆者撮影

10──安藤忠雄《近つ飛鳥歴史博物館》(1994) 筆者撮影

10──安藤忠雄《近つ飛鳥歴史博物館》(1994) 筆者撮影

ツォニス+ルフェーヴルの批判的地域主義

フランプトンが批判的地域主義の概念を構想したときに、ツォニスとルフェーヴルの論文「グリッドと通行路」(一九八一)を参照したことは比較的知られていよう(言葉の初出も彼らと思われる)。ツォニスらは一九世紀ギリシアの国家主義的な新古典主義への反動として、二〇世紀ギリシアの地勢学的歩道と普遍的グリッドを融合する「批判的地域主義」の試みを分析しており、ここからフランプトンは地域主義が改革と解放の運動と結びつく一方で、抑圧とショーヴィニズムの武器にもなったという両義的な側面を確認する。ただし、フランプトンは「批判的地域主義」の言葉を用いなくとも、同じような主張はすでにしていた。彼は一九八一年に講演した際、現代建築に認められる五つのイズムとして、プロダクティヴィズム、ラショナリズム、ポピュリズム、ストラクチュアリズム、リージョナリズムを挙げている★一六。やはり視覚中心のポピュリズムには懐疑的であり、五番目の地域主義を重視しながら、リクールやウッツォンに言及し、批判的地域主義の論点をほぼ先取りしていた。また『近代建築・批判的歴史』においてフランプトンが伝統形式の抽象的解釈と素材を評価したボッタの住宅について、後にツォニスらも同じような視点から分析している[図11]。たぶん、両者はほぼ同時期に構想を育み、相互に影響しあったのだろう。
しかしながら、フランプトンとツォニスとルフェーヴルの言う批判的地域主義は、微妙に異なっている。この点を確認しよう。彼らはこう述べている★一七。

批判的、我々がこの言葉を用いる場合は、カント的な意味での「批判的」、あるいはフランクフルト学派の煽動的な書物に近い。すなわち、それが挑む対象は現実世界のみならず、可能な世界観の正統性である。こうも言えるだろう。それは思考の習慣とクリシェの役割に対抗し、批判する。建築的に考察すれば、この批評的視座は、認識的かつ審美的な「異化」を基盤とする。
異化とは、ブレヒトのフェアフレムドゥング(疎外化)と密接に関連する概念であり、アリストテレスのクセニコス(異質)にも関連しつつ、一九二〇年代に文芸批評家のヴィクトール・シクロフスキーが造語した言葉である。彼はそれを「意識の覚醒」と、現代消費文化のもつ催眠効果の破壊を目指すものと定義した。


つまり、ツォニスとルフェーヴルの批判的地域主義は、地域主義自体について懐疑を抱き、自己反省的である。そしてぬるま湯的な観光振興の地域主義や商業的な地域主義、あるいは感傷的な地域主義や愛国的な地域主義のイデオロギーを批判し、なかばショック療法のように場所の異化効果を狙う。クリスティーヌ・ボイヤーも、安易に地域性や歴史性を掲げたポストモダンの開発を批判していたが、それは次の理由による★一八[図12]。公式な歴史イメージを押しつけるために、他の記憶を抑圧してしまうこと。商業主義により過去を消費していること。しばしばジェントリフィケーションと手を結び、他者を排除してしまうこと。したがって、ボイヤーの考えは、批判的地域主義と連動する可能性をもつだろう。わかりやすい地域主義は、ハリウッド映画のごとく地域性や歴史性を一元的に還元してしまい、そのステレオタイプのイメージは他の可能性を抹殺するがゆえに、全体主義的だ。ディズニーランドの世界観のように、固定化した地域性や歴史性は抑圧的である。これに抵抗する地域主義は、差異をはらんでおり、常に更新されるものなのだ。
具体例をみよう。ツォニスとルフェーヴルの読解によれば、クルスとオルティスによるセビリヤの
 《集合住宅》(一九七四─七六)は、地域特有の中庭形式という構成を保持しながら、直線的なはずの中庭が唐突に腎臓のかたちに変化している[図13]。こうした手続きによって建築家は使用者に伝統とコミュニティの意識を喚起させ、その危機を警告するのだ。とりわけ評価が高いのは、モネオによるメリダの《国立古代ローマ博物館》(一九八〇─八六)である[図14]。ローマの建設技術を模した煉瓦によるアーチや壁が伝統性を認知させながら、新しく付加されたグリッドのシステムとローマ時代の遺跡のグリッドがズレることで衝突が発生し、「今日の都市生活とコミュニティの連続性にまつわる思索の連鎖を引き起こす」。さらにツォニス+ルフェーヴルは、ロマン主義に屈することなく、地方神話やイコノロジーを利用したライリとレイマ・ピエティラによる《タンペレ中央図書館》(一九七六─八六)の鳥のような形態、またジャンカルロ・デ・カルロやルシアン・クロールのような使用者参加型のポピュリスト運動の最前線も事例として挙げている。だが、批判的地域主義の実践は、世界を均質化するインターナショナル・スタイルを支持した資本主義のイデオロギーに対し、本当に抵抗できるのか?

