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多くはうたかたに消え、いくつかは生きて地に降り 都市史の主語は何か | 青井哲人
Ceaselessly the Water Flows: Concerning the Subject of Urban History | Aoi Akihito
掲載『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。, 2006年09月発行) pp.90-99

一 ヒロシマの無縁仏/ナムサンの住宅地

丹下健三との共著というかたちをとった藤森照信の『丹下健三』(新建築社、二〇〇二)に、丹下自身が撮影したという建設中の広島ピースセンターの写真が載っている[図1]。荒々しく型枠の痕跡を刻むコンクリートの塊が、かぼそく頼りなげな足場に囲われて屹立する、その前面に焼け焦げた墓石群が横たわる。この写真(あるいはアングルの同じ写真か)は以前にも何度か見たことがある。たとえばある作品集では次のようなキャプションが付けられていた。

平和記念会館原爆記念陳列館の敷地はもと墓地であった
墓石自身原爆に照射されて焼けているが
しかもその墓を守る人もいなくなって多くは無縁仏となっていた
(丹下健三+川添登編著『現実と創造─丹下健三  一九四六─一九五八』美術出版社、一九六六)


藤森はこの写真について何も語っていない。しかしこの評伝は、一貫して丹下を主語として書かれた初めての丹下論であり、それゆえこの写真も「丹下が」撮影者であることを意識せざるをえない。考えてみればこれまでの丹下論は、「伝統論が」丹下によってどう語られたか、といった構えばかりで、丹下はいずれかといえば無限定に自我を拡大して伝統や民衆や国家に同一化したかのように語られてきた。対して、ここでは丹下は限定的な一人の人間としての輪郭を持つのだが、それは彼が物語の中心にくることで、彼をとりまく立体的なコンテクストが鮮明になったことの効果ではないかと思う。家族、友人、教師、建築家……、彼に引き寄せられる過去の形態群(伊勢、法隆寺、ソヴィエトパレス……)、書物、そして都市。
たとえば丹下は、高校時代を広島で過ごした。平和記念公園となる「二等辺の三角地」はかつて広島一の繁華街で、丹下は友人と映画を見たり、商店街を散歩したり、カフェーに立ち寄ったりした。丹下が去った広島に、やがて原爆が落ちる。生き延びた人々は「焼け跡から拾った身元不明者の遺骨を集め、三角地のそこここに盛って塚とし、無縁仏の霊を慰めた」。名を刻まれたまま無縁となった墓のまわりに、亡くなると同時に無縁となった遺骨の塚がひとつまたひとつと増えてゆく。丹下は復興都市計画の策定のため、混乱の広島へ戻る。

一九四六(昭和二一)年、夏の暑い盛り、丹下一行は広島に入った。大谷[幸夫]によると、一年経つのにまだ焼け跡のそこここからは屍臭が漂い、焼け跡の片付けも進まず、どこがかつての道路境かわからない町のなかを、人の踏み跡を頼りにあるくような状態だったという。
(『丹下健三』一二二頁)


広島では県庁近くの焼け跡にトタン屋根の小屋をつくってもらい根城とした。焼けこげた市庁の地下室にわずかに残っていた資料を基に、新しい広島市のマスタープランをつくるのが私たちの仕事である。うどん屋やお汁粉屋などの屋台が少しずつ出始めていて、石川君は特に甘党で、街で汁粉屋をみつけると、とんで帰って皆に知らせてくれたりした。だがいずれにせよ、わずかな配給を受け、空腹を抱えながらの毎日であった。
(丹下健三『一本の鉛筆から』日本経済新聞社、一九八五、五五頁)


