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ジャン・プルーヴェの工場製・組立住宅における実験的試み | 山名善之
Jean Prouvé's Experimental Built-up House as Factory Products | Yoshiyuki Yamana
掲載『10+1』 No.41 (実験住宅) pp.90-97

二〇世紀という工業化の時代を生き抜いたジャン・プルーヴェ(一九〇一─一九八四)がコンストラクター(建設家)として、マレ・ステヴァンス、トニー・ガルニエ、ボードワン&ロッズ、ル・コルビュジエなどフランス近現代建築史を代表するさまざまな建築家とコラボレートし、数々の建築や家具の「名作」を遺したことはよく知られている。しかし昨今、プルーヴェがさまざまな場で再評価され多くの人々の関心を集めているのは、このような「巨匠」建築家によって設計された「建築作品」の薄鋼板加工の金属部品製作者というだけのものではなく、もちろん単にミッド・センチュリー「家具作品」のデザイナーとしての理解からだけのものでもない。

近現代建築史におけるプルーヴェの評価

彼が二〇世紀建築史のなかにどのように評価され、位置づけられてきたかについては、日本だけではなく、欧米の建築史家からの評価においても、その革新的な役割を即座に理解されてきたかどうかは定かでない。「近代建築史」の基本文献に目を通してみても、プルーヴェが扱われるようになってきたのは、ごく最近のことである。ヒッチコック、ぺヴスナー、ゼヴィー、ベネヴォロなどはもとより、技術的革新・進歩に関心をもって、『空間・時間・建築』(一九四一初版)、『機械化の文化史──ものいわぬものの歴史』(一九四八初版)などの著作を発表してきたギーディオンでさえも、プルーヴェについてまったく触れていない。
コラボレーターとしての紹介に留まらず、「プルーヴェ」が正当に建築史家によって評価されるのは、おそらく『アーキテクチュラル・レビュー』誌一九六二年四月号に発表されたレイナー・バンハムによる「The Thin, Bent Detail」と題された小論を待たなくてはならないであろう。バンハムはこの小論を、一九六〇年の彼の主著となる『第一機械時代の理論とデザイン』と、一九六九年の著作『環境としての建築』の間に発表している。『環境としての建築』のなかでバンハムは環境設備と配管・電気設備が二〇世紀建築に導入した先取的で不可逆的な変貌を美術史分析の範疇から切り離して検証してみせるが、バンハムはここにおいても、また『第一機械時代の理論とデザイン』におけるB・フラーの扱いとは対照的に、プルーヴェについてはまったく触れていない。しかし、ギーディオン、ぺヴスナーなどの第一世代の歴史家たちとは異なり、バンハムはこれらの著作において二〇世紀建築史を一九世紀からの連続性から捉えるにあたり、「構成」「構築」という技術的思考を提示した。二〇世紀の工業化建築としての「近現代建築」を著すのに、このアプローチが有効であったことが、またこの方法論がプルーヴェを評価するにあたっても有効であったことが、この一九六二年の小論からも窺える。

生産主義──テクトニカルな理解としてのインダストリー

通史においてプルーヴェを歴史的に位置づけた最初のものはジェラルド・モニエ(Gérard Monnier)によるL’architecture en France, une histoire critique 1918-1950, architecture, culture, modernité(P. Sers, Paris, 1990)であろう。一九一八─一九五〇年間のフランス建築を捉えるにあたり、建築作品を成り立たせるアクターとして建築家、エンジニアなどの設計者のみならず、クライアント(発注者)や施工者、プロダクター(生産・製作者)あるいはその組織にまで言及している点が注目に値する。なかでも生産者プルーヴェについてはエンジニアというよりは、むしろ創造的なインダストリー(工場主)として捉え、その生産環境を取り巻く状況(工作機械の購入、経済的条件など)にも着目し、それによって建築家との協同関係や具体的に現われだす建築物が変化してゆくことを説く。この一九九〇年のモニエによる通史の出版が象徴的ではあるが、一九九〇年末にはポンピドゥー・センターにおいて「Jean Prouvé: constructeur」という回顧展が開かれ、この展覧会を契機にプルーヴェに対する建築史上の理解がおおきく進む。この一九九〇年を境に再版される二つの英語による基本的文献の加筆の仕方は興味深い。ケネス・フランプトンの『現代建築史』★一と、ウイリアム・カーティス(William J. R. Curtis)の『近代建築の系譜──一九〇〇年以降』★二であるが、両者とも初版においてはプルーヴェについての記述は皆無であったが、カーティスは一九九六年版において、フランプトンは一九九二年版において、それぞれプルーヴェに関する記述を加筆している。

