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逆説都市(パラドクシカル・シティ)──室内の幻像(ファンタスマゴリー)からノワールの宇宙へ | 田中純
Paradoxical City: From Phantasmagoria to the Noir World | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) pp.14-25

1 密室パラドクスと推理小説のエコノミー

フレドリック・ジェイムソンは市民社会におけるブルジョアのプライヴァシーがもつ逆説的性格について次のように述べている。

市民社会とは、社会によって生み出され、まさにその社会構成体が機能していくうえでの重要な一部分を成す、根本的に非公開・非社会的な空間という経験と概念の哲学的パラドクス(人間社会の歴史上、実質的にはじめて提示されたパラドクスと言えるかもしれない)にともなわれていた。(…中略…)したがって、プライヴァシーはあらゆる種類の二律背反的対立──主に私的なもの、非社会的なものそれ自体の定義と防衛にかかわるものであり、同時に、ハンナ・アレントが述べたとおり、この歴史的二元性がもたらした公的空間や公的生活の汚染に目を向けようとするものであった──を生み起こす傾向があった★一。


一九世紀に推理小説の誕生をうながしたものは、ジェイムソンがここで指摘しているような、大都市におけるブルジョア市民の私的生活空間と公共空間との分割であった。労働の場である事務所から、あるいは集団の欲望が渦巻き、情報が行き交う空間である街路やパサージュから切り離され、ブルジョアの室内は私的空間として孤立する。この小宇宙に私人は異郷や過去の文物を蒐集し、室内は労働を終えた私人に安らぎを与える幻想で満たされる。ヴァルター・ベンヤミンは一九世紀を〈住むことに病的にこだわった世紀〉★二と呼んだが、〈住むこと〉とはこんな室内に身を潜めることを意味した。〈居心地のよさ(Gemütlichkeit)〉がこの空間の特徴をなす雰囲気であり、そこでは居住者の痕跡が室内のあらゆるところに刻み込まれた。〈住むこと〉はこうしてまさに〈痕跡をとどめること〉にほかならなかった。一九世紀の〈室内というファンタスマゴリーの世界〉をめぐってベンヤミンは、そこに蒐集された事物がことごとくカバーやケースに覆われていたことに注目している[図1]。その際にはあらゆる接触の痕跡を残すビロードやフラシ天の布が好まれたという。個室へとブルジョアは自らを閉じ込め、さらにそこでは事物がそれぞれの〈室内〉をえて、そのなかに収納される。大都市における私的な生活の形跡の不在を取り戻そうとする欲求に応じて、室内はこうした痕跡を過剰に蓄積させていく。そして、その痕跡を追跡する物語として、〈室内の最初の観想家〉エドガー・アラン・ポーにより、私的/公的空間の二律背反あるいは逆説そのものを主題とした推理小説というジャンルが生まれる。『モルグ街の殺人』が発表されたのは一八四一年のことであった。