11──マリオ・ボッタ《サン・ヴィターレの住宅》(1971─73) “Architecture in Europe since 1968” (1992)

11──マリオ・ボッタ《サン・ヴィターレの住宅》(1971─73)
“Architecture in Europe since 1968” (1992)

12──《バッテリーパーク》 “Postmodern Urbanism” (Blackwell, 1996)

12──《バッテリーパーク》
“Postmodern Urbanism” (Blackwell, 1996)

13──クルスとオルティス「集合住宅の平面図」(1974─76) “Architecture in Europe since 1968” (1992)

13──クルスとオルティス「集合住宅の平面図」(1974─76)
“Architecture in Europe since 1968” (1992)

14──ラファエル・モネオ「国立古代ローマ博物館の平面図」 (1980─86) “Architecture in Europe since 1968” (1992)

14──ラファエル・モネオ「国立古代ローマ博物館の平面図」
(1980─86)
“Architecture in Europe since 1968” (1992)

後期資本主義と地域主義

主としてフランプトンに向けたものだが、フレドリック・ジェイムソンは批判的地域主義に対し、批判的な注釈を行なう★一九。ジェイムソンは、建築のポストモダニズムが「反前衛/企業支配」と「部分/要素/シニフィアン」の記号素から規定される一方、批判的地域主義が「つなぎ目・反遠近法/建築的/触覚的/地球的」(テクトニックに関わるもの)と「後衛/周縁性と地元的なもの/抵抗」の結合であるとみなす[図15]。かくして批判的地域主義はポストモダニズムと交わりながらも、対立することを導く。彼によれば、フランプトンが実例として挙げる地域は、国に抵抗する田舎というセンチメンタルな地方主義ではなく、「全体としての規格化する世界システムと緊張関係にある、文化的に一貫したひとまとまりの地帯」である。そしてフランプトンが近代化への相対的な距離をもつ「地域的」様式(民族的や国家的の言葉を使わない)の複数主義を動員し、「グローバルとなった後期資本主義や企業支配の規格化に抵抗することを目指している」という。
しかし、ジェイムソンが批判を試みるのは、この点だ。つまり、グローバルな後期資本主義のポストモダンでは、まさに経済的自律こそが問題となる。それゆえ、地域性を重視する「複数主義と差異が何らかの形で後期資本主義のより深い内部のダイナミクスにつながっている」可能性を考慮せねばならない。実際、二〇世紀前半のフォーディズムが規格品を大量生産したのとは違い、二〇世紀後半のポスト・フォーディズムはマーケティングにより土地に固有な嗜好にあうよう製品を調整し、地元の文化を尊重する。ポスト・フォーディズムでは、「企業を地元の地域文化の核心にはめこんで、その文化が本物かどうかを決めることは難しくなる」だろう。そして、これが地球規模で生じたEPCOT症候群であり、「他ならぬ『地域的』なものが、グローバルなアメリカ的ディズニーランド関連企業の商売となり、それがあなた自身の土着の建築を、あなたの代わりに、あなた以上に正確に作り直してくれるのだ。グローバルな差異は、今日にあっては、グローバルな同一性と同じなのだろうか」と疑問を投げかける。とすれば、インターナショナル・スタイルが資本主義と手を結んだように、リージョナリズムは後期資本主義の尖兵となってしまうのか? 確かに観光的な地域主義は、差異を商品化し、この罠にはまっている。一方、批判的地域主義は普遍性と個別性を同時に意識するが、抵抗という誇り高い意志を除けば、結果的に後期資本主義の戦略と近接している。そして見えにくくなった中心的な権力を温存するために、周縁の存在が逆に利用されることもありうるのだ。ゆえに商品化した地域主義に安住することなく、抵抗を続けることが必要なのである。
ジェイムソンの論に付言するならば、メディアの発展も批判的地域主義の推進と歩調を合わせているように思われる。インターナショナル・スタイルが写真を中心とした視覚メディアの時代に流布したとすれば、リージョナリズムはマルチメディアの時代に対応するはずだ。現在も進化を続けるメディアは、聴覚はもちろんのこと、マウスやキーボード、またゲームの専用コントローラなどの手触りや操作性を通して、触覚の領域にも踏み込もうとしている。これも皮肉なことに批判的地域主義の戦略に符号してしまう。

