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八×八の迷宮──ゲーム空間の変容 | 松浦寿輝
Eight-by-Eight Maze: The Metamorphoses of Game-Space | Matuura Hisaki
掲載『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点, 1996年11月20日発行) pp.2-15

ゲームの上演

大英博物館の円形閲覧室が完成した年の翌年に当たる一八五八年のとある晩、まだ二〇歳を出たばかりの一人のアメリカ人が、パリのオペラ・ハウスの桟敷席でチェス盤の前に座り、「パリの名士連トウー・パリ」とも言うべき盛装した紳士淑女たちの好奇のまなざしを浴びていた。前年に開催された第一回アメリカ合衆国チェス・トーナメントで当時最強と言われたポールセンを破って優勝し、新大陸ではもう文字通り向かうところ敵なしとなったポール・モーフィー(一八三七─一八八四)が、ヨーロッパ遠征の途次、パリに立ち寄り、ブリュンスヴィック公爵とイズアール伯爵という二人の貴族を相手に、今日で言うエキジビション・ゲームを披露していたのである★一。
ドイツの名人アンデルセンとのチェス試合がモーフィーのパリ滞在の主目的だったのだが、ブレスラウを出立したアンデルセンがパリに到着するのを待つ間、ニューオルリンズ出身のモーフィーは、お上りさんの「巴里のアメリカ人」よろしくこの「一九世紀の首都」(ベンヤミン)の都市的娯楽を大いに楽しんだようである。オペラ・ハウスで行なわれたこのエキジビションも待機中の日々の出来事であり、モーフィーにとってこれは、プロとしての実力が試される真剣勝負というよりもむしろ暇つぶしを兼ねたサーヴィスといった性格の強い一夕の愉楽にすぎなかった。『セヴィリアの理髪師』と『フィガロの結婚』のさわりが一わたり演じられる中、モーフィーの妙技が披露されるというのがこの夕べのプログラムだったのだが、集まった観客たちがオペラの舞台そっちのけでむしろこのアメリカの天才青年という見世物を楽しんだだろうし、また、桟敷席で人々の注視に照れていたやや狷介な青年の方でも、モーツァルトのオペラやら劇場の凝った内部装飾やら華やかに着飾ったお歴々やらといった第二帝政期の享楽的な都市風俗の一端に触れて、結構ご満悦だったに違いない。しかも、彼はこのゲームを文字通りの離れ業でものにしたのだからなおさらのことである。
その後パリに到着したアンデルセンとの間でクリスマス休暇中に闘われた何局かのゲームは、もちろん近代チェス史の重要な挿話の一つをかたちづくっている。結果はモーフィーの圧勝で、これによって彼の名は欧州でも轟くことになるのだが、ただし、今日、名棋譜として多くの書物に引用されるのは、本命の対アンデルセン戦であるよりはむしろ、このブリュンスヴィックとイズアールを相手にしたエキジビションの方なのだ。図は白が第一七手としてルークをd1に動かしたところだが、モーフィーはここまでのところですでにナイトとルークを一個ずつ棄ててしまっており、大きな駒損になっている。ただ、この白側の速攻のサクリファイスによって、黒はキングが中央に釘付けになったまま露出させられており、またキング側のビショップとルークを展開する暇がないので、この二つの黒駒は死に体となったままだ。ここでモーフィーは、黒のキングを守っているルークを剥ぎ取った後、b8の枡目での劇的なクイーンの只棄てによって、文句なしのチェックメイトを達成することになる[図1]。速攻型の天才としてのポール・モーフィーの真骨頂が示されているゲームであり、鮮烈このうえもないこの詰めの手順は、以後、何百冊ものチェス書籍のページを飾ることになる。フランク・J・マーシャルがこのゲームに「あらゆる時代を通じてもっとも有名なゲーム」という形容を与えているのは、理由のないことではないのである。
一九世紀半ばのパリの劇場で演じられた一夕の出来事をめぐってやや詳細な言葉を費やしてみたのは、言うまでもなく、単にチェス遊戯の歴史に対する関心から発するものではない。ここまでのところ図書館閲覧室に読者として閉じ籠もっていたわれわれが、今、ふとその外へさまよい出て、同時代のパリの劇場の観客席に紛れこんでみると仮定してみよう。当時の劇場は、今日のオペラ座やコメディ・フランセーズでも或る程度までそうした遺風が残っていることで容易に想像がつくように、舞台を見に来るというのと同じくらいの比重で自分自身を見せに来る盛装した観客たちの集まる空間だったわけであるが、この晩、ブリュンスヴィック公爵の貸切り桟敷席に座っていた若いアメリカ人が、劇場空間の内部を種々様々な方向に交錯する視線の戯れの、焦点の一つをかたちづくっていたことは間違いない。そのとき、人々のまなざしを惹きつけていたこのチェス・ゲームのうちに、というかむしろ、上演されたゲームというこのスペクタクルを構成する諸要素の空間的配置のうちに、あの二律背反的な「知の主体」としての「人間」の運命が、或る程度まで再現=再演されていはしないだろうか。

1──白=モーフィ、黒=ブリュンスヴィック、イズアール。パリ、1858年。 上図は白の14. Rd1まで。この後、14.……Qe6──15. B×Rd7+ N×Bd7──16. Qb8+!!  N×Qb8──17. Rd8++ まででチェックメイトになる。

1──白=モーフィ、黒=ブリュンスヴィック、イズアール。パリ、1858年。
上図は白の14. Rd1まで。この後、14.……Qe6──15. B×Rd7+ N×Bd7──16. Qb8+!!  N×Qb8──17. Rd8++ まででチェックメイトになる。

プレイヤーは「無限」に挑戦する

実際、チェス盤上にも明らかに「無限」が露出している。チェス・プレイヤーが身を置くのもまた、ほとんど「無限」そのものに等しい厖大な順列組合わせからなる手筋の迷路にほかならないからである。どこまでも限りなく分岐してゆく手筋の網の目の内部に囚われている二人のプレイヤーは、相手より先の何とかその出口に辿り着こうと必死になる。敵の王の捕獲がその出口をなすことになるが、プレイヤーの「知」の射程が或る水準に及ばなければ、彼はもちろん出口に至り着く前に斃れ、想像上の死を迎えるほかはない。ゲームの規則に忠実であるかぎりにおいて、彼には「無限」の選択肢の中からどれを選ぶことも許されているが、しかしこの自由がいわば最大の桎梏となってプレイヤーにのしかかることになるのである。ここでの逆説は、その事実上の「無限」を創り出している装置の構成要素が、たった八×八で六四個の枡目と、そこに並べられる三二個の駒だけでしかないという点だろう。道具立てとしてはこれほど簡素なものもないと言っていいのに、組み合わされて分岐してゆく手筋の錯綜によって盤面上の形勢は千変万化の変異を示すのであり、プレイヤーは、その「無限」の変異のさまをどこまでコントロールできるかという試練でその「知的」力量が試されることになる。
正方形のチェス盤はいわば「知」の戦場であるが、そこでの闘いとは、たった六四個の枡目の上に配されたたった三二個の駒という、物理的には「有限」そのものの空間構成のうちに表象されている「無限」に対して挑まれたものである。超越的な「無限」それ自体が敵なのだ。二人のプレイヤーが互いに互いを敵として闘うという側面もむろんないわけではないが、それよりもむしろ、それぞれのプレイヤーが、「無限」を内包する超越的論理の抑圧からみずからを解き放とうとして闘い、その目的を達成するまでの早さを競っているのだと考えた方が、この遊戯の実情に近いように思う。
「無限」を支配し統禦しようとすること。この野望を抱きつつチェス盤に向かい合っているプレイヤーもまた、王の位置の空白を充填すべく登場したあの「人間=主体」の一人だと言ってよい。実際、それはまさしく「王」を仕留めることを究極の目的とする遊戯であるという事実それ自体がいかにも示唆的であるが、チェス・プレイヤーは、「無限」の統禦という不可能な使命を課せられた「主体」なのである。彼はその使命を、神とでも呼ばれるべき宗教的超越者がしろしめす蒼穹においてではなく、その「有限性」をむしろあからさまに誇示する内在平面上で遂行しようとする。ルールに則っているかぎりどんな手をうってもいいという点では彼はいわば全能であるが、二〇世紀後半のコンピュータならそうできるように盤上の変化の「無限」の可能性を何から何まで逐一計算し尽くすわけにはいかないという点では、或る無力感にうちひしがれずにはいられない。この全能とこの無力に引き裂かれてあるほかないという意味で、この遊戯者もまた「近代」的な「主体」の一人なのである。
もしも、「人間」の生とはそれ自体が最終的には「無限」を攻略しようとする闘いそのものであるとするならば、チェスは、他の多くの盤上遊戯がそうであるように、人生そのものの雛型を「有限」の盤面上に封じこめたゲームなのだと言える。チェスの名人が、あらかじめ準備したものの反復としてではなく、その時その場での発見した「知」のパフォーマンスとして実践してみせるコンビネーション・プレイは、「無限」に対して闘いを挑んだ「人間」の、奇蹟的とも言うべき華々しい戦略的勝利の瞬間の記念碑なのである。その意味で、モーフィーが鮮烈なメイトを決めた詰めの手筋には、或る「崇高」な美が宿っていると言ってよい。それは、いくぶん大袈裟に言うなら、「無限」に向かって伸び上がろうとする情熱──それは神たらんとする意志ではなくむしろニーチェのいわゆる「超人」の高みへ昇ろうとする意志と言うべきものであろうが──の、特権的な一表現なのである。
もちろん、長い歴史を持つチェス・ゲームそれ自体がとりたてて「近代的」な遊戯であるわけではない。古代インドを発祥の地とするチェスは、同じ起源から分かれた盤上遊戯がタイや中国や日本に移植されて今日なお有力な娯楽として生きつづけていることでもわかるように、それ自体として「西欧近代」と深い関係を取り結んでいるわけではなく、だから一八五八年のパリでそうした「超人」的な野心が突然出現したと考えるのは見当違いであろう。しかし、ここで重要なのは、モーフィーのエキジビションが劇場での見世物として演じられ、「一九世紀の首都」の都市的娯楽の一環をなすことになったという点だろう。これは個人の愉しみや趣味としてのチェスでもなく、誰が最強かを決定する競争トーナメントとしてのチェスでもなく、また知的カタルシスをもたらすことを目的として構成された論理パズルとしてのチェスでもない。この出来事は、人々の視線を楽しませることを目的として演じられた、スペクタクルとしてのチェスなのだ。一七世紀イタリアのグレコや一八世紀フランスのフィリドールといった過去の名人たちも、もちろんそれぞれ名棋譜を残しているのだが、一八五八年のモーフィーのエキジビションは、これらの名人が築き上げたような非歴史的な空間にそそり立つ抽象的真理のモニュメントとは異なり、人々の眼前で現在進行形で展開され、一夕の娯楽として消費されたスペクタクルであったという点で、そして──ここが重要であるが──そのようなものとして歴史に書きこまれ、今日まで語り伝えられているという点で、一九世紀西欧文化史の文脈の内部に位置づけたうえで都市論的な解読が施されうる出来事であったと言える。ここでは超越的な「無限」への挑戦が、見る/見られるという視線の劇として舞台上で演じられているわけで、その意味でモーフィーのパフォーマンスはフランス第二帝政期の都市文化を構成する一挿話としての資格を十分に備えているのだ。

