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衛生を建築する──近代的衛生者としてのル・コルビュジエ | 森山学
Raising Hygiene into Architecture: Le Corbusier's Body as a Modern Hygiene | Moriyama Manabu
掲載『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) pp.181-190

F・ド・ピエールフウは「五分間に一人の割合で、フランス人は結核のために死亡している」と一九四二年に出版された『人間の家』で報告している。共同執筆者であるル・コルビュジエは、この本の挿絵として、小学生──彼らはおそらく「貧民窟」と名付けられ『輝く都市』に掲載された、絶望的で空虚な視線をカメラに向けている写真の中の子どものようであったに違いない★一──へのアンケートに基づいて、三三平方メートルの住居に一○人の家族が住まう〈人間の霊廟〉を描いている[図1]。三つのベッドを家族全員で共有しているこの図は、一八世紀にL・S・メルシエが描いた腐った空気に満ちた当時のパリそのままの情景である。その情景の一つには、死人や瀕死の患者四、五人とともに一つのベッドに寝かされるパリ市立病院の恐怖の描写がある★二。
ル・コルビュジエがすでに白の時代を経て、アルジェのマリヌ街の超高層業務棟(一九三八─四二)を計画していたその頃は、パリ市内のすぐ隣に二○○年前のコレラ、いやペストの旧体制の遺物が息づいていたのだ。ル・コルビュジエが近代建築(=都市計画)運動の活動の出発点で、まず告訴したのはこの「結核菌だらけの古くさいかくれ場所」★三だった。彼の一連のパリ都市計画は彼の先駆者たち同様、こういったスラム・クリアランスの態度を下敷きにしている。特に一九三七年のパリ万国博覧会のための不良街区No.6計画は、不浄なる過密地域への直接攻撃であった。『全作品集』の不良街区No.6計画のページには、「結核は住居の質に相対することを示す」の地図が載せられ、この計画の統計学的な正当性を説明している。
彼は、実際には都市の外科手術を行なう機会を持たなかったものの、彼の建築行為全般において、そのリリスムをささえる「避け難い運命」として、またリリスムそのものとして、衛生問題に強く巻き込まれていた。その彼が生涯にわたって衛生対策に用いた武器は、太陽と空間と緑、そして機械であった。

