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不可視の都市の複雑系理論 | 池上高志
Complex Systems Theory for Invisible Cities | Ikegam Takashi
掲載『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?, 2007年06月発行) pp.146-154

都市に住む人にとっての自然な環境とは、人工的な建築物と広告塔の文字、それらが形づくる地平線の輪郭からなり、車を運転すれば、実際の風景とナヴィゲーションの仮想風景によって風景がつくられる。仮想と現実は都市においては自然なフレームであり、別な言い方をすれば都市は本質的に不可視である。複雑系は仮想と現実の違いをコンピュータのなかに仮想世界を構築することでわかろうとする試みである。例えば、カオス的な複雑さや進化のダイナミクスを使って、生命の持つ四つの特徴、自己維持(ホメオスタシス)、増殖、進化、そして運動を暴こうとする。そして生命そのもの(life Itself)もまた不可視なものである。
生命の四つの特徴はまた都市の特徴でもある。都市も自己維持をし、増殖し、進化し、運動する(長いタイムスケールで)。つまり、都市もまた不可視な生命システムであるという、(多分幾度となく繰り返されてきた)メタファーが成立する。だとするならば、複雑系の言葉は不可視な都市を語る言葉でもあるはずだ。そこで本論では、特に「Homeostasis」 「Layout」「Natural Computation」《Filmachine》「Language」、という形で、複雑系と都市の形を切り結んでみたい。

1 Homeostasis

二〇世紀の中頃にサイバネティクスという運動が新しい生命の理論として注目を集めた。サイバネティクスは、物理学者、数学者、生物学者、心理学者を巻き込んだ最初の学際的な研究で、サイバネティクスは、自己維持、ホメオスタシスを生命の基底として考えた。現在このサイバネティクスとオートポイエシスをあわせ見たとき、その思想の中心にhomeostasisという考えを見て取ることができる。
ホメオスタシスとは、あるもの(例えば温度であるとか化学濃度)を一定に保つことであると考えられる。例えば、膨張率の異なる二種類の金属を使って、温度が高くなると接続が切れ、温度が下がってくるとまたつながる回路をつくると、サーモスタットができあがる。生物もまた個体の温度を一定に保つが、それは代謝反応による温度の調整である。しかし生物の機械のホメオスタシスには違いがある。環境の変化に追従せずに一定の温度に保つことが必要な一方で、ある状況を超えたら新しいホメオスタシスを進化させることも必要である。この二番目のホメオスタシスは、生命システムの重要な性質であり、Ross Ashbyはこれを超安定性理論(ultra-stability theory)と呼んでいる。

