RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.47>ARTICLE

>
エーゲ海の都市/見えない都市/霧状のモナド──都市構造とアーバンデザインの方法をめぐって | 磯崎新+日埜直彦 聞き手
Aegean City/ Invisible Cities/ Misty Monad: On Urban Structure and Urban Design Methodology | Isozaki Arata, Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?, 2007年06月発行) pp.167-175

世界の都市、建築をめぐる旅

日埜──数回にわたり、六〇年代の都市に関する磯崎さんの取り組みについてお聞きしてきました。この時期は磯崎さんが都市デザイナーという職能に強い関心を抱いておられた時期ということになるかと思います。当時都市に関係して書かれた論文の多くが基本的に日本の状況を背景としていたわけですが、『みづゑ』に連載された一連の論文(一九六五年三─八月号「世界の自然と造形」1—5、美術出版社)は海外の都市を視野に入れて書かれています。ということは、それまで日本の都市でまとめてきた視点を相対化するひとつの機会だったのではないかと推察します。
このシリーズは二川幸夫さんの写真と磯崎さんの文章がセットになって掲載されていて、このうち文章のみが後に『空間へ』にまとめられています。今回あらためて『みづゑ』の記事を引っぱり出して見たのですが、写真があることで『空間へ』のテクストとはずいぶん印象が違いますね。写真は版面いっぱいを使ったきわめて緻密なもので、俯瞰でパースを殺した空撮が印象的です。写真と文章が呼応して、腑に落ちる感じがしました。その頃二川さんは『みづゑ』の発行元の美術出版社と関係があったようですが、この企画は具体的にはどういう経緯で実現したのでしょう。
磯崎──二川さんは大学生の頃から美術出版社の「日本の民家」シリーズ(一九五七—五九)を撮影していて、最初の号は大学を出て一年目くらいに刊行されたと思います。「日本の民家」は薄くて大判の写真シリーズで、ほかにも土門拳が仏像を撮影したシリーズなどがありました。二川さんが撮影し、伊藤ていじさんがテキストを書いたこの「日本の民家」が二人のデビュー作でかなりインパクトがありました。
建築に関する言説で、五〇年代は桂離宮の構成的空間を弥生的とし、縄文的なものを取り出そうとしていました。縄文的なものの理論的バックアップは岡本太郎さんにあったのですが、これに対して建築で縄文とは何かと考えたときに、二川さんの日本の民家の撮り方はそれにぴったり合っていました。ていじさんのテキストも地方の棟梁や大工、あるいは旦那衆と建築の構法との関係を取り出そうとしていて、時代的に合ったのです。それで「日本の民家」シリーズとして出てきました。僕はその頃にていじさんと「八田利也」で一緒にやっていたし、二川さんとも馬が合って酒を飲む相手という感じでした。「日本の民家」が毎日出版文化賞をもらってこの仕事が終わった頃、二川さんは日本に海外情報を持ち込む方法はないかと考えていました。当時、現代建築の建築写真はありましたけれど、海外の都市や建築を計画的に撮影することはしていませんでした。僕が「世界の自然と造形」のシリーズを始める前に鈴木恂さんとメキシコに一緒に行きました。それでもう一度世界を廻るときに、「日本の民家」は伊藤ていじさんがテキストを書いたから、今度は僕がテキストを書くことになりました。僕は六三年に海外を廻っていましたが、それは二川さんとは関係がありません。前にしゃべったと思いますが、東京都庁舎計画について丹下健三さんに、岸田日出刀さんが僕を都庁のお役人について視察に廻らせると言われ、偶然世界一周の切符をもらったのです。『みづゑ』の連載で二川さんと海外に行く話がまとまったけれど、出版社からも出るお金はたかが知れているわけです。それで借金をしながら自腹で出かけました。
日埜──なるほど。以前そのお話を伺ったので、あるいは美術出版社に企画を持ち込んで予算をもらうというようなことがあったのかなと思ったのですが、そううまい話はないわけですね。ともあれこの試みが後にA.D.A.EDITA Tokyoのごく初期に出た『世界の村と街』(一九七三─七五)としてまとまったわけですね。
磯崎──『世界の村と街』は二川さんが自分で設立した会社で始めたシリーズで、僕も書きました。
日埜──当時の雑誌を探してみるとこの企画と関連するテクストがいくつかあります。そのうちのひとつ、『朝日ジャーナル』(一九六五年一月三日号)に「空からの視角」という文章を書かれています。『みづゑ』のテクストのがっしりした印象とはまた違った軽いテクストで、それを読むとどうもこの旅行は一種の珍道中だったようですね。
磯崎──あらかじめ計画も情報もまったくないから、まずはホテルに行って、フロントでいろいろ聞いて、それから観光用の小型飛行機をもっている航空会社を探して交渉をしていました。だいたい大都市は飛行機で撮れました。ニューヨークからロサンゼルスまで行ったのですが、パリは郊外はよいけれど中心部は規制があって撮れませんでした。ローマも街の中心部は撮れなくて田舎は大丈夫でした。ギリシアのミコノスやサントリーニは今でこそ有名ですけれど、当時は一切情報がなかったので、まず現地で旅行案内や観光写真を見て面白そうだと見当をつけて出かけました。それでサントリーニはドラマティックだとわかった。そういう旅で、本当に行き当たりばったりでした。
日埜──この旅行は大きく言うと都市を見ることに重点があったのでしょうか。それとも集落まで含めた、一般に人間が集まって住む場所という意識だったのでしょうか。
磯崎──集落も都市も全部見ようということでしたが、ついでに現代建築も見ました。ル・コルビュジエの作品はインドから始まって、《ラ・トゥーレット修道院》《ロンシャン教会》とほとんど全部見ました。

空からの視角/路上の視線

日埜──『科学朝日』(一九六五年五月号)に、丹下さんが司会、出席者は磯崎さん、黒川紀章さん、槇文彦さんという錚々たる面々の座談会が掲載されています。そこで磯崎さんは「歴史的な街から現代の街にいたるまで、街がある種のタイプを持って発展している。それがビジュアルにどういうふうに展開しているか、ビジュアルということは、カタチだとか、都市の中の空間だとか、あるいは非常に簡単にいうと、道路のパターンとか広場の位置だとか、そういうものがどういう組み合わせになっているか、そんな観点から眺めてみたいというのが、一番の目標だったんです」と発言されています。例えば『日本の都市空間』は一種のタイポロジーで、いくつかの要素空間とその組み合わせの型から都市空間を把握しようとするわけですが、この「世界の自然と造形」の場合はむしろ一気に大づかみに都市の全体像、あるいは構造を見ようとされているということですね。
磯崎──全体像よりも構造です。それをどうやってつかみ取るかを意識的に考えていました。ですから都市を歩いて見る目と空から見る目の両方がないとうまくいかない。すでに二川さんが日本で建築や町並みを航空写真で撮り始めていたから、やり方はわかっていました。だから上方からの見え方は見当がついていました。外国ではパイロットに「このドアを外せ」と言って撮ったり、むちゃくちゃなことをやっていた。
『日本の都市空間』につけた論文「都市デザインの方法——city invisible」(一九六三)は二川さんとの旅行の前の年、例の世界一周から帰ってすぐに書いたものですが、タイトルに「city invisible」とあるように、その末尾を「見えない都市こそ実は未来の都市だ」と結んでいます。この論文では「かいわい」などを取り上げ、霧状に立ちこめる「うごきと濃度」になっていく未来の都市を構造的に方法化することを目標にしていたのですが、ここまでしか展開できていない。後に「見えない都市」を『展望』(一九六七年一一月号、筑摩書房)に執筆します。先の論文の末尾に顔をやっと出した「見えない都市」をここではタイトルにしました。その契機が、『みづゑ』のこの旅行にありました。空からの視角と地上からの視線が分裂してしまっているのが現代の大都市の状態だと理解できたからです。メトロポリスにおいてはランドマークの構成が薄れて、記号的な配置になっている。抽象化された関係としてしかとりとめもない広がりはつかみきれない、こんな実感をもったのです。
日埜──先ほどの座談会では面白い対立点が出ていて、黒川紀章さんが「私はむしろ空からは見ないほうがよいのではないかという感じがしている」と磯崎さんの視点に反対しています。黒川さんの論点は要するに都市には視覚的に捉えきれない部分もあるのではないか、ということでしょう。むしろマクロな全体像よりもミクロの局所的な変化、例えば建物を建てたときに都市がどのような影響を受けるのか、というようなことから都市を見るべきではないかと言われています。
磯崎──それは彼のいつものやり方で、ぼくと何かやれば必ず対立意見を出す。スコピエ計画の頃、私はジェーン・ジェイコブスの『アメリカ大都市の死と生』(原著刊行年一九六一、邦訳一九六九、SD選書)を邦訳がなかったので英文で読んでいたのです。黒川さんも「これが当たりだ」と言っていました。黒川さんはそういう勘はよくて、すぐに『アメリカ大都市の死と生』を訳しましたね。
日埜──『アメリカ大都市の死と生』は直接この座談会では言及されていませんが、たしかに背景になっている気配はあります。全体を規定する強い計画では手が届かない都市の現実に対する問題意識は共有されていますね。その頃の都市を見る一般的な視点はどんなものだったのでしょう。
磯崎──ジェーン・ジェイコブスには近代都市計画の画一的なゾーニング、一方的な上からの規制に対して、もっと生活の実情に即したミクスドユースの複雑な都市空間が豊かにするんだという確固とした論点があります。それはいずれクリストファー・アレグザンダーパタン・ランゲージ論に連なるものでもありました。ちょうどその頃クリストファー・アレグザンダーを日本に紹介しました。『Architectural Forum』六三年一〇月号にアレグザンダーの路上の記号の分析「Graphic Technique for Highway Planning」が載っていて、おもしろかったので、『日本の都市空間』の「都市デザインの方法」に大急ぎで註で入れました。もう本文が印刷に入ったときにアレグザンダーの論文を見つけたのです。都市への考え方に具体的な影響を与える方法論は少しずつ出てきたけれど、そのなかではアレグザンダーの「都市はツリーではない」(『Architectural Forum』一九六五年四月号)が僕はひとつのメルクマールになる論文だと思います。「セミ・ラティス」という群論の構造が導入されていました。それは不定形や偶発性などとしてしか表現できなかった、五〇年代までの先端的と思えた議論にひとつの突破口を与えたというぐらいに見えました。

磯崎新氏

磯崎新氏

日埜直彦氏

日埜直彦氏

迷路と秩序の対立/ル・コルビュジエの回心

日埜──都市を視覚的に見る、という磯崎さんの視点はおそらくこういうことだろうと思います。一方で確かに都市には目に見えにくい部分がある。要するに全体を一気に決定するほど強い要因など滅多になくて、むしろ場当たり的な選択の積み重ねに過ぎない。しかしそうしたことの積み重ねが結局は都市の現在の姿を形成していることは間違いない。だとすれば、都市デザインというものが成立するとすれば、それがどのように可能なのかは、逆に今そこにある都市の具体的な姿から読み取ることができるのではないか、そういう意図を感じます。
例えば黒川さんが言うようなミクロの視点、あるいは見えないもので都市ができあがっていることに対して、磯崎さんは、エーゲ海の集落を例にとり「建築もしくは都市、それが発生する原初的な状況では、自然のなかにある有機体と同じく、秩序は内在するものでしかない。ということは、外形は不安定で、一種の混沌を示すはずである。とくに時間をおって生成していく場合、どうしても個々の単位として形成されるもの相互には断絶がある。だから総体としては、不連続なものの集積体となるのが自然であろう。私たちはそれを自然発生的な集落にみることができる。どんな場合でも基本的には散在しており、外形的な秩序などへの考慮は発見できないのが常である」(『みづゑ』一九六五年五月号「世界の自然と造形4 エーゲ海のまちと建築」)と書かれています。そういうものだとすれば、ミクロの視点を掘り下げて理解できても、外形がいかに形成されるかを捉えることは難しいでしょう。
磯崎──一方ではジェーン・ジェイコブスやクリストファー・アレグザンダーなどの理論的な動きを、伝わってくる雑誌論文や出版された書籍によって追いかけていたことを注意しておいてください。僕にはこんなアカデミックなレヴェルの論をフォローすることに関心はあったとしても、どうしても具体的なデザインに結びつけたいという気持ちが抜け切れません。それには眼で見て、身体で確認しないといけない。身体性を介してしかデザインはできない。これはアーティストたちとつき合うなかから理解した最も重要なポイントです。前のインタヴューでも述べましたが、外国に行く前から、偶発的で不定形、イレギュラーというものを都市のイメージとして考えていました。海外へはその実例を探しにいったわけです。
日埜──そうして例えばミレトスに見られるような、地形に逆らってでもグリッドの街路を通し、そこに秩序を組み立てていく意思が、不定形へと向かう傾向に抵抗するものとして浮かび上がってくるわけですね。磯崎さんはそれをエーゲ海文明独特の性格として抽出されています。そうした意思が作用して都市が視覚的な秩序を形成することは都市プランナーが果たすべき役割と重ねられていたのではないかと思います。
磯崎──クノッソス神殿のプランは両方の要素をもっています。クノッソス神殿は二川さんと一緒ではなく、その前に行ったのかもしれません。この建物の復元の仕方はおかしいし、やっていることはキッチュだとわかっていたのですが、プランを見ると迷路と秩序の組み合わせが出てきます。そこに関心がありました。
日埜──なるほど。パルテノンに象徴されるような秩序を形成しようとする意思と、にもかかわらずどうしても迷路化してしまう傾向という、両極端なものの均衡、緊張ということですね。確かにクノッソス神殿のプランは、われわれが迷路と聞いた時に思い浮かべるものよりははるかに整っていて、少なくともめちゃくちゃに入り組んでいるわけではないですね。
磯崎──ギリシア神話では、クノッソス神殿の地下のラビリンスに潜んでいたミノタウロスをアテネの王子テセウスが退治に来て、そのときにアリアドーネからラビリンスで迷わないように糸をさずかって入った。ここには明快な対立があります。この迷路とグリッドを並べるとエーゲ海文明の神話構造が明瞭にわかります。つまり海、海の底はラビリンスです。ラビリンスは理解しがたい不思議なもので、それに対してパルテノンのような明快な秩序との対比があるわけです。
