RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.07>ARTICLE

>
〈路上〉の系譜──バラックあるいは都市の〈忘我状態〉 | 田中純
The Genealogy of "The Road" : The Shanty, or the "Trance State" of the City | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) pp.16-27

1 Modernologio──〈現在〉の考古学

首都東京を壊滅させた一九二三年の関東大震災は、欧米における第一次世界大戦に対応する歴史の断絶をもたらした。そして、この震災後の日本の一九二〇年代は、独自なモダンな都市の学を生み出している。今和次郎らの〈考現学〉がそれである。よく知られているように、今和次郎ははじめ柳田國男に師事し、民家研究のための農村調査に同行して、やがて『日本の民家』(一九二二年)にまとめられることになる農村風景をスケッチしていた。関東大震災を契機に、そのまなざしは崩壊した都市の光景に向けられることになる。当時の状況を今は一九二七年の「考現学とは何か」で次のように回想している。
「それは大正一二年(一九二三年)の震災のときからであった。しばらく私たちは、かの死の都から逃げだしてしまった芸術家たちと同じようにぼんやりしていた。しかし私たちはそのときの東京の土の上にじっと立ってみた。そしてそこにみつめねばならない事がらの多いのを感じた。私たちは、すくなくとも私自身は、そこでまがりなりにも営業者としてのペンキ屋をはじめ、また小さい調べものをやったりして、毎日焼野の上をさまようた。私が眼にみるいろいろのものを記録することを喜んだのはそのころからである。そこで人びとの行動、あらゆる行動を分析的にみること、そしてそれの記録のしかたについてくふうすること、そんなことが、あの何もない荒れ地の上の私を促したのである。もちろんそれ以前、山のなかや不便な田舎の土地でいろいろな記録をつくる仕事に相当なれていたのだから、ちょうど、それらの環境でやったのと同じ気持ですすめたわけである。地震前までは、大都会における事物の記録作成ということはあまりに錯雑なので、手に負えないものだと考えねばならなかったのだった。が、原始的な状態にかえったあの当時の東京では記録作成が容易であると考えられたのである」★一。
〈ペンキ屋〉と呼ばれているのは今たちが始めたバラック装飾社のことであり、焼け跡に建てられたバラックにペンキで絵を描いたり、ありあわせの材料で装飾することを仕事としたという。滝沢真弓らの分離派がこのような行為を建築の真実ではないものとして批判したのに対して、今が、建築の真実は〈表皮〉にしかなく、自分たちは世相風俗の表皮に漂うものをとらえようとしているのだと応じたのが、いわゆる〈バラック建築論争〉だった。考現学は都市の〈表皮〉に踏みとどまり、そこに現われては消えていく現象を分析的に記録・収集する営みであろうとしていた[図1〜3]。
その対象とは「都会における各種の人びとの各種の場合における歩速度や歩き方、腰のかけ方やすわり方、身体の細部における癖、街路上における通行人の構成、それにつれて起こる露店ならびに商店街の構成、公園の散歩者、各種の行列、演説会の光景、議場の光景、荷揚げ人足や道路工夫の活動ぶり、野や道における農夫、漁師の仕事ぶりや休養の状態、お祭りの人だかり、カフェーの一隅や劇場の廊下、スポーツ観覧席など」と★二、限りなく多様であり、その方法とは、「考古学においてもっぱら古代の物になされてあるように、現前の風俗に直接ぶつかり、それの観察、筆記、スケッチ、写真、などで材料の採集をやり、それらを収集することから出発する」という★三。