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看板建築考 様式を超えて | 横手義洋
'Kanban Kenchiku' Theory: Surpassing Style | Yoshihiro Yokote
掲載『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。, 2006年09月発行) pp.100-107

いわゆる看板建築

「看板建築」──あらためてこの言葉に向き合ってみると、なんだか不思議な感じがする。いや、なにもその言葉が不適当だなどと言いたいのではなくて、私が建築史を学びはじめた一九九〇年代半ばにはすでによく耳にしており、あまりにも当たり前すぎて、これまで言葉自体を噛みしめたことがなかった、ということである。看板のようなファサードが前面に立つ建築の略称で、看板はファサードが薄っぺらな平板である形状と、素材がけっして高級でないことを同時に連想させる。なかなか絶妙である。でも、なんで建築なんだろう。建築と言うからにはいろんなビルディングタイプがあってよさそうなもんだけど、もっぱら商店を指すんだよな……などと考えていくと、ちょっと大袈裟だなぁなんて思えてきたりして……。ただ、言葉というものはそれ自体を追求しても意味はない。皆がそう呼ぶようになれば、それとして受け入れるべきものなのだ。
今から三〇年あまり前、「看板建築」は建築史家・藤森照信によって命名された。一九七五年一〇月の日本建築学会大会というアカデミックな場において★一。当人いわく、「公認されたというようなもんじゃなく(…中略…)他に言い方もみつからないままついついみんな使ってしまった」用語だという。この微妙な空気を実証するのが、以後しばらく出版物に登場する「いわゆる看板建築」という留保付きの言い方や、“看板建築”という括弧付きの表記である。藤森の命名から二年後に出された村松貞次郎の『日本近代建築の歴史』★二は、看板建築について愛弟子の成果に言及しながらも、やはり括弧付きで新語であることを丁寧に断っているし、藤森が大きく関わった『日本近代建築総覧各地に遺る明治大正昭和の建物』★三においても「看板建築(木造商店の表側をついたてのようにつくりそこに面白い装飾をつけた住居併用の商店建築)」といった具合に補足的な説明が必要であった。それが現在では、ずいぶん普通に使えるようになった。看板建築を見て歩いたという報告はインターネット上で山のようにヒットする。ただ、建築愛好家をはじめ、建築史研究者たちの間で当たり前に使われるようになるまでにはある程度の時間と、命名者による粘り強いキャンペーン活動を要した。
用語の普及活動は、命名のおよそ一〇年後に一般向けの図書を通じてなされた。『建築探偵の冒険  東京篇』★四で口火を切り、続く『看板建築』★五がいわば決定版で、次々に版を重ねた。もっとも、いくら口語として「看板建築」が定着してきたとはいえ、活字となるとある程度慎重にならざるをえない。留保・説明付きの表記は一九九〇年代に入ってもまだ見られる。おそらく、辞書の類が用語を裏づけていないからだろう。実際、手元にある建築辞典で引いてみるとやはり載っていない。岩波書店の日本建築学会編『建築学用語辞典』(第二版、一九九九)にも、彰国社の『建築大辞典』(第二版、一九九三)にもない。いろいろとほかをあたってみたら、唯一技報堂の『建築用語辞典』(第二版、一九九五)には載っていた。なお、この辞典の編集委員長は村松貞次郎である。さもありなんという気がするが、これよりもっと早いのが『江戸東京学事典』(一九八七)である。項目の執筆者は……藤森照信! 本人いわく「なお看板建築という命名と概念は、昭和五〇年に藤森照信により発表された比較的あたらしいものなので、いまだ学術用語として根づいているわけではない」★六とのこと。たしかにこの時点では建築学辞典には載っていないのだ。また、ちょうど同じ頃に建築史家・山口廣も雑誌『建築知識』で看板建築の面白さを紹介するけれども、次のように留保を付ける。「看板建築とは東大の藤森照信さんの命名である。ただし正式認知を受けた学術用語ではない。したがって、まだ定義はない」★七。このように建築史アカデミズムが慎重である一方で、建築学の周辺は看板建築を大いに後押しした。一九八〇年代の都市論ブーム、一九八六年の路上観察学会設立、さらに先述した「江戸東京学」……。大串夏身編の『江戸・東京学研究文献案内』(一九九一)には藤森の『看板建築』が研究書としてしっかり載せられている。
こうした流れを受けて創刊された雑誌『東京人』には、「看板建築」の定着過程をうかがうことができる。創刊号から二〇〇号を超える雑誌にざっと目を通すと、看板建築がある程度のまとまりをもって紹介されたのは意外に遅く、一九九三年九月号である。本号で藤森が監修した「東京路上博物館」という特集に看板建築は商店として紹介された。この特集に協力した当時藤森研究室所属の大嶋信道は、翌一九九四年より「Tokyo街角の商店散歩」という連載をはじめるが、この時点ではまだ用語の使用は認められない。だが、これと同時期に連載された林望の「東京珍景録」が同誌ではじめて「看板建築」という用語を紹介した。以降、「看板建築」という用語が徐々に定着してゆくのである。

