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暗号的民主主義──ジェファソンの遺産 | 田中純
Cryptic Democracy:Jefferson's Legacy | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.12 (東京新論) pp.18-29

1 サイファーパンクのフェティシズム

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ここに掲げた文字列は五文字の英単語から、PGP(Pretty Good Privacy)と呼ばれる暗号化ソフトによって生成されている。PGPはフィル・ジマーマンというプログラマーが、電子ネットワーク社会における国家によるプライヴァシー侵害に対抗するために開発したソフトウェアである。軍事レヴェルの強力な暗号技術が組み込まれていながら、パーソナル・コンピュータ上で作動するという点でPGPは画期的なものだった。フリーウェアとして公開されたことにより、この暗号化ソフトは世界的に広まる。その結果ジマーマンは、暗号技術および暗号を使用した製品を武器と見なしていたアメリカ合衆国政府から、武器不正輸出の嫌疑で取り調べを受けている。
現在、暗号技術の中核となっているのは、PGPにも応用されているRSA公開鍵暗号である。暗号の強さすなわち安全性は一般に鍵のデータ量を表わす鍵長に比例し、鍵長が四〇ビットであれば、2⁴⁰、つまり約一兆種類の鍵が存在することになる。インターネットを通じクレジットカード番号をはじめとする個人情報を送信するために、ネットスケープ・ナヴィゲーターに組み込まれている暗号の鍵長は、アメリカ国内仕様では一二八ビットであるのに対して、海外市場向けは四〇ビットという違いがある。これもまた合衆国政府による輸出規制のためだ。
アメリカ国家安全保障局(NSA)を中心とする暗号政策は、合衆国政府の情報収集能力を国際的、国内的に優位に保つ必要から、対外的には輸出規制、国内については暗号の鍵の一括管理の主張をその根幹としている。一九九三年に発表された政策は、〈クリッパーチップ〉と名付けられたICチップをあらゆる通信システムに組み込ませ、このチップに仕組まれた暗号のマスターキーを政府が独占することで、ネットワーク上のすべてのデータに対する盗聴の可能性を確保しようとしたものだった。この目論見そのものはチップそれ自体の欠陥によって頓挫したが、アメリカ政府はその後もテロリスト対策などの名目をかかげて、暗号解読の絶対的な権限を獲得しようとしている。
こうした政府の暗号政策と鋭く対立しているのが、いわゆる〈サイファーパンク〉の暗号技術者たちである。インテルやサンといったシリコンバレーの大企業の開発部門をになうエリート技術者を中心としたこの集団は、政府の政策や議会におけるロビー活動といった政治活動を通してではなく、暗号技術という〈数学的〉な手段によってプライヴァシーと自由を守ることを目標に掲げている。サイファーパンクのメンバー自身が企業における暗号開発の中核をになっており、その意味で欠かせない人材であるため、彼らの活動に対して企業は口出しができない。コンピュータ産業におけるこうした専門技術者は、企業に縛られることなく、有利な雇用条件を求めて転職することが可能な、特権的に恵まれた環境にある。彼らは高給で雇われ、仕事に関して大きな自己決定権を得ていると同時に、しかし、多くは期限付きのものである雇用契約によって身分の不安定性にさらされている。リチャード・バーブルックアンディ・キャメロンは、アメリカ西海岸のハイテク技術者を中心とする〈仮想階級ヴァーチュアル・クラス〉(アーサー・クローカー)が置かれたこのような社会経済的条件の反映が、市場経済の規範とヒッピー的職人アルチザン気質の奇妙な混合体としての〈カリフォルニア・イデオロギー〉を生んだと分析している★一。
バーブルック/キャメロンによれば、サンフランシスコの文化的ボヘミアニズムとシリコンバレーのハイテク産業の混合を母胎として、新たな情報技術が何らかの社会的解放をもたらしてくれるという楽観主義的な未来像とテクノロジー決定論に基づいたこのイデオロギーは、例えばハワード・ラインゴールドの〈仮想共同体〉といった発想のように、一九六〇年代のカリフォルニア新左翼に遡る〈電子的アゴラ〉の共同体幻想を継承するとともに、アルヴィン・トフラーをブレーンとしたニュート・ギングリッチをはじめとする、政府の介入を排除した完全に自由な資本主義市場としての電子市場の実現を求める新右翼的なヴィジョンとも親和的であるという。インテルの元技術者であり、サイファーパンクの創始者とされるティム・メイは、彼が唱える〈クリプト・アナーキー〉の〈アナーキー〉とは、拘束のない経済交換を推進する自由市場イデオロギーとしての〈アナルコ・キャピタリズム〉における〈アナーキー〉と同義であることを認めている★二。政治イデオロギーとしてはこのようにきわめて曖昧なまま、カリフォルニア・イデオローグたちは国家による私的領域への介入に対してだけは一貫して厳しく批判的である。メイはインタヴューに答えてこう述べている。

政府は自由にも一定の限度が必要だと言っていますが、私たちはそこに何か中間的な解決策が成立するとは考えていません。政府がマスターキーを管理する方式は、どんなものであっても私たちの自由を奪い取るものです。政府にとっての敵はテロリストや麻薬犯罪者だけではありません。これまでの歴史の中で政府によってプライヴァシーを侵害された人々は悪人だけではないのです。強力な中央集権国家の存在を許してしまうのはとても危険なことだと思うのです。もちろん、われわれの暗号を犯罪者が使うことがあり得ないとはいえません。それは必ず起きることです。しかしそれは自由の代価と考えるべきです★三。


