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隠喩としてのテクスト──多木浩二の病理的ゲーム | 大島哲蔵
Metaphorical Texts : Koji Taki's Pathological Game | Oshima Tetsuzo
掲載『10+1』 No.12 (東京新論, 1998年02月10日発行) pp.30-31

多木浩二氏(以下敬称略)が「今後基本的に建築を論じることはないだろう」として瓢然と建築界に背を向けてから、かれこれ一〇年が経過している。それでも本誌のバックナンバーなどで健在ぶりに接し、いくつかの新書版などで文化評論を味読することも可能である。それならなぜ「建築」を棚上げにしてしまったのかが問題になる。最初からいわゆる建築など問題にしていなかったとも言えるが、とりあえず定期的に寄稿していたトップ・ランクのライターが、「お付き合い程度」に変心してしまった動機は、探られてしかるべきだろう。
建築を論じるという消耗な作業のストレスが高じた結果──というより、いやおうなく設計行為の妥当性や正当性に収斂する議論をかわしたと考えるほうが近いのかも知れない。つまり論じられたのは、いかに建築を論じることが可能なのか(不可能なのか)であり、それが一定の成果を収めたのをしおに中断された──それ以上の対他的/対自的な批評空間を構築できる見込みが立てられなかった──わけだろう。建築は実用品であると同時に芸術性をもつが、へーゲルが指摘(違う意味でだが)したように、それの関心が上部構造に目覚めた時には芸術たりえない宿命をもつ。つまり概念がいずれ物象化され収益化されることで、メタレベルに達した批評が批評対象=建築とダイナミックにからみ合い相互的に発展していく契機はあらかた見失われる。
それにもかかわらず多木の筆法は芸術品で、独自のフレージングが心地良いリズムを刻み、芳醇な文言がとび交っている。その論調には世界的な同時代の先進的知性が発する言説がのりうつっていた。それらは多くの場合のような付け焼き刃ではない。「なりきっている」というより、思考の性癖や肌理、言い回しが符合すると共に、すんなりと日本語に置き換わっている。その洗練されたたたずまいは随意的な突っ込みをさしはさむ余地をあらかじめ封印し、「これはそっとしておいたほうが良いな」と誰しもに想わせるほどだった。建築とは「別に」あるいは建築をよそに、官能的なまでのエクリチュールを完成させたのが彼の切り拓いた境地である。
建築という現象を構造的に記述する企図は、基本的に論述そのもののはらむ課題に立ち向かうが、それはつまり建築そのものを解明する普遍的な立場などどこにもない、というペシミズムを背景にしている。建築論が浮き彫りにしてきたのは、それぞれの論者なりの多様な建築のポートレイトや性格描写が際限なくありうるという事実だった。この点を逆にオプティミスティックに受け取ったのが日本の建築批評(多くは建築家による)で、従ってそれはどこまで行っても理論ではなく理屈であり、真に問われるべきは、「作品批評」でもなく、「イデオロギー批評」でもなく、建築という概念そのものを批判しようとする甘美なプロジェクトについてである。
建築論や概括的な建築史が、説得性の差こそあれ、建築そのものより書き手の主観的想像力を競いあうことにしかならない点は、いまや広く知られている。そのストーリーは、いずれ仮説の構築物に重々しいフレーズ(哲学ものが最適)を切り貼りしてカテドラルを仕立てあげるのが常だが、いまや著作権が発生したその仮設の建物は、はた迷惑なことに、もともとそこに存在し、永遠に存続するものとされる。また個別の作品が神秘的なメカニズムで胚胎する様態(プロセス)に肉薄してみたところで、それは生殖行為リプロダクシヨンの手練手管を解説する愚をおかすことにしかならない。そのことを前提としたうえで、社会と作家が建築を捏造するプロセスを解明する作業もまた、いかに完璧な文章術をもってしても暗礁に乗り上げる運命にある。つまり遊体離脱した機能言語が先に亢進してしまうことによって、分析対象(=建築)がとり残されてしまう。
