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サステイナブル・デザインを遡る | 野沢正光
Tracing Sustainable Design | Masamitsu Nozawa
掲載『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) pp.215-225

シミュレーション技術の向上と設計の変化

野沢正光──一九七〇年代、第一次、第二次と立て続けに「オイルショック」という問題が起きました。一九七二年には、ローマクラブが「成長の限界」というレポートで資源の枯渇についての深刻な予測を発表しています。この頃から資源と環境の問題がたいへん大きなものになっていくのです。人類は生き延びることができるだろうか、ローマクラブのこの報告はそうした警告を重く発するものでありました。同時に、この頃それらの問題をテクニカルに解決する可能性を予感させる技術や情報も急激にわれわれの手の中に入ってきた、と今日になり考えることができるように思うのです。太陽エネルギーなどの、自然エネルギー、つまりパッシヴな技術はそうした技術の主要なものであると思います。こうした技術はそれまで実にとらえどころがなく、それを根拠にしながら建築を作ることは不可能で、あくまで予言的なものでした。しかし、説得力を持つシミュレーションをもとにデザインすることが難しかったものが、パソコンの普及、シミュレーション技術、データ集積技術の向上によって、急速にかなりの精度でできるようになっていくのです。環境技術はここから「予感」「期待」としての技術ではなく「サイエンス」という根拠を持ったものとして離陸することになり、それが新たなパッシヴ・デザイン、自然エネルギー利用といった領域を開拓していったのだと考えます。サステイナブル・デザインという思想はこうした流れのなかで確かなものとして現われた、といえるのではないかと思うのです。今日の社会的要請である、エネルギーおよび資源の使用量を下げつつ快適性はよりいっそうわれわれの望むものに近づけたいという期待、そしてそのうえで二〇五〇年には二酸化炭素排出量を今日の水準から五〇パーセント削減するという激的な目標、それを建築の分野の面白い宿題とすることは存外実現可能なものではないかという思いが僕のなかにあるのです。
二〇年から三〇年ほど前に、アメリカで初期のパーソナルコンピュータを使ったソーラーエネルギー利用についてのシミュレーションソフトが作られはじめました。「予感」と「期待」に根拠を与えたい、という動きだったのでしょう。ほぼそれと同時期、私たちにとってもそれが手に入る段階になり、私たちの数人のメンバーもこれに手を染めることとなったのです。やがてそれは数年を経ずして気象データ「アメダス」と建物の温熱性能の両方を計算することを可能とし、かなり予測とたがわず太陽エネルギーを的確に利用することができるようになったのです。私の建築理解がこれにより大きく変化したと言ってよいほど、この作業はとても興奮するテーマだったと思っています。
これからの時代に環境的な技術が、建築の計画の新しい大きな根拠になるだろうと考えたこと、また、それが人々に建築の意図を納得してもらう主要なツールのひとつになるだろうと思って私はこれまでサステイナブル・デザインに、関わってきたわけです。近代以降、サイエンス/技術はわれわれが建築を考える大きな根拠となるものであるはずです。しかもサイエンス/技術は、実は予想を超えて極めて個人的独創によってその意義が現われるものでもあるのです。サステイナブル・アーキテクチュアとは今日の宿題と技術的独創がこれから切り開く分野に現われるのではないか、と思うのです。また、近代が興味を持ち続け工夫を重ねてきたサイエンス/技術のなかにサステイナブル・デザインの萌芽はすでにあるのではないかと考えるのです。

今日は数年前に私が初めて見た《アイアンブリッジ》から始め、主に一九世紀イギリスのヴィクトリア時代を振り返りつつ、近代が手に入れ発展させてきた技術の面白さ、独創さと、それ以前の時代との決定的格差、それについて僕が散漫に記憶していることをお話しようと思います。