15──ジェイムソンの図式 “The Seeds of Time” (Columbia Univ. Press, 1994)

15──ジェイムソンの図式
“The Seeds of Time” (Columbia Univ. Press, 1994)


リアリズムの建築とは何か?

批判的地域主義は、ある程度の場所性が残存することを前提している。だが、これは同時にその限界を指し示している。つまり、都市という砂漠の特に荒廃した領域では、場所に強度がなく、最初から喚起すべき記憶が存在しない。ゆえに、批判的地域主義は有効に作用しないだろう。非人間的な都市を回復すべく、建築家は格闘したが、成功例は少ない。空間を秩序づけるには空々しい。設計に参加すべき住民もいない。もはや場所性を与えることが困難な衰退した都市。そこで伝統的なコンテクストの有無に関係なく、都市のありのままの姿を見つめ、不毛の地に介入するリアリズムが要請される。ルフェーヴルはこうした環境に機能するダーティ・リアリズムの建築を提唱した。都市のどうしようもない所を対象とし、いわばマイナスを二乗してプラスにするといった逆転の発想で魅力的な場所に変換する。これを都市版の批判的地域主義と呼ぶことができるかもしれない。
次にルフェーヴルが掲げたダーティ・リアリズムの概念を検討しよう★二〇。

敷地の性格は否定的である。すなわち、材料の硬質さ、材質の荒々しさ、形態の粗雑さ、工業的な特色、破裂した空間。リアリストの建築家は、敷地のまさに否定的、「ダーティ」な属性を表象した世界を創出する。実際、彼らの作品は、もっと強烈にそれをあらわにし(…中略…)否定的な性格には何かしら興味をそそるものがあることを教える。


新しい建物の「醜い現実的な」特徴の強化から、別の読み替えが可能である。再び、建築に異化の手法が認識されるのだ。しかし「奇妙なものをつくる」今度の手法は、比類のないほどに奇妙なものである。(…中略…)非常に対照的な要素を挿入して世界を異化させ、意識を覚醒させることはしない。(…中略…)対決するかわりに、リアリストは場所の性格を建物に運用する際、鏡のようにそれを強化しながら異化させる。現実をひろうというより現実を強調する凸面鏡のレンズを持ち、シクロフスキーがトルストイを批評した表現にならえば「石を、石らしくする」のだ。


