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九〇年代社会学/都市論の動向をめぐって | 若林幹夫
An Introduction to Books on Sociology: Urban Studies in the 90s | Wakabayashi Mikio
掲載『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) pp.110-111

しばしば語られるように、八〇年代は記号論やテクスト論、消費社会論的な都市論隆盛の時代であった。それは、八〇年代の日本の経済的好況=バブルの下での都市の消費社会化、記号の操作を媒介とする都市や都市空間それ自体の商品化とほぼ正確に対応していたと言うことができる。やはり八〇年代に流行した、明治・大正・昭和初期の「モダン都市生活」を余裕をもって回顧する「モダン都市論」も、経済成長の末に現われた景気の高原状態のうえで、現在の都市生活の正統性を過去に求めるという社会意識の現われであった。だが、その後のバブル崩壊と経済的停滞は、都市をめぐる視線を八〇年代的なバブルが覆っていた都市の表層の下にある、広い意味での「下部構造」へと向かわせることになった。無論それは、経済的な動向を反映しているだけではない。八〇年代的な都市論の華々しさのなかに漂う空々しさに、社会学的な思考の少なくとも一部は、すでに気がついていたからだ。八〇年代後半に刊行された吉見俊哉の『都市のドラマトゥルギー──東京・盛り場の社会史』は、社会学的な都市論における八〇年代的な問題意識から九〇年代的な問題意識へのこうした移行の方向を、すでに指し示していたと言うことができるだろう。
九〇年代に都市をめぐる社会学的な知が向かった「下部構造」とは、たとえば、サスキア・サッセンの「世界都市論」が指摘した地球規模での政治経済的な構造転換であり、アンリ・ルフェーヴルやマニュエル・カステルが六、七〇年代から照準していた「空間の生産」をめぐる政治経済学的な過程であり、マーシャル・マクルーハンが見出したようなメディアによる時空の社会的な編制であり、ヴァルター・ベンヤミンが一九世紀のパリのパサージュに見出していた資本制による空間と身体とイメージの社会的編制であり、今世紀の初めにマックス・ヴェーバーやゲオルク・ジンメル、エミール・デュルケムが見ていた近代における都市の存在形態の構造的な転換である。そうした視点から現代都市を捉えようとした試みとしては、町村敬志『「世界都市」東京の構造転換──都市リストラクチュアリングの社会学』、吉原直樹『都市空間の社会理論──ニュー・アーバン・ソシオロジーの射程』、拙著『熱い都市 冷たい都市』、同『都市のアレゴリー』等を挙げることができるだろう。また、それらの視点と問題意識をゆるやかに共有しながら、八〇年代的な都市論の「バブル」がその記号の戯れの下に覆い隠してきた「都市下層」や「マイノリティ」を現代都市の構造上に位置づけ、都市の社会的な多層性と複数性を捉えようとする試みとして、奥田道大+田島淳子らによる『新版 池袋のアジア系外国人──回路を閉じた日本型都市ではなく』や、西澤晃彦『隠蔽された外部──都市下層のエスノグラフィー』、町村敬志『越境者たちのロスアンジェルス』等が現われたことも、忘れてはならない。ベンヤミンの『パサージュ論』の翻訳刊行や、シカゴ学派による都市エスノグラフィのシリーズ翻訳刊行も、こうした流れのなかで捉えられるべき事柄である。
八〇年代の都市論の問題意識を引き継ぎつつ、その問題意識と方法を深化していった分野としては、情報社会論、メディア論を受けた「メディア都市論」と、ブリティッシュ・カルチュラル・スタディーズを受けての文化研究的な都市論の展開を挙げることができる。八〇年代の記号論や消費社会論的な都市論が見出した都市空間における身体と記号のエコノミーを、メディアと生活世界の社会的な編制、そこでのジェンダーや階級、エスニシティをめぐるポリティカル・エコノミーのなかで捉えようとするこうした試みの海外における前線は、たとえば『10+1』や『〈Any〉シリーズ』によって紹介されてきた。日本におけるそうした試みはいまだ途上の段階にあるが、吉見俊哉編『二一世紀の都市社会学4 都市の空間 都市の身体』に収められた諸論考や、『10+1』に発表された毛利嘉孝、桂英史らの論考に、そうした都市論の地平を見出すことができるだろう。また、雑誌『流行観測アクロス』の郊外特集や第四山の手特集、『10+1』創刊号のニュータウン特集や内田隆三『生きられる社会』に見られた郊外への注目も、八〇年代の都市論が都心空間に見出した空間と記号、身体の戯れが内包する社会学的な意味を、より生々しい生の空間において分析しようとする試みであった。九〇年代の都市論のこうした動向を振り返るとき、国民国家と資本主義、市民社会と私生活の欲望、場所としての都市と交通・通信メディアが交差する場所で二〇世紀の都市を捉えなおそうとした多木浩二の『都市の政治学』は、この時代の都市論の問題の構図を縮図として示しているという意味で、象徴的な位置を占めていると言うことができるだろう。
このように回顧してみるとき、九〇年代は都市をめぐる社会学的な知にとってきわめて実り多かった時代であったと思われるかもしれない。だが、この国の社会学の「学界」では、こうしたさまざまな試みが「(正統的で中心的な)都市社会学」に対する「(非正統的で周辺的な)都市論」として位置づけられてきたことも、ここでは指摘しておかなくてはならない。それは、この国の都市の社会学の「正統」を自認する人々が、建築学や地理学、文化理論やメディア論等の成果に自ら背を向けてきたということでもある。けれども、「周辺」と「中心」という分節自体がきわめて政治的で体制的であるということもまた、八〇年代から九〇年代の都市論が、そのラディカルな試みのなかで示してきたことなのだ。求められるのは、そうした「中心/周辺」の不毛な再生産ではなく、「都市の社会学」を、都市そのものがそうであるような多数性と複数性へと開いてゆくことなのである。