1──19世紀の室内。サラ・ベルナールの自宅

1──19世紀の室内。サラ・ベルナールの自宅

ベンヤミンは、フランスにおいて新しい選挙法により民主的仕組みが拡大されるとともに、私人が歴史の舞台に登場した時代は、ルイ=フィリップの治世であったと述べている★三。イアン・ハッキングによれば、ルイ=フィリップを王座に押し上げた七月革命が勃発した一八三〇年から二月革命による退位の年である一八四八年の間に、西欧の国々では、印刷された数字が突然急激に増大しているという★四。物や人を数えることへの関心がこの時期に急速に高まっていた。数は事物や個人の質に敵対し、そのアイデンティティを破壊する。いわばそこでは質的な世界が崩壊し、近代的権力が依拠する量的な世界が現われてきていたのである。例えば普通選挙権の導入は、所属階級や収入といったあれこれの属性によってではなく、そのような経験的性質を捨象した〈数〉としてのみ選挙の主体を規定する。このような数への還元は、一面からすれば、社会の解体そのものであり、民主主義とは、王の身体が表象していたような政治体(政治の身体)の統一性が消滅すること、政治体の全体性を決定することはもはや不可能であるという事実に基づいている。民主主義の経験とはこの決定不能性の経験であり、クロード・ルフォールに従えば、精神分析もまたこの経験の産物にほかならない。
ジョーン・コプチェクはこうした決定不能性を精神分析における原初的抑圧と関連づけ、社会的なものにおいても自我においても、リビドーの備給は完全に遂行されることはありえず、そこには必ず残滓が存在する以上、自我や国民の全体性のイメージはつねに未完成の状態に置かれるという。個人および政体の身体はともにそこで解体し、その結果、民主主義の出現と平行して近代人は、群衆という不定形なマスのなかで自己を失うことに対するパニック的な恐怖に繰り返し襲われることになる。数えること、統計への渇望はこのような恐怖と表裏一体だった。
この場合の数えるという行為は、しかし、ただ単に数を記すことではなく、何らかのカテゴリーに属するものの数を記すことを意味する。つまり、統計は分類を作り出す。だが、ハッキングがこうした論点を引き出したフレーゲの算術の理論について、コプチェクは、そこにははるかに重大な意味をもつ別の帰結が存在することを指摘している。つまりまず、数の領域が数以外のものに支えられることなく自律するためには、数の領域と数えられる経験的な対象の領域とが完全に分離しなければならない。経験的な対象の実定的な属性はすべて抑圧されなければならない。このような分離が可能になるのは、数えられるものを包含する概念が、自らに折り畳まれた反省的な概念として、すなわち〈ある概念に同一的である〉という概念として捉えられた場合である。Xという概念そのもののもとに対象を包含するのではなく、〈Xという概念に同一的である〉という概念のもとに、対象をそれ自体への同一性に還元することによって集合を形成するのである。一見してわかる通り、この定義は循環的で行為遂行的パフオーマテイヴなものだ。数えるという行為によって、ある集合に属することを決定する形式的属性が対象に付与されるのであり、この純粋に形式的で同語反復的な属性は、何らかの実定的性質とは無縁である。
問題なのは、このように行為遂行的に数えることが可能になるためには、ある例外的なカテゴリーの登録がまず必要になるということである。「フレーゲの数の理論の決定的な論点は、数を数えることによってわれわれがもののカテゴリー分けができるようになるということではなくて、そもそも数えることが可能になり、カテゴリーがものを包含することが可能になるには、その数の集合が〈何も含まない〉カテゴリーを登録していなくてはならないというところにある。これは〈自分自身と同一でない〉もののカテゴリーであり、ここに含まれるものの数は0である」★五。
フレーゲは自らが開発した述語論理を用い、数学を論理学に還元することによって、それを基礎づけようとした。『算術の基礎』(一八八四)においてフレーゲは、個々の数を定義づけるにあたって、まず0を次のように規定している。「0は〈自分自身と同一でない(ungleich)〉という概念に与えられる数である」★六。しかし、論理学から算術へと移行し、このように数を扱おうとするときに彼はすでに、変数に命題関数を含む二階の述語論理に踏み込んでいるのである。例えば数を含んだ「X国国民は一億人いる」という文の〈X国国民〉とは個体ではなく、述語(集合)でしかありえないからだ。一階の述語論理は無矛盾であり完全だが、この二階の述語論理にはパラドクスが生じる。そして、フレーゲの論理主義を根底から揺るがしたものは、コプチェクがいう〈自分自身と同一でない〉もののカテゴリー、あるいは〈それ自身に述語づけられない述語である〉という自己言及的な述語をめぐるラッセルのパラドクスであった。コプチェクの言い方を借りれば、この逆説的なカテゴリーは数のシステムに決して包含されえない〈数の列の内的な限界〉であり、数えるという行為の究極の残余であると同時に、このシステムを生み出す原因でもある空虚な剰余である。そして、コプチェクはこの原理こそ、推理小説と統計の結びつきを成り立たせているものであるという★七。この仮説を確証する現象としてそこで取り上げられるのが、殺人の被害者のまわりに形づくられる容疑者の集合と密室のパラドクスの二つである。
推理小説における容疑者の集合にあって、彼らを結びつけているのは相互の感情的なつながりではなく、あらかじめ存在している共通の属性などでもない。問題なのは個々人の経験的な属性であるよりも、各容疑者が織りなす示差的なシステムである。コプチェクによれば、捜査の物語が事後的に、先行する犯罪の物語を生産するという推理小説の説話論的構造が、このシステムの行為遂行的な自律性を示している。しかし一方、容疑者が屍体に対してもつ関係はどうか。物語られることのできない出来事の痕跡としてのこの屍体こそは、容疑者集団の内的限界、あの空虚な剰余を代理表象するものであるとコプチェクはいう。自明ながら、この屍体を欠いては、推理小説という物語も容疑者の集合も存在しえない。
推理小説は殺人という語りえない出来事のまわりに展開される。それは象徴的現実に統合することのできない外傷的な事件であり、探偵はこの失われた物語を再構成することによって、正常な象徴的現実へとそれを再統合しようとする。言い換えれば彼は、因果律が破綻しているかのように見える殺人の現場という光景を遡行的に再現し、そこにもまた正常な因果律が支配していることを証明する。推理小説の冒頭に出現する屍体とはつまり、世界を支配する因果律を逃れる例外の表象なのである。
この起源の再構成にいたる分析過程で数え上げられ、集合を形成するのが容疑者たちなのであるが、探偵はそのなかの誰にでも殺人の動機と機会があったことを証明することによって、容疑者の誰もが殺人者になりえた可能性を示す。そして、この可能性が意識化された結果として容疑者たちが共通して抱く罪悪感を通じ、彼らの集団の結束は強められることになる。探偵が捜査の過程で明らかにするのは、屍体の出現という異常な出来事が、容疑者たちの無意識の欲望の実現であったという事実である。この欲望を意識化するのは探偵の捜査行為であり、容疑者たちの罪悪感は容疑者集団への彼らの算入によって、事後的に生み出されている。
屍体のもつこうした〈間主観的な次元〉をめぐってスラヴォイ・ジジェクは次のように述べている。「探偵の役割は、ここでもやはり、まさしく、全体に浸透して自由に浮遊するこの罪悪感を単一の主体のなかに位置づけることによって他の人々の無罪を証明し、その袋小路を打破することである」★八。つまり探偵は、外傷的な空虚な記号としての屍体のまわりに容疑者の集合を形成し、彼らの無意識の欲望を明るみに出しておきながら、最終的には事件の全貌を正常な因果連鎖のうちに物語り、特定の犯人を名指すことによって、その他の容疑者の無罪を証明し、容疑者集団を自ら解消してしまうのである。この容疑者集団の解体は同時に、屍体がもはや失われた物語の痕跡、空虚な剰余ではなく、事実として確定された出来事の産物、ありふれた物体に変容してしまったことに対応している。
このように、殺人という不可能な出来事がいかにして可能であったかを証明するのが推理小説の課題であってみれば、密室が好んで殺人の舞台とされることも不思議ではない。そこではベンヤミンが指摘した室内の数限りない痕跡が、探偵の解釈にさらされることになる。ブルジョアの室内は無限の探索と解釈を許す奥深い空間である。密室パラドクスの形式を純粋に示している一例としてコプチェクは、『北北西に進路を取れ』のためにヒッチコックが構想し、結局撮影されることはなかったこんなシーンをあげている。ヒッチコックはフランソワ・トリュフォーにこう語っている。