1──『人間の家』の図版 リヨンの小学校で行なったアンケートに基づく住居平面図、1942

1──『人間の家』の図版
リヨンの小学校で行なったアンケートに基づく住居平面図、1942

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住宅=〈衛生─機械〉

ル・コルビュジエは住宅の達成すべき目標を社会階層に応じて設定している。一つは貧民のための緊急の住居、一つは選良者たちのための「清らかでしっかりした空間で、考える場所」★四。各々の住居が要求する衛生条件も互いに異なっている。
まず白の時代に多く建設の機会を得た後者のための住宅を扱おう。一九二九年一○月一一日のブエノス・アイレスでの講演で、ル・コルビュジエは自ら描いた図を用いて彼の平面構成手法について語っている。この図は互いに全く独立した三つの円で主人、夫人、娘のアパルトマンの平面を表わし、それらを柱のグリッドの上に重ねたものである。三つの円に挟まれた空間は廊下として「三つの住居区分の境界を形成」する。各アパルトマンは内に「玄関、『更衣室』(…)、遊び場や婦人用小居間あるいは執務室」と「浴室」と「ベッド」(寝室)の三要素を含む。「各人はそこで、まるで小さなヴィラ住居に住んでいるかのように生活できるわけです」とル・コルビュジエは続ける★五。これはJ・F・ブロンデルが一七七一年に、間取りの点でその優越性を強調した「フランス建築」★六の延長線上に位置している。「フランス建築」の間取りは、機能の分離と個人空間の誕生という近代化しつつある生活の現出に対応したものである。
[図2]の「メイエ夫人邸」(一九二五)の寝室階平面図はその図同様、三つのアパルトマンを有している。一つは左手の寝室、ブードワール、浴室、便所によって構成される夫人のアパルトマン、一つは右手の寝室と浴室で構成されるもの、最後に洗面台をもつ寝室のみの中央のもの。後者二つは便所を共有している。こういった配置は彼の白の個人住宅のほとんどに共通するものであるが、この便所や浴室の思い通りの配置に、ル・コルビュジエは構造条件から解放された〈自由な平面〉とは異なる、もう一つの〈自由な平面〉を発見する。と言うのも、ほんの少し前の一般の住居では、水道の引込口が唯一設けられた台所に、浴槽を置かざるを得ないという平面上の制約が課せられていたからである。
ところでS・ギーディオンは、イギリスが一家に一室の大きな浴室を有し、浴槽や洗面台やビデといった衛生器具をゆったりと自律して配していたことを記し、このイギリス式浴室が一九二○年頃、ヨーロッパではよりコンパクトなアメリカ式のものに取って代わられたと述べている。このアメリカ式モデルは一家に一室ではなく個人に一室要求されるものであり、個人の寝室と浴室が接していることによって、往復で体を冷やさずにすむ特徴をもつ★七。ル・コルビュジエの私的空間もしくは衛生空間の構成は、前述の「フランス建築」とともに、このアメリカ式(室内のゆとりという点ではイギリス式)との類縁関係も持っていると思われる。
メイエ夫人のアパルトマンのパース[図3]には、衛生空間に関するもう一つの特徴が見て取れる。画面の右手で天井まで届く曲面体は階段室の壁であり、その手前のカーブを描く低い壁は、浴槽の形態に沿って立ち上がる浴室と寝室の間仕切りに相当する。彼の構成する多くのアパルトマンはメイエ夫人のものと同様、寝室と浴室の境界を完全に分節することはない。浴室は不浄なるものがそこに取り残される空間でもあるにも関わらず、また蒸気が寝室内に満ちることも簡単に想像できるにも関わらず、それを寝室から締め切ることはしないのだ。それは近代建築の流動的空間の性質を示しているとも言えるし、サヴォワ邸(一九三一)の浴室に見られるような官能的な演出とも解釈できる。あるいは全裸で太陽の下を活動する近代的衛生の一つの指標〈高貴なる野蛮人〉のおおらかさなのかもしれない(ル・コルビュジエ曰く「衛生設備は陽の当る側になったが、われわれの心の中にある『情』は表現されているだろうか」★八)。しかしここで付け加えておかなければいけないのは、この衛生のための部屋に置かれた器具は、ル・コルビュジエの理想上の博物館に展示される種類の一つであるということである(ビデは「もうひとつのイコン」★九である)。それらは現代生活の中で、現代人の生活を保証する〈衛生─機械〉として〈見られる〉存在でなければならない。
この点については、浴室や階段などのサービス空間が平面上に描く曲線と、ピュリスムのオブジェ・ティプが描く曲線との一般的に行なわれる比較が補足してくれる★一○。ピュリスムの描く対象が実用品であり、人間の四肢の延長として淘汰されたものであるということは、ここでの対比において重要な意味がある。ル・コルビュジエは『今日の装飾芸術』で彼の理想的博物館の展示品として、コップやシャンペン罎とともに、浴槽、ビデ、洗面台、そして蛇口を備えた化粧室を連ねる。つまり絵画に描かれる実用品と同様、建築における浴槽やビデのカーブ、それが導く壁体のカーブはすでに淘汰され、現代人と調和したものとして立ち上がるのだ。さらに「『機械』という近代現象は人間精神の改造を断行する」★一一と言うル・コルビュジエの言葉に従って、アパルトマン内部の曲面体はその主人と相互作用的効果をもたらしあうものとも解釈できる。
寝室と浴室の間の間仕切りの不在は、一九二九年のサロン・ドートンヌ展に展示された寝室であまりにも明解なものとなる。そこには、シャワー・ボックス、洗面台、戸棚、ビデ、ベッド、浴槽、これらが互いに同等に並べられる。これは室内の素材感とともに機械の感じを受ける。現代人のための〈衛生─機械〉を収める機械。