彼にとって絶対に守られるべきなのは個人の〈自由〉である。サイバースペースにおけるリベルタリアンの思想としてのカリフォルニア・イデオロギーを通じて、仮想階級が目指しているものとは、バーブルック/キャメロンの言葉を借りれば、情報テクノロジーによってあらゆる個人がサイバースペースのなかで自由に自己を表現できるような、新しい〈ジェファソン的民主主義〉の創造である。しかし、そのような〈自由〉はもとより、テクノロジーの発展を前提としつつ、既存の政治経済的な権力関係を温存したまま、自由市場のなかで労働する限りで達成される、特権的な個人の自由にとどまる。アメリカ合衆国第三代大統領、独立宣言の起草者であるとともに、多数の黒人奴隷を抱えたプランテーションの所有者でもあったトマス・ジェファソンという人物の矛盾、ジェファソン的民主主義の矛盾がそこに継承されている[図1]。カリフォルニア・イデオロギーが隠蔽しているのは、アメリカ西海岸における新たなアパルトヘイトとしての情報富裕層と情報貧困層の分離であり、厳然として存在する人種差別や貧困、あるいは環境破壊といった、都市共同体の現実的な分裂と崩壊現象にほかならない。
テレコム改革法(通信品位法)に反対して一九九六年二月に発表されたジョン・ペリー・バーロウの「サイバースペース独立宣言」は、身体から解放された精神的空間であるサイバースペースにジェファソンやワシントンの夢が蘇るというヴィジョンを唱え、末尾にジェファソンの「ヴァージニア覚え書」からの一節を引用している★四。この宣言では文字通りに、資本主義経済の最後のフロンティアとしてのサイバースペースが一八世紀のフロンティアである新大陸と二重写しにされている。バーロウのこうしたヴィジョンは、自己の起源という原光景をアナクロニックに反復する幻想の構図に陥っている。そして、その結果として語られるのが、建国の〈父〉たちとの同一化なのだ。
注目すべきことに、カリフォルニア・イデオロギーのプロトタイプとしてのジェファソン自身、アマチュアの自然科学者であり、技術者、発明家、建築家、そして暗号技術者だった。ジェファソンはパッラディオ風に自分で設計したモンティチェロの邸宅に[図2]、さまざまな発明品ガジェットを集めた。彼はこの自邸に食品・食器用エレベーター(文字通りには〈物言わぬウェイター(Dumbwaiter)〉)や片側を開閉すればもう一方も自動的に開閉する両開きの扉を設置したほか、ベッドや椅子を自分でデザインし、エントランス・ホールに設置された大時計のアイデアも提供している。またその書斎には手紙のコピーを残す装置として、二本のペンが連動して動く〈ポリグラフ〉があった。ジェファソンの発明、あるいは少なくとも彼が翻案したものとしては、さらに回転式暗号鍵があげられる[図3]。これは二六個の木製の輪が鉄の軸で一体化された装置で、それぞれの輪の上にアルファベットの二六文字がランダムに刻まれている。輪を別々に回転させて意味のある文字列を作ると、その文字列とは別の列上には、一見したところ無秩序な文字列ができることになる。この文字列を手紙で送れば、同じ回転式暗号鍵をもつ受け手は、逆の操作によって元の文を復号できるのである。このような装置をジェファソンが必要とした背景には、フランスに派遣されていた一七八四年から八九年の間に、ヨーロッパの郵便制度によって書簡の検閲を受けた経験があったという★五。
暗号は郵便制度それ自体に敵対するものではない。むしろまったく逆に暗号は誤配のない完璧な郵便制度を前提としてはじめて機能する。サイファーパンクはいわゆる〈リメイラー〉を通じて匿名的な電子メールの交換を行なうが、しかし、その場合でも郵便制度そのものは信頼されている。また他方、暗号が対処しようとする検閲や盗聴も、原則的にはこの郵便制度の円滑な運行を妨げる行為ではなく、むしろそれを前提条件としている。暗号と検閲・盗聴はともに、郵便制度への全幅の信頼なしにはありえないのだ。この意味でサイファーパンクは確かに、市民的公共性が制度化された〈手紙の世紀〉一八世紀の、ジェファソンやワシントンにも通じる、カント的な世界市民にほかならない。