日本近代建築史のなかで

建築史学の展開のなかで看板建築の登場を捉えると、若き研究者・藤森のパイオニア的活躍が浮かび上がってくる。当時の日本近代建築史研究は明治建築にひとつの区切りをつけ、いよいよ大正から戦前までの建築を研究対象にしようとしていたからである。看板建築はこうしたアカデミックな研究動向に根ざしている。たとえば、村松貞次郎編『明治の洋風建築』(一九七四)★八は、実質的に藤森の建築史界へのデビュー作だが、そこには看板建築への確固たる道筋を読み取ることができる。実際、『明治の洋風建築』の巻末に付けられた明治洋風建築系統図[図1]を見ると、擬洋風建築は明治三〇年代より先すぼまりに描かれるが完全に収束してはいない。擬洋風建築が大正以降にどうなるかについては、この段階では疑問符が付けられ保留された。そして、この疑問を解こうとする過程において看板建築が見出されるのだ。この翌年発表された藤森の「看板建築の概念について」は、看板建築を明治期に途絶えたかに見える擬洋風建築の伏流として捉えるのである。時を同じくして、日本建築学会に「大正昭和戦前建築調査小委員会」が設けられ、さらに、東京建築探偵団も結成された。
日本建築学会大会で発表された「看板建築の概念について」は、日本近代におけるいわば「建築家なしの建築」★九の重要性を気づかせた意義深い発信であった。これは紛れもなくアカデミックな成果である。だが、その後の藤森は建築史アカデミズムの範疇で看板建築を語ることを避けたように思われる。看板建築がバブル経済下の絶滅危惧種であるという認識を世間に発信することはしても、大上段に構えて看板建築を定義しようとはしなかった。「今の僕は看板建築についておおよそは知っているが、深く広くは知らない状態にある」★一〇。
当人とは対照的に、建築史アカデミズムで藤森の成果にすばやく反応したのは、師の村松貞次郎であった。村松の『日本近代建築の歴史』は、通史において看板建築の存在意義を大きくクローズアップし、その歴史的価値を民の系譜の健在、あるいは第二次擬洋風建築として強調した。その位置づけは、藤森が二年前に学会で報告した擬洋風建築伏流説★一一と基本的に同じである。村松の民の系譜、さらに看板建築への大きなこだわりは、『日本近代建築総覧』関連のシンポジウムにも見てとれる。リストに収載された看板建築の建築史上の意味は次のように示された。

町の棟梁・職人あるいは素人の建築主自身の設計になるもので、強烈な庶民性、個性的な表現を持ち、しかも町の景観を構成する重要な因子となっている作品。例:東京の下町に見られるいわゆる〝看板建築〟など★一二。


だが、通史において看板建築をここまで強調したのは、村松が最初で最後の人だったように思われる。このように言うのも、後に書かれる藤森自身の通史『日本の近代建築』★一三では、扱い方があきらかに違うからである。たしかに看板建築に言及してはいるが、その扱いは師の村松が民の活力によって生み出された擬洋風建築の再来として捉えるのとは違い、どちらかというと大正九年の市街地建築物法、その流れを汲む木造建築の防火策の結果としてストイックに位置づけられる。通史は時代の峰を点々とたどることで体系が立つ、という冷静な判断が抑制をきかせたのだろうか。だが、そうであればこそ、熱い思いはアカデミズムの外側で発揮されたとも言える。そして、結果的には多くの文化人、多くの一般建築愛好家の支持を得て、看板建築は建築史アカデミズムを外側から盛り立ててくれる貴重な存在となった。

1──明治洋風建築系統図 引用出典=村松貞次郎編『明治の洋風建築』(至文堂、1974)

1──明治洋風建築系統図
引用出典=村松貞次郎編『明治の洋風建築』(至文堂、1974)