配管類もまた自分の存在を主張する。白の時代の作品には、象徴的な煙突(F・L・ライト同様に暖炉の、またセントラル・ヒーティングという室内環境を支配する機械であるボイラーの)とともに、温水暖房のパイプや雨水配水管が床から天井を貫き、ル・コルビュジエの直角の美学によって表現され、また直角の美学を表現する。国際連盟宮コンペ案(一九二七)の二重ガラス壁間のこれら建物の血管は、厚いポッシェの壁体の中から現代人の視覚の下に引き出され、そのシルエットをガラスに映し込む。
都市計画においてもこの態度は同様であり、彼のテクストではユーゴーの「怪物のはらわた」が地中からえぐり出され、ピロティの下、大地の上に開放される。ユニテのピロティに設けられた〈人工土地〉と呼ばれる機械・配管スペースは、ユニテの内臓(=血管)にすぎないものの、ピロティ下の内臓という図式を実現しえたと言えるだろう。ル・コルビュジエの地下空間の弾圧は住宅においては地下室の問題に該当する。ポオが塗り込め切れなかったこの恐怖の夢想空間は、啓蒙期の建築家C・N・ルドゥーによってもまた取り組まれた課題だった。彼は、彼の『建築書』(一八○四)の中の理想都市に建つ独立住宅の設計において、師J・F・ブロンデルのこの点に関する教示に対して応えた。伝統的に地下に配されていた厨房類を地上に持ち上げるというこの解答は、晩年、ある実施作の計画案において実際に現実化が試みられた★一二。
ル・コルビュジエのエテロトピー的思考空間は、配管に対するもう一つの解答を用意する。彼は「内臓を内にしまい、よく分類、配置して、澄み切った明快な姿だけが外にあるよう」★一三に設計する。ここでは、白くて清潔な壁が、何かを物語ろうとするものを呑み込んでしまうのだ。「ペサックの集合住宅」(一九二五)で苦心して収めようとしている二階便所の汚水タンクは、後者のケースに当たる[図4]。それは下階の台所の天井にぶざまにぶらさがっている。ここで練られている案は壁にタンクをそわせ、タンクの円周にあわせた曲率で板を曲げてタンクを包み込もうというものだ。ここで生まれる板の曲面は、浴槽のカーブにそって壁が描く曲線とは全く正反対の性質をもっている。また他のスケッチに、タンクを囲む板がそのまま床まで落ちてきてタンクの下に食器棚を作るというものがあるが、どちらにしろ適切な解決とは思えない。
汚水タンクのこのような不格好な処理は、衛生空間の自由な配置をも保証する〈自由な平面〉が、破綻をきたしはじめているのを感じさせずにはおれない。それは設備設計を条件とせざるをえない〈不自由な平面〉の発見である。「バルセロナの分譲住宅」(一九三三)の断面図は雨水、シャワー室排水、台所排水、ダスト・シュート、便所排水が上から順に一本の排水立て管に接続され、全ての廃棄物が一直線に地下空間へと消えていくのを示している。こういった断面計画では、不要な排水横枝管が存在せず、天井高の三分の一を占める汚水タンクも必要としない。

ル・コルビュジエが取り組む第二の住居、低所得者のための火急の住居では、こういった設備の集中化が、経済的、効率的必要に伴って、サニタリー・コア・システムを要求する。住宅の機械化を予見したサロン・ドートンヌ展の寝室と同年、ル・コルビュジエは一九二八年のルシュール法に基づく住宅を計画した[図5]。この低所得者のための大量生産住宅には、中央に規格化されたコアがセットされる。給排水をはじめとした垂直方向要素によって自由を奪われた衛生空間は、コアの中に収まったのである。しかしコアを「壁とは別の要素である」とル・コルビュジエが語るとき、設備計画的には奪われた〈自由な平面〉が、構造的には今なお〈自由な平面〉であるのを知る。
ところでこの「ルシュール住宅」をはじめとする彼の小住宅群には浴槽がなく、代わりにシャワーが設けられている。一九五四年当時で浴槽あるいはシャワーを所有しているフランス家庭は、全戸数の一○分の一の割合であった。この数字から、浴槽所有者はブルジョワジーに限られ、低所得者用の住居ではシャワーが備えられているだけで十分であっただろうと推測できる。また低所得者たちにとっても浴槽より経済的で便利なシャワーの方が望ましかったであろう。ル・コルビュジエは『マルセイユのユニテ・ダビタシオン』という書で、毎日の習慣となり常識となったアメリカでの浴室の使用に想いを馳せている★一四。
しかしこのマルセイユのユニテ(一九五二)でシャワーがもう一つの差別を生み出しているのを発見できる。すでにブルジョワジーの住宅で浴室がアパルトマンの一要素を形作っているのは見てきた。ユニテでも夫婦寝室には浴室が設けられている。ユニテ内にはシャワー室も一つ用意されているが、その室名には「子供らのシャワー」と書き込まれる。子どもたちの衛生にはシャワーで十分であり、その方が便利でもあるということであろうか。
衛生器具は肉体に直接関わるものであるがゆえに、このように身体を、識別し、また規制し、均一化する。それゆえに衛生活動は征服の手法ともなり、シャワーは浮浪者を収容するための儀式ともなる。