この見事な流れ作業の列に沿ってケイリー・グラントと(フォード自動車会社の)工場の監督が歩きながら話をするシーンを撮ろうと考えた。二人はたまたま、ある男の話をしている。彼らの背後では、ベルトコンベアの上で、一台の自動車がいろいろな部品から次第に組み立てられていく。そして、ガスもオイルも詰め込まれて、すぐそのまま乗って走れる一台の自動車が出来上がるところまで見せる。まったくの無から、単なるナットとボルトから、完全に組み立てられた自動車を目の前にして、工場の監督がケイリー・グラントに言う。『どうです、すばらしいものでしょう』。それから、自動車のドアを開けてみせると、なかから屍体が転げ落ちる★九。


この車の製造工程で、あらゆる部品は目の前でゼロから組み立てられていくのを切れ目なく目撃されているわけだから、出来上がった車は完全に閉ざされた集合であるはずだ。つまりこの車は密室にほかならない。しかし、そこから屍体という過剰な要素が一つでも出現してくる以上、この密室からは、そこが完全に閉ざされているにもかかわらず、無限に要素が引き出されうることになろう。密室パラドクスとはすなわち、限界をもつ全体と限界をもたない全体との共存という矛盾、いわばカントのいう〈数学的アンチノミー〉なのである。
一つの閉じた全体を構成するにもかかわらず、外的な限界をもたず、無限に数えられる要素を包含するものとは、数のシステムにほかならなかった。われわれはそれが内的な限界としての空虚な要素を包含するがゆえに、システムとして閉じることができることを見ている。密室とはこのように、それ自身の限界であるような過剰な要素を含む空間であり、「この限界だけがその内容の無限性を保証し、そこから無限の数の対象が引き出されるかもしれないことを保証するものなのである」★一〇。ここでは屍体そのものではなく、屍体をこの空間内につけ加えさせた何ものかが、空虚な剰余として機能していることになる。
もとより、推理小説では最後にこの何かは密室の外部に位置する犯人と同定され、密室空間には何らかの隠されたトリックがあり、そこは実際には密室ではなかったことが証明されて、パラドクスは解消されてしまう。しかし、密室という空間が屍体の置かれる舞台として推理小説において執拗に反復されることのうちには、閉ざされているにもかかわらず無限な空間というこのありえない室内が、殺人という外傷的事件の現場としてきわめて特権的なものであることが示されている。屍体とは象徴的現実にとって過剰な何ものかであり、それはおよそもっとも現われえないところに現われるのである。
密室を閉ざされた、しかし限界のない場としている空虚な剰余、それは密室の内在的な境界であり、決して何らかの実体的なものとしては実在しない。この剰余は殺人という無意識の欲望のシナリオが演じられる幻想空間にほかならない。密室で犯された殺人とは推理小説に特有のファンタスムなのであり、推理小説において果たすこうしたリビドー経済上の機能ゆえに、密室はつねに不可能な空間でなければならず、できるかぎり完全に閉ざされていなければならない。おそらくそこには、市民社会における私的なもの、非社会的なものの防衛をめぐるブルジョア主体の幻想が投射されているのであろう。
しかし、このようなリビドー的意味をもった密室という空間も、探偵にとっては、犯人によって探偵たちの目を欺くために構成された偽りのイメージであり、欺瞞にすぎない。古典的推理小説の探偵は、例えば密室をトリックと証明し、あるいは真犯人を特定することによって、そこで示されていた欲望の無意識の真実を裏切る。「事実の正確さのために、探偵は〈内的な〉リビドー的真実を妥協させ、欲望が実現したことに対するいっさいの罪悪感からわれわれを解放する。欲望の実現は犯人一人のせいにされているのだから」★一一。
ジジェクが指摘するように、事件現場の光景が偽りのイメージと見なされているからこそ、探偵の捜査活動は、ドクサを体現する警察のそれとは違って、犯人という〈他者〉の欲望を解釈する営みとなる。警察が証拠を犯人の身元を直接指し示す痕跡としてしか理解しないのに対して、探偵は事件現場のイメージのなかで些細な細部が帯びる不整合性の感覚をもとに、このイメージ全体の構図を再構成する。この解釈の過程においては、実体的な痕跡のみならず、あるべき要素の欠如もまた証拠となりうる。さらに探偵は、自分たちを欺こうとしている犯人の意図を計算に入れ、犯人に無言でこのように問いかける。「あなたはこの事件現場のイメージによって私にある(間違った)解決を示している。しかし、それによってあなたが望んでいることは何なのか?」。つまり、犯人が構成した欺瞞は間主観的に機能しており、言表と言表行為との間のこのずれにおいて、探偵は〈他者〉の欲望を解釈しようとするのである。そして、探偵のもたらす真の解決とは、この問いに答えがあったということ、探偵は犯人のメッセージを正しく受け取ったということの証なのだ。
だが、そのような解決が実は、決して答えのない問いに対して与えられた、探偵自身の幻想のシナリオであったとしたらどうか。古典的探偵自身の欺瞞は、彼が無意識の欲望の真実をつねに裏切り、空虚な剰余を遡行的に消し去って、それ自体幻想によって支えられた社会的現実性(象徴的現実)の回復という帰結にのみ奉仕している点にある。出来事の正常な因果連鎖を物語ることによって殺人の原光景を再構成する探偵は、因果連鎖を撹乱する原因と結果の間の溝であるような、偶然的で不可能な出会いとしての外傷的衝撃に換えて、起源をめぐる幻想を置く。彼は現実性を選択することによって、知られないままにとどまらなければならない〈知〉としての無意識を抑圧する。数々の説話論的規則(探偵が犯人であることの禁止、超自然的現象を原因とすることの禁止など)という法によって規制された推理小説の空間は、こうして最終的に私的空間と公共空間のバランスを回復するのである。

