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アンビルトの実験住宅の系譜──その必然性について | 今村創平
Genealogy of the Unbuilt-Experimental Houses: On Its Inevitability | Imamura Sohei
掲載『10+1』 No.41 (実験住宅) pp.98-104

ここでは、アンビルトの実験住宅について見ていくのだが、そもそも実体を持つ建築というジャンルにおいては、アンビルトというあり方そのものが、きわめて矛盾をはらんだものであり、それだけで実験的であると言えてしまう。そこで、まずは住宅に限らず、建築全般におけるアンビルトについて考えてみる。
計画が頓挫してしまい実現しないということは、建築においてはどの時代にもあってあたり前であるが、アンビルトとして認められるためには、その証拠が必要となる。つまりいくら頭のなかで構想していたとしていても、それだけでアンビルトのプロジェクトとは言いがたい。そして、その証拠とは大抵図面などのドローイングや模型などヴィジュアライズされたものを指す。ただし、今後はたとえばデジタル・データのみを持って、アンビルトのプロジェクトとすることも可能かもしれない。
では、建築に図面が生まれたのはいつの時期であろうか。太古の昔にあっては、どの地域にあっても図面なしに、その場で建物を組み立てることが一般的であったことは想像に難くない。実際、今でも世界の多くの地域においては、そのように住居などが作られているだろう。大昔にも、特に文明が発達した地域にあっては、今日の図面とは異なった形だとしても、何らかの計画を示したり、意思の疎通を図るための道具というものがあったかもしれないが、そうしたものは今日まではほとんど伝わっていない。そもそも、今日われわれが普通に扱っている図面というものは、ある特殊な形式であって、例えばよく知られているように、日本には木割書というマニュアルはあっても、図面という慣習はなかった。それでも、世界にも類を見ない、高度な建築文化を発展させてきている。建築を作るのに図面が必要か否かは、考えるに値する。
私の知識が足りない可能性を恐れずに仮定してしまえば、図面の誕生は建築家の誕生と時期を同じくしている。西洋であればルネッサンスの時期に建築家が誕生し、その構想を描き記し、クライアントである王侯貴族に案を説明するにあたって、図面というものが必要となった。そして、と同時にドローイングに描かれた建築は、実際に建てられた建築とは別の意味を持つようになり、その時点でアンビルトの建築も生まれる契機となったのである。極論を言えば、構想する存在である建築家は、宿命的にアンビルトの建築を生み出さざるをえないのである。
「アンビルト」という自らの建たなかったプロジェクトを集めた展覧会を行なった磯崎新は、建築におけるアンビルトということの意味についてきわめて意識的だ。少し長くなってしまうが、その展覧会の意図について語っているものがあるので引用してみよう。

今回の「アンビルト」展というのは、要するに建っていないプロジェクトということですが、もともと建つ可能性がなくて計画していることもあります。僕がこれを思いついた理由は、どうも建築の歴史を見ていると、だいたい建っていないものをもとにして建築史のイラストレーションなんかができている。例えばミースのガラスのタワー(フリード街のオフィスビル)とか、丹下健三さんの「大東亜建設記念造営物」(一九四二年)とか、彼らはその後たくさんの建物を作っていますが、要するにその辺のもので代表されたコンセプトがその人のその後のすべてを語っているから、それ以上は必要ない。建ったものはもはや建築の考古学でまとめてしまうというようなことになってしまう。そうすると、われわれが考えている建築の歴史というものは、どうも「アンビルト」で考えているのであって、リアルに建った建物なんかだれもあまり気にしていないんじゃないか(笑)、というのが思いついた始まりです★ 一。


