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実験住宅訪問記──住宅における実験的試みを目撃する | 今村創平
On-the-Experimental House Coverage: See the Experimental Attempts of Houses | Imamura Sohei
掲載『10+1』 No.41 (実験住宅) pp.52-63

藤森照信《高過庵》

多くの人たちと同じく、僕も《高過庵》をはじめて知ったのは建築雑誌によってであったが、こうした少し突飛な建物を実現する藤森照信という人に対して、またまたやられたという感嘆を禁じえなかったことを憶えている。これまでも藤森の建築には、屋根一面にニラが植わっていたりと、こんなことをほんとうにしてしまったのかという笑いを誘いつつも、建築家という職業の常識ゆえに、そこまで自由になれない自分に気付かされることがたびたびあった。建築業界が、閉じられた環境のなかで話題や言説を再生産し、そしてそれも行き詰っているような重苦しい雰囲気もあるなかで、藤森のあっけらかんとした振る舞いは時には暴力的ですらあり、時には反発を感じられることも仕方がないことだろう。でも一方で、こうしたちょっとおかしい建物を、世間一般の人たちはとても素直に楽しんでいるようなのだ。
《高過庵》は、藤森のデビュー作である《神長官守矢史料館》の、すぐ近くに浮かんでいる。《神長官守矢史料館》は、幼馴じみからの依頼であり、《高過庵》は藤森の実家の畑の一角に立つように、このあたりは藤森の昔からの縄張りのようなものだ。《神長官守矢史料館》を目安に来るようにとの指示通り、まずは史料館に着き、そこで《高過庵》の場所を聞き、ゆるやかな傾斜の草地をしばらく歩くと、こんもりとした緑の山を背景に《高過庵》が目に入る。途中見かけたとても小さな祠のまわりにもそれを取り囲むように垂直に木の独立柱が立てられ、やはりこのエリアには、諏訪大社の御柱のように柱を立てる文化が色濃くあるということを強く意識させられる。もちろん、長らく諏訪大社の神長官を務めてきた守矢家がある土地なので、そうした影響が強いのは当然なのであるが。
《高過庵》は、山から切り出してきたそのままのような、少し曲がりのある二本の木に支えられて立っている。これらの木の柱はクリの木で、それは腐食等を考慮して決められたと説明されているが、それだけではきっとなくて、あえて少し曲がりのある樹種を選んだのだろう。初期のスケッチでは、柱はまっすぐであって、その上に部屋が載っているが、この実現した曲がった柱の方が明らかにこの建物には似合っている。《高過庵》は、柱の上に黄土色の土壁と銀色に鈍く光る銅版の屋根とからなり、上部の塊に対して、柱がひょろひょろといくぶん頼りなげに支えている様が、この建物のおかしみに貢献していることは間違いない。ちなみにこの外観は、同じく茶室の《一夜亭》と、兄弟かのように似ている。
建物の真下に行くと、この建物の底が眺められ、梯子を上って底にあいた開口からこの建物に入る。この底から建物ににじり入るというのは、前に京都の《矩庵》でも一度試みられている。ただし、僕はおそらく初めて建物の底というものを見た。というのも普通の建物には、通常底などというものはないからだ。動物でも大抵、お尻のほうから見るとどうも間抜けな感じがするが、建物の底というのもそう考えるとなかなかユーモラスだ。建物のお尻とはどうあるべきなのか、ちょっと気になったが、そのことは藤森本人はあまり意識していなかったようだ。
中に入ると、噂に聞いていたように、よく揺れる。話をしながら、ちょっと手を振るだけでも揺れる。多くの人が、倒れないのでしょうねと質問するそうだが、揺れはするものの、倒れはしないだろうなとの感じを、僕は持った。クリの木の柱は地面深くに刺し込まれ、コンクリートで固められている。細い柱の上に塊のような部屋が載っているから、アンバランスに思えるが、実はこの部屋の部分は、とても軽く作られている。通常の木造であれば、柱を立て梁を渡すといった架構を持つものだが、この部屋はJパネルという木製積層パネルに内外の左官仕上げをしただけの壁で作られており、それはセルフビルドで行なうために簡便であるからとの説明があったが、実際には建物の軽量化にも役立っている(このパネルによる壁面で簡単に組み立てるという発想は、おそらく《一夜亭》を舞台の大道具さんの手によって作ったときの経験によるものだろう)。
小さな部屋ではあるが、三人で入っても狭いとの感じはない。小さな部屋というと、茶室が連想される通り、話のはじめに藤森さんが自ら抹茶を点ててくださる。干し柿も供される。干し柿の種をティッシュにくるんでしまおうとすると、そんなの窓から放ればいいんだよと言われる。それが藤森流のマナーであり、確かにここでは自然である。