2 フィルム・ノワールのホームレスな主体

このような古典的探偵の対極に位置するのが、ハードボイルド小説あるいはフィルム・ノワールの探偵と宿命の女フアム・フアタールである。彼らは無意識の欲望という禁じられた不可能な思考を深く侵犯することによって、自らの存在の一貫性を失ってしまう。そしてそこでは、私的/公的空間の分割が失調し、その均衡もまた破綻する。屍体の残された密室が古典的推理小説のトポスであり、その主体の真実の場であったとしたら、フィルム・ノワールにおいてそれに相当するものとは、遺棄された都市空間にほかならない。

都市ミステリーがメトロポリスの恐ろしい勃興を記録していたのとちょうど同じく、フィルム・ノワールはその没落を記録し、メトロポリスの悪魔化を成し遂げ、その風景が──連邦住宅局や一九四九年の住宅供給法、そしてニューヨークにおいてはロバート・モーゼスという名で知られる自然の力が後押しした都市生活の暴力的な改造により──現実に〈遺棄〉されるのに先だって、それを異化していた。古典的なフィルム・ノワールがその発展の半ばにあった一九四七年から四八年の冬に、合衆国は都市化の頂点に達した。絶対数と全人口に占める割合の両面で、空前絶後の多くのアメリカ人が中心都市に暮らしていた。ニューヨーク市だけでも七パーセントほどが生活していたのである。しかし、大規模な拡散は目前に迫っていた★一二。


例えばコーネル・ウールリッチが一九三〇年代に書きつづっていたニューヨークの、荒廃して動きを欠き、廃墟へと崩壊しつつある遺棄された都市のヴィジョンは、フィルム・ノワールの雰囲気を先取りしていたばかりでなく、それ自体が大恐慌以後の都市の現実だった。そこは主人公たちにとって生き残りを賭けた闘争がおこなわれる空間であり、新しい野蛮の場所にほかならなかった。フィルム・ノワールに描き出された都市に対するこうした感受性は、ベンヤミンが第一次世界大戦後のワイマール・ドイツに認めた〈経験の貧困〉と無縁ではないだろう。この経験の貧困は〈一種の新たな未開の状態〉とも呼ばれている★一三。フリッツ・ラングやロバート・シオドマク、あるいはビリー・ワイルダーなど、フィルム・ノワールの亡命映画監督たちはこの時代のドイツを経験しており、ノワールの宇宙と〈経験の貧困〉との間には、ドイツ表現主義映画との類似にまさった関係が存在するように思われる。
ベンヤミンは、この新たな未開人の住居にはパウル・シェーアバルトのガラス住宅がふさわしいという。なぜならガラスという素材にはアウラがないからだ。それは一切の秘密の敵である。居住者の痕跡が蓄積された一九世紀の室内とは対照的に、そこには痕跡を残すことができない。それはもはや私人を保護する容器ではない。二〇世紀の貧困の空間のなかで、「生きている者にとってはホテルの部屋によって、死者にとっては火葬場によって」★一四、住むという行為は衰弱してしまっている。
コプチェクはワイルダー監督の『深夜の告白』(一九四四)[図2]を取り上げ、その主人公ウォルター・ネフ(フレッド・マクマリー)が宿命の女フュリス・ディートリッチソン(バーバラ・スタンウィック)とともに犯した殺人を告白する空っぽなオフィス・ビルディングの殺風景で人けのない空間を、古典的推理小説の閉ざされた、しかし限界のない密室空間と対比している。深夜あるいは早朝のオフィス・ビルディング、遺棄された倉庫、不思議に人通りのないホテルや無気味に空虚な廊下などが、フィルム・ノワールの舞台空間であり、そこには人物の気配がないばかりか、事物も徹底して乏しい。つまりそこには読み解かれるべき痕跡が欠けている。

