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共和国と「楽しい科学」──あるいは通俗化の諸形態 | 松浦寿輝
"Sensual Science" and the Republic: The Popularization of the Multiform | Matuura Hisaki
掲載『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) pp.2-17

選別と階級

周囲三六〇度の全方位からり上がってくる「無限」の脅威と正面から向かい合ったとき、「知の主体」は、「中心」という特権的な一視点から「全体」を一望の下に所有しうるという「パノプティック」な全能感を享受する一方、同時にまた、生の有限性に拘束されている者ゆえの無力感にうちのめされざるをえない。「肉は悲しい、ああ、わたしはすべての書物を読んだ。/逃れる! 彼処へ逃れるのだ!……」(「海の微風」)──詩人ステファヌ・マラルメにとって、ここに詠われているような特異な倦怠と悲哀もまた、こうした「主体」に固有の神経症の一顕現様態として体験されていたはずである。無時間的=非歴史的な全能感と、歴史拘束的な無力感との間で引き裂かれてあること。このような「知の主体」の位置を物理的な空間構成として表象するものが、たとえば大英博物館の円形閲覧室なのだが、ただし、図書館は誰も彼も受け入れるわけではなく、入館証の発行による選別が行なわれているわけで、共同体の成員の誰も彼もが自己を「知の主体」へと昇華できるわけでもなく、またそうなりたいと望んでいるわけではない。ここで改めて考えてみたいのは、あらゆる人々が「無限」との緊張した対決を引き受けるわけではないし、またそう強いられるわけでもないという自明の事実である。
博物館=美術館と同様に、図書館もまた、歴史的な起源としては、富者や権力者の私的コレクションとして始まっている。たとえばパリ国立図書館の場合も、王立図書館から帝国図書館へ、さらに国立図書館へという名称の変更に表われているように、大革命以降、一九世紀を通じて徐々に進行していったのは、閉ざされた私的収集空間であったものが時の流れとともに一般民衆に開かれてゆくという不可逆的な民主化の過程であった。書物が、富と権力を誇示する表象から民衆のための公共財へとその意味を変えていったのであり、その過程で図書館は、多様な人々の多様な目的を受け入れる共同空間になってゆく。共和国成立以降、そこを利用できるのは、もはやコレクションの所有者やその知人に限られるわけではない。入館資格を得るためには、文献探索の目的が容易に正当化される高度な専門家である必要すらなく、とりたてて学問を深く究めようという志を持っているわけでもない単なる好事家であってもよいし、さらには、単に或る特定の事柄を知りたいと思い立ったというだけの一般「庶民」すらそこを利用できるようになってゆく。
だが、にもかかわらずこの民主化が完全なものとなることは決してない。「無限」を内包するこの情報空間にアクセスする権利が万人に与えられるという事態は決して訪れないのであり、それがいかに広く開かれようと、人種、性、年齢、職業、教養、等々による選別の原理はあくまで働きつづけるのだ。いわば、半ば開かれ、半ば閉ざされてあるというのが図書館空間の不変の性格なのであり、それは利用者としての資格を入館証というフェティッシュによって認定するのが一般的な今日の図書館システムに至るまで継続している。入館許可証とは、「知」への接近可能性の度合いを選別し方向づける整流器なのであり、その機能ぶりによって、封建遺制におけるのとはまったく別の或る種の階級性が露呈することになる。要するに、共同体の成員に共有される何らかのモラルと価値判断が権力として働き、「知の主体」たらんとする者の資格が判定されることになるのだ。
ここで問題になるのは、周囲三六〇度「無限」に囲繞された空間の、中心に穿たれた空白を埋めるべく、「全」であると同時に「無」でもある「人間」が登場した時代に生をけながら、「無限」と相渉ろうという意志も能力も欠き、積極的な「主体」として振る舞うことなく人生を終える大多数の人々にとって、いかなる「知」の装置がありえたかという問題である。「主体」であることを選択しない個体にとって、一九世紀の「知」はいかなる姿で立ち現われてきたのだろうか。

「通俗化」の流行

ブリュノ・ベゲはそのきわめて啓発的な論文「一九世紀における科学知識の通俗化」★一において、われわれの主題となっているこの世紀──とくにその後半──において、科学小説、通俗解説書、雑誌、催し、見世物、展示施設、等々、種々様々な文化的回路を通じて、科学知識をめぐる啓蒙活動がいかに精力的に行なわれたかを、数多の実例を引用しつつ説得力豊かに論じている。ベゲによれば、一八五〇年代から六〇年代にかけて、「楽しい科学」あるいは「面白い学習」といったスローガンを掲げる啓蒙的な出版物が飛躍的に増えはじめるという★二。ナポレオンIII世統治下の第二帝政と呼ばれるこの時期、カミーユ・フラマリオン、ガストン・ティサンディエ、ヴィクトール・ムーニエといった職業的な「科学ライター」が出現するとともに、ジュール・エッツェル、ジャン・マセ、そして中でもとりわけフランス最大の出版大手として今日まで残っているアシェット社を興したルイ・アシェットといった出版人たちが、こうした書き手たちの手になる啓蒙的な書物を精力的に世に出していったのである。
たとえば、大著『フランス史』を書き進める一方、余技と呼ぶにはあまりにも美しい、ほとんど散文詩と紛うばかりの文体で自然や動物の描写を行なった史家ジュール・ミシュレの自然誌のシリーズもまた、こうした流れに棹差すテクストと言っていいかもしれぬ。ミシュレは、『山』(一八六八)の序文の中で、「一八五六年は、或る運動の出発点となった年であるが、この運動は今なお継続しており、将来も決して停止することはあるまい。(…中略…)この時代から一つの文学が出て来たということは、一八五六年以来の『出版日誌』を開き、そのぺージを辿ってみるだけで一目瞭然である」★三と書きつけている。一八五六年とはミシュレ自身の自然誌文学の皮切りとなった『鳥』の初版刊行の年であり、それ以後彼は『虫』『海』といった著作を書き継いでいるわけで、これは一種個人的な気負いの表明でもあるわけだが、もちろん彼は自分自身の著作のことだけを語っているわけではない。『鳥』が多くの模倣者を生むことで或る新たな文学分野が誕生したのだと彼は言っているのであり、それは、自然をめぐる「知」としての「博物学イストワール・ナチユレル」を一般大衆に、あるいは青少年にわかりやすく紹介する言説によって成り立っているジャンルなのである。この一八五六年という年号の傍らに、大英博物館の円形閲覧室が完成した一八五七年というもう一つの年号を添えてみるとき、西欧の大都市でこの時期に機能しはじめた新たな「知」の流通装置の多面的な相貌が、徐々に明らかになってきはしまいか。
「科学の通俗化(vulgarisation scientifique)」というこの新たなジャンルの草創期の代表者として第一に挙げるべき作家は、『主要な科学的発見の展示と歴史』を一八五一年に刊行し、五六年には『科学と産業の年』のシリーズを、六七年には『科学の驚異』のシリーズを創刊するという具合に第二帝政期を通じて旺盛な筆力を示した読み物作者ルイ・フィギエであろうか。蒸気機関、鉄道、電信、ガス産業といった第一次産業革命の産物を誇らかに讃える楽天的な言説の担い手フィギエは、他方、古生物学の入門書とも言うべき『大洪水以前の大地』(一八六三)のような著書もあるレパートリーの広い書き手であった。『種の起源』の最初のフランス語訳が出た一年後にアシェット社から刊行したこの著作で、フィギエは太古の地球の景観を、ダーウィニズム否定の立場から描写しているのだが、底意地の悪い目をした翼手竜が今にもトンボを捕食しようとしている瞬間を描いたエドゥワール・リユーの挿画は、当時の大衆の想像力をいたく刺激し、科学知識がイメージの娯楽と両立可能であることを鮮烈に示した[図1]。フィギエの活躍は、エドゥワール・シャルトン──これは『イリュストラシオン』(一八四三)や『トゥール・デュ・モンド』(一八六〇)の発刊に携わった人物でもある──による『驚異の図書館』、ジュール・エッツェルとジャン・マセによる『教育と娯楽の雑誌』(ともに一八六四年創刊)といったシリーズ物の出版物に受け継がれてゆく。『気球に乗って五週間』(一八六三)や『海底二万マイル』(一八六九)など、エッツェルが世に出したジュール・ヴェルヌの初期作品の成功も、こうした出版界の動向があって初めて可能になったものなのだ。