ケモノ道のごとき「人の踏み跡」、「うどん屋やお汁粉屋などの屋台」、遺骨を集めて築かれる塚。それらはすべて、原爆を生き延びた人々がひとつまたひとつとつくり、それが引き合うようにして集まり、増えて、いつしか何らかのパタンをなすにいたるというような、無名の営みの例であろう。ピースセンター竣工は一九五五年夏。コンペから六年に及ぶ曲折に満ちた建設の過程で丹下が付き合った広島という都市は、そうした無名の人々の都市(廃墟)への応答の集積そのものであったろう。しかしそれにしても、丹下はなぜこのような写真を撮り、しかも書籍への掲載に差し出したのだろうか。藤森の本を読んで、妙に気になりはじめたのである。
この写真が気になりはじめた理由はたぶんもうひとつある。筆者自身が韓国や台湾の街で眼にしてきたいくつかの光景が、丹下の写真にオーバーラップして見えてきたのである。たとえばソウル南山の西南麓[図2・3]。筆者は当時、植民地にかつて営まれた神社の境内を調べていた[図4]。その復元によって、「日本の植民都市」の特質が描き出せるはずだと考えていたのである。一九九八年の夏、写真の場所を探し当てるために、半世紀前の植民地最末期のわずかな公文書のコピーを頼りに、半日ばかり歩いたと思う。何とかたどり着いた花崗岩の石階はしっかりと旧状をとどめていたが、この石階だけをくっきりと残して、ほかは隙間なく住宅地に化けていた。見事なコントラストだった。
その場所は、ソウル南山に営まれた三つの神社境内のうち、京城護国神社のそれであるはずだった[図5・6]。半世紀前、竜山陸軍基地を眼下にのぞむこのあたりの斜面は松などの樹木に覆われていたが、今日この地区を歩くと、斜面という斜面が茶色い煉瓦風タイル貼りの住宅にびっしり埋め尽くされ、ところどころに教会の尖塔がそびえている。植民地期の軍用地を接収したアメリカ軍基地に通う米兵やその家族が、韓国人の中高生やアジュンマ(奥さん)たちに混じって、セメントで固めただけの急峻な坂道を行き交う。そうした光景とは明らかに異質な、半世紀前の花崗岩の石階のことを、しかし僕以外の誰も、何も知らないだろうと思われた。
植民地の神社はたいてい市街地に面する山の斜面に立地し、常緑樹に覆われた神苑という自然的環境を人為的にかたちづくって、そのなかに木造の社殿を営んだ。境内という場、森という環境によって何ごとかを担保しようとする神社は、植民都市の景観をかたちづくる他のどんな施設とも異質だった。そして布教により信者を獲得するという運動の論理を持たず、他の宗教に対して別格に置かれ、ただ行政区で画された住民全体を無条件に氏子とした。そのすべてが、植民地支配とともに神社が消滅しうる十分な条件となった。しかし、これほどあっけなく失われてしまったものを通して、都市は語れるのか。石階を前に呆然とした。ただ、こうは言えるだろうと思った。植民地解放後の都市へと引き継がれた市街地の道路や基地、庁舎や学校は、かつて、神社との「間」にしかるべきコンテクストを取り結んでいたはずだと。その「間」にこそ、日本の植民都市の特質があるとしたら? 神社は、それなしには再現できないような関係性をあぶり出すキーになりうると思った★一。
何らかの痕跡から、失われたものが復元され、それをキーとして時空間的なコンテクストが描かれるとしたら、それこそが歴史と呼ばれる形式なのだろう。その意味で、丹下はピースセンターを歴史に開こうとしたのかもしれない。

1──広島平和記念会館原爆記念陳列館と墓地 引用出典=丹下健三撮影、丹下健三+藤森照信著『丹下健三』新建築社、2002

1──広島平和記念会館原爆記念陳列館と墓地
引用出典=丹下健三撮影、丹下健三+藤森照信著『丹下健三』新建築社、2002

2──旧京城護国神社境内跡(ソウル南山西南麓)筆者撮影、1998年8月

2──旧京城護国神社境内跡(ソウル南山西南麓)筆者撮影、1998年8月

3──同、筆者撮影、2006年6月

3──同、筆者撮影、2006年6月

4──植民地神社の一例、官幣大社台湾神社(台北、写真は1928年)引用出典=『日本植民地史3 台湾』(朝日新聞社、1978)

4──植民地神社の一例、官幣大社台湾神社(台北、写真は1928年)引用出典=『日本植民地史3 台湾』(朝日新聞社、1978)

5──旧京城護国神社境内(筆者推定)図2、3の写真の石階は、境内(右)と参道(左)を結ぶ直線部分。引用出典=Google Earthの衛生写真をベースに筆者加工

5──旧京城護国神社境内(筆者推定)図2、3の写真の石階は、境内(右)と参道(左)を結ぶ直線部分。引用出典=Google Earthの衛生写真をベースに筆者加工

6──護国神社の事例・台湾護国神社(台北、1942年竣工)引用出典=『台湾建築会誌』第14巻4号(1942年4月)