ユートピア的な理想を求めるのではなく、ヘテロトピア的な現実を見据えること。以前は工場、駅、屠殺場、倉庫、軍事施設であったものの、老朽化とともに見捨てられたみすぼらしい土地。こうした他者の空間をダーティ・リアリズムが突如、魅力的なものに変える。ルフェーヴルは、ダーティ・リアリズムが一九八〇年代の半ばからあらわれたとみなし、その事例として、レム・コールハースの《ダンス・シアター》(一九八四─八七)、駐車場の黒い箱であるミルト・ヴィタールの《ONYX文化センター》(一九八七─八八)、工業製品を寄せ集めたジャン・ヌーヴェルの《ネマウサス》、ジル・ブーシェの《集合住宅》(一九九〇)のほか、フランク・ゲーリーやモルフォシスの建築などを挙げる[図16]。
ダーティ・リアリズムの先駆者がいないわけではない。ルフェーヴルによれば、一九五〇年代のブルータリズム、一九六〇年代のヴェンチューリらのポップ・リアリズム、一九七〇年代のチャールズ・ジェンクスらによる廃棄物リサイクル的な「アドホック主義」などがそうだ。さらに遡れば、ピーター・コリンズが指摘した一九世紀のリアリズム的な建築も含まれるだろう★二一。彼によれば、アメリカの建築家フランク・ファーネスは、折衷主義的なデザインにより醜さを表現したとされる[図17]。ヴィンセント・スカーリーが、ヴェンチューリをファーネスの系譜に位置づけたのは偶然ではない。また今日では、塚本由晴貝島桃代らによる「メイド・イン・トーキョー」の試みも、リアリズム的なまなざしをもつ。
そもそもルフェーヴルは文芸批評から着想を得て、建築におけるダーティ・リアリズムの概念を導いた。彼女は言う。「これらの建築家は、雑誌『グランタ』の編集者ビル・ブフォードが『ダーティ・リアリスト』と命名した反寓話主義的で批判的姿勢を示す作家の一派と似ているように思われる。(…中略…)[彼らは]ポストモダンを隠れ蓑にして現実を直視しようとしない逃避的で自己中心的な姿勢とは一線を画しており、ブフォードが二〇世紀後期の日常生活の『下腹』と呼ぶ汚れた現実を描き出そうとしている」、と★二二。つまり、TV、カフェ、スーパー、けちな犯罪の出てくるパルプ・フィクション、あるいはジャンクフードと消費生活にまみれた世界。ルフェーヴルは、映画監督ヴィム・ヴェンダースと建築家のハンス・コルホフの対談から、ベルリンは「殺人都市だ。(…中略…)でもそれが都市のあるべき姿なんだ」という発言や、「興奮ってのは実際、日常の裂け目でしか頭をもたげないもんだ、そこで何もかも突然おかしくなっちまう。(…中略…)すべてが完全におさまるとこには何も残っちゃいない」といった独特な都市観を紹介し、ダーティ・リアリズムの暗い側面を説明した。彼女は、こうした感覚がカントの『美と崇高の感情についての洞察』にも通じるとみなしたが、確かにダーティ・リアリズムは一九九〇年代の不気味なものや崇高性をめぐる建築の議論とも交差するだろう。
九〇年代のリアリズムは、一九世紀とは違い、真実性や誠実さに応えるわけではない。ルフェーヴルは、絶対的客観性という一九世紀の思想基盤が失われた現在、リアリストの建築は同時代性の要求に応えるのだという。そこではノスタルジックな風景を回復することが目的にされているのではない。回復すべき過去もないのだから。彼女によれば、「むしろこれは疑問を投げかける方法である。もしこれが常に方法であるとは限らないのなら、問題を克服するための議論なのだ」。

16──ミルト・ヴィタール《ONYX文化センター》(1987─88) “Architecture in Europe since 1968” (1992)

16──ミルト・ヴィタール《ONYX文化センター》(1987─88)
“Architecture in Europe since 1968” (1992)

17──フランク・ファーネス 《ペンシルバニア大学図書館》(1888─90) “Frank Furness” (Princeton Architectural Press, 1991)

17──フランク・ファーネス
《ペンシルバニア大学図書館》(1888─90)
“Frank Furness” (Princeton Architectural Press, 1991)