決定的な典拠の不在のなかで、建築的病理のカルテは無限に綴られ症例は精緻に分析されたが、その作業を延々と続けるのもまたひとつの神経症ノイローゼではないだろうか。たがいに近似した言説のディテールがアラベスクのように連なって無限旋律を奏でるのだが、全体像は示されない(か、あらかじめ割れている)。ディテールはスカルパのそれのようにきまっているが、ヴェネチアのような「外部」を持たない多木の構築物はドメスティックに内向するほかはない。それを求心力を排除した高次の文体であると言って済ますことはできない。つまり問題の核心は「テクストの快楽」にとどまるものではなく、テクストのポテンシャル──戦闘能力──が(結局のところ)問われる。この場合特殊だったのは、そのディレンマを痛切に感じ取ったのが、あくまで呑気な読者よりも書き手自身だった点である。
日本という理論密度(思考密度と言い換えてもよい)の希薄な空間にそれが発せられた時に事態はいかに推移するのか。そこでも理論らしきものは不断に発せられるが、満足な形で流通したためしはなく、その状況下でたまたま突出した思考は情況的な平準化をこうむり、そのプロセスで抑圧の手段にすり変わる。そのとき彼はそのジャンルを辞したい気分に襲われたに違いない。さしずめ建築そのものが問題になる以前に、敷地環境が最悪といういまやおなじみのハンディが紙面(ぺージ)の津々浦々を席捲していたと言える。空気と地面の複合汚染に耐えかねて決心した転地先での〈カルチュラル・スタディ〉も少し事情がましとは言え、大きな違いは実際には存在しない。もともと「知のサロン」は行動主義的知識人の無残な敗北を目撃した知的エリートがやむなく築いた隔離病棟のようなものだったが、そんな存在が微妙に機能するところに、フランスの知的伝統の妙味が存在する。翻ってわがフィールドでは無視と供用という蛮風をもって遇するか、はたまた「触らぬ神」の地位に祭り上げてしまうかである。
しかし否定的情況にひとり責任を負わせることはできない。多木の論述は文化現象のより高級な「解釈」を引き出し、批評の文体をセピア調に染め上げはしたが、建築の批評という作用の基盤を揺るがしたことはほとんどなかった。確かにより突っこんだ文化の読み解きを実現することも文化の一翼を担うが、文化的形成とはむしろどこでその定常化した読み解きを中断するかのほうである。建築ジャンルでの断筆通告はアクションとして有効だったが、河岸を変えても同じ魚を売っているのが彼のケースである。ひところ「サブリミナル効果」と称する広告戦略が話題になった。これはその手法──きわどいフレーズやグラマラスな図像が秘かに媒体に忍ばせてある──が実際に購買欲をプロモートしたかどうかよりも、むしろそういった奇手が人々の共通の関心にのぼることで、その商品イメージが深層心理に忍びこみ、その結果として売り上げがあがるという手の込んだ操作攻略術だった。『メディア・セックス』というタイトルのその本の著者は反動的な商品イメージ操作を告発したつもりだったろうが、むしろこの出版によって広告戦略自体がプロモートされたのである。同じように、文化機構がまとったイデオロギー上の媚態とも言うべき「七枚のヴェール」を剥いでゆく多木の手捌きは鮮かだが、それが説得性を増した分だけ文化に介在する政治性は逆光に照り映える。つまり権力機構の波乱に富んだメカニズムはかえって魅力的な相貌を帯びはじめ、「文化の銀盆に盛った予言者の首」を所望するサロメの狂舞はいよいよ崇 高サブライムの域に達する。
そういう薮蛇効果の一例を挙げると、多木は磯崎新氏(以下敬称略)と『世紀末の思想と建築』という六八年以降の建築動向のポイントを二人三脚で振り返る企図につき合っているが、こうした取り合わせと設定自体がまさに磯崎的な仕手戦略のもとで、潤色された建築家像のワキ役として機能することが明らかであった。〈対談〉を書物にするというきわどい形式のからくりを知りぬいているはずの編集のプロが、自ら進んで狂言回しを引き受けていく様は、高等な詐術に通暁した人が単純な手口に無自覚な──というより、後ろ向きに加担する──ことを見せつけてくれる。「建築に批評を見る」ことで一致していた彼らは、批評に建築を見る点ではあっさりと妥協してしまった。