6──護国神社の事例・台湾護国神社(台北、1942年竣工)引用出典=『台湾建築会誌』第14巻4号(1942年4月)

二 青年の計画/老成の事業

藤森の『明治の東京計画』(岩波書店、一九八二)を久し振りに読んだ。読み返してみると、いままで思っていた以上に、日本近代都市計画史の教科書的ストーリーとは異質な本であることに気づいた。それは藤森独特の過去の蘇生術ともいうべき文体にも求められようが、それだけではない。
日本の「近代都市計画史」は、高度成長期に確立される戦後都市計画の歴史的な出自を明らかにしようとするところからはじまっている。たとえば用途地域制、たとえば区画整理、たとえば公園緑地系統、たとえば都市計画財源……、それら制度がいつどのように芽生え、育ち、体系化されるに至ったのか、あるいはそもそも先行する欧米のモデルはどこにあるのか、と血筋をただしていく。語り手は近代都市計画の専門家であり、むしろ官僚あるいはその経験者であることも多い。彼らにとって、物語の行き着く先は最初から手許にある。日常の業務のなかで手垢にまみれ疲弊気味の制度そのものの出自が問われるのだから。そこへと帰結する出来事が選び出され、結び合わされ、連ねられて「歴史」となる。いわば長子だけをつないだ嫡流の系譜である。むろん、子が親よりできがよいとはかぎらない。しかしともかく、たどたどしくも〝長子相続〟されてきた「嫡流」を描くことで、その血を引く「現在」が再確認され、あるいは自己批判されるのである。
これに対して、『明治の東京計画』は、むしろ、「嫡流」がかたちづくられる際に同時に併存したにもかかわらず淘汰され、消えていった別の選択肢の発見によってこそ成立している。たとえば、まさにこの「嫡流」という言葉をタイトルに用いた第三章「都市計画の嫡流─市区改正計画」などは、自由貿易都市論としての「東京論」(一八八〇[明治一三]年)をものした田口卯吉と、水の都ベニスを東京に重ねた渋沢栄一の半ば前時代的な夢……といったものを描くことなしには、おそらく一個の作品として成立していない。東京市区改正条例の制度史的な検討や、事業化の手続きや財源問題などが含まれていれば、「都市計画史」として成立しようが、それらへの言及はほとんどないのだ。
一九一四(大正三)年の市区改正事業完了を見届けた同章は、次のような美しい文章で締め括られる。

長い歩みであった。明治一二年の中央市区論に芽を吹き、一三年「東京中央市区確定之問題」、一七年芳川案、一八年審査会案、二一年市区改正条例、二二年委員会案、三六年新設計、そして大正三年の完了まで、舞台は幾度となく回り、すでに三五年を費やしていた。星霜は役者たちの上にも惜しみなく降り積み、中央市区論の楠本正隆、市区改正の祖・松田道之、築港論の田口卯吉はすでに亡く、また、開かれた交通計画の芳川顕正は、内務大臣を最後に政界を退き、枢密院副議長の椅子に老いの閑日を過ごしている。あいかわらず第一銀行(旧第一国立銀行)頭取の席にある渋沢栄一も翁と呼ばれる歳となり、二年後の引退を待っている。しかし彼らは決して忘れはしなかったであろう、若干二四歳の青年思想家田口卯吉の築港論が三九歳の第一国立銀行頭取に伝わり、そして三四歳の東京府知事松田道之を走らせた頃のことを。すべては、明治という若い時代の向うみずな夢と志にはじまり、そして、多くはうたかたに消え、いくつかは生きて地に降り、街を変えた。市区改正は青年の計画として生れ、老成の事業として終った。
(『明治の東京計画』二一九─二二〇頁)


