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アート・モデル表現に可能性はあるか? | 山本想太郎
Does Art-modeled Expression have Possibility? | Yamamoto Sotaro
掲載『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) pp.130-131

建築は芸術である、あるいは建築は芸術ではない、というような議論は多分に定義の遊びに陥りがちだが、一般にはやはり「建築」と「アート」は異なった表現形式として認識されている。そして特にその表現価値の考証において、それらはたびたび対照されるものでもある。ここでは、現代アートの表現概念が建築・都市にもたらしうる可能性をひとつのアート・イヴェントの経験から考察したい。

二〇〇六年、新潟県十日町市で行なわれた「越後妻有アートトリエンナーレ」において、人口減少に脅かされるこの地方都市で空家となった民家を現代アートと組み合わせて再生するという「空家プロジェクト」が展開された。このプロジェクトに建築家として参加した私が始めに直面した感覚は「圧倒的な不連続性」であった。それは東京という大都市に住む自身の日常と、農村社会においてある時点で凍結した空間とのギャップであり、すなわち通常建築が生成される状況の持つ連続性とは対極的なものであった。その不連続性を非日常性と換言するなら、いわゆるアートの特質とも近似するものであるため、ここで現代アートを成立させるだけならば、ある程度までの成果は約束されていただろう。しかしそれをもって建築表現も成立するとしてしまっては、建築はアートの下位概念に甘んじることになる。では、なんとかここに連続性を構築することはできないだろうか。
その試みのプロセスは、現代建築における日常との連続性がいかに脆弱なものであるかを顕在化させた。建築表現の連続性を象徴するべきマテリアルやテクノロジーが、ここでは建築家にとって最も不連続なものとして存在している。一方で、このトリエンナーレの目的が地域活性化であることは主催者によって明示されており、この与条件はつまるところ、「人をその場所に住む気にさせる」ということである。必然的にアーティストもまた日常性というものを意識させられたようで、出品された多くのアートは日常性を表現に挿入していた。つまりアートもまた、連続性を希求していたのである。ここで越後妻有のいくつかの作品を見てみよう。

《こころの花──あの頃へ》(アート:菊地歩)[図1]
里山の林の一角に、ビーズと針金で作られた二万本の花が広がるアート作品。地元集落の人々の協力で大量に作られた花は、手芸という日常性を端的に表現している。この作品が二〇〇六年のトリエンナーレ参加作品中最高の集客数を記録したことは、現代アートのあるトレンドを示す出来事なのかもしれない。
《小出の家》(アート:井出創太郎+高浜利也、建築:山本想太郎設計アトリエ)[図2]
《池沢の家》(アート:アイシャ・エルクメン、建築:山本想太郎設計アトリエ)[図3]
空家プロジェクトにおける、アーティストと建築家のコラボレーション作品。《小出の家》は床板をはがしたような格子状の床組みの上を歩かなければならない家であり、《池沢の家》では中越地震で家財が破壊された室内の状態を、板敷通路を渡りながら観覧する。いずれも非日常的な空間を慎重に歩かせながらも、素足による身体感覚が「靴を脱いで家に上がる」という日常性をもたらすことを意図している。
《最後の教室》(アート:クリスチャン・ボルタンスキー+ジャン・カルマン、建築:アトリエ・イマム)[図4]
ボルタンスキー氏による作品は三度この地に作られたが、二〇〇〇年の野外に吊るされた大量の白い衣服、二〇〇三年の小学校に残された物品によるインスタレーション、そして二〇〇六年のガラス・光・映像による展示と、次第に表現の直接性は薄れてきた。これは作家の中心的なテーマである人間の存在(不在)感の表現自体が、具象と抽象の連続性を追求したプロセスであるとはいえないだろうか。
《妻有田中文男文庫》(アート:カン・アイラン、建築:山本想太郎設計アトリエ)[図5]
空家プロジェクトを継承し、二〇〇七年に完成した地域文庫。読書という日常と非日常のゆらぎを空間として表現することによって、プロジェクトが継承されていくことをも象徴させようという意図のもとに設計された。実際の本を忠実に模して作られたアクリル製の本が、明滅しながら書棚空間に浮遊する。

空家プロジェクトの作品や場所自体は多くの人々にとって日常のものではないし、実体験の記憶とも直接呼応しない。しかしそこにはある連続性が生まれていた。これは、日常との連続性を渇望する建築とアートの同居という特殊な状況によって発生した効果であると考えている。それぞれアプローチの異なった日常との細い結びつきが、補完しあいつつ、全体として意識の連続性をもたらしたのではないか。つまり日常とは加算的に構築されるものであり、自然・アート・建築などにおける連続性の加算によって意識の隙間が埋められていき、強度のある連続性が生まれるというのが、私たちがたどり着いた方法論であった。

現代建築デザインの傾向として、アート・モデルによる表現とでもいうべきものの趨勢が挙げられよう。そのアーティスティックな非日常性は、たとえば都市の特異点のように強烈な違和感とともに建ち現われる建築ファサードが象徴している。この様相は都市景観のみならず、建築単体の構成においてすら内部と外観(=実用と表現)が不連続であることを露呈している。近代建築の「住むための機械」や「機能」といった言葉は、実用と表現の一体化ではなく、その概念としての完全な分離を決定づけてしまった。その分離が行くところまで行ったのがこれらのファサードなのかもしれない。
ではそれによって、建築の表現基盤は体積を持たない表層部分に矮小化し、即効性のカタルシスとして消費されるものとなってしまったのか? いや、そうではなく、これは連続性を生み出すための補完行為であるとは考えられないだろうか。これらのファサードが補完要素であると考えるならば、建築の定式化した機能の発露とはまったく異なった様相にこそ意味がある。減算的ミニマリズムや恣意性の解体表現で非日常性をもたらすことも、それが加算されるべき要素としてその場に配属されたアートであると捉えるなら、そこに建築表現が新たなる連続性を獲得し、深みのある時間のなかで感応されうる可能性を感じることができるのではないか。
アートも建築も、その表現の目指すものはある快楽であり、その快楽が日常のなかで持続することはもちろん望ましい。それが今、連続性への渇望として現われているなら、それは消費的な活動のなかで私たちが抱いている、漠然とした滅びへの不安から生み出された感覚なのかもしれない。

1──《こころの花──あの頃へ》 筆者撮影

1──《こころの花──あの頃へ》
筆者撮影

2──《小出の家》 筆者撮影

2──《小出の家》
筆者撮影

3──《池沢の家》 筆者撮影

3──《池沢の家》
筆者撮影

4──《最後の教室》 筆者撮影

4──《最後の教室》
筆者撮影

5──《妻有田中文男文庫》 筆者撮影

5──《妻有田中文男文庫》
筆者撮影

>山本想太郎(ヤマモト・ソウタロウ)

1966年生
山本想太郎設計アトリエ主宰、東洋大学非常勤講師、明治大学兼任講師。建築家。

>『10+1』 No.49

特集=現代建築・都市問答集32

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