ダーティ・リアリズム──ジェイムソンによる

ジェイムソンは、グレマスによる記号論の四辺形を用いて、ダーティ・リアリズムを含む現代建築の動向を位置づけている★二三[図18]。彼は「ハイモダニズム」を「全体性」と「革新」の結合とみなし、さらに「全体性」と「複製」から「ダーティ・リアリズム」、「革新」と「部分/要素/シニフィアン」から「ディコンストラクティヴィズム」の項目を導く。「複製」と「部分/要素/シニフィアン」の記号素は、「様式としてのポストモダニズム」を分節したものである。かくして醜い世界を見つめる「ダーティ・リアリズム」と、現実世界を忌避しがちな形式主義「ディコンストラクティヴィズム」は四辺形の両端に置かれ、重なりあうことがない。
彼によれば、ダーティ・リアリズムを特徴づける「全体性」の欲望とは、コールハースの大規模なプロジェクトのように、「自らの中に世界全体を含み込もうとする」ことだという[図19]。つまり、「パリ国立図書館」案は情報の世界を、ベルギーの《海上交易センター》は輸送・運搬の世界を、ひとつの巨大な建物のなかに収容してしまうわけだ。もう一方の「複製」とは、「建物がこれほど大規模になっても、それが押し込まれる都市の織り地や文化的なパターン化と折り合わなければならないこと」を意味する。これがモダニズムと袂を分かつ反近代の特徴となるのは、一般的に近代建築が建築的なものと都市的なものとの根源的なジレンマを抱えていたのに対し、「複製」が両者の溝を埋める作業を行なうからだ。したがって「全体性」と「複製」は、建物の置かれた環境全体を鏡のように映し込むダーティ・リアリズムの傾向をジェイムソン流に整理しなおしたものと言える。
ジェイムソンは、企業の大衆文化が都市や田舎に関係なくアメリカ全土を植民地化していることを指摘しながら、ブフォードの挙げる新地域主義の作家は結局ポストモダン的な失地回復であり、後期資本主義の現実から逃避しつつそれらを補償するイデオロギーだと批判的に考察する。それゆえ、彼はむしろ建築的に論を展開させたルフェーヴルが都会的悪夢の『ブレードランナー』に言及したことを評価し、市民社会の終焉を告げるダーティ・リアリズムは集合的な空間であり、内部と外部の対立がなくなっているという。すべての植民地化による外部の消失。すなわち、「ハイテク市場の中にいる群衆が、多数の結節点と融合することであって、すべてが外部のない内部に封じ込められる。それによってかつての都市的なものが強化されて、マッピングできない後期資本主義システムそのものとなる」のだ。ジェイムソンは別の著作で、ポートマンの《ボナヴェンチャー・ホテル》や《ゲーリー邸》におけるさまよう感覚を分析していたが、こうしたブレードランナー症候群とも呼応するだろう★二四。

18──ジェイムソンの図式 “The Seeds of Time” (1994)

18──ジェイムソンの図式 “The Seeds of Time” (1994)

19──レム・コールハース「パリ国立図書館」案 “The Seeds of Time” (1994)

19──レム・コールハース「パリ国立図書館」案
“The Seeds of Time” (1994)

複数化する近代、
そしてバイオ・リージョナリズム

地域主義が単一のコード化に向かうとき、それは抑圧的なものとなるか、既成権力を温存させるものになってしまう。だから、常に変化しつづけることが、批判的地域主義に要請される。ときには自らが新しい場所性を生むことも辞さないだろう。しかし、リージョナリズムの対立項とされるインターナショナリズムもまた一枚岩的なものではないはずだ。それゆえ、ヴィットリオ・グレゴッティの編集では最終号となる『カサベラ』において、「クリティカル・インターナショナリズム」の特集が組まれたのは興味深い★二五。この命名は批判的地域主義を意識したものだろうが、建築史家のジャン=ルイ・コーエンがクリティカル・インターナショナリズムを説明している。彼は一九三二年のMoMAによる「インターナショナル・スタイル」展以外に、すでに建築は多様な国際性を展開していたという[図20]。そして現在、建築界における国際的な人間の動きはさまざまなレヴェルで激しくなり、地域主義が対抗する仮想敵としての単一の国際主義はもはや存在しないと指摘する。つまり、コーエンは裏がえって、インターナショナリズムの複数性に批判的実践の可能性を読む。となると、インターナショナリズムとリージョナリズムは単純な二項対立ではなく、多極的な枠組で思考されねばならないだろう。
最後に別の視点として、勃興しつつある一大勢力のエコロジーと絡めながら、地域主義への補助線を引いておきたい。言うまでもなく、本能が壊れた人間の拡大し続ける資本主義に対し、宗教や社会主義のイデオロギーによる規制が有効でなくなった現在、エコロジーは新しい保守的な抑制の原理をあたえている。また将来において人類の破滅を忌避しようとする想像力が大きな動機になっていることを考えれば、エコロジーは終末論の一変形とみなすこともできるはずだ。では、エコロジー的な思想がいかに地域主義と関わるのか? 例えば、一九七〇年頃から提唱されたバイオ・リージョナリズムは、建築から出てきたものではないが、既存の地域主義へのオルタナティヴとなりうる★二六。気候や地形の環境から地域をとらえたとき、国境とは異なる世界の分類がみえてくる。一本の河川やひとつの湾でつながれた地域は有機的につながっており、便宜的な行政区域によって建築の方法論も分断されるべきではないという考えだ。つまり、より大きな視野は場所への偏愛を制御し、解放的な地域主義を生む(地球第一という全体主義に展開する恐れもあるが)。ただし、生態系から導かれる建築のあり方は、非常に実践的であるのだが、現実的には国家や民族の差異が重視されている限り、徹底されるとは思えない。ユートピア的な側面をどう払拭するかが今後の課題となるのではないか。
一九六〇年代後半、すでにランドスケープ・アーキテクトのイアン・マックハーグは、エコロジカルな地域計画の指針を考えていた★二七[図21]。建築家では、土着の構法を最大限に活用するハッサン・ファトヒーや、合理的なアプローチから熱帯性気候におけるバイオクライマティック・スカイスクレーパーの理論を展開するケン・ヤングは、地域主義とエコロジーの接点を見出している[図22]。これらはエジプトやマレーシアに限定したやり方ではない。同じような構法や気候をもつ他の地域にも応用可能であり、それゆえインターナショナルな方法とも言える。ところで、エコロジーを必ずしも自然の環境に限定せず、都市の人工環境にもあてはめて考えてはどうだろうか? こうした発想の変換により、ダーティ・リアリズムも射程に入る。例えば、大都市は、同じ国の地方都市よりも、他の国の大都市と似たような環境を生む。従来は、そこに生成する建築を単にインターナショナリズムと呼んだ。しかし、ダーティ・リアリズムのように、それを都市のリージョナリズムとして設計することも可能だ。かくして、ひとつの建築がインターナショナリズムとリージョナリズムに二重化する。