欧化主義者(井上馨ら)、内務省(芳川顕正ら)、新興企業家(渋沢栄一ら)の三大勢力が攻防と交替を繰り返すなかで、「市区改正」という生まれたばかりの言葉の中身はめまぐるしく変転した。帝都か商都かという理念・利害闘争を下敷きにしながら、オスマンのパリ大改造流のバロック都市計画か江戸の「古屋の修繕」かという対立、築港や運河をめぐる攻防、官庁街・商業地・オフィス街の陣取り合戦、さらには道路・下水道・公園・市場・劇場・商法会議所・共同取引所といった施設計画レヴェルの闘争にいたるまで、実にめまぐるしい劇が描かれる。
そして、多くのものが「うたかたに消え」た。渋沢栄一肝煎りの兜町ビジネス街の盛衰という物語はそのなかでも重要な挿話であり、渋沢的世界を拠り所とする辰野金吾像の(再)発見と補完的な関係にある(姉妹編とも言うべき『日本の建築明治大正昭和  国家のデザイン』[三省堂、一九七九]を参照されたい)[図7]。日本のベニスとしての兜町が、ロンドンあるいはニューヨークとしての丸ノ内の登場によって淘汰されるプロセスは、自由貿易主義の独占資本主義による淘汰でもあった。
また最終的な市区改正委員会案では、会議所・取引所・劇場、そして運河などが消され、丸の内開発や水道敷設がそれぞれ別個の事業主体に委ねられるなかで、市区改正委員会=内務省の掌中に残されたのはほとんど「道路」だけとなった。この描写も重要な意味をもっている。近代日本の都市建設の根幹となる「道路」は、はじめから「市区改正」のすべてだったのではなく、闘争を経ることで最後の生命線として析出されたのだとみなければならないからである。その道路は、江戸を壮大な放射状道路のネットワークによって切り開くこともなかった。それはパリを夢見た欧化主義者たちの夢が破れたということでもあった。
市区改正が「老成の事業として終わった」のは、長い年月にわたる権力闘争の過程で、多くの選択肢が「うたかたに消え」たことと相補的な結果である。その相補的な関係、つまり同時に並び立ちえた選択肢の「間」にこそ、「明治の東京計画」をかたちづくり、また動かしていった構造と力が潜んでいるだろう。各時代の「嫡流」を辿る都市計画史は、このような視点を持たない。その差異は微妙だが大きい。

7──辰野金吾像の再発見(画=後藤慶二、油彩、1915)辰野還暦の祝いとして、後藤慶二は辰野設計の実在の建物だけからなる架空の都市を描いた。引用出典=『建築雑誌』348号(1915年12月)

7──辰野金吾像の再発見(画=後藤慶二、油彩、1915)辰野還暦の祝いとして、後藤慶二は辰野設計の実在の建物だけからなる架空の都市を描いた。引用出典=『建築雑誌』348号(1915年12月)

