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ル・コルビュジエ・ソニエ著『建築をめざして』初版本の謎について | 伊從勉
An Enigma of the first Edition of Ver une Architecture by Le Corbusier-Saugniere | Tsutomu Iyori
掲載『10+1』 No.11 (新しい地理学, 1997年11月10日発行) pp.199-220

目次
はじめに
1-1    共同の署名「ル・コルビュジエ・ソニエ」:オザンファンの証言
1-2     「ル・コルビュジエ・ソニエ」を独占しようとしたジャンヌレ:オザンファンへの献辞の登場
1-3    ソニエの削除とその後も続いた共同署名「オザンファンとジャンヌレ」
2     『建築をめざして』書の諸版本
2-1     『建築をめざして』初版一九二三年版
2-2    初版における「われわれ」から「私」への変更:「ル・コルビュジエ・ソニエ」から「ル・コルビュジエ」への序章
2-3    改訂増補第二版一九二五年:「ル・コルビュジエ」の誕生と欠けたオザンファンへの献辞、未完の改版
2-4    改訂増補第三版一九二八年:アカデミズム攻撃に動員された『建築をめざして』
2-5    復刻『建築をめざして』第四版一九五八年:「老兵」の再動員または隠され続ける初版
おわりに:『建築をめざして』初版の謎の所在

はじめに

一九二三年秋出版の『建築をめざして』(以下、『建築』書と略記)は、これ以降クレス社から出版されてゆく「レスプリ・ヌヴォ」叢書シリーズのジャンヌレ(ル・コルビュジエ)★一の著作第一号と今日では信じられているが、出版当時、叢書は未だ成立しておらず単行本として出版された。初版の署名は「ル・コルビュジエ・ソニエ」であった[図1]。
この著作は次の二点において、ジャンヌレにとっても特異なものである。先ず第一に、同書がそれ以後のジャンヌレの著作のモデルとなり、パリでの執筆活動の出発点となったこと。例えば、一九二二年サロン・ド・トンヌ出品作の「三〇〇万人の現代都市」計画案は、『建築』書編集の時期に着想を得、一部『建築』書を飾り、後日『ユルバニスム』(一九二五)にまとめられる記事群を『レスプリ・ヌヴォ』(以下『新精神』)誌上に登場させる。同様な方式でオザンファン★二との共著の『現代絵画』(一九二五)、ル・コルビュジエ単著の『今日の装飾芸術』(一九二五)や『近代建築年鑑』(一九二六)の叢書の企画が生まれたのは、『建築』書出版以後の出来事なのである。
第二に、同書の成立の事情の複雑さによってか、後に三度も改版がなされ、その過程で、内容にはかなりの変更が生じたのであるが、この事実はほとんど気付かれず問題にもされてこなかった★三。特に初版の存在は、数度の改版によって、半ば隠蔽されてしまい、それがル・コルビュジエ自身の意図するところであったから尚更のことである。このような事情は、他のル・コルビュジエの著作には見られないから、『建築』書には何か特殊な事情がつきまとっていることが窺える。
成立の事情の「複雑さ」というのは、一九一八年から一九二五年まで続いたジャンヌレと当時の思想的なパートナーであった画家のオザンファンとの緊密な思想の共同作業(「ピュリスム」と呼ばれる)[図2]の成果の一つが、この著作であったこと、つまり、『キュビスム以後』(一九一八)や『現代絵画』の著作と並んで、『建築』書は先ずはオザンファンとの共同の著作であった事実である。『建築』書初版の著者名「ル・コルビュジエ・ソニエ」の「ソニエ」はオザンファンのペンネームだった(後述)。この共同署名で、『新精神』誌上に一九二〇年一〇月から一九二二年五月まで連載されていた記事を大幅に編集し直し、新たに最終章を加えたものが『建築』書であった★四。初版の署名も「ル・コルビュジエ・ソニエ」であった。共著の影を伴って生まれた著作を、次第に、ル・コルビュジエ一人の著作に独占するために(と思えるほど)、先ず初版出版時には共同署名はそのままにしてオザンファンへの献辞を「見返し」に挿入し[図3]、次に第二版で共同署名を単独署名に改変し[図4]、さらに二度に及ぶ改版を続けた、とも考えられる。ル・コルビュジエ著の『建築』書が、一九二五年の第二版で初めて登場した事実は、今までほとんど注目されなかった。度重なる改版の裏にはこのような初版成立の「謎」が潜んでいる★五。
『建築』書の諸版本の区別については、改版毎に巻頭に付加された序文を目安にして、本稿では、便宜的に以下の四種を区別する。先ず、一九二三年成立の初版[図1]、一九二四年一一月付の序文の入る第二版[図4]、一九二八年一月付の序文の入る第三版(一九三一年以降絶版)、そして戦後一九五八年に復刻される第四版[図5、図6]である。初版成立以前の『新精神』誌上に連載された記事段階を含め、『建築』書の内容は、以上異なった五段階で変貌してきた。本稿では、ル・コルビュジエ存命中に出版された四種の『建築』書諸版を考察の対象にする。
『建築』書は改版の度に様相を変えたが、特に初版と第二版(一九二五)との間の改変が甚しい。第三版(一九二八)は第二版を底本とし巻頭に国際連盟宮殿の設計競技応募案の図版が挿入される。第四版(一九五八)は第三版を底本とし、国際連合ビルの図版その他を巻頭に挿入する。各版の巻頭の変化はあるが、内容としては、初版と第二版の間の変化が重要である★六。この第二版改訂時に、共同署名「ル・コルビュジエ・ソニエ」は単独署名「ル・コルビュジエ」に変更されたのであるから[図4]、この時点を細かに検討する必要がある。
これらの諸版本の間の変化とそれに対するル・コルビュジエの見解とを比較すると、『建築』書にまつわるル・コルビュジエのある奇妙な態度が見えてくる。その不可解さを浮きださせるために、改版の様子を概観し、ル・コルビュジエ財団(以下「財団」と略記)所蔵の資料(以下[AFLC]と略記)を検討することによって、『建築』書初版本の「謎」の所在を明らかにするのが本稿の目的である。ル・コルビュジエの建築思想の形成そのものを主題にするわけではないことをお断りしておく。先ず、共同署名の周辺から見ておこう。

1──『建築をめざして』初版(1923)

1──『建築をめざして』初版(1923)

2──1919年頃、ラ・ショ・ド・フォン「ジャンヌレ邸」 (1912年ジャンヌレの設計により建設)2階バルコニーにて 右よりシャルル・エドアール・ジャンヌレ、アメデ・オザンファン、アルベール・ジャンヌレ ラ・ショード・フォン町立図書館所蔵

2──1919年頃、ラ・ショ・ド・フォン「ジャンヌレ邸」
(1912年ジャンヌレの設計により建設)2階バルコニーにて
右よりシャルル・エドアール・ジャンヌレ、アメデ・オザンファン、アルベール・ジャンヌレ
ラ・ショード・フォン町立図書館所蔵

3──『建築をめざして』初版見返しのオザンファンへの献辞(1923)

3──『建築をめざして』初版見返しのオザンファンへの献辞(1923)


4──『建築をめざして』増補・改訂第2版(1925)

4──『建築をめざして』増補・改訂第2版(1925)

5──『建築をめざして』復刻第4版透明カヴァー付(1958)、ヴァンサン・フレアル社刊

5──『建築をめざして』復刻第4版透明カヴァー付(1958)、ヴァンサン・フレアル社刊

6──『建築をめざして』復刻第4版透明カヴァーなし(1958)

6──『建築をめざして』復刻第4版透明カヴァーなし(1958)

1-1 共同の署名「ル・コルビュジエ・ソニエ」:オザンファンの証言

『建築』書の内容は、最終章「建築か革命か」を除いて、ル・コルビュジエとオザンファンが主宰していたレスプリ・ヌヴォ社(以下「新精神」社)の発行する『レスプリ・ヌヴォ』誌に一九二〇年一〇月から一九二二年五月まで共著記事として連載された。共同署名は、一九一八年九月以来のオザンファンとル・コルビュジエの共同活動における合意事項(★二七参照)であった。一九二三年の秋に出版された初版本の署名も「ル・コルビュジエ・ソニエ」となっており、「ジャンヌレとオザンファン」を意味した。絵画論の記事には先輩格のオザンファンの名が前に出た。
オザンファンは一九六八年に出版された回想録のなかで次のように述べる。

[ル・コルビュジエという]筆名が初めて使用されたのは、『新精神』誌第一号の九五頁であった。それはアメリカの穀物サイロについての、われわれ二人の共著記事の署名、つまり「ル・コルビュジエ・ソニエ」のなかに登場したのである。この署名は「ジャンヌレとオザンファン」を意味した。彼は職業的建築家であったから、彼の業種の記事については彼の名が先に来るのが当たり前だと思ったからだ。私は、図版に使えるような写真を提供し、彼は記事を執筆した。
[Ozenfant, 1968:113]


両者の実名は、絵画論や美学一般についての記事用に取っておかれた。「ソニエ」はオザンファンの母の旧姓から取られたが、ジャンヌレの母の旧姓は「ペレ」で、オギュスト・ペレと重なってしまうことから、系統の絶えたジャンヌレの一親族の名「ルコルベジエ Lecorbésier」から「ル・コルビュジエ」が造語された[Ozenfant, ibid]。
「ソニエ」がオザンファンの筆名であったことは、ル・コルビュジエの生存中に出版されたゴチエによる伝記にも触れられている。しかし、「最初の頃の[雑誌]記事はル・コルビュジエ・ソニエと署名されたが、間もなくしてル・コルビュジエ単独の署名となった。ソニエ[の署名]は登場するやすぐに消えた」[Gauthier, 1944: 47]と事実に反することを記す。一九二五年成立の第二版まで、ル・コルビュジエ・ソニエはそのままだからである[図1]。執筆は、「材料をオザンファンが提供し、ジャンヌレが執筆する」体の共同執筆であったことが明かにされたのは、ル・コルビュジエの死後一九六八年に出版された上記オザンファンの『回想録』によってである。
記事をジャンヌレが実際に執筆したことは、「財団」に保存される草稿がジャンヌレの筆跡である事実から判断できる[図7]が、一九一八年九月以来のオザンファンとジャンヌレの共同執筆とは、両者の議論に基づきどちらかが執筆をするということであった[Ozenfant, 1968:102]。『キュビスム以後』や『現代絵画』は議論の結果をオザンファンが主に執筆した。『建築』書では、オザンファンが資料を持ち寄りジャンヌレが執筆した。ところで、オザンファンはさまざまな署名を使い分け『新精神』誌の記事を執筆した★七。建築の記事も、両人で架空の「ル・コルビュジエ・ソニエ」という人物を演出することが当初の目的であった。

7──ジャンヌレの自筆「ル・コルビュジエ・ソニエ」署名 『新精神』誌第2号(1920.11.)掲載記事 「建築家各位への覚書・表面」タイプ原稿末尾 未だ書き慣れていないサイン[AFLC:B2-15]

7──ジャンヌレの自筆「ル・コルビュジエ・ソニエ」署名
『新精神』誌第2号(1920.11.)掲載記事
「建築家各位への覚書・表面」タイプ原稿末尾
未だ書き慣れていないサイン[AFLC:B2-15]

1-2 「ル・コルビュジエ・ソニエ」を独占しようとしたジャンヌレ:オザンファンへの献辞の登場

共同署名から「ソニエ」を削除しオザンファンへの献辞[図3]を『建築』書に付けたことに関し、ヘルマンが伝えるジャンヌレの発言は、オザンファンの共同署名への思いとの違いをよく示している[Jencks, 1973:57]。「その[オザンファンへの]献辞に対し、我が友[オザンファン]は感謝した。献辞を入れることによって、誰も彼[オザンファン]が執筆したとは思わないように私[ジャンヌレ]がとった手段であったとは理解できなかった」。『建築』書第二版からオザンファンへの献辞が入ったものとヘルマンもジェンクスも受け取っているが★八、実は、献辞は初版初刷りから付いていて、奇妙にも第二版には欠落した(後述)。ジャンヌレは先ず、初版に献辞を入れることで共同署名を自分固有の署名にしようと企んだのである。オザンファンにとっては、ジャンヌレと共に演出している架空のル・コルビュジエ・ソニエという著者がオザンファンに献辞を捧げたという虚構を演じるつもりがあっただろう★九。しかし、ジャンヌレは「ル・コルビュジエ・ソニエ」を自分一人に引き付けて考えるようになってゆく。オザンファンとジャンヌレの間には、共同署名について微妙な解釈の食い違いが、『新精神』誌に記事が掲載されている段階ですでに発生しつつあった。
そのことを示す資料が存在する。オザンファンとジャンヌレは一九二一年の夏にローマに赴き、『新精神』誌の兄弟誌にあたる『Valori Plastici』誌にイタリアでの『新精神』誌の販路拡大を依頼する★一〇。日付はないがその時と判断できるローマのブリストル・ホテルの便箋に書かれたジャンヌレ宛のオザンファンの手紙が発見されている★一一。ローマで両人の関係は非常に悪化したようであるが、その書簡の中でオザンファンは、エプシュタインの著作に付記された「献辞」についてのジャンヌレの態度に非常に侮辱されたことを難詰している。
この「献辞」事件は実は、ル・コルビュジエ・ソニエの署名に係る。後に映画作家・監督として知られるジャン・エプシュタインは、一九二一年の九月から新精神社の経営に協力するシレンヌ社から推薦されて編集局に参加する★一二。そのエプシュタインをジャンヌレに紹介したのはオザンファンだったが、エプシュタインが一九二一年に出版した本をジャンヌレに献呈した際の献辞がオザンファンを傷つけたようである。エプシュタインの本とは、恐らく『今日の詩』(シレンヌ社)と推測できる。というのは、同じく一九二一年にエプシュタインがシレンヌ社から出版した『シネマ』と一九二二年に同社から出した『ラ・リロソフィー』がル・コルビュジエ文庫に保存されており、両者の「見返し」に著者エプシュタインの献辞が記入されている。一九二一年一一月一九日付の方には「ル・コルビュジエ・ソニエに献ず」[図8]とあり、一九二二年五月二九日付の方には「ジャンヌレ、または称賛すべき栄光に満ちたル・コルビュジエに献ず」[図9]とある。つまり、エプシュタインは、一九二一年にはル・コルビュジエ・ソニエをジャンヌレの筆名と考えていたが、翌年にはル・コルビュジエが筆名であることを理解したわけである。
したがって、別に引く事実と共に[★三〇参照]、一時ジャンヌレは友人にル・コルビュジエ・ソニエが自分一人の筆名であることを吹聴していた可能性がある。それらの友人は、ほとんどがオザンファンが紹介した人々であったから、「ソニエ」であるオザンファンの善意は傷つけられ裏切られた思いがしたであろう。まさに恩を仇で返す行為である。そのことをオザンファンはジャンヌレに宛てた私信に綴っている。ジャンヌレが共同署名を独占しようとしたことに対しても、オザンファンは憤っていたことが分かる。
ところで、ル・コルビュジエ・ソニエが二人の署名か一人の署名か不鮮明な時期の一九二二年の一一月、まさに上記エプシュタインの献辞が書かれた時期、ル・コルビュジエがサロン・ド・トンヌに都市計画案を展示し、『新精神』誌が休刊している時に、新精神出版社で、「青年建築家ル・コルビュジエ・スーニエー氏に偶然面会した」日本人がいた。日本にル・コルビュジエを最初に紹介した薬師寺主計である★一三。薬師寺が一九二二年当時の日記ではジャンヌレを「ル・コルビュジエ・スーニエー」と書き留め、その日記を転載した一九二九年の雑誌『国際建築』の前書きではル・コルビュジエと改めていることが示すように、一九二二年当時、ジャンヌレはル・コルビュジエというよりもル・コルビュジエ・ソニエを演じていたとみえる★一四。
オザンファンとの共同署名の密約はさておき、ジャンヌレは、この筆名を自分だけのものと考え始めていたのだろう。しかし、『新精神』誌の記事の連載開始間もない時期には、ジャンヌレ自身ル・コルビュジエ・ソニエを架空の建築家に仕立てる考えであったことは、後に見るように、初期の記事の文章や図版のキャプションの入れ方に示されている。しかし、『新精神』誌第一三号(一九二一年一二月)の「量産住宅」の記事にジャンヌレの当時の計画案を掲載したころから、恐らくル・コルビュジエ・ソニエを自分の建築家としての筆名にすることを考え始め、一九二二年七月以降『新精神』誌が休刊し、サロン・ド・トンヌに「三〇〇万人の現代都市」計画案を出品するに及んで、建築家としての筆名は、ル・コルビュジエ単独にする必要性をジャンヌレは次第に感じ始めたのではないだろうか。
共同署名を巡り、両者の思いは次第に離れ始めていた。それは、『新精神』誌の記事をまとめて、『建築』書初版本にまとめる段階で顕在化する。つまり、ジャンヌレが挿入したオザンファンへの献辞がそれである[図3]。
『建築』書初版発売とともに復刊した『新精神』誌の記事署名を、ジャンヌレは「ル・コルビュジエ」単独に限定してゆく。一九二五年にまとめられる『ユルバニスム』、『今日の装飾芸術』を構成する記事群は、一九二三年一一月以降の『新精神』誌に掲載されるが、署名はル・コルビュジエであった★一五。ジャンヌレは現実的であった。それは、一九一八年に約束して以来の共同署名による思想の共同を、少なくとも都市と建築の領域の記事については、ジャンヌレの方から破棄したことを意味する。しかし、それでも、美術記事についてはオザンファンとの共同署名を維持したのである。
一九二五年におけるオザンファンとジャンヌレの共同活動の決裂の後に書かれるル・コルビュジエ自身の回想録には、共同署名の意味や内実を率直に認めるものが少ない。むしろ、ル・コルビュジエのピュリスムへの係りを切下げる発言★一六や、ピュリスム運動を絵画や絵画理論にのみ囲い込む言動が見られる★一七。しかし、『建築』書で展開される建築思想は、紛れもなくピュリスムそのものなのである。あるいは、ジャンヌレがオザンファンのピュリスムに感化されなければ展開できなかったものなのである。その思想形成を詳細に見ることは、別稿に譲ろう。

8──エプシュタインからル・コルビュジエ・ソニエへの献辞、1921年11月19日 (エプシュタイン著『シネマ』シレンヌ社、1921)、「財団」ル・コルビュジエ文庫所蔵

8──エプシュタインからル・コルビュジエ・ソニエへの献辞、1921年11月19日
(エプシュタイン著『シネマ』シレンヌ社、1921)、「財団」ル・コルビュジエ文庫所蔵

9──エプシュタインからル・コルビュジエ・ソニエへの献辞、1922年5月29日 (エプシュタイン著『ラ・リロソフィー』シレンヌ社、1922)、「財団」ル・コルビュジエ文庫所蔵

9──エプシュタインからル・コルビュジエ・ソニエへの献辞、1922年5月29日
(エプシュタイン著『ラ・リロソフィー』シレンヌ社、1922)、「財団」ル・コルビュジエ文庫所蔵

1-3 ソニエの削除とその後も続いた共同署名「オザンファンとジャンヌレ」

上に見たゴチエの伝記は、署名の変更について事実を正確に伝えていない。「ル・コルビュジエ・ソニエ」の署名は、一九二五年の第二版で初めて「ル・コルビュジエ」に改められた。当然のことながら、ル・コルビュジエ自身は、晩年に至るまでこの署名変更の事実とその意味をはっきり認識していた(後述)。
『建築』書初版は、今日ではあまり目に触れないため、ル・コルビュジエ・ソニエの署名が『建築』書初版の時点でル・コルビュジエに改められたと誤解している論者がいる。ターナー[Paul, V. Turner, 1971a:167]、フランプトン[Kenneth Frampton, 1979:18-20]がそうである。ターナーは、したがって『建築』書における「ソニエ」即ちオザンファンの署名の削除は、たいした不正行為ではないと判断している。
もちろん、オザンファンの回想録から示唆され、共著署名のエピソードに言及する論者はいる。ジェンクス[Jencks, 1973:57]、デュクロ [Ducros,1985:31]、[idem.1987:280-281]、ロベール[Robert, 1987:316-318]などだが、ジャンヌレの思想展開にもつ共同署名の意味にまでは言及していない。ル・コルビュジエの世界的知名度が確立して以降に書かれた論考であるから、ル・コルビュジエの一九二〇年代の思想形成を冷静に分析して切り下げ、オザンファンの思想的寄与を復権するような奇特な論者は、[Ball, 1978]や[Ducros, 1985]など少数の例を除いて、非常に少ない。酬われないのはオザンファンである。
多くの論者は、初版を知らずに、あるいは初版を確認せずに、第二版の姿と内容を初版『建築』書と同一と見做している★一八。そうではない。ル・コルビュジエ著の『建築』書は、第二版で初めて誕生したのである。しかも、第二版やそれを底本とした外国語訳を読むかぎりは、異なった初版の姿は見えてこない。
つまり、『新精神』誌に連載されていた記事の段階では、オザンファンとジャンヌレの間では、『キュビスム以後』や後の『現代絵画』と同じ性格の共著の著作群として了解されていたことが、第二版以降のソニエを削った『建築』書からは窺いにくいのである。少なくとも初版本は、その痕跡を未だ留める。しかも、共著の事実は、当時は当事者間の密約であったから、一般読者には「ル・コルビュジエ・ソニエ」という「一人」の建築家の記事であり著作と受けとめられるという複雑な事情が生まれる★一九。架空の建築家ル・コルビュジエ・ソニエが、仕掛け人達の思いとは別に、世界中に知れ渡り独歩し始めたのである。
さて、一九二二年六月から一九二三年一〇月まで『新精神』誌は長期にわたり休刊する。その休刊以前に「ル・コルビュジエ」単独の署名記事はない。復刊後の『新精神』誌第一八号(一九二三年一一月)においても「ル・コルビュジエ・ソニエ」は使用されていた。初めて「ル・コルビュジエ」単独の署名が『新精神』誌に登場するのは、その第一八号「皿に突っ込んだ足(Les pieds dans les plats)」の記事(後に『今日の装飾芸術』にタイトルを「突風(Une Bourrasque)」に変更して組み込まれる)であった。復刊後、ジャンヌレは直ちに自分の筆名を「ル・コルビュジエ」に切り替えた訳ではなく、多少の躊躇もあったようだが、第一九号(一九二三年一二月)から「ソニエ」は消える。
しかし、同時期に店頭に並んだ『建築』書の初版[図1]は、後に見るように夏前にはすでに出来上がっていたため、共同署名のままであった。しかし、「見返し」にはオザンファンへの献辞が入っていた[図3]。つまり、『建築』書初版本はル・コルビュジエ・ソニエの時代の最後の時期に属しているのである。そして、一九二五年の第二版とドイツ語版『建築』書(一九二六)になって、他に同時に出版される『ユルバニスム』や『今日の装飾芸術』と併せて、署名を「ル・コルビュジエ」に変更する。しかし、署名の変更に見合った修正作業に予期しない失策が起きる(後述)。結局、変更作業は、一九二八年の改版第三版で漸く完成する。そして一九三〇年代のクレス社倒産による絶版の後長く放置され、第二次世界大戦後の一九五八年に復刻再版第四版が出される。このように、ル・コルビュジエの生涯を通じて幾度も、『建築』書は姿を変え続けたのである。
こうして省みれば、『建築』書の初版は、「ル・コルビュジエ」の係る著作の中で唯一、オザンファンとの思想的な協力が良好に機能している段階にまとめられた著作であった★二〇。オザンファンの思想的影響が無視しえないほど大きい時期に成立した、内容的にいってもオザンファンとの共同の著作群に数えられてしかるべきものだった。それが公になることをル・コルビュジエは望まなかったようである。
従来、ル・コルビュジエの研究者は、この時期のオザンファンとジャンヌレの共同の著作の内容を検討する際、両者の思想の区別が難しいことから、両人の思想として一括して扱う場合が多い★二一。ル・コルビュジエの知名度が圧倒的にオザンファンを凌駕する後の時代から回顧すれば、結果的には、オザンファンがイニシアティヴをとった思想もジャンヌレの思想と見做され易い。それぞれの寄与分をここで吟味するのが本稿の目的ではないが、オザンファンとジャンヌレの協同は、伝記的事実を追うだけでも、どのように控えめに見ても、既にパリの芸術界や出版界に通じていたオザンファンにとってよりも、スイスから移住してきたばかりで事情に疎く、パリでの事業にも失敗したル・コルビュジエにとって得るところの大きいものであったことは、確かである。ル・コルビュジエは、オザンファンによって、パリの美術界や出版界そして文化人の世界に導かれたのである。それは、当時のジャンヌレの交信録が如実に示している★二二。
キュビスムの絵の意義についても、それほど理解のあったとは思えないジャンヌレが★二三、オザンファンの手ほどきで油絵を始め、絵画の見方を教示され、ピュリスムの教理(その概略はジャンヌレと巡り合う前にオザンファンが準備していた)をオザンファンと共に討議することを通じて、芸術論の次元に目を開いた。その芸術理解が建築理解に影響を与えないはずはなかった。さらには、出版の事情についてジャンヌレが得た知識のほとんどが、『新精神』誌の編集を全面的に担当していたオザンファン★二四からもたらされたもの、といっても過言ではない。因にジャンヌレは。『新精神』誌の休刊以前は経理を担当していたに過ぎない。造本の装丁と組版をジャンヌレが最初に試みたケースが『建築』書であったから★二五、そこには当然『新精神』誌発行を切り盛りしていたオザンファンの仕事の見聞が役に立ったはずである。それが、ル・コルビュジエのそれ以後の数多くの本作りの出発点になったのである★二六。
共著として書かれた記事を編集した『建築』書からオザンファンの痕跡を削りながら、同じくオザンファンとの共著である『キュビスム以後』や『現代絵画』の絵画論の著作については、自分の署名をそのまま残したジャンヌレの行為は、今日の眼からすれば不当に見える。一九一八年九月の時点で、意気投合した両人がそれ以後の全ての著作を共著として刊行する約束をしていたが★二七、一九二三年の秋以後、建築や都市方面の記事には共著を拒否し、しかし、明らかに自分の不得意な美術論の記事には共著署名を維持したからである。晩年には、ル・コルビュジエも思想の共同の合意があったことを認めている★二八。しかし、『新精神』誌の休刊期の前から、ジャンヌレは一方ではオザンファンの友情を疑い始め★二九、他方で「ル・コルビュジエ・ソニエ」を自分一人の筆名と見做し始めた★三〇。ついには『新精神』誌復刊後に「ソニエ」を削除した筆名で記事を連載するようになる。
逆に、オザンファンの立場からみると、一九二五年の思想の共同活動の決裂の後に、オザンファンが『キュビスム以後』や『近代絵画』の署名から、ジャンヌレの名を削らなかった、あるいは、削ることができなかったことからみて、共著記事の連載中に、オザンファンは、少なくともジャンヌレのように美術論を自分だけの著作に独占することを考えてはいなかったことを示しているだろう。ジャンヌレがしたように、雑誌を自分の宣伝媒体にしようとはオザンファンは考えてはいなかったようだ。共同活動が決裂した後に、ル・コルビュジエの一方的な脚色で間違って伝えられていることを正す目的で書かれたオザンファンの回想録のル・コルビュジエに係る部分は、オザンファンの人柄を反映してか、すべてを赤裸々に語っているわけではない。回想録が出版されたのが、ル・コルビュジエの死後、かつオザンファン自身の死後であり、決してル・コルビュジエの名誉を傷つける目的で記述されたものではない[Ozenfant, 1968:142]ところに、オザンファンの人柄が示されている。
「ル・コルビュジエ・ソニエ」という連名の署名の背景には、上に概略を示したように、オザンファンとジャンヌレの共同活動における思想の共有という微妙な事態が係っていたことが分かるだろう。そのような状況に生まれた建築マニフェストの書がどのような過程を経て改版を重ねたのか、それについてル・コルビュジエがいかに不可解な発言を繰り返したかを、次に考察してみよう。ル・コルビュジエの奇妙な態度が見えてくる。

2 『建築をめざして』書の諸版本

今日の書誌情報の表示形式とは違い、『建築』書の改版は、巻頭の改版の序と、各版の表紙の右下の「版表示」、実は「刷」表示によって判断するしかない[図1、4]★三一。初版が何回刷られたかは不明だが、筆者はラ・ショ・ド・フォンの町立図書館で初版の第四刷を確認している。日本では唯一京都工芸繊維大学附属図書館が初版本を所蔵しているが、表紙が破損していて、第何「刷」かは確認できない。第二、第三版にはさらに多くの「刷」が存在し、筆者は第二〇刷の存在まで確認した★三二。ヒルデブラント訳のドイツ語版の『建築』書(一九二六)の翻訳作業は、第二版の改版作業と並行して進められ、改版校了原稿を底本にして翻訳された★三三。エッチェル訳の英語版の『建築』書は第二版第一三刷の翻訳である。これらの翻訳書は、当然、ル・コルビュジエの著作として世に広まるが、初版はル・コルビュジエ・ソニエの著作であった。

2-1 『建築をめざして』初版一九二三年版

『建築』書初版[図1]は、一九二三年のバカンス明けの一〇月に発売された。クレス社社長のクレス氏宛の一九二三年六月二一日付けのル・コルビュジエの書簡[AFLC:A1-3]は、同社から届けられた製本完成本の礼を述べているから、製本自体は夏のバカンス前に終わっていた。しかし、編集作業の遅れにより、当初販売開始を予定した同年の四月から大きくずれ込んだため、新刊を店頭に出すには向かない七月を避け、バカンス明けに発売されたらしい。一一月に復刊再開された『新精神』誌第一八号の巻末には、「発売開始vient de paraitre」の『建築』書の宣伝広告が入り、次の一二月の第一九号には、オザンファン執筆(署名は「O」)による同書の書評記事が載る。
この『建築』書初版本に巡り合うのは、非常に難しい。何でも保存しておく習癖のあったル・コルビュジエの文庫や資料(「財団」所蔵)の中にも、初版本は存在しない。パリに移住以後のジャンヌレの係る著作としては二番目のものであったが、何よりも「ル・コルビュジエ」(実際は「ル・コルビュジエ・ソニエ」)の名を冠した初めての建築の本であり、 建築作品に先立って彼の名を世に広めたのがこの『建築』書であったから、一冊位は手元に残しておいてもよいはずだが、ない。一九二二年一二月二一日付けでクレス社と交わされた同書の出版契約書[AFLC:A1-3]によれば、書名は『新しい建築 (L’Architecture Nouvelle)』とされ、三千部の初版部数のほかに、五〇部の豪華装丁本が予定されていた★三四。
初版本表紙の体裁は、図1に見るとおりである。著者名は「ル・コルビュジエ・ソニエ」、この事実は再確認しておこう。第二版から著者名の上に入る「レスプリ・ヌヴォ叢書」の表記[図4]は未だ登場していない。この「叢書」構想は、あったとしてもジャンヌレの頭の中にだけ存在し、以後二年間『新精神』誌上に連載される「ユルバニスム」と「装飾芸術」関連の記事をまとめた本の刊行を俟って初めて叢書が成立する。初版の見返しには、「アメデ・オザンファンに捧ぐ」という献辞が入る[図3]。
この献辞は初版初刷本から入っている。著者・タイトル・出版社の刻印された「扉」の前に挿入された、献辞と非常に素っ気ないタイトルが刻まれた「遊び紙」[図3]は、「扉」以下に続く目次(Argument)と共に『建築』書の巻頭の第一「折目」(製本用語)を構成しているから、製本模型を検討した段階で既に献辞を入れることをジャンヌレが決めていたことが分かる。この献辞こそ、本来共同署名を意味した「ル・コルビュジエ・ソニエ」を、ジャンヌレの単独署名、即ち「ル・コルビュジエ」に変更する前段階での独占の試みなのである。
『建築』書の最終的な編集作業は、一九二二年一二月下旬から一九二三年二月の間(この時『新精神』誌は休刊している)[★三四参照]になされたと推測できる。その時期には、上に見たように、ジャンヌレは既に共同署名をそのまま自分の筆名と考える傾向にあったと察せられる。『建築』書初版が出来上がる一九二三年六月の段階では、ル・コルビュジエはソニエを削る決断をまだしてはいなかった。
オザンファンとの思想の共同は、一九二一年の夏頃から既にほころび始めていた★三五。ピュリスムの主張の形成面と絵画の実作において、オザンファンのイニシアティヴに甘んじていたジャンヌレも、『新精神』誌での建築の記事の連載によって自分でも驚くほど知名度が上がり、次第に建築論や都市論をオザンファンとの共同署名で公表することを望まなくなったのである。建築を論ずる分野で、ジャンヌレが「ル・コルビュジエ・ソニエ」から「ル・コルビュジエ」に独立してゆく一九二二年から一九二三年の過程は、ピュリスム絵画の分野においてもジャンヌレがオザンファンから独立してゆく過程と相応している★三六。
しかし、一九二一年から二二年にかけてジャンヌレの事業は苦境にあり、脅迫神経症的な心理状況と「他人に対して要求が多く(exigeant)他者の仕事を評価しない」(一九二二年九月一日、オザンファンのジャンヌレ宛書簡)ジャンヌレの性格から考えて、一九二一年四月の第七号『新精神』誌上での出来事は、オザンファンとの友情が弛緩し始めたという脅迫観念をジャンヌレに抱かせたようだ。さらに、一九二二年の夏以前にジャンヌレの事業は破産し、『新精神』誌の経営も困難となり、オザンファンも体調を崩し、雑誌は一九二二年七月から休刊する。後に共同署名の一方的な取消しにまでいたるジャンヌレの行動の背景には、ル・コルビュジエ・ソニエの知名度の飛躍的な上昇ばかりではなく、当時の心理状況と彼の性格が係っているようである。
不況下にあって『新精神』誌の広告契約の更新が芳しくなく、「新精神社」の増資が困難で一九二一年の秋以降シレンヌ社が資本参画することになったが [AFLC:A1-12]、『新精神』誌は結局長い休刊に追い込まれる。この休刊期に、ル・コルビュジエは一九二二年サロン・ド・トンヌへ「三〇〇万人の現代都市」計画を出品し★三七、その後にシレンヌ社主ラフィトの仲介でクレス社と一二月に出版契約を結び、『建築』書の編集に取り掛かるのである。
『新精神』誌が休刊した一九二二年七月から一九二三年一〇月の間に、オザンファンとジャンヌレの知名度は逆転する。休刊以前にも、ル・コルビュジエ自身が予期していなかったほどの反響を、雑誌連載の記事が呼び起こした[リッター宛ジャンヌレ私信一九二一年七月三〇日]。具体的に建築作品が建つ以前にもかかわらず、「建築分野における完全な成功、この分野で私を越える人間はいない」[同所]とまで豪語するほどであった。ル・コルビュジエは、こうして雑誌をはっきり「自分の」建築や都市についての主張の伝達媒体(オルガン)として戦略的にはっきり認識した。架空の建築家「ル・コルビュジエ・ソニエ」は、オザンファンとの共同のフィクションにしておくには勿体ないほどジャンヌレを凌駕し、一人歩きを始めた。オザンファンが雑誌をあくまで共同の思想活動の媒体と考え、一九二三年の秋に『新精神』誌が復刊した後も共同署名でピュリスム美術論を書き続けたのに対し、ル・コルビュジエは自分の都市や建築についての主張の機関誌と考え始めた。その証拠に、共同署名「ル・コルビュジエ・ソニエ」を『新精神』誌復刊直後に廃止し、同時に二つの連載記事(一九二五年に『ユルバニスム』、『今日の装飾芸術』にまとめられる)を企画し、「ル・コルビュジエ」単独の署名で積極的に論陣を張るようになるのである。
オザンファンのノートに基づき共同討議をオザンファンが筆記したものが『キュビスム以後』や、『新精神』誌休刊以前の美術論であったのに対し、「材料をオザンファンが提供し」、共同討議をしつつ、ジャンヌレが筆記したのが『建築』書の前身である建築論の記事群であった。少なくとも、掲載当初はオザンファンとル・コルビュジエの間ではそういう了解が成り立っていた。「ル・コルビュジエ・ソニエ」の署名は、『建築』書初版におけるその思想の共同を物語る痕跡なのである。その了解を破るのが、先ずは、初版のオザンファンへの献辞、そして復刊以後のル・コルビュジエ単独の執筆活動であった。
『新精神』誌上に連載された記事の順序と『建築』書の記事立てとは異なる。『建築』書冒頭の「工学技師の美学」は、連載半ばの『新精神』誌第一一、一二号合併一周年記念号の総括論文であったから、「建築家諸氏への覚書:ヴォリューム」が掲載第一号論文である。また、『建築』書巻末の「量産住宅」は、『新精神』誌上では「工学技師の美学」の直後の第一三号に登場し、後に「建築」の三つの記事が続いた。最終章「建築か革命か」は、実は一九二一年二月頃、つまり、「指標線」が『新精神』誌第五号に掲載されている頃には既に構想され、『新精神』誌第一七号(一九二二年六月発売)に発表される予定であったが陽の目を見なかった。結局、第一六号の「精神の純粋創造」が『新精神』誌上での連載の最終論文であった。
これらの異同については、記事を並べ直した時点でのジャンヌレの時流への戦略に基づいていたのであるが、概略は[伊從一九九二]に示したので本稿ではこれ以上立ち入らない。ここで触れておきたいのは以下の点である。

2-2 初版における「われわれ」から「私」への変更:「ル・コルビュジエ・ソニエ」から「ル・コルビュジエ」への序章

オザンファンは「ル・コルビュジエ・ソニエ」の署名を共同署名と考えていたが、ル・コルビュジエがどう考えていたのかについては、すでに引いたヘルマンの証言のほかにジャンヌレ自身の直接の言質はない。しかし、次第に自分の筆名に独占しようとした傾向が状況証拠として指摘できる。そこで、『新精神』誌連載当時の記事の中で使用される「われわれ」という人称代名詞の用例を検討してみよう。「筆者」を狭義に示す必要のある用例に次のようなものがあり、これが『建築』書初版ではどのように変更されたかを調べると、ジャンヌレの共同署名に対する考えが分かるかもしれない。
『新精神』誌第四号「平面計画」の章の四六七頁第三段落目冒頭に、「ピロティ都市の構想を、もう既に大分前に私たちはペレに話したことがある」とある部分が、『建築』書初版では「私はペレに話したことがある」(初版四四頁)となる。『新精神』誌での「私たち」が『建築』書で「私」に変更される用例は、管見ではこの箇所だけである。もちろん、慣例として「私たち」の用例は相当数あり、ほとんどは『建築』書初版でもそのまま据え置かれる中で、この用例だけが「私」に替えられたから目立つのである。
オザンファンとジャンヌレはペレの仲介で知りあったから、都市案の話にオザンファンも同席していた可能性もある。しかし、この変更は、共同署名をはっきり拒否するジャンヌレの意志を示している。
自分の計画案や作品を多く掲載する「平面計画」、「指標線」、「量産住宅」の記事の中では、論考に不適当な「私」という主語が極力避けられている。しかし、一箇所だけ著者の主体性が表現される部分が「指標線」の記事の中にある。『新精神』誌第五号五七二頁の注記[図10]に、「ル・コルビュジエ・ソニエはここに自分の愚作を例に引くことにつき容赦を乞う」と三人称単数形で表記された部分を、『建築』書初版では「私の愚作を例に引くことをお許し願いたい」(強調引用者)[図11]と第一人称単数形に書き改めている部分である。
当然ながら、オザンファンと知り合う以前の計画案も含め、自分の建築案や作品をオザンファンと共有しようとする気がル・コルビュジエにあったとは思えない。『新精神』誌第一三号(一九二一年一二月)に掲載された「量産住宅」の記事に満載された計画案の署名は、総て「ル・コルビュジエ・ソニエ」となっていて、『建築』書初版においてもそのまま表示された。しかし、『新精神』誌第五号(一九二一年二月)の段階では、ジャンヌレの故郷に設計した住宅(シュウォブ邸、一九一六)の指標線実施案(立面図が二面示された)は、あくまで架空のル・コルビュジエ・ソニエ氏の「ひとつの」邸宅案であり、虚構のル・コルビュジエ・ソニエを演出する素材の趣が強かった[図10]。しかし、写真を二つ追加して初版本の「指標線」の章の末尾に置かれた邸宅の図[図11]は、はっきりとル・コルビュジエ・ソニエという建築家の「私の」作品として紹介されている。
この「指標線」の章末尾には、一九二五年の第二版では一九二三年竣工のオザンファンのアトリエ[図12]と一九二四年竣工のオトゥイユの家(図12の後続頁)の写真と立面図が加わる。オザンファンのアトリエがここに掲げられ、設計者として「ル・コルビュジエとピエール・ジャンヌレ」と明記されていることは、次に見てゆく第二版で初めてル・コルビュジエの署名が独立した事実を考えあわせれば、意味深い。一九二二年からパートナーを組んだ従弟のピエールとの共同活動を示すことによって、建築についてはオザンファンを埒外に置く巻頭の献辞と同じ働きをするはずだった。
これらのことから推測されることは、『新精神』誌に建築についての緒論が掲載され始めた当初には、「ル・コルビュジエ・ソニエ」という架空の建築家を脚色することにオザンファンとジャンヌレの共通の意図があったと思われるが、『建築』書初版は明らかに、「私」=「ル・コルビュジエ・ソニエ」の書物の体裁がとられることになるのである。しかし、これは随分無理な操作である。いずれ「ソニエ」を削る時が来るが、それ以降、初版の「ソニエ」は疎ましい過去となる。

10──『新精神』誌第5号(1920.11.)より、シュウォブ邸紹介頁 架空の建築家「ル・コルビュジエ・ソニエ」の作品として

10──『新精神』誌第5号(1920.11.)より、シュウォブ邸紹介頁
架空の建築家「ル・コルビュジエ・ソニエ」の作品として

11──『建築をめざして』初版より、シュウォブ邸紹介頁。「ル・コルビュジエ・ソニエ」の作品として

11──『建築をめざして』初版より、シュウォブ邸紹介頁。「ル・コルビュジエ・ソニエ」の作品として

12──『建築をめざして』第2版より、シュウォヴ邸とオザンファンのアトリエ 「ル・コルビュジエ」とピエール・ジャンヌレの作品2例として

12──『建築をめざして』第2版より、シュウォヴ邸とオザンファンのアトリエ
「ル・コルビュジエ」とピエール・ジャンヌレの作品2例として

2-3 改訂増補第二版一九二五年:「ル・コルビュジエ」の誕生と欠けたオザンファンへの献辞、未完成の改版

『建築』書第二版[図4]の特長は、まず、署名が「ル・コルビュジエ・ソニエ」から「ル・コルビュジエ」に変更され、『新精神』叢書の一冊であることが初めて表示される。表紙のタイトルの下に、「改訂・増補版」という付記が加わる。次に、巻頭に一九二四年一一月付の第二版への序文が挿入される。形式的にこのように区別できる改訂版を本稿では『建築』書第二版と呼ぼう。ル・コルビュジエ自身も晩年にそう呼んでいた★三八。
『新精神』叢書とは、この第二版と他の二冊の著作をもって初めて成立する。初めてル・コルビュジエ単独の著作の体裁を整えようとするこの版において、変更しなければならないことはかなりあった。署名の変更に合わせて、自分の作品を図版に使用していた「平面計画」と「量産住宅」の章では、作者のキャプションを「ル・コルビュジエ・ソニエ」から「ル・コルビュジエ」に総て変更し、新たな文章の挿入が「平面計画」の章に非常に多く見られる。特に、ペレの発案に基づきル・コルビュジエが発展させた「塔状都市」について、ペレへの批判的な立場をはっきり打ち出し、文章の訂正、註の追加等を入念に行なっている。他の部分でも、註記の追加、訂正そして十数頁に及ぶ図版の差し替えや追加、それもル・コルビュジエ自身の建築案や作品の図版の追加が「平面計画」と「量産住宅」の章で行なわれている。初版の「平面計画」と「量産住宅」の章に自分の計画案を挿入したのは、サロン・ド・トンヌへの「現代都市計画案」出品の後に初版の編集作業が行なわれたためである。第二版においても、同じ箇所に集中的に自分の計画案を挿入しているのは、改版作業が一九二五年の装飾博覧会の準備と並行して行なわれたことに照応している。
因に、一九二〇年代のル・コルビュジエの書物は、常に当時の何らかの出来事を的にして出版されている。どれもが、いわば、キャンペーン書物である。ことの発端である一九一八年のオザンファンとジャンヌレのピュリスム絵画展に合わせて出されたマニフェスト『キュビスム以後』も芸術の領域でのキャンペーン書であった。一九二五年の装飾博覧会に対する『今日の装飾芸術』と『現代建築年鑑』しかり、一九二七年の国際連盟設計競技に対する『住宅と宮殿』(一九二八)しかり。『建築』書も、一九二二年二月の『新精神』誌連載末期の頃の構想では、第一次世界対戦後の住宅復興計画(当時提案されていたルシュール法)に的を合わせた住宅量産の提案の書でもあった[伊從、一九九二]。『ユルバニスム』は一九二二年サロン・ド・トンヌへ出品した「現代都市計画案」の延長線上で、『新精神』誌に掲載した都市論の小論群を編集し直して生まれたものである。
これらの書物の中で『建築』書だけが、改版を繰り返した。他の書物(『今日の装飾芸術』、『ユルバニスム』)は、キャンペーンが済めば初版の版組のまま、一九三〇年代初めの頃のクレス社倒産まで増刷されたのに対して、『建築』書だけが改版を少なくとも三回繰り返したのである。しかも、その改版の時期は、他の出版物の時期、つまり、その折々のキャンペーンに動員されるための改版なのである。
一九二五年の『建築』書第二版は、装飾芸術博覧会出展の「レスプリ・ヌヴォ」館(以下「新精神館」)に展示した田園都市計画案を「量産住宅」の章に追加している。続く第三版は、一九二七年の国際連盟宮殿の競技設計事件の余燼の中で出版されるが、自分の一等当選案を巻頭に掲げ、『建築』書の未だ有効なることを宣言する。
ここで問題にしたいのは、この第二版がいつごろ出版されたかということであり、オザンファンへの献辞が欠けてしまったという失策についてである。
一九二五年三月一三日付のクレス社担当者ルブランからジャンヌレに宛てた書簡は、『建築をめざして』の「校正原稿」を送り返すよう督促している。ル・コルビュジエが一九二四年一一月付の序文を用意したその第二版の『建築』書は、一九二五年三月の段階では、まだ校正が終了していなかった。文面には、同時に『今日の装飾芸術』校正原稿の返送と『現代絵画』の挿図指示を催促しているから、その二書の出版準備も並行して進んでいたことが分かる。
当時、ジャンヌレは七月上旬に竣工するはずの現代装飾芸術国際博覧会に出展する「新精神館」の建設で多忙を極めていたはずである。一九二五年一月以降『新精神』誌は発行を止めており、四月頃にジャンヌレとオザンファンとの間に生じたラ・ロッシュ邸の絵画の展示方法をめぐる対立にも見られるように[Benton, 1987:67]、両者の関係はさらに悪くなっている。そして、「新精神館」の開館後の七月下旬には、ル・コルビュジエが「新精神館」展示出品依頼先に行なった威嚇まがいの行為に関して憤ったオザンファンが、『新精神』誌の共同責任者の地位を降りてしまう。雑誌の重要な編集者を失った『新精神』誌はこれで存続不能となる。オザンファンは続く八月に事実上の絶縁状をジャンヌレに送り、七年にわたる両者の協力関係はここで途絶する。理由は、「新精神館」に陳列する絵画や企業の宣伝を兼ねた提供品について、ジャンヌレが画商や商人を威嚇したことや、絵画の貸与を拒否したオザンファンの友人の画商ポール・ローゼンベルグ(レフォール・モデルヌ画廊当主レオンスの弟)を攻撃する文書を、オザンファンと共著の『現代絵画』にオザンファンに無断で挿入しようとしたことであった★三九。
『建築』書第二版が正確に何時出版されたかははっきりしないが、『現代建築年鑑』のなかで、「新精神館が建設されている間に『建築』書が再版され、『今日の装飾芸術』、『現代絵画』、『ユルバニスム』がクレス社から出版された」(一五〇頁)とあるから、「新精神館」の七月一〇日の開館に向けて出版されたものと思われる。『新精神』誌第二九号は、装飾博覧会出展の「新精神館」特集号の予定であったが、オザンファンの辞任により『新精神』誌としては発行できず、ただ一人残った新精神社の責任者としてのル・コルビュジエの判断で、翌年新精神叢書のうちの一巻として出版される★四〇。「新精神館」に関する原稿だけでは足らず、一九二四年の講演や青年期の旅行記★四一を寄せ集め、末尾には『新精神』誌同様、広告の入る散漫な編集でまとめられたこの書物の出来を見れば、『新精神』誌にオザンファンの果たしていた寄与が分かる。序文の日付は一九二五年一一月であるが、ル・コルビュジエが初刷りを手にしたのは四月下旬であった[AFLC:A1-5]。『現代建築年鑑』のこの出版作業と重なる時期に、『建築』書第二版に関して奇妙な交信が残されている。第二版には重大なミスがあったのである。
クレス社からジャンヌレに宛てた一九二六年三月五日付の書簡によると、クレス社のルブランが担当した『建築』書の再版は、[変更や追補が多かったため]結局、全頁の組み直し改版がルブランの判断で行なわれ、その際に、「見返し」に入れるはずであったオザンファンへの献辞が、印刷所の不注意で脱落してしまった、という。このことを、ルブランは自分の不手際と認めて、ジャンヌレに改めて詫びているのである。この時、既にオザンファンとジャンヌレの協力関係は断絶していた。共著を単著に改変しようというル・コルビュジエの計画は、献辞がなければ「ソニエ」を削ったことだけが目立ってしまう。ル・コルビュジエにとっては大変都合が悪い。
例えば、第二版第九刷と第一三刷本の両者を調べると、献辞の入るべき「見返し」もしくは「遊び紙」が確かに欠けている。『現代建築年鑑』に述べられたように、装飾博覧会までに『建築』書の改版が終わっていたとしたら、それから一年と経たない時点での改版などは考えられない上に、増刷の段階で献辞の頁が欠落することは、製版過程からみて考えられない。すると、第二版には第一刷から献辞が欠けてしまったわけである。つまり、『建築』書第二版は一九二五年から一九二八年までオザンファンへの献辞なしで世界中に広まったのである。
編集責任者が再三にわたり、献辞脱落についての不手際を詫びている様子からして、ル・コルビュジエの激高した様子が想像できる。彼にとってそれほど重要であったのは、友情が決裂したばかりのかつての友人への非礼を詰るためであろうか。友情決裂の機会に、『建築』書を完全に自分の著作に仕立て直す計画が完遂されなかったことへの憤懣に、むしろ近いのかも知れない。
オザンファンへの献辞を忘れず入れ、若干の本文中の註記の付加と図版の取り替えを行ない、完全なル・コルビュジエ単独の著作として仕立てられた『建築』書は、一九二八年に出版される第三版になって、漸く完成することになる。
ところで、ル・コルビュジエは一九二四年の一一月付の第二版の序でこう述べる。邦訳本には戦前も戦後もこの序は翻訳されなかった。

