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過去の景観 未来の景観 ベルリン 東京の景観考 | 斉藤理
Past Landscape, Future Landscape: On the Landscapes of Berlin-Tokyo | Tadashi Saito
掲載『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) pp.104-111

つい先日のことである。筆者の自宅近くで電線を地中埋設する工事が始まった。広い公園の脇を通る道の景観を全面的に改修しようというものだ。ほどなくして、電柱のない「美しい」通りは完成した。ところが、だ。はたと気づいたのだが、大通りの電線を埋めたぶん、今度はその枝線にあたる小径に面したわが家の前の電柱には、数知れぬ碍子やら、「マル灯」などと機械的に書かれた灰色の箱類、それらを接続している剥き出しの黒いゴムの大群といった、見るからに醜悪な装置が倍となってぶら下がっているではないか。
ポチョムキンではあるまいし、何ゆえ大通りを美化するしわ寄せとして、毎朝カーテンを開ける度にこの無機的な装置類の数々と対峙しなければならないのか。数年前より景観法が新たに導入され、電線の問題も含めた日本の都市風景についての議論が活発化していることは歓迎すべきことである。しかし、その潮流によって結果的に表裏をもった景観構造、すなわち美観に配慮すべき部分/しなくてよい部分といった妙な空間的差別化や景観の断片化をもたらすとしたら、一体この施策に何の意味があるのだろうか、とため息混じりに思う。
景観の問題を表層の問題として捉えることも、建築家や都市計画家、行政官だけがその担い手であると捉えることも無論誤りである。景観とは、根本において歴史や文化、経済活動と深く関わる共同体的テーマなのであり、これを一義的に規定化しようとすれば、やがて同語反復的に展開する単調な街並みばかりを生み出す。
そこで以下には、あえて、景観の深層を流れる歴史性、時間性の側に焦点を当て、この問題の再考を試みたいと思う。対象としての景観だけでなく、事象としての景観を導き出すことができないかという試みである。その際、二つの時間軸──主体の意志とは関わりなく単調にクロノロジカルに進んでいく「均一な時間軸」と、主体の経験、意識、記憶に深く関わり、それによって長くなったり短くなったり、あるいは停止したりする「記憶の時間軸」──を理解の拠り処としながら、日々変貌を遂げる街、ベルリン─東京に事例を求めてみよう。