生産主義は、最も純粋な意味からすると、いわゆる「近代主義」の立場と区別しがたい。そういう風に見れば、正統的な近代建築は、優雅な工学技術そのもの、間違いなく規模を引き延ばしたインダストリアル・デザインそのものになるし、実際、そうならなければならないのである。しかし、これまで筆者が述べてきたように、こうした見方は「近代運動(モダン・ムーブメント)」の歴史の中の多くの前例に支えられているのである。中でも重要なのは、フランスの職人的技術者ジャン・プルーヴェの先駆的作品で、それは一九三〇年代に遡る。彼が一九三五年、パリの《ロラン・ギャロス飛行クラブ》の建物で見せたカーテン・ウォールのディテール、あるいは一九三九年、パリのクリシーに技術者ウラジミール・ボディアンスキー、建築家マルセル・ロッズ、ウジェーヌ・ボードワン達と協同して設計した、変更自由な《人民の家》のカーテン・ウォールのディテールなどがそれである(『現代建築史』中村訳、五二二頁)。


特にフランプトンのこの一九九二年の加筆部分は、前掲のモニエによる通史の立脚点と共通しているところがある。同時にこの時期、フランプトンは一九九五年に出版となる『テクトニック・カルチャー──一九─二〇世紀建築の構法の詩学』★三を準備する。プルーヴェに関して『テクトニック・カルチャー』においては触れられていないが、建物を場所(topos)、類型(typos)、結構(tectonic)という三つのヴェクトルの絶え間ない関わりのなかから生み出されてくるものだとし、「結構がどんな特定のスタイルにもこだわる必要がない一方、敷地や類型には関わり、そうすることで建築以外の言説から自らの正当性を引き出してこようとする今日の建築のあり方に対抗しうるのである」(前掲書、松畑+山本訳、一四頁)とする「結構的」(テクトニカル)なものの再肯定が提示された。この時点で今日のプルーヴェに対する理解の前提はほぼ用意されたといえるであろう。

実験住宅としての工場製住宅

プルーヴェによる一連の「工場製住宅」の開発の試みは、「技術的」イメージ、つまりできあがった「住宅作品」から、組立方法が想像でき、システムが理解できるという、テクトニカル(「結構的」「構築的」)という語において表わされる。また建物が外被と構造体、そしてそこに援用されている材料と技術的な仕掛けによるものであるという理解が不可欠となる。そしてこの実践的な技術的思考をプルーヴェは建築家、エンジニアなどコラボレートする全ての人々と、合理的、効率的なやり方で発明的、創造的な行為となる建築の構築を行なっていたのである。この意味からプルーヴェが長年取り組んでいた「工場製住宅」の開発の取り組みは「実験的」であったといえるであろう。
それでは「実験住宅」を成り立たせていたプルーヴェの実践的な技術的思考とはどのようなものであったのであろうか。「工場製住宅」を組立てられうるシステムの総体、工場生産物として、生産方式と組立方式を同系列のプロセスとして捉える。プルーヴェはそれぞれの部材間の接合部のスケッチを繰り返しながら、概念の置換やアナロジー的な思考を駆使して、部材に対してシナジー効果を期待するのである。これらの作業と並行して、手持ちの工作機械に内在する可能性を最大限に引き出すことを考えるというように、生産物と道具を同時に思考(経済的にも)するというものであった。この一貫した合理的思考は、プルーヴェのマテリアルへの信頼とともに、自身が工場主という「工場の人間」であったことをベースに成り立っている。彼は建物のために生産し、建築家とコラボレートすることを選択しながら、同時代の建築家の技術的想像力の範囲ではなく、工場生産を支えている科学技術的、経済的思考から自らの取るべき道を決めていたのである。プルーヴェが二三歳のとき(一九二四)ナンシーのジェネラル・キャスティーヌ通りに最初のアトリエを開設して以来、プルーヴェは仲間とともに設計開発を工場内で行なっていた。設計と実験そして製作と常に同じ場所で瞬時に行なえる体制が、プルーヴェの実践的な技術的思考に支えられた「実験」を可能にしてきた。

