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討議:フォールディング・アーキテクチャー 横山太郎──《横浜大さん橋国際客船ターミナル》/ジン・ヨハネス──プロジェクト・スタディを交えて | 日埜直彦+今井公太郎+今村創平+吉村靖孝+横山太郎+ジン・ヨハネス
Folding Architecture: Crossing Views; Taro Yokoyama, "Yokohama International Port Tarminal", Gin Johannesヤ Project Studies | Hino Naohiko, Imai Kotaro, Imamura Sohei, Yoshimura Yasutaka, Yokoyama Taro, Gin Johannes
掲載『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険, 2004年06月発行) pp.47-62

フォールディング・アーキテクチャー──その実践の系譜 ソフィア・ヴィゾヴィティ  日埜直彦|訳
Sophia Vizoviti, “Folding Architecture, Concise Genealogy of the Practice”

二〇世紀末におけるまったく新しい建築を求める議論からフォールディングは登場した☆一。ここで簡潔にその系譜をまとめるにあたり、グレッグ・リンをゲスト・エディターとして迎えた『アーキテクチュアル・デザイン・プロファイル』シリーズの一冊、『フォールディング・イン・アーキテクチャー』★一をこのアイディアにまつわる最初期のマニフェストと考えることができるだろう。九三年に刊行されたこの号には、ハリー・コブ、ピーター・アイゼンマン、フランク・O・ゲーリージェフリー・キプニス、グレッグ・リン、バーラム・シャーデルらが参加し、自家撞着に陥りがちなデコンストラクティヴィズムの形式的理論に対し、そのオルタナティヴを求める論考とプロジェクトが収録されている。『フォールディング・イン・アーキテクチャー』は、その頃英訳が刊行されたジル・ドゥルーズの『襞──ライプニッツとバロック』★二から、ライプニッツのラディカルな解釈と、美術やその他の知的分野における現在の動向を分析するための理論的ツールとしてそこで展開されたバロックの理解を、その哲学的概念として借りている。
リンはその号へ寄稿した「建築における曲面──折りたたまれたもの、柔軟性、しなやかさ」と題する論考において、フォールディングを複雑で相容れないものが混在する現代の文化的文脈に対する、第三の建築的対応と位置づけている。それは統合と再編成を試みるネオクラシシズムやニュー・モダニズム、リージョナリズムとも異なり、また衝突と矛盾を強調するデコンストラクションとも異なる。complexity(複雑さ)とpliancy(柔軟性)の語源的共通性に着目しながら★三、異質性を包含しながらも連続性をもつようなシステムにおける、統合の強力な戦略的手法として建築におけるフォールディングは構想されている。多様な要素を包含するようにスムーズなレイヤーを付加するコンセプトが、地質学における鉱物の沈殿現象や、料理において素材をミックスするテクニックから、類推的に導入された。
ネバネバした粘液のような物質や柔軟でしなやかな物質に特有な形態が、新しい手法としてそこで検討されている。リンによれば曲面は柔軟な建築の普遍言語である。フッサールの言う「おおざっぱ」なジオメトリーは柔軟な形態について理解するうえで本質的であり、「完全」なジオメトリーの場合と対照的に、「高度」なジオメトリーはまったく同様に生成されるということがない☆二。それは標準的な点や寸法に還元することはできず、ただ解像度においてのみ捉えられうる。さらに多数の要素の関係を扱うにあたって有望なジオメトリーのパラダイムとして、リンはルネ・トムによるカタストロフ・グラフのしなやかでトポロジカルな面を導入している。
『襞──ライプニッツとバロック』★四においてドゥルーズは、バロックをその歴史的範疇をはるかに超えて、現代アートの評価にまで適用しうる拡張された意味において捉え、その特徴を以下のように列記している☆三。襞に関する理論からフォールディングによる建築の実践への展開を理解するうえでそれらはきわめて重要である。
1 襞:無限の継続的作用、最終的な収束に至るものではなく、むしろ連続し、無限へと至る。
2 内部と外部:果てしない襞は、物質と魂を分かちながらその間を走る。ファサードと閉じた部屋。内部と外部。
3 高みと低み:いくつかの襞へと分化していきながら、襞は高みと低みへ、それらをつなぐように拡張していく。
4 拡げられた襞:襞の折りたたみと対立するものではなく、むしろ折りたたみの継続として。
5 テクスチャー:素材の抵抗として。素材の折りたたまれ方によって、テクスチャーが現われる。
6 パラダイム:襞の物質的な構成要素(織物)はその表現形式を隠蔽してはならない。
ドゥルーズは折りたたみの作用が形成する連続的な襞の発生原理として屈折を考えている。彼の生徒であったベルナール・カッシュの言葉を引用しながら、彼は屈折あるいは変曲点を、ベクトル変換、射影的変換、無限に変化するフラクタル的相似変換、の三つの変形作用をともなう内在的特異性として定義した☆四。カッシュはまったく新しい技術的対象として対象体(オブジェクティル)の定義を提唱している。自動化された加工技術やNC加工などの判を押したような定型的形態に取って代わり、そうした技術によって作られた連続体は出来事を受け止める場をかたちづくる。この新しい対象はもはや一定の型によって形成されるものではなく、むしろ継起的に変容する一種の変調によって形成され、物質の連続的なヴァリエーションだけでなく、形式の連続的発展へと至る。九五年に刊行された『Earth Moves: The Furnishing of Territories』★五においてカッシュは、内部と外部の関係に関する折りたたみの実践、そしてそれを形成するフレームの技芸アートとして建築を再定義することを提案している。カッシュはランドスケープと建築の結節点として家具に注目しながら、屈折のイメージを新しい建築の規定とした。
おそらく九〇年代にもっとも影響力を持ったプロジェクトであり、ドゥルーズの議論を建築に持ち込んだもっとも初期の建築のデザインは、九三年のOMAによるパリのジュシュー・キャンパスの二つの図書館案だろう。大学構内に位置するパブリック・ライブラリーのためのこのコンペ案において、フォールディングは全体を組織するダイアグラムとして用いられるとともに、集積を可能にする立体的な手法として用いられている。コールハースはこの建築の連続的な床面を指して「ソーシャル・マジック・カーペット」という言い方をしている。床スラブが上にかぶさり下に潜りしながら連続的な経路を生み出し、「ねじ曲げられた屋内化された街路が建物内のあらゆる機能部分に面しながら相互を関係付けている」。図書館の体験が一種の都市的ランドスケープにおけるそれへと変換されていると言ってもよいだろう。立体的な手法としてフォールディングは、人体寸法からくる二・五メートルの断面的拘束を取り払い、図書館の内部空間をフラヌールのようにさまよい歩くことを促す。コールハースの著書『S、M、L、XL』★六に見られる紙を折り曲げて作られた模型は、単にコンセプトモデルであるだけでなく、建築の実践における新しい思考法とイメージを提起している。このデザインはファサードという概念を無視した建築のあり方の実例となっており、むしろ床面に意識は集中し、空間的な接続と社会的相互作用の触媒として考えられている。
ジュシューの連続する斜めの床の由来について、「斜めの地面」や「居住可能なサーキュレーション」といったポール・ヴィリリオのコンセプトを、先駆的事例としてここで明記しておかねばならないだろう。ヴィリリオとクロード・パランは建築と都市に関する一連のマニフェストを『Architecture Principe(建築の原理)』として六六年に出版した。そこでヴィリリオは「斜めの作用」に関する理論を展開している。ある傾斜をなす面は水平と垂直に規定されたこれまでの空間を陳腐化させる第三の空間的可能性をもたらし、斜めの平面は平衡を危うくすることによって建築物と身体の触覚的な関係を活性化する。静的な旧来の建築において水平方向と垂直方向に強く規定されている空間認識を、地面に対するある種の熱情を介して取り戻す場として斜面は構想されている。「建築はもはや視覚的なファサードによって統御されず、感受性の包括的全体としての人体と対応することになろう」。斜面は空間と重さの関係を変容させる。重力は感覚に影響し、「水平面において質量が運動に影響を与えないのに対して、斜面に立つ人間は下方へ歩みを速めるか、上方へゆっくりと進むか、いずれにしろ常に重力に抵抗することを余儀なくされる」★七。ヴィリリオは斜面に関するこの理論が幼年期の経験に由来すると述べている。ノルマンディーの浜辺にひっくり返ったり傾いたりしているトーチカのなかで、彼は初めて「不安定な空間」を体験した。ユークリッド空間における第三の座標面として斜面は人間の生きる場となり、そしてそのサーキュレーションは連続した空間を形成する。人間の活動がどのように斜面上に配置されるかは特定しえないが、傾斜の割合や物質の状態によって規定されるルネ・トムのカタストロフ・グラフのような、活動の予見性に関するいくつかの有望な関係の幾何学が必要とされる。
九〇年代は明らかにフォールディングにとって実り多い時期であり、居住可能なサーキュレーションとしての斜面は、当時の革新的な建築にもっとも豊かな成果をもたらしたコンセプトであった。ジュシューの図書館はフォールディングの議論を建築的実践に移し、一枚の表面によるプロジェクトに取り組む一群の若手建築家たちを世界中に産み出した。とりわけオランダにおいては、ランドスケープからの類推とともに構想された多くのプロジェクトが実現し、斜めの床は構造物の形態として使いこなされるようになった。そうした事例はあまりにも多く、ここでそのすべてを列挙することはしないが、いくつかの例を参照しておこう。OMAの一連の試行において、連続する斜めの床は折りたたまれた床へとさらに発展していった。九三年の《クンストハル》は、来館者や通過していく者、あるいは自動車のようなさまざまな種類の移動を包含する絡み合った動線そのものによって構成されている。九七年のユトレヒト大学の共用施設である《エデュカトリウム》においては、湾曲したRC床が実現され技術的な進化の到達点が示されている。バート・ルツマはこの建物について次のように述べている。「《エデュカトリウム》はまったく新しい空間体験を与える。どこまでが外部でどこからが内部かもはや定かではない。階段室どころかちょっとした段差さえそれと意識することなく、来館者は部屋から部屋へと移動し、建物に自然に入ってくる。階段がないわけではないのだが、階が相互に連続していることで階を上下することは意識されない」★八。
流れを連続的な表面に不可欠の指標と考えるならば、グッゲンハイム美術館と同様に自走式の立体駐車場もまた居住可能なサーキュレーションのプロトタイプと考えられる。乗り物の動線はフォールディングによる建築の組織化において理想的なプログラムである。この文脈では駐車場が通例参照されるものだが、自転車駐輪場もまた斜めの連続面に関する典型的な例である。アムステルダムに拠点を置くVMXアーキテクツ設計による九八年の《バイシクル・フラット》(二〇〇一)は、一本の連続した自転車用通路が折りたたまれたものと見なすことができる。アムステルダム当局は中央駅周辺の整備工事において駅前広場に置かれていた膨大な自転車を撤去することを計画し、二五〇〇台を収容する仮設駐輪場を設けることを決定した。これに対するVMXアーキテクツの提案は三層の仮設構造物で、長さにして一一〇メートルの折りたたまれた経路からなり、その経路の両サイドに自転車は駐輪される。この建物は基本的にはきわめて機能的にデザインされた収容施設であると彼らは言う。「既存の駅前広場に存在する一・二五メートルの高低差から三度の傾斜を持つスロープによるシステムが導かれ、自転車がそこに駐輪される。赤いアスファルトがカーペットのようにスロープに敷設された。自転車も通ることができる階段が近道としていくつか設けられてはいるが、自転車に乗る人はまず間違いなく斜路に沿って降りていくことを好むだろう。建物の見え方を決めているのは経済的なディティールと素材選択だが、しかしなによりも重要なのはスロープ自体が見せる彫刻的な形態だろう」★九。単なる駐輪場としての機能を超えて、この建物は新しい種類のパブリック・スペースとなり、アムステルダムという都市の現代的なアイコンとなっている。通勤通学のために使われているだけでなく、観光客も利用し、映画が撮影され、フリースタイルBMXをそこで楽しむ者すらいる。社会的相互作用を活性化するものとしてヴィリリオが唱えた、居住可能なサーキュレーションをこの建物は具現化している。
フォールディングによる建築の重要な特徴である連続した斜面はその後さらに展開され、構造物がそれ自身の形態を形作るという意味でむしろ〈折りたたまれた組織〉とでもいうべき新しい概念が現われてきた。ここではエリザベス・ディラー+リカルド・スコフィディオの作品を参照すべきだろう。
彼らの作品《バッド・プレス》において、男性用のシャツをさまざまにアイロン掛けする行為そのものが、標準化に対する批評となり、同時に現代的な意味における自己イメージの成り立ち方を転倒する。二〇〇二年に行なわれたニューヨークの美術館「アイビーム」★一〇のコンペティション当選案においては、折りたたまれた帯が空間形成とその組織化のための形式として採用された。新しい「アイビーム」は美術と技術に関する博物館であり、アーティスト・イン・レジデンスのためのスタジオ、教育施設、マルチメディアの教室、アートのためのシアター、デジタル・アーカイヴを備える。ビデオや映画、その他の動画イメージ、DVD、インスタレーション、二次元や三次元のデジタル映像、ネット・アート、音響、パフォーマンス・アートのような新しい媒体を用いるアーティストによる、先駆的な作品制作や展示をサポートするために施設は構想された。折りたたまれた二枚の帯は建物の形式的構成を可視化しており、それはデジタル・メディアのインターフェイスとなるとともに、それ自体が構造体でもある。「アイビーム」の折りたたまれた断面はそれ自体機能する。それは滑らかな層状のインテリジェント・スキンに封入された構造とインターフェイスの緻密な組織である。
最後に紹介する例であるfoaにより二〇〇二年に完成した《横浜大さん橋国際客船ターミナル》は、プロジェクトのスケールから考えても、その影響力から言っても、フォールディングによる建築の組織化として特筆すべきものだ。九五年の国際コンペ当選案において、アレハンドロ・ザエラ=ポロとファーシッド・ムサヴィは、フォールディングの特徴がそのデザインの隅々に至るまで活かされた一枚の面をプロトタイプとして提案している。連続的に形態が変化する一種の地形がそこで提案され、それはターミナルの屋上にある広場をその内部に侵入させるメカニズムであるとともに、パブリックスペースをターミナルの機能とそこで催されるイヴェントのインターフェイスにするための触媒でもある。建築家は次のように語っている。「ターミナルを包み込むパブリックスペースは、ゲートとしてのシンボリックなあり方を放棄し、旅行に伴う儀礼的な習慣を再定義し、業務を示唆する要素を排除したただのランドスケープを公共空間の反=タイポロジーとしながら、その機能の構造を再構成する」★一一。客船ターミナルというプログラムは、一般市民、旅客、訪問者、乗り物、貨物などが流れる、枝分かれしていく方向づけられた動線の束からなり、それらはレイヤーに配分され互いに交錯する経路となる。この建物を規定するコンセプトはトポロジカルな面であり、それはプログラム要素間を傾斜したり屈曲しながら滑らかに繋ぐ空間のシークエンスを生む。折り紙のように鋼板を折りたたんだこの建物の構造と建設の原理は、こうした空間的なコンセプトをさらに強化するものであり、建物の表皮と構造のありきたりの分離を打破する。七年間に及ぶ実施過程において、このプロジェクトの力点は建設にあたってのさまざまな問題解決を研究にもとづいて進めることへと移っていった。ザエラ=ポロは「このプロジェクトにおいて構造の考え方を発展させていくことが、実施にあたってのアイディアの最大の源泉であり、そうした発見の過程が広く知られたこのプロジェクトの姿をさらに素晴らしいものとした」と言っている★一二。さまざまなレヴェルにおける技術的問題の検討が、日本に拠点を置くSDGのエンジニアとのコラボレーションによって進められた。桁梁と折板を組み合わせた最終的な構造にいたるまでにはさまざまな構造プロトタイプが検討されている。折り紙のような原形から魚の骨のようなパターンへと発展することで、ターミナルホール上部の屋根に見られる折板構造が開発された。折板構造は単に視覚的なものではなく、むしろ部材の組み合わされ方に一貫する文脈を導入する局所的基準である。桁梁と折板による魚の骨のような構造は規則的かつ一般的な構造形式でもあるが、折板のどのユニットも、すこしずつ互いに異なった形状となっている。その幾何学的パターンは、桁梁の微小な角度で変化する複雑な曲線を規定するいくつかの円の接線をなし、それ自体屈曲しているターミナル全体の幾何学的ガイドラインに応じて変化する。このようして構造のパターンは無限に延長可能なヴァリエーションを生むのである。