図1のEnvは環境を、Rはシステムを示す。ホメオスタシスを担う第一のフィードバックは、現在のダイナミクスの範疇でのホメオスタシスの達成をコントロールする(環境との直接の相互作用)が、第二のフィードバックは「ある本質的な変数」を介して行なわれる。第一ではいよいよ制御できない場合に、ある種の乱数を使ってこの「本質的な変数」を書き換えて、システムを改変する仕組みである。システムは安定なホメオスタシスが獲得できるまで、トライアンドエラーを続ける。Ashbyは生体システムの安定性をこのような二種類のフィードバックを持つ超安定なシステムだと提案する。
例えば人工的にこのようなシステムはつくれないか。そこで、ロボットのホメオスタシスを考え直してみる。ロボットのホメオスタシスは温度ではなくて、センサーとモーターのつながり方の安定性に見出す。センサーとは光や音や匂いを感知するデバイスであり、モーターとはセンサーで感知したものを記憶や状況と照合しながら引き起こす運動のことである。センサーのパターンからモーターへのマッピング、それがセンサーモーターのつながり方である。このマッピングをある程度安定に保っていないと、安定した行動がつくれない。そこでこれを安定に保つ必要がある。さまざまな学習やパラメターの選定はそのためにある。
しかし、ここではそれを揺るがせてみる。そうするとロボットはたちどころに狂った行動をするようになる。アフォーダンス(センサー情報が要求する行動の構造)がひっくり返ってしまう。Ashbyは飛行機の例を出している。Auto-Pilotという翼を水平に保つ装置があるが、もしこの装置への翼からの入力を付け替えてしまうとする。そうすると右の翼が下がり出すとよけい下げてしまうようになる。生物の場合はどうだろう。付け替えられたことで逆の傾向をつくり続ける生物は生きられない。付け替えられても適応するのが生物である。例えば逆さ眼鏡。これを付けると上下の像が逆転してしまう。しかし一週間もすると逆転しているという感覚は失せ、普通に見えるようになる。これが生命のホメオスタシスであり、Ashbyの言うところの一次のフィードバックではない、二次のフィードバックである。別な言い方をするならば、ホメオスタシスとは、あるべき行為の準備、行為のレパートリーを蓄えておくことである。センサーモーターカップリングは実際に起きた行為とセンサーの関係をつくり上げることだけではない。むしろ、実際におきていない行為についても対処できるものである。
別な見方をするとこの超安定なホメオスタシスの第二フィードバックとは、温度も含めいろいろなものを揺るがせる機構である。機械がこの揺らぎを抑える方向に向かうのに対し、生物システムではむしろ揺らぎがなくならないように、揺らぎを保つように見える。このことは進化のコンテキストで考えると、きわめて適応的である。超安定なhomeostasisなダイナミクスを持つエージェントをデザインし、シミュレーションしてみるとその意味がわかる。
そこで平面の上に局在した熱源を置いてみる[図2]。その場の中に円形の体をもったエージェントを投げ出そう。このエージェントの表面にはある温度領域でのみ咲きほこる仮想の花々デイジーが植えられている。そこには白いデイジーと黒いデイジーがあり、白いデイジーは光をより反射して温度を下げ、黒いデイジーは光を吸収して温度を上げる。このデイジーの咲き誇る分布が時間的に変動することでエージェントは自分の表面の温度を一定に保とうとする。このエージェントの表面の温度を運動へとマップしておこう。すなわち、その表面の局所的な温度が平均温度より高くなると、その温度変化がデイジーにとって致死的なとき(デイジーが生きられない温度分布をとるとき)、エージェントには探索が出現する。図の中の丸いものがエージェントでその表面にはデイジーがマッチ棒のようなもので表わしてある。
このとき、エージェントの表面のデイジーのパターンを横軸を時間、縦軸をエージェントの体表面に沿って表わしたのが図3である。時々斜めの線が走っているのは、黒色と白色のデイジーが「ソリトン」をつくって体をぐるぐる回っている様子を示す。それ以外のランダムなかたまりはカオス的に変動するパターンである。これらの時間と空間のパターンが、探索運動の方向をつくり出す。
このようにホメオスタシスを超安定性としてとらえ直すひとつの方法は、身体性によるものだ。身体性は運動を意味し、運動を始めることで世界は違った形で見え始める。逆に運動することによって、身体とは個体にはりついたものではなく、広くその環境に広がったものとなる。
ここにおける都市との関係は明白であろう。都市はわれわれの拡張された身体性であり、われわれは身体を変化させながら、われわれのアイデンティティやら、生活の場を維持しようとしている。しかしいざとなると都市を放棄して、まったく新しい都市を構築しないといけないかもしれない。それは都市という超安定システムの作動原理なのだ。