1  復元される景観──失われる記憶

二〇〇六年二月、寒風まだ厳しいベルリンの街角では、ある建物の解体工事が厳かに始まった。旧東ドイツ体制のシンボル、旧共和国宮殿の取り壊しである。ニュース映像などで記憶にある方も居られるだろうか。東独最後の宰相ホーネッカーなど、時の権力者がお立ち台であるバルコニーに立ち、広場を埋め尽くし忠誠を誓う大群衆を前に演説を繰り返したあの建物である[図1]。
ロシア構成主義の影響を感じさせる平滑な白い外壁も、陽光を受けつつ何となしに不気味な輝きを放つ銅色をした鏡面ガラスも、大型の機器によって一枚また一枚とじわじわ剥がされ、やがて無機的な躯体を露にさせていく。解体の開始は、テレビ映像として全国に伝えられたほか、解体現場を見学する観光客を見込んで、建物の歴史を辿る解説パネルや、解体現場を俯瞰できるコーナーまで設けられた。
しかし、この建物の解体がこれほどまでに注目されたのは何故か。
それは、この旧共和国宮殿が、歴史的記憶の幾重にも折り重なったのっぴきならない敷地の上に建てられていたからにほかならない。
ベルリンの「博物館島」と呼ばれる一画にある敷地には、そもそも一五世紀以来拡張を続けてきた壮麗な「ベルリン王宮」があった。とりわけ、一八世紀に時の宮廷付き建築家アンドレアス・シュリューターの手で加えられたバロック様式の外貌・平面がこの王宮の基本形となり、後の一九世紀になると、かのプロイセン建築家シンケルも内部の改装に携わっている。当時の画家ゲルトナーらの都市風景画にも必ずといってよいほどにこの由緒正しいバロック様式の王宮が描かれている。
時は移り二〇世紀、第二次世界大戦の爆撃を受け大きな痛手を被ったが、これを継承した東側の社会主義体制は建物を一切修復することはなく、逆にそれまでの歴史を全否定するかのように払底した。一九五〇年のことであった。
その後、社会主義体制の黄金期を迎えた七〇年代になると「ドイツ民主共和国(=東独)宮殿」として先に挙げた白亜の城が築かれる。大会議場にホール、レセプションルームの数々。その規模の大きさは社会主義の正統性を標榜するに十分であった。巨大な戦艦のような建物は、これまた威容を誇った背後のテレビ塔と一対を成し、東ベルリンの景観を特徴づけたのである。
そして壁の崩壊。再統一されたベルリン市中心部に位置する旧宮殿の利用法については、当然、都市計画上の大きな関心事となり、ひいては政治的な議論にまで発展していく。
旧西側の市民の多くは、ベルリンの歴史的地区に景観上そぐわないガラス張りの建築の撤去、かつてのバロック様式による宮殿再建を望む一方、旧東側では、自らの時代的記憶を抹消されることへの躊躇いが根強く、ベルリンの東西で意見は割れた。ドイツの統一、ベルリンの統一を進めようとする計画のはずが、その地層に深く眠るどの記憶を選択し、新たな都市景観として復元させるかで逆に東西の分断面を露呈させてしまうという皮肉な状況を生んだ。
宮殿再建の問題は、二〇〇一年一月より有識者らより成る諮問委員会「歴史的なベルリン・ミッテ地区」を遡上に議論が繰り返された。ベルリン中心部を戦前の景観にまで戻すのか、あるいは東独の記憶として今の景観を遺すのか。さらに、新生ベルリンに相応しくそのどちらでもない新しい第三の景観を創造できるのか。さまざまな意見が飛び交ったのである[図2]。
なかでも、三番目の主張を支えていたのは建築家らであった。当時の新聞を読み返してみると、最も強い調子で宮殿再建を批判しているのは、戦後におけるドイツ建築界の重鎮O・M・ウンガースで、「バロック様式のコピーを行なうなどもってのほか。当局の反動的姿勢の表われだ」と言う。またR・マイヤーなどは「再建が有益なこともあるが、賛否両論分裂するこの場合は新しく造ってはどうか」との表明を出している。しかし、数年間にわたる討議の末、最終的にはドイツ連邦議会にて「王宮再建」が決議されたのである★一。
旧東ドイツ時代の歴史をどう総括するかは、その歴史の当事者であったか否かという立場の違いによってさまざまであろうし、ある程度の年月が経過したうえで漸く正当に評価できる部分もあろう。だが、少なくともこの建物を舞台にして刻まれていった出来事が、それぞれのコミュニティのレヴェルにおける記憶の時間軸形成に強く影響していたことは間違いない。事実、旧東独市民のなかには、建物正面にて「私たちは君(=宮殿)を助けたい」とのメッセージを掲げたり、花を手向け蝋燭を灯したりする者まで現われた。加えて、旧西側の人たちのなかにも、バロックの王宮はフリードリッヒ大王からビスマルクに至るまでの強権政治のイメージと重なるという理由から再建反対に回る者もいた。
こうした動向から垣間見えてくるのは、景観の議論は、各共同体が抱える歴史性、時間性の解釈に深く関係し、本質的にきわめて複雑多岐に亙るものであるうえ、以降の歴史観をも左右する深遠で未来的な主題であるという事実である。景観は、画像として単独に存在しうるものではない。審美的に美しいか否かという意匠上の問題に留まらないことはもちろん、人々の記憶というきめ細やかな次元に基づくならば、「歴史的景観」という一条のメインストリームをきれいに描き出すことなど実は幻想に過ぎないし、恣意的であるということも思わされる。