結論──「フォールディング・アーキテクチャー──その実践の系譜」と題する本論は、基本的には九三年以降の一〇年間に展開されてきたいくつかの特記すべきプロジェクトとともに、襞に関する理論が建築の実践に与えた影響を記している。この概論の目標は「建築における形態生成プロセスとしてのフォールディング」と名付けられた大学スタジオの研究を、理論と専門性において基礎付けることにある☆五。
しかしここに記された系譜は、コンピュータにより生成されるデザインに関するドゥルーズ以降の議論の成果について割愛し、二〇世紀末時点の技術的視野を狭く捉えている。その点でカッシュとリンが近年取り組んでいる発展的研究は重要である。
ドゥルーズから導入されたさまざまな特徴はある世代の建築家の思考を活性化させた。その結果としてフォールディングは建築的な概念として定着し、その構造的性質は明確化され、いまではデザインの基本的素養として扱われるに至っている。この新しい建築的対象の実践的再定義における際立った属性を以下のよう命題に要約できるだろう。
1 延長:無限に連なる対象、連続的変化
2 多様性:多数の要素の絡み合った組織としてのオブジェクト、潜在的な相互作用
3 屈曲:屈折、傾斜、表皮の湾曲と非ユークリッド的幾何学
4 層状化:相互に対立する建築的事象をつなぐレイヤーとインターフェイス
5 連続性:表面と組織化のトポロジカルな属性の原理
6 流動性:境界の交錯、曖昧な境界分割と確率的なゾーニング
本論において示した研究を「襞、ドゥルーズと実践の再定義」と副題することによって、その意図はより明確になるかもしれない。新しい世代の建築家たちはこうした議論に基づいた教育を受けていることを思い起こしながら、われわれはより厳密で革新的な成果が将来現われるに至るであろうと期待するのである。

Title:"Folding Architecture, Concise Genealogy of the Practice" in Sophia Vizoviti, Folding Architecture: Spatial, Structural and Organiza-tional Diagrams, BIS Publishers, 2003.
Author: Sophia Vyzoviti
© Sophia Vyzoviti All Rights Reserved


★一──"Folding in Architecture", Architec-tural Design, vol.63, Academy Editions, 1993.
★二──Gilles Deleuze, Le Pli: Leibniz et le Baroque, Editions de Minuit,1988. 邦訳=ジル・ドゥルーズ『襞──ライプニッツとバロック』(宇野邦一訳、河出書房新社、一九九八)。
★三──Ibid., "Folding in Architecture", Greg Lynn, "Architectural Cuvilineality- the Folded, the Pliant and the Supple". 「差異化された場や異なるプログラムを結合するような、これまでにない連結には懐柔や共謀、柔軟性、しなやかさ、そしてしばしば狡猾な戦略が必要となる。文化的あるいは物理的文脈における異質性や不連続、固有の差異に対して、経済的、プログラム的、構造的しなやかさを備えた柔軟な形式によって対応することに現在多くの建築家が取り組んでいる。襞(pli)という概念から派生する、襞、柔軟性、弾力性、しなやかさ、襞付け、懐柔、共謀、複雑性、多様性のような多くの言葉は、現在現われつつある高密度の連結関係を備えた都市的感受性を叙述するため召喚される」(一一頁)。
★四──★二に同じ。
★五──Bernard Cache, Earth Moves: The Furnishing of Territories, Anne Boyman trans., Michael Speaks ed., MIT Press, 1995.
★六──Rem Koolhaas & Bruce Mau, S, M, L, XL, 010 Publishers, 1995.
★七──Enrique Limon, An interview with Paul Virilio, "Paul Virilio and the Oblique", Site and Stations-Provisional Utopia, S. Allen and L. Park eds., Lisitania Press, 1995.
★八──Bart Lootsma, SUPERDUTCH, Thames and Hudson, 2000.
★九──"Fresh Facts", NAi, 2002.
★一〇──http://www.eyebeam.org/museum/arch.html
★一一──foa, "Yokohama International Port Terminal", AA Files No.29, 1995.
★一二──Alejandro Zaera-Polo, "Roller Coaster Construction", verb_architecture boogazine, Actar, 2001.

訳註
☆一──フォールディング=foldingという言葉はfold/foldedのような派生語を伴い、その含意とともに日本語に移すことは困難である。加えてそもそもこの言葉はドゥルーズの著書の英訳『The Fold: Leibniz and the Baroque』から由来しており、原著の題名『Le Pli: Leibniz et le Baroque』の「pli」と「fold」の対応もかなり意訳的なものでしかない。さらに邦訳『襞──ライプニッツとバロック』の訳語との対応もある程度確保されるべきであろう。伝言ゲームのような混乱を整理するため、ドゥルーズの概念としてのfoldについては邦訳に従い「襞」、建築における考え方・手法としてのfoldingについては単に「フォールディング」、動詞としてのfoldについては「折りたたみ」と訳出することとした。そのほかにも訳文にわかりにくい点が多いかもしれないが御寛恕願いたい。また本論におけるドゥルーズの概念の紹介は要約というよりも前後不問の抜粋であり、ここに訳出したものを読んで意味が通じるか疑問がないわけではない。可能な限り訳語の統一を図っているのでドゥルーズの議論に関しては邦訳を参照していただきたい。
☆二──ここでリンが言及しているのはジャック・デリダが長大な序文を付けたことで知られるエドムント・フッサール『幾何学の起源』(田島節夫ほか訳、青土社、一九八〇)と思われる。「おおざっぱ」、「完全」および「高度」と訳出した語はそれぞれ「unexact」、「exact」、「rigorous」であり、『幾何学の起源』の邦訳三〇〇頁から相当と思われる訳語をあてた。いずれにしても意味が伝わりにくいと思われるため補足すると、フッサールは二〇世紀初頭に哲学において顕在化していた形而上学の正当性の危機に対して答えるためにいくつかの論文をまとめており、『幾何学の起源』はそうした文脈で書かれた一草稿である。幾何学においては、例えば面積を持たないものとしての直線ないし線分のような、形而上的な図形の性質が扱われる。「完全」な幾何学とはこのような普遍的形式によって捉えられる形状のことであり、「おおざっぱな」幾何学とは建物の設計、土地や道のりなどの測量のような実践的な場面における「完全」でない形状を指す。ここでリンが言っているのは、フォールディングが扱うような不定形な幾何学においては、「完全」な形状のようには幾何学的な形状の定義が不可能であること、『幾何学の起源』の言い方を借りればある精度において「等しい部分を数えて量を計る」ことになることだろう。伝統的な建築的幾何学に対してオルタナティヴな幾何学の可能性がここで念頭に置かれているものと思われる。
☆三──ジル・ドゥルーズ『襞』六二頁参照。
☆四──同書、二九頁参照。
☆五──このエッセイはSophia Vizoviti, Folding Architecture: Spatial, Structural and Organizational Diagrams.として出版された、デルフト大学建築学部におけるフォールディングを基本的なメソッドとして採用した造形演習の記録に付された論文である。

フォールディング・アーキテクチャーの背景と展開、その可能性 日埜直彦

日埜──フォールディングについては、すでに雑誌メディアなどを通じてヴィジュアルな紹介がされていますし、ネットなどでもその種の情報はたくさんあります。ただ個人的な印象としては、それは要するに新奇なヴィジュアルとして取り上げるもので、その背景にある考え方や文脈などを伝えようとするものではなかったのではないか。そういう違和感から、僕自身がそれに傾倒しているわけではないのですが、今回フォールディングをテーマとしてみようと思いました。
訳出した論文を含むソフィア・ヴィゾヴィティの『フォールディング・アーキテクチャー』[図1]は、いわゆる名著の類ではないと思いますが、フォールディングという建築の考え方がどのように根づきつつあるのかよくわかる本です。本の内容はデルフト工科大学におけるスタジオの記録で、紙を折りたたんで三次元の形態を作るような造形演習から、素材の意味、プロセスの記述法などの建築的な問題に目配りをしつつ、建築に引き寄せていく過程が収録されています。前出の論文は、その背景をなすフォールディングというアイディアの系譜をダイジェスト的にまとめたものです。ざっとこの論文をパラフレーズしながらフォールディングの事例を紹介し、それを枕にして、フォールディングについて具体的に考えていきたいと思っています。
フォールディングが現在のような広がりを持つに至るきっかけとして『アーキテクチュアル・デザイン』シリーズの一冊、『フォールディング・イン・アーキテクチャー』(一九九三)が挙げられています。アイゼンマン、キプニス、グレッグ・リンといった東海岸の建築家やゲーリーなどが、デコン以降のトレンド・セッティングを狙ってまとめたもので、これがマニフェストとして広く影響を与えたというわけです。ここですでにフォールディングに関する基本的な思想的文脈と建築的問題が提示されています。その本のゲスト・エディターも務めたグレッグ・リンは、フォールディングを「複雑で相容れない要素が混在する現代の文化的文脈に対する第三の建築的対応」と位置づけています。つまり、建築がバラバラに分裂したものではなくひとつの姿を持ち、かつ、その中におさめるべきものが本質的にグリッドに埋め込むことができない場合、一個の建築はその全体性をどのように獲得するかという問題です。ネオクラシシズムやいわゆるネオモダニズムにおいてはスタイルによって縫合することで統合と再編が試みられ、デコンストラクションやディスプログラミングなど八〇年代の問題は衝突あるいは矛盾を強調する。そしてフォールディングはそれらとは違う第三の在り方であるという言い方です。折りたたまれたようなフォールディング特有の形状とともに、緩衝帯というか、ある種のスムーズなレイヤーで包み込むことで全体性を与えるような手法が考えられています。
哲学者ジル・ドゥルーズの『襞──ライプニッツとバロック』は、フォールディングの理論的バックボーンとしてしばしば参照されています。全然違う次元から考えている建築家もけっして少なくないのですが、フォールディングとこの哲学書に密接な関係があること自体は事実でしょう。ドゥルーズは「何かが名指される」ということを問題にしています。例えば結局は地面の連続的変化であるランドスケープのある一部分を切り出して、われわれは山と呼ぶわけですが、このように世界からある具体的な対象が浮かび上がる個体化のプロセスにドゥルーズは着目しました。個体化とはある拡がりのなかでなにかしら具体性を持った対象となる(である)ことです。これを『襞』では「バロック」を参照しながら説明しています。図はドゥルーズ特有の意味深なダイアグラムですが、この図の下側が物質的な世界、上は精神的な世界、その間に襞が走るという言い方をしています[図2]。バロック建築において折り重なる豊かな襞が固有の空間を形成しているというわけです。
『襞』に限らずドゥルーズ思想の中期には、量子力学における波動関数や受精卵の発生のプロセスで生じる襞(原口陥入)、脳における襞、プレートテクトニクスが形成する巨大な褶曲、果ては『不思議の国のアリス』のいわゆるカバン語(文字列の折りたたみ)のような例を見ながら、この個体化に関して考察が加えられます。波動関数や褶曲は、われわれがある対象と見なすものが分化、析出するプロセスと密接な関係がある。無限に延長する表面は襞の生地であり、襞は事物の個体化を成し遂げる動因であるわけです。そうしたドゥルーズの思想の集大成とも言える『襞』の議論は、バロックを扱うから建築と関係があるというわけではなくて、例えばある空間が固有性を持ち、見定められるまとまりを具えることの本質を、図3に見られるような表面の凹部の生成として捉えているわけです。フォールディングは実際そういうことをかなりリテラルにやっているでしょう。
ヴィゾヴィティ論文では、建築においてフォールディングが具体化された最初の例としてOMAの「ジュシュー大学図書館」を挙げています[図4]。斜めの床やスロープによって要素空間を大きな経路として連続させ、社会的相互作用の触媒として建築が作用するという言い方をしています。ヴィリリオとパランが『Architecture Principe(建築の原理)』で展開したオブリーク・サーキュレーションの議論[図5]、近代建築的な平面/断面、水平/垂直といった規律に対して、斜めであることの可能性がそこで問われていたわけですが、「ジュシュー」はそうした机上のアイディアの現実化でもある。この時期のOMAはラディカルな三次元的操作を追求していましたが、それはフォールディングの態度に通じるものだったかもしれません。実現はしませんでしたが、「ジュシュー」はフォールディングの文脈において確かに重要なプロジェクトだったと思います。結局経路によって組み立てられる建築は《クンストハル》[図6]において実現されました。斜めの床はその後特にオランダでは実践的なヴォキャブラリーになりますが、その先駆的実例ということができるでしょう。面を巻き込むことで空間を形成するというフォールディングの典型的な操作は《エデュカトリウム》[図7]で実現されます。
これはフランク・O・ゲーリーの《ウォルト・ディズニー・コンサートホール》[図8]です。ゲーリーの事務所では、フランスの戦闘機メーカーが作っているCADソフトを使っています。かつてPCレヴェルの三次元CADで扱える曲面幾何学はメタボールぐらいしかなかったのですが、九〇年代に入りNURBS(Non-Uniform Rational B-Splines)などパッチを扱えるソフトが出てきます。八〇年代の矩形をチルトさせたデコン的な形態と九〇年代以降のフォールディングという対比は、身も蓋もない話ですが、よく認識しておく必要があるでしょう。CADで扱える形態─スタディーできる形態─プレゼンテーションされる形態という連鎖はテクニカルな問題に過ぎないようですが、それだけ現実的です。こうした設計技術の問題に対してゲーリーなどは非常にシリアスに取り組んでいますね。
次にVMXアーキテクツによる《バイシクル・フラット》[図9]です。吉村さんはご覧になったことがありますか。
吉村──ええ。フォールディングの傑作かどうかは別にしても面白い建物です。アムステルダムでは自転車専用道の舗装がどこも赤色で、それがそのまま折り畳まれたような駐輪場になっています。
日埜──自転車で上り下りをする、斜めという条件に基づく提案で、こういう斜面のプラクティカルな扱いはオランダにおいては必ずしもトリッキーではない。
次はディラー+スコフィディオによる《バッド・プレス》[図10]です。彼らはアメリカ東海岸の建築家ですが、《バッド・プレス》のように折りたたみと固有性の関係をコンセプチュアルに考えながら、「アイビーム」[図11]のプロジェクトのように建築の可能性を執拗に追求している。形式の可能性を提示しようとしていて、オランダとは少しニュアンスが違うと思います。
次にfoa《横浜大さん橋国際客船ターミナル》です。連続的に形態を変化させていく一種の地形が提案され、ターミナルの屋上にある広場を内部に侵入させるメカニズムが同時に、パブリック・スペースとターミナルの機能が交錯するようなインターフェイスになっている。プログラムとその解き方のストレートさ、あるいは規模において、やはりこれは特筆すべき貴重な実現例でしょう。日本の高度な建設技術がフォローすることでかつてない建築ができている。彼らは昨年「BBC音楽ホール」のコンペに勝ちましたが[図12]、これも今のところは実現する方向で動いているはずです。
フォールディングに関するもので訳文に登場しなかったものを見ておきます。オランダの建築家によるもので、実現を期待されているメジャーなプロジェクトを挙げれば、UNスタジオの「メルセデスベンツ美術館新館」[図13]があるでしょう。アシンプトートもやはりフォールディングによるアグレッシヴな提案をしていましたが、UNの案が実現することになっています。グッゲンハイム美術館へのオマージュみたいな提案です。
これは実現の見込みはもはやないようですが、ピーター・アイゼンマンによるスペイン・ガリシアの「文化都市計画」のコンペ勝利案です[図14]。サンティアゴ・デ・コンポステーラのすぐ近くで、地形を作りその下にプログラムを格納している。東海岸のフォールディングをやっている建築家のなかにはたくさんアイゼンマンの弟子がいますし、そもそもアイゼンマンの影響下で『フォールディング・イン・アーキテクチャー』が出版されてこの流れが生まれたわけで、『ANY』会議などを見てもその関係はかなり生々しい。アメリカでマーコス・ノヴァックやマイケル・ベネディクトなどがいわゆるヴァーチュアル・アーキテクチャーの文脈でやっていた、過激な形態とインターフェイスとしての建築という文脈もまた、フォールディングのルーツとして考えられるものと思います。認知心理学などを援用してシリアスに情報空間と建築の関係を考えている人たちもいました。アシンプトートの「ヴァーチュアル・グッゲンハイム」の提案もこの文脈をふまえている。
フランスではポンピドゥー・センターの上のレストランがフォールディングの実例になるでしょう。アルミパネルの床表面が隆起してブロッブ的な形態のパーティションを形成し、あるスペースを作っています。ドゥルーズの弟子であったベルナール・カッシュが家具スケールの実験をしながら理論面をさらに追求したり、フランスもそれなりにやっている。foa以外のイギリスの動向については今回紹介しませんが、もちろんザハ・ハディドのようなスターもいるわけですし、けっして消極的であるわけではない。フォールディングはけっして特殊なものではなく、あちこちでこの問題に関する試みがなされているというのが現在の状況でしょう。

1──Sophia Vyzoviti, "Folding Architecture", BIS, 2003.

1──Sophia Vyzoviti, "Folding Architecture", BIS, 2003.

2──聖堂のスケッチ 出典=Gilles Deleuze, Le Pli: Leibniz et le Baroque, Editions de Minuit, 1988.

2──聖堂のスケッチ
出典=Gilles Deleuze, Le Pli: Leibniz et le Baroque, Editions de Minuit, 1988.


3──凹部生成のダイアグラム 出典=Gilles Deleuze, Foucault, Minuit, 1986.

3──凹部生成のダイアグラム
出典=Gilles Deleuze, Foucault, Minuit, 1986.

4──OMA 「ジュシー大学図書館」 出典=OMA, S, M, L, XL, 010 Publishers, 1995.

4──OMA
「ジュシー大学図書館」
出典=OMA, S, M, L, XL, 010 Publishers, 1995.

5──オブリーク・サーキュレーションのスケッチ 出典=Paul Virilio, Claude Parent, Architecture Principe 1966 et 1996, Les Editions de l'Imprimeur, 1996.

5──オブリーク・サーキュレーションのスケッチ
出典=Paul Virilio, Claude Parent, Architecture Principe 1966 et 1996, Les Editions de l'Imprimeur, 1996.

6──OMA《クンストハル》 出典=OMA, S, M, L, XL, 010 Publishers, 1995.

6──OMA《クンストハル》
出典=OMA, S, M, L, XL, 010 Publishers, 1995.

7──OMA《エデュカトリウム》 出典=www.uu.nl/educatorium/

7──OMA《エデュカトリウム》
出典=www.uu.nl/educatorium/

8──  フランク・O・ゲーリー 《ウォルト・ディズニー・コンサートホール》 出典=www.tenlinks.com/

8──  フランク・O・ゲーリー
《ウォルト・ディズニー・コンサートホール》
出典=www.tenlinks.com/


9──VMXアーキテクツ《バイシクル・フラット》 出典=www.h2olland.nl/h2o/

9──VMXアーキテクツ《バイシクル・フラット》
出典=www.h2olland.nl/h2o/

10──ディラー+スコフィディオ《バッド・プレス》 出典=www.bacus.org/

10──ディラー+スコフィディオ《バッド・プレス》
出典=www.bacus.org/

11──ディラー+スコフィディオ「アイビーム」 出典=www.artnet.com/

11──ディラー+スコフィディオ「アイビーム」
出典=www.artnet.com/

12──「BBC音楽ホール」foa案 出典=www.kultureflash.net/

12──「BBC音楽ホール」foa案
出典=www.kultureflash.net/


13──UNスタジオ「メルセデスベンツ美術館新館」 出典=www.unstudio.com/

13──UNスタジオ「メルセデスベンツ美術館新館」
出典=www.unstudio.com/

14──「文化都市計画」ピーター・アイゼンマン案 出典=www.geocities.com/lecorbisier/peter/ petercc.html

14──「文化都市計画」ピーター・アイゼンマン案
出典=www.geocities.com/lecorbisier/peter/
petercc.html


今回はフォールディングをとりあえず広く見ようとする会です。幾何学的形式、建築論の歴史、空間の組織化と形態のダイレクトな関係、テクトニック、設計技術、情報と、フォールディングの問題はこれくらいの幅を持って広がっている。例えばデコンの場合、形式は意識にあったけれど空間の組織化における着目点はあまりなかった。ヴォキャブラリーも比較的単純で、テクトニックへの関心もほとんどなかった。そういう比較をして意味があるかどうかわかりませんが、フォールディングのほうが豊かな幅を持った問題だと言うことはできるんじゃないでしょうか。そしてさらにその追求が波及的にほかの水準の展開を要求するようなポジティヴなフィードバックができつつある。分節された近代的な要素空間に対して流動性、連続性のさまざまなあり方を試し、そのことで多様性と複合性を受け入れる容器であろうとしている。テクトニックのレヴェルで抱える困難がほとんど不合理に見える場合さえあるかもしれませんが、そこに現代的な技術を注ぎ込むことで可能になる建築のあり方が確かに存在する。フォールディングやブロッブが一般化するとは思わないけれど、出発点がある程度共有できるものであるなら、そこにある種の期待を持つこともできるのではないか。駆け足ながらもフォールディングが展開している問題の拡がりを紹介しましたが、そういった話を出発点として考えることができればいいと思います。
今井──まず思考レヴェルが抽象的な水準に留まっているのではないかという気がしています。素材という側面はどう作用しているのでしょうか。例えばグラスファイバー補強したコンクリートとフォールディング建築の関係などについても考えるべきではないでしょうか。
日埜──フォールディングは現在展開している途上のコンセプトだと思います。そして抽象的な議論をするだけではなくて、リアライズさせていく努力のなかでテクトニックな水準に問題を波及させていっている。むしろそのことを肯定的に見るべきではないかと思います。
今井──またフォールディング理論は東海岸発とありましたが、建築の実作は多数、日本でできているのではないでしょうか。《横浜客船ターミナル》だけでなく、妹島和世の《マルチメディア工房》などもまさにコンセプト自体が、屋根が地続きに地面につながるといったことに由来しているわけです。理論からトップダウンするよりも、そういう方向ででてきたアイディアだと考えたほうが自然です。ところで、《横浜客船ターミナル》の屋根の折板構造と床のフローリング部分では意味が全然違いますよね。折板部分のシェルは多様な形をとることができるという構造表現の延長でしかなく、フローリングの部分にフォールディング建築の魅力が凝縮しています。ところが、あのフローリングは構造体ではなく、それゆえに表現が可能になっている。考え方はフォールディングでも実際の解決はシェルであると言っていいのではないでしょうか。
今村──状況に沿って作られたものは日本にもヨーロッパにも実現している。では、なぜ理論的なバックアップが日本では弱いのか。例えば日本では、コールハースなどがやっているものを形態として受け入れ、工法的にもよっぽど上手く、スタイリッシュなものを作るけれど、できあがったものは格好いい、気持ちいいというところに流れてしまう。日埜さんはそこを整理したいのでしょう。一方で、フォールディングの理論的祖をドゥルーズの『襞』まで遡るとされても、本当にそこを根拠にしていいのかがわからない。自然界の空間定義を描写するためにユークリッドでない新しい幾何学を使うとか、エコロジーなどと絡み合って新しい形態が出てくるということならばわかります。しかし『襞』は、基本的にライプニッツ哲学の解釈であって、それは現代建築とはまったくといってよいほど直接的な関係はない。
日埜──ドゥルーズは、なんらかの襞の作用によってある固有性、例えばある場が生成されるということについて考えたわけです。基本的にドゥルーズは物質的な襞について議論しているのではなく、その水準は建築のように具体的ではありません。ただやはり概念がイメージを喚起する力は強いもので、例えばドゥルーズのイメージに「無限の延長」があったことと、ランドスケープや地形の拡がりのなかに建築を連続させていくフォールディングのイメージに関連性を見るのは自然だと思います。
今村──断片的に読んでいるだけですが、僕の印象としては、英語訳のほうが意味を取りやすい。少なくとも、この日本語によるドゥルーズの襞の概念から何かを理論的に展開するのは、かなり困難ではないか。
日埜──建築に対する考え方が再検討されるとき、コンテンポラリーな哲学や思想に影響を受けるのは自然なことだと僕は思っています。ネタとして使うのとは違ったレヴェルでドゥルーズを読み、それを建築的に捉え直す自然なフィードバック・ループをつくる人もいる。そういうことじゃないでしょうか。例えば東海岸の人たちは極めてセオレティカルなレヴェルへの関心が強く、建築そのものとすぐには結びつかないような議論をどうも相当シリアスにやっている。日本語訳の問題というよりも、もしかしたら日本語で建築を考える地平の問題かもしれませんね。
吉村──ヨーロッパ発のフォールディングはもっとプログラム寄りですね。形態が似ているものをすべからくフォールディングとくくってよいならば、日本にも優れたフォールディングの作品があると思います。
日埜──逆にフォールディングで本当に面白い建築が出てきたときには、日本の建築家もスタイルとしてやっちゃうでしょう(笑)。まぁおそらくそれなりに上手にやる人が出てくるんじゃないですかね。
今村──日本人はものとして受け取るので、即物的に空間的魅力があるかといったことばかりが話題になるのではないでしょうか。一方海外では深読みをして、先端を行っているという意識があり、その姿勢は正しいといった感覚もあるのではないでしょうか。
今井──フォールディングの理論は、位相幾何学に通ずる部分が多いですよね。カタストロフ理論も日本はすでに体験していて、最も日本の住宅が輝いていた頃、六〇─七〇年代の原広司伊東豊雄の住宅作品などに適用されています。だから理論的な体験は終わっている気がしてしまう。
日埜──フォールディングをやっている人たちは今すでにできている実例を目指してやっているわけではなく、こんなことができるんじゃないかというレヴェルで思考しているのでしょう。僕がフォールディングを面白いと思うのは、特定の形がなにかを解決するというレヴェルではなくて、空間の潜在的な可能性に触れる部分なのです。
今井──例えば原広司自邸(一九七四)や伊東豊雄《黒の回帰》(一九七五)など、日本の小住宅では位相幾何学が高い水準で実験的に試されていて、ものになる水準ではコンヴェンショナルな幾何学に整合するように整理されている。抽象的な水準とものにする水準とを明確に分けているから、形態的な一致は期待しなくていいんです。ところが、フォールディングはそれら二つの水準を無理矢理一緒に捉えているように思う。抽象的なコンセプトをなぜ戯画的にそのままの形に作る必要があるのかわからない。
日埜──作ってみたときにわかる(笑)。例えば垂れ壁が一〇〇ある場合と一〇〇〇ある場合、位相的に見れば変わらないけれど、実際建築的にはまったく違うわけです。トポロジーで捉えたときに抽象化されてしまう部分を、ばか正直にやってみることで見えてくる水準があるだろうと思います。
今井──今まで見てきたフォールディング建築のなかで、最もエポックメーキングだと思ったのは、やはりOMA「ジュシュー図書館案」です。斜めの床の集積ですが、折りたたまれて位相的な反転もしているし、幾何学的に見ても格好いい。フォールディング建築は最初が一番よかった(笑)。複雑に褶曲させるよりも、単純に斜めの床が貼ってあって、斜めの床が人間にどのような作用を及ぼすかを原理的に考えている気がします。形態操作自体に固執せず、ダイレクトに感性に訴えるアフォーダンス的な建築といえるかもしれません。
今村──コールハースの事務所のスタッフの間では、去年くらいからオスカー・ニーマイヤーがお気に入りだとの噂を聞いたことがあります。ニーマイヤーの建物は、スーッと書かれた一筆書きがそのまま建物になるんです。何かわかるような気もします。
吉村──MVRDVも、六〇─七〇年代くらいのブラジルの建築をよく参照しています。パウロ・メンデス・ダ・ローシャのような、フォールディングというよりはランドスケープに近い曲面が、コンペの初期などにときどき現われていました。ヴィニー・マースはOMAで「ジュシュー図書館案」を担当していましたから、脈々と続いているのでしょう。
今村──フォールディングではありませんが、ガウディの建築は一見グチャグチャだけれども、構造的整合があるから説明がつくとされています。
日埜──南米の建築を見るときは、いい意味で誤読しようとしているのではないんでしょうか。置き去りにしたもののなかから今の視点で拾い上げられるものがあるんじゃないかというように。あるいは遠藤秀平さんのコルゲートのように、可能性をズラすことで潜在的な可能性を見つけるようなやり方もあるでしょう。
今井──以前出した話題で言えば(本誌No.33参照)、インフォーマルかインフォーマルじゃないかということですよね。もともと単純なものをひとつの面で作るときそこにカタルシスはないわけですが、ある程度の乱雑さや複雑さがひとつの表面によって回収、統合される瞬間にある種の快感があるわけです。強いて言えばそこにフォールディングをやっている動機を感じます。
吉村──フェリックス・キャンデラのHPシェルなんかはフォールディングじゃないわけですね。でもたとえば、MVRDVがアメルスフォルトにつくったオフィスビルは、床が壁になりそれがまた床になって波状の断面を見せています。しかし曲線はまったくなし。非常にスタティックな幾何学に則っている。あれはフォールディングなんでしょうか。
日埜──そうだと思いますね。床・壁・天井というような分節を外すことはフォールディングの考え方のなかでも特に重要なアイディアだと思います。あえて物質的表面として一段階抽象化することでヒエラルキーを崩しているわけですよね。
今井──ひとつの面の一部として解釈すればフォールディングになり、床を形式として捉えれば普通の建築になる。やはりレトリックではないでしょうか。もちろん斜めになることで中間項が出てくるわけですが、それを直角に折り曲げたとき、それはフォールディングではなくなってしまうということでしょうか。
吉村──先程のオフィスビルもレトリカルな手つきがディテールに表われています。スラブでは煉瓦を横貼りし、壁ではそれを縦貼りにする。折り曲げた操作を補強するレトリックです。
今井──しかし、ヴィリリオとパランの「オブリーク・サーキュレーション」はレトリックではなく本当に床を斜めにしてしまいますよね。今までの建築は水平と垂直だから「+」で、斜めの建築は斜めと斜めで「×」であり、より意味があると。それで信用できなくなった(笑)。
日埜──繰り返しですが、積極的な意味が発揮されるかもしれないという期待を持てるかどうかでしょう。オランダの建築家たちはそれを使いこなそうとしているのだろうし、その意味で面白い建築も出てきている。やれる、やってしまうというポジティヴさに対し敬意を表わしたい。
今村──日本の大学は、どこまで実験していいのか、落とし所に暗黙の了解があるという点がいやらしいですよね(笑)。学生の案はコールハースの真似ばかりでオリジナリティがないと言う一方、アヴァンギャルドなものを出すと建築をわかっていないと言われる。基本的に、探求する場ではなく、教育機関なのでしょう。さらに、日本の建築学は工学部に属しますから、哲学や生物学を含むフォールディングの話題は大学では扱いづらい。やはり日本では新しい建築言語は育たないのでしょうか。一方、アメリカの東海岸などでは大学や大学院で一週間も四角い紙を折り続け、理屈や根拠、セオリーを考えるわけです。そのようにして形態の問題を考え、理論武装する。アイゼンマンたちは哲学者などを呼んでさかんにディスカッションすることを日常としていたわけです。
日埜──単純に訓練の問題もありますよね。CADの曲面幾何はパラメーター自体を理解することに一定の訓練が要求される。それをネグレクトすることで学生が可能性に接近することが難しくなる。大学の先生がフォールディングに対してアレルギーに近い態度を示すのであれば不幸なことです。別に教えなくてもいいけれど、許容したっていいんじゃないか。そのことがフォールディングをヴィジュアルな対象としてしか受容できない状況の遠因になっているのかもしれない。
今村──ゲーリーの形態は戦闘機を作るCADがないと実現できないようですが、コールハースのプレゼンに見られるような素朴な方法をとっても、かなり革命的なスタディができるはずなんですが。
横山──《横浜大さん橋国際客船ターミナル》は、以前勤めていた構造設計集団SDGで基本設計から現場が終わるまで携わらせて頂きました。foaと僕らがどのように作っていったのか、最初から過程を追ってお話をしていきたいと思います。
ダイアグラム的には横浜スタジアムと山下公園に通じる大桟橋という見方ができます。歴史のある場所になにを作るかというコンペでした。foaはここに公園を作る案を入れ込もうとしていました。
街からフェリーに乗るためのダイアグラムとして動線を考え、彼らは「No Return」という言葉を使い続けました。なるべく動線、空間のつながり方を連続したものにして、好きなところに行けて、戻って来られる。それがあの建物のキーワードです。実はこれは構造的にもポイントになる言葉です。大桟橋は長さが四五〇メートル程で、土木的なスケールの建物だといえます。埋め立てて敷地を作り、山下公園を九〇度振って公園を作り直すというコンセプトでした。
図1は動線が自由に上に行ったり下に行ったりできることを示しています。階段がなく、すごく長い動線ですがすべてつながっていて、先端にも行けるし上にも下にも行ける。同じ断面がほとんどない建物です。斜路がメインの動線になっていますが、これらをどのように成立させるかが僕らの最初の仕事だったわけです。図2はコンペ時の案です。断面をつないだだけのものですね。フォールディングの定義は、僕と皆さんとでは違うのかもしれませんが、襞という意味ではこれもフォールディングですね。骨の中身についてはまだ充分に考えられていない段階です。サーフェイスはうねっている。彼らはこの建物にアイデンティティを持たせるため、カードボード構造という言葉を使っていました。図3がカードボード構造の中身です。
徐々に現実味を出していくため、動線の軌跡を並べて断面をつなげる作業をしました[図4]。 構造的にこの建築をどう支えるかが一番の課題だったので、同時に接地している点と浮いている点を明確にしました。
ここでは建築的にエリアで色分けをしています[図5]。一番下に駐車場、交通広場があります。ターミナル・エリアとホール・エリアが明確に場所分けされていて、それを動線でどのようにつなぐか、これが変な形になった原因です。屋上は庭園風な形をしているので、日除けやベンチを提案しました。図6は一階平面です。最初は地下に駐車場があり、一階は通路、二階は乗降のホール・エリア、その上に屋上というように多層だったんですが、施主である横浜市の意見を聞いていって最終案に辿り着きました。図7が九六年のプランで「基本設計その一」の段階、図8が二〇〇〇年の最終形です。動線が変わるとストラクチャーを全部やり直さなくてはならないという、大変なプロジェクトでした。
これは桁梁の断面を切ったものですが、本当に作れるのかという話になり、川崎重工と相談して実際に溶接できるのか試しています[図9]。図10は「基本設計その二」の段階ですが、この段階ではまだ現実味が薄く、スロープの構造も少しあいまいです。実際にできた建物においては通り芯がほとんど意味を持っていないのですが、この段階ではまだ通り芯に意味がありました。輪切りにしたストラクチャーですべて構成できることを示しています。
図11が九八、九九年にSDGが作った模型です。ここでフォールディングの話が出てきます。僕たちはフォールディングがよく見えるということよりも、上下の鉄板で中が見えない状態のほうがカードボード構造に近く、foaがやりたいことなのだろうと思っていたのですが、なるべく襞を表現したい、できる限り中身が見えるほうがいいとのことでした。また、建物自体が非常に長く、短工期で仕上げるためには輪切りにしてどこからでもつくれるようにしなければならなかった。それができるのは一方向のストラクチャーです。キャンチレバーは簡単にできるので、ガーダー同士の間さえ解決できるなら組み方としてフォールディングもあるのではないかと考えました。図12は僕たちがガーダーと呼んでいるもので、これを作るのには泣きましたね(笑)。長手の桁梁、メインフレームになりえるので、これをすべて鉄板で構成しました。形は単純ではありませんが構造形式としては非常に単純です。長手の桁梁と梁間方向のフォールディングの連続体です。ガーダーは内側から溶接をしなくてはならず、人通口が開いていて入ったり出たりできるようになっています。ブロック分けの基準は重量で、クレーンが船から荷取りする限界が五〇トンでした。ザエラ・ポロはシステムにも関心があって、フォールディングはなるべく同じピースができるシステムを作りたいと言っていましたが、実際のところ各ピースは同じ形にはならないんです。
図13が完成型の断面図です。ここから施工写真になります。図14は機械室で、スロープの下にすべて入っています。図15はガーダーの工場製作の状態です。鉄板にある穴は緊結するためのストランドケーブルを入れるためのものです。図16が基礎と緊結する部分です。この中にコンクリートを充填し、上でストランドケーブルを引っ張って下と緊結します。図17は桁梁の建方が完了したところです。フォールディングの部材も船で持ってきて建たせています。構造的には隣のフォールディングの部材同士をつなぐことで安定します。図18はフォールディングのモックアップで、実際にどのように仕上がるかをファブで確認しています。フォールディングの部材の面には二・三や三・二ミリの薄いFR鋼を使っているので溶接をするとベコベコになってしまうんですね。ですから、耐火性のあるステンレスのヒルティ鋲を用いて接合しています。
今井──構造的な意味でのトラスと折板の割合はどれくらいなんですか。
横山──トラスのほうが多いですね。折板を厚くすればできないこともないのですが、どうしてもお金がかかってしまいます。
日埜──現場に持ってきてから製作ミスがわかったといったことはありませんでしたか。
横山──ありましたよ(笑)。それは現場で修正・補強しました。ユニット間の現場溶接部分で誤差や鉄の伸び縮みは吸収します。施工の誤差吸収は凄く難しいですから、現場溶接でアジャストできる部分を大きくとっています。図19は矩体がもう少しで終わるとところですね。構造があってその上にウッドデッキが被覆されていますが、これがまた大変でした。二つのジオメトリーが違うので、このデッキの骨を作るのはまた別の作業になるんです。職人さんは泣きそうになっていました(笑)。ウッドデッキのサーフェイスは三角形分割されています。図20は二階のガラスファサードのディテールです。下をクランプして上をフリーにしています。ガラスの長さは四メートルです。この長さをリブなしでいける、一九ミリの強化ガラスを使用しました。上階のフォールディングの形状を変えてファサードの上部を面外方向に抑え、風圧に対して二点で支えています。図21は妻面のファサードです。後ろにマリオンをつければいいのですが、普通に付けても面白くないので、折り紙を立たせるイメージで作りました。図22は手摺です。垂直部分があまりない建物なので、垂直を避けています。
この建築を決定づけたものは、襞の表現だったと思います。カードボード構造とは段ボール的なものという思考から、構造体の襞が外に表われる折板の案になりました。それは製作上、施工上において必然的に発生してきた襞の表現でした。コンペの案と違うという方もいますが、構造的な見地からすると実際にできたものはコンペの時に提案されたカードボード構造により近づきながら進化しているものだと思います。このような形で襞が表現されている建築はほかに例がないのではないでしょうか。また、実際に作るとき、施工者をはじめとする作り手に設計の中身、思想をどう伝えるかが大変なプロジェクトだったと言えます。
ジン──イーストリバー沿いのブルックリンハイツ・プロムナードで行なった、「都市のマスク(仮面)」という題のアーバン・コンペです。川に沿って四段の段差のある一方通行の車道で、その最上段がペデストリアンになっている[図1]。下段をオープンスペースのプラザとして利用するために動線をアタッチしたプロジェクトです。モダニズム以前のニューヨーク開発でこれほどハイパー・スケールな人工地盤が作られたこと自体面白い。対岸に古くからある倉庫を徐々に開放するのが主催者であるUSAインスティテュートの意図だったんですが、対岸の都市プランは複雑に入り組み、倉庫の形状は水の流れを避けている。これが両側の都市軸の境界を一層分割している。つまりアーバニズムとネイチャーの境界面を問題にしています。図2は倉庫を起点に対岸の都市プランの成り立ちを描いた後で、再びサイト全体のスケッチを描いたものです。ここはメインの駅から歩いて来るところで、メインのマスクはそこにあるべきだろうと考えました[図3]。三段ステップダウンをするとき、急な階段やエレベーターシャフトだけを取り付けるのが最も簡単なのですが、そこからヴューを楽しむという要素もあるので、そういったことはしません。以前PVCのスキンとスティール・フレームで《熊本キヲスク》[図4]を作りましたが、ブルックリンでは七〇くらいの違ったユニットを連結して一つのマスクにできないかを考えました。コンピュータの解析技術をもってすれば細かいフレーミングもできますから、フルに使って多角的なフレーミングがもたらす効果を狙いました。プラットホームの幅にはシングルとダブルとがあるのですが、シングルに張り出している部分とダブルに張り出している部分とでは見え方という点で効果が違ってくるし、そこでのシークエンスの意味も違っているということを単一形態からまず模索しているわけです。同時に車の進行方向が逆になったときに同じ形態がどのような効果をもたらすかも分析されるべきですね。同様に、角度変更に伴うプログラミングなど、そのプロセスでは尽きないパターンが出てくるわけです。サーフェイスの問題はフォールディングには付き物です。基本ユニットの構成要素は三つのエッジとなる曲線のフレームです。中心線が矢印の方向に、A1からA2へスウィープしてつながっていき、《キヲスク》のように捻れた面ができてきます。こうしてスウィープを続けると、湾曲する構造的なサーフェイスができる。Bも同じようにやっていきます[図5]。捻れたサンプルAとBを掛け合わせ、さらにスウィープしたものが図6です。ここまで探究していくエモーションさえもフォールディングなんですよね。ブルックリンハイツのペデストリアンは今でも機能しています。ここからロウアー・マンハッタンを眺める風景が売りで、新たに装置を付加したときに都市が発するエフェクトを提案する。パターンを重ねたり拡大していくことで、その先にあるものを考えたい。都市で人々がどう生きていくか、都市が人々にどう映っているかが最重要で、だからサイトによって手法も建築言語もそこにしかありえないものとなってくるわけです。
次は「ヴェローナ・プロジェクト」です。イタリア北部の都市、ヴェローナのランドスケープ・セミナーコンペで、元採石場の再開発です。この列柱は採石の結果残ったもので、差し引かれた空間が露呈している[図7]。ここでは切り開いていった角度やプロセスなど、その痕跡が見て取れる。これだけでもフォールディングでしょう。切り出された石は旧市街で教会や石畳になったりしている。僕は現場に行って、単なる地図上の情報や柱の配列以外に瞬間的に感じるものをスケッチします。これは、鉛筆でこすって石のテクスチャーを紙に移したものです[図8]。このように痕跡/メモリーを移しかえるという作業は、AAスクールやほかのフォールディング・ワークショップでよくやることです。
図9は断面のスケッチです。光が直線で差し込むところとダークなところがある。その境界にポテンシャルがあると考えました。一ユニットの柱のタイポロジーに着眼して、その中間に包むような膜の空間を考える、またオーバースケールでタイポロジーを超えていく空間をも派生させる。ここでは石の廃材を使ってなにかできないか考えています。柱のタイポロジーをやったうえで複雑にオーバーラップした空間にできないか。空間の痕跡をカット・アンド・ペーストして反転させたり、別の空間を生成できないか考えています。次にプレキャストコンクリートに石のカラーチップを埋め込んだ特注のものを使ったらどうかと考えました。ユニットを連結していけば、フリーフォームのフロアやブリッジなどができます[図10]。ここでの僕の提案は「ストーンメディア・パフォーマンス・シアター」という、一般の人々が楽しむカフェや石窟ワインセラーや、映像設備をもった石の情報メディアセンターでした。ここではプレキャストコンクリート材の配置をやり始めています[図11]。材自体が、スケールは違うけれど柱のカーブのベジェ曲線を使っているんです。スケールアウトしているものを空間言語として最終的に使用することで、元採石場の持つ時空をワープしていく大きな情報量の空間を作っていく提案です。
次は「イーストリバー・ウエイブ・ボートシティー」プロジェクトです。これまでに数度、マッピングの技法を使ってプロジェクトを重ねていますが、今回はイーストリバー沿いの敷地に対してブルックリン地区全体のストリート・マッピングとサイト内の建築派生要因の関係性を見ようとしています。前回は身体的スケールなどの別の視点での意図がありましたが、よりダイレクトに都市のマッピングに直結したものをやりました。ここでマッピングとはなにか、補足します。ファーシッド・ムサヴィたちはAAスクールの学生に建築手法の第一段階として都市スケールでのマッピングを行なわせ、第二段階にはマキニーク・プロポジションが設定されています。つまりマッピングに対するオペレーションですね。マッピングから密度や強度をチェックし、より高次のマップを描き加えるということです。何の密度や強度をチェックするかは、インターフェイスの見極めの問題だから、十分議論の余地が生まれる。またポイントを変えれば、密度だけでなく強度もある差異に注意する。マッピングとデザインに持っていくためのインターフェイスの関係を明確にしなければ、次のステップはありえない。例えば《横浜客船ターミナル》で言えばカット&ベンドでプログラムを生成するわけです。ハニカムのコアがコンペ時の均一なものと現在の非均一なものとではインターフェイスの意味が違ってきてますが、最後はより高次の再マッピングをして解決しているとも言えます。
話を「ボートハウス」に戻しましょう。ほぼ全部のストリート角度のデータを近距離に集結させ、二つの軸線を連続性のあるスキンを作るためのリソースにしています[図12]。四つ以上の軸線から空間が現われるその関係性を、エレメントを増やしていって今回のプログラミングに最もフィットさせるべくスケールを折りたたみミックスしていく。実際には、ボートハウスの格納スペース、倉庫に向かってランチング(ピアーに向かって進水)

討議 日埜直彦×今井公太郎×今村創平×吉村靖孝

今井──まず思考レヴェルが抽象的な水準に留まっているのではないかという気がしています。素材という側面はどう作用しているのでしょうか。例えばグラスファイバー補強したコンクリートとフォールディング建築の関係などについても考えるべきではないでしょうか。
日埜──フォールディングは現在展開している途上のコンセプトだと思います。そして抽象的な議論をするだけではなくて、リアライズさせていく努力のなかでテクトニックな水準に問題を波及させていっている。むしろそのことを肯定的に見るべきではないかと思います。
今井──またフォールディング理論は東海岸発とありましたが、建築の実作は多数、日本でできているのではないでしょうか。《横浜客船ターミナル》だけでなく、妹島和世の《マルチメディア工房》などもまさにコンセプト自体が、屋根が地続きに地面につながるといったことに由来しているわけです。理論からトップダウンするよりも、そういう方向ででてきたアイディアだと考えたほうが自然です。ところで、《横浜客船ターミナル》の屋根の折板構造と床のフローリング部分では意味が全然違いますよね。折板部分のシェルは多様な形をとることができるという構造表現の延長でしかなく、フローリングの部分にフォールディング建築の魅力が凝縮しています。ところが、あのフローリングは構造体ではなく、それゆえに表現が可能になっている。考え方はフォールディングでも実際の解決はシェルであると言っていいのではないでしょうか。
今村──状況に沿って作られたものは日本にもヨーロッパにも実現している。では、なぜ理論的なバックアップが日本では弱いのか。例えば日本では、コールハースなどがやっているものを形態として受け入れ、工法的にもよっぽど上手く、スタイリッシュなものを作るけれど、できあがったものは格好いい、気持ちいいというところに流れてしまう。日埜さんはそこを整理したいのでしょう。一方で、フォールディングの理論的祖をドゥルーズの『襞』まで遡るとされても、本当にそこを根拠にしていいのかがわからない。自然界の空間定義を描写するためにユークリッドでない新しい幾何学を使うとか、エコロジーなどと絡み合って新しい形態が出てくるということならばわかります。しかし『襞』は、基本的にライプニッツ哲学の解釈であって、それは現代建築とはまったくといってよいほど直接的な関係はない。
日埜──ドゥルーズは、なんらかの襞の作用によってある固有性、例えばある場が生成されるということについて考えたわけです。基本的にドゥルーズは物質的な襞について議論しているのではなく、その水準は建築のように具体的ではありません。ただやはり概念がイメージを喚起する力は強いもので、例えばドゥルーズのイメージに「無限の延長」があったことと、ランドスケープや地形の拡がりのなかに建築を連続させていくフォールディングのイメージに関連性を見るのは自然だと思います。
今村──断片的に読んでいるだけですが、僕の印象としては、英語訳のほうが意味を取りやすい。少なくとも、この日本語によるドゥルーズの襞の概念から何かを理論的に展開するのは、かなり困難ではないか。
日埜──建築に対する考え方が再検討されるとき、コンテンポラリーな哲学や思想に影響を受けるのは自然なことだと僕は思っています。ネタとして使うのとは違ったレヴェルでドゥルーズを読み、それを建築的に捉え直す自然なフィードバック・ループをつくる人もいる。そういうことじゃないでしょうか。例えば東海岸の人たちは極めてセオレティカルなレヴェルへの関心が強く、建築そのものとすぐには結びつかないような議論をどうも相当シリアスにやっている。日本語訳の問題というよりも、もしかしたら日本語で建築を考える地平の問題かもしれませんね。
吉村──ヨーロッパ発のフォールディングはもっとプログラム寄りですね。形態が似ているものをすべからくフォールディングとくくってよいならば、日本にも優れたフォールディングの作品があると思います。
日埜──逆にフォールディングで本当に面白い建築が出てきたときには、日本の建築家もスタイルとしてやっちゃうでしょう(笑)。まぁおそらくそれなりに上手にやる人が出てくるんじゃないですかね。
今村──日本人はものとして受け取るので、即物的に空間的魅力があるかといったことばかりが話題になるのではないでしょうか。一方海外では深読みをして、先端を行っているという意識があり、その姿勢は正しいといった感覚もあるのではないでしょうか。
今井──フォールディングの理論は、位相幾何学に通ずる部分が多いですよね。カタストロフ理論も日本はすでに体験していて、最も日本の住宅が輝いていた頃、六〇─七〇年代の原広司や伊東豊雄の住宅作品などに適用されています。だから理論的な体験は終わっている気がしてしまう。
日埜──フォールディングをやっている人たちは今すでにできている実例を目指してやっているわけではなく、こんなことができるんじゃないかというレヴェルで思考しているのでしょう。僕がフォールディングを面白いと思うのは、特定の形がなにかを解決するというレヴェルではなくて、空間の潜在的な可能性に触れる部分なのです。
今井──例えば原広司自邸(一九七四)や伊東豊雄《黒の回帰》(一九七五)など、日本の小住宅では位相幾何学が高い水準で実験的に試されていて、ものになる水準ではコンヴェンショナルな幾何学に整合するように整理されている。抽象的な水準とものにする水準とを明確に分けているから、形態的な一致は期待しなくていいんです。ところが、フォールディングはそれら二つの水準を無理矢理一緒に捉えているように思う。抽象的なコンセプトをなぜ戯画的にそのままの形に作る必要があるのかわからない。
日埜──作ってみたときにわかる(笑)。例えば垂れ壁が一〇〇ある場合と一〇〇〇ある場合、位相的に見れば変わらないけれど、実際建築的にはまったく違うわけです。トポロジーで捉えたときに抽象化されてしまう部分を、ばか正直にやってみることで見えてくる水準があるだろうと思います。
今井──今まで見てきたフォールディング建築のなかで、最もエポックメーキングだと思ったのは、やはりOMA「ジュシュー図書館案」です。斜めの床の集積ですが、折りたたまれて位相的な反転もしているし、幾何学的に見ても格好いい。フォールディング建築は最初が一番よかった(笑)。複雑に褶曲させるよりも、単純に斜めの床が貼ってあって、斜めの床が人間にどのような作用を及ぼすかを原理的に考えている気がします。形態操作自体に固執せず、ダイレクトに感性に訴えるアフォーダンス的な建築といえるかもしれません。
今村──コールハースの事務所のスタッフの間では、去年くらいからオスカー・ニーマイヤーがお気に入りだとの噂を聞いたことがあります。ニーマイヤーの建物は、スーッと書かれた一筆書きがそのまま建物になるんです。何かわかるような気もします。
吉村──MVRDVも、六〇─七〇年代くらいのブラジルの建築をよく参照しています。パウロ・メンデス・ダ・ローシャのような、フォールディングというよりはランドスケープに近い曲面が、コンペの初期などにときどき現われていました。ヴィニー・マースはOMAで「ジュシュー図書館案」を担当していましたから、脈々と続いているのでしょう。
今村──フォールディングではありませんが、ガウディの建築は一見グチャグチャだけれども、構造的整合があるから説明がつくとされています。
日埜──南米の建築を見るときは、いい意味で誤読しようとしているのではないんでしょうか。置き去りにしたもののなかから今の視点で拾い上げられるものがあるんじゃないかというように。あるいは遠藤秀平さんのコルゲートのように、可能性をズラすことで潜在的な可能性を見つけるようなやり方もあるでしょう。
今井──以前出した話題で言えば(本誌No.33参照)、インフォーマルかインフォーマルじゃないかということですよね。もともと単純なものをひとつの面で作るときそこにカタルシスはないわけですが、ある程度の乱雑さや複雑さがひとつの表面によって回収、統合される瞬間にある種の快感があるわけです。強いて言えばそこにフォールディングをやっている動機を感じます。
吉村──フェリックス・キャンデラのHPシェルなんかはフォールディングじゃないわけですね。でもたとえば、MVRDVがアメルスフォルトにつくったオフィスビルは、床が壁になりそれがまた床になって波状の断面を見せています。しかし曲線はまったくなし。非常にスタティックな幾何学に則っている。あれはフォールディングなんでしょうか。
日埜──そうだと思いますね。床・壁・天井というような分節を外すことはフォールディングの考え方のなかでも特に重要なアイディアだと思います。あえて物質的表面として一段階抽象化することでヒエラルキーを崩しているわけですよね。
今井──ひとつの面の一部として解釈すればフォールディングになり、床を形式として捉えれば普通の建築になる。やはりレトリックではないでしょうか。もちろん斜めになることで中間項が出てくるわけですが、それを直角に折り曲げたとき、それはフォールディングではなくなってしまうということでしょうか。
吉村──先程のオフィスビルもレトリカルな手つきがディテールに表われています。スラブでは煉瓦を横貼りし、壁ではそれを縦貼りにする。折り曲げた操作を補強するレトリックです。
今井──しかし、ヴィリリオとパランの「オブリーク・サーキュレーション」はレトリックではなく本当に床を斜めにしてしまいますよね。今までの建築は水平と垂直だから「+」で、斜めの建築は斜めと斜めで「×」であり、より意味があると。それで信用できなくなった(笑)。
日埜──繰り返しですが、積極的な意味が発揮されるかもしれないという期待を持てるかどうかでしょう。オランダの建築家たちはそれを使いこなそうとしているのだろうし、その意味で面白い建築も出てきている。やれる、やってしまうというポジティヴさに対し敬意を表わしたい。
今村──日本の大学は、どこまで実験していいのか、落とし所に暗黙の了解があるという点がいやらしいですよね(笑)。学生の案はコールハースの真似ばかりでオリジナリティがないと言う一方、アヴァンギャルドなものを出すと建築をわかっていないと言われる。基本的に、探求する場ではなく、教育機関なのでしょう。さらに、日本の建築学は工学部に属しますから、哲学や生物学を含むフォールディングの話題は大学では扱いづらい。やはり日本では新しい建築言語は育たないのでしょうか。一方、アメリカの東海岸などでは大学や大学院で一週間も四角い紙を折り続け、理屈や根拠、セオリーを考えるわけです。そのようにして形態の問題を考え、理論武装する。アイゼンマンたちは哲学者などを呼んでさかんにディスカッションすることを日常としていたわけです。
日埜──単純に訓練の問題もありますよね。CADの曲面幾何はパラメーター自体を理解することに一定の訓練が要求される。それをネグレクトすることで学生が可能性に接近することが難しくなる。大学の先生がフォールディングに対してアレルギーに近い態度を示すのであれば不幸なことです。別に教えなくてもいいけれど、許容したっていいんじゃないか。そのことがフォールディングをヴィジュアルな対象としてしか受容できない状況の遠因になっているのかもしれない。
今村──ゲーリーの形態は戦闘機を作るCADがないと実現できないようですが、コールハースのプレゼンに見られるような素朴な方法をとっても、かなり革命的なスタディができるはずなんですが。