1──AshbyのUltra-stability理論  筆者作成

1──AshbyのUltra-stability理論  筆者作成

2──熱源(明るいところ)のある空間を探索するエージェント(右側)筆者作成

2──熱源(明るいところ)のある空間を探索するエージェント(右側)筆者作成

3──エージェントの表面のデイジーがつくる時空間パターン、横軸が時間  筆者作成

3──エージェントの表面のデイジーがつくる時空間パターン、横軸が時間  筆者作成

2 Layout

このホメオスタシスを生命の個体から引きはがし、まわりの空間へ拡張してみたとき、われわれの生活空間は拡張された身体となる。われわれが歩き回り、触り、感じることで、まわりの生活空間は新しい身体としてフォーマットされ直される。運動によって空間を区切り、そこに新しい意味を与える。それがlayoutである。新たに意味をつくり出すのは、新たなレイアウトである。別の言葉で言えば、レイアウトの与えるアフォーダンスである。福間祥乃(二〇〇二)は渋谷の街並の写真を使って人々にアンケートをし、どのようなレイアウトを使って自分の居場所を判定するかを調べた。いろいろな看板、道路のテクスチャー、街の空が切り取られる形、ほかにもいろいろなものが出現する。空間のレイアウトは一意的なアフォーダンスを提示するのではなく、われわれの心の持ち方や身体性で違ってくる。
アフォーダンスにはモノが元来持っているアフォーダンスがある。例えば、ボタンは押したくなるし、引き戸の取っては横に引きたくなる。Bad affordanceと言われるように、それを無視したデザインは悪いデザインとなる。しかしアフォーダンスを守るのがよいデザインというわけではない。新しいhomeostasisとは新しいアフォーダンスを発見することである。アフォーダンスをあえて歪ませてしまうことで、そのデザインを魅力的なものに見せているものも多い。ある種の錯覚や倒置を利用してデザインされた建築空間、例えば荒川修作の《養老天命反転地》や《三鷹天命反転地》は、その極端な例であろう。荒川の建築が目をひくのは、それが通常のアフォーダンスを、われわれの持つセンサーモーターカップリングの仕方を裏切っているからだ。荒川の三鷹のアパートではお風呂に入る、トイレに入る、といった日常的な行為がうまくできない。まったく別なセンサーモーターカップリングを発達させて、まるで一歳の幼児のように、つくり直さないといけない。そのことが、その建築のデザインを魅力的なものにする。
ここに、超安定性として生命の持つホメオスタシスを正しくとらえたアイディアがある。生命の本質は、定まったセンサーとモーターのカップリングをつくることではなくて、むしろそれを歪ませるところにある。アフォーダンスをひっくり返すところに、生命の適応性、知性、進化可能性があると言える。アフォーダンスをひっくり返すとは、つまりは「遊び」のことである。子供はそのことを生まれながらにして知っている。遊ぶとは何かを知っている。かつてカイヨワは遊びを四つのパターンに分けた。目眩(一人でグルグルまわる遊びなど)、競争(かけっこなど)、偶然(ルーレットなど)、模倣(マネしっこなど)である。この四つの要素は、生命の四つの基礎パターンでもある。生命が今ある環境に適応するだけであれば、与えられたレイアウトのアフォーダンスのみを計算すればよい。しかし、生命システムとはつねに進化的な軸の中で動いている。このときにはまだ見ぬレイアウトを計算しないといけない。そのために必要なのが、カイヨワの四つの要素である。コンピュータでレイアウトからアフォーダンスを計算するということはできる。しかし、この四つを入れていかないと自然の計算にはならない。生命は、まったく違う計算をしているのだ。
同じ構造がまた都市にも見てとれよう。都市のレイアウトの重要性は、アフォーダンスのひっくり返しであり、すなわち遊びを持ち込むことであろう。特に上のカイヨワ分類の偶然性を持たせた都市は、生命のように強い自律性をもつという意味で面白い。都市のもつAd-hocな側面、都市の計画性をつねに反故にする無秩序性、局所的な車の時間最適化がつくり出す新たな道、人の一〇〇年単位の行動の変化、そういったものがみな都市の偶然性をつくり出す要因として、都市の形を変えていく。

4──渋谷の街並

4──渋谷の街並

5──《養老天命反転地》  ©ARAKAWA+GINS

5──《養老天命反転地》  ©ARAKAWA+GINS

3 Natural Computation

自然の行なう計算。それはコンピュータの行なう計算とはまるっきり違っている。例えばそれは「わかる」ということと関係のある計算である。人間の脳もまた自然現象の一部であるのだから、われわれがわかったと思う時には、脳の中にはあるパターンが生まれている。このわかるに相当するパターンを取り出して、それを「科学」することも可能かもしれない。F・ヴァレラのやったAha現象に対応する脳の研究はそれである。