藤森さんは、お茶の作法が大嫌いだという(システムも嫌いなのだそうだ)。しかし、この狭さへの関心といい、お茶を点てられることからも、茶室を意識していることには疑いもない。茶室というのは、誰がデザインしても茶室になってしまうものだとも言われた。であるから、そうでないあり方がないものか、伝統との距離を測りながら試しているのだろう。今に伝わる草庵茶室というのは、利休の創意によるものだとされている。当時にあっては、利休の作り上げた待庵は斬新な空間であり、新しい空間を生み出すために、利休はさまざまな実験をしたのであろう。その独創性ゆえに、利休の名が今なお燦然と輝いている。しかし、今日待庵はこのように描写される。「……待庵はまさに茶室の概念の典型と称すべきものである。利休が好んだ茶室は文献には多いが、どれを起こしてみても、待庵のように完全無欠なものはない。まさに白眉中の白眉と言えよう」(西沢文隆『日本名建築の美─その心と形』講談社、一九九〇)。待庵は、草庵茶室の模範とされ、その後多くの参照を受けたのであるが、これは実験的でオリジナルな試みが、時を経て後年普遍的な価値を持つというパターンの典型的な例である。実験には、後年から見ても前衛であり続けるものと、それが後にはスタンダードになるものとがある。
茶室といういくぶん肩肘が張りがちな領域の話しが少し長くなったが、藤森の建築が広く愛されるひとつの要因は、その楽しげな佇まいだ。建築史という実証をベースにする学問を専攻としている東大教授、そういう堅苦しいイメージとは裏腹に、藤森は実に楽しげに建物に取り組んでいるように見える。例えば、彼の建物は縄文建築団という集団により施工が行なわれていることはよく知られているが、《ニラハウス》の現場での必要に迫られてはじまった素人によるセルフビルドという試みは、次々と賛同者を増やし、毎回賑やかに作業にあたっているという。そして、セルフビルドという言葉がまといがちな、自己満足的なウエットさとは縁のない、からっとした愉快な風がそこには吹いているのである。
では、藤森は本当に縄文時代の原始人のように建築を作っているのかというと、それはまったく違う。手作りで、そこいらに散らばっている自然材料を気ままに組み立てているわけではけっしてない。建築史家として、人の何倍も建築を見歩き、また建築への知識に溢れる氏が、いざ自分の設計の段になってナイーヴであるはずがない。セルフビルドのように見えても、本人が説明しているように、構造や設備に関してはプロの施工によるものとし、最後の仕上げなどの表面的な部分だけを素人集団で仕上げている。であるから、ある意味でははりぼてなのであり、モダニズムが標榜していたような空間と構造の一致といった合理性からは、とても遠いところにいる。興味深いのは、近刊『藤森流自然素材の使い方』(彰国社)での大嶋信道との対談で、自身の納まりの考え方が、谷口吉生のものとまったく同じことを認めていることだ。洗練のきわみともいえる谷口と土着への偏愛とも言える藤森とでは、その見かけ上は対極にあるとも言えるのだが、最終的な見えを優先し、それを支える納まりやら構造はまったく背後に隠してしまうといった点では、両者の手法は確かに同じなのである。それが証拠に、自然への強いシンパシーを表明しつつも、藤森の自然は生のままの自然ではない。普通にしていたら、屋根の上にニラなど生えないのだから。