ル・コルビュジエはパルテノンから始まっていますが、最後の頃の《ラ・トゥーレット修道院》に至るとクノッソス神殿のラビリンスに近くなります。透明で白い二〇年代住宅をやっていたル・コルビュジエに黒い影が入り込み、不透明なテクスチャーが大きく出てきて、戦後のブルータリズムにつながっていくわけです。こういう転換がル・コルビュジエにはあると思います。その転換の契機には、ブラジルでのカーニバル的体験があったと私は推定しています。ビアトリス・コロミーナが『マスメディアとしての近代建築』(鹿島出版会、一九九六)でル・コルビュジエはアルジェで娼婦宿を探して、裸の娼婦のブロマイドをたくさん買い集めて、それをトレースして絵に描き変えたと書いています。コロミーナはフェミニストとしてル・コルビュジエのそのような行為を批判するのですね。だけれどそれをひとつの回心と見てもいいのではないか。ル・コルビュジエはこのときに黒い影を見つけたのだと思います。ジョセフィン・ベーカーのような黒い舞姫に偏っていった。そしてそれは海、ラビリンスとしての海です。メタファーとして重なっていると思います。あの文章を書いた頃はそこまで明快にわかっていたわけではありません。手さぐりで『みづゑ』のシリーズを書き、これを『空間へ』に収録したのです。
僕にとってのル・コルビュジエは六〇年代初頭に見て七〇年頃で終わっていたのですが、その頃ル・コルビュジエの再評価が始まりました。最初は五〇年代中頃にジェームズ・スターリングがル・コルビュジエの《ガルシュ邸》や《サヴォア邸》に注目しました。スターリング自身はル・コルビュジエ的ではないのですが、初めは《ガルシュ邸》や《サヴォア邸》を評価しています。おそらく、コーリン・ロウの有名になった(といっても発表時は無視されていました)「理想的ヴィラの数学」を念頭においていたと思います。彼らはリバプール大学以来のつき合いでした。後に僕はロンドンのスターリング邸で彼に初めて紹介してもらいました。
日埜──スターリングがカタロニアヴォールトを使ったレンガ積みの《ジャウル邸》に熱烈な賛辞を捧げていますが★一、そういうところに目をつけるのがいかにもイギリス的ですね。ル・コルビュジエのそういう仕事を介して、スターリングはル・コルビュジエと自分を接続することができたのかもしれません。
磯崎──ル・コルビュジエにはカタロニアヴォールトの農家のような計画「ラ・セル・サンクルーの週末住宅」がすでにありました。《ジャウル邸》は戦後で、ニュー・ブルータリズムとして注目されていたように思います。例のアントニン・レーモンドが《軽井沢夏の家》でコピーをした「エラズリス邸」の計画がありますが、ル・コルビュジエは純粋機械ではなくて、クラフトの方向を探しにいったわけです。ジャン・プルーヴェと組んでハイテクを狙っていても行き詰まるところがあったと思います。一遍戻らないといけない。
日埜──『みづゑ』の「エーゲ海のまちと建築」の扉写真を見れば、ル・コルビュジエの有名な「光のもとのヴォリュームの戯れ」という言葉を思い出さずにはいられません。ミコノスの集落はおそらく構造は石積みなのでしょうが、あらゆるところが長い年月をかけて繰り返し石灰で塗り固められたこの光景と、ル・コルビュジエの二〇年代の住宅は繋がっているのかもしれませんね。一連の白い住宅も表面の白い仕上げの下地は実はブロックだったり構造だったり、でも頓着なく白く塗り込めることであるイメージを獲得したわけでしょう。
磯崎──そうだと思います。僕はル・コルビュジエの白はエーゲ海のものだと思っていたのです。アルジェやモロッコなどは日干しレンガです。エーゲ海は石灰を塗るだけですが、アルジェのほうは泥を塗ったドビーハウスです。だけれどパルテノンの白があります。なにしろ焼石灰が日常的に必要なので、大理石の断片を廃墟から集めて、これを焼いて白い石灰にしていたと言われていますから、アクロポリスの大理石の「白」とエーゲ海の民家の「白」は同根なのです。同じ素材なんです。
日埜──エーゲ海の集落はヴァナキュラーかつプリミティヴですが、人間の住む場が意志を持って形成される時に、混沌と秩序のせめぎ合いが都市に現われてくる。その関係が『みづゑ』の一連の記事の中でもとりわけよくわかります。
磯崎──エーゲ海は日本と対極にある空間です。一番印象が強かった。

