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歴史的港湾都市・鞆の浦 再生の「まちづくり」の生成 | 鈴木智香子+中島直人
Historical Port City Tomo-no-Ura: Generation of ʻMachizukuriʼ for Regeneration | Chikako Suzuki, Naoto Nakajima
掲載『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) pp.107-112

潮待ちの港・鞆の浦

広島県福山市の沼隈半島に位置する鞆の浦は、瀬戸内海に面した小さな港町である。眼前の瀬戸内海には仙酔島・弁天島をはじめとする数々の美しい島々が浮かぶ。鞆の浦から眺める一体は「鞆公園」として国の名勝に指定されている★一[図1]。この景勝は万葉の時代から知られていたが、一方で天然の良港にも恵まれ、瀬戸内航路中の主要な港湾都市として発達した。現在もなお、江戸期以来の伝統的な本瓦屋根の町並みがそのままの姿を残している。また、波止、焚場、雁木、船番所、常夜燈という近世の港湾の主要施設がすべて残存している港湾は、わが国でもほかにほとんど例を見ず、歴史的港湾としての価値はきわめて高い。さらに港から連続して存在する土蔵や街道沿いの町家群も、一九七〇年代の伝統的建造物群保存地区制度創設期に、指定候補地として真先に調査が実施されたことが端的に示すように、その歴史的価値も高く評価されてきた。
東京大学都市デザイン研究室有志は、二〇〇〇年四月の初訪問以来、現在に至るまでの七年間、鞆の浦で継続的な活動を展開してきた。最初の訪問は、詳しくは後述するが、歴史的港湾施設が残る港を埋め立て、橋を建設するという事業に反対を訴える地元グループの要請に応えたものであったが、研究室有志としては反対運動の支援ありきではなく、あくまで第三者として鞆の浦という町の課題や資源を析出し、望ましいまちづくりの提案を行なうという目標を定めて、埋立架橋事業に視野を限定しない活動を展開してきた。また、事業推進派、反対派の対立という状況を鑑み、研究室有志としては行政をはじめ如何なる組織からの委託も受けない自主的活動という枠組みを重視してきた。
本稿では、以上のような活動の経験を踏まえ、先ずは鞆の浦が抱える課題として、中心部での空き家の増加と埋立架橋事業計画について報告する。続いて、近年になって顕在化し、着実に成果を上げてきている地域住民主体の空き家再生をはじめとした「まちづくり」について報告する。以上を通して、歴史的市街地を有する地方小都市のまち再生のあり方について検討を加えていきたい。

1──鞆の浦の全景。 町の高台にある医王寺から眺める

1──鞆の浦の全景。
町の高台にある医王寺から眺める

人口減少と地域の空洞化

二〇〇五年、ついにわが国も人口減少期に突入した。鞆の浦では、すでに相当以前からこうした人口減少を経験している。最盛期は一万人以上の人口を抱えていたが、一九七〇年代に減少に転じ、一九七七年に一万人を割り込み、二〇〇五年三月末現在では最盛期のほぼ半分の五四〇七人となっている。
こうした人口減少に伴って、鞆の浦の市街地には、完全に居住者を失った家屋や、年に数回、帰省時にのみ使用される家屋、風呂場等の一部の特定機能のみが使用されている家屋、ほとんど物の出し入れの行なわれない物置と化した家屋(以下、本稿ではこれらの家屋を総称して「空き家」と呼ぶ)が数多く出現することになった。
二〇〇五年度、研究室有志は、鞆の浦の中心に位置する地区において、空き家の実態調査を行なった。調査対象地区は地区内の三一一棟の家屋のうち、江戸期に建てられた家屋が五六棟、明治期に建てられた家屋は四九棟あり、伝統的建造物群保存地区への指定が予定されている★二[図2]。
われわれの調査の結果、少なくともこの地区内の家屋総数の約二割にあたる五八棟は空き家であることが明らかとなった★三。このうち、一年のうちに誰も立ち入らず、物置としても使用されていない家屋も一〇棟存在していた。地域の空洞化はこうした空き家の存在、その外部効果としての町並み寂寥化に端的に示されているのである。