20──MoMAの「インターナショナル・スタイル」展(1932) “The International Style” (Rizzoli,1992)

20──MoMAの「インターナショナル・スタイル」展(1932) “The International Style” (Rizzoli,1992)

21──イアン・マックハーグ 「都市に適した地域選択のための4段階」 “Design with Nature” (1969)

21──イアン・マックハーグ
「都市に適した地域選択のための4段階」
“Design with Nature” (1969)

22──ケン・ヤングの バイオクライマティック・スカイスクレーパー(1992) “Theories and Manifestoes” (Academy Editions,1997)

22──ケン・ヤングの
バイオクライマティック・スカイスクレーパー(1992)
“Theories and Manifestoes” (Academy Editions,1997)


★一──『藤森照信──野蛮ギャルド建築』(TOTO出版、一九九八)。
★二──A. Tzonis & L. Lefaivre, "Critical Regionalism", The Critical Landscape, 010 Publishers, 1996.
★三──『ウィトルーウィウス建築書』(森田慶一訳、東海大学出版会、一九八九)の第六書第一章を参照。
★四──A・ツォニス+L・ルフェーヴル「ふたたび批判的地域主義について」(中村敏男訳、『a+u』一九九〇年五月号)。
★五──K・フランプトン「生態学者ルイス・マンフォード」(中村敏男訳、『a+u』一九九〇年一一月号)。
★六──K・フランプトン「批判的地域主義に向けて」(『反美学』室井尚+吉岡洋訳、勁草書房、一九九一)。
★七──拙稿「チャールズ、チャールズ」(『10+1』No.16、INAX出版、一九九九)。
★八──K・フランプトン「テクトニック、という視座をめぐる省察」(南泰裕訳、『10+1』No.16、INAX出版、一九九九)。
★九──K. Frampton, "Rappel A L'Ordre", Architectural Design, vol.60 3/4, 1990. なお、八束はじめ編『建築の文脈──都市の文脈』(彰国社、一九七九)に収録されたフランプトンとヴェンチューリの妻ブラウンの論争も参照されたい。
★一〇──『建築文化』一九九三年一〇月号(彰国社)。
★一一──中村雄二郎『共通感覚論』(岩波書店、一九七九)。
★一二──J・J・ルソー『エミール』(今野一雄訳、岩波書店、一九七六)。
★一三──K・フランプトン『近代建築・批判的歴史』(中村敏男訳、『a+u』一九八五年一月号─八八年七月号まで連載)。
★一四──Tadao Ando, Phaidon, 1995 に収録された論において、フランプトンは安藤忠雄を「批判的モダニズム」や「批判的コンテクスチュアリズム」と呼ぶ。
★一五──淵上正幸「ラファエル・モネオ」(『建築文化』一九九三年八月号、彰国社)。
★一六──K・フランプトン「現代建築における五つのイズム」(小林克弘訳、『a+u』一九八一年一〇月号)。
★一七──A. Tzonis & L. Lefaivre, "Introduction: Between Utopia and Reality", Architecture in Europe Since 1968, Thames and Hudson, 1992. 『エディフィカーレ』五号(一九九三)に収録された拙訳と解説も参照されたい。
★一八──C. Boyer, The City Of Collective Memory, The MIT Press, 1996.
★一九──F・ジェイムソン『時間の種子』(松浦俊輔他訳、青土社、一九九八)。N. Leach, Rethinking Architecture, Routledge, 1997 も参照。
★二〇──★一七と同じ。
★二一──P. Collins, Changing Ideals in Modern Archi-tecture, Faber and Faber, 1965.
★二二──L・ルフェーヴル「ヨーロッパ現代建築のダーティ・リアリズム」(岡田哲史訳、『10+1』No.1、INAX出版、一九九四)。
★二三──★一九と同じ。
★二四──F. Jameson, Postmodernism, or, the Cultural Logic of Late Capitalism, Duke Univ. Press, 1991.
★二五──Casabella, vol.630/631, 1996.
★二六──芹沢高志『月面からの眺め』(毎日新聞社、一九九九)。J. Dodge, "Living By Life", Coevolution, No.32, 1981.
★二七──I. McHarg, Design with Nature, Natural History Press, 1969.

