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鈴木理策《サント・ヴィクトワール山》(前編) | 清水穣
Risaku Suzuki Mt. Ste-Victorie, Part One | Minoru Shimizu
掲載『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) pp.17-18

写真は、言葉に対して無防備である。だがその写真をめがけて投げかけられる言葉はたいてい二つに割れて落ちる。写真を論じる仕方はかなり以前から二極化している。だから写真批評、すなわち写真そのものを見て語ることは、あいもかわらず困難である。写真の無防備とは、われわれの視線と言葉を逸らす力であるかのようだ。
写真論のひとつは、ジャーナリスティックなそれである。写真を論じるとは、写されたものや人物を語ること、被写体の意味、歴史、文脈を論じることである。または写した人物を論じること、写真家の伝記的事実、人間関係、写真史のなかの位置、写真家の書いたテキスト、インタヴューなどを論じる。この種の写真論は、写真論というよりは写真を取り巻く情報のコーパスであって、写真を見るというよりは、写真家と被写体を見ている。そのあいだで写真不在の写真論である。
もうひとつは、写真をめぐる上のようなジャーナリスティックなお喋りを(正当にも)批判する立場である。写真は、被写体にも写真家にも還元されない「第三の意味」をなす。写真とは、被写体や写真家についての意味、解釈、イメージなどに回収されない純粋な経験(「リアル」「いま・ここ」)であるから、それをお喋りや物語で汚してはならぬ。「写真を見る」とは、表象システムへの安易な還元を拒む、イマージュの唯物論的な力と、不意に遭遇してしまうこと、なのである。写真の本質は、まさにわれわれの解釈や意味の外部に存在する。その外部とは、裸の現実であり、ありのままの世界であり、人間的なものの彼方の砂漠である。実体ではなくある極限性として記述されるこのようなリアリズム=外部性に写真を関係づけて論じるタイプの写真論を「砂漠のディスクール」と呼んでおこう。
前者は必要不可欠な情報が並ぶだけなので人畜無害であるが、後者は言うに及ばないほど自明であるか、ひたすら観念的なので注意を要する(写真論専攻の大学院生などはたいていこのディスクールに感染すると言ってよいだろう)。一番の問題は、写真という経験を純化しようとするあまり、どの写真家のどんな写真でも結論は常に同じになってしまうことだ。「……の写真は、観る者をあらためて写真という根源的な経験へと連れ戻すのである」、「根源的な経験」の箇所には、「語りえぬもの」に属する概念──空虚、盲目性、決定不可能性──ならなんでも代入可能である。砂漠のディスクールの批評家は、作家の思うつぼにはまって良い気分だ。写真論として哲学的な観念のうちで完結しているので、具体的な写真を前にすると、「砂漠」や「ありのままの現実」という言葉を誘引するようなエフェクト(眼を射る強い逆光、フラッシュ、反射光など)や被写体(戦争、死体、アングラなど)に、それこそ安易に流されやすい。人は写真を見ることなく、それを「表象システムの果て」へと追いやる。
ところで、「存在者」と「存在」にも似た、この「写真家・被写体論」と「第三の意味」の二元論に関連して、写真論にはもうひとつ、より有名な二元論がある。ピクトリアルvs.ストレートという二元論である。両者は、写真とはなにかという問いへの二つの応答として、執拗にそしてさまざまに変奏されながら写真史を貫き、今日にまで至っている。ピクトリアリズムは「写真家の自己表現としての写真」と言い、ストレート・フォトは「カメラ・アイによるありのままの現実の露出」と応じた。二つの立場はのちにシャーコフスキーによって「(作者の観念や美意識を映し出す)鏡」の写真と「(赤裸々な現実へと開かれた)窓」としての写真というふうに整頓される。その後、表現主体としての写真家が捨象されたバルトの写真論においても、一般的な表象システムに回収される意味(ストゥディウム)と回収されない外部性の顕現(プンクトゥム)というように変奏され、現在ではデジタル加工写真とアナログスナップショットの二分法に現われている。
写真史は写真という新しいメディアが絵画からやがて独立し、独自の美学のもとに発展してきたという形態を取るので、ピクトリアリズムはいわば非本来的で反写真的な傍流と見なされてきた。しかし一八八〇年代から一九三〇年代までの写真史に登場する「ピクトリアリズム」、「自然主義写真」、「リンクト・リング」、「フォト・セセッション」、「ストレート・フォトグラフィ」、「新即物主義」、「リリック・ドキュメンタリー」といった流れを、文献や具体的な作品で追っていくと、この二元論は雲散霧消してしまう。「ピクトリアリズム」自体がきわめて多種多様であったからとか、写真史的に用語(とくにストレート・フォト)が不正確だからではなく、写真論として「ピクトリアル」も「ストレート」も本質的に曖昧なのである。