2──伝統的建造物群保存地区 指定予定地区内の歴史的町並み

2──伝統的建造物群保存地区
指定予定地区内の歴史的町並み

埋立架橋問題

鞆の浦における、人口減少、地域の空洞化は、歴史的市街地における高密度の住形態に対する忌避が大きな原因であるが、一方でモータリゼーションの進展も大きく関係している。車社会の到来以前の都市形態を継承する鞆の浦の街路は、自動車同士がすれ違うのもやっとの狭幅員である。歩行者と自動車との日常的共存における様々な障害はもちろん、朝夕の渋滞、緊急時の車輌の乗り入れが困難であることも否定できない。通勤等の利便性を求めての転出が後を絶たない。こうした課題に対して、都市計画はどのように応えるのか。鞆の浦の場合、その答えは、港湾部を埋め立て、港湾を架橋で跨ぐ形で広幅員の街路を建設するというものであった。
埋立架橋計画を巡る一連の動きを追ってみよう。
一九八三年、広島県は初めて鞆港の一部埋立・架橋案を福山市に提示した。現在の鞆港を約四・二ヘクタール埋め立て、県道福山│鞆線と同鞆│松永線を結ぶ線上に橋と道路(都市計画道路)を新設し、迂回路を作る計画であった。ところが、地元漁協等との交渉はまとまらなかった。県は、一九九三年二月、この第一案のほかに、埋立面積を三・三ヘクタールとする第二案、同じく二・三ヘクタールとする第三案の三つについて検討した。この結果、景観への配慮という条件付きで、必要最小限の埋立をすることに絞った第三案[図3]が了承された。そして、一九九四年二月、当初計画の交渉段階で最大のネックとなっていた漁協の第三案への同意が事態を一変させた。一九九四年七月には、初めての地元説明会を開催し、計画案に対する理解を求めた。以降、福山市による埋立架橋計画を前提としたマスタープランの策定を経て、特に埋立予定地に対する排水権を持つ住民の同意を取るべく、交渉を進めてきた。
地元の動きはどうだろうか。一九九三年には八一七八名分の署名を建設期成同盟が福山市に提出したのをはじめ、鞆町内連絡協議会を中心に事業推進の運動が継続されてきた。しかし一方で、鞆の浦の最大の財産とも言える歴史的港湾の景観を一変させる事業計画には反対の声も根強い。例えば「鞆を愛する会」は、港や歴史的文化遺産を活かしたまちづくりをしようと、県と市に計画撤回を求め、一九九二年以来、一貫してトンネルを山側に通す対案を提言し続けている。そのほか「鞆の自然と環境を守る会」「鞆の浦海の子」といったさまざまな組織が、専門的知識を有する全国区の有識者による客観的かつ総合的な視点での「まちづくりの在り方」を検討する場の設置を求めて、署名運動等を精力的に行なってきた。二〇〇六年六月には、鞆地区の人口の約四分の一にあたる一三〇〇人ほどの住民を含む合計一万二六八〇人に及ぶ反対署名が地元市民団体から広島県、福山市に提出された。
こうした反対の声は、地元では数的にはまだまだ少数派である。しかし、そうした声を後押しするように、地元の歴史団体や、全国的、世界的な専門家組織も埋立架橋計画に対して異議を唱えている。例えば、「NPO 法人全国町並み保存連盟」は、二〇〇二年九月に「第二五回全国町並ゼミ」を鞆の浦で開催し、埋立架橋計画に対しての「緊急アピール」を採択した。また二〇〇五年一〇月には、ICOMOS★四も鞆の浦の景観保全を求める決議を採択した。反対運動において、埋立架橋事業計画は鞆の浦の歴史的景観、文化的景観に取り返しのつかない損失を与えるだけでなく、新たな通過交通の誘発、騒音・排気ガスによる生活環境の悪化、一〇年以上に及ぶと予想される工事期間中の貴重な海浜生物の死滅、観光まちづくりの停滞といった、様々な課題が指摘されてきている。
また、埋立架橋事業は未着手ながら、すでに実質的な被害を及ぼし始めている。鞆の歴史的市街地の中央を横断する現状の県道(都市計画道路)は現状で幅員五メートル程度と狭隘であり、戦後間もない都市計画で将来的に七メートルへの拡幅が決定されている。しかし、先に述べたように、この県道沿いには数多くの歴史的建造物が建ち並んでおり、道路の拡幅はこうした町並みの保全と完全に矛盾してしまう。福山市は、この矛盾を背景として、埋立架橋事業で生み出される街路は、この県道の拡幅決定を取り消すために必要な代替道路であるとの論理を掲げ、埋立架橋計画と町並みを保存するための伝統的建造物群保存地区の指定はセットであるとしているのである。埋立架橋計画が実現しなければ、伝統的建造物群保存地区の指定もないというのだ。二〇〇三年には、従来市が実施してきた鞆の浦の歴史的建造物の修復改修に補助金を出すという制度を中止した。その理由が埋立架橋計画の先行きが不透明なためというセット論に基づくものであった。本来、両者がセットでなければならない理由は何もない。都市計画道路の決定幅員の変更は、代替道路がなくても、それ自身単独での決定も可能である。また、代替道路ならば、埋立架橋でなくてもトンネル案や地区内街路の改善などによる解決も十分に考えられる。福山市はそうした可能性には目をつぶり、埋立架橋計画に反対する住民への圧力とも取れる補助制度の中止を敢行したのである。老朽化が進んだ歴史的建造物の多くは行政からの一切の補助もないまま、修復されることなく次第に朽ちていっている。先に見た空き家の増加の一因でもある。埋立架橋計画は、町並み保存との不可解なセット論の枠組みの下、歴史的港湾を破壊するだけでなく、歴史的な町並みをもその存続の危機に陥れているのである。