※本稿は一九九九年六月一九─二一日に行なわれた二一世紀建築会議において、筆者が02ユニット「エコロジー、反前衛、地域主義」のゲストを担当したことを契機に書いた。同ユニットで議論を交わした参加者と、バイオ・リージョナリズムの文献を提供していただいた芹沢高志氏に、この場を借りて感謝の意を表わしたい。

*この原稿は加筆訂正を施し、『終わりの建築/始まりの建築──ポスト・ラディカリズムの建築と言説』として単行本化されています。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.18

特集=住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>原広司(ハラ・ヒロシ)

1936年 -
建築家。原広司+アトリエファイ建築研究所主宰。

>伊東豊雄(イトウ・トヨオ)

1941年 -
建築家。伊東豊雄建築設計事務所代表。

>石山修武(イシヤマ・オサム)

1944年 -
建築家。早稲田大学理工学術院教授。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>鈴木博之(スズキ・ヒロユキ)

1945年 -
建築史。東京大学大学院名誉教授、青山学院大学教授。

>グローバリゼーション

社会的、文化的、商業的、経済的活動の世界化または世界規模化。経済的観点から、地球...

>ルネサンス

14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようと...

>インターナショナル・スタイル

International Style=国際様式。1920年代、国際的に展開され...

>ケネス・フランプトン

1930年 -
建築史。コロンビア大学終身教授。

>フランク・ロイド・ライト

1867年 - 1959年
建築家。

>脱構築

Deconstruction(ディコンストラクション/デコンストラクション)。フ...

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>安藤忠雄(アンドウ・タダオ)

1941年 -
建築家。安藤忠雄建築研究所主宰。

>フレドリック・ジェイムソン

1934年 -
文芸評論家。デューク大学で教える。

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>ジャン・ヌーヴェル

1945年 -
建築家。ジャン・ヌーヴェル・アトリエ主宰。

>塚本由晴(ツカモト・ヨシハル)

1965年 -
建築家。アトリエ・ワン共同主宰、東京工業大学大学院准教授、UCLA客員准教授。

>貝島桃代(カイジマ・モモヨ)

1969年 -
建築家。筑波大学芸術学専任講師。塚本由晴とアトリエ・ワンを共同主宰。

>南泰裕(ミナミ・ヤスヒロ)

1967年 -
建築家。アトリエ・アンプレックス主宰、国士舘大学理工学部准教授。

>八束はじめ(ヤツカ・ハジメ)

1948年 -
建築家。芝浦工業大学建築工学科教授、UPM主宰。

>岡田哲史(オカダ・サトシ)

1962年 -
建築家。岡田哲史建築設計事務所主宰、千葉大学大学院工学研究科准教授。