1──ルイ・フィギエ『大洪水以前の大地』(1863) 挿画エドゥワール・リユー

1──ルイ・フィギエ『大洪水以前の大地』(1863)
挿画エドゥワール・リユー

共和制・実証主義・科学万能論

普仏戦争の敗北とパリ・コミューンの戦乱を経て一八七〇年に第三共和国が成立するが、一八八〇年代以降、共和制が安定し堅固なものとなってゆくにつれて、「科学の通俗化」は第二期を迎える。政体の変化は「知」の伝播形態に直接的な影響を及ぼしたわけで、その第一の帰結は「通俗化」のさらなる拡大と加速である。民主主義的な共和制下で、科学知識に対する大衆の好奇心は前代よりもさらにいっそう解放され、それに応えるメディアの発達も大いに奨励されてゆく。ただし、第三共和国が実施した前代未聞の新事業としての「初等教育の世俗化」のおかげで、出版物のかたちでの「通俗化」の必要性がやや薄れたという点には注意が必要だろう。宗教教育を行なわない公立小学校エコール・ライツクが設けられるとともに、そこで行なわれる理科教育、とくにフランス独特の「実物教育(leçon de choses)」と呼ばれるものが、初歩的な科学知識の普及機能をかなりの程度まで引き受けてくれるようになったので、子供向けの科学ジャーナリズムの需要がそのぶん減じていったのである。
そうした中で、「通俗化」は二極分解してゆく。一方では、『科 学 雑 誌ルヴユ・シヤンテイフイツク』や『自然ナチユール』など、第一線の科学者の高度な学術論文が載るような重厚なメディアが刊行され、科学的な「知」の最高峰をフランスで代表する科学アカデミーでの研究発表も逐次、紀要にまとめられて知識層の前に公にされる。だが、それよりも重要なのは、その対極の現象として、「一般向けのポピユレール」という形容詞を冠した、娯楽性に重点を置く軽薄な「通俗化」の装置がいたるところに増殖していったという事実の方だろう。『大衆科学シヤンス・ポピユレール』(今日の日本語の語彙で言うならむしろ「ポピュラー・サイエンス」とでも訳すべきか)をはじめとする挿絵入りの科学雑誌が相次いで創刊される、パリで開催された数次の万国博覧会では科学アトラクションが演出されて人気を集める、街の広場に立つ縁日フオワールでは「人体解剖博物館」のようなややゲテモノ染みたショーが催されて大入りになる、蒸気機関の模型や電気発生の仕掛けのような「科学玩具」が飛ぶように売れる、そしてもちろんヴェルヌとその亜流たちによる科学小説、ないし科学的な風味をまぶした冒険小説が流行する──等々、「知」を伝達するというよりはむしろ人々の視線を楽しませたり気晴らしの種となったりすることを第一の目的とする、軽い「通俗化」が繰り広げられてゆくのである。
大衆レヴェルでの科学的思考の普及が、宗教的権威の相対的な弱体化に結びつくことは明らかであり、従って、カトリック教会に対抗する共和国政府は、こうした種々のメディア現象を積極的に歓迎した。「啓蒙の光を広げること、闇を晴らすこと、それは科学のために働くことであるのみならず、国の利益に直接に寄与することでもあるのだ」──『自然』を創刊したガストン・ティサンディエは、一八七三年の創刊号で、この雑誌が担うべき使命を、政治綱領と連動させつつこう定義している。超越的・形而上的思弁を排するオーギュスト・コント流の実証主義ポジテイヴイスムが一方にあり、科学万能論シヤンテイスムすなわち科学的真理への楽天的な信頼が他方にあって、その二つが手を携えて共和制の政治体制のイデオロギー的基礎づけに奉仕することになるのである。
そのとき、科学への信頼がむしろ「信仰」に近い彩りを帯び、それが批判しているはずの当の宗教の機能を、或る程度肩代わりするという現象が起きる。たとえば、科学者の「聖人化」とでも言うべきイメージ現象がその一つであろう[図2]。科学的発見を通じて人類に貢献した偉人たちは、メディアに流通するイメージの力によって、「科学の教会」に仕える聖職者としての崇敬を受ける。かくして科学は、従来カトリック教会が共同体の精神的安定のために果たしていた役割を部分的に引き受けることになる。これは一九〇〇年頃のものだが、「科学を大衆に広めた偉人たち」と題する着色石版画のシリーズがあり、そこに登場するのはフランクリン、キュヴィエ、ダゲール、ソーヴァージュ、アラゴ、クロード・ベルナール、パストゥール、エディソンといった面々である[図3・4]。厳粛な面持ちをした各人のポートレートに加えて、たとえばフランクリンであれば雷雨の中の凧上げの実験といったように、その人物が文明の進歩に貢献した発見なり実験なりの決定的シーンの表象が添えられている。それは、たとえばアッシジの聖フランチェスコであれば小鳥や魚に説教する場面がそうであるように、またバプテスマの聖ヨハネであればイエスに洗礼を授ける場面がそうであるように、その人物の「聖性」がそこに結晶してゆく「決定的場面」が紋切型のイメージと化したものであり、彼らの偉大さのゆえんを視覚的に説明しているこの図像によって、「聖人化」が達成されているのである。

