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つくることの対象化──現代住宅建築論序 | 青木淳
The Objectification of Creation: A Preface to the Architectural Studies on Contemporary Housing | Aoki Jun
掲載『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) pp.58-65

1 拘束と自由

「住み処としての空間がこれ程までに住まい手の生活を拘束し、或いは住まい手の身体感覚まで影響を及ぼすものだとはほとんど思いもよらないことでした」(伊東豊雄「住宅の死をめぐって」『中野本町の家』住まいの図書館出版局、一九九八、栞三三頁)。自由にいろいろなことを考えることができる。そう思ってぼくたちは日常生活を送っているわけだけど、よくよく考えてみれば、ぼくたちは日本語という言語がそもそももっている制約からけっして自由でいられることはなく、もし別の言語を母国語としていれば、きっといまとは違うことを考えてしまっているはずである。いや、何語を母国語にしているかというのが本当の問題ではなくて、もっと大きく言語一般がもっている制約からぼくたちはけっして自由ではないのである。無色透明の言語なんてものはなく、言語はなんらかの制約をもっている。でも、本当の自由を求めてと言って、言語を頭のなかからまるっきり追い出し消去してしまえば、もちろんそんなことは現実には可能ではないけれど、今度は何も考えることができなくなってしまうので、さて言語を使っているほうが自由なのか、それとも使っていないほうが自由なのか、という問題がある。
同じようなことは設計についても言えて、どんな設計でも何かを拘束してしまう。無色透明な設計なんてものはない。壁を一枚建てれば、こちら側と向こう側が生まれる。これもひとつの拘束である。なにかをつくるということは、一般的に言って、無限の可能性からたったひとつの可能性に絞るということなので、設計をしておいて何も拘束していません、と言うことはできないのである。でも、たいていの人はけっして拘束したいと思っているわけではなく、むしろ逆にそこに住まい手の自由が生まれることを望んで設計しているので、そこで話がこんがらがってしまう。特に住宅のように人の「生活」のいちばん基本的な部分にかかわる設計の場合、住み手がそこで自由を感じ、自由に生活できるようにと思い、だけどそのための設計をしたとたんに、それはそこでの感じ方や生活の仕方にはっきりと拘束を与えてしまっているのである。
自由を求めているのに生まれてしまう拘束。だから、ぼくたちはこの矛盾に意識的ならざるをえない。真面目に考えれば考えるほどこの問題にぶちあたる。自分たちは何にどのような拘束を与えてしまっているのだろうか。拘束はどこまで低減できるのだろうか。どんな拘束だといいのだろうか。その拘束で保証される自由とはどんなものなのだろうか。どんな自由を保証すればいいのだろうか。その自由のためにやっていい拘束は何で、やってよくない拘束は何なのだろうか。多くの質問と答えがある。いろいろな人がいろいろなところでこの問題に触れている。ぼく自身もずっとこの問題に関心をもってきたし、いまでもそれにうまく答えることができないでいる。