この表面的にはしっくりと進行した対談で磯崎は多木の主著のひとつ『生きられた家』について、「〈生きられた空間といわれても、建築家の問題じゃないな〉というぐらいの反応でした」と率直な感想をもらすが、もともと建築の批評は間接的にしか建築家の直接的関心には立ち入らない。ただ彼の初期の住宅設計では、多木の扱った問題がねじ曲ったやり方で表面化しており、そのことを問題にすべきだった。住居に適用された「自律的建築タイプ」は「生きられた空間」に軋みをもたらし、彼としては唯一成果の乏しいジャンルとなっているからだ。言うまでもなく、ここで〈大文字の建築〉論の曖昧さを突くべきだった。なのに多木は「『生きられた家』のなかでたしかめていった象徴論には行き詰まりがあるのです」と受けて、「設計の間題に触れてこない」というそんじょそこらの建築家なみのセリフ──言説の機能主義──を引き受けるポーズをとってしまう。こうして阿吽の呼吸で繰り広げられた「思想」放談は、「ゲームとしての批評」と銘打った馴合い芝居に身を投じてしまう。
また近著の『スポーツを考える』では、むしろ近代資本主義の発展と国際化という「社会的視座」からスポーツに浸透した政治性を論じている。〈ちくま新書〉という叢書シリーズに合わせて言い回しも批判の論点も「普及版サイズ」に落ちついているが、こうしたステージは隈研吾氏の『新・建築入門』程度の論旨と狙い(ここでもサブタイトルは思想と歴史である)にならふさわしいが、彼にはそぐわない。例えば「野球」をスポーツのアメリカナイズの文脈で論じているが、「スポーツと社会の関係」と言うのならむしろ「ナイター中継」による視線の封殺から「高校野球」イデオロギーに遡及してもらいたかった。またJリーグを「ネーションの境界を相対化する」として肯定的に論じているが、その実態は外人助っ人の力を借りて今度はユーロピアナイズされた事業振興をはかろうとする広告代理店的企図であり、それが昨今のように上首尾に傾く場合はいつも、「国粋的な」マーケット戦略が奏功する場面なのだ。巧みに急所をはずした議論を翼々と展開すること、つまり独特の迂回法や婉曲表現によって批評遂行に手心をくわえるやり方が歓迎されているのならそれこそ無限退行ではないだろうか。岩波新書の『ヌード写真』も品切れのようだが、こうした新啓蒙主義的な身振りがうけること自体がいまや政略的なのだ。本のなかで否定的に論じられた「政治的浸透」が、自身の採用した文体・立論・イデオロギーを刺し貫いている。
多木が建築ジャンルでの批評活動を中断したという出来事は、実は建築界のほうが(批評を)切り捨てることで(建築が批評から)見限られた──というのが公平なところなのだが、問題は、立ち去った人物のプレゼンスはとどまっている者以上に大きいことである。
そこに生じた空隙を埋めるかのように、いままた同巧の文化病理学が再提出されようとしている。建築サイドからの言語構築がふるわないのも事実だが、記号学の破産をうけて表象論と色直しされたそれは、建築そのものには決してアクセスしないままに一方的な思い入れをたぐり寄せている。重要なのは建築の疎外態──描図や記述──の偏差値計測によるアリバイ工作のほうで構築性そのものではないらしく、「文化」というトーテムのまわりで盆踊りに余念がない。始めから「脱構築された」論議をいくらつみ重ねても、得られるものは建築イデオロギーのぬけ殻でしかないのだが……。どうやら多木が建築を論じなくなった理由を論じる必要があるのは、建築界に居残っている言説家と表象論者であるようだ。

>大島哲蔵(オオシマ・テツゾウ)

1948年生
スクウォッター(建築情報)主宰。批評家。

>『10+1』 No.12

特集=東京新論

>多木浩二(タキ・コウジ)

1928年 -
美術評論家。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>隈研吾(クマ・ケンゴ)

1954年 -
建築家。東京大学教授。

>脱構築

Deconstruction(ディコンストラクション/デコンストラクション)。フ...