1──桂英史『東京ディズニーランドの神話学』(青弓社、1999)

1──桂英史『東京ディズニーランドの神話学』(青弓社、1999)

2──内田隆三『生きられる社会』(新書館、1999)

2──内田隆三『生きられる社会』(新書館、1999)

3──町村敬志『越境者たちのロスアンジェルス』(平凡社、1999)

3──町村敬志『越境者たちのロスアンジェルス』(平凡社、1999)

4──西沢晃彦『隠蔽された外部都市下層のエスノグラフィー』(彩流社、1995)

4──西沢晃彦『隠蔽された外部都市下層のエスノグラフィー』(彩流社、1995)

5──奥田道大+田島淳子責任編集『新版 池袋のアジア系外国人──回路を閉じた日本型都市ではなく』(明石書店、1995)

5──奥田道大+田島淳子責任編集『新版 池袋のアジア系外国人──回路を閉じた日本型都市ではなく』(明石書店、1995)

6──若林幹夫『都市のアレゴリー』(INAX出版、1999)

6──若林幹夫『都市のアレゴリー』(INAX出版、1999)


7──奥田道大編『講座社会学4 都市』(東京大学出版会、1999)

7──奥田道大編『講座社会学4 都市』(東京大学出版会、1999)

8──『岩波講座現代社会学18 都市と都市化の社会学』(岩波書店、1996)

8──『岩波講座現代社会学18 都市と都市化の社会学』(岩波書店、1996)

9──『〈Any〉シリーズ』(福武書店、1992/NTT出版、1994─)

9──『〈Any〉シリーズ』(福武書店、1992/NTT出版、1994─)

10──『10+1』(INAX出版、1994─)

10──『10+1』(INAX出版、1994─)

11──吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー──東京・盛り場の社会史』(弘文堂、1987)

11──吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー──東京・盛り場の社会史』(弘文堂、1987)

12──ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』(岩波書店、1993─1995)

12──ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』(岩波書店、1993─1995)

Book List
奥田道大+吉原直樹監修『シカゴ学派社会学古典シリーズ』(ハーベスト社、1997─)
吉原直樹『都市空間の社会理論──ニュー・アーバン・ソシオロジーの射程』(東京大学出版会、1994)
多木浩二『都市の政治学』(岩波新書、1994)
『21世紀の都市社会学』全5巻(勁草書房、1995─1996)
『都市社会学のフロンティア』全3巻(日本評論社、1992)
若林幹夫『熱い都市 冷たい都市』(弘文堂、1992)
町村敬志『「世界都市」東京の構造転換──都市リストラクチュアリングの社会学』
(東京大学出版会、1994)
『流行観測アクロス』(PARCO出版、1977─98)

>若林幹夫(ワカバヤシ・ミキオ)

1962年生
早稲田大学教育・総合科学学術院教授。社会学。

>『10+1』 No.19

特集=都市/建築クロニクル 1990-2000

>パサージュ

Passages。路地や横丁、街路、小路など表わすフランス語。「通過」する「以降...

>内田隆三(ウチダ・リュウゾウ)

1949年 -
社会理論、現代社会論、マスコミ論。東京大学大学院総合文化研究科教授。