しかし、このジレンマ、つまりつくるということにどうしても伴ってしまう拘束は、結局のところ、解消しえない問題なのである。それを乗り超えることは論理的に言ってできない。それを乗り超えたかのように見えるどんな論理も、ちょうど透明な言語が夢物語であるように、まやかしにすぎない。
だから、この問題は最終的な答えに早く辿り着けば着くほどいいというような素朴な課題ではなくて、むしろそのことを止むに止まれず、より明晰に意識に上らせつづけざるをえない、というような設計の実践的課題なのである。どんな拘束を与えてしまっているか。この問題に意識的であることによってだけ、それでもけっして拘束一般の外に出ることはできないのだけれど、ぼくたちは拘束がないという状況を一瞬だけ捉えることができるのである。逆に言えば、それに意識的でない限り、ぼくたちは間違いなくなんらかの拘束のなかにいて、きっとその拘束をかえって強化してしまっているのである。
日本で毎年つくられる住宅は約一二〇万戸くらいある。そしてそのなかには、住み手のほうにまず「こんな家に住みたい」というのがあり、その欲求に答えてそれを実現する住宅をしっかりと供給できる仕組みがすでにできあがっていて、その仕組みが安定状態にあるというケースがけっして少なくない。具体的に言えば、数寄屋建築や、田舎の木造豪邸や、ある種の作家建築家がつくる住宅などの、既存のある特定の美意識のうえに成り立っている住宅である。それからまた、特定というのと逆の、一般的な常識の、つまり「住宅とはこういうもの」という慣習のなかでつくられている「普通」の住宅である。この二つは結果としてはずいぶんと違った住宅である。でもその基本的構図は驚くほど似ていて、そこでは同じように、ある住宅像がつくり手や住み手に先立って共有されている。ある生活の仕方のイメージがあって、それを前提にして住宅がつくられている。こういう場合、住まい手もつくり手も自由とか拘束とかを感じてはいない。そういうことから無縁のところで住宅がつくられている。でも最初に言ったように、どんな建物でもそこにはなんらかの拘束力が働いているのだから、この場合もけっして例外ではなく、ただそれが意識されていないということにすぎない。内側にいる人にとっては、外からの眺めはわからない。でも、外からみれば、それはひどく拘束された世界なのである。ほかの可能性があることを自ら目をつぶって見ないようにしている世界なのである。
数の問題ではない。一方でつくってしまっているものの拘束力に無自覚な大多数があって、もう一方にそれをつねに意識せざるをえない少数がある。拘束力を結局は強化してしまう動きと、拘束力の終わりのない打ち消し運動と。数の問題ではないし、また建築としての善し悪しの問題でもない。ただ、つくるということはなんらかのものから自由になろうとすることだとぼくは思うし、だからくりかえしになるけれど、実践的課題として、ずっとそこに働く拘束力を意識化しつづけている必要があるのではないかと思うのである。