2──「メイエ夫人邸」3階平面図、1925

2──「メイエ夫人邸」3階平面図、1925

3──「メイエ夫人邸」アパルトマン内部のパース

3──「メイエ夫人邸」アパルトマン内部のパース

4──「ペサックの集合住宅」2階便所の汚水タンクのための断面エスキース、1925

4──「ペサックの集合住宅」2階便所の汚水タンクのための断面エスキース、1925

5──「ルシュール住宅」2階平面図、1929

5──「ルシュール住宅」2階平面図、1929

2
都市=〈衛生─機械〉

サヴォア邸」のエントランス・ホールの洗面台(本来、〈洗面台ラヴアボ〉は教会の水受けに起源をもつ)のように、ル・コルビュジエも入会儀式としての衛生を意識していた。晩年のオリヴェッティ電子計算機センター計画案(一九六二)の工場ではまさに近代技術への入会儀式、精密機械を扱う上での密閉無菌空間への入会儀式が行なわれる。工場へ向かう人々は屋上の入口を通ってマッシュルーム形の平面をした更衣室へ、更衣室の内部は放射状に区切られ、その各々の弧の側にシャワー室が備えられている。人はマッシュルームの要の側から弧の側に向かい、シャワー室の脇を抜けてマッシュルームの弧に沿う廊下から階段を下階に降りる。降りたところに便所があり、便所から更に降りた一階が工場のフロアになっている。工場へ降りる度、あるいは工場から出るときにも人は清潔になることができる。しかしル・コルビュジエの作品で入会儀式についてより語られるのは、もっと時代を遡ったパリの救世軍難民院(一九三三)である。
救世軍は一八六○年代にウィリアム・ブースにより貧民を社会復帰させるためにイギリスで創設されたものである。プロテスタンティズムをイデオロギーの基本とする救世軍は、政府や上層階級に援助され、浮浪者、放浪者、未婚の母親、前科者、失業者といった社会の末端の人々を労働の場に引き戻す資本主義社会の〈制度〉であった。一九二○年代後半の救世軍による施設建設運動の結果、ル・コルビュジエは救世軍のために三つの作品を手がけた。彼はその最後の仕事、パリの難民院において救世軍の思想を建築空間へと翻訳した。人はまず通りから新社会へのゲートをくぐり、かつての住まいであるパリの空(我々はルドゥーが描く、大空を享受する貧者の家のドローイングを思い浮かべるだろう、彼もルドゥーの理想都市への入会儀式を通過せねばならなかったのだが)を断絶するブリッジを渡る。彼はエントランスのカウンターで、貧困の告白と引き替えに自分の身体を「社会のコンデンサー」に預ける。彼はカウンターの長いカーブによってカウンセリング・ルームへと導かれ、次いでエントランス部分の地階で衣服を着替えることになる。この過程で彼の健康と衣服は管理されるものとなり、彼の身体は衛生と監視の制度に組み込まれてしまう。
彼らの管理状況は室内を完全密閉した透明なガラス壁によって外の世界に示される。これは健康の必要条件である日照と、密室空間によって人工的に良質な空気を作り出す技術的試みの産物である。それはすでに一九世紀に医師ピアソンが肺結核患者の自宅療養のために開発した密室に遡る技術である★一五。衛生にとって有効なこの技術について、ル・コルビュジエ自身が言及するのはギュスターヴ・リヨンの〈正確な空気〉の開発と応用である。ル・コルビュジエはこれに自らが一九一六年の「シュオッブ邸」で開発したと主張する〈中和壁〉を導入することで彼の発明を完成させる。しかし救世軍難民院のガラスの密室は、予想以上に、夏の温室効果によって不快であった。それに対する非難の声が上がる中、それでもル・コルビュジエは、当初に予算不足で実現しなかった冷房装置の設置が〈正確な空気〉を保持できると説いて退かなかった。この都市の内に置かれる完全な人工空間への固執は、純粋で適切な空気を調節可能なものとしてコントロールする〈衛生─機械〉としての都市への固執である。ガラス壁はこの純粋空気の都市と浮浪者のかつての住まいである不浄な都市空間との深い断絶とも言える。