2──狂犬病ワクチン注射(『自然』、1886年第1期) 「科学の聖人」としてのパストゥールのイコン

2──狂犬病ワクチン注射(『自然』、1886年第1期)
「科学の聖人」としてのパストゥールのイコン


3──「科学を大衆に広めた偉人たち」 パストゥール (プーラン・チョコレート宣伝用の着色石版画シリーズより)

3──「科学を大衆に広めた偉人たち」 パストゥール
(プーラン・チョコレート宣伝用の着色石版画シリーズより)

4──同上 エディソン

4──同上 エディソン

パストゥールとエディソン

中でも、ルイ・パストゥール(一八二二─九五)の名声は六〇年代から九五年の死に至るまで増大の一途を辿り、その聖なる「イコン」はいたるところに流布してゆくことになる。パストゥールの場合、第三共和制前半期を代表する抜きん出た「科学の聖人」としてのイメージを決定した「場面」が、八五年七月六日、狂犬に噛まれたジョゼフ少年に狂犬病ワクチンを接種する情景に設定されていることは言うまでもない。ジョゼフ少年はワクチンによって狂犬病から救われた患者第一号であり、成人した彼がやがてパリのパストゥール研究所の守衛になったというのも後代の伝記作者が好む逸話であるが、とにかく通俗メディアのイコノロジーにおいては、パストゥールからワクチン注射を受ける少年の図像が、幼児イエスに授乳する聖母マリアのそれのごとく、いたるところに反復されてゆくのである。
聖パストゥールに匹敵する人気を獲得しえたのは、たぶんただ一人、蝋管蓄音機と白熱電球の発明者トーマス・エディソンしかいないが、ただし、エディソンの「聖性」はいくぶん怪しげな気配を漂わせていた。フランスにおけるこの「発明王」の名声に、真に斬新な何かを創造するというよりはむしろ他人のアイディアを応用して商品に変える才に長け、抜け目なく立ち回っては蓄財する野心満々の投機家というイメージがまつわりついていたことは否定できない。彼に対するフランス人の敬意は、かすかな軽蔑で濁っていたのである。勢い盛んなアメリカ合衆国に対するフランス人の畏怖と友情は一八八六年の自由の女神像の贈与に示された通りであるが、他方そこには、新大陸人の率直で衒いのない金儲け主義や精神的伝統の稀薄さに対する軽侮の念もまた混じっていたわけで、そうしたコンプレックスは、この時代のフランス人がアメリカに言及する際に、特有のニュアンスを籠めてしばしば用いた「ヤンキー」というやや貶毀的な渾名によく表われている。エッフェル塔をめぐる論争にもそのまま投影されたこのコンプレックスを集約的に体現していたのが、「世俗的な聖者」としてのエディソンに対するフランス人の国民感情であったかもしれぬ。アメリカの発明王は世紀末のパリから見た「ヤンキー」の典型だったわけで、その意味では、ヴィリエ・ド・リラダンが長篇小説『未来のイヴ』(一八八六)において形而上学的思考に耽る全能のデミウルゴスとして提出したエディソン像は、むしろ例外的なものであって、一般にはこれよりはるかに俗物的な功利主義者のイメージが流布していたと言ってよい。
実際、『未来のイヴ』は、科学の英雄たるエディソンその人を主人公にしているものの、実のところここで扱っているような「通俗化」のジャンルとはかなり異質な作品──いや、むしろこのジャンルそのものに真っ向から対立するアンチテーゼとも言うべき作品であり、その意味では極度に逆説的な位置を占めるテクストだと言える。「通俗化」の言説が拠りどころとした実証主義や科学万能主義を心底から憎悪していたヴィリエ・ド・リラダンは、唯心論的世界観が支配するこの奇妙なSFを書くために、一般民衆さえ眉に唾をつけて眺めていたエディソンの「聖性」を逆に誇張し、彼の「聖人化」をむしろ極端まで押し進めて、その結果、倒錯すら感じさせるほど「精神的」な人物として描き出したのである。もちろんこれは自覚的なアイロニーの産物であり、「緒言」で著者自身が語っているように★四、ヴィリエ・ド・リラダンがここに登場させたのは、彼の同時代人たるあの実在の工学技師ではなく、むしろ、世人が素朴な驚嘆を籠めて噂し、「メンロ・パークの魔法使い」という渾名で呼んだあの神話的フィギュアの方なのである。自分を取り巻く同時代の現実のいっさいを激しく憎んでいたこの孤高の神秘主義者は、このように伝説化されたエディソン像を逆手に取り、それを口実として利用しつつ、本来ならばこのうえもなくエディソン的と形容されるべき進歩や機械技術への楽天的な信頼に、悪意の籠もった呪詛を投げかけているのだ。
エディソンが享受しえたような物質的な富裕とはいっさい縁のない赤貧の生涯を送ったこの「貴族」詩人は、一八八九年のパリ万国博のさなか、親友のマラルメに看取られつつ施療院で窮死している。彼は、マラルメと同様、「知」の「無限」と向かい合い、「ああ、わたしはすべての書物を読んだ!」という嘆息を洩らす側の種族の一員だったわけで、従って、「無限」を回避する装置としての「通俗化」の言説の操り手でありえようはずがなかった★五。この時代に加速度的に増殖したおびただしい「通俗化」の言説が息せき切ってそれを絡め取ろうとしていたエディソン的な現実──「科学」「産業」「進歩」の現実──に対しては、ヴィリエ・ド・リラダンは嫌悪しか抱かなかったのだが、にもかかわらず、そうした嫌悪の表現としての小説的な想像世界の構築のために、神話化された聖エディソンのイメージをわざわざ担ぎ出してきたという点に、彼の最大のアイロニーと悪意が籠められている。もちろん、誰もが知っている有名人を登場させることで読者の興味を繋ごうという読み物作家としての配慮もあったには違いないとしても。
アメリカ人ではなくフランス人であり、散文的な合理主義者ではなく敬虔なカトリックであり、現世的な利益を追求する起業家ではなく真理に奉仕する無私無欲の学者であるという点で、パストゥールは、いわばエディソンの対蹠点に立つ極めつきの「科学の聖人」であったと言える。こうしてこの微生物学者は国民的英雄になってゆくのだが、しかし、以下に述べるように、そうしたパストゥールのイメージすら「世俗化」の時代の刻印を免れることはできないという点に注目すべきだろう。科学者の「聖人化」とは、結局、大衆社会に固有の数量的なメディア現象なのである。