しかし、これらの孤独な部屋が単に人や装飾を欠いているという観察にとどまってしまっては誤りだろう。もっと本質的なこととして、ノワールがわれわれに提示しているのは、欲望を消し去られた空間なのである。あるいは、部屋の空虚さが示しているのは、そのなかに何も存在していないということであるよりも、そこからはこれ以上何も引き出しえないということなのだ。こうした空間は、厳密な意味において、もはや解釈不可能である。すなわち、これらの空間は決して何も新しいものをもたらさないだろうし、従って、何も隠しえないのである★一五。


フィルム・ノワールの空間における隠れ場所のこの喪失に苦しめられるのは、何よりもまず、主人公自身である。しかし、コプチェクは、こうした事態は私的空間のなかに権力という〈他者〉が侵入してくることによって引き起こされているのではないと指摘する。むしろ、構造を変えられ、変質するのは公共空間という象徴秩序、つまり〈他者〉という場そのものなのだ。フィルム・ノワールの空間では、個人は互いに社会的距離によって分断されることがなく、従って、公共空間と私的空間の間にも距離が存在せず、両者は同じ表面上で隣接しあっている。侵犯されるべき距離が不在であり、目を欺く仮装が機能しないこの空間では、古典的推理小説の探偵と犯人の間におけるような間主観的な言説の生産と解釈の関係は生じえない。それゆえに、主人公はこの都市空間で完全に身を隠すことが不可能な代わりに、権力の執拗な追及を受けることもないのである。

2──ビリー・ワイルダー監督『深夜の告白』(1944)

2──ビリー・ワイルダー監督『深夜の告白』(1944)