現在なおも行なわれている東独時代を代表する建造物の撤去は、共和国宮殿だけに留まらない。それらは、ひどい老朽化とそもそもの安普請を理由に、住宅から商業・政府施設に至るまで次々と撤去され、代わりに西側の資本・技術をあえて見せつけるかのような目新しいガラスのビル群が立ち並ぶ景観へと置換されつつある。ベルリンを貫く二つの大通り、ウンター・デン・リンデンとフリードリッヒ通りの交差点にあった老舗ホテル「ホテル・ウンター・デン・リンデン」なども、今まさに時を同じくして瓦礫の山へと徐々に姿を変えている。東ドイツ時代に生きた人々の記憶も飲み込みながら。
こうした動きは旧東側の市民感情としては複雑である。十数年前、鶴嘴を手に東西を分け隔てていた壁を打ち崩した先に、その鶴嘴の矛先が今度は自らに向かい、足跡を刻みつけてきた空間を根こそぎ壊すことになるとは誰ひとり考え及ばなかったことだろう。
記憶の景観を喪失するという事態は、とりもなおさず自らの記憶の時間軸までをも瓦解させていく。数年前からベルリンで囁かれるのは、「オスト(東)」と「ノスタルギー(郷愁)」とを掛け合わせた「オスタルギー」という造語である。ささやかな抵抗心が見え隠れするこの言葉からは、今後ベルリンが基盤としていく記憶の時間軸が音を立てて転換されつつあるという事実を窺い知ることができる。
東独時代を時間軸の外に置き、それ以前の記憶の地層である一九世紀的景観を復元させていくという選択がベルリンにとって妥当であったか否かということは、未だ誰にも判断できないだろう。それはこれから規定されていく事柄である。ただ、拠り処とする記憶の時間軸を明確にし、オープンな議論の場を設けていることは大いに範とすべき点である。何しろ、景観の問題を当該敷地の建築当事者間だけの問題とせず、議論が「市民─当局─建築・都市プロパー」のライン上を滑らかに往復するよう誘導されていたことは評価されてよいと思う。また、表層的な美しさや抽象的なレヴェルでの場所性を一旦留保し、歴史性と未来像という固有の時間軸を共通認識の土台としながら議論を立体化させていたことも印象深い。

1──旧共和国宮殿 引用出典=Thomas Beutelschmidt & Julia M. Novak, ed., Ein Palast und seine Republik, Ort-Architektur-Programm, Berlin, Verlag Bauwesen, 2001.

1──旧共和国宮殿
引用出典=Thomas Beutelschmidt & Julia M. Novak,
ed., Ein Palast und seine Republik, Ort-Architektur-Programm, Berlin,
Verlag Bauwesen, 2001.

