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最小限住宅──起きて半畳、寝て一畳 | 西川祐子
Minimal Housing: Make the Most of What You Have | Nishikawa Yuko
掲載『10+1』 No.24 (フィールドワーク/歩行と視線) pp.33-34

今、小さい家が注目されている。戦後の住宅はひたすら部屋数をふやすことと、大きな家になることを目指してきたのだが、家族数が減れば方向転換がありうる。小さい家は一室住宅になることも多いから、本連載の扱う対象となるであろう。大きな家は伝統民家と呼ばれて、文化財として保存されるが、その昔、大きな家のまわりにあった無数の小さな家は時間の経過とともにはやばやと消え去ることが多い。「起きて半畳、寝て一畳」ということわざがあるように、最小限住宅という概念は新しいものではないのだが、それがどのように住まれたか知りたいと思う。
個人の家の伝統に庵がある。庵またはいおりは「木で作り草で葺いた粗末な小屋。特に、僧や世捨て人、又は、風流人の閑居する小屋」(小学館『日本国語大辞典』)とされるのだから、これは家族のための家ではなく、個人住宅である。わたしは京都の東山連峰のふもと、詩仙堂の近くの金福寺という小さな寺にある〈芭蕉庵〉をよく訪ねる。〈芭蕉庵〉という名前なのだが、芭蕉が住んでいたわけではなく、鉄舟というこの寺の中興の祖にあたる僧が寺にある庵にしばしば芭蕉を泊めたことがあり、一六九四年の芭蕉の没後、俳人を偲んでいおりを〈芭蕉庵〉と名づけた。やがて寺は荒れて、庵もなくなっていたところを、一七七六年に蕪村がこれを再建したのだという。蕪村とその門人たちの墓も傍らに建立されており、むしろ蕪村庵と呼ぶべきであるかもしれない。蕪村の墓にはいつも二〇ほど蕪村の俳句を記した木の札がかかっており、季節ごとにその札が掛け替えられる。いおりに上がることはできないが、近くまで寄って開け放たれた内部を観察することができる。
庵は軒が深く、南と東を縁がめぐっている。そのため三畳と台目(一畳の長さの四分の三の畳)および床の間という大きさの部屋が広々と感じられる。西には突き上げ窓が開けられている。窓も南と東の内側の建具も紙障子であって、庇となる突き上げ窓と深い軒によって雨風からまもられている。小さな炉が切られていて茶室風であるが、炉は隅に置かれているから、独り寝、ときには二、三人の共寝もできそうな空間が確保されている。隣室として水屋が広く設計されているのも印象的である。こちらは中央に大きく炉が切られており、流しと土間がついている。流しの前面に下地窓が、東側には明かり採りの窓がついていて手元は明るく、調理と煮炊きのための配慮がされている。水屋は台所というよりダイニングキッチンであり、二室で食寝分離が行なわれているかのようだ。炉は孤食にも便利そうだが、むしろ墓地に俳人たちの墓が集うているように、生前の俳人たちが鍋を囲む様子が想像される。
個人住宅の記録としては、さらに時代を遡ること約五五〇年、一二一二年に鴨長明が執筆した『方丈記』がある。わたしは『方丈記』のできるかぎり正確な数字をもって記述しようとする記録精神にひかれる。事件の記述は、何時、何処で、誰が、何を、どのように為したかが明快である。とくに地震、つむじ風、大火、飢饉が度重なって都大路に累々と横たわる死体の数の記録には鬼気迫るものがある。同じく住まいに関する記録についても数字表現が特徴的だ。
鴨長明は「すべて、ひとの、すみかつくならひ、かならずしも、ことのためにせず。あるいは、妻子さいし眷属けんぞくのために造り、或は、親昵しんぢつ朋友ほういうのために造る。或は主君しゅくん師匠ししやう、及び、財宝ざいほう牛馬ぎうばのためにさへ、これを造る。われ、いまのためにむすべり。人のために造らず」と言うのであるから、『方丈記』は堂々たる個人住宅宣言と言えるであろう。「一間の庵、自らこれを愛す」とも言う。こうして自分のために造る住宅とは「ひろさはわづかに方丈ほうぢやう、高さは七尺しちしやく」すなわち三メートル四方で高さ二メートル強である。おまけに「継目つぎめごとに掛金かけがねけたり」であって、移動が考慮された組立式住宅であるらしい。さらに「日野山ひのやまおくあとかくしてのちひがしに、三尺余さんじゃくあまりのひさしをさして、柴折しばをりくぶるよすがとす。