3──鞆の浦の歴史的資源と埋立架橋事業計画(2000年2月、福山港地方港湾審議会承認)との関係  作成=筆者

3──鞆の浦の歴史的資源と埋立架橋事業計画(2000年2月、福山港地方港湾審議会承認)との関係  作成=筆者

住民たちによる「空き家の再生」の取り組み

埋立架橋計画は提案から二〇年以上が経過し、地元で推進派や反対派といった不幸な対立を生み出した。本来、地元のまちづくりを支援、誘発する立場にある福山市は町並み保存と埋立架橋とのセット論に固持し、結局、歴史的市街地の再生からは手を引いている状態である。しかし、そもそもまちの再生とは行政サイドの政策だけでなく、そこに暮らす人々の高い見識と強い意志、そして行動力によって初めて実現する。鞆の浦では、ゆっくりではあるが、着実に、住民自らの手で歴史的市街地に賑わいを呼び戻す取り組みが進められている。
一九九〇年以降、伝統的建造物群保存地区指定予定地区内において、一二棟もの空き家が住民等の手によって再生された。一度空き家と化した家屋が、現在では、飲食店や土産物店、ギャラリー、事務所等として活用され、輝きを取り戻している[図4・5]。鞆の浦で、近年特に空き家の再生が活発なのは、常夜燈から県道に至る通り(湧出町通り)の沿道である[図6・7]。
港と町一番の商店街を結ぶ港湾都市のまさに中心軸であったこの通りの沿道は、一九七〇年代後半には建造物の半数が空き家という状態にまで衰退していた。港町鞆の最盛期であった江戸中期建造の代表的な商家建築で、後に重要文化財となる太田家住宅も、母家は数軒の住棟に分割され昔日の面影なく、蔵の多くは空き蔵と化していた。しかし、一九八〇年代に、「このままではもったいない、蔵を活かそう」と、「鞆を愛する会」代表の大井幹雄氏が、所有者に願い出て、掃除をしに出入りをするようになった。その努力は、太田家住宅の重要文化財指定(一九九一)として大きく実を結ぶことになる。一九九六年から二〇〇一年まで約六年の歳月をかけて保存修理事業が行なわれた。現在、太田家住宅は大井氏をはじめとする地元住民のボランティアにより一般公開されており、町の観光拠点としてのみならず、地元住民の文化活動にも幅広く活用される場となっている[図8]。華道展・絵画展、町並みひな祭り、幼稚園生を招いたお茶会といったイヴェントが開催されている。
この太田家住宅の再生は、鞆の浦の歴史的市街地での住民主導の空き家再生の口火を切ったかたちとなり、その後、朽ち果てそうであった空き家が、喫茶店や土産物店として次々に再生されていった。こうした空き家再生に大きく貢献しているのが、二〇〇三年に設立された「NPO法人鞆まちづくり工房」(代表・松居秀子氏。以下「工房」)による精力的な取り組みであろう★五。「工房」が設立直後から取り組んでいる事業のひとつに、町並みの保全と地域の活性化を目的として、空き家の持ち主と借り主の間をコーディネートするシステムである「空き家バンク」がある。ただし、「工房」の空き家バンクは、現時点では組織立ったシステムとして運営されているのではなく、「工房」メンバーによる柔軟な人間臭い運営がなされている。代表の松居氏は、不動産業者のように取引業務のみ行なうのではなく、まちなかの空き家を見つけては、その所有者に積極的にコンタクトをとり、さらに鞆内外からの借り手・買い手希望者の細かい要望にも耳を傾け、所有者とマッチングさせ、さらにまちづくりの視点から、店舗内容や店舗デザインに至るまでの細やかなサポートまで行なっている。すでに旧酢屋のグループホームへの再生や旧洋裁屋の飲食店への再生など、七軒以上の空き家がこうしたサポートを受けて生まれ変わっている。二〇〇六年一〇月にはこの取り組みを支援すべく、各方面の専門家や鞆の浦と縁のある作家、映画監督などが発起人となり、「新・町家エイド」準備会が立ち上がった。鞆の歴史的資源である町家、蔵、社を守るために広く鞆内外から寄付を集め、改修に助成し、保存・再生をはかる取り組みを行なう予定である。つまり、かつて福山市が放棄した事業が、住民の手、そしてそれに賛同する鞆外の支援者の手で復活しようとしているのだ。
「工房」は、空き家バンクによる再生支援だけでなく、自身で江戸期に建造された歴史的な町家を取得し、旅籠として再生させる取り組みを行なっている[図9・10]。その町家は旧魚屋萬蔵宅という、幕末に坂本龍馬が「いろは丸事件」の賠償をめぐって紀州藩と談判した歴史の舞台である。しかし二〇〇三年の時点で、数年間空き家となり、放置されていた。売りに出された際は、老朽化の進行具合から一時は取り壊しという話も上がった。しかし、「工房」が、鞆の浦の貴重な歴史資源が消滅してしまうことを恐れ、設立直後にもかかわらず急遽、一一〇〇万円の借り入れを行ない購入した。二〇〇四年には設計コンペを実施し、同年五月には、米国のアメリカン・エキスプレス財団から改修費一〇万ドルの助成も受けた。そのほか鞆内外からの寄付を受けて、二〇〇七年春の完成に向けて、地元工務店をはじめとする多業種の有志チーム「鞆・Heiwa Architect 5」の手で改修工事が進められている。改修工事にあたっては、江戸期の趣を復元することに努め、屋根も鞆の特徴であった「本瓦」を葺くなど、鞆の浦の空き家の再生のモデルとなるべく質の高い空間の創出が目指されている。
「工房」は、「全国町並み保存連盟」や「NPO法人港町ネットワーク」にも加盟し、活動範囲を広げている。つまり、「工房」による空き家再生は、多様な人々や組織との緩やかなネットワークによって進められている点が大きな特徴である[図11]。
もちろん、鞆の浦の空き家再生では、こうした組織による取り組みだけではなく、個人レベルでの取り組みも重要な役割を果たしている。常夜燈まわりの通りに面する「保命酒屋」もそのひとつである。長い間放置されていた空き家に、鞆出身の岡本純夫氏が再び息を吹き込み、二〇〇一年に鞆の名産品である家業の保命酒屋として開店させた。岡本氏は、その後、ほかからの依頼を受け、同じく通りに面する小さな空き家の食料品・土産販売店としての再生のサポートや、閉店した他の保命酒屋の陶芸教室としての再生などを手がけている。