1──マクセヴィルの工場 引用図版=Jean Prouvé, 1904-1984: constructeur, François Dumail (ed.), Réunion des Musées Nationaux, Paris, 2001.

1──マクセヴィルの工場
引用図版=Jean Prouvé, 1904-1984: constructeur, François Dumail (ed.), Réunion des Musées Nationaux,
Paris, 2001.

切られた手

プルーヴェは一九四〇年代からアルミニウムの加工に取り組んでいた。このアルミニウムという新材料への接近がプルーヴェにとって命取りになったのである。工場主であったプルーヴェは自らの生産物の可能性を拡げるために、最初のアトリエ開設以来、利益を工作機械の購入を中心に設備投資に充てていた。第二次世界大戦直後、戦後復興再建を目指して、多くの建設需要が見込まれることを背景に軽量プレファブ製品における軽量合金の利用を促進するために、フランス・アルミニウム社は、一九四九年、国内の主なアルミニウム加工業者、およびその研究開発、販売を担当していたステュダル社に出資した。この流れのなかでプルーヴェにもステュダル社からの資本提携の提案があったのである。プルーヴェは当時、戦後復興のため「工場製住宅」の大量生産を目指し、ナンシーのマクセヴィルにアトリエを移転(一九四七)、資本を募り設備の充実を図っていた[図1]。それぞれの思惑が一致し、両者は提携にいたった。当初、プルーヴェはステュダル社のさまざまなパートナー企業の技術的、商業的ノウハウに基づき、実り多い協同を行なう。
しかし、前述したようにアトリエ開設以来、独自の発想に基づき制作、個人の責任において一貫した生産・組立のプロセスを管理していたプルーヴェは、この資本提携によって成り立ち始めた工場の組織にアンバランスさを感じ始め、次第に資本提携先との摩擦が大きくなる。そして、一九五三年七月一日にプルーヴェはアトリエ組織の代表取締役社長を離れるのである。プルーヴェの実質的な「実験」の過程はここで終止符を打ったといってもよいであろう。工場を手放したプルーヴェは、まさにこの時期、身体的には打ちひしがれ、ル・コルビュジエが「切られた手」にもたとえた精神状況のなかで、一年後の一九五四年夏、三カ月間を使って、自邸を自力で建設、組み立てたのであった。これが有名なプルーヴェの自邸《ナンシーの住宅》である。マクセヴィルの工場を失ったことによってプルーヴェは今後の展開と、「手持ちの手段」を再検討せざるをえない状況において、また、仲間とともに創造的な仕事を行なっていた組織の最終決定者としての責任、工場で日常的に資金繰りをすることや生産の継続を保証する責任から解放された自由の身となった時点で、この自邸は建設された。