それは徹底して現象の表層にまなざしを滑走させ、風俗を採集し、統計をとることによって、その多様性と差異を分類しようとしていた。いわば考現学とは、探し求めるべき犯人を欠いた、無目的な探偵の捜査活動なのであり、この探偵は〈犯罪〉という主題の不在を埋めようとするかのように、都市、都市生活の表皮に残されていく束の間の痕跡の数々を狂ったように収集し続けるのである。殺人あるいは窃盗といった、推理小説を駆動させる主題がそこにない以上、この探偵は自分が拾い集め、蓄積した証拠の記録からなにかを推理することなどできない。いや、むしろそこでは推理が一定の結論へと向かって収斂していくことができずに拡散してしまうため、探偵は途方に暮れて、痕跡収集を反復するしかない。茶碗の欠け方、井の頭公園の自殺場所の分布、下宿学生の持ち物調べなど、どのような意味づけも可能であるような記録は、逆にあらゆる意味を欠いたまま、抽象化された体系といった〈深層〉への沈潜を妨げてしまう。
考現学は英語でModernology、エスペラントでModernologioと命名された。この言葉が示すように、それは文字どおり〈モダンなものの学〉だった。しかし、また一方でこの学は、考古学の研究方法を現代生活に対して適用したものであるともいわれている。考現学が記録するのは確かに現代の都市生活である。しかし、その記録者はあたかも考古学者のように、現在を遠い過去として記述する。ここには、〈現在〉をつねにすでにはるかな〈過去〉としてながめる、モダンな時間意識に特有の二重性がありはしないだろうか。モダンな時代においては、この二重性が絶え間ない〈新しさ〉の追求という反復強迫を生む。そこにおいて時間はいわば断片化され、先行する瞬間と現在とは無限に隔たっている。
それに対して、記録することとは伝承すること、時間的な隔たりを超えて再び読まれ、理解されることを求めて物語ることである。考現学が記述する、無意味ですらある、はかない現象の数々は、記録されること、その行為そのものによってはじめて、伝承の時間、歴史の時間のなかへと入り込む。考現学の記録者はこの行為によって、都市に暮らす自分自身を含めた人間たちの生の痕跡を消滅から救おうとしていたのだということもできるだろう。今の師の柳田國男は「自分は現代生活の横断面、すなわち毎日我々の眼前に出ては消える事実のみに拠って、立派に歴史は書けるものだと思っているのである」と述べている★四。野家啓一は柳田の物語論のなかに、〈小さな物語〉のネットワークとしての歴史という構想を読み取っているが★五、考現学もまた、彼の〈歴史のミクロロジー〉のまなざしをいくばくかは共有していた。東京という都市そのものが、絶えず記憶痕跡を消し去りながら断続的に変化するモダンな発展の段階に入っていたことを今和次郎たちは感じとり、都市の記憶を── ただし、それは自己同一性を保証するような秩序だった物語ではなく、かりそめで錯乱した出来事の連鎖である── 保存する道をそこに求めたのだといってもよいかもしれない。従って、それはアナクロニックに先取りされた都市の〈廃墟〉の発掘であり、〈現在〉という時間の考古学なのである。
都市の公共空間において私人の占める場所が失われるとともに、それに反比例するかのように、室内=個室が私人の個人的な幻想に満たされた宇宙になる過程を、ヴァルター・ベンヤミンは推理小説が生み出される背景と見た。「居住者の痕跡も室内に残る。この痕跡を追跡する推理小説も生まれてくる。……最初の推理小説の犯人は、上流紳士でもなければ無頼漢でもなく、市民層の私人である」★六。だからこそ、推理小説においては〈密室トリック〉が絶えず反復されることになる。日本では一九二〇年代が推理小説というジャンルの成立期であり、それは江戸川乱歩の代表作「二銭銅貨」、「D坂の殺人事件」、「屋根裏の散歩者」、「人間椅子」、「パノラマ島奇談」などがみなこの時代に執筆されていることが示している。そして、これらの推理小説の言説空間と一九二〇年代東京の都市空間との相関関係については、例えば松山巌の江戸川乱歩論『乱歩と東京』が鮮やかに描き出している。