一八世紀のパリ市立病院の諸計画案もまた建物自体が機械であった。当時の病因であった瘴気を排出するため、空気流動を導くように計画された病院の形態は、まさに一八世紀的機械である換気装置そのものであった。フーコーが発見したこの機械は同時に監視装置でもあったが、ル・コルビュジエの難民院もまた、全てが太陽の光で照らされる衛生と監視の空間であった。A・ヴィドラーは「ただパノプティシズムが徐々に近代の清潔で白いユートピアの陰に隠されたことを意味するにすぎない」★一六とル・コルビュジエのこの作品を批評する。
ところで、このようにル・コルビュジエが信頼を寄せた機械は、一方で第一機械時代による都市汚染やスプロール現象、一九三一年にフランスを襲った世界恐慌と、その失業者問題といった都市均衡の破壊者として批判対象ともなる。ここで、冒頭に述べた彼の衛生戦争のもうひとつの武器〈自然条件〉(太陽、空間、緑)に言及する。
「あなたは樹木の下にいる。周りは芝生。周りは広大な緑の空間。健康な空気。騒音はほとんどない。建物も見えない!」★一七。ル・コルビュジエが創造した現代都市では、こういった風景の中をヴェルギリウスやルソーの「孤独な散歩者」が、羊の群れのような樹海を見下ろしさまよい歩くのであり、それはあまりにもありきたりなアルカディア像である。たとえそこに建つのがオベリスクや廃虚の神殿ではなく(パリの記念建造物は遺されている)、巨大なプリズムであっても。
アテネ憲章の原則のいくつか──例えば「最も美しい眺望と共に、風や霧やを考え合わせて最も健康的な空気を、いちばん日当たりの良い斜面を探さねばならず、既存の緑地を生かし、もし現在緑地がなければつくり、またもしつぶされたのであったら再生をはかる必要がある」といったもの──は、ロージェに代表される前近代の、あるいはヴィトルヴィウスの、そして古代ギリシャの医学の祖ヒポクラテスの記述に忠実である。全ての病因を環境に帰するヒポクラテスの気候学的健康の理論が、ヨーロッパの長い歴史を経てル・コルビュジエにも到達したと言える。ただいつものようにル・コルビュジエの意見は最新の情報によって口添えされることを忘れはしない。最新医学が日光を客観的に分析しその中に人体の健康に欠かせぬものと、反対に人体を害するものを発見した、と告げられる。これを受けたル・コルビュジエの結論は「太陽は生命の支配者である」であった。無邪気な太陽への信仰はここに、地域に応じた日照調整といった手法(ブリーズ・ソレイユ)に見られる気候学的地域主義へと導かれる。
彼の地域主義は、太陽の緯度とともに風向きの影響も受ける。特にインドの作品では太陽の陰影と微風の導入が建物の向きを決定する。カーティスは、経費の上で空調設備が設けられなかったチャンディガールのセクレタリアート(一九五八)に対して、「彼の建築的な環境装置が
いかに効率的であるかを誇示したかったのかもしれない」と補足す
る★一八。[図6]は「ショーダン邸」にその後応用されることになる「ハッスィシング邸」計画案(一九五○年代)の寝室階平面図である。この吹き放しのテラスは、その上に互いに独立した三つのアパルトマンを載せている。これは先に述べたブエノスアイレスの講演で用いられた平面構成のための説明図がそのまま具象化したものである。しかし個人空間の境界である残余空間はここでは空気の流動と日陰を提供するものであり、むしろ一八世紀的な衛生対策の手法に近い。再びルドゥーの理想都市の独立住宅と比較してみるならば、伝染病対策のために密集状態を避け、通風路を設け、各アパルトマンを独立させた彼の寝室階の平面構成理念には、ル・コルビュジエのこの平面図の構成に通じるものを発見できる。
ル・コルビュジエはパリの不浄なる空気の只中で、健康に良い純粋空気を二つの手法で手に入れようとした。一つは完全に密閉され調整された摂氏一八度の空気。もう一つは〈自然条件〉に基づく伝統的な手法。しかしル・コルビュジエが告訴した不浄なる都市が、一旦太陽と空間と緑に包まれたとき、人工的な密閉都市は外部に開かれ、外気に満ちることになる。ル・コルビュジエが一九二九年に描いたアルゼンチンの草原に散在する白い箱のドローイングは、正確な呼吸がどんな地域にも適用可能であることを示すものであったが、彼はそこからの離脱を試みたのだ。