テクノロジーの進化と伴走するデザイン

ジャン・フランソワ・ミレーの《晩鐘》(一八五九)、《落ち穂拾い》(一八五七)が描かれたのは一八〇〇年代の中頃です。ミレーが活躍した時代に突然、ダーウィンの「種の起源」(一八五九)が現われます。それから半世紀ほどしてウェグナーの「大陸移動説」(一九一二)が現われ、《晩鐘》や《落ち穂拾い》が象徴する、それまで長くキリスト教が制御していた社会システムに対し、サイエンスや技術、つまり合理的システムが、それは違うのではないかと直截に問い始めます。ヴィクトリア時代(一八三七─一九〇一)の人々の経験した、社会やそのシステムの変貌はルネサンス(一四─一六世紀)のそれの比ではないと想像します。もちろんこの劇的な時代にも前史は存在します。ヴィクトリア時代より以前、一七〇〇年代の半ば過ぎから終わり頃のイギリスでは蒸気機関はもちろん一般には普及しておらず、運河がもっとも大きな輸送手段で、石炭などの輸送を担っていました。その運河を掘ることで地質学も発展します。積層している地層から貝殻が現われたりするわけで、一八一五年には、石炭層を予測するための世界初の地質図をウィリアム・スミス(一七六九─一八三九)が作るのです。彼は地質学の父と呼ばれることになるのですが、こうしたことがウェグナーの大陸移動説につながるというように、それまでキリスト教によって閉じられていた蓋がバタバタと開いていくというのがこの時代です。
さきほどの《アイアンブリッジ》(一七七九)はこの時代のものといえると思います[図1]。これは文字どおり「鉄の橋」ですが、鉄でできている以外は石の橋と同じようなシルエットをしています。サイエンス/技術が現われる直前の構造物だと言っていいのではないかと思います。構造力学的に正しい合理的な形かというとそうではない。非常に装飾的だし、石の橋として考えても同じような姿になるのだろうと思います。しかし細部はとても面白い、鋳鉄だけが作りうる独創なディテールにあふれています。時代と素材の関係はここでも面白く見ることができます。鉄はヴィクトリア朝を通じて次々にその性能を変化させます。鋳鉄の後、錬鉄が現われ、スチールが現れる。それにしたがって新しい構造の解析手法が試みられ、材料の標準化や量産が起き、今日までの鉄の時代が切り開かれたわけです。

これはキュー・ガーデンの《パームハウス》、建築家はデシマス・バートンです[図2]。僕はこの建物が大好きで何度も行っているのですが、よく考えるとキュー・ガーデンはヴィクトリア朝前史の地球への興味、それによって出現したプラント・ハンターの巣、根拠地みたいなところです。ジェームズ・クック(一七二八─七九)の時代から始まるわけですけれど、多くのイギリス人が非常に大きな知識欲であちこちを訪れ、あらゆるものを世界各地から持ち帰ります。そのなかで、動物学、植物学、博物学が発生し、キュー・ガーデンの《パームハウス》という巨大な温室が作られるのです。鋳鉄と錬鉄の組み合わせで、一八四四─四八年にかけて設計され作られました。
キュー・ガーデンはいまだに世界最大の植物園、種子の収集場所であり、しかもわれわれが行ってもキュレーターが丁寧に案内や説明をしてくれる開かれたミュージアムです。その中心にあるのが、この《パームハウス》です。この建築は、技術や材料の著しい変化、あるいは社会の新しい目的と機能、またその急速な展開にあわせて、建築家やエンジニアによって作り出される今までに存在しないサービスの、この時代の典型のように思うのです。

I・K・ブルネル(一八〇六─五九)の設計した橋《ロイヤル・アルバート・ブリッジ》(一八五九)です[図3]。ブルネルは、この時代の、最大のエンジニアと言っていいでしょう。ロイヤル・アルバート候とはいうまでもなくヴィクトリア女王の夫ですから,この名が付く橋がいかに当時を代表するものであるかは言うを待たないでしょう。このブルネルとロバート・スティーブンソン(一八〇三─五九)はヴィクトリア時代の代表的なエンジニア、いわば好敵手、競争相手です。なかでもブルネルは巨人です。大西洋定期航路に就航する鋼鉄の蒸気船も作っていますし、たくさんの橋も設計しました。のちほど紹介する《パディントン駅》(一八五四)もそうです。それからグレート・ウエスタン・レイルウェイという鉄道システム全体も作っています。
ほんの少し前まで、長く《晩鐘》《落ち穂拾い》が表わす風景だったところに突然時速一〇〇キロを超えた鉄のかたまりが走る、そんなことが一八〇〇年代半ばのイギリスで起きたのです。驚いて欲しいのですが、その蒸気機関車の平均速度は一〇〇キロに迫るものであったと言われます。西回りのブルネルのルートと東回りのルートと二つの鉄道会社が熱病に浮かされるように競争を始めます。フライング・スコッツマンなどという有名な列車によってスピードが競われたのです。もちろんそれにともないさまざまなテクノロジーの工夫も発生するわけです。
一八二〇年代にやっとロバート・スティーブンソンの父、ジョージ・スティーブンソンの鉄道がほんのちょっと走った。それから、三〇年もしないうちに、イギリスの富を背景にしてテクノロジーが熱病のようにフィーバーしたのです。このことがこの時代の技術、サイエンスへの圧倒的興味と集中を物語ります。

1──《アイアンブリッジ》 筆者撮影

1──《アイアンブリッジ》
筆者撮影

2──《パームハウス》 筆者撮影

2──《パームハウス》
筆者撮影

3──《ロイヤル・アルバート・ブリッジ》 筆者撮影

3──《ロイヤル・アルバート・ブリッジ》
筆者撮影

合理的なデザインの出現

《ロイヤル・アルバート・ブリッジ》は先日初めて見たのですが、大変興味深いものでした。こんなに橋の桁が高いのは当時は帆船だったからですね。この橋をどうやって作ったのか。このようなレンズ状の力学的構造物を製作、それを台船に乗せ現場へ運び、水圧を使ってリフトアップさせたようです[図4]。つまりこの形は、《アイアンブリッジ》とは異なり合理的なサイエンス/技術によって作られていると言えます。帆船の高さも設計の前提ですが、この川を閉鎖するルールは決まっており、現場で足場を組みながら作るやり方では期間が極めて長くかかる。そうしたなかで、スパンを二つに分けて、片方ずつ上げることで船の航行をディスターブすることを避けたのです。このようにいくつかの前提としての問題を解決した独創の答えとしてこの橋のデザインはある。僕がこの時代のものが面白いと思うのはそのためです。当然ながら参照すべき前例がないのです。前例がないからブルネルは自分で考えるわけです。船も作るし機関車も作るし、橋も架ける、その一つひとつに面白さと説得力、そして独創が共存している。
この時代は、面白くて新しいサイエンスや技術を根拠とする実験が自信をもってできるようになってきたと考えていいのでしょう。例えば、さきほど言いましたが「時速一〇〇キロで走ってくれ」というような今までになかった要求も増えてきています。そういう問題を技術者としてあるいは建築家として提案してみたり、あるいは自分で答えを探してみたりする時代に入っていったわけですね。ヴィクトリア時代というのは、いわゆる一五世紀中頃から一七世紀中頃までの大航海時代から徐々に培ってきた一種の知的な欲求が一斉に答えを見つけて走り出す時代という印象があります。
この橋は《フォース・ブリッジ》といいます[図5]。設計は、ジョン・ファウラーとベンジャミン・ベイカー。一八〇〇年代の終わり、一八九〇年に完成しました。スコットランドの首都・エジンバラの北部、フォース湾に建てられました。海の上ですからなるべく脚を少なくしたい。写真の向こう側は島を利用していたと思いますけれど、海中にケーソンを据え、そこを基礎として脚を建てて右と左に同じ分量だけ鉄骨を延ばしていく。そうして足場なしで海の上に延ばしていき、最後に小さなガーターでジョイントするというアイデアです[図6]。鉄はここではもうスチール(鋼)になっています。これもやっぱり下を船が通るわけですから桁は非常に高いところを通っている。全長は二五〇〇メートルほど、大きな架構部は三スパンで計一八二二メートルです。一スパンが五三〇メートルほどだったと思います。この橋はトーマス・バウチ設計のテイ湾に架かる《テイ橋》の崩落により、バウチからファウラーらへその計画が移されることにより実現したものですが、そのためもあってまったく新しい着想でデザインされています。しかもそれは工事のプロセス、素材の条件に極めて適合したものであるのです。

4──同、施工時のリフトアップの様子 引用出典=Picon Antoine, L‘art de l‘Ingenieur, Centre Georges Pompidou, 1997.

4──同、施工時のリフトアップの様子
引用出典=Picon Antoine, L‘art de l‘Ingenieur, Centre Georges Pompidou, 1997.

5──《フォース・ブリッジ》 筆者撮影

5──《フォース・ブリッジ》
筆者撮影


6──同、施工時の様子 引用出典=The centenary edition of Wilhelm Westhofen‘s  the Forth Bridge, Moubray House, 1989.

6──同、施工時の様子
引用出典=The centenary edition of Wilhelm Westhofen‘s
 the Forth Bridge, Moubray House, 1989.

テクノロジーを通して時代を把握する

一八五〇年に戻りますが、これはブルネルが作ったロンドンの《パディントン駅》(一八五四)です[図7]。先ほども言いましたが彼は機関車そのものを作り、駅を作り、橋も作りました。当時の英国の鉄道駅はどれも極めて規模の大きな施設ですが、これだけ壮大な駅が必要だったのでしょうか。もちろん蒸気機関車が大量の煙を出すから大きな高い屋根が必要だったのでしょう。非常に美しいです。
一五〇年前の駅が今日もまったくそのまま使えているということは、まさにこれこそサステイナブル・デザインということなのかもしれません。ペデストリアンデッキ、エレベーター、エスカレーターを増設するなど少し直して利便を向上させ、内部に別の新しいサーヴィス機能を入れたりしながら使い続けられています。こういうものが当然のように生きているわけですね。

技術はもちろん地域ごとの違いを見せるものでもあります。これは《ストックホルム駅》(一九二七)です[図8]。一見アーチ型の鉄骨でできた駅舎のように見えますけれど実は木造です。いまから一〇〇年ぐらい前にスイスで集成材の特許が取得されます。《ストックホルム駅》のアーチを構成する集成材はI型断面のもので一つひとつ分節したユニットなんです。まったく石造と同じように下から順番に組み上げていき中央頂部にキー・ストーンを入れて留める、《アイアンブリッジ》とどこか通じるものといえるのかもしれません。初めての技術はこうして試みられるのでしょう。木造であるのは北ヨーロッパが木材が豊富だということだけではなくて、おそらく冬の工事期間に人間の手が部材に触れても作業に支障をきたさないためでしょう。たとえば、零下二〇度とか三〇度で鉄を触ると皮膚がはがれてしまうのです。そういういろいろな条件のなかから選択されたものだと思います。
建設された時代を背景とする素材、工法、または時代の考え方、それら背景を憶測することは実に楽しい。鉄筋コンクリートもさほど長い歴史がないものだということはみなさんご存じだと思います。一八五〇年にフランスの庭園家J・モニエがスチールワイヤーを使ってコンクリートを補強した貯水槽を作ったことから始まります。憶測を可能とするためにさまざまな構築物が後世まで残されていることは重要です。それらを知りその根拠を想像してみることが、今デザインをするとき、私たちの思考の偏りを幾分かでも修正してくれるようにさえ思うのです。

先を急ぎましょう。これはミース・ファン・デル・ローエの《ベルリン国立美術館》(一九六八)です。さっきのブルネルの橋と同じように、この建築はまさにスラブを上げただけというのがよくわかります[図9]。つまりプロセスが形になって、それが合理的な場所、サービス、機能を作る。この説得力がこの建築の大事なところなのでしょう。特にミースの建築は、極端なまでに技術を組み上げ部材の断面を精査しディテールを磨き合理的なプロセスを経て作られています。
このスラブを引き上げるときを見たかったですね。もちろんブルネルの橋を上げたときも見たかったですし、あるいは《フォース・ブリッジ》が徐々に延びていって繋がったときも見たかったです。デザインした彼等は立ち会ったそのとき充実の只中にあったでしょう。私はこれらを見ながらそれを想像するのです。今これを見るときに、当時、技術を根拠とし最適のプログラムを構想し合理を追究した彼等の充実、その気分を僕らは頭のなかで想像しているのでしょう。
ミースの有名なテーゼ「Less is more」は、「より少ないものの豊かさ」ということから「より少なく、しかもより豊かなものを」と解釈を演繹できるのではないでしょうか。そうであればこれはまさにサステイナブル・デザインの求めるものそのものといえるはずです。
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8──《ストックホルム駅》 筆者撮影

8──《ストックホルム駅》
筆者撮影


9──《ベルリン国立美術館》 引用出典=Neue Nationalgalerie Berlin. Dreissig Jahre, 1998.

9──《ベルリン国立美術館》
引用出典=Neue Nationalgalerie Berlin. Dreissig Jahre, 1998.

意図的な貧しさが生み出す新たなクオリティ

現代、膨大な技術と膨大なテクノロジーと膨大な力を僕らは持ってしまっています。そのうえ、非常に消費的な社会で僕らは生活しています。そのなかでサステイナブル・デザインということを考えると、僕らがやれる次なる問題解決というのは意図的に貧しさを作ってみるというところなのかなという感じがするのです。太陽エネルギー利用などのいわゆるパッシヴ・デザインいうのはアクティヴ・デザインに比べて、ある意味では貧しい解決方法であると言えます。ある種の豊かさを忌避し、別の豊かさを求めていく宿題のヒントがそうした「意図的な貧しさ」を構想することだったりするのではないかと思うのです。その思考を進めていくことで、そこに出現するクオリティは石油を大量に使うアクティヴ・デザインとまったく違うものが生まれる可能性がある、そんな気がしています。

この建築はブラジル・サンパウロの《セスキ・ポンペイア・ファクトリー》です。これは貧しさが作った建築だと言っていいと思います。ブラジルのひとり当たりのエネルギー使用量は日本の一〇分の一以下で、日本が今日もODA援助している国、その郊外の住宅地にこの建築はあるのです。ドラム缶の工場を公民館に切り替えています。改修は最小限で、建物のシルエットも通路も既存のままだと思います[図10]。もちろん多少の整備はしています。しかし基本的には既存のままでギャラリーになっていたり、工房になっていたり、図書館になっていたり、食堂になっていたりします。そこにはプリミティヴではあるが適宜・適切な最小限のディテールが付け加えられているのです。この改修を計画したリナ・ボバルディは実にうまくこの仕事をしたてています。
ブラジルは日本のように公共施設がなんでもあるという国ではなく、地域にこれだけしかないという感じです。学校にも学びの機能のほかの機能はいっさいない、ですから放課後、子供たちは皆ここに来る。もちろん大人もです。ここでは地域、世代の分断がまったくないように見えるのです。結果としてのそういう合理というのは面白いなあと思うのです。彼らはそれを意図してやっているというより、貧しいから、たくさん作れないからそうしているわけです。もちろんプログラムも運用も優れているのだと思います。そして建築家の判断も優れています。リナ・ボバルディはイタリア人でありブラジルに移り住んだ女性建築家ですが、彼女のデリケートで適切なアーキテクトとしての判断がとても素敵です。こうしたコンバージョンは実に物語豊かな建築をつくる。われわれも学びたいものです。

これは同じブラジルのクリティーバ市です[図11]。一〇年ぐらい前、『日経サイエンス』にこの街のことが出ていましてたいへん驚いて数年を経て見に行ったことがあります。今のUIA(世界建築家連盟)のジャイメ・レーネル会長は当時この街の市長でした。先ほどのサンパウロと同様、この街も金がないわけです。街は混沌として交通はむちゃくちゃだったようです。そこでレーネルがバスを使うことで問題解決しようと考えました。三つに分節した一七〇人乗りのバスを走らせ、「駅」を整備して電車のように迅速に乗り降りする。バスのドアが開くと駅のほうのドアも開く。既存の道路を使い、交通網を整理する。小さな投資で、自分の財布にあった問題解決をしています。この問題解決の結果として出現したシステムの独特さというのは、世界中にどこにもなかったわけです。自分の問題を、たとえば金がないことも含めその問題の独特さ、デザインの条件として逃げずに考え、独自のやり方で片づけている。そういう意味では僕らがやっているデザインを超えているのではないでしょうか。「意図的な貧しさ」が力になるかもしれないと言ったのがそういうことなんです。ある覚悟をしてみて、僕らはこれを真似する。真似というのはデザインを真似するのではなく、この考え方ですね。そう考えたくなるくらいクリティーバの試みは問題に対するポジティヴで独特な答えの探し方だったのではないかと思います。

これはライネフェルデという東ドイツの街です。一九八九年にベルリンの壁が崩壊して、東ドイツの居住者が減った団地で、徹底して街の作り変えを試みている例です。既存住棟を減築しています。これは一〇〇メートルか一五〇メートルくらいの長い住棟でした。五階建てでしたが、上一階を取って四階建てにし、そのうえ階段を共有する二つの住戸によるユニットを一ユニットおきに撤去する、要は床面積を半減させているわけですね[図12]。上の一層も取っていますから半分以上に減っています。こんなことをやって新しい定住人口に合わせた新たなマスタープランに沿って街作りをしている。もちろん住戸は外断熱化して、新しい性能を確保、負荷を減らしながらクオリティを上げている。最小限の投資で、と言いながらここは建築実験場みたいになっていますから、かなりのお金が投入されていることは間違いないのですが、それでも連続性を確保しながらサステイナブルな都市計画をやろうということでEUの都市計画賞をもらっています。

