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地表への接近──〈宙の眼〉と〈地の眼〉の界面 | 鈴木一誌
Close to the Surface : Interface of the "Eyes in the Air" and the "Eyes on the Ground" | Suzuki Hitoshi
掲載『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) pp.118-120

このところ、地上を垂直に見下ろせる場所がずいぶん減ったと感じる。百貨店の屋上など、一般市民に開かれた建物では、何重ものフェンスに阻まれて、建物の縁にまで到達できないことが多い。身投げ防止のためだろうか。肉眼で街を見下ろす機会が減少する一方で、視線の垂直性をモニタで堪能させてくれるソフトが出現している。Google MapsやGoogle Earthだ。画面を起動させ、空欄に特定の住所を打ちこむと、探索がはじまり、地点が同定される。もらった名刺にマンション名が書いていなくとも、地図探索ソフトはあっけなく建物名まで教えてくれる。地上からの高さを変更して、どんどん近づいてみる。Google Earthの場合、解像度の高い地域では、数値のうえでは五メートルまで降下できるが、あまりシャープではなく、一〇〇メートルくらいがリアルに眺められる限界だろう。それにしても、これら地図探索ソフトの〈接近〉の迫力にはおどろく。逆方向の〈離脱〉も同様だ。目盛りを操作していくと、あっという間に視点は大気圏外に出てしまう。
視線の接近と離脱に関しては、キース・ボーク(Kees Boek)が二〇世紀初頭に発表した『Cosmic View』が想起される。『Cosmic View』は、庭のアームチェアに座り赤ん坊を抱く女性をまず一メートルの距離で捉え、「一〇倍のジャンプ」を繰り返して、その隔たりを十メートル、百メートル、千メートルと増やしていく。四回のジャンプで、視野は高度一万メートルの地球大となる。同じように、一メートルの間隔を一〇分の一ずつミクロのほうへジャンプすることも『Cosmic View』はなしとげている。
見る者の感触としては、地図探索ソフトも『Cosmic View』の系列にあるが、個別の住所に降り立つ具体性と実用性が加味されている。ある地点から遠ざかり離脱することを、接近の裏返しと捉えて、とりあえずは接近のことだけを考えてみる。接近とは、「近づくこと」なのだから、目標との距離を縮めていく平面上の動きと言えようが、『Cosmic View』やGoogle Maps、Google Earthがもたらす接近の感覚は、垂直方向に生起している。視野がせばまり、一気に対象に肉薄していく酩酊感は、自身の足もとを見ている気分をともないながら、眼球から地面までの距離、つまりは自分の身長が伸び縮みしているように感じさせる。
先日、写真家の森山大道さんと話す機会があった。森山さんは、ハワイを主題にした写真集の製作中で、二〇〇七年七月刊行と聞くその作品がいまから楽しみだ。そのとき、いろいろなことが一段落したら、もういちど東京をグルグル回ってみたい、とも漏らした。好奇心にかられて、その「グルグル回る」のは具体的にどうやるんですか、と尋ねてみた。おおよそのアタリをつけ、たとえば錦糸町駅まで電車で行く。駅を出て適当にバスに乗り、気が向いた場所で降車し、グルグル歩き回るのだそうだ。これを二、三日やると、その地域のことがおよそわかってくる。地図を頼りに歩くわけではなく、とにかく気の向くままなのだが、自分がいまどこにいるかがフシギとわかり、帰りもまた、適当なバスでもどってくる。くたびれたり、自分の居場所がわからなくなったりすると、タクシーで帰ってくることもたまにある、とも付け加えた。
どちら行きのバスに乗りどのあたりで降りるかに、すでに写真家のセンサは働いているのだから、わたしにはマネのしようもないが、森山さんの「グルグル回り」が、〈ルート〉ではなく、行っては帰ってくる〈サイクル〉であることに興味を惹かれる。目当ての場所を辿る線的なさまよいではない。そういえば、森山さんが自身の撮影のようすをなにかの文章に書いていた。ポケットやウェストポーチにフィルムを突っこんで家を出る。写真を撮り、フィルムがなくなると、家にもどり、シャワーを浴びたりして、また撮影に繰り出す……。その地帯に没入し、完全に溺れてしまう直前に水面に顔を出すことが、繰り返される。
おそらく、写真家の眼前には、切りとられうる風景がのっぺりと広がっているのではない。接近し、離脱する、この運動のなかにふと兆す遭遇をレンズは待っているのではないか。被写体に向けシャッターを押すことは、被写体と関係をもつことにほかならないが、写真家は近づいては遠ざかっていく運動体なのだから、その遠心力が関係の延長を許さない。シャッターを押すことは、被写体と関係をもつことでありながら、同時に、関係を切断することでもある。その被写体は、生きものでなくともいっこうにかまわない。シャッターを〈切る〉とき、関係もまた断たれる。
電車に揺られ、バスに乗り換え、周囲の風景を見ながらどの停留所で降りようかを考えているとき、接近しているとの緊迫感が写真家を包む。だが、何丁目何番地を訪ねようとしているのではないのだから、接近は約束されていない。写真家は、地表に立ち、たしかにその地点にいるのだが、そこが遭遇に値する場所なのかはわからない。森山は、「僕が現場というのは、たんに目の前にある場所ということではないのです」(『遠野物語』[光文社文庫、二〇〇七])と語り、同時に、「僕は僕がカメラを持って立っている場所こそが、すなわち僕にとって抜きさしならない現場であり、写真のすべてである、ということなんですね」(同前)とも述べる。森山にとって撮影場所とは、ここでなければならない地点であると同時に、ここではないと思わせるパラドキシカルな場所だ。「ここでなければならない」ことと「ここではない」ことが同一地点に重なっているのだから、写真家の現場は垂直的な場所であると言えよう。「グルグル回る」ことには垂直の接近が貼りつかざるをえない。
知人から聞いた話だ。「森山大道写真集」と本のカバーに記してあれば、ふつうは森山大道が撮った写真集だなと了解する。一方、タレントやアイドルの名前が冠された、たとえば「熊田曜子写真集」をだれも熊田曜子が撮った写真集だとは受けとらない。不思議な了解事項のうえに写真は成立している。同じことは「八ケ岳写真集」という呼称にも言える。そこには八ケ岳から望まれた写真が掲載されているのか、他山から八ケ岳を捉えた写真なのか、ページを開いてみないとわからない。
写真家は、つねにある地点に立ち、シャッターを押す。では写真は、「その地点」を写すだろうか。自身の足もとをそうたびたび写すわけにはいかないのだから、写真は、つねに「その地点から」 撮られた写真にほかならない。例としてある家屋を想定してみよう。夕方の斜光を浴びて、木目が浮かびあがっている古い家を撮るとする。写真には対象との距離が必要であり、その家屋のテクスチャを定着させるには、固有の時間をもつ特定の地点に撮影者は立たなければならない。写真は、撮影者と被写体との隔たりを画面内に写している。自分が撮りたかったのは、自分の立脚点ではなくこの家なのだ、と主張しても、写真が距離を写していることに変わりはない。その場所を撮るためには、その場所から離れなければならない。距離によって、写真は対象との関係をもつことができるのだが、撮影したからといって距離がゼロになるわけではない。距離は、あくまでも接近と離脱のあいだで伸縮しているのだ。
先鋭的であるがゆえに、森山さんの言葉には写真の構造が露頭している。自身の立つ場所を写さない、いわば立脚地点の無化によって成り立つ写真は、わたしの日常生活の様態をも照らしだしている。ふだんのわたしは、そこに立っていることを忘れている。病気や障害によって、立つことそれ自体が重大事であったとしても、立つことはなにかの動作に吸収されがちだ。立って電気を点ける、水を飲む、トイレに行く……。ある地点に立つことは、別の行為のなかに霧散していき、ないものと見なされることで、立つことを含む振る舞いは、他者やモノとの関係を築いていく。立っていることの忘却と引き換えに、自身を貫く鉛直力を他者やモノのほうへ傾注する。立つことの無化が対話的であることを獲得していく、とでも言おうか。
被写体との関係を擦過しつつ切断していこうとする森山大道と、被写体との関係を画面に係留させようとする荒木経惟は、被写体との関係において対極的なのだが、撮影者の空洞を画面に写しえている点では、両者は並び立っている。〈なにを〉〈どう〉撮ったか、という観点から言えば、そこに立っていた撮影者を思わせる写真は、〈なにを〉撮ったかに従属せず、〈どう〉撮ったかを魅力的に見せることになる。
『Cosmic View』やGoogle Maps、Google Earthがもたらす、足もとへの求心は、「立っていること」の感覚をよみがえらせ、なにやら足の裏がムズムズしてくる。展望台や高い塔は、「立っていること」を自分に思いださせる娯楽装置なのではあるまいか。俯瞰図・鳥瞰図は、「見下ろしている」視角をひとびとに提供するのだが、それはただちに、なにかに「見下ろされている」との感覚へと反転する。ここにも写真的な構造がある。「見下ろしている」視点を置き去りにして、見られている側=被写体のほうへ、視覚が偏心するのだ。「見下ろしている」ことと「見下ろされている」ことの対話と言ってもよい。
自分が立つ場所を不在へと追いやることで写真を成立させるカメラマンもまた、みずからの佇立から一人称を奪うのだろう。非人称を経由することで、表現=他者へのジャンプが図られる。わたしを見下ろしているのが、富士山などの高山であるときもあろうし、さらには神や仏、雲間からの光、「お天道さま」や「今日様」の場合もあるだろうし、もはや監視衛星しか想定できないのかもしれないが、それら宙の眼に人称はない。人称のない「見下ろす」眼を経ることで、わたしは自分を見るのだ。俯瞰は、その垂直に落下するベクトルによって、足もとの感覚をよみがえらせる。「足もとは、身体感覚の最大の拠点である」(小町谷朝生『地の眼・宙の眼──視覚の人類史』勁草書房、一九九六)。

[1 高度二〇〇〇メートルから見た新宿区]では、区全域を俯瞰し、同時に、任意に選んだ一八地点から空を見上げた写真を置いてみた。[2 宙の眼から地の眼へ]は、その一八地点を、辿った順にGoogle Earthで垂直に接近し、かつその地点をじっさいに見下ろしてみた写真を並べ、[1]と[2]とで、「見下ろしている」ことと「見下ろされている」を交錯させられないか、と考えた。[3 移動の記述]は、一八地点の移動をベタに叙述できないかと書きだしてみた文章だが、三カ所分で四〇〇字詰め原稿用紙にして八枚を超え、全体を記すとしたらかなりの枚数になりそうだ。「見下ろされている自分」は、宙の眼と地の眼のあいだで激烈に揺れている。そもそも、建築物は特定の高さをもたざるをえないのだから、建築のすぐれた立ち姿は、わたしに「立っていること」を感じさせてくれる、と歩きながら思えた。

1─5──1884年生まれのオランダの教育者キース・ボークが著わした『Cosmic View』(『宇宙的視点  宇宙をまたぐ四〇の旅』)からの図版

1─5──1884年生まれのオランダの教育者キース・ボークが著わした『Cosmic View』(『宇宙的視点  宇宙をまたぐ四〇の旅』)からの図版

>鈴木一誌(スズキヒトシ)

1950年生
グラフィックデザイナー。

>『10+1』 No.47

特集=東京をどのように記述するか?