2──保存を呼びかける広報誌 『Foerderverein Berliner Stadtschloss』2001年10月号

2──保存を呼びかける広報誌
『Foerderverein Berliner Stadtschloss』2001年10月号

2  創作の自由──または伝統的景観

宮殿の再建問題は、「都市の歴史認識──景観形成」との間をどのように調整するかに眼目があったが、九〇年代のベルリンの中では「建築家の造形の自由──景観形成」を軸に繰り広げられた議論もあった。ここに「ベーニッシュのガラス論争」について挙げてみたい。
話の端緒は、二〇〇五年春にオープンを迎えた新しい「ベルリン芸術アカデミー」の建物であり、その相貌の是非をめぐって大きな論争があった。
敷地は、ベルリン中心部のブランデンブルク門のすぐ傍にあたる。一帯は「パリ広場」と呼ばれ、ベルリンの最も歴史的にして、また今日では文化観光のハイライトとも言える場所となっている。アカデミー自体も一七世紀から続く美術・建築・音楽の名門であり、戦後は、あのハンス・シャロウンも会長に名を連ねている。ナチス時代にA・シュペーアが三〇メートルにも及んだというゲルマニア計画の模型を制作・展示した場所として認知されている方もおられるのではなかろうか。
さて、その一九世紀来の古典主義的ファサードをもったアカデミーの建物は、第二次大戦による被害を受けながらも、続く東西分裂時代においては東側に組み込まれたため、長年廃墟のまま放置されてきた[図3]。そして、東西統一が達成された後、このアカデミーを組織のうえでも建物のうえでも再建する話が出たのである。周囲には、英、仏、米などの大使館が再びこのパリ広場に戻ってくるという決定がなされ、ブランデンブルク門周辺の歴史的景観を復活させようとする気運は一気に高まっていた。
一九九四年、G・べーム、J・シュルマン、H・W・へーマーら一八人の建築家が参加し、アカデミー内部でコンペを実施。選ばれたのが、建築家ギュンター・ベーニッシュの総ガラス張りのファサードを成した作品だった。これまでにもミュンヘン・オリンピック競技場をうねるガラス膜で造形したり、ボンの旧西ドイツ連邦議会においては民主的透明性をガラスで表出させたりと、「ガラスの建築家」を自負するベーニッシュとしてはごく自然な解であったと言えよう。
ところがこの案をめぐっては、市当局のみならず一般市民の間からも厳しい意見が出される。「一面ガラス張りのファサードはこの歴史的景観を配慮すべき場所に果たして適切なのか」。ベルリン市当局は、それまでもファサードには伝統的建材である石材を用い、高さ、階層構成、窓割りなども伝統に従うよう促してきた。こうした経緯を後ろ盾に、反対派の陣頭に立ったのはベルリン歴史協会などで、当初の歴史的なファサードをそのまま再現するよう主張したのである。
一方、芸術アカデミーやベーニッシュの側はこう反論する。
歴史的建築物をそのまま再現したのでは、今を生きる建築家の存在意義も創造性も喪失するのではあるまいか。新しい建材を用いてかつての複製品を生み出しても、それは単なるまがい物キッチュである。しかも芸術アカデミーの拠点において「創作の自由」が制約されるのはおかしいと。
無論、ベーニッシュの側でも歴史性や伝統的景観に配慮していなかったわけではない。かつてのファサードを成していた窓配置等の要素をプロポーションのみトレースし、ガラス面の構成に反映させている[図4]。また、廃墟となっていた建物部分をガラスで覆うことによって、逆に古さを際立たせようとも意図していたという。しかし、この極めて建築プロパー特有の発想だけでは反対派を納得させるには及ばなかったのである。両者の調和点を見出すことができないまま、数年間にも及ぶ紆余曲折の末、最終的にはガラスの顔をもった建物がオープンした。
結局のところ、「ガラスか石材か」という相貌の差異に捉われた議論をしている限り、こうした問題は収束点を見出しにくいだろう。伝統的景観を望む側にしても、ガラスのファサードが素材の次元において不適ではないかという主張だけでは深みを生まない。仮に石材を用いて過去の景観を再現しえたとしても、これから都市が刻み続けていく時間の歩みそのものを反転させることはできないのである。都市の時間軸に混乱をもたらすだけであろう。
ベーニッシュの意匠の是非は兎も角も、もし建築家がその場その場で異なる記憶に対し謙虚に接し、過去と未来という時間の糸を丁寧に紡ごうとしているのならば、少なくともその提案に傾聴することも必要ではなかろうか。こうした意見は少なくない。

3──戦前の芸術アカデミー

3──戦前の芸術アカデミー

4──ベーニッシュのファサード案(模型) ともに引用出典=Akademie der Kuenste Berlin, ed., Die Akademie der Kuenste, Berlin, Ernst&Sohn, 1995.

4──ベーニッシュのファサード案(模型)
ともに引用出典=Akademie der Kuenste Berlin, ed.,
Die Akademie der Kuenste, Berlin, Ernst&Sohn, 1995.