だからこそ、二人の主人公、ネフとフュリスが密会する場として選ばれるのは、閉ざされた私的な空間ではなく、スーパーマーケットなのだ。二人の存在に関心のない買い物客しかいないこの空間において、彼らは身を隠すこともできないが、同時に身元を知られて発見される危険もない。フィルム・ノワールの宇宙においてこのスーパーマーケットは直ちに私的空間でもあるのだ。そこにおいて公的な象徴秩序は宙づりにされ、その秩序が支えていた現実性はすでに失われてしまっている。
古典的探偵であるオーギュスト・デュパンやシャーロック・ホームズとハードボイルド小説およびフィルム・ノワールの探偵たち、フィリップ・マーロウやサム・スペードとの違いは、前者が捜査の報酬として金銭を受け取ることを通じて、被害者と犯人、そして容疑者たちの集団におけるリビドーの回路からつねに距離をとり続けるのに対して、後者は例えば『マルタの鷹』(ダシール・ハメット原作、ジョン・ヒューストン監督、一九四一)におけるように、相棒が殺されたからといった個人的な感情に突き動かされ、ある種の心理的負債を返すためであるかのようにして事件を解決する点に存在するといわれる★一六。確かに彼らは金銭を受け取らない。というよりも、受け取ることができないのだ。なぜなら、金銭とは社会的な空間を象徴的に組織化するメディアであるが、フィルム・ノワールの世界においては、そんな社会的公共空間そのものが一貫性を喪失してしまっているからだ。そこは法そのものが矛盾して狂った、徹底して無法な世界なのである。
なるほどハードボイルド探偵は、倫理的な選択の結果として事件に肩入れするように見える。彼はまた、事件を引き受けることによって、自分が支配しえない出来事の連鎖に巻き込まれ、錯綜した罠の深みにはまっていくようにも見える。しかし、それは彼が直面している公共空間の矛盾と社会的ネットワークそのものの失調の結果にすぎない。古典的探偵のように金銭を受け取るか否かの選択肢は彼には与えられておらず、ハードボイルド探偵はかつて公共空間であったもののただなかで、すみずみまで可視的な私的空間の密室に閉じ込められている。この密室は古典的推理小説のどんな密室よりも完全に閉鎖的であり、フィルム・ノワールの世界に明白に認められる密室恐怖は、ここに由来する。そして、ハードボイルドの探偵が心理的負債として担っているように見える何かは、この透明な密室から抜け出て社会に関与し、公共空間に介入することの不可能性に対する絶望がもたらした仮初めの願望像にとどまるだろう。コプチェクがいうように、古典的探偵の解釈への欲望と結びついた推理小説の空間は奥行きをもった深い空間であるのに対して、フィルム・ノワールの空間は欲望を欠いて平らで、そこに関与することはできない。「ノワールには主人公が埋め込まれる深い空間は存在しない。彼は自分が通り過ぎる都市に対して完全に外在的なものにとどまる」★一七。
公共空間のこのような変容を引き起こしているものは、そこにつけ加えられた空虚な要素であり、これはフィルム・ノワールが基づいているリビドー的なマトリクスが、もはや古典的推理小説のそれのように〈欲望〉ではなく、〈欲動〉へと移行したことに対応しているとコプチェクは指摘する。ラカンによれば、欲動に関わるのは、解釈することではなく、自らを聞かせること、自らを見せることである。といっても、これは知覚の次元における見る/見られる、聞く/聞かれるという、欲望が関与する相互的なコミュニケーションを意味するのではない。聞かせられ、見せられるものとは、内容を欠いて非知覚的な空虚そのものにほかならない。欲動の作用するフィルム・ノワールの空間では、主人公の主体そのものであるような空虚それ自体が露呈されるのだ。「現象の領域内部に出現しながら、私的存在、享楽は、にもかかわらず、現象的な形態をとらない。現象的/非現象的というこの(たぶん内部/外部よりももっと正確な)区分こそ、欲動によって撹乱されるものなのだ。欲動は自らを露呈することによって自らを伝達することはない」★一八。この空虚が私的/公的という区分を混乱させ、フィルム・ノワールの宇宙を根底から主体化してしまうのである。
商品であふれかえるスーパーマーケットをオフィス・ビルディングと同じ空っぽの空間にしているものはこの空虚な剰余である。そこには何ら実体的に欠けているものはない。しかし、この空虚な剰余という内在的な限界によって枠取られているために、そこで目にされるものはつねに断片であり、核心となる何かがわれわれの視界を逃れ去っていると感じられるのだ。その何かは、だが、空虚な剰余そのものにほかならないのだから、われわれは目にされる事物のどれからも、このあらかじめ失われた対象について、何か新しい知を引き出すことはできない。空虚そのものが自らを露呈しつつ、スクリーン上にとどまり、われわれのまなざしを捕らえ続ける。そして、この空虚こそ、フィルム・ノワールの主体にほかならない。
フィルム・ノワールと呼ばれる映画には、西部劇やミュージカルなどの他のジャンルと比較して約束事やイコノグラフィーのシステムが欠けており、これが果たして一つのジャンルであるかどうかについても定かではない。それはミステリーだけでなく、コメディや西部劇の形を取ることも可能であり、数々のリメイク作品が製作された八〇年代以降のフィルム・ノワール・リバイバルの流れのなかでは、『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督、一九八二)や『エンゼル・ハート』(アラン・パーカー監督、一九八七)のようにSFやオカルトとも融合した。
この融合の結果、主人公である探偵による自分自身の記憶の探究と、それによって帰結する自己崩壊というモチーフがきわめて鮮明になっ
た★一九。二〇一二年のロサンジェルスを舞台にした『ブレードランナー』に登場するレプリカントたちは、偽の記憶をインプットされており、逃亡したレプリカントたちの追跡者デカード(ハリソン・フォード)もまた、ストーリーが暗示する限りでは、実はレプリカントにほかならない。『エンゼル・ハート』の主人公ハリー・エンゼル(ミッキー・ローク)は、自分が追跡している人物が、実は過去において悪魔に魂を売って再生した自分自身であることを知ることによって破滅する。このように彼らは、抑圧されていなければ自らの存在の一貫性が失われてしまうような〈知〉に近づき過ぎたことによって自滅していく。そのような知とはもちろん無意識と呼ばれる何ものかである。
ノワール的主体とはこの知を選択した者、欲動あるいは享楽に忠実に従う者のことである。思考と存在の間には埋めることの不可能な溝がある、というのが精神分析の基本的な認識であり、デカルトとは対立して、〈私〉は決して〈私〉が考えているところには存在しない。〈私〉は、何ものか(抑圧されている知)が考えられないでいる限りではじめて存在する。逆にこの不可能で禁じられた知に近づくことは、〈私〉の存在とそれを支える象徴的現実の崩壊を意味する。古典的探偵が存在を選ぶことによって無意識の知を抑圧したのに対して、ノワールの主体は思考を選ぶことによって破滅へと向かう。それは宿命の女とともに死の欲動を全面的に受け入れる行為として現われる。道徳を欠いた悪の体現であるかのような宿命の女が、自分の欲望をあきらめることなく、ついにその向こう側へと、つまり死の欲動へと自らを譲り渡すとき、彼女は根本的に倫理的な態度を担うのだとジジェクはいう。精神分析の倫理とは、宿命としての死の欲動を無条件に受け入れることのなかにこそあるからだ。まさにそんな倫理を生き抜くように、『アウト・オブ・ザ・パスト』(ジャック・ターナー監督、一九四七)[図3]のラスト・シーンで主人公ジェフ・ベイリー(ロバート・ミッチャム)は、尼僧のような服装をした宿命の女キャシー・モフェット(ジェーン・グレア)を道連れにし、警察の包囲網に車で突入して死ぬのである。

3──ジャック・ターナー監督『アウト・オブ・ザ・パスト』(RKO 1947)

3──ジャック・ターナー監督『アウト・オブ・ザ・パスト』(RKO 1947)