6──「ハッスィシング邸」3階平面図、1950年代初め

6──「ハッスィシング邸」3階平面図、1950年代初め

3
機械化された肉体

ル・コルビュジエの日光浴とスポーツへの関心は彼の生涯を通じて、作品と日常生活に浸透していた。代表的なこの二つの近代衛生の対策は、病人の治療ではなく健康な人間の創造といった態度に支えられている。E・ブロッホは、スポーツが身体を回復するとき、その「〈回復〉は病気であることを全然前提としない回復」を意味していると述べる★一九。
しかしこれは単なる回復では終わらない。こよなくスポーツを愛した近代の芸術家たちは、その主題である競技者をサイボーグ化し、完全な肉体をもつ完全な人間というイメージを付与する。これに対しル・コルビュジエは、「一体いつこの生きものの微妙で繊細な機構の、自分という機械に、通常機械にやっているような清掃、手入れ、修理をやるのですか」★二○と述べ、普通に生活する自分自身をサイボーグ化する、健康の回復のために。
ところでフランスでは人民戦線政府が一九三六年に有給休暇法を可決することで余暇を組織化し、参加型スポーツを推奨した。人民戦線政府の余暇の組織化は民主的なものであったのに対し、ル・コルビュジエの語るスポーツは、時折より強制的な口調を帯びた。最もモスクワに接近した頃、彼は「休息の実行点検(……)は労働の点検記録と同じように制度化されるべきであると、そしてその点検記録には緑の都市の医師による各個人の処方に従って行なわれる適正なるスポーツの実行点検をも含むことが望ましい」★二一とさえ述べている。一九三七年の新精神館で構成された壁面構成〈住む〉の中のスポーツをする若い住人たちは、一方でこうした制度化され監視された健康を手に入れているのかもしれない。
ル・コルビュジエのこうしたスポーツへの志向は、P・ウィンター博士の影響を多大に受けている。彼の『レスプリ・ヌーヴォー(新精神)』誌に寄せた論文「新身体」は、その表題通り、『レスプリ・ヌーヴォー』の運動を補足した。さらに後年、『プラン』誌においても八本の健康やスポーツに関する論文を書き、ル・コルビュジエと活動の場を共にしている。ウィンターにとってのスポーツは、自らの肉体をコントロールし自然の美を作り出す一方、スポーツの時間を日常生活から捻出するために、自分の生活をもコントロールするものであった。それはまさに「深い喜びの偉大な源である」★二二。ウィンターのこうした〈新精神〉を満たした〈新身体〉の望ましい生活の場は、彼にとっては、ル・コルビュジエの都市においてこそ見出された。
ル・コルビュジエは、彼のユートピア的計画が現実の机上の問題であることを読者に証明するために、その計画にたずさわる権威者の名前を挙げることを常套手段としているが、ウィンターもまたル・コルビュジエの『全作品集』(三巻)に呼び出され、その中で彼を称えることになる。ウィンターが保証するのは「チャンピオンになったかも知れない」スポーツマンとしてのル・コルビュジエである。スポーツマンであるこの建築家は、日常のスポーツを通して優れた生物学者となり、生物学者ゆえに大地に根ざした建築家なのだ、と述べられる。健康な近代的都市を創造する建築家は、健康で近代的にコントロールされた肉体を必要とした。この権威者の言葉によって、ル・コルビュジエは自ら、調節可能な近代的肉体=〈衛生─機械〉を生きるようになる。
ル・コルビュジエが建築や都市にもたらそうとした衛生同様、彼の肉体も、多く機械や制度のイメージをもつように思われる。しかしインドの住宅のように、彼の身体もまた〈自然条件〉を楽しむことを喜び、晩年は〈高貴なる野蛮人〉、左手を挙げたそれ、として丸太小屋生活を始めるのである。


