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ユルバニスムをめぐって | 松田達
Concerning the "Urbanisme" | Matsuda Tatsu
掲載『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) pp.160-168

「計画」という呪縛

長い間「都市計画」について疑問を持っていた。なぜ「都市」「計画」であるのだろうか?  例えば建築と同水準で語られるときに、「建築と都市計画」というように、なぜ「都市」にだけ「計画」という語がつくのだろうか。本来「建築と都市」あるいは「建築計画と都市計画」と併置されるべきではないのだろうか。日本の現在の都市と都市計画をめぐる状況とその未来を考えるために、この問題は単に語の表記上の問題を超えて、日本の「都市計画」がもつ根本的な問題点を示すことになると信じている。今後の日本の「都市計画」、あるいはポスト・コンパクトシティやシュリンキング・シティ、ツヴィッシェン・シュタットというような新しそうに見えるテーマについてここで書かなければいけないことはわかってはいるけれども、それを考えるための土台を探っていけば、少なくともわれわれは一九一九年という時点にまでさかのぼらなければならない。なぜならこの年日本では都市計画法の前身である旧都市計画法と、建築基準法の前身となる市街地建築物法が制定され(一九一九年四月四日公布)、法的に現在の「都市計画」と「建築」の輪郭が明らかになったからである。いわば日本において「都市計画」と「建築」が公的に分離された年が一九一九年である。そして現在の日本の都市の姿は一九一九年に規定された旧都市計画法によって予測された範疇内にあると言うこともできるだろう。逆に言えば、この範疇のなかでどれだけ新しい都市の可能性を考えていっても、一九一九年に固められた法的な都市計画概念を前提として考える限り、この時点で規定された都市予想図を超えた、新たなる都市ヴィジョンを見つけることは難しいだろう。そもそも、都市を「計画」するという「計画概念」こそが、新たなる都市像に向けて最初に問題にすべき点ではないだろうか。「計画」しなければ都市はつくれないと思われるかもしれないが、もし「都市計画」という用語が、例えば「都市設計」という用語で流通していれば、あるいは「都市経営」や「都市整備」という用語であったならば、われわれが都市に対して持つオペレーションはまったく変わっていたのではないだろうか。そして、現に各国語における「都市計画」の対応語を見ていくだけで、「計画」という概念はアングロ=サクソン世界において一般的になっているだけで、ゲルマン世界、ラテン世界においてはまったく異なる用語と概念が「都市計画」を規定していることが見えてくる。例えばドイツにおいては都市建設 Städtebauが、フランスにおいてはユルバニスムurbanismeが対応しているが★一、いずれも「都市」を「計画」するのではない。そこに別の概念が浮かび上がってくるだろう。つまり、「都市計画」についての疑問とは、都市を「計画」しなければいけないという強迫観念を、われわれがこの語によって持たされているという問題点である。「計画」ではない別の都市の操作概念を浮かび上がらせることで、都市「計画」という呪縛から逃れることができるのではないだろうか。

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>松田達(マツダ・タツ)

1975年生
松田達建築設計事務所主宰、建築系ラジオ共同主宰。建築家。

>『10+1』 No.45

特集=都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?