聖人伝とチョコレート

つまり、こういうことだ。「科学を大衆に広めた偉人たち」というあの着色石版画のシリーズにもう一度立ち戻ってみる。まず、ここで顕彰されているのが、単に「偉大な科学者」なのではなく、あくまで「偉大な宣伝者デイヴユルガトワール」すなわち「知」を一般民衆の手の届くところに引き下ろした民主主義的功績の持ち主であるという点がわれわれの興味を惹く。彼らは、一般民衆の理解から隔絶した孤高の思索者ではなく、あくまで科学がもたらす現世的な御利益を「大衆に広めたデイヴユルゲ」ことの功績によって顕彰されているのであり、それを逆に言うなら、「大衆に広める」というメディア的な身振りを伴わないかぎり科学者は共和制下の聖人伝には登場しえないということになる。
だがさらに興味深いのは、この聖人伝を乗せた媒体が、単に「科学」の偉大を宣揚することのみを目的とする中立的な性格のものではなかったという点であろう。何とこれは、信仰の敬虔さとも大聖堂の荘厳さともまったく無縁にして通俗そのものの、「プーラン・チョコレート」の宣伝のための商業的媒体だったのである。「彼は偉大である」という言説は、画面の中央上に見える「味わって、比べてみてください──匹敵するもののないこの質の高さ!」というキャッチ・コピーの言説と不可分のかたちで提示されているのだ。科学の偉人とプーラン・チョコレートとはもちろん直接には何の結びつきもないわけで、無関係の二項を唐突に結びつけ、一枚の紙葉のうちに同居することを強制し、その結合を通じて或るメッセージを発信しようとしているのは、むろん大衆社会状況下でのみ機能しうる資本主義のイメージ戦略にほかならない。では、ここに提示されているメッセージとはいかなるものか。
さしあたり字面のうえだけで考えるなら、それは「彼の偉大」と「チョコレートの美味」という二つの部分から成り立つメッセージであり、その両者が隠喩的なレトリックの力によって互いに互いを強め合っているのだと一応は言える。「彼は偉大である」、ちょうどそのように「プーラン・チョコレートは美味である」というわけだ。だが、さらに深いところまで降りてゆき、イメージの底に淀む無意識の層を読んでみるなら、この図像がフランス共和国市民の視線に対して及ぼす現実的な効果とは、この二つのメッセージ内容のどちらとも本当のところは無縁のもので、結局それは、世界と個人との関係の安定を図るという精神分析的な機能であることがわかるだろう。もちろんプーラン社の第一目的は自社の商品を売ることである。しかし、プーラン社は、というかこの図像の匿名の作り手は、大衆の購買欲を励起するというこの目的を、「彼の偉大」や「チョコレートの美味」を説得することによって達成しようとするのではなく、この着色石版画を眼にしている者に、このような共同体に棲まっているあなたは安定した絆で世界と結ばれているのですよという安心感を与えることによって達成しようとするのである。
イメージを共有し合う共同体に棲まっていることの安心感を梃にして商品を売ろうとする二〇世紀的な宣伝戦略の、いわば祖型とでも言うべき図像がここにある。できたら気づかれたくないとでも言いたげな慎ましさで、小さな活字で遠慮がちに書きこまれているキャッチ・コピーは、今日の広告であれば、もっと臆面もない図々しさを発揮して画面中央にのさばり出すこととなろう。われわれの時代の広告代理店であれば、「味わって、比べてみてください」よりももう少し気の利いた文句を案出するだろうし、もちろん図像ももっと洗練させ、二重三重の修辞の遊戯を凝らしもするだろう。だが、イメージを分かちつことの安堵を梃にマーケットを広げようとする資本主義的戦略は、プーラン・チョコレートの着色石版画以来今日まで、「知」のスターとしての中沢新一が登場するレナウンのテレビ・コマーシャルであろうと、エイズ患者の血染めのTシャツを掲げるベネトンの新聞広告であろうと、構造的にはまったく同型でありつづけている。

電気の明かりの普及

共和制下における「科学知識の通俗化」は、宗教的な超越性を徐々に脱色させつつあった時代にあって、そうした宗教性の或る部分を「科学の教会」の聖人伝に肩代わりさせながら、しかし基本的には、現世的な此岸の埒にとどまりつづけ、「知」の世俗化と民主化を推進し、それによって発生期の大衆社会状況を支え、場合によってはそれをいっそう加速するという機能を果たした政治的言説であった。それは、カトリックのような超越的普遍の垂直軸なしで、いかにして共同体の安定したまとまりを維持しうるかという問いへの一つの答えとして、権力の側からの保護と奨励も享受しつつ量産されていった言説なのである。この時代に制度的な基盤を整備していったネーション・ステートとしてのフランス共和国の、共同体としての安定を図る精神分析的な装置だったと言い換えてもよい。ところで、ここで改めて注目してみたいのは、そうした「通俗化」の言説の中に、生活の安寧に寄与する様々な科学技術のうちとりわけ「電気」に関するものが、一つの巨大な下位ジャンルを形成しうるほどふんだんに含まれているという点である。
電気の存在自体は、琥珀をこすると軽い物体が引き寄せられる現象のかたちでギリシャ時代から知られていたのだが、その科学的な究明は、一七世紀の英国の医師ウィリアム・ギルバートの磁石に関する研究から始まるというのが西欧科学史上の定説になっている。ギルバートはその主著『磁石について』(一六〇〇)の第二部で、ギリシャ語の「琥珀」に由来する「エレクトリケ」という呼称をこの力に初めて与えているのだ。静電気学、動電気学、電磁気学のそれ以後の発展史を辿り返すべき場所ではないが、ここでの要点は、電気をめぐる「知」は一七世紀初頭以来蓄積されつづけていたにもかかわらず、それが「通俗化」の言説の好個の主題として突然り上がってくるのは、一九世紀後半の出来事だという点なのである。そのことの理由は、この時期、電気が、生活の物質的な向上を可能ならしめる力として、一般民衆の生活に急激に入りこんできたという歴史的事実に存していよう。すなわち電気は、それが作り出す光という、文字通り眼に明らかに見える現象のかたちで、民衆にとって急に身近なものになったのだ。そして、電灯というこのテクノロジーの発明者が、「科学の教会」に奉られる極めつきの世俗的聖人の一人たるトーマス・エディソンであることは言うまでもない。
エディソンは白熱電球を、一八七九年、タングステン電球の前身の炭素電球として発明している。それ以前、都市の街路を照らしていたのはガス灯の明かりであった。ガス灯の仕組みは一七九八年にイギリス人ウィリアム・マードックによって実用化されており、一八一二年にロンドンで、一九年にはパリでガス事業が開始され、以後、世界の大都市に普及していった。ベンヤミンが注目した第二帝政期のパリのパサージュに、光と影の微妙なあわいを作り出していたのは、ガス灯による照明だったのである。だが、七九年の電球の発明以降、パリの都市照明は一八八〇年代を通じて徐々に電気に切り替わってゆく[図5]。一八八九年万国博のために建てられたエッフェル塔の夜間照明の場合、建設当時はガスによって行なわれていたが、一九〇〇年にふたたびパリで開催された万国博覧会のための改装工事が施された際、電気によるイリュミネーションに変えられたのだった。
国際電気博覧会がパリで開かれた一八八一年以降、ジョルジュ・クロードの『万人に益する電気』がベストセラーになる二〇世紀の初年代に至るまで、電気は徐々にフランス全土に浸透してゆくのだが、アラン・ベルトランとパトリス・カレは、電気がフランス社会をどう変えたかを考察した浩瀚な歴史研究『妖精と女召使──電気を前にしたフランス社会』において、この時期、言説の領域にも電気の主題が大量に氾濫していったという事実を強調している──「科学と技術の通俗的解説を掲載する新聞雑誌、百科全書的な性格の叢書、あるいはまた虚構の文学といったものが、それ〔電気〕に飛びつくことになる。(…中略…)そこでは科学的・教育的な論説が、夢想や、ユートピアや、法外な幻影と、無秩序に混ざり合っている」★六。そうしたごたまぜの記述の中には、電気宝石、電気芝居、夜間耕作、都市照明、電気医療等々、多種多様な近未来ヴィジョンがちりばめられてゆく。ヴェルヌは一八六九年の『海底二万哩』に、「すべてが電気仕掛け(Tout par l'électricité」と題する一章を設け、潜水艦ノーチラス号の動力がすべて電気でまかなわれているさまをやや胡乱な疑似科学で説明している★七が、この予見的タイトルを踏襲したG・ダリーの著書『すべてが電気仕掛け』(一八八三)や、G・ボンヌフォン『電気の支配』(一八九五)は、ヴェルヌの記述が疑似科学を脱して真正の科学そのものと化してゆく時代にふさわしい楽天的な進歩主義をおおらかに謳い上げてゆくことになる。
電気が生活を「明るく」する──実際、これ以上具体的に「進歩」を実感させてくれる出来事もありはしまい。従って電気が「科学の通俗化」の言説の特権的主題となるのも当然と言えば当然であるが、と同時に、「通俗化」とは一般大衆の認識と記憶を「知」の光で照らし出すことにほかならない以上、電気をめぐって紡ぎ出される啓蒙的言説においては、語られる対象と語る行為とが理想的なパラレリスムで結びつけられているという点もまた、注目に値しよう。たまたまこれは一八世紀の話になるが、「啓蒙」の概念が《lumières》ないし《enlightenment》という具合に光の譬喩で表わされていたことを思い出してみてもよい。生活が以前よりも物理的に明るくなったとき、そのことの原因を解明する言葉がふんだんに流通することで、あたかも相補的な現象であるかのように、人々の「知」の世界もまた、それ以前に比べてより明るく照明されることになるのである。「電気の光」が「啓蒙の光」の伝播と普及の直接的譬喩としてもてはやされたわけだ。

5──《電灯》(1882)

5──《電灯》(1882)

女神にしてはしため

ところで、こうした言説はしばしば図像を伴っているのだが、その場合、電気の擬人化としての「巨大な女」の形象がいたるところに見出されるのはまことに興味深いイメージ現象と言える。元来、「科学の通俗化」の出版物において、そこでの主題そのものである「科学」「技術」ないし「産業」といった概念が、優しくまた力強い女神のイメージによって表象され、書物の扉ページや雑誌の表紙を飾るのは、この世紀の前半期以来の紋切型ではあった[図6]。しばしば灯火を掲げている女神が中央に君臨し、その周囲には科学や技術に関わる種々のオブジェが散乱しているという趣向のこうした図像は、科学の力と、それをいっそう強化し、かついっそう広く普及させる必要を喚起するものなのだが、光を発散する女という譬喩形象が、科学の成果の中でもとりわけ電気にもっともそぐわしいものであることは明らかであり、こうして八〇年代以降、世紀末に至るまで、「電気という女神」の図像が増殖しつづけることになる[図7〜10]。先に挙げたベルトランとカレの著書タイトルに示されている通り、この女神は妖精にして下女、すなわち近寄りがたい超常的な力を発揮する魔法使いでありながら、同時にその魔法で人間に仕えるはしためでもあるという二重の存在であり、たとえばアルベール・ロビダが一八九二年に描いた《電気生活》というタブローでは、電気は「巨大な女奴隷」として表象されている[図11]。ソルボンヌのフレスコ画について語ったピュヴィス・ド・シャヴァンヌの言葉を借りるなら、「世俗の処女」と「ヴェールを被った女神イシス」の二重性ということになろうか★八。
ところで、光を高く掲げて世界を照らし出す巨大な女ということになると、われわれはもちろんあのマンハッタン島脇の小島に聳える自由の女神像を思い出さないわけにはいくまい[図12]。ドラクロワの《民衆を導く自由の女神》(一八三〇)[図13]とも共通するこの女性像は、「マリアンヌ」という名の下に、共和制そのものの表象として、大革命期以来のフランス社会のいたるところに流通し、今日でもなおコインや切手の図像に残っているものである★九。フリジア帽を被ったこの「闘う女」のイコンを「マリアンヌ」と呼ぶのは、南仏プロヴァンス地方の共和派秘密結社に敵方がつけた悪意ある渾名に由来するとか、凱旋門の浅浮き彫りのために彫刻家ジャン=フランソワ・リュードが使ったモデルの名前から来ているとか、諸説あって決め手がないようだが、とにかく「マリアンヌ」は共和国の公的芸術、とりわけ記念碑的彫刻や装飾絵画のうちに氾濫していた。恐らく、「光を広げる女神=女奴隷」の表象は、この「マリアンヌ」の図像と意識的・無意識的に二重写しになるようなかたちで生産され、流通し、消費されていた女性イメージに違いあるまい[図14・15]。
ジャンヌ・ダルク伝説もその源泉の一つとして投影されているかもしれぬこの「闘う女」の表象は、恐らく、共和制権力のむきだしのマッチョ性を和らげ、それを包摂的な母性原理で補完するという機能を果たしているのだろう。「大きな女性」の優しさ──あるいは女性の「大きな優しさ」──が男たちを包みこみ、慰藉するのだが、ひとたび共同体が危機にさらされるや彼女は優柔不断な男たちを率いて、闘いの前線に躍り出る──それがすなわち「共和国」だというわけだ。エッフェル塔にしばしば女性イメージが投影され、「鉄の貴婦人」などという渾名で呼ばれるのは、必ずしも「ラ・トウール」が女性名詞だからというだけの理由によるものではなかろうが、その頂上から光を放ち、世界を広く照らし出すというエッフェル塔の表象が大衆的人気を博してきたのも、そこに、「高々と光を掲げる巨大な女」というこの共和国的な女性表象が重ね合わされているからなのではなかろうか。ギュスターヴ・エッフェルは、合衆国に贈られた自由の女神像の鉄骨の骨組みの設計者でもあったことを思い出してみてもよい。実際、やがてエッフェル塔は、無線電信・ラジオ放送・テレビ放送等の信号を電気に乗せ、世界に向かって送り出す「電波塔」の機能を果たすようになってゆく[図16]。
二〇世紀に眼を移せば、すでにわれわれは、パリの都市空間を巨大な女体として体験したブルトンやベンヤミンのエロス的感性について触れており★一〇、同じシュルレアリストで言えば、「フランスの庭」と言われるロワール河流域のトポグラフィーに煽情的な下着をまとった女性の下半身を透視したマックス・エルンストのタブローなども思い出されるが[図17]、これら「巨大な女体」の譬喩形象は、一九世紀フランスの視覚メディアで大きな成功を収めたこれらの女性表象──「共和国の守護神」「科学の女神」「電気という女奴隷」等々──の記憶を引きずるものでもあるのかもしれぬ。それにしても、そこはかとない母性を漂わせつつ、人々に奉仕し、その生活を快適ならしめるべく都市空間を抱擁し、そこを光で満たしているこうした女性表象に、一種の男根中心的なイデオロギーの偏向性を読み取るという視点は当然ありうるのではなかろうか。

6──ルイ・フィギエ『産業の驚異』第一巻(1873) ここでの女神は「産業」の擬人化

6──ルイ・フィギエ『産業の驚異』第一巻(1873) ここでの女神は「産業」の擬人化

7──《電灯》 アルラッテ社のチコリ飲料宣伝用の着色石版画シリーズより(1890頃) このシリーズに含まれる他の5点は《色彩写真》《海軍》《電話》《蒸気》《飛行》

7──《電灯》 アルラッテ社のチコリ飲料宣伝用の着色石版画シリーズより(1890頃)
このシリーズに含まれる他の5点は《色彩写真》《海軍》《電話》《蒸気》《飛行》

8──カミーユ・フラマリオン文庫『ポピュラー物理学』のための宣伝ポスター(1891、絵=アンリ・ボード) 「光を広める女」の図像の例

8──カミーユ・フラマリオン文庫『ポピュラー物理学』のための宣伝ポスター(1891、絵=アンリ・ボード) 「光を広める女」の図像の例


9──ルイ・フィギエ『科学の神秘』(1892)より 「光を広める女」の図像の例

9──ルイ・フィギエ『科学の神秘』(1892)より 「光を広める女」の図像の例

10──G・ルルー《1900年の巨大望遠鏡》(1900年パリ万国博における〈光学館〉の宣伝ポスター) 望遠鏡というテクノロジーの擬人化としての「巨大な女」(「月をほんの1メートルほどの近さまで引き寄せてくれる」というメッセージ)

10──G・ルルー《1900年の巨大望遠鏡》(1900年パリ万国博における〈光学館〉の宣伝ポスター)
望遠鏡というテクノロジーの擬人化としての「巨大な女」(「月をほんの1メートルほどの近さまで引き寄せてくれる」というメッセージ)

11──アルベール・ロビダ《電気生活》(1892)

11──アルベール・ロビダ《電気生活》(1892)

12──ガストン・ボンヌフォン『電気の支配』(1895)

12──ガストン・ボンヌフォン『電気の支配』(1895)


13──ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》(1830)

13──ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》(1830)

14──「マリアンヌ」の図像が刻まれた5フラン硬貨(1848)

14──「マリアンヌ」の図像が刻まれた5フラン硬貨(1848)

15──A=D・バールの彫刻《共和国》(1848) 「マリアンヌ」のイコノロジーの一例

15──A=D・バールの彫刻《共和国》(1848) 「マリアンヌ」のイコノロジーの一例


16──世界に光を送り出す装置としてのエッフェル塔の図像。1889年パリ万国博

16──世界に光を送り出す装置としてのエッフェル塔の図像。1889年パリ万国博

17──マックス・エルンスト《フランスの庭》(油彩、1962)

17──マックス・エルンスト《フランスの庭》(油彩、1962)