密室トリックに関わって、推理小説には説明のための図がしばしば挿入される。それらを連想させるようなものとして考現学の資料には、先に触れた下宿学生の持ち物調べや「新家庭の品物調査」、「住居内の交通図」、あるいは「文壇諸家の書斎採集」、「文壇考現学──作家の書斎を見る」といった[図4]、微に入り細をうがった〈室内〉の観察記録が含まれている。今和次郎たちは路上ばかりではなく、室内にも探偵の微視的なまなざしを向けていた。武田信明は『〈個室〉と〈まなざし〉──菊富士ホテルから見る〈大正〉空間』で、このような〈図〉の頻出が、推理小説ばかりではなく、〈大正文学〉全体に通じる特徴であったことを指摘している★七。佐藤春夫の「美しき町」、宇野浩二の「夢見る部屋」[図5]、稲垣足穂の「私とその家」などの〈図のある小説〉のうちに武田は、周囲から隔絶し限定された〈理想〉の空間の偏愛と、そこに対する欲望の投射の構造を読み取っている。それはまた、大正文学の書き手たちが、本郷・菊富士ホテルの〈個室空間〉に好んで宿泊し、そこで小説を執筆したという事実にも関係している。さらにそこには、居住空間の改善によって日本人の生活形態を変えようとした当時の住宅改良運動の、住生活の細部に注がれたまなざしと通底するものがあった。事実、今和次郎は一九一九年に文部省主導によって結成された「生活改善同盟会」の委員を務めている。武田はこの組織の発足は前年の全国的な米騒動を動機としていたと見る。つまり、そこにおいて〈生活改善〉は、生活空間のすみずみにまで管理の視線を行き渡らせることによって、国民秩序の安定をもたらそうとする都市行政の思想と連動していたことになる。〈国家〉という空間を、官公庁や議事堂の布置を中心とする都市計画を通じて可視化した〈明治〉とは異なる、〈大正〉における都市空間の〈問題〉性がここにある。
「〈明治〉という時間のなかで成立浸透していった〈日本〉という抽象の空間は、日露戦争期を指標にほぼその過程を完結させる。その継続的展開として、あるいは〈国民国家〉という虚構を、より精度の高い虚構として〈現実化〉させるために、次なる〈大正〉は新たな空間を焦点化させるだろう。ひとつは、植民地という広大な外部の空間であり、もうひとつは、国家の内部を解剖学的に検証してゆくまなざしによって顕在化される都市の空間である。〈大正〉が、〈世界〉や〈人類〉という極大と、〈自我〉や〈個室〉といった極小の、一見相反する二極への志向を共存させているのは、そのためである」★八。
考現学もまた、この〈大正〉空間のなかに書き込まれていた。しかし、それは微視的な政治のレベルにおける権力の物語と接しつつ、都市の表皮的な現象の自己目的的な記述に徹底してとどまることによって、〈大正〉的言説一般の空虚な抽象性を免れている。だが、遊民のまなざしが記録する、無目的な探偵行為としての考現学が持っていた都市に対するこの批評的な緊張関係は、大震災の復興が進行する東京の、〈大正〉から〈昭和〉へかけての過渡期においてのみ、実現可能であったといえるかもしれない。東京の再建がなった一九三〇年前後にはすでに、今たちは考現学の活動から離れていく。考現学とは、関東大震災という都市の破壊によって垣間みられた、都市の〈表皮〉の千変万化する表情の記録である。その批評性が再発見され、〈路上観察学〉へと形を変えることになるのが、一九七〇年代後半から八〇年代前半という、バブル経済直前の、いわば別の形態における都市の終末の予感のなかであったことは理由のないことではない。

1──今和次郎・吉田謙吉編『考現学』より

1──今和次郎・吉田謙吉編『考現学』より

2──同「1925年東京銀座街風俗記録」

2──同「1925年東京銀座街風俗記録」


3──同「カケ茶碗多数」

3──同「カケ茶碗多数」

4──「吉田謙吉による江戸川乱歩の書斎」

4──「吉田謙吉による江戸川乱歩の書斎」

5──宇野浩二「夢見る部屋」

5──宇野浩二「夢見る部屋」

2 都市と〈物件〉── 路上観察学のニヒリズム

路上観察学は、〈前衛〉芸術家赤瀬川原平の一連の〈芸術〉活動、特に〈超芸術〉という発想を核として生まれた。「首都圏清掃整理促進運動」などの一九六〇年代初頭におけるハイレッド・センターの路上パフォーマンスや千円札〈偽造〉事件をはじめとして、赤瀬川は、〈作品〉に回収されない〈認識〉としての芸術行為という、マルセル・デュシャン以来の〈前衛〉の理念のきわめて正統な継承者であり続けてきた。デュシャンのレディメイドがいまだ、それを芸術作品として認識した〈作者〉の署名によって芸術作品として登録されるものであったことをさらに越えて、〈超芸術〉は徹底した無作為性と作家性の消滅を原理とする。作家の〈表現〉としての芸術の終わりが確認されたのち、赤瀬川とそのグループは、路上にいかにも現代芸術の作品であるかのようなオブジェを発見する〈現代芸術ごっこ〉のなかで、〈分譲主義〉というアイデアを得たという。それは廊下や風呂場といった住居の構成単位を分割して、遠く隔たった土地に配置して分譲するという着想だった。仕事場は都心にあり、台所は地価の安いところに、廊下は杉並区に、風呂は江東区にといった具合である。このような概念上の思考実験を行なっていたときに、彼らは一九七二年に四谷で、のちに〈純粋階段〉と名づけられることになる〈物件〉として、この分譲主義が都市のなかに実現されていたことを発見してしまう[図6]。階段が通じていた入り口が塞がれたために、昇降運動だけを残して他の機能がまったく失われた〈純粋階段〉の無用性が、〈超芸術〉(三振を繰り返すばかりだった読売巨人軍の元大リーガーの名をとり、〈トマソン〉と呼ばれた)の特徴であり、そこからさまざまな超芸術のタイプが発見されていくことになる。例えば、人の出入りを拒む〈無用門〉、ぴったり隙間を塞がれた無用空間〈エコダ〉(江古田駅で最初に見出されたことに由来)、建物の壁面に付着する用途不明の団塊、出っ張り〈カステラ〉、本来その下にかばうべき物を喪失したにもかかわらず残存する〈庇〉、道路・建物の脇に並ぶ用途不明の突起物〈アタゴ〉(愛宕で発見されたため)、撤去された物体が隣接する壁面に遺した原寸大の影〈原爆〉[図7]、有名な猟奇事件の技法に倣って切断された電信柱、樹木といった〈阿部定〉などであり、このように列挙するなかにも、機能的・効率的な近代的都市構造には所属しない、当該〈物件〉の無用性と無目的性こそ、超芸術の必要条件であることが示されている。
「トマソンとは町の各種建造物に組み込まれたまま保存されている無用の長物的物件であり、それがトマソンであるか疑似トマソンであるかの判断は、さらに町の微細な観察を強いることになっていった。すなわちトマソンは、人間の動きと意志と感情と経済のすべてを算出して除去したところに取り残されてあらわれてくる物件であり、以後トマソン探査を契機としながら、その途上で人の世の生態と構造のディテールが考現学的に観察されていくことになる」★九。
一九六〇年代末に今和次郎たちの考現学を知った赤瀬川とともに、七〇年代の初頭から日本近代建築調査のフィールドワークである〈建築探偵団〉を開始した藤森照信たちも、考現学に関心を寄せ、影響を受けていた。彼らの活動が一体化して〈路上観察学会〉が設立されたのは一九八六年であり、同年にはそのマニフェストというべき『路上観察学入門』が筑摩書房から刊行されている。そこに収められた「路上観察の旗の下に」で藤森は、路上観察の近くに位置しながら異なる〈目玉〉のあり方として、〈空間派〉の存在を指摘している。その一派には長谷川堯の『都市廻廊』、前田愛の『都市空間のなかの文学』、陣内秀信の『東京の空間人類学』といった都市論が含まれていた。
「空間派は、掘割にならぶ倉や護岸の石垣や石段、そうしたものが水の流れと一つになってかもす水辺の空間に注目する。そうした空間には視覚的印象を一つにまとめあげる秩序が隠されているから、その秩序を読み解こうとする。〈都市を読む〉とか〈コードを読む〉というのが空間派の必殺技で、方法的には記号論に近い。そして、読んだ結果何が見えてくるかというと、きまって古き良き秩序が見えてくる」★一〇。
空間派が近代以前から存続してきた伝統的な都市秩序を──江戸情緒や界隈のにぎわいといったものに対するノスタルジーなしにではなく──〈読む〉ことを通じて、現在の都市に対する批評的な距離を得ているのに対して、路上観察を特徴づけるのは、空間に内在する秩序よりも、個々の物件そのものへの注視であると藤森はいう。「この物件オブジェ感覚の立場からいうと、近代以前の全面秩序、全面空間の時代というのは、個別の物件が全体の中に埋没してしまっていてあまり面白くない。刺激がうすい。全体の中に組み込まれた物体がオブジェとして露頭を現わすのは、全体の秩序からズレてしまった時に限られるようだ。どうも物は、空間──全体秩序の視覚的別名──からはみ出した分だけ物になるらしい」★一一。
〈物件〉とは非伝統的であると同時に、機能主義的な都市計画に回収されていないという意味において非近代的でもあるという二重の否定性を負った、近代都市の鬼子めいたガラクタたちである。それは近代都市が生活の細部のレベルで生み出してきた微妙な〈ズレ〉であり、そこには計画的な意図が徹底的に欠如している。あるいは意図からのズレこそが、物体を〈物件〉にするのであり、従って、路上観察の〈物件〉とは計画的に作り出されたものではありえない。そこでは人為的な〈計画〉の論理を逃れ出る〈自然〉な成立過程こそが評価されているのである。おのずから生み出されてくる、人間の意図の欠如した〈物件〉とはいわば、都市〈計画〉を絶えずすり抜ける〈自由〉の可能性の象徴なのだ。「空間派が、調和ある全体性への回帰願望を心に秘めているのに対し、物件派は、予定調和的な全体からの逸脱に、最後の自由を賭けている」★一二。隅々まで計画済みであるかのような都市構造のなかに、その秩序を喰い破るようにして生成してくる新たな〈自然〉が、〈ズレ〉としての超芸術的な〈物件〉なのである。
超芸術や路上観察は、都市風景の新たな見方を提示することによって、広範な関心を呼び起こした。路上に無造作に残された無用物が、一種の〈見立て〉によって超芸術的物件として発見、分類され、その情報の共有経験が、無目的であるがゆえに、面白がられもした。超芸術のグループにしろ、路上観察学会にしろ、粋人の集いといった趣がなかったわけではなく、そこでは無意味さを自己目的的に〈面白がる〉ことが喧伝されさえした。しかし、トマソンや路上観察による都市観察は、無用物の無意味さをそれ自体として問題化したというよりも、〈見立て〉による記号化を通じてそれらを分類・体系化していたのであり、いわば無意味で愚かな〈物件〉を有意味な〈記号〉へと回収し続けていたわけである。南伸坊の『ハリガミ考現学』に見られる都市の記号的表層への関心を顕著な表われとして、確かにそこで注目されるものが、意味の読み取りの容易な記号ではなく、異常であったり、脈絡を欠いた表現であったにしても、そして、深層の秩序を裏切る〈表皮〉の現象の過剰さこそがそこで肯定されていたにしても、路上観察は都市を〈読む〉対象として消費する、八〇年代の記号論の流行と決して無縁ではなかった。路上観察学とは、狂ってはいても、一つの都市記号論にほかならない。
〈学〉と名づけながら、学問であることの擬態こそを楽しもうとする身ぶりにもかかわらず、『路上観察学入門』全体のトーンは明るくも軽くもない。むしろそれは過去へ回帰することも未来への展望を持つこともできずに爛熟し頽廃した、薄明の終末期の気配を漂わせている。赤瀬川は考現学の起源に関東大震災があったことに対応させて、一九七〇年代初頭の〈体制破壊の波〉が路上観察学を生み出すきっかけではなかったかとしている★一三。しかし、一九八〇年代半ばという、この書物が編まれた時代について述べるならば、むしろそこに収録された座談会における松田哲夫の次のような発言こそが、的確な時代認識を示していたように思われる。

松田 そういう意味で言えば、今さんたちの考現学というのは、震災後の天地創造の時期で、今の路上観察はある意味では終末期というか、崩壊期ですね。
赤瀬川 あの時は崩壊から創造だもの。
松田 今の東京というものの骨格は震災でできたということですね。それが戦災で消え、高度成長で消え、いま都市再開発という形で、下町的なもの古いものが全部消えそうになっているわけでしょう、西洋館も含めて。そういう意味では、東京の町ということを都市論的に言うと、いまは一つの終末期ではあるわけですね。
藤森 あるある。街を歩いていて僕が一番おもしろいと思うのは、さっきも言った国会議事堂の裏とか、ああいう何か時間が停止したようなね、終末のにおいがするというか★一四。


事実としてそれが終末期であったことは、その後の東京の命運が明らかにしている。この終末にあたって、都市のここそこで有用性のネットワークのほつれのように出現する超芸術的物件を、何のノスタルジーもなしに観照しようとするまなざしは、ニヒリスティックなものにならざるをえない。しかもそれは受動的なニヒリズムだ。なぜならそこでは都市の局部的な崩壊が、自然現象としてひたすら〈観察〉されるだけであるのだから。〈自然〉な崩壊過程とはデカダンスの歴史感覚そのものである。路上観察が一種の記号論であり、都市の読解であったにしても、それが偏愛した都市のかけらたちは、廃墟の美学におけるように、ある美意識の下に評価されていたというわけではなく、そのような美的評価も含めて、あらゆる意味づけを失効させる〈無意味さ〉それ自体においてこそ、都市という〈全体〉から逃れでようとする欲望の対象になりえていたことは間違いない。しかし、その欲望には破壊への意志も創造への意志も欠けている。というよりも、意志の否定においてこそ、〈超芸術〉は生まれたのだった。
ニーチェに言葉を借りていうならば、何も意志しないよりもむしろ無を意志すること、いいかえれば、超芸術的物件という非都市的存在のその否定性を拠点にして、〈全体〉の構造を反転させる思考こそがそこで可能ではなかっただろうか。例えばバラックを建築における最も現代的な〈作品〉と見なし、その投げ遣りな荒廃ぶりに、人間から見放されて孤立化した〈もの〉のあり方の根源的な姿を見取った鈴木了二のように。「バラックのファサードは、周辺をはぎ取られることによって露出した都市の切断面なのだ。中断とは不意打ちであって、その切り口には〈中心〉がないのである」★一五。路上観察においてであれば、〈原爆タイプ〉と呼ぶであろうバラックの姿は、不意打ちされた都市が中断することによってさらけ出した裂け目にほかならない。バラックが建築物であるのは、登記簿上の不動産権利書における〈物件〉としてのみである。このように〈基礎〉、すなわち土地の占有という〈運搬不可能性〉においてだけ存在理由を持つバラックは、現代都市における建築のあり方を逆方向から示している[図8]。
「建築の基礎、つまり表現の基礎が、建築それ自体とは何の関係もない土地占有をめぐる利権闘争の対象となり、切り札にまでなり果てたことは、ほかならぬ建築の、最後的零落を象徴的に示していよう。もはや建築は基礎的条件を持った本来の建築ではないのだということを、このバラックは逆方向から、地底から、すなわち〈基礎〉そのものの地点から指し示しているのだ。建築のみならず、〈基礎〉を失ったすべての表現ジャンルは、この物件化の巨大な洪水の中で、押し流され、浮遊し、宙に舞い、その中で空疎な乱反射を派手に、しかし退屈に繰り広げているのではないか」★一六。
現代建築が形づくる都市風景の核心におけるこの貧しさゆえに、むき出しの最低地点であるバラックこそを、現代という時代の〈表現〉、あるいは〈作品〉と見なさなければならない。都市東京の〈全体〉からの〈自由〉が路上の〈物件〉にあるのではない。むしろあれこれの現代的新品建築がつねにすでに超芸術的無用物としての〈物件〉ではないのか。このような〈物件化〉に対する〈自由〉であれば、それは〈物件化〉が徹底された、建築の、都市の零度にまで沈降して、そこにおける〈基礎〉(あるいは〈基礎〉の不在)を問うという意志的な〈表現〉行為にこそあるというべきだろう。
八〇年代末以降、赤瀬川は裸眼立体視という、イメージ生成における身体的メカニズムの追究へと向かうことになるが、これはデュシャンに通じるきわめて正統的で古典的な〈前衛〉の問題機制だった。一方、藤森は本来の近代日本建築史というフィールドへ立ち返っていく。路上観察学の視線は、バブル経済以後の、新品であるにもかかわらず〈無用物〉と化してしまった高層ビル群が立ち並ぶ都市風景にあっては、それがマニフェストとともに展開された当時の都市に対する批評性をもはや失ってしまった。では、東京における〈路上〉の系譜は九〇年代にいたってどのように変質したのか。われわれはそれを『建築MAP東京』という書物の構成のなかに読み取ることができる。

6──トマソン第1号・四谷の純粋階段(赤瀬川原平『超芸術トマソン』より)

6──トマソン第1号・四谷の純粋階段(赤瀬川原平『超芸術トマソン』より)

7──原爆タイプ1 号。原寸大の二階屋の焼印(同書より)より

7──原爆タイプ1
号。原寸大の二階屋の焼印(同書より)より

8──標本建築としての「バラック」サンプルNo.2。(鈴木了二『非建 築的考察』より)

8──標本建築としての「バラック」サンプルNo.2。(鈴木了二『非建
築的考察』より)

3 地図としての東京──『建築MAP東京』の都市表象

一九九四年に刊行された『建築MAP東京』は、一九八〇年以降に竣工した現代建築五三六〈作品〉のガイドブックであり、そのすべてが〈設計者名〉併記で一万分の一のMAP上にプロットされている[図9]。その他、近代建築の〈名作〉や〈見ておきたい建築作品〉も同様にプロットの対象となっている。その冒頭にはこんな一節が書かれている。
「建築作品をプロットしていくうちに、東京にはこんなにも多くの作品があるのかと改めて驚かされました。まるで、〈東京〉という都市は多様化する建築のすべてが凝縮された〈現代建築博物館〉のようです。これだけの密度で、多くの建築家の新しい作品が実際に建てられている都市は、世界中でも東京だけかもしれません」★一七。
ここでは、建築物はあくまで〈設計者〉という作者を持った〈作品〉であることが前提とされており、それは〈建築家別作品めぐり〉というコーナーの存在によっても確認される。〈名作〉をはじめとして、見るべき価値があるものを選別する評価基準もまた疑われてはいない。一方、ここで東京の特殊性として無批判に述べられている状況とは、〈新品〉建築が次々と建てられて都市の表層を作り変え、建築界の流行が凝縮して表われるバブル経済時代の現象にほかならない。〈現代建築博物館〉東京において建築物とは展示品であり、ガイドブックを片手に歩き回ることによって、〈路上〉は博物館化されるのである。
このガイドブックの機能とは何だろうか。それは建築作品の鑑賞方法を手引きすることであり、建築の見方、読み方を教えることである。そのための教科書的記述としてこの書物には〈現代建築のポジション〉という一六のコラムが収められている。〈建築の多様性〉に始まるその言説は、建築物が内包する意味の〈多様性〉やそこにおけるさまざまな引用を読み解く建築的教養を与えることを目的としている。そこでは建築とはあくまで形態によって物語る〈言語〉であり、作家の意図やデザインの手法こそが建築作品の〈意味〉なのだ。
この書物に藤森照信は「東京は、現代建築の世界一の花園だ」という言葉を寄せている。〈花園〉の比喩の通り、ここには、〈都市の終末期〉を経て急速に東京が変貌した一九八〇年代中期以降、その変貌した都市の顔の、最も洗練された美しい側面だけが提示されている。廃墟も凡庸なビル群も、地上げされ放置された空き地も、無味乾燥な駐車場もここにはない。それらは〈現代建築〉という〈図〉に対する一様な〈地〉として不可視化されてしまっている。『建築MAP東京』は都市の建築を限定された〈建築作品〉へと還元することによって、東京の現在を表象しようとする。しかし、その〈花園〉とは、過去において都市が持ちえていた秩序や統一性を失い、狂ったように変貌し、あげくに荒廃をさらけだすに至った九〇年代の東京の、その崩れ果てた顔に施された薄化粧ではないのか。最終ページの茫漠とした、単色の東京の空撮写真こそが、そのイメージの薄っぺらさと茫漠さにおいて、都市の死に顔のはるかに忠実な記録となっているように見える[図10]。
『建築MAP東京』における都市表象の要をなすのは、すべて同じ縮尺の地図の上に建築物をプロットするという行為であり、そこにおいて東京は、さまざまな建築物が等しく並列される〈地図〉という均質な平面へと還元されてしまう。すべての建築作品は番号づけられ、等価に扱われる。この平面の上では、どのように多様な差異が建築物相互の間に存在しても、その差異はより根源的な次元で均一化されてしまっている。この平面が〈表象〉しているものこそ、あらゆる建築物の〈物件〉化(鈴木了二)であり、あらゆる建築物は資本の関数でしかありえないという、近代都市に内在していた退屈な/退屈さの論理ではないだろうか。ゲオルク・ジンメルは大都市における支配的な情緒が〈倦怠〉であること、そしてそれはさまざまに矛盾する刺激の、差異の過剰にこそ由来することを二〇世紀初頭に指摘していた。多様であるがゆえに価値は平準化される。無秩序は一様性にいたる。これが近代都市という〈完成されたニヒリズム〉(マッシモ・カッチャーリ)の論理である。「今世紀初頭の都市社会学は、都市の爆発的な拡大が持つ〈根こぎ〉の重要性を理解していた。これらの社会学において、大都市はあらゆる目的を欠いた計算的知性の隠喩として現われ、その〈神経生活(Nervenleben)〉は等価値な出来事の連続的継起のなかに埋没している。大都市の〈特性のない〉建築──完成されたニヒリズムの意識化されたイメージ──は場所というものが持つ特性を排除してしまう。そのプロジェクトにおいて、あらゆる場所は普遍化されたサーキュレーションや交換において等価で、時間と空間は算術的に(arithmetically)測定可能、分離・再構築可能なのである」★一八。
一九九〇年代の東京において建築が都市との間に持つ関係は、資本主義的大都市のこのニヒリズムの論理からいまだ自由ではない。『建築MAP東京』は、その〈花園〉の華麗さにおいてよりも、建築の〈地図〉への回収という身ぶりにおいてこそ、八〇年代終焉後にふさわしい書物であったというべきかもしれない。ここでわれわれが模索し続けているのは、このような〈地図〉の対極にある何か、建築〈作品〉の審美的評価基準を完全に失効させるもの、読み解かれるべき言語としての建築ではなく、言葉を失わせる茫然自失の場所である。そのためにはむしろ、現実の都市を第一次的な実在として前提する唯物論という形而上学を忘却することが必要であるかもしれない。あるいは逆に、都市空間という〈夢〉において立ち現われてくる、〈もの〉としてのイメージの物質性に依拠した〈唯物論〉こそが可能な方法論であるのかもしれない。
「バラックは建築の〈忘我状態〉である。バラック本人にしてからが、自分が建築であることなどとっくの昔に忘却している」と鈴木了二は書く★一九。非都市とは都市の〈中断〉であり、その〈忘我状態〉だ。それは自分が東京であることも、都市であることももはや忘れていることだろう。固有名の否定である〈非東京〉ではなく、〈非都市〉が問題であるのは、この忘我状態が固有名そのものの喪失を伴う自己同一性解体の経験であるからだ。鈴木による引用のなかでベンヤミンはこう述べていた。「ひとつの世界のなかでのどんな忘我状態も、補足的な世界では羞恥心を持ったしらふなのではないか?」──バラックとともに、バラックを通じて、非都市の存在論が目覚め出ようとするのは、この〈補足的な世界〉にほかならない。
(たなか  じゅん/ドイツ研究・表象文化論)

9──『建築MAP東京』表紙

9──『建築MAP東京』表紙

10──同書見返し写真

10──同書見返し写真


★一──今和次郎(藤森照信編)『考現学入門』(ちくま文庫、一九八七年)、三六一頁─三六二頁。
★二──同、三六六頁。
★三──同、三六六頁。
★四──柳田國男『明治大正史世相篇』、『柳田國男全集』第二六巻(ちくま文庫、一九九〇年)、九頁。
★五──野家啓一『物語の哲学──柳田國男と歴史の発見』(岩波書店、一九九六年)。
★六──ヴァルター・ベンヤミン(三島憲一・今村仁司ほか訳)『パサージュ論 I』(岩波書店、一九九三年)、一九頁。
★七──武田信明『〈個室〉と〈まなざし〉──菊富士ホテルから見る「大正」空間』(講談社選書メチエ、一九九五年)、一八三頁─一八四頁。
★八──同、一六四頁。
★九──赤瀬川原平ほか『路上観察学入門』(筑摩書房、一九八六年)、五頁。
★一〇──同、一六頁。
★一一──同、一七頁。
★一二──同、一八頁。
★一三──同、五頁。
★一四──同、一〇七頁。
★一五──鈴木了二『非建築的考察』(筑摩書房、一九八八年)、七二頁。
★一六──同、八二頁─八四頁。
★一七──ギャラリー間編『建築MAP東京』(TOTO出版、一九九四年)、「はじめに」。
★一八──Massimo Cacciari: Architecture and Nihilism: On the Philosophy of Modern Architecture. Yale University Press, New Haven 1993, p. 200.
★一九──鈴木、前掲書、七〇頁。

*この原稿は加筆訂正を施し、『都市表象分析I』として単行本化されています。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

>『10+1』 No.07

特集=アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点

>ヴァルター・ベンヤミン

1892年 - 1940年
ドイツの文芸評論家。思想家。

>松山巌(マツヤマ・イワオ)

1945年 -
小説家、評論家。東京理科大学理工学部建築学科、法政大学教養学部、東京芸術大学建築学科非常勤講師。

>宇野浩二(ウノ・コウジ)

1891年 - 1961年
小説家。

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>鈴木了二(スズキ・リョウジ)

1944年 -
建築家。早稲田大学教授(芸術学校校長)。鈴木了二建築計画事務所主宰。

>建築MAP東京

1994年8月1日