みなみ(に)たけ簀子すのこき、その西にしに、閼伽棚あかだなを造り、きたせて、障子しやうじへだてて、阿弥陀あみだ絵像えざう安置あんちし、そばに、普賢ふげんけ、まへに、法華経ほけきやうけり。ひがしのきはに、わらびのほとろをきて、よるゆかとす。西南にしみなみに、たけ吊棚つりだなかまへて、くろ皮籠三合かはごさんがふけり。すなわち、和歌わか管弦くわんげん往生要集おうじやうようしふごときの抄物せうもつれたり。かたはらに、こと琵琶びは各々一張おのおのいつちようつ。いはゆる折琴をりごと継琵琶つきびはこれなり」とは、簡にして要を得た描写である。
この記述をもとに『方丈記』の庵の復元(中村昌生京都工業繊維大学名誉教授の作品が鴨長明ゆかりの京都の下鴨神社に再現されたという報道がある[京都新聞、一九九八年一一月三〇日])や、平面図、立体図をおこす試みが幾度もなされている。そのなかでも『朝日百科 日本の歴史』に載っている再現図は具体的で詳しい。とくに阿弥陀像は一定の時刻に差し込む落日を背後からうけてちょうど眉間から後光がさすように見える位置に掛ける工夫がされていると思われるので、推定復元図においても突き上げ戸を上げて夕陽が入るようにしているという説明が興味深い。暮れなずむ室内に差し込む金色の光線が浄土幻想を演出する瞬間を想像することができる。最小限空間は衣食住の道具だけでなく、仏典、写本、楽器、そして文具のそろった贅沢空間なのである。
時代はふたたび下って一九九六年、すでに不況やリストラがはじまっていたが、二〇〇一年の現在ほど悪化してはいなかったころ、新聞の社会面に八段ぬきで「車で生活四年 夫婦衰弱死」という記事が載った。車は東京都江東区新木場四丁目の埋め立て地、工業団地のそば、人通りが少ない場所にあったので発見が遅れた。発見時には夫は死後二週間、妻は死後一週間を経過しており、「妻は運転席に座り、助手席の夫に寄り添うように倒れていた」と記されている。記事には「病気で失職 家賃ため 公団住宅を強制退去」という二つめの見出しもついていた。事件の規模に比して大きな扱いであった。さらに三つめの「夫六八歳元部長? 妻六四歳元ピアノ教師」という見出しもあって、典型的中流の没落、夫婦が最後の瞬間まで残していた階級の文化資産の雰囲気が記者の心をとらえ、一億が総中流意識をもつといわれた当時の社会がいだいていた潜在的な恐怖心に訴えるものがあったと思われる。
福祉のさしのべる手を拒んで四年間つづけた「車輌生活」はどのようなものであったろう。夫婦は最初は住んでいた団地の近くに車を止めて暮らしたが、その後は夢の島公園などを転々としたらしい。車検は三年前に切れ、発見時にはタイヤ二本がパンク、ガソリンは入っていなかった。携帯用のガスコンロ、なべが積まれ、後部座席に毛布、ビニール袋に入った着替え、傘が発見された。車はもうひとつの部屋あるいは家にさえなりうるということに、わたしは心うたれて、この記事を「住まい」のスクラップにはさんでおいた。
極限の小住宅はたしかにそれ自体、狭いのであるが、周囲に空間と人間関係がある。移動の自由もありそうだ。孤独死をとげた夫婦にも月に一度細々とした買い物をする売店があり、店員が発見者となった。死後一週間の発見は遅すぎるように見えるかもしれないが、むしろ、彼らの意志を尊重しながら見守る気づかいがあったことを示している。芭蕉庵には孤独を選ぶ人々が集まった。『方丈記』の作者には親しい小童がいた。「かれは十歳とを、これは六十むそぢ。そのよはひことのほかなれど、こころなぐさむる事、これおなじ」。

1──金福寺芭蕉庵平面図 出典=城戸久『先賢と遺宅』(那珂書店、1942)

1──金福寺芭蕉庵平面図
出典=城戸久『先賢と遺宅』(那珂書店、1942)

2──『方丈記』の庵の復元 出典=『朝日百科 日本の歴史』第5巻

2──『方丈記』の庵の復元
出典=『朝日百科 日本の歴史』第5巻


3──浅野竹二《日本のことわざ 1》(1975─77)

3──浅野竹二《日本のことわざ 1》(1975─77)

★──引用はすべて『方丈記』(安良岡康作訳註、講談社学術文庫)。

>西川祐子(ニシカワ・ユウコ)

1937年生
ジェンダー研究、日本とフランスの近・現代文学の研究、伝記作家。

>『10+1』 No.24

特集=フィールドワーク/歩行と視線