1──ミレトスのプラン 引用出典=『みづゑ』1965年5月号(美術出版社)

1──ミレトスのプラン
引用出典=『みづゑ』1965年5月号(美術出版社)

2──クノッソス神殿のプラン 引用出典=『みづゑ』1965年5月号(美術出版社)

2──クノッソス神殿のプラン
引用出典=『みづゑ』1965年5月号(美術出版社)

3──ミコノスの道 「窓と手摺をのぞいたすべてがまっ白に塗られている。日本人がおもてを掃除する程の頻度で、居住者はバケツにといた石灰をほうきにつけて塗るといわれている。すべてが素人の仕事だから不器用で汁が地上にたれ、そのため道路もまっ白になっている」 引用出典=『みづゑ』1965年5月号(美術出版社)

3──ミコノスの道
「窓と手摺をのぞいたすべてがまっ白に塗られている。日本人がおもてを掃除する程の頻度で、居住者はバケツにといた石灰をほうきにつけて塗るといわれている。すべてが素人の仕事だから不器用で汁が地上にたれ、そのため道路もまっ白になっている」
引用出典=『みづゑ』1965年5月号(美術出版社)

4──サントリーニ島テーラ 「テーラのまちにあっては、中心をよこぎる細い街路には、動物さえも通らないよう規制されている。ここにみえる道は、一種のステーションで、急勾配で下の港と結びつけられた道路で、ロバまたはラバが観光客の運搬用に使用されている。崖にひっかかりながら連続している住居群は、石灰で白く塗られ、ギクシャクしながらどこまでもつづいてく。このような建設システムになれば、床、壁、天井、テラス、道路などの建築を形成する要素間に区切りがなく、どこまでも連続していく」 (ともに『みづゑ』1965年5月号「世界の自然と造形4 エーゲ海のまちと建築」のキャプションより) 引用出典=『みづゑ』1965年5月号(美術出版社)

4──サントリーニ島テーラ
「テーラのまちにあっては、中心をよこぎる細い街路には、動物さえも通らないよう規制されている。ここにみえる道は、一種のステーションで、急勾配で下の港と結びつけられた道路で、ロバまたはラバが観光客の運搬用に使用されている。崖にひっかかりながら連続している住居群は、石灰で白く塗られ、ギクシャクしながらどこまでもつづいてく。このような建設システムになれば、床、壁、天井、テラス、道路などの建築を形成する要素間に区切りがなく、どこまでも連続していく」
(ともに『みづゑ』1965年5月号「世界の自然と造形4 エーゲ海のまちと建築」のキャプションより)
引用出典=『みづゑ』1965年5月号(美術出版社)

アメリカの都市と望遠の視角

日埜──『みづゑ』には掲載されていないのですが、この旅行の最後にロサンゼルスに行かれたようですね。エーゲ海の都市とはまったく違う原理ででき上がる都市の姿に興味があったのでしょうか。ロスの場合はモータリゼーションによって都市のスケールが膨張して地平線に至るまで綿々と広がり、写真を撮るにももはやインターチェンジぐらいしかまとまった姿がないと先の『科学朝日』の対談で言われています。建物は低密度になり、ほとんど均質に茫漠と広がっている。まさに「見えない都市」です。それは現代都市のひとつの極点として見えただろうと思います。
現代社会というか、モータリゼーションに代表されるテクノロジーがロサンゼルスの姿を形成する要因となっています。エーゲ海の集落はある種の空間把握が可能ですが、ロスはもはや同じようには捉えられない。現代の都市を捉える難しさがそこにあると思います。
磯崎──先ほどちょっと触れたように都市空間の認知システムとして、「空からの視角」と「地上の眼」とが分裂していること、これが「見えない都市」の発想の手がかりです。マンハッタンではなく、ロサンゼルスでこれを感じた。それがあの世界紀行の最後の章(「世界の自然と造形5  路上の視覚)です。だからエーゲ海対ロサンゼルスという構図は明快にあります。その間には中世都市、それから中世から近世にかけての、例えばイタリアの山岳都市があります。そういうところには城壁があり、サンジミアーノがそのイメージをはっきり見せています。ルイス・カーンの《リチャードメディカルセンター》ができたときに、サンジミアーノと比較した紹介や説明があったと思います。サンジミアーノの丘にはタワーが当時で六〇本、現在でも三十数本あります。その実写を初めて日本で紹介したのだと思います。
もうひとつイメージで強烈だったのはアンドレアス・ファイニンガーの写真です。これがマンハッタン論の手がかりになりました。アンドレアスはバウハウスの画家リオネル・ファイニンガーの息子です。ファイニンガーは一〇〇〇ミリの望遠レンズが初めてできた時に、ニューヨークで試作で撮影したのですが、ニュージャージーからハドソンリヴァーを撮っていて、ハドソンリヴァーの丘の向こう側にエンパイアステートビルの尖塔が見える写真があります。これは普段気がつかないところを一〇〇〇ミリで撮ったダイナミックな写真です。それとクイーンズのお墓が並んで建っているシーンの向こう側にマンハッタンが重なっている有名な写真です。こちらは一〇〇ミリか二〇〇ミリのレンズで撮っていますが、印象的でした。
日埜──そのファイニンガーの写真は見たことがあります。遠近感が圧縮されて遠くの物が目の前に引きつけられたようになりますね。
磯崎──ロングで映画を撮る方法は黒澤明が始めたのではないでしょうか。『用心棒』で接近してくる主人公をロングで撮っています。当時はああいう撮り方はありませんでした。望遠の視角はなかったと言ってもいい。
つまり、エーゲ海の白い住宅、不定形な集落と言ったらいいのか──があって、ロサンゼルスとの間にマンハッタンがありました。サンジミアーノは近世の城壁都市です。パリもウィーンもフィレンツェもみな城壁都市です。城壁が物理的に都市を表象していたのです。中国では毛沢東が城壁を壊したのですけれど、わずかに西安や大同には残っています。こういう都市の壁が歴史上のコンセプトだとは思ってきました。長安の都市のパターンのコピーが平城京だと言われていますけれど、中国の場合は城壁がありますが、日本は城壁はああいう形で一切つくっていません。日本では堀を掘って、その土で土塀をつくります。それが日本の都市の形で、敵から城壁で守るということが日本にはなかったわけです。そういう背景があったとしても、日本では都市を輪郭線として区切る方法は発達しなかった。輪郭がぼけていることは大きな違いです。マンハッタンは川で区切られているから輪郭がはっきりしています。エッジのない空間が一番よく見えたのはロサンゼルスでした。しかも目印になるものさえない。そういう「見えない都市」を──「見えない都市」という言葉は出かける前に考えていたのですが──文章としてまとめることはロサンゼルスを上空から見ないとできなかった。
もちろん香港のタンミン(水上生活者)とか、メコン河畔の川岸住宅とか、そうそう、香港は当時崖に非合法バラックがコケのようにはり付いていたし、路上は屋台で埋まっていました。スーク(市場)なんかのムンムンするような住居空間や街並み、いずれも発生期には秩序は見えません。タイポロジーを研究するなんて意図は毛頭なかった。生活者のエネルギーを感じるために歩いていたんだと言ってもいいですね。
日埜──香港はずいぶん変わりましたね。そうしたバラックがはり付いていたような場所も今では高層集合住宅が林立しているでしょう。ちょうど今香港に仕事があって行き来しているのですが、つくづくおかしな街だと思います。香港島の南側に行くと人の手の入っていない土地がたくさんあるのに市街地は驚くべき密度で北側に集中していて、なぜあのようなコントラストが生まれたのか。日本の感覚で考えると市街地からグラデーションしていく郊外があってもよさそうなのに、市街地が島の一部に集中している。香港の人たちには集まって住むことに対する抜き難い執着があるのかもしれません。仕事はちょっとしたインテリアなんですが、いかにもおかしななりの建物なので由来を聞いてみると、たぶん五〇年ぐらい前の建物なのだが二〇年前に一五階ほど上に載せたようだ、なんて言うわけです。隣の建物がぴったりくっついているのは都市建築としては普通のことですが、その建物に通じる廊下があって、階段が共用されていたりする。所有権とか法的にどうなっているのか不思議に思うんですが、そんなことは誰も気にしないと言われます。
磯崎──その極端なのが九龍城だったわけです。それはアルジェの迷路、カスバに近いと思います。カスバを舞台にしたジャン・ギャバンの映画『望郷』を学生の頃観たのですがおもしろかった。ジャン・ギャバンはマフィアの親分の設定で、警察に追われている。しかし迷路なのでどこに住んでいるのか全然わからないし、追いかけても捕まらない。カスバはそういう空間で、スークに近い。道はどこから入っていくのかまったくわからないというおもしろさです。そういうカスバはカルテジアン空間、透明空間の立体格子とは対極です。ハリウッド映画でも理解できない都市の集落として出てきます。『ブレード・ランナー』では奇怪な部分はアラブ世界ではなくてアジアでした。その対応の原型は先ほどのミレトスとクノッソスだと思います。

5──Andreas Feininger,   Manhattan Skyline Seen from New Jersey1944 引用出典=Thomas Buchsteiner and Otto Letze eds.,  Andreas Feininger That’s Photography,  Hatje Cantz, 2004.

5──Andreas Feininger,  
Manhattan Skyline Seen from New Jersey1944
引用出典=Thomas Buchsteiner and Otto Letze eds.,
Andreas Feininger That’s Photography,
Hatje Cantz, 2004.

「霧状のモナド」からハイパーシティ論へ

日埜──ミレトスとロサンゼルスという両極端の都市を見て、では東京、日本の都市をどのように考えるのかという問題があったと思います。それを考えた結果が『いま、見えない都市』(大和書房、一九八五)になったのでしょうか。
磯崎──おそらくそうです。都市に分け入って行き着くとますます実在感をなくし消えていく朦朧としたものがありました。『いま、見えない都市』を書いた頃は八〇年代ですから、ヴァーチュアリティのようなものがどうなるかまだわかりませんでした。しかし今はすべてがデジタライズされている。デジタライズされた世界のイメージは、「都市デザインの方法」の最後に「霧のように流れている、密度が変わって動いている」と書きましたが、この霧のイメージを「霧状のモナド」と表現したらどうかと思っています。つまり、カスバ的な迷路に戻るわけにいかないし、透明な秩序のあるデカルト空間でもない。その先にあるのは霧の世界ではないか。建築家がモダニティを探したときは、モアレ的なものをやってもすべて透明性の問題です。今都市を考えるとしたら、それ全体を揺さぶっているものの問題をどのように方法化できるか、理論化できるかに関わっていると思います。もうそれは僕がやる時代ではないのですが、霧のイメージは間違っていなかったと思います。霧の中でデジタルなメソッドが形をどうつくるかという問題がこれから整理されて出てくるのでしょう。
そこでデミウルゴスを再登場させようと思っています。デミウルゴスは迷路という非秩序として構築されたクノッソス神殿の設計者のダイダロスが化身だから、繋がっているわけです。その手がかりとしてエーゲ海的なものも取り出せるでしょう。いろいろありますが、例えばミコノスには三六五の教会があって、一日一回どこかでお祭りが繰り返されているシステムがある。それの実感は住み込まないとつかめないので、行ってもよくわからないこともたくさんあった。今でも読み切れないものが山とあります。
日埜──今、実際に都市的プロジェクトに関わられているわけで、旅行者とは違う視点で見ざるをえないでしょう。見方が変わってくる部分はありますか。ビルバオで最近竣工した磯崎さんのプロジェクト「Isozaki Atea」のように大きなプロジェクトだと都市自体が変わり、人間の流れも変わり、地域の基本的な成り立ちさえ変化するでしょう。自分の設計したものから派生してさまざまなことが起こり、そこから見えてくる実感もあるかと思うのですが。
磯崎──街を見たときには、計画をするための手段や参照例を探すためだったり、一般的な旅行者として違う世界を体験するためだったり、それから建築や外形ではなくて、生活を理解するように入り込んでいったり、さまざまなアプローチがあると思います。最初はアーバンデザインをやりたいと思って行ったけれども、アーバンデザインの手がかりはそんなにないわけです。大阪万博やスコピオのプランなどは都市の将来の状況まで見通して考えたのではなく、都市設計に対して直接的な仕事レヴェルでまとめなくてはいけなかったわけです。それから観察者、あるいは都市を解釈する、文化的コンテクスト、あるいは社会的コンテクストで都市の基本構造を見ていくという立場があります。この立場にならないと文章は書けなかったと思います。都市論、文明論あるいは都市の形象論、モルフィスのほうに関心を持っていました。それは多くヴィジュアルなものにつける文章であることは大きかったと思います。
都市にリアリティを持たせようと思えば、一九世紀的な都市を組み立てることになってしまう、今日の法制化されている手法を使わなくてはならない。それをはずして考えるとしたらどうやれるかを考えるのが精一杯です。すると実現不能という堂々巡りとなる。おそらく都市は一九世紀までの城郭都市、二〇世紀のメトロポリスを経て、今やハイパーシティとなりつつあります。私の「見えない都市」論はメトロポリスを分析するなかからハイパーシティに連なる要因を拾い出そうとしたくらいのところで止まっています。もちろんハイパーシティ論は世界的にやっと今始まろうというところですから、半世紀昔には何ひとつ実感がつかめなかった。交換と流動が超高速化した時代の都市を、いやもう都市とは呼べないと僕は何度も記したのですが、「霧状のモナド」と呼んであったことから、この関連のなかに補助線が引ける手がかりがあるかもしれないとは考えていますが。
[二〇〇七年四月一二日、磯崎新アトリエにて]

★一──ジェームズ・スターリング「ヴィラ・ガルシュからジャウール邸へ」(ロバート・マクスウェル編『ジェームズ・スターリング』小川守之訳、鹿島出版会、二〇〇〇)。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年生
磯崎新アトリエ主宰。建築家。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.47

特集=東京をどのように記述するか?

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>黒川紀章(クロカワ・キショウ)

1934年 - 2007年
建築家。黒川紀章建築都市設計事務所。

>槇文彦(マキ・フミヒコ)

1928年 -
建築家。槇総合計画事務所代表取締役。

>日本の都市空間

1968年3月1日

>ジェーン・ジェイコブス

1916年 - 2006年
作家、ジャーナリスト。

>クリストファー・アレグザンダー

1936年 -
都市計画家、建築家。環境構造センター主宰。

>パタン・ランゲージ

クリストファー・アレグザンダーが提唱した建築・都市計画にかかわる理論。単語が集ま...

>サヴォア邸

パリ 住宅 1931年

>コーリン・ロウ

1920年 - 1999年
建築批評。コーネル大学教授。

>ルイス・カーン

1901年 - 1974年
建築家。

>バウハウス

1919年、ドイツのワイマール市に開校された、芸術学校。初代校長は建築家のW・グ...