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水≒鏡への憧れ | ヨコミゾマコト
Aspiration for Water as a Mirror | Yokomizo Makoto
掲載『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) pp.100-101

読書術とのことだが、単なる読書案内になってしまうかもしれない。
とりあえず文学作品から始めてみよう。山尾悠子の「遠近法」という作品。〈腸詰宇宙〉というのがあって、基底と頂上のない円筒形の内部に広がる(と言っても上下方向のみだが)宇宙の話。彼女の作品には澁澤龍彦、三島由紀夫、光瀬龍らに通じる終末感とエロティシズムとサディズム、視覚的イメージの喚起力がある。ちょっと疲れたとき、さらに気持ちよく疲れたいと思ったときに読み直したくなる。同じ山尾の「夢の住む街」に出てくる天使たちのイメージは強烈すぎる。娼館の屋根裏部屋に大量に繁殖しているのだが……、まあ読んでみてほしい。国書刊行会から作品集が出ている(『山尾悠子作品集成』、二〇〇〇)。
演劇論だが、ピーター・ブルックの『なにもない空間』(高橋康也+喜志哲雄訳、晶文社、一九七一)には、きわめて示唆的なことばを随所に見つけることができる。例えば、「形式というものはいったん作り上げられたらすでに死んでいる」、「純粋さは不純なものを通じてしか表現できない」などなど。「二人の人間が出会ったら演劇は始まる」というくだりでは、必要なものは劇場という箱ではなく、観客と演者との相対的かつ流動的な関係性なのだということを素直に納得できる。ワークショップでの記録をもとに編集された『秘密は何もない』(喜志哲雄+坂原眞里訳、早川書房、一九九三)のほうが読みやすいかもしれない。
都市論として、ジャン・ボードリヤールの『象徴交換と死』(筑摩書房、今村仁司+塚原史訳、一九八二)。最後まで行ったかどうか覚えていないが、うなづきながら一気に読んでしまった覚えがある。ちょうど東京はバブルの真っ最中。世の中すべてが不確実性の固まりだ!と感じたことを理論的に力強くバックアップしてくれたように覚えている。ただし今、どう読み直せるのだろうか? 古典と呼ぶには早すぎる。当時の斬新な挑発的言説も、二〇年経た今は、やや色あせて感じるかもしれない。現実のほうが論文を超えてはるかに過激化しているから。
ボードリヤールがコンパクトカメラで撮り貯めたという写真展も良かった(パルコギャラリー、一九九七)。
《Saint Clement III》というタイトルの写真に一目惚れしてしまった。水面を写した青い写真なのだが、壊れた白っぽい自動車が水に透けて見えている。上手く説明できないのが歯がゆいが、とにかく美しいのである。会期終了後だいぶ経ってから、どうしても忘れられなくて、展覧会を企画した梅宮典子さんにお願いしてプリントを取り寄せてしまった。生まれて初めて購入したアートである。もったいなくて箱にしまったままになっている。本当は身近に良い壁があれば掛けておきたいのだが……。
実は、水面の写真が好きである。例えば畠山直哉の写真集『LIME WORKS』(シナジー幾何学、一九九六)の最後のほうに出てくる夕暮れ時の水面に大小さまざまな木片が浮遊している写真。リチャード・ミズラックの『DESERT CANTOS』(トレヴィル、一九八八)シリーズにある水没した南カルフォルニアの砂漠の街の写真。震えるほど美しい。なぜだろう? 水面の写真に惹かれる理由にいつか自分で気がつくだろうか。