《ナンシーの住宅》

ナンシーの北西、かつてワイン畑であった南向きの急斜面の中腹にプルーヴェの自邸はある。健脚のものにとってもかなり登ることの困難な地に、しかも自力で家族やかつての仲間とともに、重機を使わず脚立と簡単な道具類のみで建設されたことは驚くべきことである。建物は等高線に沿って東西に配置されている。プルーヴェの生産の論理から決められた一メートルのモデュールに従って、西側から寝室などのプライヴェート・ゾーン、サニタリー・ユニット、エントランス、リビング、キッチン・ゾーン、サーヴィス・ゾーンというような単純な構成をとっている[図2]。プルーヴェはマルタ・ヴィリガーと協同して一九五二─五三年にかけて自邸設計のエスキスを行なったが、この平面構成はそれとほぼ同じものである。しかし、一九五二─五三年案はコック構造を架構形式に採用しており、暖炉と一体化された耐力壁がリビングの両端に置かれている。一九五三年の七月に工場を離れたプルーヴェは、部品を再考し架構形式の変更を余儀なくされた。プルーヴェは工場の片隅にあった残り物の部品を現場へ運び、それらを組み合わせながら建設したのであった。
スケッチに見られるように斜面にすっぽりと住宅が嵌まり込むような断面に敷地が整地され[図3-a]、そこにレベルを確認しながら南北に床を支えるレールが敷かれる[図4-a]。この北側端部に棚の仕切り壁となる耐力壁が設置され[図4-b]、床と共にL字型断面を形成し、これがこの住宅の主体構造となる[図3-b・3-c]。この北側端部を固定端とし一メートル幅のルソー型と呼ばれる屋根天井断熱パネルを順次架ける。居間部分においては、写真に見られるようにこのルソー型パネルの弾力性に期待しながら、現場において調整され、優雅なS字上の湾曲を実現している[図4-c]。組上げる際、パネルの中間を支えるために、ほかの建物で使用が検討されていた床梁を転用して使用していることなど、さまざまな段階において、現場において即興的な実験が繰り広げられていたことがわかる。
ルソー型パネルによる架構はそれだけでは妻側方向からの風加重などの横力に対して抗しえないため、スケッチ構想段階においては住宅内のバス・ユニットとキッチン・ユニットの二カ所を構造コアとして、横力を受けるようにも考えられていた[図3-d]。しかし、現場において変更され両端の妻面は組石造によって形成されるようになり、実際、両妻面は開放されていない。同じ時期に架構形式が共通する《アルミニウム百年記念館》(一九五四)[図5]の設計、製作、組み立てが行なわれていたが、ここでは、妻側をガラス面として開放することに成功している。このプロジェクトにおいてはさまざまな水平力に対する検討がエンジニア、M・ユゴネと共に繰り返され、結局、もっとも単純ともいえる、固定端とローラーに支持された単純梁に落ち着き、工夫された接合部が考案された。同系列の架構システムは、その後《エヴィアンの鉱泉飲場》(一九五六)[図6]、《ヴィルジュイフのノマド(移動式)学校》(一九五七)においても展開される。また、設備ユニットに水平力を期待する、住宅における設備コアの考えは同じ時期に《アルバの住宅》(一九五三)において検討されていたが、その後の《ピエール神父の生活向上住宅》(一九五六)、《ゴーティエ邸》(一九六二)などにおいてより考えが鮮明になる。

2──《ナンシーの住宅》、アクソメ図作成=Isabelle da Costa 引用図版=Gérard Monnier, L'architecture en France, une histoire critique 1918-1950,architecture, culture, modernité, P. Sers, Paris, 1990.

2──《ナンシーの住宅》、アクソメ図作成=Isabelle da Costa
引用図版=Gérard Monnier, L'architecture en France, une histoire critique 1918-1950,architecture, culture, modernité, P. Sers, Paris, 1990.

3-a──プルーヴェによる自邸スケッチ 引用図版=カトリーヌ・デュモン・ダヨ+ブルーノ・ライシュリン監修、山名善之日本語監修 『ジャン・プルーヴェJean Prouvé: The poetics of technical objects』 TOTO出版、2004

3-a──プルーヴェによる自邸スケッチ
引用図版=カトリーヌ・デュモン・ダヨ+ブルーノ・ライシュリン監修、山名善之日本語監修
『ジャン・プルーヴェJean Prouvé: The poetics of technical objects』
TOTO出版、2004

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4-a──施工中のプルーヴェ自邸 引用図版=Jean prouvé “constructeur”, Centre  Georges Pompidou, Paris, 1990.

4-a──施工中のプルーヴェ自邸
引用図版=Jean prouvé “constructeur”, Centre
Georges Pompidou, Paris, 1990.