様式への距離

さて、看板建築を様式史学の文脈で語ることはできるだろうか。いや、そもそも看板建築は建築様式と呼べるのだろうか。藤森自身の見解を辿ってみると、論文「看板建築の概念について」や著書『看板建築』などでは、「都市住居形式」や「商店建築の形式」といった言葉しか見あたらない。すなわち、看板建築をいわば建築のひとつのタイプとして捉えているのであり、様式という厄介な用語を慎重に回避しているようにさえ思われる。いまだに、様式という西洋発の概念を、日本建築に当てはめようとするといろいろ難しい問題が出てくる。たとえば、日本建築史で言う「……様」や「……造」はそのまま「様式」と言っていいのかといった議論である。もっとも、ごく一般的には、それほど意識されずに使われることが多いのであり、看板建築を一般向けに様式と説明することも珍しくはない。事実、『江戸東京学事典』には「関東大震災の復興期に登場した商店建築の様式名」★一四というふうに書かれる。ここで言う様式は、伝統的な町屋の表側についたてのようなファサードを立てる特異な構成を指しているから、やはりタイプに近いと言えようか。だが、看板建築にはもうひとつ、ファサードに認められる表現や装飾を指す様式がある。要するに看板建築には、伝統的な町屋にそれとはまったくちがう異物が取り付く構成上の面白さがある一方で、異物であるファサードの上には、多種多様な、そして、ときに風変わりな装飾が展開されるという面白さもあるのだ。だから、看板建築に様式という言葉を使うとすれば、レヴェルのちがう二種類の様式がなんとなく使い分けられていることになる。そして、二つの様式レヴェルは、互いにぶつかり混乱しない程度に距離を置いて記述される。
この絶妙な距離感を確かめるには、『日本の近代建築』に示された藤森お得意の建築系統図を見るのがよい。そこには「日本近代建築系統図─一二群三八派─」[図2]と題された建築系統図が載せられている。これは『明治の洋風建築』に付けられた明治洋風建築系統図のいわば拡大発展版であり、大正以降の擬洋風建築の行く末、さらに看板建築の位置づけを追うのに興味深い挿図である。果たしてそこに看板建築がプロットされたのか。残念ながら、系統図に看板建築という名称はプロットされない。本文の言及に従い、あえて看板建築の場所を探すなら、「社会政策派」の「防火」というカテゴリーだろう。では、なぜ書き込まれなかったのか。アノニマスの庶民住宅に言及する余裕はない、とすればそれまでだが、ここでは看板建築に話が及ぶ「社会政策派」が、系統図のその他の群派とは少しレヴェルがちがっていることに注目してみたい。これは著者も自覚していて、いわく「表現や様式をテーマに近代建築の歩みをたどってきたが、日本の建築家の前には、もう一つ、住宅改良などの都市と社会の問題、そして耐震耐火の技術問題が控えていた」。このくだりは、表現や様式でさまざまな群派を捉えていたけれど、看板建築はそのレヴェルでは捉えないことの表明である。看板建築は当時の社会政策が生み落とした特異な建築タイプとして位置づけられたのである。先ほど指摘したストイックな捉え方とは、表現や様式で建築を分類するのではなく、政策が生んだ特殊な現象を捉える姿勢と言い換えてもよい。だが、この捉え方によって系統図に看板建築のファサードに表出する民衆の表現をすくい取ることはなくなった。ここでの藤森はファサード上の様式に距離を置いたのである。

2──日本近代建築系統図─12群38派─ 引用出典=藤森照信『日本の近代建築』(岩波書店、1993)

2──日本近代建築系統図─12群38派─
引用出典=藤森照信『日本の近代建築』(岩波書店、1993)

様式の裾野

実のところ、看板建築のファサードには多種多様な表現や様式が認められる。だが、こうした様式を分類しようとすれば、わかりやすい系統図としては描けなかっただろう。ファサード上に展開される様式は、場合によってはオリジナルの様式が想像できないほどにパロディ化され、見方によっては系統図の各群派のあちこちにリンクをはるにちがいない。それが見様見真似でできあがる民の芸術だからだ。こういう芸術について、いちいちその意図を探り解説することは通史向きではない。理屈を追求してもヴァリエーションが増えるだけで、きっと収拾がつかない。最終的に体系化されて終わるものではなく、分析が対象を移しながら進むのみである。ファサード上のデザインはもっぱら観察すべき対象なのである。
そもそも、民のデザインを様式として捉える場合、その裾野は際限なく広がってしまう。『看板建築』に紹介された多数のファサード・デザインはB級と言われるものなのかもしれないが、著者の目に「面白い」と思わせる一定のレヴェルは保っている。だが、看板建築がアノニマスであるがゆえにB級として紹介された時点で、C級、D級……への連鎖は織り込み済みのものとなる。『看板建築』に触発されB級の面白さに目覚めた多くの人は、街を歩き、看板建築らしき建物の発見に興じ、自分の目でその面白さを発見してゆく。こうして、一般に観察される看板建築は藤森の観察眼をはるかに超えてC級以下のものにまで展開し、その発見される地域も銀座や日本橋をとりまくドーナツ状地帯のさらに外縁、さらに、地方都市にも広がってゆく。建てられた時代にしても、かならずしも震災直後ではなく、もう少し建設年代が前後にのびてゆく。看板建築の裾野はどんどん広がり、名称の認知度が上がるにしたがい拡大解釈され、命名者藤森の手から巣立ってゆく。要するに、民のデザインに下限はないのである。この事実はすでに村松が捉えていた。