円と四角形

今、大英博物館やパリ国立図書館に附設された巨大円形閲覧室の対極に、一八五八年のオペラ・ハウスの桟敷席でポール・モーフィーと二人の貴族とが囲んでいたチェス盤を置いてみる。一方は巨大な円であり、他方はそれに比べれば微小と言ってもよい正方形だ。しかし、この巨大な円とこの微小な正方形は、どちらもその内部に「知の主体」としての「人間」を召喚し、全能と無力、無限と虚無とに引き裂かれてあるほかない運命へと彼を誘いこむ、精神的な闘技場アリーナとしての共通点を持っていると言えるだろう。
二律背反の引き裂きは、むろん「主体」を責め苛まずにはいない。だが、ここに一人の英雄がいて、全能と無力との、無限と虚無との狭間でのこの立ち往生から、思いがけず優美な身振りの一撃でするりと身を振り解いてみせるのだ。ふと自軍のクイーンを手に取り、b8の枡目へそっと移すというささやかな身振りが、彼のみならずそこに居合わせた人々すべてに或る幸福をもたらす。実際、スノッブな観客たちばかりではなく、ゲームに負けた相手の二人さえ、悔しさよりはむしろ感嘆と茫然自失のただなかで或るカタルシスを感じたことは間違いない。「無限」を出し抜くこと。モーフィーの快挙とは、いわばそれであった。それを目撃した当夜の観客も、また一世紀半後になって何度も棋譜を並べ直し、そのたびごとに感嘆の思いを新たにするわれわれも、「無限」を攻略しようとする闘いの継続としてのみずからの生に、ひととき仮初の勝利が訪れたかのごとき幸福に酔うことができるのだ。
ところで、このモーフィーのパフォーマンスでもう一つ興味深いのは、彼が新大陸から来た外国人であったという点だろう。このパリ滞在時に彼と対戦したアドルフ・アンデルセンもまた前述の通りドイツ人であり、今日ではポーランド領となっている故郷の町のブレスラウで数学教師の職を生活のたつきとしていたのだが、大西洋を渡って来た新星と対決するために、馬車と列車を乗り継いでわざわざ花の都に上京して来たのである。アメリカ南部から来た弁護士志望の若者と、ヨーロッパの辺境と言ってよいシュレジエン地方から来た数学教師が、パリで出会う。その出会いのさまをフランス社交界の上流人士たちが興味深そうに見やるという図。これは一九世紀後半にパリで何度も開かれた万国博覧会や、そこに附設された植民地館、そして、その際、アジアやアフリカから実際にその土地の「原住民」を連れて来て見世物に供した興行企画などを支えていたメンタリティとも無縁でないはずだ。外国人のための存在する都市というパリの特質が、ここでもまたあからさまに再確認されると言ってよい。一九世紀のパリは、単にウィーンやロンドンと並んで西欧文明の核の一つをなしていたというだけのことではない。モーフィーの滞在中のパリは、セーヌ県知事オスマンによる都市空間の改編の真只中にあったわけだが、いわばこの時期以降、再編成された近代都市としてのパリは、外へ向かってつねに開かれ、国境を越えて訪れる他者の刺激によって自分自身を更新する無意識的なダイナミズムを絶えず発揮するようになる。一九三〇年代後半をパリ国立図書館に籠もって過ごしたベンヤミンも、このダイナミズムには十分以上に意識的だったはずである。
チェス盤の正方形はむろん宇宙的「無限」の雛型でしかないし、その上でどれほど気の利いたコンビネーション・プレイが演じられようと、それは「無限」に対する「人間」の決定的凌駕を証し立てるものではなく、そこでの勝利とはあくまで仮初のものでしかない。すべては上演された遊戯の中で起こっていることにすぎず、現実の出来事ではないのだからそれも当然と言えば当然のことだろう。だが、もしも遊戯が生そのものを喰らい尽くしてしまったらどうだろう。遊戯の強烈な存在感の前で実人生が色褪せてしまい、すべてがチェス盤の上で起こっていることのようにしか体験されえないとでもいった事態が身に振りかかってきたらどうだろう。