★一──『輝く都市』はManiére de penser l'urbanismeの邦訳(『輝く都市』、坂倉準三訳、鹿島出版会、一九六八年)ではなく、一九三三年に出版されたLa ville radieuseの方を指す。
★二──『十八世紀パリ生活誌──タブロー・ド・パリ』全二巻、原宏編訳、岩波文庫、下巻、一八二─一八三頁(これは L.S.Mercier, Le Tableau de Paris, Neufchatel, 1781., Paris, 1788. 及びNouveau Paris, 1798を編集抄訳したもの)。
★三──Le Corbusier, Vers une architecture, Les Éditions G.Crès et Cie, Paris, 1924.(邦訳『建築をめざして』、吉阪隆正訳、鹿島出版会、一九六七年、二○一頁)。
★四──ibid.(邦訳八五頁)。
★五──Le Corbusier, Précisions, Les Éditions G.Crès et Cie, Paris, 1930.(邦訳『プレシジョン』全二巻、井田安弘・芝優子訳、鹿島出版会、下巻、一九─二一頁)。
★六──Jacques-Francois Blondel, Cours d'Architecture, t.1., Paris, 1771, p.190.
★七──S. Giedion, Mechanization takes command, Oxford University Press, N.Y., 1948.(邦訳『機械化の文化史』、榮久庵祥二訳、鹿島出版会、一九七七年、六五六─六六九頁)。
★八──Le Corbusier, Vers une architecture, Les Éditions G.Crés et Cie, Paris, 1924.(邦訳:『建築をめざして』、吉阪隆正訳、鹿島出版会、一九六七年、一二頁)。
★九──ル・コルビュジエの論文「もうひとつのイコン、博物館 Autres icones: les musées」の表紙ページを参照(L'Esprit Nouveau, no.20.)。
★一○──K. W. Forster, Antiquity and Modernity in the La Roche-Jannerret Houses of 1923, oppositions, 15/16, 1979. ピュリストのボトルやグラスとル・コルビュジエの浴室や階段の形態の「関係は皮相的な形態の類似によってではなくその目的の本質的な同一性によって立証される」や、R. A. Etlin, A paradoxical avant-garde: Le Corbusier's villas of the 1920s, The Architestural Review, 1987.1. 「曲線形態は活動や固定された浴室に伴われているので、人体の、人格の延長になる」などを参照。
★一一──Le Corbusier, L'art décoratif d'aujourd'hui, Les Éditions G.Crès et Cie, Paris, 1925.(邦訳『今日の装飾芸術』、前川國男訳、鹿島出版会、一九六六年、一一九頁)。
★一二──一七八八年のセズヴァル氏の集合住宅のことを指す。
ところでルドゥーとル・コルビュジエの関係について興味深い記述がバンハムによってされている(「ル・コルビュジエは、配管をうまく処理しなくてもよいルドゥーの幸運に文句を言い……」)。R. Banham, The architecture of the well-tempered environment, The Architectural press, England, 1969.(邦訳『環境としての建築』、堀江悟郎訳、鹿島出版会、一九八一年、二五五頁)。
二人は確かに衛生対策の対象としてはパストゥールの実験によって、対策手法としては近代的機械設備の台頭によって識別される。
★一三──Le Corbusier & P. Jeanneret : OEuvre complète 1910-1929, Verlag für Architektur, Zürich &München, 1964.(邦訳『ル・コルビュジエ全作品集』第一巻、A.D.A. EDITA Tokyo.一九七九年)。