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5──プルーヴェによる《アルミニウム百年記念館》のスケッチ 引用図版=『ジャン・プルーヴェ Jean Prouvé: The poetics of technical objects』

5──プルーヴェによる《アルミニウム百年記念館》のスケッチ
引用図版=『ジャン・プルーヴェ Jean Prouvé: The poetics of technical objects』

6──プルーヴェによる《エヴィアンの鉱泉飲場》のスケッチ 引用図版=『ジャン・プルーヴェ Jean Prouvé: The poetics of technical objects』

6──プルーヴェによる《エヴィアンの鉱泉飲場》のスケッチ
引用図版=『ジャン・プルーヴェ Jean Prouvé: The poetics of technical objects』

BLPS住宅──マルセル・ロッズ&ウージェーヌ・ボードゥワンとの協同

一九三〇年代の初頭までの建築家との協同は、金物類やサッシュなど建物の一部の製作、組立てに過ぎなかったが、プルーヴェは一九三三年の「ラ・ヴィレットのバス・ステーション」(実現せず)において、はじめて建物全体に取り組むようになる。実現した建物としては、ケネス・フランプトンも前述の著作において触れている《ロラン・ギャロス飛行クラブ》(一九三五)[図7]が最初である。この建物を機会にプルーヴェは建築家マルセル・ロッズ(一八九八─一九八三)&ウージェーヌ・ボードゥワン(一八九八─一九八三)と建物全体を協同で構想するようになり、傑作《クリシー人民の家》(一九三七─三九)[図8]を完成させる。
《クリシー人民の家》と同じ時期に、彼らと協同してプルーヴェは初めて《組立住宅》に取り組む。協同者のそれぞれの頭文字をとって命名された《BLPS住宅》(一九三七─三九、Sはストラスブール製鋼)である。一九三七年から三八年に掛けて開発されたこの住宅は外形寸法が三・三×三・三メートル、たたみ上げベッド二つ、たたみ込み式テーブル、回転式収納棚がセットされた居室(三・三×二・二五メートル)、一・六五×一・〇五メートルのキッチン・ブースとシャワー・ブースがそれぞれあり、全て薄鋼板の曲加工で製作され、総重量は一四二〇キログラム、付属品をいれても一五〇〇キログラムという軽量化が図られたバカンス用の《組立住宅》である。組立てに五時間、解体に二時間が想定されている。これは一九三九年の「生活芸術展」に出品され、ロッズは聴衆の前でデモンストレーションを行ない好評を博した[図9]。薄鋼板製の断熱壁パネルを床パネル、屋根パネルと組み立て合わせるというシステムは、後に順次改良される《組立住宅》のシステムの基本的考えが最も純粋な形で提案されているものである[図10]。
一九三八年から四四年にかけて、プルーヴェは彼らと薄鋼板の曲加工によって製作された四本柱の骨組と薄鋼板壁パネルによる「金属製プレファブ住宅」の開発を行ない、一〇分の一スケールの模型を制作し[図11]、一九四五年一二月に開催された「復興再建展」に出品する。その後、全体の四分の一部分が原寸大モックアップとしてアトリエで製作されるが、このプロジェクトのコンセプトや支払いを巡る争いが起こり、プルーヴェは彼らと「全面的に決裂」することになった。

7──《ロラン・ギャロス飛行クラブ》 引用図版=Catherine Coley, Jean Prouvé, Centre Georges Pompidou Paris, 1993.

7──《ロラン・ギャロス飛行クラブ》
引用図版=Catherine Coley, Jean Prouvé, Centre Georges Pompidou Paris, 1993.

8──《クリシー人民の家》(1937─39) 引用図版=Jean Prouvé et Paris, Allegret & Vaudou (ed.), Picard, 2001.

8──《クリシー人民の家》(1937─39)
引用図版=Jean Prouvé et Paris, Allegret & Vaudou (ed.), Picard, 2001.

9──《BLPS住宅》(生活芸術展におけるデモンストレーション) 引用図版=Coley, Jean Prouvé.

9──《BLPS住宅》(生活芸術展におけるデモンストレーション)
引用図版=Coley, Jean Prouvé.