4、5──現在は、駄菓子屋兼喫茶店「田渕屋」。 交差点に位置する空き家が再生されたことで、 通りの表情も明るくよみがえった。 左が改修前の様子

4、5──現在は、駄菓子屋兼喫茶店「田渕屋」。
交差点に位置する空き家が再生されたことで、
通りの表情も明るくよみがえった。
左が改修前の様子

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6──常夜燈から県道に至るまでの通り(湧出町通り)における空き家再生の変遷。 太田家住宅の公開が、以降の空き家再生の口火を切った

6──常夜燈から県道に至るまでの通り(湧出町通り)における空き家再生の変遷。
太田家住宅の公開が、以降の空き家再生の口火を切った

7──常夜燈から県道に至るまでの通り (湧出町通り)

7──常夜燈から県道に至るまでの通り
(湧出町通り)

8──太田家住宅

8──太田家住宅


9、10──「龍馬の家」改修によって、江戸町家が息を吹き返した。 9=改修前、10=改修後 撮影=NPO法人鞆まちづくり工房

9、10──「龍馬の家」改修によって、江戸町家が息を吹き返した。
9=改修前、10=改修後
撮影=NPO法人鞆まちづくり工房

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11──「NPO法人鞆まちづくり工房」 を中心とした空き家再生の体制 作成=筆者