第二版に当たって、補遺を付したいところだが、それをこの新版で行うとすれば別の本をものすることになってしまうであろう。したがって、この新版には手を入れない代わりに、この本の両翼をなす二冊の著作を、『建築をめざして』の再版と同時に、同じ版元から、世に問うことにした。それらは即ち、『ユルバニスム』と『今日の装飾芸術』である。……こうして、昨年単独で出版された『建築をめざして』は本年、その両極をなす二側面から補強されて、世に出ることとなった。その二側面とは、一つは都市的な意味での建築の現象、これによって建築は位置づけられる。もう一方は、この哀れむべき「装飾芸術」という言葉によって呼ばれるに相応しいもの、即ちわれわれの身近にあって、いかなる行為にも伴っているもの、そのなかに建築的精神が常に現前していることを発見しなくてはならないのだ(傍点部引用者)。


初版には「手を入れない」どころか、かなりの文章と図版を追加していることはすでに見た。「平面計画」の章では、新しい註も含めて約五〇行以上の文章が書き加えられている。「指標線」の章では末尾の図版が二つ差し替え、二つ追加されている。「汽船」の章では巻頭言の直後のほぼ一頁が書き替えられ、最後から五段落目に九行の文章が挿入されている。さらに「量産住宅」の章には、装飾博覧会に展示した計画案の何と一三頁もの図版が追加された。そして、何よりも「ル・コルビュジエ・ソニエ」の「ル・コルビュジエ」への変更である。
この変更のために、版を新たに作り直して出版された事情は上に見た通りである。事実に即していないこの序文が書かれたのは初版発売から一年も経っていない頃、『新精神』誌上での『ユルバニスム』と『装飾芸術』に関する連載はまだ終了していなかったが、ル・コルビュジエの頭のなかでは、博覧会を目指して「自分の」三部作の同時発売が構想されていたのである。

2-4 改訂増補第三版一九二八年:アカデミズム攻撃に動員された『建築をめざして』

『建築』書第三版の最大の特長は、再録された第二版の序文の後に、一九二八年一月一日付の「世の動き」と題した国際連盟宮殿競技設計事件の顛末を要約する文章にル・コルビュジエとピエール・ジャンヌレ共同案を大きく挿入したところにある。当時、国際連盟の競技設計の結果は建築界に大きな波紋を呼び起こしていた。一九二五年に途絶していた『新精神』誌の代わりに、例えば、ル・コルビュジエに近いクリスチャン・ゼルヴォスにより一九二六年に発刊された『カイエ・ダール』誌などは、建築の前衛擁護の立場から競技設計について一九二七年から一九二八年にかけてキャンペーンを張っている。ル・コルビュジエ自身も、応募案について、同誌に投稿している★四二。さらに一九二八年には、この事件についての彼の見解を綴る著作『住宅と宮殿』を、クレス社から出版する★四三。 
こうして、第三版『建築』書は、建築の保守派に対する戦いの前線に動員されたのである。過去の様式建築にしがみつく反動的なアカデミーの風潮に対して、ル・コルビュジエは依然として『建築』書の存在意義があるものと判断した。序文は次のように締めくくられている。

われわれはこの本『建築をめざして』がその任務を果たしたものと思っていた。マニフェストの書は時宜を得て、使命を果たしたと思っていた。そこに、一九二七年一二月二二日の国際連盟のご託宣である。……ドイツやイギリス、アメリカで翻訳された後、『建築をめざして』は依然として使命遂行を要請されている。……このマニフェストは、悲しいことに、未だ今日的なのだ。


このマニフェストの書は、初めて具体的な敵を見出した。アカデミー一派であった。パリ左岸セーヴル街に陣取るル・コルビュジエは、北方ボナパルト街の美術学校に照準を定めたのである。この戦いは一九三三年ル・コルビュジエのまた別の著作『建築十字軍』(一九三三年、クレス社刊)に結実する。
具体的な敵の登場によって、『建築』書は完全に、ル・コルビュジエ個人の理論的な武器の体裁を整える。しかも、第二版の改版の際に加えられた彼自身の建築計画案の図版に、さらに国際連盟宮殿の応募当選案が巻頭に飾られることによって、誰も、五年前に出版されたル・コルビュジエ・ソニエの初版本のことなど忘れてしまう。ル・コルビュジエは確実に実在し始め、虚構と現実のギャップがなくなったかに見える。第二版で欠けていたオザンファンへの献辞が漸く復活し、ル・コルビュジエからオザンファンへの文字通りの献辞となり、『建築』書が共著だなどと受け取られる心配はなくなったのである。
ところが皮肉なことに、第二版までは自分の建築案や作品の図版を(主に「平面計画」や「指標線」そして「量産住宅」の章に)差し込むことで、作品集の役割も代行していた『建築』書は、この版が出るころにはその使命はなくなる。なぜなら、早くは一九二四年にはモランセ社からル・コルビュジエとピエール・ジャンヌレの『作品集』第一集が出版され、『カイエ・ダール(Cahier d'Art)』誌や『アルシテクチュール・ヴィヴァント(Architecture Vivante)』誌★四四も建築作品を大々的に掲載していたからである。
『建築』書巻頭に挿入された国際連盟宮殿計画案に係る一四頁を除くと、第三版の変更は軽微なものが多い。「表面」の章のグロピウス「ファーグス製靴工場」★四五とその次の頁の図版が別のものに替えられる。この図版は『建築』書初版で差し替えの対象になっていながら実行されなかった[AFLC B2-15]。「建築か革命か」の章の図版も二点差し替えられる。そしてなによりも、この第三版において、オザンファンへの献辞が復活し、量産住宅の理念にそって発展させてきた自分の住宅作品に加えて、公共建築の第一例とも言うべき国際連盟宮殿の計画案を巻頭に掲載して、名実ともにル・コルビュジエ単独の「建築」についてのマニフェスト書の体裁が整ったのである。

2-5 復刻『建築をめざして』第四版一九五八年:「老兵」の再動員または隠され続ける初版

一九三〇年代にクレス社が倒産し、それ以後絶版となった『建築』書を始めとする「新精神」叢書は、一九五八年に二八年ぶりに復刻される。第二次大戦後の復興が始まっていた当時、「新精神」叢書、とりわけ『建築』書の今日性が依然としてあるとル・コルビュジエが判断しているのは興味深い。一九五七年八月のヴァンサン・フレアル書店との復刻の契約では、『建築』書のほか、『ユルバニスム』、『プレシジョン』、『今日の装飾芸術』、『住宅と宮殿』そして『現代建築年鑑』の復刻が決定されたが(ストラソヴァ宛書簡一九五七年八月一四日)、オザンファンとの共著『現代絵画』はこの復刻計画のなかには入らなかった★四六。一九五八年版の『建築』書の透明カヴァーに記される「一九二〇年に執筆され、一九五八年に再版された」[図5]とある「一九二〇年」とは、『新精神』誌へ建築記事の掲載が始まった年であって、初版の出版された年ではない。ル・コルビュジエは「ソニエ」の名を添えて『新精神』誌の記事連載が開始された年を忘れてはいない。
「財団」に保存される一九五〇年代以降のル・コルビュジエの版権代理人ストラソヴァ夫人との往復書簡ファイルは、ヴァンサン・フレアル書店との新精神叢書六冊の復刻出版契約の結ばれるまでの一九五二年六月より一九五七年の八月にかけて、同叢書復刻に関してル・コルビュジエから同夫人に宛てた少なくとも一〇通の書簡控えを含む。それらの書簡の中でル・コルビュジエが強調する点は、原書の写真オフセット印刷による忠実なフランス語版の復刻本に、聖書の印刷で行なわれているような詰まった文字で組まれた英語、独語、スペイン語の翻訳本を併せて、両者を箱にいれた「ラヴ・セット」(一九五三年二月二三日)という形で国際的に出版することであった(一九五二年六月三〇日、一九五三年七月六日)。翻訳本であっても、版組みや製本の体裁を自分の許可なしには出版させない旨宣言していた(一九五三年一月六日)ル・コルビュジエであったから、翻訳本の印刷もフランスで行なうことを主張していた(一九五三年七月六日)。
一九五八年以降のヴァンサン書店による新精神叢書の復刻出版の後も、ル・コルビュジエはそれらの翻訳本が厳密に初版の製本形式や活字の字体を守るよう要求し(一九六二年六月八日)、実際、ドイツ語版やスペイン語版は、ル・コルビュジエの執拗で厳しいチェックを受ける(スペイン語版:一九五五年二月五日、六月二日、六月六日、ドイツ語版:一九六二年六月一一日、一九六三年四月一九日、四月二二日)。しかし、一九六三年のドイツ語版の表紙は、ル・コルビュジエの意に反しうっかり承認してしまった製本模型が採用された(一九六三年四月二五日)。欧文の活字を用いない邦訳本の出版に対しても、ル・コルビュジエは製本見本チェックの要求をしているのは興味深い。例えば、一九五五年一〇月一八日に丸善書店と結ばれた「都市計画の考え方」の邦訳書出版契約によれば、校正段階で各章の最初の頁の組み方のチェックを要求し、図版のいかなる変更も許可しない旨文書で誓約することが明記されている。この本は、坂倉準三訳の『輝く都市』★四七と題して、同書店から一九五六年一一月に出版された。すると、ル・コルビュジエの死後の一九六七年、別の日本人の弟子吉阪隆正訳の『建築』書が、ル・コルビュジエの意に反して、原書の造本を全く顧慮しない「黒衣」を纏って出版されたのは、何とも皮肉としか言いようがない。
一九五八年の『建築』書復刻版においても、第三版の時と同様、一番最近の建築作品が巻頭に飾られる。シャンディガール、マルセイユのユニテ、国際連合本部計画案である。復刻版の序文の日付は一九五八年一月一七日。序文冒頭で『新精神』誌連載当時の記事の署名が「ル・コルビュジエ」(実際は「ル・コルビュジエ・ソニエ」)であったといいながら、一九二三年の初版本の署名は 「ル・コルビュジエ・ソニエ」であったと認め、「一九三一年までの再版の過程でソニエが削られた」(実際には一九二五年の第二版から)とのみ言及している。しかし、「ソニエ」 が何を意味したかには触れず、まして、「ル・コルビュジエ・ソニエ」の意味を明らかにしてはいない。一九四四年のゴチエの伝記も、「ソニエ」がオザンファンの筆名であったことには触れるが、『建築』書が両者の共同作業の産物であったとは記してはいない。
一九五八年の『建築』書復刻の基本方針は、序文によれば、オフセットによって、「一九二三年版[初版:引用者註記]の『建築をめざして』を忠実に再現したもの」、「一行、一語、そして一つの図版たりとも変更しないもの」とうたわれる。この記述には驚かされる。何故なら、一九五八年復刻版を調べてみれば、初版の署名「ル・コルビュジエ・ソニエ」に復したわけでもなく、版組も初版ではなく第二版でもなく、一九二八年の第三版を底本にしていることが分かる。初版と第二版の間には、文章の付加、書き替え、図版の変更・付加がかなりあることはすでに見たから、復刻の底本を初版とするか第二版あるいは第三版とするかは、常識的には無視できない重要な相違である。
オザンファンへの献辞はどうなったであろう。かつて初版に存在し、第二版には印刷所の落度で欠け、第三版で漸く復活した献辞であるが、復刻版の「扉」の前には第三版同様「遊び紙」が復元されたが、そこには「建築をめざして」とゴチック書体のタイトルが入るのみで献辞はない。第三版には献辞があったから、この欠如は意図的と考えざるを得ない。第二版に欠けた献辞について、あれほどこだわったル・コルビュジエであったが、三三年後の今となっては、すでにオザンファンの『建築』書への係りを否定するために必要であった献辞の役割は疾うに終わった、と考えたのだろうか。献辞のこの欠如ほど、初版から経過した時の推移とル・コルビュジエの世間での成功を示すものはない。それならば、まさにこのときこそ、ジャンヌレからル・コルビュジエの虚構へと飛躍することを大いに支えてくれたかつての友「ソニエ」に、復刻版『建築』書は捧げられてもよかったのではないか。
『建築』書初版を知らず、一九五八年の『建築』書の序文だけを読めば、いかにも、一九二三年初版の忠実な再版を意図する「功成り名を遂げた」老建築家の懐古的事業とも受け取れる。第四版を底本とする吉阪訳の『建築』書を、戦後の日本のほとんどの読者はそう読んできただろう。あるいは、初版と第二版程度の誤認は、三五年も前のことであれば、誰にでもあるものだ、といって済ますことかもしれない。ところが、一九二三年の初版本ではなく、第二版以降を底本にすることを、ル・コルビュジエ自身、はっきり心得ていたのである。
版権代理人ストラソヴァ夫人に宛てた一九五六年七月一三日のル・コルビュジエの書簡によると、復刻本は、「私の序文のついた第二版に徹底的に忠実に、オフセットで各頁を再現するよう」明確に第二版を指定し、その条件を付けていたのである。第二版とは、即ち「ソニエ」を削除した一九二五年の改版本である。一九二三年の初版を復刻するのではなく、第二版を復刻すべきことをル・コルビュジエははっきり認識していた。実際は、献辞の抜けていた第二版ではなく、「ル・コルビュジエ」の署名とオザンファンへの献辞が揃い、文章も図版も最終的に完成した第三版を底本とし、しかも献辞を除いて復刻されたのである。その際、第二版の序文(一九二四年一一月付)も削除された。
一九五八年版冒頭の国際連合本部建築案の模型写真は、奇しくも一九二八年の第三版の序、即ち「国際連盟宮殿」の競技設計の審査の不正を訴える序文と並んでみると、三〇年後にまたしても同じような事態に遭遇したル・コルビュジエが世の不正に抵抗し続ける姿勢を強調する。「七〇歳にして未だに世間に棹さして叫んでいるこの私は、むしろしあわせというべきか」と、一九五八年の序は結んでいる。しかし、われわれにはそれよりも、『建築』書が初版から引きずってきている「ル・コルビュジエ・ソニエ」の署名とその変更にまつわる謎が、この最後の復刻版でも更に深まっていることを感じざるを得ない。

おわりに:『建築をめざして』初版の謎の所在

こうして、一九二三年から一九五八年までの『建築』書の改版と再版の過程を辿ってみると、ル・コルビュジエ自身の『建築』書への係り方の不可解さが明らかになる。第二版の序文といい、第四版の序文といい、一般読者に向かっては、あたかも初版の忠実な再版であることを訴えながら、真実は、周到に初版の復刻を避け、内容と体裁を改めて来た経過が見えてくる。そのことを知ると、ル・コルビュジエの著作の中にあって、『建築』書の特異な位置が浮上してくるのである。他にこのように「化粧直し」を彼自身が何度も施した著作はないからである。
ル・コルビュジエ・ソニエという署名のもとに始まった建築家としての活動の初発に、ル・コルビュジエが触れなかった事柄、あるいは、触れたくなかった心の傷トラウマ、そのような何かがあったために、ル・コルビュジエは『建築』書の体裁を終生加工し続けねばならなかったのではないか。それは何か。
それは、初版の署名「ル・コルビュジエ・ソニエ」が「意味したこと」ではなかったか。オザンファンから受けた思想的恩恵を、ル・コルビュジエは終生控除し続けたのではなかったか。七一歳になったル・コルビュジエは、復刻された『建築』書そのものの序文で、初版の署名が「ル・コルビュジエ・ソニエ」であったこと、改版の過程で「ソニエ」が削られたことを自ら認めた。その時彼が想起したのは、雑誌記事のおかげで架空の署名「ル・コルビュジエ・ソニエ」のフィクションが現実のジャンヌレを追い越した時以来、そのフィクションに必至に追い付き跨って一生を走り続けてきた自画像ではなかったろうか。
ジャンヌレは「ル・コルビュジエ・ソニエ」を媒介にしてル・コルビュジエになった。建築作品によってよりも情報操作(ジャーナリズム)によって「先に」建築家となった先駆者である。しかし、「ル・コルビュジエ・ソニエ」が意味したことについては何も語らなかった。一九六〇年以降いくつか出されたル・コルビュジエの全活動の回顧録のなかでも、「ル・コルビュジエ」としての活動の初発にあった「ル・コルビュジエ・ソニエ」の影、『建築』書にとって「ソニエ」が意味したことを終に語らず、それを胸に秘めたまま地中海に消えたのである。
最晩年のル・コルビュジエの回顧の視線は、ソニエを素通りして、パリ以前のシャルル・エドアール・ジャンヌレの世界に戻っていった。オザンファンとの協力が断絶した一九二五年に、反射的にとった自己保存の徴候、つまり一九一一年のオリエントへの旅の追憶に自分の起源を求めた衝動(『現代建築年鑑』一九二六年所収の旅行記)が最晩年に復活する。一九六五年八月、南仏カップマルタンの海に没する前月、パリで校正を終えた最後の著作、それは、五〇年以上も前に二五歳のジャンヌレが企画しながら放置した著作『東方への旅』であった。

後記
最後に、誤解を防ぐために断っておこう。『建築』書も、そのもととなった『新精神』誌への連載記事も、ジャンヌレが具体的に執筆した事実については、筆者は全く疑っていない。ただ本稿で示唆したのは、『建築』書成立の初発にあった思想の共同作業が、実はル・コルビュジエのその後の思想展開に意外に大きく寄与した可能性である。『建築』書の辿った改版の過程とそれに対するル・コルビュジエの態度は、まさにその影なのではないか。この仮説は少しずつ実証されてゆくはずである。本稿はその序論である。

Acknowledgment
For the idea I developed here concerning the first edition of Vers une Architecture by Le Corbusier-Saugnier, I am deeply grateful to two persons; Mme. Hory Laveloarisoa, ex-librarian at La Fondation Le Corbusier  in Paris, who gave me a chance in 1990 to glance over a Mme. Strassova File, then newly integrated into the corpus of l'Archive de la Fondation Le Corbusier.; and Mr. Marc Lalock, the successor of the Galerie Katia Granoff in Paris, who showed me the copies of Ozenfant's letters addressed to Jeanneret in 1921 and 1922, now conserved in Paul Getty Center  in California. The letters indicate me a struggling and cooperating ambiguous friendship between  Ozenfant and Jeanneret, the shadow of which was found profoundly thrown on the formation of the texts composing Vers une Architecture. From both of these kind suggestions this article takes it's origin.


★一──筆名ル・コルビュジエと本人シャルル・エドアール・ジャンヌレの相違を際立たせるために、本稿においては、ジャンヌレの呼称を適宜用いる。佐々木宏氏は、ル・コルビュジエの筆名を「偽名」と訳すが[ジェンクス・佐々木訳、一九七八]、本稿も筆名の虚構性を強調したい。『新精神』誌の時代とは、ジャンヌレがル・コルビュジエの偽名(虚構)に追い付くのに必要とした助走期間だったと考えてよい。
★二──一八八六年、パリ北方サン・カンタンに生まれる。画家・著述家。父親は公共事業建設会社を経営していた。そのため、建築に関する知識があり、父親と同業のオギュスト・ペレを通じてジャンヌレを知る。一九一二年には自動車の車体デザインをし、現代技術の産物に魅惑されていた。一九一五年から一年ほど、戦時期の美術家の情報誌『レラン』を主宰し、パリの美術界・文学界・出版人・服飾関係などに人脈をもっていた。知的教養や美術に関する知識は、明らかにジャンヌレを大きく凌駕していた[Ozanfant, 1968:51ff]。ジャンヌレはオザンファンの人脈を通じてパリの芸術界・社交界に加わったわけである。ジャンヌレとの協同の破棄の後も美術論や創作を続け、『芸術』(一九二八)は独英米で翻訳された。自分の絵画学校アカデミー・オザンファンを一九三二年パリに、一九三六年にはロンドン、一九三九年からはニューヨークに開校し、移住する。北米で芸術活動の後一九五五年フランスに戻り、一九六二年カチヤ・グラノフ画廊と契約、一九六六年没。死後『回想録』(一九六八)が出版され、ル・コルビュジエとの一九二〇年代の活動の内実の一部が明らかとなった。
★三──『建築』書は大いに話題にはなったものの、その構成や論理を冷静に考察した論考は以外と少ない。嚆矢は[Banham, 1960]や[Allison, 1971]などであるが、一九八七年のル・コルビュジエ大回顧展のカタログ[Lucan, 1987]にも、『建築』書の項目は設けられていない。同カタログ所収のグレズレリの論考は、『建築』書の古典建築に関する部分にのみ言及し、『建築』書初版と第二版の相違を見逃している(同論文註記2参照)。因に、ルポとパシェットの編集により、『建築』書初版と第二〇刷(第二版もしくは第三版)の異同の対照表が作成されている[Lupo e Paschetto, 1983]。『建築』書の成立の事情については[Simmins, 1987]から教えられたところが多いが、内容の考察については本稿の通り筆者は異なった考えをもっている。バンハムの『建築』書理解に遡り、『建築』書の構成を再検討した試論[伊從一九九一][同一九九二]を著者は報告しているが、詳論を現在準備中である。
★四──[伊從一九九二]に概略を報告。
★五──『建築』書の改版による変貌は翻訳書からは知りえない。邦訳の『建築』書(吉阪隆正訳、鹿島出版会、一九六七)は一九五八年の第四版を底本にしたためか、第二、第三版巻頭にあったはずの第二版序文を欠く。一九二九年の『建築芸術へ』(宮崎謙三訳、構成社書房)は、原書第二版を底本とし、ドイツ語版(一九二六)にだけ付加された図版も追補しているが、どういうわけか吉阪訳同様、巻頭の改版の序を省いている。『建築』書の外国語訳底本は、一番早いドイツ語訳でも英語訳(一九二七)でも第二版(後述)であるから、初版はいかなる外国語にも翻訳されなかった。しかし、『新精神』誌掲載当時から、記事は広く購読されており、バウハウスでも、リリー・ヒルデブラントが翻訳した記事が流布していた[Nerdinger, 1987:46]。
★六──もちろん『新精神』誌掲載記事と『建築』書初版の異同の比較は同様に重要であるが、[伊從一九九二]に概要を示したので、本稿では触れない。
★七──オザンファンは、実名をジャンヌレとの共著のピュリスムの記事に用い、美術論記事にはDe Fayet(父親の出生地), Vauvrecy(母方祖母の旧姓), Dr. St-Quentin(自身の出生地)、建築記事用にSaugnier(母の旧姓), Caron などを用いた。ジャンヌレはPaul Boulard や「*」の署名で記事を書くが、Boulardについては一九二四年六月の『新精神』誌第二四号以降のことにすぎない。ル・コルビュジエの伝記作者達は、De Fayet, Vauvrecyの署名記事まで、ジャンヌレとオザンファンの共著とする[Gauthier: 47][Petit, 1970: 544]が、これらの二つの署名記事のほとんどが、ル・コルビュジエが雑誌の編集に積極的に関わる以前の記事(一九二二年六月以前)に登場しており、しかも、その内容と背景に透ける教養から見て、ほとんどがオザンファンの執筆によるものと判断できる。[Ducros, 1987:280-1]参照。
★八──フォン・モースも同様である[von Moos, 1979:46, 337]。
★九──『新精神』誌第一九号(一九二三年一二月)には、オザンファンの手になる『建築』書の書評(署名は「O」)が載る。そのレジュメは、ル・コルビュジエ自身の文章よりも端的に、『建築』書の性格をオザンファン風に要約しているが、奇妙なことに、ル・コルビュジエ・ソニエ著として出版された『建築』書について、「ル・コルビュジエ」の建築思想を紹介しているのである。『新精神』誌第六号掲載のやはりオザンファン(筆名ジュリアン・キャロン)によるジャンヌレのシュウォブ邸の批評記事も、ル・コルビュジエの作品として紹介している。ところが、『新精神』誌第五号(一九二一年二月)の「指標線」にジャンヌレ自ら紹介したシュウォブ邸の作者は、ル・コルビュジエ・ソニエと表記されていた。それをル・コルビュジエの作品としてオザンファンが紹介したのは、「ル・コルビュジエ・ソニエ」をやはり共同の架空の署名と考えていたからであろう。
★一〇──「新精神社理事会議事録」一九二一年九月二九日[AFLC:A1-12][Gabetti e Olmo: 234]。
★一一──カチヤ・グラノフ画廊所蔵書簡コピー資料(マルク・ラロック氏のご厚意による)。グラノフ画廊はオザンファン最晩年の契約画廊。
★一二──前掲「新精神社理事会議事録」一九二一年九月二
九日。
★一三──薬師寺は「スーニエー」の意味を理解していないが、一九二二年当時の彼の日記では確かに、ジャンヌレをル・コルビュジエ・ソニエと同一視している。[薬師寺一九二九:三九─四二]、[佐々木一九八一:三一三]参照。
★一四──後年、ロベール・マレのインタヴューに答え、『新精神』誌の記事掲載の頃の世間の反響をル・コルビュジエは次のように語る。「建築家各位への覚書の記事が掲載されるや、世界中から手紙が来るやら、ル・コルビュジエという人に会いに来客が殺到するやらで、大変だった。時に、私はその問題の人がほかならぬ私だと理解してもらうのに非常に苦労した」[Monier, 1986:173](強調引用者)。この説明は事実を曲げた発言である。上に見たように、当時のジャンヌレは「ル・コルビュジエ・ソニエ」を演じていたはずである。
★一五──ユルバニスム記事第一号は『新精神』誌休刊以前の第一七号(一九二二年六月)に掲載されたため、記事の筆名は依然ル・コルビュジエ・ソニエである。
★一六──二五年後のル・コルビュジエは次のように記す。「個人的には、〈ピュリスム〉という言葉は私の好みではない。絵画の一つの運動を始めようなんて考えは私にはなかった。建築の分野では、確かに随分長い間建築を作り教理を公表してきたが、絵画の領域では、言葉を仕立てて教理を主張しようなんてことは考えたこともなかった。この点で、私の友人も敵も、私を名札のついた檻の中に閉じ込めようとしなかったことは幸いだ」[Le Corbusier, 1950: 46]。しかし、その建築の教理が、ピュリスムの教理でジャンヌレの建築体験を体系化したものであったとしたらどうだろう。
★一七──ル・コルビュジエ晩年のオザンファンの評価は、「ジャンヌレに油絵を手ほどきしてくれた」[Le Corbusier,, 1960: 49]ところまで切り下げられる。
★一八──最近の論考の中ではグレズレーリ[Gresleri, 1987]がそうである。
★一九──『新精神』誌の購読者、あるいは『建築』書初版の読者ならば、ル・コルビュジエ・ソニエ が一人の人物であると思うであろう。例えば、セレンイ [Peter Serenyi(ed), 1975]が編集した当時のル・コルビュジエ論考 [Piancentini, 1922], [Paul Westheim, 1922]などは、その例である。それは当時の日本においても同様である。雑誌『国際建築』一九二九年、第五巻第六号(ル・コルビュジエ特集号)所収の中村順平、薬師寺主計の記事にそれがうかがえる。[佐々木一九八一:三〇二─]参照。
★二〇──一九二五年七月、オザンファンとの思想の共同は決裂する[AFLC:A1-18]。それをスイスの友人リッターに報告した手紙(一九二五年一一月三日)のなかで、自分の側に原因があることには全く触れず、ジャンヌレは次のように記す、「オザンファンは私から離れました。(…中略…)私たちは七年間協同して来ましたが、そのうち三年間は素晴らしいものでした」。この三年とは、両人が完全に意気投合した一九一八年の秋から一九二一年の秋までのはずである。まさに『建築』書にまとまる記事が『新精神』誌に連載されていた期間に相当する。この時期と後のル・コルビュジエ三部作(『建築』書第二版、『今日の装飾芸術』、『ユルバニスム』)が準備された時代(一九二四─二五年)とは、両人の思想の協力の様子は激変する。ル・コルビュジエはル・コルビュジエ・ソニエから独立してゆくのである。したがって、リッターへの告白はジャンヌレの本音に近い。
★二一──例えば、『新精神』誌の思想の考察を詳細に行なっているオルモ[Olmo, 1987:44ff]やデュクロ[Ducros, 1985:30ff]の論考でさえ、両人の寄与分の区別が明らかではない。
★二二──『新精神』誌休刊以前のオザンファンとジャンヌレの協力関係において、オザンファンがジャンヌレを芸術の領域において導いていた様子は、ジャンヌレ自身の言葉によってリッター宛の以下の書簡に表明されている。24/01/1918; 02/09/1918; 23/09/1918; 21/10/1918; 19/12/1918; 11/03/1921.など。また、★三五に引くオザンファンのジャンヌレへの書簡にも、その事情が窺える。
★二三──ジャンヌレがキュビスムの絵画を実見したのは、一九一二年一二月の三週間のパリ滞在時か、一九一三年の数度のパリ往還の時と推察できる。その理解の程度は、年上の相談相手リッターへの書簡(16/01/1913; 27/09/1913.)に垣間見られ、一九一三年頃制作と比定されるキュビスム風スケッチも「財団」には残されている(FLC2200, 4093, 4099)。しかし、キュビスム絵画の美術史的・絵画論的意義を理解するのはオザンファンのピュリスムの説によってである。一九一七年から一八年の頃のジャンヌレのキュビスムに対する理解は、「全く盲目に近い」とオザンファンは証言している[Ozenfant: 102]。
★二四──「新精神出版社理事会議事録」一九二〇年一二月三一日[AFLC:A1-12)] [Gabetti e Olmo, 1975:227-230]。一九二二年に休刊するまで、オザンファンが毎日の半日を雑誌編集に当てていた(ジャンヌレ宛オザンファン私信一九二二年九月一日)。一九二五年まで編集をほとんど一身に引き受けていたのはオザンファンであった[Ozenfant, 1968: 129]。
★二五──クレス社の『建築』書出版担当のベッソン氏に宛てたル・コルビュジエの一九二三年七月三日の手紙によれば、ル・コルビュジエは『建築』書の頁組版を自分で決め、活字書体も自分で選択したという。オザンファンの出版に関するノウハウに教えられたところが少なからずあったはずである[AFLC:A1-12] 。
★二六──最晩年の一九六三年四月二二日、ドイツ語版の『建築』書が再版されるに当たり、造本模型を検討し、版権代理人ストラソヴァ夫人に宛てた手紙の中で、ル・コルビュジエは四〇年前の初版本が成し遂げた造本上の革新点を、次のように列挙する。一、各章の冒頭に内容を要約する標語を付けたこと(初版本で初めて入れられた)、二、製本上の質(恐らくフランス綴ではなく裁断を指示したことをいうか[Petit, 1970:57])、三、活字の書体の選択の三点である。これらのうち、第一はジャンヌレの発想であろうが、他の二点は、『新精神』誌の編集を担当していたオザンファンの経験に習うところがあったはずである。
★二七──一九一八年九月ボルドー近郊のアルカションのアンデルノ村において両人は、「思想や友人を共有し、著述に共同の署名をし、展覧会を協同で開催する」完全な合意に達した[Ozendfant:102]。オザンファンがジャンヌレをボルドーへ誘う書簡が [von Moos(ed)1987:282-3] に復刻されている。
★二八──「オザンファンと私は互いに納得した友として、協同で思索し、協同で著述し、同じアトリエで協同で絵を描いた」[Le Corbusier, 1950:46]。
★二九──★三五参照。
★三〇──『新精神』誌の読者ムッシ氏に宛てた書簡(一九二二年二月一七日、この時記事の連載は続いている)において、ジャンヌレは、「私は[『新精神』誌においては]特に「技術者の美学」シリーズの記事を担当し、「ル・コルビュジエ・ソニエ」の署名で世に問うてきた」と主張しているところに、自分個人の署名と考えているジャンヌレの思惑が窺える。
★三一──「刷」が版毎の刷り数か、版の違いを超えた通しの「刷」かは未確認である。
★三二──ルポとパシェットは初版とこの第二〇刷を比較している[Lupo e Paschetto, 1983]。戦後復刻される一九五八年の第四版の表紙の変更模型をル・コルビュジエが検討したのも、この第二〇刷である[AFLC:B2-15]。
★三三──ル・コルビュジエから翻訳者ヒルデブラント宛の一九二五年三月二六日の書簡。
★三四──クレス社からジャンヌレに出版契約書が郵送されたのは一九二二年一二月二一日。出版契約成立は一二月末と考えてよい。それ以前からの交信で販売開始時期を翌年四月に予定していた。その契約書は本のタイトルを「新しい建築(L'Architecture Nouvelle)」と表記しているから、契約成立後、造本模型が検討される段階で、タイトルの変更が行なわれる。一九二三年三月五日クレス氏宛てジャンヌレの書簡は、ジャンヌレがストラスブールで行なった講演の際の配付物に、出版予定の本(『建築』書)の予告を行なったことによる宣伝料を要求しているので、二月までに定稿やタイトルが成立していた可能性がある。出版の話は一年前の一九二二年二月にシレンヌ社のラフィト氏との間でまず始まっていたから(一九二二年二月一七日付ラフィト宛てジャンヌレの書簡)、シミンズとパッサンティは、ジャンヌレが出版のための草稿を準備した時期を一九二二年四月から一九二三年一月と推測する[Simmins, 1987]。一九二二年三月二五日から四月二五日までレフォール・モデルヌ画廊で開かれた「キュビスムから造形の新生に向けて」という絵画展に、オザンファンとジャンヌレが出品するためか、『新精神』誌は三月と四月号が休刊するから、『建築』書の編集はそれ以後ということになろうが、その年の秋のサロン・ド・トンヌに都市計画案を展示することを考慮すれば、編集作業が本格化するのは、サロンの後と思われる。つまり、先に触れた日本人薬師寺が「ル・コルビュジエ・スーニエー」に面会した時期以降である。
★三五──一九二一年と二二年の夏にオザンファンからジャンヌレに宛てた私信六通(カチヤ・グラノフ画廊のマルク・ラロック氏のご教示による)の文面から判断できることは、当時ジャンヌレはオザンファンの友情を疑い始め、二人の協力関係からオザンファンがより多くの利益を得ているという疑心暗鬼に陥っていた。ジャンヌレはオザンファンに対し、二人の協力関係をもっと密接にしなくてはならない旨繰り返していたようだが、それは、同時期にジャンヌレが共同書名を独占しようとしていた意向とは全く矛盾する行為である。ジャンヌレが抱いた疑心とは、次註で触れる絵画の年代付けの事件に発端をもつと思われるが、当時のジャンヌレは、彼のレンガ製造事業の経営難と過労から、強迫神経症的な状況にあったことがこれらの書簡から推測できる。オザンファンとの協力関係からジャンヌレが多大の恩恵を得たことは明らかであるから、これらの書簡は、当時のジャンヌレの心境と彼の性格、そしてオザンファンとの関係をジャンヌレがどう受け取っていたかを示す貴重な資料である。保存癖の強いジャンヌレが当然保存していてよいはずのこれらの書簡が、他者の手に渡り、現在ポール・ゲッティ財団の所蔵と帰したのは、ジャンヌレがスイスの両親の家に滞在している時に受け取り、内容からして恐らくそのまま両親宅に放置された結果と察せられる。
★三六──一九二一年一月のドゥリュエ画廊でのオザンファンとジャンヌレ共同の第二回「ピュリスム展」の頃、オザンファンがイニシアティヴをとっていた様子を、オザンファンは回想録において彫刻家リプシッツが引くジャンヌレの言葉に代弁させている[Ozanfant, 1968:117]。「この私の絵を褒めるなどしないで下さい。私は無に等しく、オザンファンがすべてなのですから」という謙遜の言葉である。ル・コルビュジエ自身は、一九五〇年になって当時を回想して次のような事実を暴露している。即ち、オザンファンがピュリスムの指導的立場にあることを示すために、『新精神』誌第七号(一九二一年四月)のモリス・レナル執筆記事「オザンファンとジャンヌレ」に転載された両人の油絵図版の一部の制作年代をオザンファンのものはやや早く、ジャンヌレのものは遅く記した、というのである[Le Corbusier, 1950:47]。しかし、ル・コルビュジエ自身認めているように[ibid]、この一九二一年までの両人の絵画は、ほとんど同じアトリエで制作され、モチーフと画題を共有し、明らかにジャンヌレがオザンファンを見習っている。ジャンヌレの絵がオザンファンに追い付き独自の境地を開くようになるのは一九二二年以降であり、もはや両人は夫々自分のアトリエで制作をするようになる[一九二二年九月一日ジャンヌレ宛オザンファン私信]。一九二二年から一九二三年に掛けて、ピュリスムの範囲内ではあるが、ジャンヌレは決定的にオザンファンから絵画的に独立する。両人の絵の違いは、一九二二年二─三月にレフォール・モデルヌ画廊で開かれた「造形の新生」展で初めて明らかになり、一九二三年二月二八日から三月二八日まで、同じくレフォール・モデルヌ画廊で開催される、オザンファンとジャンヌレの最後のピュリスム絵画展で決定的に示される。
★三七──サロン・ド・トンヌ出品作品は、『新精神』誌第一七号に掲載を予定されながら結局掲載されなかった「建築か革命か」の内容であった[伊從一九九二]。大きく膨らんだ「現代都市計画」は、当然、『建築』書には収めることはできず、別の著作、即ち、将来の『ユルバニスム』の構想をル・コルビュジエにもたらした、と思われる。そのため、一九二三年出版の『建築』書の最終章「建築か革命か」は中途半端なものになってしまう。
★三八──ル・コルビュジエの版権代理人ストラソヴァ夫人宛一九五六年七月一三日付ル・コルビュジエの私信。
★三九──一九二五年八月二〇日付ジャンヌレ宛オザンファンの書留書簡 [AFLC:A1-18]。一九二二年、世界大戦の賠償金支払いのため、在仏ドイツ人資産の差し押さえの犠牲となった画商カーンワイラーの立体派を中心とするコレクションの競売鑑定人となり、ただ同然の価格査定をして悪名を売った画商レオンス・ローゼンベルグの友人がオザンファンでありジャンヌレであった。オザンファンとジャンヌレは、スイスの銀行家ラ・ロッシュの代理で競売に参入し、漁夫の利を得たのである。今日「財団」の建物となっている旧ラ・ロッシュ邸部分は、主にこのコレクションの展示用に建設されたといってよい。アスリーヌ『カーンワイラー』[Assouline, 1988]本誌10号岩谷洋子氏稿参照。
★四〇──『新精神』誌の発行を停止した後も、「新精神社」は存続し、『現代建築年鑑』(一九二六)、『住宅と宮殿』(一九二八)、『プレシジョン』(一九三〇)、『建築十字軍』(一九三三)、のいずれも論争的な著作を刊行し、実質上ル・コルビュジエの出版機関として機能した。
★四一──ル・コルビュジエの死後の一九六六年に出版される『東方への旅』の「モスク」と「ル・パルテノン」の章の一節が、ここに早くも登場する。語句が一九六六年版と若干異なる箇所があり、草稿がそのまま転載されたことが分かる。一五年以上も前の青年期の旅行記を唐突に挿入する真意は何であろう。その前に再録されたソルボンヌでの一九二四年の講演「建築における新精神」のアイデアが、オザンファンとの共同のピュリスム思想からではなく、自分自身の青年期の建築経験から由来すると見せる演出(それは『建築』書の構成と相同的でもある)を否定できない。あるいは、ジャンヌレのオザンファンからの自立のポーズでもある。
★四二──Le Corbusier et Pierre Jeanneret, Projet pour le Palais de la Société des Nations à Genève, Cahier d'art , 1927, pp.175-179.
★四三──一九二八年一月一日付の『建築』書第三版序文には同書の出版予告が註記されている。
★四四──一九二七年の一七号は、ル・コルビュジエとピエール・ジャンヌレ作のパリのヴィッラやペサックそして国際連盟宮殿案を掲載する。
★四五──『新精神』誌第一号(一九二〇年一〇月)掲載の「建築家諸氏への覚書:ヴォリューム」所収のサイロの写真は、ジャンヌレに都合の悪い古典的な部分を修正して、ドイツ工作連盟の一九一三年の年報から転載された事実は、フォン・モースが示した[von Moos 1979: 47]。『新精神』誌第二号(一九二〇年一一月)掲載の「平面」所収のグロピウスの「ファーグス製靴工場」の写真(第二版まで残る)も、同年報から取られたものと思われるが、『新精神』誌時代に顕著になるル・コルビュジエのバウハウスやドイツへの両義的な係り(理解と反発)からか、一九二八年版ではグロピウスの影が消される。ジャンヌレとドイツ工作連盟との関係は意外と古く、一九一〇年六月のベルリン大会や一九一四年六月のケルン大会に出席し、一九一三年のライプチヒ大会の建築展も見ている。さらに、一九一三年に創設されたスイスの工作連盟の創設時の会員でもあった。『建築』書の主張の機械主義に係る部分はほとんど工作連盟の主張の受け売りと捉えるドイツ系のル・コルビュジエ研究者エクスリン[Œchslin, 1987: 33ff]は、アングロ・サクソン系の研究者がジャンヌレのドイツ関係を無視していると批判する。イタリア系の研究者は、ジャンヌレのイタリア理解を強調する場合もある(例えば[Gresleri, 1987])。こうして、ル・コルビュジエ研究には「お国柄」が反映するわけだが、当のジャンヌレは、『建築』書初版本では、オーギュスト・ペレの影を消し、第三版ではグロピウスの影を消し、そして何よりも、初版・改版を通じて、思想の協力者オザンファンの影を消し続けた。ひたすら、自分の建築思想の「自生説オートデイダクト」を演出し続ける。
★四六──オザンファンとの音信不通を理由にル・コルビュジエは再版を見送る。オザンファンの回想録によれば、両人は一九五〇年頃ニューヨークの近代美術館で偶然出会っている[Ozenfant, 1968: 142](ル・コルビュジエは八月下旬にニューヨークからパリに戻っている[Petit, 1970: 102])。一九五五年にオザンファンは北米からフランスに住所を移しているが、連絡を取る方法が無いはずがない。オザンファンとの共著を復刻する意思がなかったものと察せられる。
★四七──このタイトルは、文字通り「輝く都市」と題する一九三五年出版のLa Ville radieuse, éditions de l’Architecture d’aujourd’hui と混同する結果を招いた。但し後者は邦訳されていない。