白黒の図を見せて、その絵の中に白黒ぶちのダルメシアンが隠されていることに被験者が「はっ!」(Aha!)と気がつく瞬間が来る。F・ヴァレラはその気づきに対応する脳の神経活動を調べた。そうすると、気づきはグローバルな活動部位の同期現象を示し、そのあとでそれが大きく抑制されることを示していた。このグローバルな同期とその抑制が、気づくという状態に対応している。ダルメシアンが隠された白黒の写真は、もちろん変化しない。変化するのは脳内プロセスである。
これは数学の証明に対するAhaと同じで、このとき脳は特に記憶の探索をし、その記憶とマッチングをしているわけではない。わかる、というのはもっと身体的なものである。コンピュータにはそれはない。Ahaの了解の手続きこそ、われわれが外に取り出したがっているものである。わかることの形式化は、ちょっと突飛かもしれないが建築や庭園に見ることができる。例えばヨーロッパの造園の多くが自然への回帰を印象づけることが多いのに対し、日本の造園はきわめて抽象的である。龍安寺の石庭などはその顕著な例だ。この石庭は、自然への回帰でも自然の象徴でもない。それは見る側の心の形式化なのである。石庭を訪れる人は、その庭に能動的に対することによって日常的には意識的ではない知覚を獲得する。日本の庭園 は、身体性によってその人に気づきを引き起こす、まさにわかりの計算システムとみなすことができるのではないか。そうした計算を保つために庭園は、高い精度で設計されている。その意味で庭園は、完全にデザインされたレイアウトだと言える。
都市も庭園と同じように自然な計算をわれわれに与えるものである。庭園はどうしても第三者として眺めてしまうことが多いのに対し、人々は都市の中にいる。つまり人はその都市の中で生活することで計算してしまうと同時に、別の人を介した二重三重の不可視の都市のイメージが交差しながら自然計算をつくり上げている。その意味でわれわれ自身が都市に暮らすことによって、計算システムそのものに参与している。
庭園のレイアウトは、視覚的であり空間的なデザインによってつくられている。しかし、われわれにとっての空間性とは、視覚ではなく聴覚によってもたらされているとも言える。なぜなら、視覚はつねに目のある方向だけの情報を、しかも二次元の情報を三次元的にマップするものである。一方聴覚情報は上下と一八〇度すべての方角からの情報を一手に引き受けて、三次元的にマップする。聴覚空間のレイアウトを考えることは、Natural computationの新しい方向を提案することとなる。そのひとつの試みが立体音響デザイン《Filmachine》である。

7──龍安寺庭園  引用出典=内藤忠行『日本の庭』(世界文化社、2007)

7──龍安寺庭園  引用出典=内藤忠行『日本の庭』(世界文化社、2007)

4 Filmachine

巨大な球体の中心部分に向かって直方体のブロックが組み上げられている。それを取り囲んで二四個のスピーカーが八個ずつ三層をなして吊り下げられている。その空間には、さまざまな音色が飛んでくる。この音はサウンドファイルを遺伝子列と見立てて、何度もその遺伝子パターンにしたがって書き直される。その結果生まれた進化したサウンドファイルを使って作曲する。だからそのサウンドファイルには音の進化の履歴が埋め込まれており、それがそのまま音色へと反映される。