3  不在の景観──表白される記憶

もうひとつ事例を挙げてみたい。二〇〇五年五月、芸術アカデミーの完成と時を同じくして、ベルリンの中心部では、ピーター・アイゼンマンによる《ホロコースト記念碑》が落成した[図5]。一九八八年、ジャーナリストのレア・ロッシュがこの記念碑の建設を提案してから実に一七年の歳月が流れ、ようやく実現に至った。
ホロコースト記念碑とは、ナチスによって大量虐殺されたヨーロッパのユダヤ人犠牲者を慰霊する目的で造られた場である。およそ一万九千平方メートルという広大な敷地に、実に二七〇〇あまりの打ち放しコンクリート製の石碑がグリッド上に並ぶ。石碑の高さやグラウンドレヴェルに変化をもたせることで、なだらかな丘状の起伏を生み出している。周囲には柵や入り口など特定の境界はなく、来訪者も二四時間、中を縦横無尽に歩き回れるという。
さらに、石碑群は全体に地下のレヴェルに落とし込まれているため、これらが視覚的に街路を圧するということもない。街路の立面図としては、景観を形成するものがなく、敷地そのものは言うなれば都心の大きな空隙になっている。
それはなだらかな丘とも言えるし、迷路空間そのものが無表情な都市街路の縮図であるとも解釈できるだろう。多様な解釈をもたらす場である。
このような解を導き出したことで、ひとつには、都心の一等地に広大な「無」を創り出すことを以って、並々ならぬ謝罪の念を内外に向けて表現することが叶ったと言える。元より都市の景観は権威・権力の発露と直接的に結びつくことが多い。建築物の威容を借りて人々の前に権力が誇示されるのである。それはナポレオン三世下のパリを見ても、フランツ・ヨーゼフ下のウィーンを見ても合点がいくし、とりもなおさず冷戦下の東西ベルリン自身こそが、双方共に後背地に広がる体制の正当性を誇示するショウ・ウィンドウとして機能していた。
またいまひとつには、訪れた者が負の記憶が集積する渦の中に身を置き、自らの体感を以ってこの歴史の意味を読み解いていくという「記憶の時間系を顕在化させる」施設としても機能することが指摘できる。いずれにしても、ここでは何ら象徴的な景観を示さないことこそ、すなわち、平面的に広がる「不在の景観」を呈示していることこそが意味を成す。景観としては現象的に見えない記念碑、あるいは不在であることが暗示されている建造物は、観る者の意識を内へ内へと向けさせるのである。
建築物ではないが、クリスチャン・ボルタンスキーが手掛けた《消えた家》(一九九〇)と題する作品は、作品としての実体を提示する代わりに、爆撃によって破壊された家の住人名を幾枚ものプレートで表現する。そこには実体として顕在化する景観はなく、観者は場を包み込む記憶の時間軸を媒介に作品を読み解かなければならない。
また、ゲルツ夫妻による《ハンブルク─ハンブルク》(一九八六)も思い出されよう。これは観者が作品に文字を刻み込む度に作品そのものが消えていくという時限消滅的な表現を採る。存在し続けることに固執するのではなく、逆に自己を動的に解消させていくことで、観る者はいやがうえにも深層を成す時間性へと意識づけられていく。
こうした試みは、一瞥のうちに対象を認識させようとする従来の景観論に対峙し、その場その場が本来的に備えもつ時間の多様性に触れ、主体的にその内容を理解させていくという意味で、新たな景観形成の扉を叩いていると言えまいか。予定調和的な全貌を規定してしまうのではなく、部分の意味の集積が景観を紡ぎ出そうとしているのである。