死の欲動に浸透され、主体化されたフィルム・ノワールの空間と古典的推理小説の空間との差異を、コプチェクは次のように記述している。「推理小説とフィルム・ノワールの空間がそれぞれ示しているのは、モダニズムの逆説的論理──限定された空間が底知れず無限であること──とそのポストモダニズム的転倒──完全な偶然性によって規定される開かれた、あるいは遊牧民的な空間が密室恐怖症的に有限であり、われわれを私的で意味を欠いた存在の内部に包み込むということ──である」★二〇。それは欲望もしくは解釈の空間と欲動の空間それぞれの逆説であるとも言い換えられるだろう。屍体の残された密室というアレゴリーによって表わされる一九世紀的室内が、痕跡の際限のない解釈へと差し向けられ、ついに最後の言葉にたどりつくことのない、欲望に支配された不完全な空間であるのに対して、フィルム・ノワールの遺棄された都市は、そんな痕跡を残すことが不可能な、享楽の場当たり的論理に従ってブリコラージュされた断片的空間からなる、矛盾して一貫性を欠いたパッチワーク状の空間である。この後者の空間では内部と外部、現象的なものと非現象的なものとの境界が消失し、私的領域と公共的領域もまたランダムに錯綜している。ここには明確な限界が存在せず、従って、たどり着きえない外部が存在しないがゆえに、そこに欠けているものは何ひとつないにもかかわらず、この空間は社会的ネットワークによって統合された一つの全体を構成することがない。そこには無数の穴がうがたれ、登場人物たちはコミュニケーションの可能性を奪われて、自閉させられているのである。
一九四〇─五〇年代のフィルム・ノワールがアメリカ大都市の現実と無縁ではなかったように、八〇年代のそのリバイバルも、レーガン、ブッシュ政権下で進行した大都市のジェントリフィケーションと関係している。「何か歴史的偶然以上の論理に従って、現在のテクニカラーによるフィルム・ノワール・ルネサンス(『パブリック・アイ』、『黄昏のチャイナタウン』、『バートン・フィンク』など)は、古典的(一九四五─五五)フィルム・ノワールの室内空間がアメリカの都市から抹消されつつあるときに起こったのである」★二一。一九八〇年代に合衆国の都市は税制や建築基準法の改正を通じて、低家賃住居の半ば以上を失ったという。低所得労働者の最下層が住居としていた都市区域が、これによってはなはだしく減少した。大量のホームレスもまたこのような政策の産物である。
『ブレードランナー』などを含めたフィルム・ノワール・ルネサンスは結局のところ、ハリウッド映画というコマーシャルな枠組みのなかで、ノワール的な遺棄された都市の、あるいはわれわれのいう非都市の、多少はシリアスなヴィジョンを提供しつつ、しかし、実際には現実に進行している大都市のジェントリフィケーションを補完していただけなのだと述べるべきだろうか。だが、フィルム・ノワールの都市空間が反復的に回帰することの意味は、ダーティ・リアリズムと呼ばれることもあるらしい都市計画の美学の問題とはまったく異なる次元に存在するように思われる。
例えばジェイムソンは、冒頭で引用したように、市民社会を私的領域と公的領域との二律背反的関係に支えられたものとしつつ、現在、このような市民社会は終焉しつつあると述べる。そして、私的/公的および内部/外部という対立が無効化された集団的建築空間として、レム・コールハースのゼーブリュッヘ臨海ターミナルに代表されるダーティ・リアリズムの空間を取り上げ、この建築空間は私的なものと公的なものとの対立の狭間に、中間的な領域として残された〈ノーマンズランド〉にほかならないと指摘する★二二。だが、市民社会に内在するまさしく逆説的な私的/公的および内部/外部の関係性は、単純にこうした中間領域によって代替されうるものだろうか。そもそも、市民社会における私的/公的空間のパラドクスこそが、このような建築空間の企図を無効化しているのではないのか。
ホームレスの存在が現在、現実に生きられたノワールの主体であるかのように見えるとともに、まさにそれゆえに、われわれの社会にとって排除と抑圧の対象に化しているとしたら、それはこの後期資本主義社会の社会空間そのものが、ノワール的な非一貫性の空間へとシフトし、われわれ一人一人が私的空間に閉ざされたホームレスという逆説的状況を生きているからではないだろうか。確かに個人がそれぞれの居場所を見出せるような社会空間、公共性の空間はすでに寸断され、もはやかつてのような仕方では存在していない。だが、それは市民社会の終焉というよりも、市民社会に内在していたパラドクスの異なる現われにほかならないのである。このような整合性を欠いた世界には、純粋に私的な空間も公的な空間も存在しない代わりに、その両者を媒介するようなノーマンズランドも存在しない。あるいは逆に、ある場所を特定すること自体がここでは不可能であって、公共空間は同時に閉ざされた私的空間であり、いたるところが〈誰のものでもない=存在しない誰かの(no man's)〉土地なのである。
古典的推理小説が近代的国民の形成を可能とした民主主義の経験と深く結びついたものであったのに対し、フィルム・ノワールの空間は、同様に民主主義の決定不能性に関係しつつ、遊牧民的なホームレスの共同体という、完全な偶然性によって規定される開かれた社会体に対応するものであるのかもしれない。もとよりそこはユートピアなどではなく、われわれを透明で空虚な室内へと閉じ込める密室恐怖症の悪夢の空間でもある。しかし、それがむしろわれわれにとって選択以前に直面している現実であるのだとしたら、われわれはこの深みを欠いた(スクリーンの表面のような)矛盾した表層をさまようことしかすでにできないのだというべきかもしれない。例えばそれは、闇のなかを逃れて破滅へと向かう、あまりにも美しいフィルム・ノワール『夜の人々』(ニコラス・レイ監督、一九四八)[図4]の若い恋人たち、ボウイとキーチのように。そこで問題となるのはもはやダーティ・リアリズムの美学ではなく、ノワールの倫理なのである。

4──ニコラス・レイ監督『夜の人々』(1948) (蓮實重彦『ハリウッド映画史講義』、筑摩書房、1993年より)

4──ニコラス・レイ監督『夜の人々』(1948)
(蓮實重彦『ハリウッド映画史講義』、筑摩書房、1993年より)


★一──フレドリック・ジェイムソン「匿名者たちのデモグラフィ」[後藤和彦訳](『Anyone』NTT出版、一九九七年)所収。
★二──ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論V』(今村仁司・三島憲一ほか訳、岩波書店、一九九五年)一六三頁、断片番号I─四、四。
★三──ベンヤミン『パサージュ論I』(岩波書店、一九九三年)一六─一七頁。
★四──Ian Hacking, "How should we do the history of statistics?" in: I&C, no.8, Spring 1981. なお、民主主義をめぐる以下の記述は、ジョーン・コプチェクの論文(村山敏勝訳「選挙権が定義する主体」『批評空間』第II期6号、五九─六七頁)に依拠したものである。
★五──コプチェク、前掲書、六一─六二頁。
★六──Gottlob Frege, Die Grundlagen der Arithmetik, Hamburg, 1986, S.82.
★七──Joan Copjec, "Locked Room/Lonely Room. Private Space in Film Noir," in: Joan Copjec: Read My Desire. Lacan against the Historicists, The MIT Press, New York, 1994, p.171.
★八──スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る──大衆文化を通してラカン理論へ』(鈴木晶訳、青土社、一九九五年)一一六頁。
★九──アルフレッド・ヒッチコック、フランソワ・トリュフォー『定本 映画術(改訂版)』(山田宏一・蓮實重彦訳、晶文社、一九九〇年)二六四頁。
★一〇──Copjec, op.cit., pp.175-176.
★一一──ジジェク、前掲書、一一七頁。
★一二──David Reid and Jayne L. Walker, "Strange Pursuit. Cornell Woolrich and the Abandoned City of the Forties," in: Joan Copjec (ed.): Shades of Noir: A Reader, Verso, New York, 1993, pp.68-69.
★一三──ヴァルター・ベンヤミン「経験と貧困」[浅井健二郎訳](浅井健二郎編『ベンヤミン・コレクション2 エッセイの思想』ちくま学芸文庫、一九九六年)所収、三七五頁。
★一四──ベンヤミン『パサージュ論 V』一六三頁、断片番号 I─四、四。
★一五──Copjec, op.cit., p192.
★一六──例えばジジェク、前掲書、一一九─一二二頁。
★一七──Copjec, op.cit., p200.
★一八──ibid., p.190.
★一九──この見方は次の論文による。Slavoj Žižek, "The Thing that thinks: The Kantian Background of the Noir Subject," in: Copjec(ed.), Shades of Noir,  pp.199-226.
★二〇──Copjec, op.cit., p200.
★二一──Dean MacCannell, "Democracy's Turn. On Homeless Noir," in: Copjec(ed.), Shades of Noir,  p281.
★二二──コールハースの『錯乱のニューヨーク』は、いわばニューヨークという都市そのものを主人公としたフィルム・ノワールのシナリオである。それはマンハッタニズムというニューヨークの無意識の知への限りない接近の物語だった。このマンハッタンのにせの自伝には〈子宮〉や〈保育器〉といった隠喩が反復的に登場して、誕生や起源をめぐる物語を展開している。例えばドリームランドの保育器ビル、あるいは〈成人用保育器〉としてのダウンタウン・アスレチック・クラブ、そして、マンハッタニズムを懐胎した〈子宮〉であるヒュー・フェリスのドローイング……。マンハッタンの歴史の最初と最後(一八五三年と一九三九年のニューヨーク万博)に現われる針と球のイメージもまた、同様の物語を喚起する。そこではいわばマンハッタンの起源をめぐる幻想が紡がれているわけだが、現実のフィルム・ノワールは、この書物が終わった時点から、つまりニューヨークという〈過密の文化〉の長い壊死の過程において制作されることになる。

*この原稿は加筆訂正を施し、『都市表象分析I』として単行本化されています。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

>『10+1』 No.09

特集=風景/ランドスケープ

>フレドリック・ジェイムソン

1934年 -
文芸評論家。デューク大学で教える。

>パサージュ

Passages。路地や横丁、街路、小路など表わすフランス語。「通過」する「以降...

>ヴァルター・ベンヤミン

1892年 - 1940年
ドイツの文芸評論家。思想家。

>ルネサンス

14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようと...

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>パサージュ論I

2003年6月1日

>ディーン・マッカンネル

カリフォルニア・デイヴィス大学、ランドスケープ・アーキテクチュア学部教授。インター・ナショナル・セミオティクス・スタディーズ委員会委員。

>錯乱のニューヨーク

1995年10月1日