三 市区改正という傍流

都市計画史は、それゆえ満州へゆく。
東京でいちおうその任務を終えた市区改正は、後継者の登場によって間もなく引退となる。一九一九(大正八)年制定「都市計画法」の登場である。しかし、依然としてさまざまな圧力のなかで身を縮めて歩くほかない日本内地の都市計画の前に、圧倒的な開放感を放つ満州が華々しく登場する。一九三〇年代のことだ。広大な開拓地(植民地)満州でこそ、多くの先端的な制度的・技術的実験が展開され、しかも、それが高度成長期の日本へとつながる。「嫡流」の系図は一時、満州へと迂回するのである。
一方、「最後の生命線」たる道路を手に握りしめた市区改正は、東京の市区改正も実施はこれからという時期に、早々と台湾・朝鮮へ移出され、しかも次々に実績をつくり、一九三〇年代半ばまで長い命脈を保つことになる(一九一九年都市計画法に準ずる法整備は、朝鮮で一九三四年、台湾で一九三六年とずいぶん遅れる)。しかし、満州が昭和の嫡流であるのに対して、明治末から大正・昭和初期まで長く活躍した台湾・朝鮮の市区改正は、「日本」の近代都市計画の系図からいえば明治世代で枝分かれした傍流である。近代都市計画史の観点からすれば、傍流はあまり魅力的な話題ではないのだ。
しかし、この「遅れた」技術としての市区改正を、『明治の東京計画』のひそみにならって、あらためて再発見(復権)させてみるべきではないか。実際、視野を広げれば日本内地の「進んだ」近代都市計画と、朝鮮・台湾の「遅れた」市区改正とは、十数年間も同時に並び立っていた。つまり、市区改正はすぐにでも無条件に淘汰されるべきものとはみなされていなかったことになる。より「進んだ」別の技術には備わっていない、市区改正に独自の性質を、わたしたちはまだ見出せていないのではないか。これは植民地朝鮮・台湾の都市史を考えるとき、避けて通れない重大な問題なのだが★二、そればかりではない。市区改正の再発見は、同時に、私たちの身近な都市を(とりわけ戦後に)次々とつくりかえてきた、より「進んだ」技術がいかなる特質を備えたものであったのかをむしろ再発見する作業でありうるからだ。神社研究の後に筆者が取り組んだ研究では、台湾の歴史都市・彰化を事例としながら、こうした問題群を考えることになった★三。
台湾・朝鮮に営まれた植民都市は、多くの場合、一九世紀までに形成されていた歴史的な「市区」(市街地)を「改正」(改造)したものだった。たとえば台湾の多くの在来都市は、城壁に囲まれ、細く曲がりくねった有機的な街路網に特徴づけられていたが、市区改正は、そうした有機体の上に、計画道路の金網(gridiron)を炙って一気に押し当てるようなものだった。たまたま計画道路用地となった場所はジュワッと音をたてて焼け、たちまちに谷間が切り開かれた。しかも市区改正は、道路用地だけを取得し、街区内部にどのような土地が残されるかはまったく意に介さない。そして、先行する都市と、市区改正計画との形態的コントラストが鋭ければ鋭いほど、先行する都市形態はかえって保存されることにもなる[図8]。これは興味深い事実ではないか。
このような事態は、より近代的な都市計画の事業ではおこりにくい。たとえば土地区画整理では、道路・公園といった施設の用地を「区画整理区域」と呼ばれる対象エリア全体から捻出する。逆にいえば、区域内のすべての地権者は「平等に」土地を提供することになっている。そして、街区だけでなく、その内側のすべての宅地をできるだけ整った四角形に編成しなおす。エリア内のすべての土地が、一度に、一体的に割り付けなおされるのである。さらに、区画整理はやはりエリア内のすべての地権者が「平等に」土地を捻出することで保留地と呼ばれるものをつくり、これを売却して事業費とすることにより、収支を「ゼロ」にすることも可能である。一方、個々の地権者も、自分の土地が広くて真っすぐな道に面した整形の宅地になって戻ってくることで、地価は上昇し、面積の減少分を相殺するので、彼の収支もまた(計算上は)「ゼロ」になるというわけだ。かくして区画整理とは、誰も損をせずに整った〈道路・街区・宅地〉が得られる魔法のような制度なのだが、この魔法は事業前の土地形状をほとんど跡形もなく「ゼロ」にしてしまう。
もともと市区改正のような単純な道路用地買収の考え方では莫大な行政コストが必要になる。植民地では地主からの「献納」の名目を頻用することでこの困難が避けられ、市区改正も十分に機能してしまった。一方、内地ではこの困難を解決するために、事業そのものが財源となる仕組みを確立する必要があった。それゆえ、地価上昇という利益を全地権者に配分する回路を設定し、これを逆にたどって事業費の地権者負担を理論化したのだと考えてよいだろう。
日本の近代都市計画の最大の武器といってもよい区画整理は、こうして巧妙に都市を隙間なく操作し、先行する形態を根こそぎにする。地盤面までのすべてが計画されたとおりの姿をもって「完成」してしまう。残されるのはその上に「上物」と称される建築物を据えることだけだ。対して植民地の市区改正は、道路(+下水道)という最低限のインフラだけをつくって放り出すがゆえに、先行する都市の形態は、生々しい切断面とともに残され[図9]、都市はあからさまな二重性を刻まれる。先行するものと、その上に重ねられたものとが、都市のいたるところで重なり合い、つまりは隣り合う。道路以外のものたちは、やがて、この重合したインフラの状態へと自らを適合させていくだろう[図10]。市区改正は、都市がそうした自己再組織化のプログラムが発動することを許容しなければならない。
市区改正がつくる道路は、先行するものたちを切断する。しかし、切断されたものたちと隣り合い、並び立つことを避けては都市のなかに食い込めない。近代都市計画はそうした重合=併存を消すシステムをつくりあげる方向へと発展してきた。しかし、そのようなシステムは完成するのだろうか。
たしかに、丹下のピースセンターとそれに象徴される復興都市計画は、やがて無縁仏や屋台やケモノ道を消し去っていくだろう。細く頼りない足場がやがて外され、眼前のコンクリート塊が一個の作品になる過程と、無名の人々ののっぴきならぬ営みが次第に街の景観から消えていく過程とが、互いに相補的であるということに、丹下が気づかなかったはずはない。しかし、彼は恒久的には両立しえないものがたしかに隣り合い並び立つのを、愛用のライカのファインダにおさめた。その眼差しのなかでは、墓地こそがピースセンターを埋め尽くそうとしているようにも見えなくはない。そうした逆転は、長い歴史のなかで幾度もおこってきたし、日常的にも繰り返されている。