白い海図の虚無

ルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドッジスン(一八三二─一八九八)は、ポール・モーフィーよりたった五歳年長であるにすぎず、ほとんど同時代人と言ってよい。オックスフォード大学という「知」の小世界に閉じ籠もって生涯をおくったこのはにかみ屋の数学教師にとって、遊戯と人生との関係はまさしくそのようなものだったと言える。一八七一年に出版されたアリスの第二の物語、『鏡の国のアリス』を読み直してみよう。鏡の表面を通過した少女アリスがその向こう側で身を置くことになったチェス盤の国は、すべてが厳密な形式論理学の規則に従って進行すると同時に、そこに存在する記号たちの挙措に絶えず奇妙に肉感的なエロティシズムがまつわりついている(「ただ、この子の花弁がもう少しまくれ上がっているといいんだがね」等々)といった、途方もない小宇宙であった。垂直の境界は生け垣で、水平の境界は小川で仕切られたこの純粋平面の世界を、アリスは白のポーンとなって端から端まで横切ってゆき、第八列目まで行き着いたところでクイーンに昇格するのだが、その過程で進行する物語は、作者の手によって棋譜のかたちで書き直されている[図2、3]。
ルイス・キャロルの地理学について詳述すべき場所ではないが、「有限」によって表象された「無限」という観点に立った場合、この『鏡の国のアリス』のチェス盤と共鳴し合う四角形として何よりもまず引用すべきは、『スナーク狩り』(一八七六年)において、船長ベルマンが買ってくる海図であろう。謎のブージャムを退治するための航海に出ようとする一行にとっての貴重な道しるべを与えるこのチャートは、何一つ記載されていない真白な平面そのものである[図4]。

 「他の海図にはいろいろ書いてあらあ、ホレ島だ、ホレ岬だ!
 だけどわれらが船長に乾杯!
 (乗組員一同断言して)ほんとに最高のヤツをかまえてくれたぜ──
 正真正銘まっシロケの地図ときた!」(『スナーク狩り』)★二。


円環の廃墟ならぬ長方形の虚無がここにある。この海図の純白の輝きに、詩人マラルメが憑かれていたあの白紙の恐怖を想起するのも一興というものだろう。しかし、ここでの「白」は、無意識の深淵がぽっかりと口を開けている空洞ではなく、あの「ジャバウォッキーの歌」に代表されるような、徹底して表層的なノンセンスの戯れが繰り広げられる平板な表面でしかない。すべては、深さを拒絶する二次元の世界で進行するのである。そして、宮川淳が「底なしの深さのなさ」と呼んだこの表層的な虚無のただなかで「主体」が直面するのもまた、「無限」との闘いの一変奏だと言ってよい★三。
ただし、キャロル的「主体」の場合は、「無限」に対して生真面目な抗戦を挑もうというよりはむしろ、ノンセンスの一撃によって「無限」を──そして「無限」に対する恐怖を──一挙に虚構化してしまおうとするのであり、ベルマン船長の「真白な海図」のフレームをなす四辺形の枠線こそがこの虚構化の装置にほかなるまい。ミニチュアール化された「無限」という語義矛盾の倒錯が、この白い四辺形には露出しているのだ。虚構によってのみ可能となる倒錯ではある。「無限」とは、本来、「人間」の尺度を限りなく凌駕する現実の謂であり、枠線で括ることなど決してできないもののはずなのに、ノンセンスな遊戯の平面上でならばそれを不意に虚構の中に取りこむことが可能となるのだ。というのも、それはまさに「有限」の要素からなる道具立てによって「無限」が表象されるというア・プリオリな決まり事によって進行する遊戯であり、それが進行中の平面上では、たとえばクイーンをb8へというささやかな動作一つで、あるいはまた鉛筆を取って白紙の任意の一部分を四角く囲うといったささやかな身振り一つで、唐突に「無限」を捩じ伏せるといった途方もない虚構が可能となるからである。
ルイス・キャロルは、ほとんど無にも等しい支えしか持たないこの虚構がどれほど危ういものかということをよく心得ていた。「有限」による「無限」の表象という虚構は、髪の毛ひとすじの釣り合いで辛うじて現出するものにすぎず、それを生誕させうるのと同じくらい些細な身振り一つで容易に崩壊してしまうかもしれぬ。ところで、こうした表象作用の危うさそれ自体を、これもやはりとことん遊戯的に表象している挿話が、『シルヴィとブルーノ続篇』(一八九三年)に見出される。「真白の海図」ならぬ「世界大の地図」というハイパー=リアルな虚構がそれである。

2──『鏡の国のアリス』世界大のチェス盤 (テニエルによる挿絵)

2──『鏡の国のアリス』世界大のチェス盤
(テニエルによる挿絵)

3──『鏡の国のアリス』の物語の始まりの時点での駒の配置。白のポーンになったアリスはd2の枡目から出発して6本の小川を渡り、最終列のd8に到達し、クイーンに昇格して赤のクイーンを取り、勝つ。

3──『鏡の国のアリス』の物語の始まりの時点での駒の配置。白のポーンになったアリスはd2の枡目から出発して6本の小川を渡り、最終列のd8に到達し、クイーンに昇格して赤のクイーンを取り、勝つ。