2 批評性

いちばん単純な拘束のかたちは固定観念である。どんな人でも固定観念がある。疑ってみれば必ずしも絶対ではないのに、なんとなく無意識のうちにそれが絶対だと思ってしまっている。そこからなかなか逃れることができない。たとえばnLDKという空間的制度。いくつかの(n個の)部屋と居間=リビング(L)と食堂=ダイニング(D)と台所=キッチン(K)。日本では住宅を言い表わすのに、4LDKというように、このnLDK表示がよく使われる。住宅の規模を言い表わすとき、総床面積のほうがもちろん正確なのだけれど、三〇坪の家と言うより4LDKと言ったほうが大きさの感じがつかみやすい。つまり、これはnLDKが一般的な指標として機能しているということであるのだけれど、それは日本のほとんどの住宅がいくつかの部屋と居間と食堂と台所の組み合わせからなっているからである。そうでなければこれを指標として使うことはできない。nLDKで言い表わせるものとしてつくるというのは、現代日本の住宅がもっているいちばんはっきりとした固定観念のひとつである。
もちろん住宅が部屋に分かれている必要は必ずしもない。ワンルームのほうがいいかもしれないし、リビングという部屋がなくてもいいかもしれない。nLDKは絶対ではない。だから個々の設計において、nLDKという形式を無意識に前提としてはじめるよりも、本当にnLDKという形式がふさわしいのかどうかをよく吟味して、また仮に住まい手がそれを固定観念としてもっていたとしても、必ずしもそれにとらわれない方法もありえることをわかってもらって、そこから住宅を構想しはじめるほうがいいのはほとんど自明のことであって、ぼくたちは設計ということのなかで、ごくごく当たり前のこととして、住まい手や自分のなかにある固定観念をいつも意識化するようにして、そうすることでその拘束力を外して、すべてのことがとりあえず可能なところまで溯って考えはじめるわけである。そういう意味でぼくは、固定観念はつくるということにおいて直面するいちばん単純でわかりやすい拘束力だと思う。
ところで、ある特定の住まい手がいてそのための住宅をつくるという「注文住宅」の場合、その設計はつねに単独の行為である。そういうところで一般的な「住宅」の問題を考えることは、ぼくにはひどく奇怪なことに思える。この感じを伝えるのはむずかしいけれど。
たとえば先に挙げた例のようなnLDKという形式の場合、ぼくたちが直面するかもしれないのは、そのときの住まい手の固定観念である(もちろん住まい手にそういう固定観念がない場合だって多いことは言うまでもない)。しかしそれを、客観的に言って、もっと一般的な、たとえば日本の社会がもっている固定観念に直面している、と言うことはできない。ぼくたちが具体的な設計という行為のなかで直面するのは、あくまで単独の個別の事態でしかない。確かに、つくり手が確信をもっている空間形式があって、それが住まい手が固定観念としてもってしまっている空間形式とぶつかるということは往々にして起きることである。だけれどもその場合でも、その事態を外から見れば、ある特定の個別の状況においてごく日常的なこととして、ある人がもっている固定観念が拘束力として働いている、ということにすぎない。ぼくには、このことに対してそれ以上の深読みは余計なことのように感じられる。
できあがった住宅を前にしてその批評性を云々するとき、しかしそれはこの個別の事態を超えた抽象的な場所を必要としている。そういうときに相手にしているのはつくり手の側にある確信であって、その議論のなかからは明らかに目の前の住まい手が消えてしまっている。目の前の単独の住まい手が対象ではなくて、抽象化された住まい手「一般」つまり社会が対象になっている。だから、ある住宅が批評的であるというとき、それはその住まい手(あるいはつくり手)が設計の最初の段階ではある固定観念をもっていたのが、できあがったときにはその固定観念から自由になった、ということをまったくといって意味していない。場合によっては、その住まい手(あるいはつくり手)は最初からその固定観念から自由であって構わないし、たぶんそういう場合のほうが実際には多いはずである。そういうときに住宅が批評的であるというのは、つまりその単独の設計行為を超えて抽象的に想定された場所においての、その固定観念に囚われた社会一般というこれまた抽象的に想定された概念に対する批評としてなのである。それはつくるということとは別の次元での批評性なのである。つくることのなかに批評性があるのではない。たとえば続けてnLDKの例で言えば、ある意味ではその後のいろいろな人による住宅平面計画上のほとんどのアイデアがその焼き直しとして見えてしまうような具合に特別に傑出した黒沢隆の「個室住居群とは何か」(一九六八)は、「近代住居における『社会―家庭―個人』という段階構成が、いまや『社会―個人』という直接の関係に転化してしまった」(黒沢隆『個室群住居』住まいの図書館出版局、一九九七、 二二頁)というような歴史的必然の認識からはじまって、そこから「キ個室」であるところのひとつの住宅像を導きだしたものだった。
「近代住宅がそうであったように、現代住居も現代家族以外を軸として成立しはしないのだが──、しかし現代では『家族』は名も実もない。あるものは個人だけである、あるいは社会全体が家族であり、その構成単位が個人である。そしてその住居を考えれば、この構成単位がそのまま住居単位となる以外にはない。それは一人の個人によって占められる住居単位である、そのような個人単位の空間は、一般に『個室』と呼ばれる。それは寝室や居間などの機能単位の部屋ではなく、一人の人間が一日の生活を営める場である。そして男も女もそれぞれの個室に住む、また子供も専用の個室をもつ、とりたてて居間がある必要はない。その機能はコミュニティによってになわれる」(同書、二四頁)。ここで話題になっているのは、ある特定の住まい手の生活やその住宅についてではない。ここでの関心は彼が自らそう書いているように、「現実と将来の展望にもっとも適した住居、すなわち現代住居とは何か」、「そして、その一般解は何であろうか」(同書、二四頁)なのである。
これはつくるということとは基本的には別の、もっと大きく現在の社会にかかわる分析と考察なのである。もしそういう論の延長として住宅をつくるなら(ちなみに黒沢隆はそういう立場をとっていない)、それは一般解の特殊への適用としてある。まず先に正しいあり方としての住宅の形式があって、そのひとつのケース・スタディとして個別の住居がつくられる。そこにまず最初にあるのは、ある特定の顔をもった住まい手ではなくて、ひとつの思想でありまたひとつの理想的な形式である。住まい手はその思想に同調する人のなかから現われる。その思想が住まい手を選択すると言ってもいい。これは構図だけとって見れば、伝統的な数寄屋建築がつくられる構図とまったく同じであって、その意味では批評的建築が成立する基盤は、意外なことに、建築家が「作家先生」であるところの古典的な建築家の生きている場所と地続きなのである。異なっているのは、それが世の中から本当は受け入れられるはずなのにあまり受け入れられていない、という歪んだ認識において成立していることくらいなのである。
だから、ある住宅が批評的である(と解釈される)ことと、批評的な住宅をつくることはぜんぜん違う。これはすごく大切なことである。批評的であるとは、いまそこにある固定観念をその抵抗にあらがってその向こうにまで溯っている、あるいはそうしようとしているということである。だから、あるできあがっている住宅を前にして、それがたとえばnLDKが無意識に前提としているものを表に引きずりだして、それが必ずしも絶対的なものでないことを示している、という意味で批評的であることはもちろんできる。でも、どんな一般解であれ、ある一般解を前提としその適用として住宅をつくることは、つまりそこには設計という行為に先立って一般解という固定観念──そう、一般解とはそれを適用する時点においてはすでに固定化された観念なのである──を想定しているという意味で、批評的な精神からもっとも遠いつくり方なのである。
これは言い回しのレトリックではない。ぼくはここで、つくられた住宅という静的な側面からではなく、住宅をつくるという動的な側面から現在の住宅を見ようとしているのだけど、その立場からすれば、つくるという行為において批評的であるというのは、それは普通思われているようにある思想に発する一般解をもってつくるということではぜんぜんなくて、その逆にそういう一般解をもたないところにあえてとどまりつづけるという方法においてなのである。自分の行なっている判断や決定をすべて疑ってみる。こういう方法こそが批評的なつくり方なのである。個別の設計を個別のものとして、それを「一般」の問題に置き換えないでいるときに、つくり手の行為は初めて批評的でありえる。だいたい、自らの固定観念を疑うことをやめた者が、どうして社会に潜む固定観念を批判することができるのだろうか。これほど傍から見ていて滑稽なことはないではないだろうか。
できあがった住宅において批評的であることは、けっしてそのつくられ方が批評的であることを保証してはいない。というより、つくり手が自らがつくった住宅に対してそれを批評的であると判断すればするほど、そのつくられ方のほうは逆に批評性から遠ざかっている危険性が高まっているのである。だからぼくたちは、つくり手が批評性という言葉をもち出したところで、その批評性のなさを怪しむべきである。つくり手が批評的であるとき、彼あるいは彼女にとってもっとも余剰で無意味な言葉が「批評性」なのである。
住宅において批評性を云々しない。これは住宅が批評的でありえるための最低限の条件である。

3 間―操作性

一般解からの逆算でつくらない。抽象的な「一般」を想定しない。単独の問題として住宅をつくる。そこで前提となっていることを全部疑ってみる。そういう意味での「批評性」を前提とした場合──そしてこれがおそらく現代日本の住宅を特徴づけるつくり方なのだけれど──まず消滅するのは、つくり手のなかの主体としての確からしさである。
客観的に言えば、設計というのは、無数の判断が連続的に連なるひとつづきの決定行為である。まず判断すべき課題の見極めがある。いまこの時点で何を考えるべきか。あるいは何を考えないでおいていいか。そして次に課題の明確化がある。何を目標とすればいいか。それを考えるときの条件は何なのか。それから選択肢の発見。答えとしてどんなヴァリエーションがあるのか。これ以外の答え方はないのか。それから判断基準の選択。答えを選ぶときの判断基準は何か。なぜその判断基準を選ぶのか。そして判断。判断基準に照らしあわせて最適の答えはどれか。あるいはもっとほかに選択肢があるのではないか。設計というのはこういう数限りない判断や決定の束としてある。
しかし、つくるということをそのようなものとして捉えたとき、それは普通に言われるような、表現行為としてのつくることとまったく異なった見え方になっている。表現行為とは、つくり手のなかに「表現すべきもの」があって、つくられた結果として「表現されたもの」がある、ということである。つくり手のなかに確かなつくる主体がある。もちろん、つくるという行為を表現行為と捉えることは可能であって、実際多くの場合、つくられたものには「しようとしていること」=主題があるように見えるし、またぼくたちはしばしばその主題の適切さとその主題がかたちにされるその方法の適切さを話題にする。だけれど、それはできあがった後の、後付けの理屈なのである。あるいは、それはつくるという単独の行為に先立って、つくり手のなかに「しようとしていること」がある場合、つまりつくり手のなかに主体の場所がしっかり確保されている場合にだけ当てはまる捉え方なのである。
単独の行為として住宅をつくるとき、表現するという言い回しほどトンチンカンなものはない。なぜなら、そこでのつくるということはつくり手の外に出てしまっているからである。つくっているのはつくり手である。だけれど、その「つくっている」はつくり手の恣意ではない。つまり、それは確かにつくり手によって「つくられている」のだけれど、それが内側から見られたつくられ方ではないような仕方でつくられているのである。そこには、まず具体的な住まい手がいて、つくり手がいる。そして、そこでの「しようとしていること」は、つくり手に由来しない。それはつくり手の外の場所における住まい手との関係のなかで決まっている。
だから、単独の行為として住宅をつくるというとき、あるいは住宅を「批評的」につくるというとき、つくり手のなかに「しようとしていること」を構成する主体はすでに消滅している、と言っていい。表現という言い方は、つくり手がすなわち主体であるという素朴な実感に支えられている。そして、そうであるから、つくることにおいて「批評的」であろうとする現代日本の住宅を、表現行為として目的論的に理解することは、ひどく的外れなのである。そこでは表現行為として理解される「つくる」ではない、まったく別の「つくる」が行なわれているのである。その「つくる」は表からも裏からも追いやられた、いわばどこにも属さない「間―空間」における出来事である。まずその「つくる」はいま見てきたようにつくり手のなかにはない。その外にある。そして、それだけでなく、住まい手からも追いやられている。住まい手が望む住まい方があって、それがそのまま住宅になるとすれば、「つくる」は住まい手の内にあると言えるだろう。だけれどもまず第一にそういう無色透明なつくり方というものはない。それにたいていの場合、住宅ができあがるより前にはっきりとした住まい方像ができあがっているということもない。住まい方像は住宅がつくり手との関係のなかでつくられていく間に次第に明確になってくるものなのである。だから「つくる」が住まい手の内にあるということはできない。「つくる」ことは、いずれの行為者からも独立したその「間―空間」にあるのである。
これはしかし奇妙なことである。つくり手とはつくる主体である、というのならわかる。あるいは、住まい手がつくる主体になっているので、つくり手がつくる主体ではなくなった、というのならわかる。しかし、これでは「つくる主体でないつくり手」という語義として矛盾した事態だと言わざるをえない。もっと正確に言わなくてはいけない。
これは「つくる主体でないことによって、その空白として捉えられるところのつくり手」なのである。つくり手自身が、従来的な意味でつくり手であること、つまり恣意的な「しようとしていること」をもつことを拒んでいる。自らつくる主体であることから降りようとしている。つくり手自身の内の、いまそこにあるものが疑われている。それは本当に確かなものなのだろうか。つくり手は自分をできるかぎり透明にしようとしているのである。そして、そうしている限りにおいて、その作業を行なっている者として主体が定義されている。徹底的に透明であろうとしていることにおいて、彼あるいは彼女という「つくり手」=意志であるのである。
こういうつくられ方は、住まい手からもつくり手からも自立している。それはつくり手の内面の無自覚な発露ということからもっとも遠いつくられ方である。恣意性は排除されようとしている。もちろんつくることにおいて恣意性はけっしてなくならない。でもそうしなくては恣意的になってしまう。だから終わりのない作業であることはわかっていても、ちょうど人間が生きているかぎり呼吸をするのと同じように、恣意性は排除されつづける。
恣意性(arbitrariness)の反対は「個人の判断ではなく、法によって決められた」(Websterユs)である。それは特に建築の世界でそれこそ恣意的に捉えられて いるような意味での「拘束力の働いていない」ものではぜんぜんない。ある個人の勝手な判断で決められたものが、結果として他の人を不条理に拘束する。そういう空間を恣意性の名のもとに批判することはできる。しかしそれはその拘束の存在において批判されているのではない。なぜなら、最初に書いたように、ぼくたちはつくることにおいてけっして拘束の外に出ることはできないからである。恣意的という言葉を拘束という意味で捉えている人は、だから本当のことを言えば、そういうことにとんと無自覚で、自分があたかも「拘束力の働いていない」場所に立てるかと錯覚している。本当の問題は拘束力の有無ではなくその拘束の由来なのである。それは無自覚なところから出ているのか、それとも意識化されその判断の善し悪しを客観的に問えるところから出ているのか。批判されるべきなのは、この一点なのである。
ともあれ、つくり方から恣意性が排除されようとしている。それはつまり人間から一度切れたところでルール化されているということである。もはや個人の趣味ではない。個人の内側の「想像力の闇」ではない。個人の思想ではない。つくることがひとつのはっきりと意識化されたルールの適用として行なわれている。
こういうつくり方はとことん醒めた意識を必要とするだろう。つくっていることを見ているもうひとつの目を必要とする。扱われているのはそのつくられ方である。つくられる内容からの逆算ではない。自分がつくってしまっていることを、まるでほかの人の作業であるかのようにいったん自分から切り離して、調べ、吟味し、調整する。そういう操作が「つくる」になっている。
ぼくは周りを見渡してみて、いま「つくる」という意味が単純なことではなくなっているように思う。「しようとしていること」や「しなくてはいけないこと」がつくる契機になっていない。それがなぜなのかはぼくの関心ではない。きっといろいろな理由があるのだろう。だけど、ともかくつくり手がつくる主体に一致している、というような素朴なところからどうもつくられていないように見えるものが多く目につくようになってきた。
自分自身を考えても「つくる」という言い方そのものが気になりだしている。たとえばウイルスというものになぜか興味の矛先が向かう。ウイルスは細菌とちがって自分で自己生産することはできない。ウイルスは「生体組織の最小単位である細胞もなく、その実質は遺伝子をたんぱく質の殻で覆っただけのものである。自己を複製する設計図である遺伝子はあっても複製工場(リボソーム)をもっていないので、ウイルスは単独では増殖できない。このため感染先である宿主(ホスト)の細胞に侵入。自己の遺伝子を組み込むことで、宿主細胞の複製工場を乗っ取ってしまうのだ」(畑中正一『殺人ウイルスへの挑戦』集英社、一九九五、三一頁)。宿主をつくり手に、ウイルスを「しようとしていること」に読み替えてみればいい。宿主のぼくにとってウイルスは外部的な存在である。ウイルスは外からやってくる。ぼくはそこで確かになにかをつくっている。だけど、それはつくっているというよりもつくらされている、のである。
そういうときの「つくる」の見え方は、意図があってそれがつくられているというような目的論的なものではなくて、そこにつくられていく機構が存在しているというような認識論的なものである。見えているのはそこに働いている構造であり仕組みである。特に住宅のような、本来的に住まい手とつくり手の「間―空間」においてものがつくられるジャンルでは、これがごくごく自然にでてきているように思われる。いずれにせよ、ある思想の啓蒙としての住宅や、社会構造の反映としての住宅や、歴史的必然から割り出された住宅や、ある内的世界の投影としての住宅は、いまでは時代遅れの傲慢というだけでなく、そもそも住宅というジャンルに相応しい問題意識でなかったように思われるのである。
見えているものが構造であり仕組みであるとすれば、そこでのぼくたちの「つくる」ということは、それを意識化してそのあり方を操作することである。ぼくたちはできる限り透明につくりたい。そして、そのためには、まず自らの「つくる」を対象化しなければならない。

住宅建築をめぐる三つの対話──青木淳

以下に掲載される三組の建築家(西沢立衛、西沢大良塚本由晴貝島桃代各氏)との対話は、INAX住宅フォーラムの第一回目として開催されたものの採録である。このフォーラムの記録は、全フォーラム終了後あまり時をおくことなく刊行が予定されている。
  《INAX住宅フォーラム》は、そもそも一二組の建築家にそれぞれどんなことを考えながら住宅をつくっていっているのかを聞いてみようというところからはじまった。フォーラムのインターバルは、約半年の間に四回の開催を考えた。建築家はそれぞれ三組ずつである。
最初の三組は、五月一九日―二一日にかけて参加いただいた。特に前もって共通のくくりを考えているわけではない。単純にきっとおもしろそうな話が聞けるだろうと思ったにすぎない。
聞いてみて、やはりとても一言でまとめられないくらいに豊かな内容があった。でも、そこにある共通性があったことも同じくらい確かなことである。それをあらかじめ乱暴を承知で一言で言っておこう。それは「間=inbetween」の感覚とつくることそのことの徹底した意識化である。
彼らのつくり方はきわめて「間―操作的」である。扱われているのは住まい手の側にもつくり手の側にもない、その二つに両側から挟まれたどこにも属さない「間―空間」である。その隙間は、彼らが「つくること」を徹底して意識化することによって、かろうじて維持されているように見える。「つくること」そのものが操作されている。

西沢立衛さんにとって住宅を「つくる」ことは、その「つくる」ときに自分が属してしまっている視点の、その性能の意識化と切り離せない。「倍率」。どんな視点をとるにせよ、ぼくたちはなんらかの倍率をとってしまっている。そこから逃れることはできない。しかし、いまの倍率は絶対的なものではない。それは相対化できる。操作できる。もしかしたら彼にとって、その相対化作業そのものが「つくる」ことなのかもしれない。そうしなければその無意識な「視点」の内に幽閉されていたに違いないはずのところから一歩外に出ること。それはつくり手の外につくる主体をずらすことである。
西沢大良さんは徹底的な意識化を通して、つくり手がどうしてもつくらざるをえないぎりぎりのところまで「つくる」ことを削っていこうとしている。「規模に抵触する限りにおいて」。それはつくることが関われる領域の意識化とその厳密な限定を正確に意味している。つくることは、中身を扱うことではなく形式的な操作であり、その操作が及ぼす範疇と操作そのもののアルゴリズムを、それを適応している主体の内側から自己解剖、自己摘出しようとする鋭利がそこにある。
塚本由晴さんと貝島桃代さんは、ぼくたちが無意識に住宅ということで捉えてしまっている「くくり」を疑っている。ひとつの住宅はどこからどこまでを含んだ事象なのか。空間というものが物とそれらの関係であるとすれば、それをつくるということはその事象の操作である。彼らの意識はそのくくりの範囲を広げ、その境界線を曖昧にすることに向けられている。それはつくることにおいて「間=inbetween」であるのと同時に、物理的な「間=inbetween」を主題にすることである。

>青木淳(アオキ・ジュン)

1956年生
青木淳建築計画事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.18

特集=住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在

>伊東豊雄(イトウ・トヨオ)

1941年 -
建築家。伊東豊雄建築設計事務所代表。

>青木淳(アオキ・ジュン)

1956年 -
建築家。青木淳建築計画事務所主宰。

>西沢大良(ニシザワ・タイラ)

1964年 -
建築家。西沢大良建築設計事務所主宰、東京芸術大学非常勤講師、東京理科大学非常勤講師。

>塚本由晴(ツカモト・ヨシハル)

1965年 -
建築家。アトリエ・ワン共同主宰、東京工業大学大学院准教授、UCLA客員准教授。

>貝島桃代(カイジマ・モモヨ)

1969年 -
建築家。筑波大学芸術学専任講師。塚本由晴とアトリエ・ワンを共同主宰。

>アルゴリズム

コンピュータによって問題を解くための計算の手順・算法。建築の分野でも、伊東豊雄な...