ここには磯崎流の批評性が認められるが、未完に終わる「アンビルト」は、実現を意図せずにアンビルトであるということが積極的な態度となるということが認められる。

さて、先の私の仮説に従って、ルネッサンス以降の建築家とアンビルト・プロジェクトについて、思いつくままに挙げてみる。
万能のルネッサンス人といえば、すぐさまレオナルド・ダ・ヴィンチ(一四五二─一五一九)が思い浮かぶだろうか。ダヴィンチは、絵画の傑作や自然科学の探求がよく知られているが、実現したものはないものの建築のドローイングやメモもいくつか残している。時期としては一四八八年頃、集中形式の教会や寺院ばかりのスタディをしているのだが、これらは明らかに建築というジャンルにおいて彼のヴィジョンをはっきりと投影したものとなっている。実現のためのドローイングと見てもおかしくはないが、建築という実験の場で、あるシステムの貫徹を試みている。一見、同時期のルネッサンス建築との様式的なシンクロが認められるが、最近のコンピュータによる形態生成のトレンドからも再読の対象となっていることは興味深い。
続くマニエリズムの建築家、アンドレア・パラディオ(一五〇八─一五八〇)においては、『建築四書』といった著作において、ドローイングは実作の解説であると同時に、彼の建築理論を説明するものであった。
そして一八世紀の新古典主義の時代において、古典とは新たに発見されたものであった。ギリシャの古建築を描いたドローイングがイギリスにもたらされ、現地に赴いたことのない教養人、建築家の想像力を刺激し、まだ見ぬそのような理想的な建築を再現しようという試みが新古典主義であった。つまり、新古典主義とは、リアルな建物の体験からもたらされたのではなく、イメージの再生ということがドローイングを介してなされたのであった。
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(一七二〇─一七七八)は一〇〇〇枚を超える大量のドローイングを残すことで、同時代のそして後続の建築家たちに大きな影響を与えた。そのひとつは、ローマを描いた多くのドローイングであり、それらは人々のローマに対する憧れを増幅し、新古典主義に影響を与えた。もうひとつは、「牢獄」と名づけられた版画のシリーズであり、実在しない迷宮のような空間は人々の想像力に強く働きかけ、建築ドローイングの新たな可能性を示すこととなる。
一八世紀末には、フランス革命期の幻視の建築家と呼ばれる三人が登場する。エティエンヌ=ルイ・ブレ(一七二八 ─一七九九)、クロード=ニコラ・ルドゥー(一七三六─一八〇六)、ジャン=ジャック・ルクー(一七五七─一八二五?)は、それぞれ《ニュートン記念堂》《王立図書館》《見晴らし台のある落ち合い場》など、明らかに実現を前提としていない、ただしそれぞれの壮大であったり不可思議であったりする構想を、表現力あるドローイングで提示した。彼らこそが、今われわれが狭義の意味での「アンビルト・アーキテクチャー」と呼ぶときの先駆けであったのかもしれない。
イギリスでは、サー・ジョン・ソーン(一七五三─一八三七)が、多くの彼の実現作、計画案をドローイングとして残しているのだが、なかでも重要なのは、自らの代表作《イングランド銀行》が廃墟となった様を描いたドローイングである。これは、後年磯崎新がやはり自らの作品《つくばセンタービル》を廃墟として描いたときにも参照としているのだが、ここでもドローイングは単に実作を再現するメディアではなく、その背後に潜む建築家の意図といったものを描き出すツールとして扱われているのである。
もう一人、興味深い例を見ておくと、J・N・L・デュラン(一七六〇─一八三四)は著書のなかで、あらゆるビルディング・タイプを分類しそれらをモデュール単位で扱えるものとし、また古典建築の形態をパーツ化することによって、それらを随所に組み合わせることで、建築を作ることが可能だとした。これは、全体のイメージを見せることなく、建築をカタログ的に扱っているという点でも画期的であるのだが、一方で建築の作られ方のコンセプトを示しているということでも斬新なものとして覚えておくべきである。
近代に近づくにつれて、建築ドローイングの数は圧倒的に増えてくる。それは建築家の意図とは関係なく、印刷技術の発展、それからもたらされるメディアの発達、そして流通するイメージとしての建築(土地から切り離せない実在の建築ではなく)の持つ役割に、多くの人が気付き始めたことを意味する。