時流の最先端をゆく建築家たちの仕事が、民衆を置き去りにしてゆく、その空白、ギャップが存在する限り、人びとは自分たちなりで常に建築の表現を造りあげてゆくものである。したがって、擬洋風建築は決して滅びたり、後を絶ったりするものではない。(…中略…)おそらく今日でも第何次かの擬洋風が造られているはずである★一五。


いまや全国各地で報告される看板建築だが、それでも「いわゆる」という枕詞が付けられたり、「看板建築的」とか表現されることがある。ただ、同じ「いわゆる」でも看板建築が認知されていなかった頃とは意味合いがちがう。この場合は、「自分なりの看板建築」という表明だ。表現はたいしたことない、まともな様式はうかがえないかもしれないけれど、看板建築はそういうものまで許容する懐の深さを持たねばならなくなった。ファサード上の様式だけではない。特異な建築構成のほうも、震災後の新築だけには収まらなくなったようである。震災がなかった地方都市においては、町屋が震災復興時の新築でないケースがあり、既存の町屋に近代的ファサードを取り付けた後天的看板建築が見出される。さらに看板建築は震災直後のみならず、戦後にさえ存在するという報告もある。これは大嶋信道の報告に詳しい。『東京人』に載せられた「建築様式から見た東京の町屋建築の系統図」★一六[図3]は、藤森ゆずりの系統図を町屋に特化して詳細に描いたものである。注目は、戦後に描き込まれた後期看板建築である。装飾は震災直後のものに比べてずいぶんあっさりしたものであるが、こうしたサンプルが看板建築として報告され、一般に認知されてきている点が重要である。看板建築は、いまやそれを軸に幅広いヴァリエーションを許容できるまでになった。そして、それに際限はない。

3──建築様式から見た東京の町屋建築の系統図 引用出典=『東京人』1995年4月号(都市出版)

3──建築様式から見た東京の町屋建築の系統図
引用出典=『東京人』1995年4月号(都市出版)

覆うこと=表現すること

看板建築のファサードは一枚のカンバスに見立てられることで、民衆の手による表現の場となった。この平面的なカンバスこそが、素人から芸術家までの参加を可能にしたという説はたしかに的を射ている。これに関して、かつて建築のモダニストたちは、様式がファサードのみに集中することを非建築的だと批判した★一七。実に、同じ批判は西洋建築にもあてはまる。様式という分類概念が生まれた一九世紀に、代表的な歴史様式がきわめて平面的に、ファサードの上に捉えられることがあったからだ。その際、あらゆるビルディングタイプがさまざまな様式で覆われたのであり、この覆いこそが表現の場だった。いや、そもそも建築が一級の芸術品になったとされるギリシア神殿さえ、木構造を大理石で覆うことからはじまったとされる。西洋建築における芸術の才は、必要上欠くべからざる構造を覆うことからはじまったと言うこともできる。
ルネサンス以降の西洋建築が技術以上に芸術の色を高めてゆく過程は、ある意味でこの覆いが表現上の力点になったことを示している。煉瓦壁が構造上の用件であった西洋において、この必要欠くべからざる煉瓦壁を覆い、それを芸術的に仕上げることが建築家に求められた。そして、いつしか表面の装飾が建築を古典的芸術の世界にかろうじてつなぎとめる最後の聖域となっていた。にもかかわらず、近代化の過程において、様式=装飾は徐々にパターンとして処理されるようになる。この平面上の操作は、美術教育を本格的に受けていない技師たちにもファサード処理の道を拓いた。こうして、ファサードに表現される様式は制作者の裾野を飛躍的に広げていった。
本格的な教育を受けない者は周りを見渡し、街中にある目ぼしい作品に倣っただろう。それでも、ファサードという二次元のカンバスであればこそ、なんとか格好はついた。いや、見る側だってすでに怪しかった。事実、プロの仕事とセミ・プロの仕事はたとえ両者の意図がどんなに隔たったものであろうとも大差なく見えた。これはリヴァイヴァリズムや折衷主義の本来的な悲劇である。オリジナルのコピーでは芸がない、とはいえ、ちょっとした創意を差し挟むのはコピーし損ねたと同じ、といった具合にどっちに転んでもあまり良いことはなかった。だが、覆うことが西洋に伝統的な芸術の発露であるなら、看板建築のファサードは西洋化された時代の芸術的行為にほかならない。
西洋建築が芸術的危機へと歩みを進めた一八世紀半ばに、そこから自由になろうとした建築家がいた。ピラネージである。彼は創造的自由を正当化するのに、自由な創意が慣習を生み、また、慣習が自由な創意を生む、という見解を示した★一八。彼がこの文脈で捉えた慣習は、単純に因習の枠組みに縛られた伝統主義につながるのではない。むしろ先人たちが試みてきた偉大な創造行為とそれらを乗り越えようとする自らの自由な創意は本来的に同じものであるといった、いわば創造行為への最大限の敬意を示す。この場合、とにかく自分を取り巻く伝統、そう言って大袈裟であれば、自分がこれまでに見てきたものを意識することが創造行為のはじまりであり、建築家であれば過去の偉業を、むろんアマチュアの場合でも、自分を取り巻くものを強く意識することが創意につながるのだ。翻って看板建築の場合、意識するものは西洋的なものから江戸下町の伝統を伝えるものまで、選択の幅も裾野もきわめて広かった。この意識のあり方において、当の民衆たちは時流の先端を行く建築家とのギャップを感じただろうか。おそらくそうではあるまい。当人たちは、好奇心さえあれば、そして、ただ興味深いものを意識しさえすれば、一枚のカンバスを通じてすべてを自分たちの創造行為につなげられたはずである。この内から溢れ出る表現行為、何かを生み出そうとする尊い創造行為だけは、偉大な建築家の作品でなくとも変わらず存在するのである。藤森の『看板建築』はそうした賛辞に貫かれているように思われる。