図8は二〇〇七年の夏に、山口の環境情報メディアセンターで二カ月間披露された筆者と渋谷慶一郎による立体音響によるサウンドインスタレーション《Filmachine》である。並べられたスピーカーから音源として音が流れ出ているわけではない。Huronという仮想の音響空間をエミュレートするソフトウェアを使って、別な空間をつくり出している。これを使うと、曲がりくねったり跳ね回ったりする複雑な音響空間がデザインできる。例えば、一部分の音は上から下に、一部は下から上に螺旋を描きながら運動する。あるいは徐々に音のかたまりが分岐したりする。特に音源が二次元平面をつくる「音の膜」が、試聴者の足元から上に向かって上昇していく感じは新しい知覚体験を与えてくれる。サウンドがこの円柱表面上を動き回るパターンには螺旋運動のほかにローレンツ、レスラー、ラングフォードなどの力学系のアトラクターのパターンが使われ、局在化したパターンから他のパターンへの遍歴を繰り返しつつ、それぞれに異なる時間構造を持ったサウンドが変遷していく。図9は《Filmachine》の音響空間の「楽譜」(Nuendo)である。二四個のスピーカーに対応して二四個のトラックに、セルオートマトンやカオス写像系を使ったさまざまなサウンドファイルが並べられている。この楽譜と空間の中での運動のさせ方、それをHuronのソフトウェアを使って、三次元空間へとマップする。三次元空間での運動は例えば図10のようなものである。このパターンではそれぞれのトラックの音が螺旋を描きながら上昇する。
《Filmachine》に見られるのは意識や知覚のパターンである。知覚は、ただ受動的に外からの情報を取り入れるものではない。自発的な運動とともに立ち上がる抽象的な構造物である。その巨大な実験設備として《Filmachine》は存在している。空間知覚と時間知覚は、互いに独立なものではない。例えば音が動き回るだけで、そこに空間知覚が生まれる。と同時に音の運動の変化が急激だったり、繰り返しがなかったりするので、なめらかな時間感覚を揺らがせるのである。空間知覚と時間知覚は独立なものではない。例えば音が動き回るだけで、そこに空間知覚が生まれる。と同時に音の運動の変化が急激だったり、繰り返しがなかったりするので、なめらかな時間感覚を揺らがせるのである。これが《Filmachine》の知覚の複雑さの源泉である。しかもそうした知覚の複雑さを助けるように、床は複雑な凹凸を持つデザインがなされている。また空間的に広がり運動するホワイトノイズはただのノイズではない。レイヤーされたノイズは別の音に聞こえ、平面の膜を形作るホワイトノイズは、まるでシャワーのようにわれわれの体性感覚に作用する。つまりこの音響空間のレイアウトのなか、聴覚以外の知覚が関わってくる。この理由のひとつは、ノイズのホワイト性にあるのだろう。ホワイトノイズは、そこに意味がないにもかかわらず、意味を見出そうという試みがいろいろな感覚を立ち上げる。しかし、主な理由はそのホワイトノイズのレイアウトのされ方にあるのは間違いない。聴覚と言いつつも、視覚とか触覚を総動員せざるをえないのだ。つまりはある種の共感覚性が生まれてくるレイアウトになっている。
ここであらためて、議論してきた不可視な都市を音響空間と考えてみよう。都市にはさまざまな音(サウンドスケープ)がとりまいている。このサウンドスケープが、視覚的なレイアウト以上に都市のアフォーダンスをつくり出している。現在の都市は、音響空間を積極的にデザインして、でき上がった箱としての都市の中に入れようとする。しかしそうすることによって、音はあくまで副次的なものとなる。この関係を逆転してみよう。まず音響空間があり、それが空間のフォーマットをガイドするとしたらどうか。この試みは今始まったばかりである。
このような音響空間のデザインをしていて気がつかされるもの、それはレイアウトデザインのための言語の不在である。それはわれわれの自然言語と文法とは違う、形の言語である。生命システムは方程式ででき上がっているわけではない。生命システムをつくり出すものは形の反応系である。