次は有名な建物で、第二次大戦直後、ロンドンといえども貧しかった時代にできた《ロイヤル・フェスティヴァル・ホール》(一九五一)です[図13]。ここも今日に至るまで何度か大改修をしています。ごく最近、二年間にわたる大改修が終わったばかりだということです。これはオーデ ィトリウムの下のホワイエです[図14]。いつ行ってもここに人がいて、誰かが音楽を演奏しています。《東京文化会館》の一階のロビーみたいなところにいつでもたくさんの人がいるんですね。ずっと座って本を読んでいる人もいれば、ビールを飲んでる人もいる。日本の公共空間とだいぶ違うなという印象があって、要求を発見しそれに対する的確なサーヴィスが建築でもまだまだできるかもしれないと考えさせられます。つまり標準的なサーヴィスのレヴェル、クオリティのレヴェル、あるいはアイデアのレヴェルみたいなものをもう一歩も二歩も超えてですね、こういう場所をわれわれも作っていきたいし、そういう余計なお節介に近いもの、広い意味でのこちら側からの提案、アイデアを入れていきたいと思います。サステイナブルな建築とは市民に親しまれ、時代の要求に合わせ大胆、繊細に改修され使い続けられることです。そのための工夫とサービスがなにより求められることをこの事例は教えています。

10──《セスキ・ポンペイア・ファクトリー》 筆者撮影

10──《セスキ・ポンペイア・ファクトリー》
筆者撮影

11──クリティーバ市 筆者撮影

11──クリティーバ市
筆者撮影


12─ライネフェルデの団地 筆者撮影

12─ライネフェルデの団地
筆者撮影

13──《ロイヤル・フェスティヴァル・ホール》外観 筆者撮影

13──《ロイヤル・フェスティヴァル・ホール》外観
筆者撮影


14──同、ホワイエでのコンサート 筆者撮影

14──同、ホワイエでのコンサート
筆者撮影

日本におけるサステイナブル・デザインの可能性

これからは私の作品《長池ネイチャーセンター》(二〇〇一)です[図15]。日本でのサステイナブル・デザインの可能性というと僕はひとつは木造にあると思います。僕は稲山正弘という構造家と木造の建物をいくつかやっています。彼は木構造をめり込みとか変形を計算し解析します[図16]。日本の木造というものの持続可能性のすごさを僕らはなんとか追究できないかと考えています。今まで筋交、壁でしか解析できなかったものが、めり込み計算などによりさまざまな解析ができるようになり木造の考え方そのものが変わりつつあると考えています。昔の技術、伝統技術をそのままやるのではなくて、そうした伝統技術をも巻き込みながら、明日なにができるかというのを考えてみたいと思っているのです。

《いわむらかずお絵本の丘美術館》(一九九八)、これも僕の設計した建物です[図17・18]。これもめり込み計算を根拠にした構造計算をしているんですが、こうした架構は大工が非常に飲み込みがいい[図19]。そういうことで大工の頭のなかにある合理と僕らがここでやっていることはとてもうまくつながっているという確信がこのときはありました。つまり大工は僕らが提案していることをすごく喜んでいるはずで、大工たちが長い間考えていた合理の延長線上に発展するかたちがありうるということを彼らは理解したのではないかと考えています。ここでは地元の樹齢八〇年ぐらいの杉材で作っています。そうすると、二酸化炭素の発生量はとても少ないです。アメリカ産材料を持ってくるとか北欧産材料を持ってくるとかウッドマイレージといいますが、輸送にかかる二酸化炭素発生量がありますから。先ほどの話とつなげると「意図的な貧しさ」というのは皮肉にも金がかかります。プレカットや外材は、貨幣で比較すると驚くほど廉価です。大工を使い、地元の木材を使うことはとても金のかかることとなってしまっています。しかし、大工のテクノロジーの伝承は存亡の危機に来ているものの、それをうまく活かすことができれば間違いなく日本独特の新しい木造ができる。大工の総合的な腕力、合理的な思考回路みたいなもの、それを使える国は日本だけですね。しかも新しい貨幣/負の貨幣とでもいいましょうか、二酸化炭素をコストとして計ればこのほうが圧倒的に合理的でもあるのです。

最後に「デュラブル(Durable)とサステイナブル(Sustainable)」についてちょ っと触れたいと考えます。福田晴虔さんの著作にある話の受け売りです。デュラブルというのはジュラルミンのもとになった、永久不滅であるという単語です。サステイナブルとは相当違う概念です。つまりサステイナブルは、ちょっと言い過ぎかもしれませんがふらふらでよたよたなもの、ずっとペンキを塗りつづけないと腐っちゃうようなものを使い続けるという持続です。要は「貧しいもの」の「意図的」な持続です。本当にそんなものがあるかどうかは別として、黙っていても持続していくもの、そうした永久不変なものがサステイナブル・ソサエティ、サステイナブル・デザインの求めるものではなく、手を入れたり直したり支えたり、場合によってはもう一度考え直したりしながらずっとサステインしていくもの、そういうあり方こそサステイナブル・ソサエティなのだいうということです。考えてみればあたりまえですね。その一見面倒くさそうな宿題を面白そうに解く。その楽しさはサイエンス/技術がここ二〇〇年にわたり楽しんできたものでもある。われわれの宿題もその延長のなかで楽しみと独創性を秘めている。サステイナブルな思考はそうした思考そのものと考えていいのではないか。社会はそうした思考、独創にきっと共感と拍手をしてくれるはずで、その辺はポジティヴに思っていいと思います。