「知」が「共和化」される

一八八〇年代以降、白熱電球の普及につれて、電気という科学のいさおしを讃える「通俗化」の言説を、人はまさにその電気のもたらす光の下で読むようになってゆく。電灯の汎用化とともに図書館の屋内空間にも当然、電気照明が採用されてゆくのだが、それが、大英博物館やパリ国立図書館の、基本的にヴォールト構造によって成立している巨大屋内空間が時代遅れになってゆく過程とパラレルであるという点は言うまでもないことだろう。
図書館建築において、ヴォールト屋根に開けられた天窓からの採光に精神主義的な譬喩を見る桂英史は、そこでは光は、あたかも学芸の女神ミユーズが降臨するかのごとく上方から舞い降りてくるのだと述べており★一一、まことに正当な視点と思われるが、その光は、彼が論じているイタリアン・バロックの教会建築に限らず、どの巨大図書室の場合であれ何らかの「超越的」な荘厳さのコノテーションを帯びないわけにはいくまい。「知」の世俗化と平仄を合わせて進行する電灯の普及は、共和国市民の読書環境から、この「超越的」な荘厳さを徐々に剥ぎ取ってゆく。「知」の空間は、ッ燭の炎の親密さも天窓からの光の敬虔さも欠いた電気照明によって平板化され、深さもなくニュアンスもない効率的な情報処理空間へと向かって変貌してゆく。電気照明の平板な明るさは、ヴォールト屋根と天窓に表象されるような超越性の垂直軸を奪い去り、「知」の空間を民主化し、「共和化」し、すべてが等距離に見えるべたっとした平板性へと還元してゆくのである。もちろん、大英博物館の円形閲覧室が喚起するような「知」の体験がただちに時代遅れとなっていったわけではない。しかし、「無限」に直面することを回避しようとする人々のために用意された「通俗化」の言説が、あたかも「知の大聖堂」としてそそり立っているかのごとき大英博物館やパリ国立図書館の巨大閲覧室の内部さえ、徐々に浸食していったことは事実である。もはや不可視の超越的なトポスから学芸の女神ミユーズが来臨し、あたりに漲る柔らかな光の波動に乗って閲覧室の床に降り立つわけではない。読者はそれがもたらす秘儀的な「知」と対話し、畏怖と敬虔の念の中に沈みこむわけではない。光は、白熱電球という徹底的に散文的な、また人間の寸法に見合っているという意味で世俗的な光源から発し、書物のページに直接当たるのであり、人はこの個人化された照明の下、アントロポモルフィックな等身大に還元された「知」を、余暇の消費のためのほどよい娯楽として愉しむだけのことなのだ。
一九三〇年代のパリで暮らしながら、丸天井の天窓から落ちてくる光の波動を愛し、そこから透視される空の広がりに執着したヴァルター・ベンヤミンは、「電気」以前の都市空間への郷愁を棄て去ることができなかったという点で、むしろやや時代錯誤な「知の主体」だったと言えるだろう。「丸天井に広がる雲ひとつない青い空の下の戸外で始められたこの著作……」「勤勉の爽やかな微風のそよめき……」──亡命知識人としてのベンヤミンが避難所として身を寄せたこの図書館閲覧室は、彼の想像力の中で、あたかもタルコフスキーの映画『ノスタルジア』のラスト・シーンに登場する外壁が崩落した教会の廃墟のように、内部と外部を分かつ境界が無効化し、内と外とが通底し合っているかのようだ。そこに蹲って上方を見上げると、「知」の「無限」に直接触れることができ、そこにごとすうっと吸い込まれてゆくかのようでさえあり、その心地好い幻想が彼に深い慰藉をもたらす。その「無限」の中で名前も身分も国籍も失い、絶対的な失踪者と化すことで、眼前の苛酷な現実を、ファシズムというヒドラの暴威をひととき忘れることができるかのようだ。パサージュにたゆたっている水族館のような微妙な光の質に対する彼のあれほどの執着も、この同じ時代錯誤と郷愁に由来するものだろう。
一八五〇年代に不意に活性化し、世紀末まで旺盛な機能ぶりを示すこの「普及=通俗化」という名の「知」の流通装置は、時期的に言えば、国立図書館の巨大円形閲覧室というあのもう一つの「知」の装置の発生期にぴったりと照応する同時代現象である。いわば前者は、後者が露出させた「無限」をイマジネールな水準で飼い馴らし、人々がそれと直接向かい合わないですむようにしてくれる精神分析的な仕掛けだったわけで、その意味では両者の機能は、ある種の相互補完的な関係にあったと言っていいだろう。「通俗化」のジャーナリズムは、女神にして婢という楽天的な「知」のイメージを提供することで、「無限」への畏れと脅えを適度に和らげ、共同体の成員に心理的な安定を供給する。それを信じるかぎり、「知」は、三六〇度の周囲にそそり立って人々を威圧する「無限」などではさらさらなく、「人間」の手で苦もなく懐柔し、幸福と安寧の増大に結びつけることのできる便利な力=エネルギーでしかないようだ。娯楽読み物の体裁の下に、そんな耳に心地好い事柄を語りつづけてやまないこの言説が流通する空間には、超越性のトポスへと通じる天窓は開いていない。すべては共和国という名の世俗的な共同体の中だけで処理される。「外部」が消滅し、伝播する「知」は有限の境界の内部でゆるやかに充足する。
従って、当然のように、「通俗化」の言説を載せたテクストは、天窓からの光ではなく電気照明の下で読まれるのがそぐわしいものとなる。それは、礼拝堂にも似た巨大閲覧室の床に落ちてくる超越的な光と交感しつつ読むのではなく、それぞれの個人用に据えつけられた電灯の明かりを頼りに読むのがふさわしい種類の印刷物なのである。第三共和制下で発明され普及していった光のテクノロジーは、「通俗化」の言説に特権的な主題を提供したばかりでなく、そうした言説を受容し消費する身体体験それ自体の直接的な隠喩となることにもまた成功したのである。