4──真白の海図(『スナーク狩り』より)

4──真白の海図(『スナーク狩り』より)

地図と帝国主義


「……本当に役に立つもっとも大きな地図というとどれほどのものをお考えでしょうかな?」
「一マイルを六インチほどに縮尺したものでしょう」
「たったの六インチですと!」とマイン・ヘル氏は叫びました。
「わしらはすぐ一マイルを六ヤードに縮めた地図を作りましたぞ。次には一マイルを百ヤードで表わすものを。そしてついに最高最大のグッド・アイデアですわい! 国そっくり型にした地図ですわな、一マイルを一マイルに縮めた地図というわけのな!」
「使ってみて便利ですか」と私は尋ねました。
「何しろ広げられませんのじゃ、これが」とマイン・ヘル氏。「第一、百姓が反対しよりました。広げたら国中を覆ってしもうて日がよう射さんようになると言うのですわ。それで今は国をそっくり地図代わりにしております。これでも結構間に合っておるのですわい」
(『シルヴィとブルーノ続篇』)★四。


「地図が土地を表象する」というのが正常な事態であるはずなのに、表象するものが表象されるものと瓜二つであるために、「土地が地図を表象する」──すなわち、表象される現実の方が、表象する記号の方を翻って再度表象し直すという倒錯的な循環が生じることになるわけだ。枠線しかない海図に対して、ここで夢見られているのは、枠線を決して持ちえない地図──世界大に伸び広がってゆき、いかなる「有限」のフレームによっても囲いえない地図なのである。
元来、地図とはいったい何か。地図作成の技法が一九世紀に飛躍的な発展を遂げたのは、単に航海術の進歩や測量技術の精密化だけによるものではない。それは端的に産業主義と帝国主義のイデオロギーに支えられてのことだったのであり、とりわけ海外交通の場面で海図が果たした役割は、西欧の「先進」諸国にとって、侵略と搾取のための強力な兵器のそれにほかならなかった。帝国主義的なネーション・ステートは、一九世紀半ばから末にかけて、いわば世界を資本主義によって閉ざそうとした。既知空間の見取り図としての地図を拡張してゆくこと。辺境という名の余白を知識と情報によって塗りつぶし、境界を外へ外へと押し広げ、最終的には世界全体を表象する地図──「世界地図」を確定すること。こうした表象的欲望は、産業資本のマーケットをグローバル化しようとする近代資本主義の運動とパラレルだったのであり、そこにおいてもっとも合理的で利用価値の高い地図とは、「無限」と「有限」との間をほどよい釣り合いで調停している地理的表象のことでなければならぬ。無限定に膨張してゆこうとする現実を、ほどほどの縮尺でもって扱い易い大きさにまで縮小し、堅固な枠線で囲いこみ、その内部に封じこめて「人間」的に馴致すること。怪物的な「無限」をほどよく人間的な「有限」へと還元しようとするもの、それによって世界を「有限」の表象の内部に閉ざそうとするものが、ふつうの意味での地図なのであり、それは一九世紀的な帝国主義の論理とぴたりと同調して機能する装置にほかならなかった。
一九世紀半ば以降の西欧で、誰がいちばん早く、またいちばん上手に世界を閉ざすかという、いくぶん『不思議の国のアリス』のコーカス・レースに似ていなくもない競技が争われたのであり、この「ルールなきゲーム」の緊張が極点に達したところに出来しゆつたいしたカタストロフが第一次世界大戦であったと言ってよい。その意味で、ルイス・キャロルが提起したふつうならざる地図としての「真白な海図」や「実物大の地図」は、一九世紀的なネーション・ステートのイデオロギーそれ自体のパロディであり、その合理主義的な生真面目さに向けられた嘲笑だったと見ることもできる。これらのノンセンスな表象には、ほどよい縮尺と合理的標識によっては馴致しがたい「無限」が、遊戯的な虚構のかたちで暴力的に露出しているからである。この暴力性は、ほとんどあのポール・モーフィーのクイーン棄ての優雅さの別名のことでもあろう。全能と無力、無限と虚無との間に引き裂かれつづける「主体」は、或るときには優雅な一手のアクロバットによって、また或るときには白紙に長方形の枠線だけを引くといったノンセンスの一撃によって、この拷問めいた二律背反からするりと身を振り解いてみせるのだ。天才にのみ可能な離れ業である。
一九世紀的天才とは、二〇世紀のそれとはやや意味が異なって、この種の離れ業を行ないえた個体に賦与されるべき称号なのではないかと思う。モーフィー、キャロル、さらには「ふつうの意味での地図」を大幅に逸脱しつつアビシニアへ逃れていったランボーといった人々が天才なのであり、それに比べればディッケンズやフローベールやマラルメなどは、またアンデルセンや、やがてアンデルセンの衣鉢を継いで一八八六年に最初の公式世界チャンピオンの座を勝ち取ることになるオーストリアのシュタイニッツなどは、やはり真の天才と呼びがたいような気がしてならない。因みに、モーフィーは欧州の強豪を軒並み連破して帰国するが、チェス・プレイヤーとしての彼の選手生活は一八五七年から六〇年までの三年間だけに限られており、他のプレイヤーが結託して自分を負かそうとしているといった強迫的な被害妄想に駆られたことが原因で、六九年以後はチェスを指すことをいっさい拒否するに至った。弁護士を開業したがあまりに理詰めな性格のためアメリカの南部人気質とそりが合わず、成功することのないまま、八四年、脳卒中で四七歳の若さで逝去している。

オペラ座の光学空間

ところで、モーフィーのエキジビション・ゲームが行なわれた会場として先ほど何度かオペラ・ハウスと呼んだものは、もちろん今日残っているあのシャルル・ガルニエ設計のオペラ座ではなく、恐らく今はもう存在しないル・ペルティエ街のオペラ劇場のことであろうと推測される。いずれにしても一八五八年には、ガルニエのオペラ座はまだ存在していないのだ[図5、6]。
だが、見る/見られるという視線の劇に関するかぎり、一八六二年に着工して第三共和制期に入った七五年二月五日になってようやく完成を見るこのガルニエのオペラ座においてもまた、モーフィーのいさおしに匹敵する興味深い出来事が少なからず起こっていることは言うまでもない★五。そんな出来事の一つにこれから言及してみようと思うのだが、ただしわれわれがここで取り上げるのは、現実世界に起きた事件ではなく、まだ二〇代も前半のフランスの若い詩人が一八九六年に発表した、物語を欠いた小説とでも言うべき奇妙なテクストの中で描かれている虚構の観劇体験である。詩人と言ったが、実はこのとき彼はすでに「実存的」な選択として、詩を放棄しようという決断を下している。
反=詩人たることを選んだばかりのポール・ヴァレリーが、彼のいわゆる「純粋自我」の英雄のポートレートを描き上げようとして書いたと一応は言いうる「テスト氏との一夜」を、いったいどのように読んだらいいのだろうか。とりあえずは短篇小説の体裁を取りながら、鮮明なイメージを結ぶ客観的描写もなく心理的な一貫性への配慮もなく、ただこの謎めいた人物と語り手の「私」との交渉が中性的な文体で切れ切れに語られてゆくだけのこの特異なテクストは、いわば言語と意識をめぐる抽象的な寓話であり、ほとんど「ヌーヴォー・ロマン」を思わせる先駆的な試みとしても読める。だが、ここでのわれわれの興味は、頭(tête)だけに還元された存在としてのこのテスト(Teste)氏という虚構の登場人物もまた、アメリカの天才チェス・プレイヤーが数十年前にそうしたように、オペラ上演専門の劇場へ行き、その桟敷席に身を置いて、見る/見られるの視線の戯れに巻きこまれているという点にある。

彼がオペラ座の黄金の円柱に凭れて立っている姿が眼に浮かぶ、一緒に眼に浮かぶ。
彼は観客席しか眺めていなかった。穴の淵にいて、燃えるような広大な人いきれを吸いこんでいた。顔が赤くなっていた。
めくるめくような輝きの向こうには、何やら呟いている一群の人々がいて、私たちと彼らとの間を、巨大なブロンズの少女が隔てていた。水蒸気の奥には、小石のように優しい女の裸体の一片がきらめいていた。おびただしい扇が、めいめい勝手に、明暗こもごもの人々の上で生き生きと動き、高みに吊られた炎めざして泡立っていた。私の視線は、無数の小さな顔を読み取り、或る哀しげな頭部の上に落ち、また数知れぬ腕へと流れ、人々に沿って滑り、ついには燃え上がっていった★六。


テスト氏の眼前で、劇場に集った観衆たちは熱気と色彩に煽られ、流動的な匿名の量塊の中へ溶けこんでゆく。その集合的な意識のマッスが発する心理や感覚の泡粒は、炎のように燃え上がる天上のシャンデリアをめざして立ちのぼってゆく。桟敷席からこの「群衆」を見つめつづけるテスト氏は、一人孤絶しつつも、しかしこの寡黙な窃視の身振りそのものを通じて劇場の群衆空間に参与することになる。「他のすべての者たちの愚かしさは、何か崇高な物事が起こっているということを私たちに啓示していた。場内のすべての顔が作り出した陽光が翳り、死んでゆくさまを見つめていた。そして、その日がいよいよ暮れかけたとき、光がもはや輝きを失ったとき、これら無数の顔の放つ広大な燐光だけが残った」。このくだりでヴァレリーはオペラ座の内部を、色彩と炎の渦巻く光学的な極限空間として提示しており、そこでは、まるで廃墟を吹き抜ける風に煽られて舞い上がる塵埃のように、光と熱のかけらが煌めきながら散乱しつづけ、やがてすべては凋落し、暗がりの中に沈んでゆく。ベンヤミンは、一八六八年竣工のパリ国立図書館閲覧室をあたかも「書物の廃墟」のように提示したのだったが、ヴァレリーはここで、一八七五年に完成しているわけだからあの閲覧室と同時代の建築と言ってもよいこのガルニエのオペラ座の内部を、あたかも光の破片が舞い散る集合意識の廃墟として感受しているかのようだ[図7、8]。桟敷席に立つテスト氏は、この混沌とした光学空間に、ちょうどあの「知」の英雄のモーフィーがそうしたように、「主体」として、しかしこの場合は孤絶した「見ること」の「主体」として──「群衆」が囚われている「分類体系」を、「社会秩序」を、その「法則」を、彼一人だけは見通すことのできる、透徹したまなざしの「主体」として、参加しているのである。

5──ガルニエ設計のオペラ座(正面)

5──ガルニエ設計のオペラ座(正面)

6──オペラ座の大階段

6──オペラ座の大階段

「或る任意の……」

テスト氏は書物を所有しない。「本というものを持たなくなってから二〇年になる。自分の書類も焼いてしまった」と呟くこの反=読者は、書物や図書館によって代表されるような学究的な「知」の「崇高」さとはもちろん無縁の人物だ★七。そうした意味での「知」の不在は、オペラ座を出たテスト氏が「私」を伴って帰宅するアパルトマンの描写においても強調されている。そこには──

 ……本一冊見当たらなかった。テーブルを前にして、ランプの光の下、紙やペンが散らばる中で行う昔ながらの仕事のさまを示すものは、何一つなかった。薄荷の香りのする緑がかった部屋の中には、蝋燭の周りに、陰気で抽象的な家具しかなかった──ベッド、柱時計、鏡付きの箪笥、二脚の肱掛け椅子など、──まるで理性の存在のような。暖炉棚の上には、何冊かの雑誌、謎めいた文字がいちめんに書きこまれた名刺、それに薬剤の小瓶が一つ。私は、或る任意のという印象をこれほどまでに強く受けたことは、未だかつて一度もない。それは、或る任意の住居だった──諸定理の或る任意の点と相似の、──そして恐らくそれと同じくらい有用な、住居だった★八。


テスト氏の住むこの「家具付きアパート」は、図書館や劇場のような巨大な公共空間とはもちろんまったく異なる小さな棲み処である。そこには「無限」の概念を惹起するほどの本が詰まっているわけでもなく、光と熱の奔流に呑みこまれてゆくような匿名の「群衆」のマッスが蠢いているわけでもない。だが、ここはここで、やはり同様に、一八世紀以前にはありえなかったような「人間=主体」のための空間と言っていいものなのではないか。遍在する超越者への信仰に安住しえない「人間=主体」が、ひととき自分自身を慰撫し休息を取るための私的空間として、この「任意」の場所以上にふさわしいものがありうるとは思えない。どうやら株の仲買人であるらしいエドモン・テストは、社会階級から言えば、貧困にあえぐ労働者でも豊かな恒産のある貴族や大ブルジョワでもなく、文字通りのプチ・ブルそのものであり、その意味では大衆社会状況のもっとも典型的な担い手そのものだと言える。彼の住居がそうであるように、彼自身もまた或る任意の存在でしかなく、個性と呼びうるほどの個性もなく、いくらでも交換が利く社会的部品であるにすぎないのである。
「テスト氏との一夜」において、あの豪奢なオペラ座の内部とこの侘しいアパルトマンは、いわば相互に補完し合っている二つの空間なのだ。一方では匿名の集合性が、他方では交換可能の任意性が、エドモン・テストという名の「主体」を脅かす。だがその脅えは、実は安らぎと紙一重のものだと言ってもよい。「群衆」と「任意」は、テスト氏を苛立たせると同時に慰撫しもする奇妙に両価的なモデルニテの指標なのだ。彼は「群衆」から離脱し、孤絶した視線の「主体」たるべき位置を確保するが、しかし同時に、自分はこうでもありうるしああでもありうる、「私」でもありうるし「彼」でもありうるという任意性の権化であることを受け入れ、その灰色の任意性によってもたらされる悲劇的な倦怠に耐えつづけなければならない。もちろんその悲劇なるものが、ロマン主義的な宿命意識だの、聖別された昂揚感だの、「呪われた詩人」の孤独だのとは無縁のものであるという点は自明だろう。
「エミリー・テスト夫人の手紙」は、植物園をさまよいながら「学識豊かに死んでゆく……分類シツツ逝キヌ(Transiit classificando)」と呟くテスト氏の姿を報告している★九。この中性的な灰色の男が耐えている倦怠は、「最後」であることの意識と切り離しえないものであるかもしれぬ。全能と無力との間に引き裂かれてあることの苦痛が、彼の場合は或る重い倦怠のかたちを取ってのしかかり、その負荷が彼の動作を遅くし、「最後の人」としての自意識を導き出すのかもしれぬ。そうした自意識は、二〇世紀に入るや、たとえば文字通り『最後の人』と題されたブランショのレシに──むろんヴァレリー的なナルシス主義を徹底的に削ぎ落としたうえでではあるが──受け継がれてゆくこととなろう。
だが、モーフィーやキャロルがもはやそこに属さない二〇世紀的な「近代性」は、またそれに続く、二一世紀的と形容されるべきかもしれぬ「近代以後」の予見的ヴィジョンは、「人間=主体」に対して、群衆的な劇場とも任意の寝室とも異なる、今一つ別の空間編成を提供することとなろう。今や、オペラ・ハウスの桟敷席でのモーフィー対貴族のエキジビション試合は、許しがたいほど優雅に見えるがゆえに、われわれの裡には甘い郷愁と酸っぱい苛立ちの両方が同時にひたひたと満ちてくるかのようだ。百万局もの駒の配置を一秒かそこらで検索できるチェス布局のデータ・ベースを相手に、来る日も来る日も定石の向上に余念のない──そうした砂を噛むような単調な労働を強いられている──今日のプロ棋士たちには、一八五八年のパリのオペラ・ハウスでのモーフィーの優美な離れ業と社交的な快挙は、ほとんど「エデンの園」的なユートピアと見えるに違いない。では、二〇世紀末に身を置くわれわれの「知」の体系と運動にふさわしいゲーム空間とは、虚構化と表象の装置とは、いったいどのようなものなのか。