10-a──《BLPS住宅》のディテール薄鋼板曲加工による屋根パネル、スケッチ 引用図版=Peter Sulzer, Jean Prouvé Complete Works: 1934-1944, Birkhäuser, 2000.

10-a──《BLPS住宅》のディテール薄鋼板曲加工による屋根パネル、スケッチ
引用図版=Peter Sulzer, Jean Prouvé Complete Works: 1934-1944, Birkhäuser, 2000.

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11──航空省のための組立式バラックの組立模型 引用図版=Peter Sulzer, Jean Prouvé Complete Works: 1934-1944, Birkhäuser, 2000.

11──航空省のための組立式バラックの組立模型
引用図版=Peter Sulzer, Jean Prouvé Complete Works: 1934-1944, Birkhäuser, 2000.

戦争用移動組立式住宅──BCCとの協働

一九三〇年代後半、ファシズムが台頭し次第にヨーロッパが戦禍に巻き込まれてゆくなか、部隊と武器の移動が戦略上、重要な位置を占めるであろうとするフランス軍参謀部の要請にもプルーヴェは応えて、移動式の一次避難施設を設計開発していた。航空省のために考案した《組立式臨時宿舎》(一九三八年末)、そして戦闘単位用に充てられた第四師団、第五師団のために八〇〇戸実現した外部露出骨組み《四×四メートル住宅》(一九三九年一〇月)[図12]などである。これらは戦時下における実験住宅とも言える。
《組立式臨時宿舎》においては、外形四〇×八メートル、天井高三・五メートルと《BLPS住宅》に比べると巨大化し、スパンも八メートルになったためか、プルーヴェは構造形式として「内部ポルティーク構造」方式と「外部露出骨組み」方式の二つを開発する。「内部ポルティーク構造」方式モデルは、パネルと屋根或は床パネルとの接合部は《BLPS住宅》のディテールを継承し、壁パネル自体は《クリシー人民の家》で使用されるものと共通するディテールに改良されている。この「内部ポルティーク構造」方式の《組立住宅》は「組立式金属製骨組住宅」として特許申請(一九三九年二月二日付)にいたる。
外部露出骨組み《四×四メートル住宅》においては木製パネルが採用され、骨組みも鋼製のもの、あるいは木製で接合部のみが鋼製のものが考案される。戦時下の鋼材の供給が難しくなってゆく状況が窺える。この木・鋼製のハイブリッドモデルも「組立式バラック」[図 13]として特許申請(一九四〇年一月一六日付)される。
一九三九年末、政府の軍需産業施設地方分散政策の一環として、プルーヴェは、 SCAL(軽合金中央協会)に必要な「組立建築」の開発を行なうようになった。当時、フランスのレジスタンス運動に参加していたプルーヴェは、政治的信条も理解しあえるピエール・ジャンヌレの参画していたBCCとの協力関係を明確にする。そして、このプロジェクトをBCCに参加していたシャルロット・ペリアンらとも協同し、特許を取得したばかりの前述の内部ポルティーク式「組立式金属製骨組住宅」構造システムの実施検討を行なう。この検討の図面の数々を携えて、ぺリアンは後に日本へ旅立つ。
「BCCはアトリエ・ジャン・プルーヴェが取得した特許を使用すること。アトリエ・ジャン・プルーヴェはBCCに組立部品を納入すること。ジャン・プルーヴェの地位はBCCの地位と同等であること」と、彼らの協同の条件を文書化している。
一方、政治的信条においては、ピエール・ジャンヌレと意見が分かれていたル・コルビジエと、同じ時期にプルーヴェは「被災者のための移動式学校」のプロジェクトを開発、そこで二階建てのポルティーク・システムの原理を実験する[図14]。

12──組立式バラックの組立 引用図版=Peter Sulzer, Jean Prouvé Complete Works: 1934-1944, Birkhäuser, 2000.

12──組立式バラックの組立
引用図版=Peter Sulzer, Jean Prouvé Complete Works: 1934-1944, Birkhäuser, 2000.

13──a: 組立式バラック(特許) 引用図版=Sulzer, Jean Prouvé Complete Works: 1934-1944.