8──辰市区改正による都市形態の二重化(台湾・彰化市)拙著『彰化 1906年』より、2005年9月

8──辰市区改正による都市形態の二重化(台湾・彰化市)拙著『彰化 1906年』より、2005年9月

9──植市区改正による切断の痕跡 筆者撮影、2002年1月台湾・彰化市の寺廟・元清観の南壁面は市区計画道路によって薄くスライスされ、構造材を露出している。市区改正はこうした痕跡を数多く残している。筆者撮影

9──植市区改正による切断の痕跡
筆者撮影、2002年1月台湾・彰化市の寺廟・元清観の南壁面は市区計画道路によって薄くスライスされ、構造材を露出している。市区改正はこうした痕跡を数多く残している。筆者撮影

10──旧市区改正後の土地再編 台湾・彰化市内北門付近の事例。細街路のネットワークのなかで発達した地割り(細い実線)が、建設された市区改正道路にアダプトするように割りなおされている(太い点線)。筆者作成

10──旧市区改正後の土地再編
台湾・彰化市内北門付近の事例。細街路のネットワークのなかで発達した地割り(細い実線)が、建設された市区改正道路にアダプトするように割りなおされている(太い点線)。筆者作成

四 都市への旋回

『明治の東京計画』は「都市計画」の物語ではない。むしろ近代都市計画という一個の体制が成立する以前にありえた、いくつかの偶有的な選択肢としての「計画」群と、それを差し出して闘った人間集団を描いている。とりわけ、「うたかたに消え」た人々と彼らの夢を復権させる時こそ、藤森の描写は生きる。つねに複数の集団が闘争し、主語はいつでも逆転しうるという緊張が、『明治の東京計画』を成り立たせている。
ところが、どうも結末が奇妙なのだ。
『明治の東京計画』は、「銀座煉瓦街計画」「防火計画」「市区改正計画」「官庁集中計画」という四つの「都市計画」に各章を割り当てて語ったのち、終章「東京の礎」において、これら都市計画とは何だったのかと問う。そのやり方が異様なのである。藤森は複数の勢力を役者とする劇場を丹念に描き重ねてきたにもかかわらず、最後にこれらすべての「計画」と、そのなかに含まれる諸勢力の構想・成果をひとからげにして、一挙に「江戸─東京」という都市にぶつけるのである。


さて、四つの計画は、時期は必ずしも重ならず、首謀者も支持勢力も異なり、時には相争い、お互い何の共通項もないばらばらな立案とみえるかもしれない。たしかに、それぞれが目指した峰は、帝都あり商都ありと異なっていたが、しかし、足下に目を下ろせば、踏まえているのは東京と名を変えたばかりの旧江戸に変わりなく、この山をどう踏み越えるかは、四つの計画がともに担った一つのテーマである。明治の都市計画の課題とは、封建都市江戸を越えることにあったのである。
(『明治の東京計画』)