1──Richard Misrach, DESERT CANTOS

1──Richard Misrach, DESERT CANTOS

ル・コルビュジエの『Aircraft』(Trefoil、一九八七)も良い本だと思っている。ル・コルビュジエのまとまったテキストは前段だけで、あとは一九三五年当時にかき集めた航空機に関する写真を並べて、それらに短い解説をつけただけのヴィジュアル・ブックのようなものなのだが、見ていて実に楽しい。解説も興奮気味の歌い上げるような調子で書かれている。ちゃんと翻訳して、かわいらしい装丁で出版したらいいと思う。おきまりの機能と形の関係から始まり、空気の流れと重力のバランスから導かれる航空機の形を賞賛し、「Clart・de la Fonction!」。最後は、航空機がもたらした〈鳥瞰〉という視点の話となる。地球の表面が土と水でできていることを再確認し、地図に描かれた国境の無意味さ、水の流れが作り出したランドスケープの奇妙さと美しさ、中世都市の中心性と現代都市の散逸性。自動車や客船の話はよく登場するが、当時の最新技術の粋であった航空機が与えた思想的影響も相当なものであったに違いないのである。
このあたりで建築の本の話をしよう。構造家セシル・バルモンドの『informal』(Prestel、二〇〇二)は、仕事をしながらちょっと詰まってしまったときによく手にする一冊。セシル氏に初めてお目にかかったのは、一〇年くらい前、伊東豊雄建築設計事務所でだが、一目で視野の広い人だと感じた。土の話、風の話、熱の話から始まって、構造と設備の話に収斂していく。優れた構造家は優れた思想家である。『informal』には、氏のマニフェストがちりばめられている。つい先日も、「Is it structure? Is it pattern? Or, is it architectural device? The answer is; all three.」というくだりを目にして、たいへん勇気づけられた。
話は変わってダンスの世界へ。対極的と思われるかもしれないが、ピナ・バウシュとウィリアム・フォーサイスが良いと思っている。ピナの作品はどれもみな良いのだが、とても印象的だったのは《ダンソン》。最後にポルトガルのファドの曲でピナ本人がゆったりと踊るシーン。バックには大写しにされた金魚がゆらゆらと泳いでいる映像。身の回りに空気をまとわりつかせながら、自らが乱した空気の流れに再び身を任せるかのように、身体がよれる。見とれながら、この時間が永遠に続いてほしいと感じた。一方、フォーサイスの作品で真っ先に思い出されるのは、《エイドス:テロス》だ。滝沢直己の衣装も含めてとても美しい舞台であった。舞台の上下に張られたワイヤーに、色とりどりのダンサーたちがさまざまな角度からアクセスして、絡まり、乗り越え、弾き、弾かれる。そのワイヤーの振動がサンプリングされ、ディストーションされホールに響きわたる。運動と色彩と音響による形式性のない形式をもとめて繰り返される試行。あの緊張感は忘れがたい。
ピナの作品には、さまざまな人種や体型のダンサーたちが登場する。男は限りなくだらしなく、女は限りなく挑発的で母性的。衣装もきわめて日常的。それぞれのダンサーの身体の固有性を、作品というひとつの全体性のなかに押し込めていないところがなんとも嬉しい。雑多なものがそのまま放置された感じ。演出をまとめていく現場に立ち会えたら、さぞかし学ぶことが多いだろうと思う。そのことは、舞台美術に関わらせてもらった山崎広太の《ショロン》でも感じた。できあがった舞台を観るよりも、稽古場に通うほうが一〇〇倍もおもしろかったのである。自分がふだんやっている建築の設計と、数十分間のダンスを作り上げていく演出作業とに共通点や相違点を見つけることが楽しかった。いつもピナ・バウシュを観終わった直後には、生と性と精を強く感じる。使われている音楽も良い。ラジカセで録ったようなノイズだらけで哀愁のただようラテン系の曲が似合う。世界の多様性を謳いあげているピナ・バウシュ節を観たくて、来日するたびに出かけてしまう。
さて、最後は映画の話。アンドレイ・タルコフスキーの『ストーカー』(一九七九)は好きな映画のなかのひとつ。何か忌まわしい大きなアクシデント後に出現したと思われる「ゾーン」。当局の管理下に置かれ、けっして入ることのできないその地域に忍び込み、何もしないで、何もなかったかのように戻ってくる人たち。その「何も……」というところがとても重要。観るたびに違うことを考えてしまう。映画に限らず優れた作品は、観る者自身を写す鏡となるのである。
そういえばタルコフスキーの映画には水がよく出てくる。水面に惹かれる理由は、水≒鏡だからか……。

2──Le Corbusier, Aircraft

2──Le Corbusier, Aircraft

3──Cecil Balmond, informal

3──Cecil Balmond, informal

>ヨコミゾマコト(ヨコミゾマコト)

1962年生
aat+ヨコミゾマコト建築設計事務所主宰。東京藝術大学建築科准教授。建築家。

>『10+1』 No.38

特集=建築と書物──読むこと、書くこと、つくること

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>伊東豊雄(イトウ・トヨオ)

1941年 -
建築家。伊東豊雄建築設計事務所代表。