モダニズム以降であれば、未来派のドローイング、ル・コルビュジエの《シトロアン住宅》、ミース・ファン・デル・ローエの《煉瓦造の田園住宅》など、アンビルトのプロジェクトは無数に挙げることが可能となる。というか、アンビルトのない建築家を探すほうが難しいのではないだろうか。よってここでは、なぜそうなったかのみを確認しておく。未来派にしても、コルビュジエ、バウハウスにしても、マニュフェストによって、来るべき時代のヴィジョンを示したのだが、クライアントあっての建築という宿命からは、まだ見ぬ建築を注文する主はない。しかし、建築というジャンルである限り、言葉だけでは誰も信用しないのであって、よって自らがクライアントと化して、さまざまなイメージが生産されたのである。こうした時代のヴィジョンを提出するということは、建築のみならず、政治、芸術などあらゆるジャンルで行なわれ、しかしそれが建築というジャンルでは、アンビルトという形を取らざるをえなかった。よって、モダニズムとアンビルト建築とは切っても切り離せない関係にあったと言える。
また、近代以降にアンビルトが増えるのは、近代が実験の時代であったからであり、わかりやすくは科学の実験である。そして産業革命を促したことをはじめとして今日に至るまで、実験が研究室のみならず、社会構造、芸術などあらゆる分野で試みられた。そうした実験精神のひとつの極として、バックミンスター・フラーの《ダイマキシオン・ハウス》を挙げようか。きわめて合理的、科学的視点から、さまざまな新しい試みが行なわれるようになるのも、モダニズムのひとつの局面である。
そして、二〇世紀前半に起きたシュールレアリズムやダダといった芸術や文学における冒険も、建築にアンビルト・プロジェクトを産み出す力を与えた。そのよい例が、シュールレアリストをはじめとする、アヴァンギャルド芸術家と交流のあった、フレデリック・キースラーによる《エンドレス・ハウス》であろう。この未完の住宅プロジェクトは、フロイトの精神分析からの遺産も受けつつ、まさに構想そのものがエンドレスのものとなり、ついに完成の契機に至らなかった。この系列としては、コープ・ヒンメルブラウの《オープン・ハウス・プロジェクト》は、目をつぶってかかれたスケッチをもとに、それを無意識が生み出した形態とし、そこから実際の住宅の形態を導き出した。これは純粋にプロジェクトであったのだが、実現したいというクライアントが現われ、建設の直前まで計画は進められたという。
さて、このアンビルトをめぐる文章もようやく住宅へと話題が到達しつつある。そうなった理由として、まずはアンビルトの系譜を見ようという意図があったことと、それからこれも大雑把な議論となってしまうが、住宅が建築家の重要なモチーフとなるのが近代以降であるからである。それまでも建築家が住宅を手がけてこなかったわけではないが、二〇世紀以降、《サヴォア邸》(ル・コルビュジエ)、《チューゲンハット邸》(ミース・ファン・デル・ローエ)、《マイレア邸》(アルヴァ・アアルト)など建築家の代表作として、認められるようになる。そして、これ以降は二〇世紀後半の、アンビルト住宅プロジェクトの代表的なものを拾い上げてみたい。
アンビルトといえば、真っ先に思い浮かべるのはイギリスの建築家グループ「アーキグラム」であろうが、それは彼らは建てることを目的としないグラフィカルなドローイングをたくさん残したことのみならず、メディアとしてのプロジェクトということにきわめて意識的であったからだ。彼らは、新しいテクノロジーによって、われわれの都市環境がいかに変化するかを予告したのだが、よって住環境に関する提案は無数にされているものの、その多くは集合的な住居ユニットに関するものである。(ウォーレン・チョーク《カプセル・ホームズ》、マイケル・ウェブ+ウォーレン・チョーク《ドライヴ・イン・ハウジング》など)単体の住居としては、デヴィッド・グリーンの《リヴィング・ポッド》が挙げられるであろう。宇宙服が拡大したようにも見えるこの住宅は、伝統的な住宅の意匠からはまったく断絶し、身体を包む環境装置としてのカプセル住居が提示されている。この住宅は、小さく折りたたんで持ち運び可能で、設置先で空気を入れるか、フレームを入れることで、人が入れる形状となるのだろう。外の環境と区別する膜のようなシェルターであり、そこに生命維持に必要な機械や、通信のための設備が取り付けられる。こうしたアーキグラムのプロジェクトは、きわめて先端的な技術を想定していることから、極端な未来志向だとよく指摘されるが、一方では自然に対する最小限の関与という姿勢も示しており、ある意味では今日的話題のエコロジーも先取りしていたといえる。ただし、繰り返しになるが、アーキグラムは未来の人々の居住にはたいへんな関心を示したものの、単体の住宅のプロジェクトはごく限られている。それは、アヴァンギャルドとしての彼らには、社会変革こそが実験の本質であったからであろう。
アーキグラムのメンバーの一人、ピーター・クックは、アンビルトという概念の主導者でもあった。イギリスの建築界におけるアンビルトの傾向をまとめた画期的な特集号「建てられざる建築─アンビルト・イングランド」に寄せたエッセイの冒頭で、彼はこう書いている。

かくのごとくおだやかで、含蓄があり、苦味のある国にとって、「建てられた」というよりも「建てられざる」英国という概念はいかばかり相応しいことだろう。この国では、ヨーロッパの高度な概念のかずかずあるいは哲学の多くはランビキにかけられ、文化はその輪郭を明らかに示すことをせず、たちあらわれることになる。英国海峡はヨーロッパからの襲撃を柔らげる物理的障害の役を果たす。起源は注意深く消し去られる。軌道は慎重に曲げられる。目的は意識的に投げ捨てられ、英国好みに席をゆずる★二。


ピーター・クックも長らく教鞭を執ったAAスクールは、二〇世紀後半の実験的な建築探求の中心として、その名を世界に広く知られている。スミッソン夫妻やアーキグラムが集ったこの学校は、そうした実験精神にあこがれた若者を世界中から集め、現在に至るまで半世紀以上にわたって継続的に革新的な建築の模索が続けられている。例えば、東京藝術大学を卒業した後AAに留学し、ディプロマで最優秀をとり、その後一五年近くに渡ってAAで教えている江頭慎は、先に挙げた「アンビルト・イングランド」の特集に刺激を受けて、留学を決めたのだという。しかし、この前衛的な学校も、そもそもは建築家の職能を守るための組織として約一六〇年前にできた、アングロサクソン圏ではもっとも古い建築学校としてスタートしたものである。建築家の資格を保証するものとして始まったと考えると、通常は非常に保守的で官僚的な校風が想像されるが、それがまったく逆に傍若無人な存在となっているのは、とても面白いことだ。
イギリスにAAスクールがあるとすれば、アメリカにおける前衛スクールとしては、クーパー・ユニオンが挙げられるであろう。その校長を長らく務めたジョン・ヘイダックは、すぐれた教育者としても知られる一方、アンビルトのプロジェクトを数多く残した。多くのアンビルト作家がいるなかでも、ヘイダックが特筆されるのは、彼のキャリアのなかで住宅が大きな位置を占めるからだ。彼はあるインタビューのなかで「あなたはいつも住宅をテーマとしていますが、これは住宅が建築のプロトタイプだからですか」との質問に対して、「その通りです」と簡潔に応えている★三。建築において、住宅が基本であるといった意見はけっして珍しいものではないが、アンビルトの作家で住宅の重要性を言明している例は、ほかに目にした記憶がない。ただし、これはヘイダックのプロジェクト全般に言えることだが、後期のものはとても物語性に富んだ想像力に訴えかけるのだが、前期のものは幾何学的な形態の操作に関心があるといえる。《ダイヤモンド・ハウス》や《テキサス・ハウス》といったプロジェクトは、住宅プロジェクトとされおり、プランにはリビング、ベッドルーム、キッチンといった部屋が認められるものの、それらは互いに交換可能な抽象的な空間だ。であるから彼らにとっては、住宅というものが建築を象徴するものとして採用されてはいるものの、生活の場といったような視点は盛り込まれていないのではないか。あくまでも彼にとってのアンビルト・プロジェクトは、空間操作の実験の場としてであったと結論づけていいだろう。
こうした傾向は、同じくクーパー・ユニオンで教鞭を執っていたピーター・アイゼンマンの住宅プロジェクトにおいてより顕著である。アイゼンマンは、ケンブリッジ大学における建築評論家コーリン・ロウの高弟である。ロウは「理想的ヴィラの数学」といった初期の論考において、対象とする建築の一切の文脈から離れ、その形態そのものの幾何学性を分析対象として冷静に取り扱うという手法を示した。ロウ自身は後年、コラージュ・シティなど、より複雑な状況へと関心を移していくが、こうした形態操作の分析を徹底し、さらにそれを自身の設計へと応用したのがアイゼンマンである。特に彼の《HOUSE I》から《HOUSE X》と名づけられた一連の住宅プロジェクトは、その代表的なものといえよう。これらのうち初期のいくつかは実現するものの、後半になるとほとんど実現されなくなる。それは、より純粋な追求ゆえに実現が困難になったとの見方もあるであろうが、そもそも実現することにどれほどの関心がアイゼンマンにあったのだろうか。この時期の彼のテキストを参考までに引いてみよう。

この住宅は「概念構造」と「物理的実在」との関連性を発展させるためのものであり、この意図を伝えるにあたって、変換構造を想定する。このような建築が存在する必要条件として、実際に物理的条件を想定し、この環境が深層構造を記述できるか、あるいはまた、逆に、抽象的構造を想定し、この構造が特殊な物理的環境に転換できるようにするか──である。
それを実現する手段として、転換構造を考える。この転換構造は、第一義的に物理的実在の知覚から、その実在の深層構造の概念への転移を内包する。このような転移は、物理的事物への関心から形式的構造、あるいは事物間の関係性への関心の移行として考えられる★四。


ここでは、このアイゼンマンの理論を解説するつもりはない。ただ、物理的なものから概念へと転移しているとの記述には注目しておきたい。つまりアイゼンマンにとっては、実体ではなく概念に関心があるのだが、それを投影したものをまた実体として立てようとしたところに、過激さと破綻とが認められる。ちなみに、ここでも一連のプロジェクトは住宅と名づけられてはいるが、例えば実現した《HOUSE I》は実際にはギャラリーであり、ハウスという名称はヘイダック同様、建築を代表するものとして扱われていると考えていいだろう。
さて、アンビルトの実験住宅を系譜的に俯瞰しようという意気込みで書きはじめたこのテキストであるが、結果住宅の話題は少な目となってしまったかもしれない。それには、アンビルトという話題に話が逸れ過ぎたという側面があることも否定しないが、アンビルトの実験住宅というものはそれこそ無数にあるものの、系譜的に文脈やそれを取り巻く概念を押さえようと思うと、どうも住宅だけを切り取ってという風にはうまくいかないことを書き進めながら確認できたという事情もある。実験住宅そのものの記述は足りなかったかもしれないが、それらがアンビルトとして現れた背景は、ある程度描写できたのではないかと思う。
また、日本におけるアンビルト実験住宅については、書くスペースがなくなってしまったが、八〇年代には、ラディカルなペーパー・アーキテクトだと思われていたダニエル・リベスキンドやザハ・ハディッドが、今では実作を大量に実現するようになっているように、欧米においては実績のないデビュー前の建築家が自らの存在をアピールする手段として、アンビルト・プロジェクトを作成するというという状況がある。それは、仕事のない日本の若手建築家が小住宅からはじめる状況と比較できるのだが、欧米の建築家のほとんどは小住宅からキャリアをはじめようとは思わないし、日本の若手建築家がペーパー・アーキテクトから始まってその後ビッグ・プロジェクトを手がけるようになったという例は聞かない。そのような欧米と日本の風土の違いは指摘しておいていいだろう。

1──ジョバンニ・バッティスタ・ピラネージ「牢獄」 引用出典=マルグリット・ユルスナール『ピラネージの黒い脳髄』

1──ジョバンニ・バッティスタ・ピラネージ「牢獄」
引用出典=マルグリット・ユルスナール『ピラネージの黒い脳髄』

2──ミース・ファン・デル・ローエ《煉瓦造の田園住宅》 引用出典=D・スペース『ミース・ファン・デル・ローエ』(鹿島出版会、1988)

2──ミース・ファン・デル・ローエ《煉瓦造の田園住宅》
引用出典=D・スペース『ミース・ファン・デル・ローエ』(鹿島出版会、1988)

3──デヴィッド・グリーン(アーキグラム)《リビング・ポッド》 引用出典=『アーキラボ─建築・都市・アートの新たな実験1950─2005』(森美術館、2004)

3──デヴィッド・グリーン(アーキグラム)《リビング・ポッド》
引用出典=『アーキラボ─建築・都市・アートの新たな実験1950─2005』(森美術館、2004)

4──ジョン・ヘイダック《ダイアモンドハウスA》 引用出典=J. Heiduk, Mask of Medusa,Rizzoli, 1985

4──ジョン・ヘイダック《ダイアモンドハウスA》
引用出典=J. Heiduk, Mask of Medusa,Rizzoli, 1985

5──ピーター・アイゼンマン《HOUSE Ⅹ》 引用出典=http://cat2.mit.edu/arc/gallery /4203_final2/gal_kekwon/index.html

5──ピーター・アイゼンマン《HOUSE Ⅹ》
引用出典=http://cat2.mit.edu/arc/gallery /4203_final2/gal_kekwon/index.html


★一──磯崎新『反建築史』(TOTO出版、二〇〇一)一〇二頁。
★二──ピーター・クック「アンビルト・イングランド│その構造的背景」(『a+u』エー・アンド・ユー、一九七七年一〇月号)。
★三──「『ジョン・ヘイダック』とその作品について」(『a+u』エー・アンド・ユー、一九七五年五月号)。
★四──ピーター・アイゼンマン「カードボードの建築/住宅についてのノート」(一九七二、磯崎新『建築の解体』美術出版社、一九七五)。

>今村創平(イマムラ・ソウヘイ)

1966年生
atelier imamu主宰、ブリティッシュ・コロンビア大学大学院非常勤講師、芝浦工業大学非常勤講師、工学院大学非常勤講師、桑沢デザイン研究所非常勤講師。建築家。

>『10+1』 No.41

特集=実験住宅

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>ミース・ファン・デル・ローエ

1886年 - 1969年
建築家。

>バウハウス

1919年、ドイツのワイマール市に開校された、芸術学校。初代校長は建築家のW・グ...

>バックミンスター・フラー

1895年 - 1983年
思想家、発明家。

>サヴォア邸

パリ 住宅 1931年

>アーキグラム

イギリスの建築家集団。

>マイケル・ウェブ

1937年 -
建築家。アーキグラム所属。

>デヴィッド・グリーン

1937年 -
建築家。アーキグラム所属。

>ピーター・クック(ピータ・クック)

1936年 -
建築家。アーキグラム所属。

>ジョン・ヘイダック

1929年 - 2000年
建築家。クーパー・ユニオン教授、ニュ−ヨーク・ファイブの一人。

>コーリン・ロウ

1920年 - 1999年
建築批評。コーネル大学教授。

>コラージュ・シティ

1992年4月1日