そして、江戸は越られたのか、という問いに対して藤森は、こう答える。明治の東京計画は、最終的には江戸という都市がすでに備えていた山の地形に沿って、辛うじて「鞍部」で超えたのだと。それは実質的には江戸の都市形態の持続を意味していると言ってよいだろう。たしかに銀座煉瓦街も、黒い土蔵造りの街並も、市区改正道路も、あるいは竣工したいくつかの官庁も、江戸をまっさらに塗り替えたわけではなく、むしろまだ圧倒的な存在感をもつ江戸の骨組みや断片たちと隣り合わせに同居しなければならなかったのである。
『明治の東京計画』は、すべての「計画」をめぐる闘争を描いた末に、その闘争はどこで演じられていたのだったかと、読者の視点を急降下させる。政治家や思想家や官僚たちの活劇を見守っていたのは自分たちだと思っていた読者は、もうひとつの観察者がいたことを知る。それが江戸という「都市」である。
しかし、もう少し踏み込んでこの“急旋回”を誤読してみたい。『明治の東京計画』は、ある意味で、人間や集団の意識的な企図や闘争が、結果として広大な無意識をかたちづくることの証明となっているように思えるのである。おそらく誰も江戸と闘うという実感を持たぬまま、互いに闘い合い、そしてすべての「計画」群の闘争の経過を反映したプロジェクトのその総体が、江戸の最低の「鞍部」で勝たされたということになる。ヒロシマの無縁仏・屋台・ケモノ道。ソウル南山の石階を埋め尽くす住宅地開発。市区改正で切り刻まれた台湾都市が自らを再組織化するプロセス。それらもまた、個別にはその都度意識的であるというほかない人々の営みが、集積することによってどのような効果をもたらすのかを示唆している。
意識的な闘争が必ず無意識をつくり出してしまうメカニズムを、私たちは「都市」と呼ぶのかもしれない。あるいはそれは、ほかの言葉で呼んでもよいであろう。ただ、そのメカニズム自体は解き明かすべき最も普遍的な課題たりえるに違いない。ところで、こうして捉えなおした「都市」は、“江戸”のように具体的に名指すことのできる都市とはいくらか違う位相にある★四。どうやら「路上観察」的な都市=無意識の世界へとつながる穴を、『明治の東京計画』の最後で足下へと視点を落とした読者は見つけるのである[図11・12]。

11──植小人の家 2005年9月、台湾・高雄県岡山付近。 この街屋(店舗住宅)の2層分が、左の建物のほぼ1階分の高さに相当する。道路舗装工事では一般に上へ上へと舗装材を被せるので次第に路面が上昇するのが世界共通。これにあわせ、私有地である亭仔脚(アーケード状歩廊)も、建築内部の床面も、順に上昇させてきたのだが、建物本体の建替えはしなかった。亭仔脚の高さは人間の首ほどの高さにまで縮まってしまった。 筆者撮影

11──植小人の家
2005年9月、台湾・高雄県岡山付近。
この街屋(店舗住宅)の2層分が、左の建物のほぼ1階分の高さに相当する。道路舗装工事では一般に上へ上へと舗装材を被せるので次第に路面が上昇するのが世界共通。これにあわせ、私有地である亭仔脚(アーケード状歩廊)も、建築内部の床面も、順に上昇させてきたのだが、建物本体の建替えはしなかった。亭仔脚の高さは人間の首ほどの高さにまで縮まってしまった。
筆者撮影

12──波形の家 筆者撮影、2006年1月、台湾・彰化縣鹿港。文化財として修復保存された街屋。平入の棟が中庭を挟みながら繰り返すのは一般的な構成だが、それにしても波が多すぎる。実は、波形の半分はすでに取り壊されている写真左の隣接家屋のもの。街屋は2枚の側壁と床・小屋組で成り立っているが、その側壁は隣家と共有しているため、隣家はその姿を完全に消してしまうことができず、この家に自分の姿を転写して残している。 筆者撮影

12──波形の家
筆者撮影、2006年1月、台湾・彰化縣鹿港。文化財として修復保存された街屋。平入の棟が中庭を挟みながら繰り返すのは一般的な構成だが、それにしても波が多すぎる。実は、波形の半分はすでに取り壊されている写真左の隣接家屋のもの。街屋は2枚の側壁と床・小屋組で成り立っているが、その側壁は隣家と共有しているため、隣家はその姿を完全に消してしまうことができず、この家に自分の姿を転写して残している。
筆者撮影