foa《横浜大さん橋国際客船ターミナル》 横山太郎

横山──《横浜大さん橋国際客船ターミナル》は、以前勤めていた構造設計集団SDGで基本設計から現場が終わるまで携わらせて頂きました。foaと僕らがどのように作っていったのか、最初から過程を追ってお話をしていきたいと思います。
ダイアグラム的には横浜スタジアムと山下公園に通じる大桟橋という見方ができます。歴史のある場所になにを作るかというコンペでした。foaはここに公園を作る案を入れ込もうとしていました。
街からフェリーに乗るためのダイアグラムとして動線を考え、彼らは「No Return」という言葉を使い続けました。なるべく動線、空間のつながり方を連続したものにして、好きなところに行けて、戻って来られる。それがあの建物のキーワードです。実はこれは構造的にもポイントになる言葉です。大桟橋は長さが四五〇メートル程で、土木的なスケールの建物だといえます。埋め立てて敷地を作り、山下公園を九〇度振って公園を作り直すというコンセプトでした。
図1は動線が自由に上に行ったり下に行ったりできることを示しています。階段がなく、すごく長い動線ですがすべてつながっていて、先端にも行けるし上にも下にも行ける。同じ断面がほとんどない建物です。斜路がメインの動線になっていますが、これらをどのように成立させるかが僕らの最初の仕事だったわけです。図2はコンペ時の案です。断面をつないだだけのものですね。フォールディングの定義は、僕と皆さんとでは違うのかもしれませんが、襞という意味ではこれもフォールディングですね。骨の中身についてはまだ充分に考えられていない段階です。サーフェイスはうねっている。彼らはこの建物にアイデンティティを持たせるため、カードボード構造という言葉を使っていました。図3がカードボード構造の中身です。
徐々に現実味を出していくため、動線の軌跡を並べて断面をつなげる作業をしました[図4]。 構造的にこの建築をどう支えるかが一番の課題だったので、同時に接地している点と浮いている点を明確にしました。
ここでは建築的にエリアで色分けをしています[図5]。一番下に駐車場、交通広場があります。ターミナル・エリアとホール・エリアが明確に場所分けされていて、それを動線でどのようにつなぐか、これが変な形になった原因です。屋上は庭園風な形をしているので、日除けやベンチを提案しました。図6は一階平面です。最初は地下に駐車場があり、一階は通路、二階は乗降のホール・エリア、その上に屋上というように多層だったんですが、施主である横浜市の意見を聞いていって最終案に辿り着きました。図7が九六年のプランで「基本設計その一」の段階、図8が二〇〇〇年の最終形です。動線が変わるとストラクチャーを全部やり直さなくてはならないという、大変なプロジェクトでした。
これは桁梁の断面を切ったものですが、本当に作れるのかという話になり、川崎重工と相談して実際に溶接できるのか試しています[図9]。図10は「基本設計その二」の段階ですが、この段階ではまだ現実味が薄く、スロープの構造も少しあいまいです。実際にできた建物においては通り芯がほとんど意味を持っていないのですが、この段階ではまだ通り芯に意味がありました。輪切りにしたストラクチャーですべて構成できることを示しています。
図11が九八、九九年にSDGが作った模型です。ここでフォールディングの話が出てきます。僕たちはフォールディングがよく見えるということよりも、上下の鉄板で中が見えない状態のほうがカードボード構造に近く、foaがやりたいことなのだろうと思っていたのですが、なるべく襞を表現したい、できる限り中身が見えるほうがいいとのことでした。また、建物自体が非常に長く、短工期で仕上げるためには輪切りにしてどこからでもつくれるようにしなければならなかった。それができるのは一方向のストラクチャーです。キャンチレバーは簡単にできるので、ガーダー同士の間さえ解決できるなら組み方としてフォールディングもあるのではないかと考えました。図12は僕たちがガーダーと呼んでいるもので、これを作るのには泣きましたね(笑)。長手の桁梁、メインフレームになりえるので、これをすべて鉄板で構成しました。形は単純ではありませんが構造形式としては非常に単純です。長手の桁梁と梁間方向のフォールディングの連続体です。ガーダーは内側から溶接をしなくてはならず、人通口が開いていて入ったり出たりできるようになっています。ブロック分けの基準は重量で、クレーンが船から荷取りする限界が五〇トンでした。ザエラ・ポロはシステムにも関心があって、フォールディングはなるべく同じピースができるシステムを作りたいと言っていましたが、実際のところ各ピースは同じ形にはならないんです。
図13が完成型の断面図です。ここから施工写真になります。図14は機械室で、スロープの下にすべて入っています。図15はガーダーの工場製作の状態です。鉄板にある穴は緊結するためのストランドケーブルを入れるためのものです。図16が基礎と緊結する部分です。この中にコンクリートを充填し、上でストランドケーブルを引っ張って下と緊結します。図17は桁梁の建方が完了したところです。フォールディングの部材も船で持ってきて建たせています。構造的には隣のフォールディングの部材同士をつなぐことで安定します。図18はフォールディングのモックアップで、実際にどのように仕上がるかをファブで確認しています。フォールディングの部材の面には二・三や三・二ミリの薄いFR鋼を使っているので溶接をするとベコベコになってしまうんですね。ですから、耐火性のあるステンレスのヒルティ鋲を用いて接合しています。
今井──構造的な意味でのトラスと折板の割合はどれくらいなんですか。
横山──トラスのほうが多いですね。折板を厚くすればできないこともないのですが、どうしてもお金がかかってしまいます。
日埜──現場に持ってきてから製作ミスがわかったといったことはありませんでしたか。
横山──ありましたよ(笑)。それは現場で修正・補強しました。ユニット間の現場溶接部分で誤差や鉄の伸び縮みは吸収します。施工の誤差吸収は凄く難しいですから、現場溶接でアジャストできる部分を大きくとっています。図19は矩体がもう少しで終わるとところですね。構造があってその上にウッドデッキが被覆されていますが、これがまた大変でした。二つのジオメトリーが違うので、このデッキの骨を作るのはまた別の作業になるんです。職人さんは泣きそうになっていました(笑)。ウッドデッキのサーフェイスは三角形分割されています。図20は二階のガラスファサードのディテールです。下をクランプして上をフリーにしています。ガラスの長さは四メートルです。この長さをリブなしでいける、一九ミリの強化ガラスを使用しました。上階のフォールディングの形状を変えてファサードの上部を面外方向に抑え、風圧に対して二点で支えています。図21は妻面のファサードです。後ろにマリオンをつければいいのですが、普通に付けても面白くないので、折り紙を立たせるイメージで作りました。図22は手摺です。垂直部分があまりない建物なので、垂直を避けています。
この建築を決定づけたものは、襞の表現だったと思います。カードボード構造とは段ボール的なものという思考から、構造体の襞が外に表われる折板の案になりました。それは製作上、施工上において必然的に発生してきた襞の表現でした。コンペの案と違うという方もいますが、構造的な見地からすると実際にできたものはコンペの時に提案されたカードボード構造により近づきながら進化しているものだと思います。このような形で襞が表現されている建築はほかに例がないのではないでしょうか。また、実際に作るとき、施工者をはじめとする作り手に設計の中身、思想をどう伝えるかが大変なプロジェクトだったと言えます。

横山太郎氏

横山太郎氏


1──動線が描かれたアクソメ

1──動線が描かれたアクソメ

2──立面図、断面図(コンペ時)

2──立面図、断面図(コンペ時)


3──カードボード構造の中身

3──カードボード構造の中身

4──断面をつなぐ 提供=横山太郎

4──断面をつなぐ 提供=横山太郎

5──エリアごとに色分けされた図面

5──エリアごとに色分けされた図面

6──1階平面図

6──1階平面図


7──平面図(基本設計第1段階)

7──平面図(基本設計第1段階)

8──平面図(最終形)

8──平面図(最終形)


9──施工実験

9──施工実験

10──断面図(基本設計第2段階)

10──断面図(基本設計第2段階)


11──梁の構造模型

11──梁の構造模型

12──ガーダーの生成フロー 1─3、5─12 出典=Foreign Office Architects, The Yokohama Project, Actar, 2002.

12──ガーダーの生成フロー
1─3、5─12 出典=Foreign Office Architects, The Yokohama Project, Actar, 2002.


13──桁梁とフォールディングによる構造

13──桁梁とフォールディングによる構造

14──施工時の地下

14──施工時の地下

15──工場でのガーター製作風景

15──工場でのガーター製作風景

16──ガーターと基礎の緊結部 提供=横山太郎

16──ガーターと基礎の緊結部
提供=横山太郎

17──桁梁完成時

17──桁梁完成時

18──フォールディング部の仕上がり確認 提供=横山太郎

18──フォールディング部の仕上がり確認
提供=横山太郎

19──ウッドデッキの被覆作業中 提供=横山太郎

19──ウッドデッキの被覆作業中
提供=横山太郎

20──2階のガラスファサード

20──2階のガラスファサード

21──妻面ガラスファサード

21──妻面ガラスファサード

22──手摺 13─15、17、19─22 出典= Foreign Office Architects, The Yokohama Project, Actar, 2002.

22──手摺
13─15、17、19─22 出典=
Foreign Office Architects,
The Yokohama Project, Actar, 2002.