13──a: 組立式バラック(特許)
引用図版=Sulzer, Jean Prouvé Complete Works: 1934-1944.

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14──ル・コルビュジエと同時期に検討がすすんだ組立式バラックの2階建て方式 引用図版=Jean Prouvé, 1904-1984: constructeur,  Francois Dumail (ed.).

14──ル・コルビュジエと同時期に検討がすすんだ組立式バラックの2階建て方式
引用図版=Jean Prouvé, 1904-1984: constructeur,  Francois Dumail (ed.).

戦後復興と組立住宅の大量生産

このように戦時下の厳しい条件のなかでの開発において、組立住宅の技術は蓄積する。戦争が終結し、戦後復興再建のために「組立住宅」の市場が確立し始める。東フランス、ロレーヌ地方の戦災者のために一時的に住宅を提供するための案をプルーヴェは軍事省に提出し、四五〇戸の組立住宅を受注する。プルーヴェのアトリエは流れ作業生産方式を行なったが、それでも一部を下請けに任せないとこなせないまでの活況を呈する。
プルーヴェは戦後の膨大な住宅需要に応える方策を探ろうと試みる。しかし、当時のナンシー市内のジャルディニエ通りのアトリエにはそれだけのスペースも設備もなく、材料の調達も街なかのアトリエには問題があった。そして、プルーヴェはナンシーの郊外のマクセヴィルに、運河や鉄道に近い廃工場をみつけ、一九四六─四七年にかけてアトリエを移転する。移転を機会に、多くの大型工作機械を購入し、生産方式の工業化を発展させ、生産能力は急激に高まった。移転に煩わされたこともあったが、やがて生産機構も整い、アトリエは新たな段階をむかえた。
戦後復興再建のためのものを中心に多くの受注により、一九四六年から四九年にかけて三度にわたり増資が行なわれ、プルーヴェのアトリエは順調に発展し、プルーヴェが目指していた生産にかかわる全てのものからなる「物質的かつ精神的な共同体」という「プルーヴェ精神」がマクセヴィルにおいて実現した。薄鋼板曲加工を得意とする金属二次加工メーカー、金属製建設資材を生産するプルーヴェのアトリエはコンストラクターであると同時に、インダストリーでもあった。美しい「物質的かつ精神的な共同体」であるインダストリーは、所詮、資本という論理のなかにあったのである。一九四九年から一九五三年にかけてアルミというより大きな資本論理のなかで、この美しい共同体は崩壊してゆく。《プルーヴェ自邸》が組み上げられたのはその直後のことである。


★一──Modern architecture: A Critical History, Oxford University Press, New York, 1980.  邦訳=『現代建築史』中村敏男訳、青土社、二〇〇三。
★二──Modern architecture since 1900, Phaidon, Oxford, 1982.  邦訳=五島朋子+澤村明+末廣香織訳、SDライブラリー、一九九〇。
★ 三──Studies in Tectonic Culture: The Poetics of Construction in Nineteenth and Twentieth Century Architecture, MIT Press, Cambridge, 1995.  邦訳=松畑強山本想太郎訳、TOTO出版、二〇〇二。

>山名善之(ヤマナヨシユキ)

1966年生
ワイ・アーキテクツ主宰。建築設計・意匠/フランス政府公認建築家/博士(パリ大学I)/東京理科大学助教授。

>『10+1』 No.41

特集=実験住宅

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>空間・時間・建築

1955年3月1日

>レイナー・バンハム

1922年 - 1988年
建築史。ロンドン大学教授。

>ケネス・フランプトン

1930年 -
建築史。コロンビア大学終身教授。

>末廣香織(スエヒロ・カオル)

1961年 -
建築家。エヌ・ケイ・エスアーキテクツ共同主宰、九州大学大学院准教授。

>松畑強(マツハタ・ツヨシ)

1961年 -
建築家。千葉大学、明治大学非常勤講師。

>山本想太郎(ヤマモト・ソウタロウ)

1966年 -
建築家。山本想太郎設計アトリエ主宰、東洋大学非常勤講師、明治大学兼任講師。