5──ホロコースト記念碑(建設時の写真) 筆者撮影

5──ホロコースト記念碑(建設時の写真)
筆者撮影

4  東京の景観──「凹=ボコ建築」という選択

上に見た都市ベルリンには、三つの事例──東西の記憶がせめぎ合うという事態、現代の素材・表現法と伝統性の継承という問題、さらに物体性よりも内在する時間性を浮かび上がらせる手法──が確認された。いずれも都市の自己同一性を鑑みながら、自らの足下を流れる時間軸と、表出する景観との間の連続的な関係性を築こうとしている点で示唆的であった。これを踏まえ、東京の景観の未来像に目を向けてみよう。
無論、モニュメンタルな建築物が連続することによって景観を形作ってきた欧米の環境論を直接引き合いに出すことには自ずと限界があろう。景観と言うと、誰しも壮図を描きがちであるが、東京の場合、まずはより小さな単位で景観問題を見つめ直すことが適当ではないかというのが私の考えである。そこで次の事例である。
両側を高い建物に挟まれた小さな建物、都心で見かけたことはないだろうか。とりわけ法定容積率の高い主要通り沿いにしばしばできうる景観である。高い新しい建物と、真ん中の比較的古く、低層の建物の外形線をなぞってみると谷状に窪んだ形状が現われるので、この小さな建物を「凹=ボコ建築」と、親しみを込めて定義づけることにしてみよう[図 6a、b]。
ボコ建築のセットは、言うなれば東京の景観の現状を映し出す縮図である。これは、土地利用に対する二つの極論を露呈させている。
両脇の高い建物は、限られた敷地の容積率を許容しうるだけ活用し、建物のヴォリュームを定めていく。合理的な考え方だ。しかし、他方の小さい建物では、敷地からの与条件に基づくというよりは、むしろ住み手や使い手の必要に応じて量塊が決まっている。無論、これも前者のように建替えることは可能だが、あえてそうした選択をしていないという意味で、ここには合理的ではない存在理由がある。立ち退きには応じたくないという土地や地域への愛着もあるだろうし、建物そのものへの親しみの情が関係している場合もあろう。少なくとも、均一な時間軸に基づく「敷地(=サイト)」に依拠するあり方ではなしに、密度の高い記憶、トポスとしての場を尊重するという意志表明がここにはある。小さなボコ建築は、都市に本来的に存在する時間の多元的厚みや、トポスを維持することの意義を健気に訴えているように見えてならない。