前者はソフトフォーカスや特殊プリント技術などの手段によって絵画を模倣した写真といわれる。だが同時代の絵画はすでに印象派、つまり写真を前提とした絵画なのだ。写真によって絵画は現実描写という伝統的な機能を奪われた。印象派以降の現代絵画とは「では、絵画とはなにか」という絵画なのであり、描写なき純粋な絵画性の追求である。絵画にしかできないこととは?  写真と異なる絵画の本質とは?  ……という思考によって現代絵画は、絵画の本質のみを純粋に表現しようとする。それを表現してしまえば、そこで絵画は終わる。かつてイヴ=アラン・ボアが論じたように、現代絵画は初めから「最後の絵画」だったわけである。
それに対してストレート・フォトとは絵画性の排除であった。それは「では、純粋な写真とはなにか」という写真なのだ。絵画ではなく写真によってのみ可能なこと、絵画的なものの混じらない純粋な写真を追求する。ここにはむしろ現代絵画との並行性が見出される。写真に否定されて現代絵画は純化の道を辿り、純化された絵画をピクトリアリズムが模倣し、それを否定してストレート・フォトが写真の純化へと向かう。現代絵画とは、写真の登場によって「ストレート」になった絵画であり、ストレート・フォトは絵画から離反しようとして「ストレート」になった。自己純化と本質への還元を互いに相手に負っている点で両者は等しい。当然、絵画の純化が抽象へと進めば、抽象画とストレート・フォトは似てくるのであり、ストレート・フォトこそがピクトリアルになる。純粋な絵画とはなにか、それは写真ならざるものである。純粋な写真とはなにか、それは絵画ならざるものである。こうして、ストレートな絵画とストレートな写真を分けることはできないし、それ自体で定義もできない。新即物主義であろうと、決定的瞬間であろうと、ドキュメンタリーであろうと、ほとんどすべての写真はピクトリアルである。ほとんどすべての絵画は写真的になった。
さて、写真に否定された現代絵画と、絵画的写真を否定したストレート・フォトが表裏一体であるとき、そのあいだで忘れ去られたピクトリアリズムの意義とは「ストレート」ではないことである。私が考えているのはピーター・ヘンリー・エマーソンの自然主義写真である。写真のストレート性とは、人間的な意味や表象のフィルターを透さず、カメラ・アイによって対象物自体をじかにありのままに「撮る」ことであった。シュールリアリズムを経由して、ここから砂漠のディスクールまでは一本道である。それに対して自然主義写真は、この支配的なディスクールから外れた位置を占めるだろう。エマーソンの「自然」とは、対象物をありのままに「見る」ことに関わっていた。「自然は驚きに満ちあふれ、全てがよく考慮されており、ありのままの姿を描写することこそ最善の方法なのである」。『自然主義写真』(一八八九)において彼がこう述べるとき、それは自然をありのままに撮影せよ、ということではなく、われわれの視覚が自然を見て認識する、そのままの自然の姿を写真にすることが問題なのである。写真は絵のように美しくあってはならず、視覚の真実を写し出さなければならない。「美という観念は彼にはなかった。彼は真実の観念だけを持っていた」★一、「芸術家は記録装置にほかならない(…中略…)画家は自然と平行する」★二。セザンヌがエマーソンの著作を読んでいたのかどうか、私は知らないが、両者の言葉のなかには響きあうものがある。ありのままの自然を「撮る」のではなく、自然をありのままに「見る」とはどういう事であるのか。
周知のように、そこでエマーソンは「ディフ ァレンシャル・フォーカシング」の理論を提唱する。カメラ・アイにとってはすべての風景は等価であるが、人間の視覚は不均一であ って、見ている対象に焦点が合い、そこを中心として周縁部分に向かって焦点がぼやけていく。これがありのままの自然な視覚であるから、写真も視覚の中心に焦点を合わせ、そのほかの領域と差異化するべきである、と。「オレンジでもリンゴでも球でも頭部でも、そこにはひとつの頂点がある。そしてこの点は常に、光と影、色づける感覚による恐るべき効果にもかかわらず、われわれの目に最も近い」★三。遠くのものであっても、人がそれを見ているときには、どんな遠近法にも逆らってそれは眼に最も近いのだ。エルミタージュ美術館にあるセザンヌの有名な作品を見るとき、それはディファレンシャル・フォーカシングでなくてなんであろうか。
つまり、ピクトリアリズム写真の絵画性は、ストレートな現代絵画の絵画性=写真性にではなく、別の傍流の絵画性に、「最後の絵画」ではなくいわば終わらない絵画に対応する。セザンヌはこう言っていた。「他の者たちは──モネが風景でしたことをするであろう──彼らは写真を撮るであろう」★四。
(この項続く)

セザンヌ《エクス近郊の松の大木》 1890年代末(エルミタージュ美術館所蔵) 引用図版=The Ermitage, P-2 Art Publishers

セザンヌ《エクス近郊の松の大木》
1890年代末(エルミタージュ美術館所蔵)
引用図版=The Ermitage, P-2 Art Publishers


★一──エミール・ベルナールのセザンヌ論。Conversations avec Cézanne, Macula, 1978, p.58.
★二──セザンヌのギャスケとの対話。Ibid., p.109.
★三──一九〇四年七月二五日ベルナール宛手紙。Cézanne Correspondance, Grasset, 1978, p.304.
★四──セザンヌのギャスケとの対話。Ibid., p.154.

>清水穣(シミズ・ミノル)

1963年生
現代写真論、現代音楽論。

>『10+1』 No.40

特集=神経系都市論 身体・都市・クライシス