フォールディング・プロジェクト・スタディ ジン・ヨハネス

ジン──イーストリバー沿いのブルックリンハイツ・プロムナードで行なった、「都市のマスク(仮面)」という題のアーバン・コンペです。川に沿って四段の段差のある一方通行の車道で、その最上段がペデストリアンになっている[図1]。下段をオープンスペースのプラザとして利用するために動線をアタッチしたプロジェクトです。モダニズム以前のニューヨーク開発でこれほどハイパー・スケールな人工地盤が作られたこと自体面白い。対岸に古くからある倉庫を徐々に開放するのが主催者であるUSAインスティテュートの意図だったんですが、対岸の都市プランは複雑に入り組み、倉庫の形状は水の流れを避けている。これが両側の都市軸の境界を一層分割している。つまりアーバニズムとネイチャーの境界面を問題にしています。図2は倉庫を起点に対岸の都市プランの成り立ちを描いた後で、再びサイト全体のスケッチを描いたものです。ここはメインの駅から歩いて来るところで、メインのマスクはそこにあるべきだろうと考えました[図3]。三段ステップダウンをするとき、急な階段やエレベーターシャフトだけを取り付けるのが最も簡単なのですが、そこからヴューを楽しむという要素もあるので、そういったことはしません。以前PVCのスキンとスティール・フレームで《熊本キヲスク》[図4]を作りましたが、ブルックリンでは七〇くらいの違ったユニットを連結して一つのマスクにできないかを考えました。コンピュータの解析技術をもってすれば細かいフレーミングもできますから、フルに使って多角的なフレーミングがもたらす効果を狙いました。プラットホームの幅にはシングルとダブルとがあるのですが、シングルに張り出している部分とダブルに張り出している部分とでは見え方という点で効果が違ってくるし、そこでのシークエンスの意味も違っているということを単一形態からまず模索しているわけです。同時に車の進行方向が逆になったときに同じ形態がどのような効果をもたらすかも分析されるべきですね。同様に、角度変更に伴うプログラミングなど、そのプロセスでは尽きないパターンが出てくるわけです。サーフェイスの問題はフォールディングには付き物です。基本ユニットの構成要素は三つのエッジとなる曲線のフレームです。中心線が矢印の方向に、A1からA2へスウィープしてつながっていき、《キヲスク》のように捻れた面ができてきます。こうしてスウィープを続けると、湾曲する構造的なサーフェイスができる。Bも同じようにやっていきます[図5]。捻れたサンプルAとBを掛け合わせ、さらにスウィープしたものが図6です。ここまで探究していくエモーションさえもフォールディングなんですよね。ブルックリンハイツのペデストリアンは今でも機能しています。ここからロウアー・マンハッタンを眺める風景が売りで、新たに装置を付加したときに都市が発するエフェクトを提案する。パターンを重ねたり拡大していくことで、その先にあるものを考えたい。都市で人々がどう生きていくか、都市が人々にどう映っているかが最重要で、だからサイトによって手法も建築言語もそこにしかありえないものとなってくるわけです。
次は「ヴェローナ・プロジェクト」です。イタリア北部の都市、ヴェローナのランドスケープ・セミナーコンペで、元採石場の再開発です。この列柱は採石の結果残ったもので、差し引かれた空間が露呈している[図7]。ここでは切り開いていった角度やプロセスなど、その痕跡が見て取れる。これだけでもフォールディングでしょう。切り出された石は旧市街で教会や石畳になったりしている。僕は現場に行って、単なる地図上の情報や柱の配列以外に瞬間的に感じるものをスケッチします。これは、鉛筆でこすって石のテクスチャーを紙に移したものです[図8]。このように痕跡/メモリーを移しかえるという作業は、AAスクールやほかのフォールディング・ワークショップでよくやることです。
図9は断面のスケッチです。光が直線で差し込むところとダークなところがある。その境界にポテンシャルがあると考えました。一ユニットの柱のタイポロジーに着眼して、その中間に包むような膜の空間を考える、またオーバースケールでタイポロジーを超えていく空間をも派生させる。ここでは石の廃材を使ってなにかできないか考えています。柱のタイポロジーをやったうえで複雑にオーバーラップした空間にできないか。空間の痕跡をカット・アンド・ペーストして反転させたり、別の空間を生成できないか考えています。次にプレキャストコンクリートに石のカラーチップを埋め込んだ特注のものを使ったらどうかと考えました。ユニットを連結していけば、フリーフォームのフロアやブリッジなどができます[図10]。ここでの僕の提案は「ストーンメディア・パフォーマンス・シアター」という、一般の人々が楽しむカフェや石窟ワインセラーや、映像設備をもった石の情報メディアセンターでした。ここではプレキャストコンクリート材の配置をやり始めています[図11]。材自体が、スケールは違うけれど柱のカーブのベジェ曲線を使っているんです。スケールアウトしているものを空間言語として最終的に使用することで、元採石場の持つ時空をワープしていく大きな情報量の空間を作っていく提案です。
次は「イーストリバー・ウエイブ・ボートシティー」プロジェクトです。これまでに数度、マッピングの技法を使ってプロジェクトを重ねていますが、今回はイーストリバー沿いの敷地に対してブルックリン地区全体のストリート・マッピングとサイト内の建築派生要因の関係性を見ようとしています。前回は身体的スケールなどの別の視点での意図がありましたが、よりダイレクトに都市のマッピングに直結したものをやりました。ここでマッピングとはなにか、補足します。ファーシッド・ムサヴィたちはAAスクールの学生に建築手法の第一段階として都市スケールでのマッピングを行なわせ、第二段階にはマキニーク・プロポジションが設定されています。つまりマッピングに対するオペレーションですね。マッピングから密度や強度をチェックし、より高次のマップを描き加えるということです。何の密度や強度をチェックするかは、インターフェイスの見極めの問題だから、十分議論の余地が生まれる。またポイントを変えれば、密度だけでなく強度もある差異に注意する。マッピングとデザインに持っていくためのインターフェイスの関係を明確にしなければ、次のステップはありえない。例えば《横浜客船ターミナル》で言えばカット&ベンドでプログラムを生成するわけです。ハニカムのコアがコンペ時の均一なものと現在の非均一なものとではインターフェイスの意味が違ってきてますが、最後はより高次の再マッピングをして解決しているとも言えます。
話を「ボートハウス」に戻しましょう。ほぼ全部のストリート角度のデータを近距離に集結させ、二つの軸線を連続性のあるスキンを作るためのリソースにしています[図12]。四つ以上の軸線から空間が現われるその関係性を、エレメントを増やしていって今回のプログラミングに最もフィットさせるべくスケールを折りたたみミックスしていく。実際には、ボートハウスの格納スペース、倉庫に向かってランチング(ピアーに向かって進水)するスペース、それを訪問者が見るスペース、カフェやオリジナル・ボートを制作できるウッドショップ施設などがある。メインのエントランスのサービスはできるだけトポグラフィックに開放したかった。
メカニズム的な話は以上です。《横浜客船ターミナル》にも感じましたが、どのプロジェクトも理論に対してはダイレクトななかにも、プログラミングとしてはフレキシブルな要素を持たせる方向で考えているつもりです。AAスクールやコロンビアなど海外の大学では、プログラムと手法とを明確に説明させ、特にファイナルレヴューなどでは、「プロセスと結果」の良し悪しの基準が何であるかが評価のポイントなんです。一般にフォールディングが導入されにくいのは、この良し悪しの基準が膨大すぎてわかりにくくなってしまっていることに由来するのかもしれません。

ジン・ヨハネス氏

ジン・ヨハネス氏


1──川沿いの4段の車道

1──川沿いの4段の車道

2──倉庫を起点とした 都市プランの成り立ちのスケッチ

2──倉庫を起点とした
都市プランの成り立ちのスケッチ


3──メインマスクの位置を決定

3──メインマスクの位置を決定

4──《熊本キヲスク》

4──《熊本キヲスク》

5──サーフェイスのスタディ サンプルA(左)、サンプルB(右)

5──サーフェイスのスタディ
サンプルA(左)、サンプルB(右)

6──サンプルA、Bを掛け合わせたもの

6──サンプルA、Bを掛け合わせたもの

7──列柱が特徴的な採石場跡 1─12 提供=ジン・ヨハネス

7──列柱が特徴的な採石場跡
1─12 提供=ジン・ヨハネス

8──石のテクスチャーを紙へ移す

8──石のテクスチャーを紙へ移す

9──採石場への光の入り方のスタディ

9──採石場への光の入り方のスタディ

10──プレキャストコンクリートのユニットを連結させて空間をつくる

10──プレキャストコンクリートのユニットを連結させて空間をつくる

11──プレキャストコンクリート材の レイアウトスタディ

11──プレキャストコンクリート材の
レイアウトスタディ


12──ストリートの軸線を集結させ(上)、 敷地内のプログラミングに適応させる(中)。その結果のルーフプラン(下)

12──ストリートの軸線を集結させ(上)、
敷地内のプログラミングに適応させる(中)。その結果のルーフプラン(下)

討議

今村──ジンさんは「プロセスと結果」の良し悪しの基準が膨大すぎてわかりにくいためと表現されましたが、フォールディングが受け入れられにくいのは、どうしてもテイストの問題になってしまうからではないでしょうか。foaは形を決めるときにテイストの好き嫌いを問題にしていませんよね。彼らは《横浜客船ターミナル》の場合でも、ああいった形を作りたいわけではないという旨の発言を繰り返ししています。ジンさんはプログラムが微妙に変わることでヴァリエーションがたくさん生まれると言いますが、多くの建築家は好みで最終的な形を決めそうですよね。
ジン──いいえ。マッピングをベースにすると、作家の意図は極力排除される方向へ進む。それが大前提です。何の為のマッピングかの論点を見失ってはいけません。論じて、るだけの視点からは作り手側の真意が組みとれない。一方僕は《横浜客船ターミナル》を見て、日本の施工会社はクオリティの高いサーフェイスを作ることができるから、フォールディングがそれに頼っているんだなとも思いました。つまり計画上のマッピングレヴェルと違う新たなテーマだという論点を発見している訳ですが、しかしテクノロジカルな面だけではなくて多角的に議論をすべきです。《横浜客船ターミナル》では、地下の駐車場の出入り口にかなり大きい三角形のピースを浮かせてあって、そういう要素が上層で行なわれているフォールディングの単位とずいぶん違ったりする。本来都市のマッピングで分析してきたものなのに、構造的な理由で人為的に都市の言語を新たに生み出してしまっているんです。マッピング後のフィードバック現象、あるいは横浜スタジアム方向へ都市のリターン・コンテクストみたいなことが知らないレヴェルで起きています。新たな三角形から、ベクトルの先に何かあるという予感がしました。
横山──あの部分は動線の斜路の一部なんですね。機能として上下に行くメインの動線があって、構造の考え方、形状はすべて人のその動線から波及しています。
ジン──機能はそうですが、僕が言っているのは「プロセスと結果」の問題です。
横山──例えば《ビルバオ》でも、後ろの骨のジオメトリーがどうなっているのかあまり議論にならない。しかし、構造技術者からすると、骨のジオメトリーを建築の表現に置き換えられたほうがいいわけで、横浜ではその純粋性を追求していきました。
今井──とは言え、仕上げにはギャップができますよね。構造体と仕上げが一体化して一枚になるという理想像があるんですか。
横山──そうしたいけれどできない。そのギャップをどう埋めるか。建築の表現と構造のレイヤーが無関係なのはおかしいと思うんです。関連性がないとそこにあってはいけない気がする。その部分では、皆さんが言われるフォールディングの意味がわからないところもあります。構造的には折ったら強くなりますし、材料も少なくできる。僕はフォールディングをそういったものだと思っている。
今村──ガーダーとそれ以外の部分にヒエラルキーが発生していますが、それは当初から想定されていたことですか。
横山──途中ですね。最初は僕たちもダンボールのようなものが正しいと思い、ヒエラルキーを作るのはいけないと思っていたんです。基本設計の構造模型をつくる段階で、最初はハニカムのシステムに近かったんですね。ところが、中身の骨のプレゼンテーションをする際に上下のスキンを透明にして模型を作ったら、ポロさんが面白い、骨を見せたいと言い出したんです。早く作らなくてはいけないという事情もあって、どこからでも施工できる輪切りのシステムになっています。その辺りのfoaの考え方は凄くフレキシブルでした。
吉村──初期のイメージでは表も裏もないようなつながり方をしていますが、それがいつの間にか、表にはハッピーなウッドデッキ、裏には土木構築物とはっきり分かれていく。そのタイミングは、構造的な分節がはじまったのと並行していたのでしょうか。
横山──コンペ時にはわかりませんが、基本設計の段階においては、表と裏を違える表現を意識していたとは認識していませんでした。表の仕上げはどうしようかといろいろ検討していましたから。やはり実際の機能上、性能上の問題で決定していきました。
今村──《横浜客船ターミナル》は、人が移動することがファンクションのほとんどすべてなので、まずマッピングをし、それをそのまま落とすとああいう形になるというのはわかります。しかし、横浜以外のプロジェクトで同じようなことをやられると、一気に説得力がなくなる。もともとああいった形を作りたかったのかもしれないと思ってしまう。
吉村──今日は「トポグラフィのマッピング」と聞いて三割ほど霧が晴れた感じがしました。それは東海岸、欧州、日本のどのフォールディングにも共通する姿勢だと言えそうです。地形だったり、プログラムだったり、あるいは音など本来不可視なものだったり、リソースの違いはあれど操作は共通しているわけですね。しかし入力する情報が違うのに出力されたものが総じて似ているのは解せない。残り七割はまだ霧のなかです。
日埜──むしろただ手を動かして粘土細工のようにやっていると結局は同じような形が出てきてしまうということがあって、そこに客観化できる外部を介入させて、それを触媒にしようとしているわけですよね。コンテクスチュアリズムは周囲の形態そのものを見ますが、マッピングはもっと非形象的で潜在的な水準を求めているということじゃないでしょうか。
今井──都市論的な分析をする際、いろいろなレイヤーを重ねてトポグラフィを描いてみるなどのことをします。無数に描けるといえるトポグラフィからひとつ選び出してフィジカルにそのまま形状をつくるということは、マッピングという行為からはだいぶジャンプがあるように思うんです。
ジン──それはマキニーク・プロポジションの手法ではありません。そのまま作ろうとするわけではないんですから。それからそもそもマッピングはマクロな視点を多く持ち自己と他者のパラダイムをより多く新たに創出しているわけです。
今井──状況を変換しようとして作るわけですよね。ですが、トポグラフィを形象化したものを操作することが、なぜ状況を変換したことになるのかがわからない。
ジン──それは人それぞれ違う。僕の場合はリニアな地形をもとにして崩していくということが多いので、比較的簡単だと思いますが。最初のテーマ発生の起因は、個々の作品で時間をかけて分析していった段階で見えてくるんです。つまり形象化の前部分が重要です、形象化の後部分ではなくて。だからマッピングのオペーレーション抜きに形象化に至ると、とんでもない陳腐なコンセプト落ちした形態のものにしかならない訳です。いずれにせよ形象化するところで状況変換は確実に起こっている。だから個々のケースでの具体的議論、「プロセスと結果」のコンテクストの議論が不可欠だということです。その中で何をどう変換しているかは個々に答えるべきことだと思います。
日埜──大きなところから言うと、モダニズムの均一な空間を壊していく手法として、僕らは結局コンテクスチュアリズムやその派生的手法しか持っていなかった。ジャンプすることに論理的な疑問を感じることがあっても、事実として、ユニヴァーサルスペース、近代的空間に対してオルタナティヴを提示したのはコンテクスチュアリズムの系統だった。それがデコンであり、その後のフォールディングにつながっていくという捉え方ができるんじゃないでしょうか。
ジン──コンテクスチュアリズムであるのかわからないものも生まれ始めているということも、是非言っておきたい。もちろん、僕らもサイトから追いかけていく。これはコンテクスチュアリズムそのものです。しかし、トポグラフィやマッピングというツール自体が、コンテクスチュアリズムを無視しかねないようなものを持ってしまっている。プログラミングに落とし込むところをしっかりやる人と、そうではない人と両極がいる。コンテクスチュアリズムにつなげていこうと努力する人と、実際にはそうした関係性がなくてもいいと走ってしまう人もいる。人それぞれ違うと言ったのはそういう意味です。
今村──構造家は、形を作った後途方に暮れている建築家の尻拭いをしなくてはならない立場だともいえますね。ジンさんの作品、もしくはフォールディング一般に対して、構造家や横山さんご本人がどういう見方をしているか、お聞かせいただけますか。
横山──構造解析の技術はこの一〇年で飛躍的に発達して、おそらく何でも解析できてしまうと思うんです。そこから先は建築家が持っているコンセプト、作る意義に共感できるか否かで僕たちの意識も異なります。建築に、やるべきだと思わせる強さがあって欲しい。そういうものをつくっていきたい気がします。
今村──逆に、ジンさんが構造家や横山さんに期待することはありますか。
ジン──ああいうものを追いかけている人が同世代にいるということにまず驚きます。テクニカルなデータにしても、初期コンセプトを出しているのと同じ目線で毎日毎日やっているというのはすごいことですね。
最後に一言だけ加えさせてください。日本はフォールディングの層をもう少し拡げていけたらよいと思います。アメリカでは人種問題という歪みさえフォールディングのリソースにする意図があります。日本では立ち上げるべきポジティヴな未来像、建築的な姿が、社会的な要因からか立ち上がっていない。フォールディングは社会的な歪みとさえ無関係ではなく、そうした状況的な問題を解決しようとする方法でもあるのです。つまり日本は技術大国でありながらバブル後のテクノロジーのヴィジョンのレヴェルで失われたものを回復するために、今後ネガティヴな要素も一気に圧縮し露呈させる「テクノ・フォールディング」というのがありえると思います。そうしない限り技術大国としての達成感はもはや得られなくなってきている。
会場──マッピングを恣意性を排除するために使っているというお話でしたが、なにを重視するか選択する時に、どうしたって恣意性は入ってくるわけですよね。
日埜──僕は恣意性それ自体はまったく問題ではないと思うんです。抽象的なフォールディングの論理から出てくる形態が、ただそのままできあがっても面白いわけがない。クネクネしてるだけでクネクネ自体には意味はない。フォールディングの論理はそもそも異質なものを受け入れる柔軟性を前提として、建築が全体としてある種の全体性を獲得すべく考えられているんじゃないか。マッピングというのは恣意的なリアリティかもしれないけれど、でもそういう恣意性の断片の集積としてのみ現実というものが想定できるわけで、まさにそういう恣意性の受容器としてフォールディングはあるべきです。実施にあたり介入してくるテクトニックの論理、プログラムの本質的な排他性、なんでもよいですけど、そういう平坦ではない現実を受け止めようとするところにフォールディングの現代性はある。今日は具体的な実例についてお話をお聞きしましたが、お二人に紹介いただいた作品だけを見ても、一口にフォールディングと言っても必ずしも似ているとは言えないわけです。そういう幅を持った手法としてのフォールディングについて今回は考えることができたのではないでしょうか。

日埜──これまで二回にわたりこの会のテーマとしてフォールディングについて考えてきました。フォールディングが背負う理論的な背景、形態上の挑戦、テクノロジー、そしてなによりも近代建築のオルタナティヴへの指向、そうしたものは僕らにとって必ずしも遠い話ではない。背景を共有したものとしてこうした建築を考えてみることによって、われわれがフォールディングに対して感じる距離感を具体的に確認し、単なる輸入とは違うフォールディングとの接点を持つことができるんじゃないでしょうか。
今村──今日を含めた三回の討議では、フォールディングが提示するさまざまな問題設定を、どのように受容しようとし、どのようにそれとの距離をとるのかを見てきたと思います。僕自身は、今後の実践レヴェルも含めてどのような姿勢をとるべきかということに、確かに興味があります。
今井──「フォールディングはレトリックな水準から脱していないのではないか」と言いました。それは、近代建築のオルタナティヴを提示するという問題に対する答えが、複雑なことを一気に単純化して示すという一種のラディカリズムの手法によってでなければいけないという感覚が共有できない、ということでもあります。近代建築のヴォキャブラリーをフォールディングで一気に、全域的に変革しないと何か新しいことができないという前提に自分がいないからだと思います。
今村──確かにフォールディングには非常にシンプルな決定論もあり、いろんなことを捨て去って単純化することにより問題がある程度整理されるという側面もあります。しかし、例えば《横浜客船ターミナル》の場合のように自動生成のルールが全体を統合するのだと言っても、実際にはそこから漏れるものはたくさんあるわけです。
吉村──僕は、まずキャンデラやガウディとどこで線引きできるのかをはっきりさせないと、先に進めないという感じでぐずぐずしています。その視点で見つめ直すと、フォールディングの新しさは、「fold」ではなくて「ing」のほうじゃないかという気がするんです。操作の部分は置き換え可能で、穿つでも、削るでも、なんでもいいわけです。ただその操作が継続中であるかのようにみせることが新しい。つまり動名詞ではなく現在進行形の「ing」です。例えば「断面を見せる」というのは、フォールディングに顕著な操作だと思うんですが、それは中を暴く、晒すという意味があるだけではなく、切り落とした先にもスラブや壁が続いていたかのように見せるレトリックだと考えられます。動き続けているものをたまたま固着したようなそぶりが重要なんではないでしょうか。「ing」の部分に注目していくと、まだ何か別の展開がありえるのかなと思います。
日埜──こういうことをこの会でやることは全然意識になかったのですが、昨年《エデュカトリウム》を見てきました。あれが良い建築かというと少し考えてしまいますが、ただ実際に見てみるとなにか強い印象が余韻として残ったんですね。例えばル・コルビュジエの建築を見たとき、視覚的に建築を見ていると同時に、床・壁・天井というような形式的な秩序が頭のどこかに意識されるわけですが、しかし《エデュカトリウム》の場合、そういう建築的な意識がおぼつかなくなり、ただものがゴロっと露呈されていて、ブリコラージュ的に人間の環境ができあがっているような感じがある。この感触は相当重要な達成じゃないかと思います。実際に見た数少ない経験と照らしてみても、フォールディングというのはそういう独特の環境を作っているんじゃないでしょうか。
今井──僕もそう思いますが、でも、「ジュシュー大学図書館」はフォールドしているけれど、あれはやっぱり床ですよ(笑)。むしろ積層している床であるということを前提にしないとああいう造形はできないと僕は思うんです。つまり、積層のさせ方を操作すれば、いわゆるフォールディング的なものに近づく。反対に、ル・コルビュジエの《ラ・トゥーレット修道院》にもフォールディング的というか、位相的な表現があります。マッスとヴォイドの反転表現から始まり、部分の表現ですら本来であれば壁の中にガラスがあり、開口部があるところを、ガラスの中の壁が宙に浮いていたりとか、位相的な操作を見ることができるのですが、ここで重要なのは位相的な観点でのみフォールディングを語ってはいけないということですよね。フォールディングと呼ばれるものは、つまり位相的な観点からすれば近代建築で実現されてきたことと大差がないわけですが、そうではない何かがある、そちらが重要だという日埜さんの考えはよくわかります。僕は、その何かとは、極めて幾何学的、パラメトリックな連続性であると理解しました。もちろん、フォールディングと言いながら連続性の表現を断念して、近代建築的につくっている感じがするものもありますし、今の段階ではむしろそのほうが圧倒的に多い印象を持っていますけれども。
日埜──逆に言うと、位相幾何学的に同じものが建築として同じなのであれば、そもそもフォールディングをやる意味なんかないでしょう。しかしそこに違う種類の実感があるなら、その実感の意味を問うことができます。位相幾何学から見るという視点がそもそも近代建築的なものかもしれなくて、それを取りこぼす形式的な視点が問われているのかもしれない。目の前にあるけれどもまだ言葉として整理されていない、そしてなんの役に立つかもわからないような何かが問題で、フォールディングはおそらくそのためのひとつのアプローチなのでしょう。
今村──形態のヴォキャブラリーを増やしたいというストレートな動機もある。最近の伊東豊雄さんなどもそうです。ですが、そうしたものが本当にいいのかなと思っても、それをはっきり否定する舞台や理論がない。それが正しいかどうかという判断ができずに、とにかく見たことのない新しいことをやる、もしくはそうした試み自身が正しいんだというようなことも多々あると思います。
第一回目で「斜めの床/平らな床」の話が出ました。ただ歴史を振り返れば、現在普遍的条件として捉えられている「平らな床」という建築のヴォキャブラリーも発明だったわけでしょう。イタリアの山岳都市などに行けば、街中みんな斜めの床であって、そこで人々は普通に生活をしています。世界的に見れば、平らな国土に住むオランダ人と山の多い国土に住む日本人とは経験が違う。斜めの床を建築のヴォキャブラリーとして差し出したことが発見的なのであって、そうした空間経験がなかったわけではなく、これまでも斜めの床の持つ豊かさを知っていたのではないかという気はしています。もうひとつ付け加えると、斜めは動きを誘発します。平らの発明によってわれわれは止まっていることが可能になったけれど、斜めであることは移動を自然に導くので、そのことが吉村さんの言った「ing」につながっていく気がします。
フォールディングは、今もの凄い影響力を持つトレンドではないんですね。だけど僕(や今井さんもそうですね)が学生の時は、寝ても醒めてもポストモダン一色だった。喩えれば戦時中の天皇制のごときものかもしれません。それなしには何にも進まず、そして結構正しく聞こえた。その後デコンもあったし、ミニマリズムなどといろいろ続くわけです。今日も会場に学生さんがいらっしゃいますが、彼らの世代と大きく違うのはそういうトレンドにすでに何回か裏切られた経験があることです(笑)。だから今では新しいトレンドに対して最初から斜めから見る癖、言い換えれば、受容の可能性や問題設定に対して自然と距離を持つようになっているようです。それはけっして、単にもう懲り懲りだという態度ではありません。新しいトレンドに対して的確に思考していかないとすべてなし崩しになり、いずれ「実践あるのみ」となってしまう。それもまたまったく違うと思っているわけです。
日埜──結局のところ、フォールディングが唯一無二の正当な手法、というわけでは全然ないわけですね。ただフォールディングの背景はわれわれから縁遠いものではないし、単純なアイディアと切り捨てられない幅を獲得しつつある。誠実と穏健を取り違えるようなことはあってはならないし、結局のところ、ものを考えることであたりまえの建築とは違うなにかを作ろうとしている以上、彼らのラディカルさとわれわれがやろうとしていることの差は程度問題でしかない。着眼点がそれぞれの建築家で違ってくるのは当たり前のことですが、その幅のなかでフォールディングについても一定の受け止め方があるのではないかと思います。
 [二〇〇四年一月二九日、三月四日、四月二〇日]

今井公太郎氏(右) 吉村靖孝氏(左)

今井公太郎氏(右)
吉村靖孝氏(左)

日埜直彦氏(右) 今村創平氏(左)

日埜直彦氏(右)
今村創平氏(左)

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>今井公太郎(イマイ・コウタロウ)

1967年生
キュービック・ステーション一級建築士事務所と協働。東京大学生産技術研究所准教授。建築家。

>今村創平(イマムラ・ソウヘイ)

1966年生
atelier imamu主宰、ブリティッシュ・コロンビア大学大学院非常勤講師、芝浦工業大学非常勤講師、工学院大学非常勤講師、桑沢デザイン研究所非常勤講師。建築家。

>吉村靖孝(ヨシムラ・ヤスタカ)

1972年生
吉村靖孝建築設計事務所主宰。早稲田大学芸術学校非常勤講師、関東学院大学非常勤講師。建築家。

>横山太郎(ヨコヤマ・タロウ)

1966年生
ロウファットストラクチュア主宰、京都造形芸術大学非常勤講師。構造家。

>『10+1』 No.35

特集=建築の技法──19の建築的冒険

>フランク・O・ゲーリー(フランク・オーウェン・ゲーリー)

1929年 -
建築家。コロンビア大学教授。

>ジェフリー・キプニス

オハイオ州立大学建築学部助教授、設計事務所シャーデル・ザーゴ・キプニス メンバー。

>ベルナール・カッシュ

1958年 -
建築家。トロント大学・ランドスケープデザイン学部助教授。

>クンストハル

オランダ、ロッテルダム 展示施設 1992年

>横浜大さん橋国際客船ターミナル

神奈川県横浜市 客船ターミナル 2002年

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>バート・ローツマ

1957年 -
建築史、建築批評家。

>マーコス・ノヴァック

建築家。サイバースペースにおける建築、アート作品を発表。。カリフォルニア大学ロサンゼルス校准教授。

>ザハ・ハディド

1950年 -
建築家。ザハ・ハディド建築事務所主宰、AAスクール講師。

>妹島和世(セジマ・カズヨ)

1956年 -
建築家。慶應義塾大学理工学部客員教授、SANAA共同主宰。

>原広司(ハラ・ヒロシ)

1936年 -
建築家。原広司+アトリエファイ建築研究所主宰。

>伊東豊雄(イトウ・トヨオ)

1941年 -
建築家。伊東豊雄建築設計事務所代表。

>アフォーダンス

アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンが創出した造語で生態心理学の基底的...

>ヴィニー・マース

1959年 -
建築家。MVRDV共同主宰。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>ミニマリズム

1960年代のアメリカで主流を占めた美術運動。美術・建築などの芸術分野において必...