郵便空間と世界市民の成立についてはこの連載中ですでに分析した。そこでハーバーマスが述べていたように、一八世紀の世界市民は〈感性的衝動に生きる商品所有者としての私人の立法〉と、〈精神的に自由な人間の立法〉という二つの異質な法の対立を抱えていた。この対立は、カントによる純粋理性の第三アンチノミーの解決に通じるかたちで調和させられ、因果連鎖を逃れる自由という叡知的行為の存在によって、〈世界〉という全体性がもたらされていた。サイファーパンクにとってのサイバースペースもまた、同じアンチノミーから生じる抽象的な〈世界〉以外のものではない。この〈世界〉を維持するためにはあくまで〈自由〉が保証されなければならない。
市民社会における私生活圏と公共圏のこうした分割は、しかし、不完全なものにとどまる。パトローギッシュな利害関心から無縁なものとなったところに内的な自由を得るとされるカント的主体が、実はその放棄の身振りそのもののなかに猥褻な剰余享楽を隠していたように、あらゆる政治的利害とは離れた場所で、プライヴァシーを〈数学的〉に守ると主張するサイファーパンクもまた、欲望の対象との幻想の関係にとらわれた分割された主体であるしかない。個人の秘密を探ろうとする国家権力という表象は、もちろんまったく根拠のない想定ではないにせよ、サイファーパンクの幻想のうちで現実的な脅威以上に肥大化している。敵対しながら、しかし同様に、例えばクリッパーチップによって通信システム上のあらゆるデータを盗聴しようとするNSAの構想もまた、同じく幻想的なものと言わなければならない。これは国家、テロリストのどちらにせよ、その実際の脅威を軽んじて言うのではない。サイファーパンクとアメリカ合衆国政府の両者が共有している幻想の構図が存在しているという点が問題であり、この構図のなかにおいては、現実の危険がどんな程度であれ、その危険性が極大化して表象されてしまうのである。その背後にはおそらく、市民社会の根底にある空間分割の障害に由来する不安、親密な私生活圏相互のネットワークが公共圏と混淆してしまう事態に起因する不安が存在している。
サイファーパンクの側に〈解読されてしまうことへの恐怖〉があるとすれば、NSAには〈解読できないことの恐怖〉がある。いずれにしても争点はそのメッセージの内容にはない。何が解読されるかは問題ではないのだ。重要なのは、どのような公共的知によっても達することのできない限界として〈私的なもの〉が確保される可能性だけだからである。したがってこの〈私的なもの〉の領域は実際には空虚である。空虚であるからこそ、そこには任意の幻想が投影され、二つの恐怖は際限なく昂進していく。
サイファーパンクの幻想において特徴的なのは、彼らが国家の無能を熟知している点だ。ティム・メイは世界中を敵に回しても絶対に破られる心配のない暗号を個人が手に入れてしまっていることを認め、政府に勝ち目がないことを承知している。しかし、にもかかわらず彼は『一九八四年』に描かれた監視社会の脅威を依然として語り続ける。メイは政府の無能を知っている、それでもやはり彼は、政府が万能であるかのようにふるまうのである。ここに認められるのは現実についての〈知〉と〈信念〉との間の矛盾ではないだろうか。この矛盾においてサイファーパンクの主体は引き裂かれている。ここでは、「政府は万能である」という無意識的な〈信念〉が抑圧されている。サイファーパンクの幻想はこの信念に支えられている。その欲望の経済が決定的に破綻するのは、政府との闘争における彼らの最終的な勝利、つまり、政府の無能さが否定しがたいものとなったときだろう。「よくわかっている、しかし、それでも……」というこの主張の形式は、「それでも……」以下に語られる無意識的信念へのリビドーの備給を示すフェティシズムの定式である(「母さんにペニスがないことは知っている、しかしそれでも……[母さんにはペニスがあると信じている]」)。つまり、サイファーパンクにとって政府との関係とはフェティシズム的な欲望の関係なのだ。政府という他者の脅威が身近になればなるほど、彼らは国家との間に特権的な結びつきをより強く感じることができる。解読困難な暗号とはいわば、一種のフェティッシュと化した国家に宛てられた、サイファーパンクからのラブレターにほかならない。

1──トマス・ジェファソン(URL=http://www.th-jefferson.org/)

1──トマス・ジェファソン(URL=http://www.th-jefferson.org/)

2──モンティチェロの邸宅スケッチ(1769─70) (URL=http://www.pbs.org/jefferson/archives/documents/ih195812z.htm)

2──モンティチェロの邸宅スケッチ(1769─70)
(URL=http://www.pbs.org/jefferson/archives/documents/ih195812z.htm)

3──ジェファソンの回転式暗号鍵 (URL=http://www.monticello.org/Matters/interests/cipher3.gif)

3──ジェファソンの回転式暗号鍵
(URL=http://www.monticello.org/Matters/interests/cipher3.gif)

2 アメリカ的民主主義と不能の王

バーブルック/キャメロンは、ジェファソンが自宅に設置した〈物言わぬウェイター〉の系譜上に、サイバーパンク小説が表わしているような、仮想階級におけるポスト・ヒューマンな身体の幻想を位置づけ、この身体幻想を、いまだに有色人種の労働力に頼っている白人社会がロス暴動以降、強く抱いている危惧の表われ、人工的な奴隷労働力を得たいという願望の表現と解釈している。奇妙な発明品ガジェットに囲まれたジェファソン大統領の姿は、奴隷労働力としてのレプリカントの反乱を主題とした映画『ブレードランナー』に登場する、人造人間の小人たち(カイザー・ヴィルヘルムとナポレオン)を身辺に従えた発達異常(加速性老化)の遺伝子デザイナー、J・F・セバスティアンのイメージに重なる[図4─6]。そして、仮想階級のイデオロギーが、民主主義社会における〈王〉である大統領に対する同一化へと収斂していくことは偶然ではない。
クロード・ルフォールが明らかにしたように、民主主義社会は有機的全体性の表象を許さない社会、つまり身体コールなき社会である。かつて君主によって体現されていた権力は社会に身体を与えていた。民主主義においてはじめて権力は空虚な場所となる★六。ジャコバン派の恐怖政治とは、王の身体のこうした消失ののち、権力を握る者を次々と処刑することによってこの場を常に空虚に保とうとした、民主主義の論理にきわめて忠実な営みだった。
一七八九年の人権宣言に結社の自由はうたわれていない。フランス革命は身分制秩序を徹底して解体することにより、個人を既存の制度的紐帯から切り離し、集権的国家と個人が直接向かい合うような構造をもたらした。民主主義社会はこの解体を通して、国家、国民、人民を創出し、新たな統一性と同一性を得るのである。〈純粋に社会的なものとしての社会〉がそこに出現する。それはしかし、実体的な実在性をもたない。その統一性を君主の身体のような有機的全体として表象することは不可能である。
民主主義は普通選挙制度にもっとも典型的に表われるパラドクスを原理的にはらんでいる。この制度においては、市民が自分の意志を表明することによって自らを政治的主体として実現するまさにその瞬間に、彼らは社会生活のネットワークのすべてから分離され、計算単位に還元されてしまう。数字が実体にとってかわる。民主主義はこのように、いわばデジタルな計算によって根拠づけられているのである。個人的意志を表明する選挙という機会が諸個人を数に還元し、つまり、個人の単独性がその単独性を表現する行為によって消去されるというこのパラドクスを通じて、民主主義は主体を常にヒステリー状態に追いやる、とジョーン・コプチェクは言う。そして、これはアメリカ的民主主義において特に顕著になるヒステリーである。

自らの〈根源的無垢〉というアメリカの感覚は、そのもっとも深い起源を、市民たちの多様性にはかかわりなく、基本的な人間性が存在するという信念にもっている。民主主義は、〈メルティング・ポット〉、〈移民国家〉としてのアメリカが、自らを国家として成立させるための普遍的数量詞なのである。すべての市民がアメリカ人と呼ばれうるとすれば、それは、何か実体的な特質をわれわれが共有しているからではなく、むしろ逆に、われわれすべてがこうした特質を脱ぎ捨て、肉体から分離された存在として法の前で自己を表出する権利を与えられたからである。我、自己自身から実体的アイデンティティを剥ぐ、故に、我市民である、ということだ★七。


アメリカ人は、あらゆる属性を剥奪されることによってはじめて、アメリカ人という固有性を得る。しかし、アメリカ型民主主義を特徴づけるものはその多元主義であり、このような一般化に抵抗して、差異と単独性が摩擦なく調和的に共存する状態が理想とされる。したがってそこでは、小さな政府による最低限の保護のもとに、各個人の個別性が妨げられることなく尊重されなければならない。コプチェクはこうした中立的で介入しない権力の空間的表象を、ジェファソンによる一七八五年の公有地条例に見ている。この条例は西部の公有地が、東部の都市計画同様、碁盤目状に区画整理されることを求めたものだった。地形上のあらゆる特質を無視して大地をこのような抽象的法に従わせることは、もっとも中立的な方法による空間分割としてアメリカ社会に広く受け入れられた。政府による統治を最小限にとどめるというジェファソンの政治観同様、都市計画もまた、建築がどのように建てられるかをあらかじめ決定し支配することを極力回避しようとする。
君主制のもとでは、政治体が王の身体として表象されたことに対応して、都市は男性身体との類推アナロジー関係のうちに擬人体主義のかたちで表現された。ルネサンスのフィラレーテやフランチェスコ・マルティーニといった理論家たちの著作においては、自然美の調和を実現するものとして、人間身体と建築そして都市が類推アナロジーの関係のうちに置かれ、身体を構成する諸器官の比例関係が建築物のプランに重ね合わされている。理想的建築・都市の隠喩としての身体というこの擬人体主義的伝統は一八世紀末には崩壊する。崇高の美学において建築物は、もはやそれ自体がある種の身体なのではなく、人間身体の生理的・心理的な諸状態を喚起する一種の装置と見なされた。カントやドイツ・ロマン派の影響のもとで、身体のヴィジョンは時間と感覚経験によって断片化され、統一性を失っていく。身体の有機的全体性に依拠した類推的アナロジカル都市の表象は失効してしまう。
アメリカの大地を分割するグリッドは、身体を欠いた民主主義社会における、控えめで後見的な政治権力の空間的表象である。もとより現実にはそれは、例えばジェファソンのワシントン計画に見られるように[図7]、ヨーロッパから古典主義を移植して形成され、彼の農本主義的で本質的に反都市的なユートピア思想を反映した、経済発展とは無縁な非歴史的都市のかたちをとることもあれば★八、それと対極的なニューヨークのように、まさにグリッドという厳密な二次元秩序の等質性によって、三次元的な自由と無秩序、レム・コールハースの言う〈錯乱〉をもたらすことにもなる。しかしいずれにしてもそこではグリッドが、伝統的な都市における空間の分節や差異のシステムを解消し、実体のない量的単位としてのアメリカ的大地を生み出していた。
アメリカの民主主義における大文字の他者、すなわち法は、市民全体の要求を受け入れて、その後見役を果たす一貫性のあるグリッドにも似た存在であることを求められている。コプチェクはこの点をとらえて、アメリカ人は「与えられるはずのないものを、大文字の〈他者〉が与えてくれるであろうなどという愛の詐術にいまだにしがみついている」と述べる。

われわれはそんな主人に対して、共通性ではなく、単独性の方を認めてくれと迫っていく。自分たちが選出した指導者にむかってこうした要求をつきつけるとき、アメリカ人は一つのジレンマと直面することになる。認知のあらゆる記号が、それによって立証されるはずであった差異をうち消してしまう。なぜなら、まさに差異を立証することによって、差異を他人に伝達可能なものとすることによって、あらゆる記号はそれが表象するものを自動的に普遍化し、ひいてはその単独性自体を終息させてしまうからだ★九。


〈私〉の単独性とは、私が包含されるあれこれのカテゴリーの属性ではない、私という主体固有の核である。主体が何らかの属性を表わす記号(白人、黒人、男性、女性……)において主人に認知されるとき、差異は示差的な体系における相対的なものになり、〈他ならない私〉の単独性は失われてしまう。なぜなら、私の単独性とは、あれこれの属性の総和ではなく、どんな属性にも還元されない残余にほかならないからだ。すべての実体的属性を剥ぎ取られることによりアメリカ人として登録された主体は、しかし、その普遍性においてではなく、ひとり一人の単独性において〈主人〉に認知されたいと望む。そのような単独性とは、属性として記述しえず記号化しえない、表象不可能で空虚な剰余であるから、この要求は到底実現不可能だ。だからこそ、アメリカ人はそのとき、ヒステリー的な態度によって主人を選出するのだとコプチェクは言う。必然的に妨げられる欲望は、妨害そのものへの欲望に転化する。満たされない欲望は、決して満たされることのない状態への欲望に転倒される。つまりそこでは、誤りを犯すことがわかっているような無能な人物があえて主人に選ばれることになるのである。コプチェクはそれを、「アメリカ民主主義を特徴づける多元主義は、〈不能な他者〉への忠誠に基礎が置かれている」★一〇と表現する。大文字の〈他者〉が主体の単独性を認知しそこなうからこそ、この単独性は傷つけられることなく保たれる。というよりもむしろ、〈他者〉によるこの認知の失敗として、主体の単独性が形成される。アメリカの民主主義において、身体なきこの政治体の権力の場を占める主人=代理人としての大統領は、このように無能であるがゆえに愛される存在になりうる。コプチェクがここで念頭に置いているロナルド・レーガンはまさにそんな無能であるからこそ愛された〈王〉にほかならなかった。
そこにおいてアメリカ市民の忠誠はもはや主人が送り返す答のなかに向けられてはおらず、この大文字の〈他者〉そのものの存在に託されている。とすれば、この〈他者〉はアメリカ民主主義の主体にとってひとつのフェティッシュと化しているのではないだろうか。ここで露わになっているものもまた、フェティシズム特有の〈知〉と〈信念〉の矛盾ではないか。選出された主人が無能であることを、アメリカ人誰もが知っている。しかし、にもかかわらず、無意識においてはこの主人の万能が信じられているのである。「〈他者〉が無能であることは知っている、それでもやはり……(〈他者〉は万能だと信じている)」。サイファーパンクにとって暗号とは、主人を無能な状態に置くことによって、その万能性に対する無意識的信念を維持するための仕掛けであり、この点で彼らは確かに、徹底してアメリカ的な、ジェファソン流の民主主義者なのである。ここではもはや暗号はメッセージ伝達のために開発されているのではない。暗号文はその鍵をもたない人物に宛てて送られ、その解読不可能性によってこそ、アメリカ的民主主義の主体が陥っていたジレンマをヒステリー的に解決する。暗号とはつまり、民主主義的主体の単独性そのものの記号にほかならないのだ。現代アメリカ民主主義の幻想において暗号は個人の〈私的なもの〉、単独性を表象し、それが解読できないという点で閉ざされて空虚な、しかし、個人の最奥の秘密を隠した対象にほかならない。この点においてそれは、古典的推理小説の世界における屍体の遺棄された密室の、閉ざされていながら無限な拡がりをもった空間に対応しているといえるかもしれない。そもそも暗号を表わすcryptographyの語源であるcryptとは、聖人の遺骨、遺品などが納められた教会の地下納骨室、地下聖堂を意味していた。暗号にはいわば屍体が埋葬されている。この暗号内部の屍体とは決して復号化できない原文、本人にさえ読みえない文字としての接近不可能な秘密にほかならず、それはつまり私を〈他ならない私〉として認証する何かである。
解読しえない暗号を生み出すことでサイファーパンクが求めているものは、実は大文字の〈他者〉による彼ら自身の単独性の認知である。そして、この暗号を〈他者〉が解読できないという、ほかならない認知の失敗によって彼らの単独性は維持される。このようにしてサイファーパンクは、社会の破壊分子であるどころか、既存の権力の布置をきわめて従順に受け入れているのである。
コプチェクが指摘するように、アメリカ型の民主主義が抱える問題とは、知においてではなく無意識の信念において、確実で一貫性を保った大文字の〈他者〉が存在すると信じられているというこの点にある。しかし、この〈他者〉すなわち社会の法あるいは象徴秩序に一貫性と完全性を保証する、いわゆる〈他者の他者〉は存在しない。大文字の〈他者〉は、たまたまわれわれがその代理人として選んだ王の無能さゆえにではなく、本質的に盲目的かつ偶然的で一貫性を欠き、愚かで無知なのである。そして、郵便制度もまた、純粋理性のアンチノミーによって、不完全であるか、あるいは矛盾して一貫していないか、このいずれかの障害を抱えざるをえない。どちらにしても手紙は誤配と消失の可能性を免れることはできないのだ。アメリカ民主主義を支えるヒステリーは〈他者〉のこの根源的な愚昧さと矛盾を隠蔽するものだが、〈他者の他者〉の存在が文字通りに信じ込まれてしまったとき、事態は暗号をめぐるサイファーパンクとNSAの闘いのような、いささかパラノイア的な様相を呈し始めるだろう。

『ブレードランナー』より 4──セバスティアンの実験室イメージ (URL=http://www.uq.edu.au/~csmchapm/bladerunner/ images/jf-lab.jpg)

『ブレードランナー』より
4──セバスティアンの実験室イメージ
(URL=http://www.uq.edu.au/~csmchapm/bladerunner/
images/jf-lab.jpg)

『ブレードランナー』より 5──J・F・セバスティアン(URL=http://www.uq.oz.au/ ~csmchapm/bladerunner/whois-jf.html)

『ブレードランナー』より
5──J・F・セバスティアン(URL=http://www.uq.oz.au/
~csmchapm/bladerunner/whois-jf.html)


『ブレードランナー』より 6──セバスティアンの創造物、 カイザー・ヴィルヘルムとナポレオン (URL=http://www.wit.com/~xtian/bladerunner/ sebastians_creations.jpeg)

『ブレードランナー』より
6──セバスティアンの創造物、
カイザー・ヴィルヘルムとナポレオン
(URL=http://www.wit.com/~xtian/bladerunner/
sebastians_creations.jpeg)

7──ワシントン計画(1795) (URL=http://www.pbs.org/jefferson/archives/documents/ih195816z.htm)

7──ワシントン計画(1795)
(URL=http://www.pbs.org/jefferson/archives/documents/ih195816z.htm)

3 サイバースペースの母なる超自我

暗号技術の開発が盛んになっているのは、コンピュータ・ネットワークが個人の私生活圏と公共圏とを無媒介に結合してしまうため、ネットワーク上の公共空間において個人を同定することが必要不可欠になるからである。さらにコンピュータが情報をデジタル化して処理する以上、個人を認証する技術は従来の署名や指紋といったアナログ情報に依存することはできず、電子化されたデジタルなデータをそれに代わるものとして作り出さなければならなくなる。すべてはデジタル化されてしまうから、われわれは身体的痕跡のないエージェントを通して、この仮想の現実のなかで行動するようになる。
このように、暗号が必要なのはあくまで、個人を同定し、その私的な情報を保護して送り届けるためのはずである。しかし、暗号が強く求められるのとは逆に、現在サイバースペースにおいて進行しているのはむしろ、隠されるべきものなど実は何もないかのように、現実生活の場では表にされないような性的な妄想や嗜虐的な暴力が、テクストやイメージの形であふれかえるという事態であり、自分を自己同一的な人格としてではなく、意図的にいくつものエージェントに分裂させるといった傾向ではないだろうか。そこでは、すべてはスクリーン上のゲームであるという意識が自制心を宙吊りにしてしまい、幻想の光景が抑制されることなく演じられている。とめどなくヴァーチュアル化されたこの現実にあっては、他者はそこで語られ示された通りのものであるしかなく、限りなく透明で、そんな存在間のコミュニケーションは摩擦なく円滑であるかのように見える。
スラヴォイ・ジジェクは、ビル・ゲイツがあるインタヴューで述べたという、サイバースペースによって実現される〈摩擦なき資本主義〉という言葉をとらえて、この表現にはサイバースペース資本主義の根底をなす社会的幻想が反映されている、と指摘している。それが表わしているのは、あらゆる物質的束縛の痕跡を消し去った、完全に透明でエーテル的な交換のメディアという幻想である。ここで言う〈摩擦〉とは交換過程における物質的障害ばかりではなく、むしろまず第一に、社会的交換の空間に病理的な歪みを与える、社会的敵対関係や権力関係といった外傷的現実にほかならない。

マルクスは『グルンドリッセ』で、一九世紀の工業生産施設の物質的機構がすでにどのように支配の資本主義的関係性を直接的に物質化しているか(資本家の所有物である機械の単なる付属物として労働者を従属させているか)を示している。適宜修正すれば、これはサイバースペースにも当てはまる。後期資本主義の社会的諸条件のもとで、サイバースペースの物質性こそが自ずから〈摩擦なき〉交換の幻想的な抽象的空間を生み出しており、そこではその関与者の社会的ポジションの特性が抹消されているのである★一一。


例えばそれはインターネットが自己組織化する生命体として表象されたり、逆に、有機的生命が自己複製する情報と見なされたりすることが示しているような、〈文化〉と〈自然〉の差異の消滅となって現われる。いわばそこでは、インターネットに接続された者を成員とする社会体が新たな身体の表象を得ており、それはいかにも、統一的身体をもたない代表制的民主主義のパラドクスを克服した、諸個人がボランティアで直接参加する新たな政治体の表象であるかのように見える。だが、このような統一体としての共同体の表象は、サイバースペースを根源で規定している代表制、すなわち、エージェントを介してディスプレイ上の現実に参加するという構造に支えられてはじめて成立するものである。この代表制を基礎として機械の内部に構築される共同体では、それが仮想現実におけるゲームにすぎないために個人の幻想が規制なく展開され、さらに「ゲームでしかない」というこの意識が、共同体の法に象徴的権威を与えることを不可能にしてしまう。
ジジェクは、主人のシニフィアンが有する象徴的権威は、それが構造的な曖昧さを抱えた仮想的なものであるからこそ成立すると言う★一二。全能であるか不能であるかが決定しえないがゆえに、父は支配的な権威を帯びる。この決定不能性に依拠してはじめて、民主主義の主体は自らの単独性を維持することも可能となる。だが、サイバースペースにおいては象徴秩序の次元に幻想の次元が融合してしまい、共同体の法は明確なルールとなってすみずみまで透明化されてしまうために、主人のシニフィアンの仮想的な地位そのものが失われ、象徴的権威は成立しえなくなるのである。
このようなサイバースペースの主体は、ゲームの場である社会関係のなかで、複数の規則を操りながら、本来の象徴的任務ではなく、局面に応じてさまざまな役割を演じわける〈病理的ナルシスト〉にほかならない。〈病理的ナルシスト〉は「本来の象徴的同一化を含んでいる、自分を縛るような関わりはいっさい持とうとしない。彼は根源的に体制順応者でありながら、逆説的に、自分を無法者アウトローとして経験する」★一三。ジジェクがここで注意を促しているのは、病理的ナルシストにおいては、主人のシニフィアンの権威、言い換えれば父性的自我理想が失効することによって、はるかに強力で脅威的な母なる超自我の支配が招かれるという点だ。母なる超自我は享楽を禁止することなく強要し、正常な性的関係を妨害する。あらゆる個人がサイバースペースのなかで自由に自己を表現できるような民主主義的共同体は、むしろ逆に、猥雑な超自我的な法によって享楽を強制し、自己破壊的な不安によって脅かす抑圧的な社会でありうる★一四。
とすれば、サイファーパンクのパラノイア的な幻想、あるいは、サイバースペース独立宣言に認められた、建国の父たちへの同一化はいずれも、父性的自我理想を政府との闘争の過程で回復しようとする絶望的な試みと見なされるべきであったのかもしれない。もとより、このような象徴的権威の失墜と病理的ナルシストの出現は、サイバースペースの結果であると言うよりも、後期資本主義社会の現実であり、それが〈摩擦なき〉抽象的空間としてのサイバースペースを必要としたと言うべきだろう。この空間の内部では、主体の〈社会的ポジション〉という象徴的委託が失われるとともに、母なる超自我が暴走を始める。サイバースペースにおいて病んでいるもの、カリフォルニア・イデオロギーが隠蔽しているものとは、人種対立や情報環境のアパルトヘイト化といった社会的敵対関係ばかりではなく、10.7.26そのもののリビドー経済におけるこの恐慌状態にほかならないのではないだろうか。
ティム・メイは一九九三年に〈ブラックネット〉と名付けた完全に匿名的な情報交換の実験を行なっているが、彼はそれがトマス・ピンチョンの作品、特に『競売ナンバー49の叫び』から影響を受けたことを告白している★一五。この作品では主人公のエディパ・マース(Oedipa Maas)がかつての愛人の遺産について調査を進めるうちに、〈トリステロ〉という名の秘密組織の存在を知る。トリステロは近代郵便制度と時を同じくして生まれた秘密の郵便組織で、体制側の郵便制度に対するテロルを行なうとともに、それに代わる被抑圧者のためのもうひとつの郵便制度を実現しているらしい。エディパのまわりにトリステロが存在する証拠は次々と現われるが、証拠が集まれば集まるほど、トリステロはエディパから遠ざかり、ついにはすべてがかつての愛人の仕組んだ罠であるかのようにも思われてくる。エディパはある競売場でトリステロの使者が競売ナンバー49の偽造切手を競り落とすと聞き、その会場で〈競売ナンバー49の叫び〉を待つ……★一六。
一九六六年に発表されたこの小説は、エディパにとっての〈遺産〉としてのアメリカの歴史を問い直す試みと見なすことができる。ピンチョンは、現実のアメリカ社会の見せかけの彼方にトリステロが存在するか、単にこのアメリカが存在するだけであるかのどちらかであり、もし後者の場合、エディパにはパラノイアへの道しか残されてはいないと書く。トリステロとはいわば、偽の郵便制度(アメリカ)に対する真の郵便制度であり、世界の秩序を支える〈他者の他者〉にほかならない。したがって、すでにトリステロそのものがパラノイア的な構築物なのであり、エディパはそれによって象徴的世界の崩壊を回避しているのである。そして、この〈他者の他者〉の権威は、トリステロの存在が不確かな曖昧さを抱えている限りで成立する。だからこそ、この小説はエディパが〈叫び〉を待つ箇所で終わらざるをえない。
言うまでもなく、エディパ(Oedipa)は女性化したオイディプス(Oedipus)である。一方、トリステロとはそもそも、この秘密の郵便組織を創始した男性の名前であった。すなわち、『競売ナンバー49の叫び』とは、父を探すオイディプス的な旅の物語なのである。エディパに自らを投影するサイファーパンクのオイディプスたちは、サイバースペースの共同体幻想と対になった病理的ナルシシズムの、恐慌をきたしたリビドー経済、そこにおける母なる超自我の残酷な支配から逃れ出ることを求めて、迫害者としての父を探しているのだろうか。──もちろんその父を殺すために、そしてその殺害によって〈父の名〉の法を回復するために。PGP〈とっても素敵なプライヴァシー〉などという名の響きとは裏腹に、暗号学(cryptology すなわち〈クリプトの論理〉)は、後期資本主義社会に生きる主体内部のこの外傷的な場、この欲望の地下納骨所クリプトの闇における屍体の埋葬と隠匿にかかわる、呪われたように暗い技法にほかならないのである。