11──「NPO法人鞆まちづくり工房」 を中心とした空き家再生の体制
作成=筆者

再生の「まちづくり」からの
「都市計画」への問いかけ

鞆の浦では、空き家がひとつ、二つと解消され、町が少しずつ明るくなっている。こうした動きは、残念なことに「都市計画」によって生み出されたものではない。住民たちが、内外の民間の様々な組織や人々との有機的な関わりの中で、一軒一軒の小さな改善、ただし元の所有者や借り手、買い手、そしてそれらを結び付ける人々の鞆の浦のまちに対する大きな思いが込められた丁寧な改善を積み重ねる取り組みが生み出してきたものである。鞆の浦では、先人が築き上げた歴史的資産に敬意を払いながらも、現代のライフスタイルに合わせて新しい風を吹き込むと言う、謙虚でありながらも挑戦的な取り組み、つまり歴史的市街地の再生の「まちづくり」が確かに息づいている。
では、「都市計画」は何をしていたのだろうか。未だに地域振興という名の下に、かけがえのない地域資源である歴史的遺産を脅かしながら、道路、橋梁等の大きくて硬い工事にばかり目を輝かせていたのではないか。再生の「まちづくり」が示す細やかさ、そして柔軟さとは対照的に映る。「都市計画」が本来果たすべき役割とは何か。鞆の浦の再生の「まちづくり」は、厳しく問いかけてくる。
東京大学都市デザイン研究室有志は、鞆の浦の再生の「まちづくり」の生成の現場に立ち会う幸運に恵まれた。その間、鞆の浦の資源や課題、そして再生の「まちづくり」の進むべき方向を解き明かすべく自主的に企画した調査の結果をまとめた『鞆雑誌』の発行[図12](これまでに計三冊を発行。累計一〇〇〇部近くを出荷)、および空き家再生のデモンストレーションの意味も込めて、『鞆雑誌』の内容を住民の方々、来訪者の方々に対して発表、説明、そして交流する場として、空き家を使用した展示会「T-House」「まちづくり博覧会」[図13]の開催を主軸に活動を展開してきた。また、地元NPO主催でまちの資源の再発見をテーマとして、住民の方々や鞆の浦に関心を持つ方々を対象に開催した「鞆学校」や、地元開催の全国町並みゼミなどの運営に協力してきた。いずれも、「まちづくり」生成の現場において、その場その場でわれわれなりに精一杯の力を提供し、支援しようとしたのと同時に、実は住民の方々と一緒になって「まちづくりって何だろう」を考えようという意図での活動であった。
今後もわれわれは、鞆の浦の再生の「まちづくり」を支援し、「まちづくりって何だろう」を考え抜いていくだろう。そして、「都市計画」を志す者として、その再生の「まちづくり」から「都市計画」のあるべき姿を展望していくつもりである。

12──『鞆雑誌2006』

12──『鞆雑誌2006』

13──2005年11月の第1回 「鞆・まちづくり博覧会」の様子 特記以外はすべて、 撮影・作成=東京大学都市デザイン研究室有志

13──2005年11月の第1回
「鞆・まちづくり博覧会」の様子
特記以外はすべて、
撮影・作成=東京大学都市デザイン研究室有志


★一──国指定名勝・鞆の浦の多島美は古くから瀬戸内を代表する景観といわれ、江戸時代には朝鮮から訪れた朝鮮通信使に「日東第一名勝」(日本で最も優れた景勝地)とまで讃えられた。
★二──NPO鞆まちづくり工房提供資料より。
★三──なお、本調査の詳細は、日本建築学会技術報告集第二四号(二〇〇六年一二月)に掲載予定の「歴史的市街地における低未利用家屋の継続要因と再生方策──広島県福山市鞆町を事例として」を参照。
★四──International Council on Monuments and Sites=国際記念物遺跡会議。ユネスコの諮問機関で、文化遺産の保存修復に関する研究を行なう非政府組織(NGO)。「世界遺産」候補地の調査・評価などの活動を行なっている。
★五──NPO法人鞆まちづくり工房による空き家再生の活動が、「瀬戸内の港町鞆における空家再生」として「二〇〇五年度グッドデザイン賞・中小企業庁長官特別賞」を受賞した。

参考文献
●山陽新聞社編『鞆の浦  今昔』(山陽新聞社、一九九六)。
●『造景』第三六号、四〇──四八頁(建築資料研究社、二〇〇二)。
●松下正司編『埋もれた港町 草戸千軒・鞆・尾道』(平凡社、一九 九四)。
●福山市鞆の浦歴史民俗資料館友の会編『鞆の浦の自然と歴史』(福山市鞆の浦歴史民俗資料館、二〇〇二)。
●日本大学理工学部都市環境研究室編『Mook 鞆』(二〇〇三)
●鞆まちづくり工房HP
http://www.vesta.dti.ne.jp/%7Enpo-tomo/top/top.html
●福山市鞆町のまちづくりHP
http://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/tomo-machidukuri/index.html

>鈴木智香子(スズキチカコ)

1982年生
東京大学大学院。東京大学大学院博士課程/都市計画・まちづくり研究。

>中島直人(ナカジマナオト)

1976年生
都市計画学。

>『10+1』 No.45

特集=都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?