★一──拙著『植民地神社と帝国日本』(吉川弘文館、二〇〇五)。同書は植民地に建設された神社境内をクローズアップし、神社が都市との「間」に取り結んだ空間的・制度的・社会的な諸関係を摘出している。たとえばソウルでは元来、王宮と宗廟・社稷壇が都城の北部に集中していたが、植民地政府は王宮を占拠して総督府庁舎を建設して政府中枢を形成する一方で、社稷壇祭祀を廃止、宗廟を李王家のプライヴェートな祭祀へと閉じ込めたうえで、三つの神社境内を都城南部の南山の斜面に造営して植民都市の巨大な神域を形成した。三つの神社は、それぞれを支持する社会集団との対応関係を有した。たとえば朝鮮神宮は朝鮮全土の全人口を氏子とし、朝鮮全土の祭祀センターとなるが、それは総督府が朝鮮の全人口を管轄対象とし、行政センターとなることと相似である。同様に、京城護国神社と陸軍師団区、京城神社と京城府がそれぞれ対応し、また京城神社の氏子組織は総代から末端にいたる階層秩序をもち、これが京城府の行政末端機構でもあった。
世俗権力と宗教権力が空間的に一致し、集約的・一元的な都市空間をつくる欧州諸国の植民都市に対して、日本の植民都市は両者を引き離したうえで関係づける。すなわち、両者の「間」にこそ都市を特徴づける諸関係が取り結ばれているのであって、その意味で失われた神社の復元は不可欠なのである。
★二──旧植民地の都市に関与する人々からすれば、なぜわれわれの都市は「遅れた」技術としての市区改正によって改造されたのか、という問いがあってしかるべきであろう。しかし、このような問いは現実には発せられにくい。しかも、今なお台湾の都市で市区改正と同様の仕方で建設された道路を目撃することがしばしばあり、こうした場所では、道路境界線まで(だけ)を撤去されて家の内部を露出したままの廃墟がずらりと並ぶことになる。最近では、こうした切断面に取り組むアートが現われて大いに注目された[図13]。次を参照。http://www.streetart.org.tw/
★三──拙著『彰化  一九〇六年』(編集出版組織体アセテート、二〇〇六)に詳しく論じたので参照されたい。同書は、一個の具体的な都市に関するインテンシヴな調査研究に基づいて、都市改造のインパクトによって鋭い二重性を刻まれた都市がどのような変容をとげていくのかを実証的に復元し、都市の組織とその時間的展開のあり方に関する理論の提示をも試みている。
★四──日本学術振興会・人文社会振興プロジェクト「千年持続学・都市の持続性に関する学融合的研究」の一環として二〇〇五年四月九日に行なわれた千年持続学フォーラム「都市の血、都市の肉」は、このような「都市」を語りうるのか、を議論する場だった。同フォーラムでの発表と討議は、編集出版組織体アセテートより「都市の血肉」シリーズとして刊行の予定である。前掲拙著『彰化  一九〇六年』もその一冊であり、人間の意識的な企図や闘争が結果的に無意識をつくり出す関係についても、ある興味深い事件を例に挙げて検討している。
また、これと通底する指摘は、中谷礼仁『セヴェラルネス──事物連鎖と人間』(鹿島出版会、二〇〇五)にも見出せる。すなわち中谷は、C・アレグザンダーの  “City is Not a Tree“(一九六五)を「都市はひとつのツリーではない」と読んでみせているが、この単純な発見はきわめて意味深長である。セミラティスのごとく複雑な都市は、実は「セヴェラル」なツリーの重合、すなわち、その都度合理的な人間の営みの累積にすぎないというわけである。ただし、この指摘はそれ自体かなり論争的でありうる。

13──辰劉國滄打開聯合工作室「牆的記性」2006年8月、筆者撮影プロジェクト「美麗新世界─海南路芸術造街」の一作品。台湾・台南市の道路(海南路)建設によって、切断面を露呈したままの家屋が両サイドに取り残され、これを素材としてアーティストたちがさまざまな創作を展開。

13──辰劉國滄打開聯合工作室「牆的記性」2006年8月、筆者撮影プロジェクト「美麗新世界─海南路芸術造街」の一作品。台湾・台南市の道路(海南路)建設によって、切断面を露呈したままの家屋が両サイドに取り残され、これを素材としてアーティストたちがさまざまな創作を展開。

>青井哲人(アオイ・アキヒト)

1970年生
明治大学准教授。建築史・都市史。

>『10+1』 No.44

特集=藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>丹下健三

2002年

>中谷礼仁(ナカタニ・ノリヒト)

1965年 -
歴史工学家。早稲田大学創造理工学部准教授、編集出版組織体アセテート主宰。