引用・参考文献
●ジャンヌレ/ル・コルビュジエ関連書簡
本稿に引用する書簡は、原物の所蔵先がどこであれ、ル・コルビュジエ財団の名称別ファイルDossiers nominatifsにコピーが保管されているものを参照した。出典は日付のみを示す。例外は、一九二一年と一九二二年のオザンファンからジャンヌレに宛てた六通の書簡である。筆者はパリのカチヤ・グラノフ画廊のマルク・ラロック氏のご厚意でコピーを拝見したが、原物は一九九二年にスイスのある画廊からポール・ゲッティー財団に売却された。『建築』書のドイツ語版(一九二六)の翻訳者のヒルデブラントとの交信録もゲッティー財団所蔵である。

●ル・コルビュジエ自著
Ozenfant, Amédé et Jeanneret, Charles-Edouard,1918, Aprés le Cubisme, Commentaires sur l'art et la vie moderne, Paris: Editions des Commentaires.(『キュビスム以後』)。
Le Corbusier-Saugnier, 1923, Vers une architecture. Paris: Editions G. Crès.
Le Corbusier, 1925, Vers une architecture. 2 ed., Paris: Editions G.  Crès.
Le Corbusier, 1926, Kommende Baukunst. Translated by Hans Hildebrandt, Berlin: Deutsche Verlags-Anstalt Stuttgart.
Le Corbusier, 1927, Toward A New Architecture. Translated by Frederick Etchells, London: The Architectural Press.
Le Corbusier, 1928, Vers une architecture. 3 ed., Paris: Editions G.  Crès.[邦訳=『建築芸術へ』(宮崎謙三訳、構成社書房、一九二九)]。
Le Corbusier, 1958, Vers une architecture. 4 ed., Paris: Editions Vincent, Fréal.
[邦訳=『建築をめざして』(吉阪隆正訳、鹿島出版会、一九六七)]。
Ozenfant et Jeanneret, 1925, Peinture moderne, Paris: Editions G. Crès.[邦訳=『近代絵画』(吉川逸治訳、鹿島出版会、一九六八)、本稿では『現代絵画』と表記]。
Le Corbusier, 1925, Urbanisme, Paris: Editions G.  Crès.[邦訳=『ユルバニスム』(樋口清訳、鹿島出版会、一九六七)]。
Le Corbusier, 1925, L’Art décoratif d’aujoud’hui, Paris: Editions G.  Crès.
[邦訳=『今日の装飾芸術』(前川國男訳、鹿島出版会、一九六六)]。
Le Corbusier,  1926, Alemanach d’architecture moderne, Paris: Editions G. Crès.[邦訳=『エスプリ・ヌーヴォー[近代建築年鑑]』(山口訳、鹿島出版会、一九八〇)、本稿では『現代建築年鑑』と表記]。
Le Corbusier, 1928, Une maison- un palais, Paris: Editions G.  Crès.[邦訳=『住宅と宮殿』(井田安弘訳、鹿島出版会、一九七九)]。
Le Corbusier, 1950, ‘Purisme’ Art d'Aujourd'hui,  Fev/Mars 1950.
Le Corbusier, 1960, Textes et Planches (L'atelier de la recherche patiente); Le Corbusier My Work, London: The Architectural Press.

●伝記・回想録・雑誌
Le Corbusier et Pierre Jeanneret, 1927, Projet pour le Palais de la Société des Nations à Genève, Cahier d'art .
Architecture Vivante, 1927, Editions Albert Morancé no.17.
Gauthier, Maximilien, 1944, Le Corbusier ou l'architecture au service de l'homme, Paris: Denoël.
Ozenfant, Amédée, 1968, Mémoires 1886-1962, Paris: Seghers.
Petit, Jean, 1970, Le Corbusier lui-même, Genève: Editions Rousseau.
Monier, Gérard, 1986, Le Corbusier, qui suis-je, Lyon:La manufacture.
Assouline, Pierre, 1988, L'homme de l’art: D.H. Kahnweiler 1884-1979, Paris: Ballard. [邦訳=『カーンワイラー』(天野恒雄訳、みすず書房、一九九〇)]。

●研究書・論文
Allison, Peter. 1971, Le Corbusier, Architect or revolutionary: A re-appraisal of Le Corbusier's first book on architecture, Architectural Association Quarterly, 3(2/1971)
Ball, Susan L., 1987, Ozenfant and Purism: The Evolution of a Style 1915-1930, Ph. D. Thesis, Yale University.
Banham, Reyner, 1960, Theory and Design in the First Machine Age, London: The Architectural Press.
Benton, Tim, 1987, La Collection et la Villa La Roche, in L’Esprit Nouveau, Le Corbusier et l'industrie 1920-1925, ed. von Moos, Stanislaus, Musée de la Ville de Strasbourg.
Jencks, Charles. 1973, Le Corbusier and the Tragic View of Architecture, London: Allen Lane, Penguin Book.[邦訳=『ル・コルビュジエ』(佐々木宏訳、鹿島出版会、一九七八)]。
Ducros, Françoise,  1985, Amédée Ozenfant,  Saint-Quentin: Musée Antoine Lécuyer de Saint-Quentin.
Ducros, Françoise, 1987, Ozenfant, in Le Corbusier une encyclopédie,  Jacque Lucan. ed., Paris: Centre Georges Pmpidou.
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Gresleri, Giuliano, 1987, Vers une architecture classique, Lucan ed. op.cit.
伊從勉一九九一「二〇世紀の建築書『建築をめざして』の成立について」昭和五九、六〇年度科学研究費補助金(一般研究B)、「西洋における建築論の発展に関する基礎的研究」(研究代表:加藤邦男、京都大学工学部教授)、研究成果報告書『西洋における建築論の発展に関する基礎的研究』一八五─二二三頁。
伊從勉一九九二「『建築をめざして』を読む:建築の永遠と時代の制約」(日本建築学会近畿支部研究報告集、九九七─
一〇〇〇頁。
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佐々木宏一九八一『ル・コルビュジエ断章』相模書房。
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>伊從勉(イヨリツトム)

1949年生
京都大学大学院人間・環境学研究科助教授。建築家、建築論・都市論。

>『10+1』 No.11

特集=新しい地理学

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>ケネス・フランプトン

1930年 -
建築史。コロンビア大学終身教授。

>輝く都市

1968年

>東方への旅

1979年

>バウハウス

1919年、ドイツのワイマール市に開校された、芸術学校。初代校長は建築家のW・グ...

>岩谷洋子(イワヤ・ヨウコ)

1964年 -
建築史。東京理科大学工学部建築学科助手。。

>前川國男(マエカワ・クニオ)

1905年 - 1986年
建築家。前川國男建築設計事務所設立。