15──《長池ネイチャーセンター》外観 提供=野沢正光建築工房

15──《長池ネイチャーセンター》外観
提供=野沢正光建築工房

16──同、木構造架構アクソメ図 提供=野沢正光建築工房

16──同、木構造架構アクソメ図
提供=野沢正光建築工房

17──《いわむらかずお絵本の丘美術館》ホール 提供=野沢正光建築工房

17──《いわむらかずお絵本の丘美術館》ホール
提供=野沢正光建築工房

18──同、カフェ 提供=野沢正光建築工房

18──同、カフェ
提供=野沢正光建築工房

19──同、木構造の解析 提供=野沢正光建築工房

19──同、木構造の解析
提供=野沢正光建築工房

参考文献
●サイモン・ウィンチェスター『世界を変えた地図──ウィリアム・スミスと地質学の誕生』(早川書房、二〇〇四)
●土木学会編『人は何を築いてきたか──日本土木史探訪』(山海堂、一九九五)
●T・L・C・ロルト『ヴィクトリアン・エンジニアリング』(鹿島出版会、一九八九)
●齋藤晃『蒸気機関車の興亡』(NTT出版、一九九六)

質疑応答

難波和彦──僕はこれまでに野沢さんの話を断片的には聞いていましたが、まとめて聞いたのは今回が初めてで、ようやく全体がつながった気がします。みなさんは野沢さんのフットワークの軽さに翻弄されたかもしれないけれど、あちこち細かな話題を散りばめながら、最後には全体でサステイナブルというテーマに収斂していくという、とてもわかりやすい話で、僕は感動しました。
松村秀一──野沢さんとブルネルの組み合わせはまったく意外でした。ブルネルというのはなんか僕のなかでは大立て者ですよね。もうちょっと違う話をされるのかなと思っていたので非常に面白くお聞きしました。たぶん、野沢さんがおっしゃっているサステイナビリティとは、結局は社会全体の考え方ですよね。個々の人がどうこうという問題ではなくて、社会全体の受け止め方とか仕組みの問題とか。僕はなかなか楽観的に考えられないタイプなのですが、明るい未来を感じさせるものがあるという確信を持っていらっしゃる。そういう僕のために、例えばこういうところに出てるよというのがあれば教えていただきたい。
野沢──一番影響を受けたのは、レイナー・バンハムの『環境としての建築』(鹿島出版会、一九八一)です。あれは必読書です。原著が出版されたのは一九六九年ですから、三五年以上も前の本ですね。新しいものですと、齋藤晃『蒸気機関車の興亡』(NTT出版、一九九六)とか『蒸気機関車の挑戦』(NTT出版、一九九八)、杉浦昭典『蒸気船の世紀』(NTT出版、一九九九)、和辻春樹『随筆──船』(NTT出版、一九九六)などを思い出します。技術屋さんのモチベーションというのはみんな善意なんですよね。橋が落ちたりしますから後で反省したりするんですが。技術屋がストイックになったってしょうがないだろうと思います。
難波──ブルネルの話で僕がひとつ印象深く覚えているエピソードがあります。松村さんが言うように、当時の彼は王立建築家協会の重鎮で、一八五一年のロンドン万国博覧会の企画者でもあったので、立場上、会場の最初の案を設計しました。しかしこれが工期も費用も無視した重厚な案で、結局若い温室技術者のジョセフ・パクストンの《クリスタル・パレス》を引き出すことになったわけです。エンジニアとしての彼の若い頃の仕事は素晴らしいけれど、エンジニアも偉くなると芸術家かぶれして、途端に重厚な芸術作品を作ってしまうという笑えないエピソードがあります。パクストンでさえも突き抜けたのは《クリスタル・パレス》だけですね。たぶん優れたエンジニアというのは、自分がなにをやっているのかわかっていないあいだがいいので、美学的な面を自覚してしまうと、途端に変なことになるのではないでしょうか。
野沢──アーキテクトのほうがわかっていないのではないでしょうか。
難波──いやエンジニアもわかっていない。いい意味でわかっていないほうがいいのではないかと思うのです。わかっていないからこそ凄いことができてしまう。たぶん、パクストンは工期的にも費用的にもほかにやりようがなくて、必死で考え出した自分なりの構法によって《クリスタル・パレス》をつくったわけで、それが結果的にどういう空間になるのか、まったく予想もしていなかったと思います。できたあとに、自分のやったことの凄さに自分で驚いてしまう。それを自覚し次のプロジェクトに意図的に適用しようとした途端、どこかにブレーキがかかるというか、同じパターンをくり返すことになってしまうのではないかと思うのです。ブルネルもそうだったし、パクストンもそうだった。
今日の野沢さんの話に通底しているのは、やはり技術の重要性ですね。ブルネルやパクストンのようなエンジニアたちが生み出してきた技術が巨大化して、近代文明、近代文化、近代建築が生まれた。それが肥大化して今や地球環境を壊しているわけだけど、だから技術を捨てましょうということでは絶対に解決できない。むしろ技術をもっと繊細に、もっと細やかに、もっと高性能にコントロールしていかなくてはいけない。そこでかつてのブルネルたちが考えたような知恵が、もう一度必要とされている。鉄骨造そのものは確かにサステイナブルじゃないイメージがあるけれど、それを支えてきた技術や人間の知恵は、一九世紀以来洗練され蓄積されているので、それを否定してはいけない。そういう意味で、今日の野沢さんの話は鉄骨の話題から始まったと理解すると、とても話が通りやすいのではないでしょうか。
野沢──そのとおりですね。あと僕が建築の勉強をしてよかったと思うのは、建築には歴史の先生がいらっしゃるということです。
難波──東大工学部の図書館問題というのがあって、工学部のなかで図書館をすべて統括してしまおうという話があります。そういう動きに、建築学科だけが反対している。なぜかというと、ほかの学科は純粋にエンジニアリングだけで、歴史なんかに興味はないのです。エンジニアは最新の技術にしか興味がない。しかし建築は文化的な側面が重要で、新しさだけが価値ではない。
野沢──ミュンヘンのドイツ博物館に行かれるといいですよ。大英博物館のように植民地から持ってきたものはあまりない。だけどドイツ博物館には汽車、飛行機、鉄橋の模型や、ダムや河川管理の土木技術の書籍などがなんでこんなに並べるんだというくらいあります。そうした振り返る方法というの持っていない、過去になにを考えたのかわからないということは困るよね。
難波──僕の考えでは、そういうカルチュラルな面、歴史的な面があることが、その学問の成熟度を示していると思うんですが、工学部のなかでそういうことを主張しているのは建築学科だけです。
野沢──土木学会が出版した日本中の土木的ヘリテージを、登呂遺跡から始まって近代までずっと並べたすごくきれいな本があります。旅行に行くときに持っていくといい本です。建築であれランドスケープとか風景とか、文化財とかいろんなことを考えるのは僕たちの仕事に入っていると思います。あれは日本の土木系の歴史が作った見事な成果だと思います。だから歴史を体系化していこうという動きはほかの分野でも始まってはいる。
[二〇〇五年二月二四日]

>野沢正光(ノザワマサミツ)

1944年生
野沢正光建築工房主宰。武蔵野美術大学客員教授、東京藝術大学美術学部建築学科・横浜国立大学工学部建築学科非常勤講師。建築家。

>『10+1』 No.48

特集=アルゴリズム的思考と建築

>サステイナブル

現在の環境を維持すると同時に、人や環境に対する負荷を押さえ、将来の環境や次世代の...

>ルネサンス

14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようと...

>ミース・ファン・デル・ローエ

1886年 - 1969年
建築家。

>団地

一般的には集合住宅の集合体を指す場合が多いが、都市計画上工業地域に建設された工場...

>福田晴虔(フクダ・セイケン)

1938年 -
西日本工業大学教授/建築史。日本建築学会、建築史学会、米国建築史学会。

>難波和彦(ナンバ・カズヒコ)

1947年 -
建築家。東京大学名誉教授。(株)難波和彦・界工作舍主宰。

>松村秀一(マツムラ・シュウイチ)

1957年 -
建築構法、建築生産。東京大学大学院工学系研究科建築学専攻教授。

>レイナー・バンハム

1922年 - 1988年
建築史。ロンドン大学教授。