こう考えてくると、ボコ建築が今なおそうした状態を保っている理由を探ることこそが、東京の景観を理解する緒をもたらすのではなかろうか。
東京駅の目の前にある《東京中央郵便局》(吉田鉄郎設計)なども最近、国有財産の有効活用という議論のなかでしばしばやり玉に挙げられている。この建物も俯瞰して見れば、丸ビルなど高層ビルに囲まれたまさしく小さなボコ建築の立場にあり、今、合理的な街区形成の波にさらされている。何でも、都心の一等地にも拘わらず、わずか数階建てのビルにしておくのでは効率が悪い。丸ビル級の高層建築とすれば年間百数十億の利益が出るという試算がまことしやかに語られている。
周知の通りだが、この郵便局舎は、ブルーノ・タウトはじめ多くの識者が、日本的美しさと近代的機能性とを見事に融合した作品として幾度となく賛辞を送っている秀作である。これを「上空が空いているから」という理由で取り壊すとしたら、この建物が織り重ねてきた重層的な時間性と、場が有する潜在性をあまりにも一面的に判断し過ぎることにはならないか。
こうした東京のボコ建築の今後を案じていたら、バージニア・バートンの『ちいさいおうち』という物語を思い出した。一九四二年の作品だ。最近、児童文学書のなかでも再び注目されてきているようで、ご存知の方も多いだろう。
とある静かな田舎に小さい家があった。小さい家はのどかな自然の中でゆったりと移りゆく季節を楽しんでいた。ある日、付近に自動車が走るようになり、やがてトラックだのローラー車だのがやってきて、家の周囲はすっかり都会の喧騒に覆われてしまった。両側に高層ビルが聳え建ち、小さい家はその間に完全に挟まれてしまう。都市化の波に完全に取り残され、薄暗い環境の中で孤立化していく小さな家。小さなスケールをもったこの家を振り返る者はもはや誰もいない。しかし、あわや取り壊しというときに、そもそもの所有者の孫子が現われ、小さな家を丸ごと郊外へと曳き屋して保存。元通りの幸せな田舎生活が戻った、という内容の絵本である[図7]。
この話の意図するところは、小さな家へ愛情を傾けることと、郊外のもつ自然の豊かさ、快適さを説くことにあったのだろうが、今一度読み返してみると、ほかに物語の終わり方はなかったのかなどと考えてしまう。周囲の時間軸との間に齟齬を来した小さな家が、空間的に都心から切り離されるというかたちでこの問題は解決されているのであるが、それは喧騒に満ちた都市そのものを変えることには繋がらない。作者にとっては、小さな家を都市の中で助けるなどという設定は毛頭ありえなかったのだろう★二。
思えば、戦後の景観論は、この「郊外には自然豊かで快適なユートピアがある」という潜在的可能性の提示を順当に受け入れ続けたことで、都心の景観そのものに目を向ける機会を失っていたのではなかろうか。由緒正しさと稀少性が認められれば、郊外の博物館施設等に移設される場合もあったが、保存論議の遡上に載せる術なき、至って平凡なボコ建築などは、その記憶を顧みられることもなく、ただ均質な時間軸の波に飲み込まれてきた。
しかし、今、世界の先進国のなかでは「シュリンキング・シティ」、すなわち「縮小化する都市」が主題を成しつつある。人口の減少に伴い、治安維持、高齢化社会へ向けた都市内移動の効率性等を考え、団地などを間引きしながら取り壊すといったスリム化プロジェクトが進行中である。全体の潮流としては、もはや助け手としての郊外はなくなりつつあり、今後は都心の中において、さまざまな時間軸が折り重なる事態に向き合い、適当な景観を創り出していかなければならなくなるのである。その際、相貌を一律に規定し、その場その場が自然に紡ぎ出してきた乱雑さや、建築家の作家性の入る余地がなくなるとすれば、都市の魅力そのものを失うことになる。問題は、景観を表層として捉えることではなく、それを深層で支える「記憶の時間軸」の存在をより意識的に捉え、そのレヴェルにおいて未来の景観に関する合意を形づくることではないか。
その意味で、私が指摘してきた景観とは、見た目の「景観=Aussicht」というよりは、「景域=Landschaft」と表現するほうが適切かもしれない。景域とは、歴史・文化の今日性を孕み、人々が共通の共同体意識をもちうる街並みを指す。したがって、景域は固定化に向かうのではなく、時代の要請にしたがって変容し続ける。そのなかで過去の記憶が、均質に流れる時間軸との間に矛盾のない調和点を見出すことができれば、合意形成の取れた景観となって立ち現われてくるはずである。景域の考えに基づけば、時計の針を不自然に巻き戻すかのような景観復元もまた抑制されるであろう。
時間性は、意識しなければわれわれの前に現出してこない。記憶の時間軸に対する人々の意識が弱まれば、景観形成はただ均質的な時間に支配されていってしまうことだけは間違いない。今求められているのは、都市の時間軸に関する、きめ細やかで誰もが参加可能な議論の場である。

6a、b──ボコ建築 筆者撮影

6a、b──ボコ建築
筆者撮影


7──作・絵=バージニア・リー・バートン 『ちいさいおうち』(石井桃子訳、岩波書店、1965)挿図

7──作・絵=バージニア・リー・バートン
『ちいさいおうち』(石井桃子訳、岩波書店、1965)挿図


★一──旧共和国宮殿は二〇〇七年までゆっくりと時間をかけながら解体され、その後に再建されるべき王宮の建設開始は、計画の遅れから二〇一〇年ごろになる見込みという。
★二──一九六〇年代になって出された『ちいさいおうち』のW・ディズニー版(邦訳=『小さな家』講談社、一九六八)では、周囲にビルが立ち並び始める都市化の過程がより誇張されている。小さな家の両側にこれ見よがしの新興の豪邸が建てられるものの、やがて二軒とも火事によって灰塵と化すであるとか、高架を走る電車やブルドーザーが小さな家を日々睨みつけるといった具合に、都市的要素には悉く悪いキャラクター性が付与され、都市と小さな家との隔絶を強く印象づけている。

>斉藤理(サイトウ・タダシ)

1972年生
上智大学、慶應義塾大学非常勤講師。建築史。

>『10+1』 No.43

特集=都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?

>ブルーノ・タウト

1880年 - 1938年
建築家、都市計画家。シャルロッテンブルグ工科大学教授。

>小さな家

1980年