★一──藤森照信「看板建築の概念について(近代日本都市・建築史の研究  一─一)」(『日本建築学会大会学術講演梗概集』一九七五)。
★二──村松貞次郎『日本近代建築の歴史』(日本放送出版協会、一九七七)。
★三──日本建築学会編『日本近代建築総覧  各地に遺る明治大正昭和の建物』(技報堂出版、一九八〇)。
★四──藤森照信『建築探偵の冒険  東京篇』(筑摩書房、一九八六)。
★五──藤森照信『看板建築』(三省堂、一九八八)。
★六──小木新造ほか編『江戸東京学事典』(三省堂、一九八七)二一九頁。
★七──山口廣『近代建築再見』(建築知識、一九八八)七一頁。
★八──村松貞次郎編『近代の美術二〇  明治の洋風建築』(至文堂、一九七四)。
★九──バーナード・ルドフスキーがMoMAの展覧会(一九六四)で企画紹介した、無名の風土的な建物のこと。様式によって把握されるこれまでの建築史へのアンチテーゼであった。日本へは渡辺武信によって一九七五年に翻訳紹介された。バーナード・ルドフスキー「建築家なしの建築」(渡辺武信訳、『都市住宅別冊  集住体モノグラフィNo.2』鹿島研究所出版会、一九七五)。
★一〇──藤森照信『看板建築』一〇─一一頁。
★一一──「近代日本の大衆的想像力は、先ず、文明開化期の『様式の真空の中で』擬洋風として開花したのであったが、やがて、衰弱し去った。しかし、それは伏流していた」(『日本建築学会大会学術講演梗概集』一九七五、一五七四頁)。
★一二── 『「街と建物──明治・大正・昭和」東京シンポジウム:資料』(トヨタ財団、一九八〇年一一月二八日)五九頁。
★一三──藤森照信『日本の近代建築(上・下)』(岩波書店、一九九三)。
★一四──小木新造ほか編『江戸東京学事典』二一八頁。
★一五──村松貞次郎『日本近代建築の歴史』五三頁。
★一六──大嶋信道「商店建築観察ガイドブック」(『東京人』一九九五年四月号、都市出版、六八──七三頁)。
★一七──実際、日本の分離派は今和次郎らのバラック装飾に対して建築的ではないという批判を浴びせていた。
★一八──G・B・ピラネージ『ピラネージ建築論  対話』(拙訳、編集出版組織体アセテート、二〇〇四)を参照。

>横手義洋(ヨコテ・ヨシヒロ)

1970年生
東京大学大学院工学系研究科助教。西洋建築史、近代建築史。

>『10+1』 No.44

特集=藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>ルネサンス

14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようと...