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便宜的リアリズム | 日埜直彦
Oppotunistic Realism | Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) pp.25-26

リアリティ、と言うのは簡単だが、それが何なのかというとなかなか難しい。とりあえず具体的に建築を設計する際のリアリティに限ってみても、どういう現実に対面しているのかはっきりしているなら設計なんて半分終わったも同然で、要するにどうしようもなく目の前にある現実を把握することが設計自体と平行して進むのがむしろ普通ではないだろうか。あるいはなにかを投げかけてみては反応を見るといったことを積み重ねて設計を行ない、そうして建築ができあがってしまえば、その建築自体がまたどうしようもなく目の前に在る。そんな堂々巡りが多かれ少なかれ現実だとしたら、はたしてそこにリアリティなんて明確なものがあるだろうか。
堂々巡りと言っても、もちろんその一瞬一瞬には具体的な条件付けがある。個々の場面で行き当たる課題はそんなぼんやりした話など吹き飛ばすほど実体的で、しばしばどうにも融通が利かないものだ。だがそのこまごまとしたディテールがすなわちリアリティかと言えば、どうも違うような気がする。「敷地が……」とか「機能が……」とかいうのは要するに単に個別の問題だから具体的なのであって、そのことはリアリティとはまた別の問題だろう。もちろん実務に携わる者としては、建築の設計は信頼すべき根拠に基づく、というのが一応の建前ではあるとしても、その内実はそう簡単に割り切れるものではないだろう。
ともあれ下手な考え休むに似たり。こんな書生じみたことを真正面からストレートに考えてみてもはじまらない。いくらか離れた方角に眼を転じつつ、行きつ戻りつそんなことを考えてみようと思う。さしあたってのあてはないでもない。まずは文学の周辺で考えられていること、とりわけイタロ・カルヴィーノの『新たな千年紀のための六つのメモ』に、フィクションとリアリティについて敬意を払うべき考察がある。それから近現代の写真批評の文脈を拾い上げ、その誕生以来リアリティと格闘してきたこのメディアがどう揺れ動いてきたかを見てみたい。その方面に関心がない向きには意外かもしれないが、すこし漁ればそこには相当濃密な批評の蓄積が存在している。他の分野で考えられたことを単純に建築と引き比べてみることにさして意味はないかもしれないが、建築の内部にはそれと応答できるだけのヴォキャブラリーがそもそも欠けているのではないか。少なくともその二つの分野に比べれば建築はリアリズムへのはるかに素朴な信頼を保持していて、リアリティに関する起伏に富んだこうした議論は建築におけるリアリティを考えるうえで参考になるはずだ。

しかしなぜとりわけ文学と写真なのかということについてまずはいくらか説明が必要だろう。例えば音楽や絵画ではなく、文学と写真に眼を向けるのがここではたぶん適当なのである。
ごく普通に考えれば文学はリアリティというよりもむしろフィクションと親和性が高いメディアだろう。叙事的と形容される類いの作品であってもそれが事実のストレートな言語化と考えられることはまずなくて、文学は第一義的にはまず創作されるべきフィクションである。しかしながらこと二〇世紀の文学においては少々事情が異なる。二〇世紀の文学はリアリズムを求める社会的圧力に包囲され、また自らリアリティへの接近を志した。目の前の現実から遊離した純粋なフィクションなど非生産的な現実逃避に過ぎないとでも言わんばかりの調子で、いかなるリアリティをそのフィクションが背景としているかが文学作品の試金石とされたのが文学の二〇世紀の一側面である。例えばプロレタリア文学やいわゆるリアリズム文学のことを考えてみれば、それがいかに現実の不当さ・悲惨さの告発に熱心であり、厳しい現実を生きる人々の生活に一片の喜びを見出すことで慰めを与えようとしたか、なんとなく想像できるだろう。二〇世紀文学にとってこの種のリアリズムは倫理的義務として抑圧的に作用した。カルヴィーノは次のように書いている。

私が活動し始めたとき、我々が生きている時代を描かねばならないということが若い作家だれしもの義務であり、至上命令でありました。★一


実際カルヴィーノもこの「至上命令」を受け止めるような作品を処女作として書いている。パルチザンとファシズム勢力に分裂した祖国に生きる少年(作者自身の少年時代をモデルとしている)を主人公とした一種の冒険物語だが、構図としてはリアリズムの一種に見えて、しかしそれをファンタジーの水準に昇華させようとする意図が伺える。カルヴィーノはそれ以降一貫してリアリズムの枠組みを迂回しつつ寓話的作品や民話採集に取り組み、しだいにボルヘスなどにいくらか近い、文学における一種のフォーマリズムへと作品を展開していった。近代文学の趨勢としてのリテラルなリアリズムに対して彼はフィクショナルな領域を匿い擁護し、社会のリアリティに依存したリアリズムを迂回しつつ、文学独自のリアリティの可能性に注力したと言ってよいだろう。
写真というメディアも文学と同様、あるいはより激しくリアリズムに揺さぶられてきた。写真はその原理からして現実の光学機械による記録であり、どのようなリアリティをカメラで切り出すかが写真芸術の本質と考えられる。だが写真の歴史をもうすこし間近に見てみれば、かなり複雑な状況が見えてくる。そもそも写真機の発明以来今世紀初頭までの写真はおおむね肖像画や風景画のような絵画の代用品であり、写真はモチーフや手法において絵画を模倣していた。そのような写真を特にピクトリアリズムと呼んでいる。これに対し、技術革新によって写真が正確さにおいて絵画を圧倒するようになると、写真独自の特質としての機械的正確さによるリアリズムを追求するストレート写真が現われてくる。ソフトフォーカスやボケのような手法でピクトリアリズムの写真が一種の絵づくりを行なうのに対して、ストレート写真はそういった操作を排し、対象のありのままの姿を定着しようとする。だが最終的に写真がフレームによってイメージを切り取る以上、どのような写真も常に写真家の選択の所産であり、その意味で写真が写し出すリアリティが単純な現実の反映であるわけはない。肖像画のリアリティが多かれ少なかれ被写体の理想像を反映するように、ありのままの姿を捉えようとするストレート写真も写真家の個人的なリアリティに依存する。こうして写真というメディアは、リアリティの反映という基本的な指向性を堅持しつつ、しかし何がリアルなのかという問いを中心として独特の展開を見せる。クリシェと化した商業的写真、政治的メッセージに従属する写真、アノニマスな日常に浸透したありふれた写真、こうした大量の写真が流通する現在において、「ありのままの姿を映し出す」などと素朴なことをいつまでも言っていられるわけもない。カメラでなにかを撮影し、イメージを定着する、ということだけが写真ではなく、写真に切り取られるのはフィジカルな被写体そのものではもはやない、そういう水準に現在の写真はある。

文学がフィクションを基底面としてリアリティと対面し変容を遂げつつあるとすれば、写真はリアリティを基底面として、その領域を圧倒的に拡張させてきた。どちらの分野においても何がリアルで何がフィクティヴであるかという問題設定はジャンルの本質と関わる中心的な課題となり、それぞれのメディアの内的条件を掘り下げていく動因となっている。こうした情景を垣間見るとき、建築における一種の便宜的リアリズムが奇妙なものに見えないだろうか。建築にとってのリアリティは現在一体どのような水準にあるのか、そしてそれをわれわれはどう扱いうるのか。しばらくはこの問題について考えてみたい。


★一──イタロ・カルヴィーノ『カルヴィーノの文学講義──新たな千年紀のための六つのメモ』(米川良夫訳、朝日出版社、一九九九)、一六頁。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.40

特集=神経系都市論 身体・都市・クライシス