8──《Filmachine》 筆者提供

8──《Filmachine》
筆者提供

9──《Filmachine》「楽譜」 筆者作成

9──《Filmachine》「楽譜」
筆者作成

 

10──同、24トラックそれぞれの音が螺旋を描きながら上方から下に向かって運動している、実際に使ったパターン 筆者作成

10──同、24トラックそれぞれの音が螺旋を描きながら上方から下に向かって運動している、実際に使ったパターン
筆者作成

5 Language

生命現象には、分子の形が重要な要素として働いているのは注目に値する。例えば身体を守る免疫機構はその典型例である。免疫系における最初の認識プロセスは、Y字型のミクロな抗体分子が抗原の表面の分子の形とうまく合致するかどうかである。その結果として出現するマクロな敵か味方か(自己か非自己か)の判断は、抗体と抗体の形の複雑なネットワークで決まっているという理論がある。これをN. K. Jerneのネットワーク仮説という。Jerneはこの抗体どうしの形の相互作用を「言語の文法規則」になぞらえて議論している。文法には名詞や動詞があり、文法的に間違った文と正しい文があるが、それを免疫の形反応に持ち込もうという試みである。
図11の免疫ネットでY字型に描かれたものが抗体分子である。抗体の分子はY字の部分で他の抗原や抗体の抗原部位を認識する。しかしそのY字の形そのものが他の抗体の標的とされるのだ。それをイディオタイプという。相互に抑制し干渉し合う抗体分子のネットワーク、つまりイディオタイプのネットワークは、分子の形のネットワークでもある。
しかし人の言語というのは、より複雑な要素がある。言語は身体性によって支えられている。このことをより強く示す研究がさかんに行なわれている。言語の研究には、文法規則と語彙の表がひとそろいで頭のなかにあり、それによって人は言葉をしゃべれるようになったと考える見方と、意味と文法は不可分で、日々いろいろな文章を聴きしゃべるなかで、言葉がしゃべれるようになるという見方がある。後者を認知言語学といい、そこでは文法はあくまで結果である。確かに意味を持たない文法規則──例えばチョムスキー階層のようなもの──、それが頭の中にこつ然と存在するというのは変な話である。意味から文法が結晶化してくるという方がもっともな気もする。
言語と身体性の関連に関しては近年多くの研究がある。例えば数学者で言語学者のRafael Nuezは、プラトニックな世界と思われる数学も人の身体性と無縁ではないという。その証拠に、数学者が「無限」という概念を説明する場面の映像をとり、それが共通していることを、あるいは身体性にマップせずしては数学も理解可能ではないことを示している。Glenbergは、被験者に具体的/仮想的なモノの移動を含む文章を見せて、そのときにその文章が自然か否かを判定させる実験をした。このときYES/NOボタンの被験者からの位置関係と、文章に含まれる移動の方向(自分に向かうか相手に向かうか)の関係が干渉を起こすことを示している。つまり、文の理解には一般的に身体性へのマップを必要とする。
これに関して、イタリアの科学者のRizolattiがマカク猿で発見したミラーニューロンは示唆的である。このニューロンは、前運動野にみつかり、自分が実際にしても他人がする行為を見ても発火するニューロンなので、鏡ニューロンと呼ばれる。RizolattiはArbibとともに、言語起源にこのニューロンが重要な役割をはたしているのではないか、という理論をたてた。このミラーニューロンと類似した機能を持つものとして、頭頂葉に酒田英夫が発見したAIPニューロンは、モノを見た時にそのアフォーダンスを知覚するニューロンと言われ、これによって、運動/アフォーダンス/言語は結ばれようとしている。そもそも言語は、さまざまなモダリティを結ぶネットワークのことである。青い色という視覚と波の音という聴覚とサラサラした砂の感触と海という言葉をつなぐ。そのネットから海という言葉を聴いて海の意味が、個々の感覚を引き込む形で立ち上がる。共感覚こそが人の言語の素地にはある。
複雑系の科学の注視は、ミクロに組み合わせる形がマクロな全体をつくり上げ、それがミクロにフィードバックする循環構造にある。このミクロとマクロの循環構造が複雑系のコアであり、言語という脳の中で生じているネットワークは、そうした複雑系のアプローチで接近できそうだ。しかしこのミクロマクロ循環は言語だけではない。生活空間の中に立ち上がる建築もまたミクロに与えるものは、ものの手触り、色、匂い、柔らかさ/堅さ、音、そうしたものの集積の上に立ち上がる建築というマクロな形。多くの場合、マクロな形をつくってその上で色を塗ったり、音をつけてみたり、芳香剤を置いてみたりする。しかしそれはマクロからミクロへと向かう建築である。ここでは、ミクロとマクロの循環としての建築を考えたい。例えば荒川修作の建築は、その場所に人がたった時の五感の揺らぎから全体への構造が立ち上がっているように思える。そうした全体の構築は、建築の内部の人へと循環し、ミクロの知覚を書き換える。別な言葉で言えば、レイアウトとアフォーダンスはそこに住む人によって循環する。

外国の知らない街を徘徊する時には、五感を総動員して街を探索している。街の本屋で一語もわからない外国の古書を開き、古い教会の光りの当たり方に感心し、バーで出される肉とワインのおいしさに驚く。そのときにミクロとマクロの循環、レイアウトとアフォーダンス、自然計算が身体を駆け巡る。そうした自然な徘徊はしかし、計画をたてられたものでもなく、消費行動を伴うわけでもない。経験という目に見えないものだけが脳の中にたまっていく。
複雑系の科学は、そうした自然の計算を考える言葉を与えるものである。ただ単に込み入ったもの、ややこしい機械の仕掛けやら、遺伝システムを考えることが複雑系なのではない。経験するとはどういうことか。わかるとはどういうことか。そうしたことをコンピュータの中にいろいろなダイナミクスを構築し、発見していくことだ。そこを彷徨することで見え方がまるで違ってくる、経験の生成機であるような街とは、複雑系そのものである。

11──免疫ネット 筆者作成

11──免疫ネット
筆者作成

12──Glenbergの実験   筆者作成

12──Glenbergの実験  
筆者作成

>池上高志(イケガミ・タカシ)

1961年生
東京大学大学院総合文化研究科&情報学環教授。

>『10+1』 No.47

特集=東京をどのように記述するか?

>アフォーダンス

アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンが創出した造語で生態心理学の基底的...

>荒川修作(アラカワ シュウサク)

1936年 -
美術家、建築家。