「通俗化」の言説の終焉

電気照明の汎用化の過程は、一八八〇年代以降、後戻りすることなく進んで今日に至っているが、ただし、それと深く結びついた「通俗化」の言説もまたこれと並行して一方的に勝利しつづけ、ひたすら繁栄の途を辿ったかと言えばこれは必ずしもそうではない。電気への感動、そしてそれをめぐるオプティミスティックな「知」への渇望は、実のところ比較的短い期間で消費し尽くされてしまう。ブリュノ・ベゲによれば、世紀末の到来とともに科学万能主義の理想は急速に色褪せ、爾後、世紀中葉に生まれた「通俗化」の諸形態は消滅の一途を辿るという★一二。
文芸批評家フェルディナン・ブリュヌティエールは、一八九五年の『両世界評論』誌に載せた評論において「科学の破綻」を宣告し、評判になるが、この提言自体は粗雑なドグマティズムの産物にすぎないとしても、そこに当時の文学や哲学において顕著となりつつあった科学不信の精神風土が反映していることは否定できない。科学の通俗解説書の売れ行きには翳りが見え、その用途は徐々に公立小学校の表彰式用の賞品に限定されてゆく。一八九六年の『驚異の図書館』の中絶が代表するように、シリーズ物の出版が相次いで中止となる。一九世紀の最後の四半期に隆盛を極めた科学雑誌が、一九一四年までにはほとんどと言っていいほど廃刊になってしまう(第一次大戦後まで残ったものは『自然』しかない)。人気作家でありつづけてはいたが、ジュール・ヴェルヌの作品の発行部数が次第に低迷してゆく。何よりも決定的だったのは、ルイ・フィギエたちの後を継ぐべき新世代の職業的な科学啓蒙家が現われなかったことである。要するに、「楽しい学習」というイデオロギーそれ自体が消滅したのであり、「知を万人に広める」という啓蒙の使命は、爾後、学校が独占的に受け持つようになってゆくのである。
科学を専門とする新雑誌の創刊がなかったわけではないが、飛行機や自動車など、この時代の新発明は、二〇年前に電気が活気づけたような出版物の洪水は作り出さなかった。要するに「科学」はすでに日常化し、それを持て囃す知的かつ娯楽的なメタ言説の対象とはならなくなってしまったのである。一九世紀後半の半世紀は、民衆の好奇心と啓蒙家の闘争意欲が圧倒的なリビドーとともに「科学」に向かった特殊な時代だったと言える。この好奇心とこの闘争意欲が相互に刺激し合い増幅し合った結果、「科学」は、共和制のイデオロギーと大衆文化の内部に確固たる地位を占めおおせるに至ったのだが、しかしこの地位がひとたび安定したものとなるや、「科学」はその「驚異」のアウラを失い、イメージとして凡庸化し、以前ほど人々を魅惑しなくなってしまったのである。
一九〇五年から一九一〇年にかけて、いかなる教育的野心も欠いた青少年向けの娯楽ジャーナリズムが出現する。「面白くてためになる」言説はもはや求められていない。時代の要請は「単に面白い」ものへと向けられていて、たとえば空想科学小説にしても、ヴェルヌ的起源にあった教育的使命感は消え、単なる気晴らしとしてよく出来た商品が優位に立ち、効率良く消費されるようになってゆく。前世紀においては、軽薄な「知」の跳梁によって創り出されたアマチュアの「半可通」たちが、「無限」と正面から対峙することなくただその端をかすかに掠めつつ、ゲームとしての「知」を愉しむということがあったのに、もはや大衆は「半可通」を演じることに自負も快楽も見出せなくなってしまったのだ。「楽しい科学」すなわち「啓蒙的な娯楽」の魅力が磨り減ってしまったのである。科学と虚構、勉強と気晴らし、学習とスペクタクル、等々、異質な二項同士の間のアンビヴァレンツが大衆に及ぼした魅力は、或る限定された時代の歴史的刻印を帯びていたのであり、第一次世界大戦という苛酷な現実の露呈がそれに決定的な終止符を打つ。
半世紀にわたる「通俗化」の言説の歴史の花形は、共和制が軌道に乗った一八八〇年代に、一挙に時代の文化的舞台の前景に躍り出た電気であり、それにまつわる多種多様なイマジネールの乱舞であった。世紀の変わり目の時期にそれが終わる。「輝きを発する女=光を広げる女」という楽天的な形象が人々の心をときめかせるということもなくなるのは、ベル・エポックの終焉とともに共和国の理想に対する信仰にも翳りが見えていったという史実と関係があるに違いない。「世界を包摂する女性」の表象は、一九〇〇年の『夢の解釈』の刊行以後、理性的な「知」の空間から無意識的なエロスの深層へと移行し、天空高く晴れやかに君臨するというよりはむしろ、性感帯をちりばめたその芳しい肉体を地に横たえ、あるいはその深みに溶けこませるようになってゆく。巨大な女体は、灯火を掲げた輝かしい頭部に人々の視線を引きつけ、未来を指し示すよりはむしろ、暗く秘匿された性器の襞へと男の歩みを誘い、官能の火花がぱちぱちと弾けるようなエロティシズムで空間を磁化するようになってゆく。かくしてベンヤミンは、電気照明の時代としての第三共和制を一挙に飛び越し、ボードレールが「遊歩」していた第二帝政期のパリに熱い想いをめぐらせつつ、「眩惑されるままに、暗いところが娼婦の股ぐらにひどく似ている街路から街路へ入り込んで」ゆくのである。


★一──Bruno Béguet,《La vulgarisation scientifique au XIXe siècle》, in La Science pour tous (Les Dossiers du Musée d'Orsay, no. 52), Ed. de la Réunion des musées nationaux, 1994. 本稿の資料的部分はこのベゲの論文に多くを負っている。
★二──Ibid., p.11.
★三──Jules Michelet, La Montagne, 1868,《Préface》.
★四──ヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』斎藤磯雄訳、東京創元社《創元ライブラリ》、一三─一四頁。
★五──もっとも、マラルメの場合、秘儀的な形而上学の深みに沈潜する一方で、雑誌『最新流行』の主宰に端的に表われているように、時に応じて「通俗化」の言説との接点をむしろ進んで求め、みずから積極的に引き受けようとしたという側面があり、このように複数の言語態の水準を往還しえたという点に、『残酷物語』や『トリビュラ・ボノメ』の作者をはるかに越える文学者としての柄の大きさを見るべきだろう。
★六──A. Beltran et P. Carré, La Fée et la servante: la société française face à l'électricité, Belin, 1991, pp.173-174. この書物に添えられたアナール派の歴史家アラン・コルバンの序文が『感性の歴史』(小倉孝誠編、藤原書店、一九九七年)に訳載されている。
★七──「……彼〔ネモ船長〕は言った。──『この船には、強力で従順で、迅速に、しかも容易に操作のできる原動力があってそれが何にでも用いられ、船を支配しているのです。すべては、それによってなされています。それは、明るくし、われわれを暖めます。船の機関の魂です。その原動力、それは電気なのです』。──『電気ですって!』と、私はたいへんびっくりして叫んだ。……」(ジュール・ヴェルヌ『海底二万里』江口清訳、集英社文庫、一九九三年、一二四頁)。
★八──Cité in C. Mauclair, Puvis de Chavannes, Plon, 1928, pp.84-88.
★九──「マリアンヌ」に関しては、コレージュ・ド・フランス教授モーリス・アギュロンの数冊の著書に詳しい。Cf. Maurice Agulhon, Marianne au combat, l'imagerie et la symbolique républicaines de 1789 à 1880, Flammarion, 1979; M. Agulhon, Marianne au pouvoir, l'imagerie et la symbolique républicaines de 1880 à 1914, Flammarion, 1989; M. Agulhon et Pierre Bonte, Marianne, les visages de la République, Gallimard, coll.《Découvertes》, 1992.
★一〇──本連載②、『10+1』No. 6(INAX出版、一九九六年)、一〇─一二頁。
★一一──桂英史『図書館建築の図像学』(INAX出版、一九九四年)、七─九頁。本連載①、註一参照、『10+1』No. 5(INAX出版、一九九六年)、一五頁。
★一二──B. Béguet, Op. cit., p.19.

>松浦寿輝(マツウラ・ヒサキ)

1954年生
東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻(表象文化論コース)・教養学部超域文化科学科教授。フランス文学者/詩人/映画批評家/小説家。

>『10+1』 No.10

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>パサージュ

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>桂英史(カツラ・エイシ)

1959年 -
メディア研究。東京藝術大学大学院映像研究科教授。

>ヴァルター・ベンヤミン

1892年 - 1940年
ドイツの文芸評論家。思想家。