★一──Richard Barbrook and Andy Cameron, The Californian Ideology. URL=http: //www.wmin.ac.uk/media/HRC/ci/calif5.html
このテクストにはサイバースペースをめぐる地政学的状況が反映しており、アメリカ西海岸文化への批判は確かに鋭いとしても、それに対置された、ミニテルに代表されるフランスの通信政策への高い評価は受け入れがたい。
★二──Timothy C. May, Crypto-Anarchy and Virtual Communities.
URL=http://powergrid.electriciti.com/1.01/cryptoanarchy-wp.html
★三──NHK出版編『暗号・日米ビジネス戦略  デジタル・ウォーズ』(日本放送出版協会、一九九七)、三五頁。
★四──ジョン・ペリー・バーロウ「サイバースペース独立宣言」、『10+1』No.8(INAX出版、一九九七)、一五〇─一五一頁。
★五──モンティチェロにおけるジェファソンについては、次のサイトが詳しい情報を与えている。Monticello, Home of Thomas Jefferson. URL=http://www.monticello.org
★六──次を参照。クロード・ルフォール「民主主義という問題」、『現代思想』一九九五年一一月号(本郷均訳、青土社、一九九五)、四〇─五一頁。
★七──Joan Copjec, Read My Desire. Lacan against the Historicists. The MIT Press, Cambridge, Mass. 1994, p.146.
★八──次を参照。マンフレッド・タフーリ『建築神話の崩壊 資本主義社会の発展と計画の思想』(藤井博巳・峰尾雅彦訳、彰国社、一九八一)、二九─五〇頁。
★九──Copjec, op.cit., p.149.
★一〇──Ibid., pp.149-150.
★一一──Slavoj Žižek, The Plague of Fantasies. Verso, London and New York 1997, p.156.
★一二──Ibid., p.158.
★一三──スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る 大衆文化を通してラカンへ』(鈴木晶訳、青土社、一九九五)、一九三頁。
★一四──現在の日本において象徴的委託の拒否は、「自分らしく生きる」などという自己の単独性をめぐるイデオロギーを伴っている。〈父性〉という概念に対する一部メディアの文字通りヒステリー的な拒絶反応もまた、このナルシシズム的な言説状況の産物であるように思われる。なお、この関連で妙木浩之は『エヴァンゲリオン』を分析し、〈凶暴な母〉というモチーフこそがこの作品の吸引力になっていたことを指摘している。次を参照。妙木浩之「『エヴァンゲリオン』と父の消失」、『大航海』第一九号(新書館、一九九七)、六〇頁。
★一五──次を参照。Charles A. Gimon, Heroes of Cyberspace: Thomas Pynchon. URL=http://www.info-nation.com/pynchon.html なお、サイファーパンクとピンチョン作品のテーマの共通性については横山太郎氏から最初の示唆を得た。
★一六──『競売ナンバー49の叫び』が書かれていたころ、アメリカでアルフレッド・ヒッチコックは、『北北西に進路を取れ』(一九五九)、『サイコ』(一九六〇)、『鳥』(一九六三)といった、いずれも父親がおらず、所有欲の強い母親が息子に支配を及ぼすという設定の、言い換えれば〈母なる超自我〉をモチーフとした作品群を製作している。ジジェクはこのファミリー・ロマンスにおける、母の屍体や鳥といった無意味な物体の過剰な現前のなかに、同時代におけるアメリカの家族関係障害の、もはや象徴化しえない行き詰まりそのものの実体化を認めている。ジジェク、前掲書、一八七─一九九頁。

*この原稿は加筆訂正を施し、『都市表象分析I』として単行本化されています。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

>『10+1』 No.12

特集=東京新論

>ルネサンス

14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようと...

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>マンフレッド・タフーリ

1935年 - 1994年
建築批評家、歴史家。

>横山太郎(ヨコヤマ・タロウ)

1966年 -
構造家。ロウファットストラクチュア主宰、京都造形芸術大学非常勤講師。