7──オペラ座の劇場空間

7──オペラ座の劇場空間

8──スペクタクル上演中のオペラ座

8──スペクタクル上演中のオペラ座

電脳空間のキング

この問いに対する決定的な答えを、まだわれわれは所有していない。ただ、ここではとりあえず、現代の画家ハインツ・オバインの《王》と題する絵に一瞥を加えるにとどめておく[図9]。そこではチェス盤を思わせる市松模様の床の上で、椅子にどっかりと腰を下ろした孤独な王様? が、コンピュータのディスプレイらしきものを見つめながら、薄気味の悪い笑いを浮かべている。本当の王様というよりむしろ、ひょっとしたらブリキの王冠を頭にいただき、借り物の真紅のガウンをまとったパラノイア患者か何かなのかもしれないが、ともあれ、パソコン端末を所有するこの自閉的な人物は、今やこのエレクトロニクス機器を介して、六四枡のチェス盤の外部との間にコミュニケーションの回路を開くことができるわけだ。ここには、八×八の「有限」の空間の内部に虚構化された「無限」が仕込まれているといったモーフィー=キャロルの一九世紀的な迷宮とは性格を異にする、二一世紀的な電子の迷宮の存在が示唆されている。チェス盤の正方形の枠線は、今ゆるやかに溶け出そうとしている。手品のようなからくりで「無限」を表象していた「有限」の空間フレームが、徐々に曖昧なものとなってゆく。内と外とを隔てていた境界線が稀薄化してゆく。この変容は、巨大円形閲覧室を備えた図書館が時代遅れのものとなり、インターネット経由の情報が国境を越えて自在に飛び交うことを可能にするような電子図書館、ないしヴァーチャル・ライブラリーの構想が「知」の空間の前面に迫り上がってくるといった歴史の進展と、正確に対応する出来事と言ってよいものだろう。
今われわれは、地球の裏側にいる相手と、互いにコンピュータのディスプレイを覗き合いながら、リアル・タイムでチェス・ゲームを行なうことが簡単にできる。また、実質的には「無限」とも思われた手筋のヴァリエーションをあっと言う間に検索し、評価し、勝率を計算してくれるプログラム・ソフトを持ってもいる。では、電脳空間で開催されるそうしたヴァーチャル・トーナメントの観客はと言えば、これもまた世界中に散在する「潜在的」な参加者として、おのおのやはり自分のコンピュータのディスプレイを孤独に覗きこみながら、名人同士のゲームの進行を時々刻々モニターしつづけることができるのである。盛装した紳士淑女が注視する中、オペラ・ハウスの桟敷席で繰り広げられたあの雅びやかな遊戯の典礼とそれを可能にした劇場空間の光学から、われわれははるかに遠いところまで来てしまったのだ。今日、「スペクタクル」や「エキジビション」といった概念それ自体に、ラディカルな意味の変質が強いられようとしているのだと言ってもよい。
ハインツ・オバインの画面で、薄暗がりの中、ニタリと頬を弛ませているこの太った老人は、張りめぐらされたエレクトロニクスの網の目の中心にじっと蹲り、獲物がその糸の一本に引っ掛かってくるのを待ち受けている邪悪な蜘蛛のような存在なのだろうか。
(まつうら  ひさき/表象文化論)

9──《王》(ハインツ・オバイン作)

9──《王》(ハインツ・オバイン作)


★一──多くの書物に紹介されている逸話であるが、たとえばIrving Chernev, The Chess Companion, Faber and Faber  1970; Faber Paper Covered Editions  1972. p.233 などを参照。
★二──ジョン・フィッシャー『キャロル大魔法館』(高山宏訳、河出書房新社、一三五頁)の引用による。
★三──宮川淳『鏡・空間・イマージュ』(『宮川淳著作集㈵』美術出版社)三五三頁。
★四──同右、一三六頁。
★五──このガルニエのオペラ座の歴史的=都市論的意義に関しては、渡邊守章『パリ感覚──都市を読む』(岩波書店)の第四章「劇場という装置」に詳述されている(とりわけ一五五─一六二頁を参照)。
★六──Paul Valéry,《La soirée avec Monsieur Teste》 in Œuvres  Bibliothèque de la Pléiade  Tome II p.20.
★七──Ibid., p.17.
★八──Ibid., p.23.
★九──《Lettre de Madame Emilie Teste》 op. cit. p.36.

>松浦寿輝(マツウラ・ヒサキ)

1954年生
東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻(表象文化論コース)・教養学部超域文化科学科教授。フランス文学者/詩人/映画批評家/小説家。

>『10+1』 No.07

特集=アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点