★一四──Le Corbusier, L'unité d'habitation de Marseille, Le Point, le numéro spécial, 1950.(英訳 The Marseilles block, the Harvill Press, London, 1953, p.18).
★一五──A. Corbin, Le Miasme et la jonquille, Aubier-Montaigne, Paris, 1982.(邦訳『においの歴史』、山田登世子・鹿島茂訳、藤原書店、一九九○年、一六五頁)。
★一六──A. Vidler, universal panopticism, oppositions, 15/16, 1979. これはパリ救世軍難民院の技術的、社会的意味を問う論文 B.B.Taylor, Technology, society, and social control in Le Corbusier's Cite de Refuge, Paris, 1933, oppositions, 15/16, 1979. の序文にあたる。
★一七──Le Corbusier, La rue, L'Intransigeant, 1929 .5.(『プレシジョン』及び『全作品集』第1巻に所収)。
★一八──W. J. R. Curtis, Le Corbusier: ideas and forms, Phaidon Press, London, 1986.(邦訳『ル・コルビュジエ──理念と形態』、中村研一訳、鹿島出版会、一九九二年、二三七頁)。
★一九──E. Bloch, Das Prinzip Hoffnung, Suhrkamp Verlag, 1959.(邦訳『希望の原理』全三巻、山下・瀬戸・片岡・沼崎・石丸・保坂訳、白水社、一九八二年、二巻一三─一四頁)。
★二○──Le Corbusier & P. Jeanneret: OEuvre complète 1934-1938, Verlag für Architektur, Zürich &München, 1964.(邦訳『ル・コルビュジエ全作品集』第三巻、A.D.A. EDITA Tokyo、一九七八年、一五頁)。
★二一──Le Corbusier, Précisions, Les Éditions G.Crès et Cie, Paris, 1930.(邦訳『プレシジョン』全二巻、井田安弘・芝優子訳、鹿島出版会、下巻二一六頁)。付録の一つである項目「モスクワの雰囲気」において。
★二二──P. Winter, sports et santé, L'esprit nouveau, no.16. ちなみに「新身体Le corps nouveau」はNo.15。他にNo.14 に「スポーツ」、『プラン』ではNo.1に「医学、健康の科学」、No.13に「労働とスポーツ」など。

図版出典
図1──ル・コルビュジエ、F・ド・ピエールフウ『人間の家』、鹿島出版会、一九七七年、一三頁。
図2──L'Architecture Vivante, 1927, p.21, (Da Capo Press, N.Y., 1975).
図3──L'Architecture Vivante, 1927, p.22, (Da Capo Press, N.Y., 1975).
図4──H. Allen Brooks (ed.), The Le Corbusier Archive, Vol.2, p.332(FLC20016).
図5──Le Corbusier & P. Jeanneret: OEuvre comple`e 1910-1929, p.198.
図6──Le Corbusier & P. Jeanneret: OEuvre comple`e 1946-1952, p.164.

>森山学(モリヤマ・マナブ)

1972年生
熊本高等専門学校建築社会デザイン工学科准教授。建築歴史・意匠。

>『10+1』 No.10

特集=ル・コルビュジエを発見する

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>輝く都市

1968年

>サヴォア邸

パリ 住宅 1931年

>建築をめざして

1967年12月1日

>前川國男(マエカワ・クニオ)

1905年 - 1986年
建築家。前川國男建築設計事務所設立。

>中村研一(ナカムラ・ケンイチ)

1958年 -
建築家。中部大学教授。