鈴木了二《神宮前の住宅》《池田山の住宅》

たくさんのまとわりつく意味を剥ぎ取り、建物を「もの自身」へと還元する。<人物団体:43>鈴木了二</人物>の住宅を訪問する機会を与えられて沸き起こったのは、ではその「もの自身」である物質試行と名づけられた住宅のなかに、いかにして人は棲むことができるのだろうかという興味であった。「もの自身」は何も表象しないし、私たちの感情を受け入れもしない。そのように私たちの向こう側にある住宅に、私たちは入ることができるのか。「……つまりあらゆる常套句を沈黙させ、しかもそのことによってのみダイナミックな活動を組織しうる根源的祖形、ベンヤミンなら太古の祖形と言うであろう原基的建築をロースは墓と呼んだ」(鈴木了二「ロース・ゴダール・リベラ」『非建築的考察』[筑摩書房、一九八八]所収)果たして、私たちは、墓の中に棲めるのであろうか。
今回訪れた《池田山の住宅》と《神宮前の住宅》、それに最近工事が始まったばかりの《西麻布の住宅》の三つをもって三部作としていると、鈴木了二は語った。これらの住宅はともに、都心の高級住宅街に立つという与条件も似ているが、と同時にそれぞれの構えにも共通点が認められる。それは、かつての鈴木了二の建物では、例えば《麻布エッジ》に見られるように、散逸的な構成をもちとても多くの要素が建物に施されていたものだが、この三つの住宅では、大きな箱のような空間によって建物が性格づけられている。以前にもデコン風ではなく、かっちりとした構成をもつ建物は作られていたが、この三部作のようにがらんとした空間を持つというのは、最近の傾向と言える。
まずは、《神宮前の住宅》を訪れた。玄関を入り右に折れると、意外なほどに穏やかな空間がそこにはあった(空間という単語を、鈴木了二の建物を語るときに使うのは問題もあるのだが、ほかに適当な言葉が見当たらないという理由で使用する)。少し想像とのギャップがあり、動揺する。これまでに見てきた鈴木了二の建物のように、素材やディテールが次々と迫ってきたり、コンクリートの存在感を強く感じさせるということがない。この違和感は、すでにこの住宅を雑誌でよく見ていたことにもよるのだろう。カメラマンは、空間をドラマチィックに写し撮ろうとし、編集者はページ栄えのする写真を選ぶ。見るこちら側も、どうしても刺激的な写真が印象にはよく残っているものだ。そうした、刷り込まれていたイメージとは異なる空間がそこには広がっていた。
といっても、もの足りないということではない。しばらく部屋の中にたたずみ、奥様からお茶やお菓子をいただきながらおしゃべりをしていると、そこここの端部に集中力が掛けられていることに気付いてくる。ものとものの出会う箇所。ものの終わる箇所。そうしたところの納まりや素材や寸法が、実に油断なく考えられている。全部に緊張感を持たせるのではなく、端部に力を持たせることで、全体としては穏やかな感じがしているのだ。
鈴木了二は「美しさの脱力タイプ」という文章のなかで、美しさにはほんの少し脱力するような感じのタイプがあるとし、以下のように書いている。「言い換えると、そこには限りない寛容さが拡がっており、それをこちらがどんなに消費しても、向こうはいくらでもそれを許容し、そして最後には、どこかに必ず余裕を残しておいてくれる、そういう感じなのだ」。また同じ文章のなかで、画家であった父親が、ミケランジェロの写真集を見ながら次のように説明してくれたそうだ。「ほら、ここのところが軽く曲がっているだろう。ここに余裕があるんだよ。だから品が感じられるんだ」。ミケランジェロの彫刻においては、全体には力がみなぎっているのだが、その細部でふっと力が抜けていることを指摘していて、僕がこの住宅に感じたように全体としては穏やかでありながら細部に力が込められているという感想とは、ちょっと違うのかもしれない。しかし、この部屋に入って感じた柔らかな広がりのようなものには、鈴木了二が脱力タイプと名づけた美しさと、どこか共通するものを認められないだろうか。

《西麻布の住宅》模型

《西麻布の住宅》模型

《神宮前の住宅》は、地面から屋根まで続く、途中九〇度折れ曲がる大階段が大きな特徴となっていて、その階段の形状がそのまま室内に現われるように、薄いコンクリートの殻のような構造をもつ建物である。そして一階の世帯は、寝室や和室などは便宜的に仕切れるようにはなっているものの、基本的にはがらんとしたワンルームの中で生活が営まれている。
一方、続いて訪れた《池田山の住宅》では、一階に寝室や水まわりの個室が集められ、二階にはリビング・ダイニングが一体となった長方形の空間が浮いている。壁は一面まっ白で、筒状の空間の両端がガラスとなって外部へと開放されている。躯体のちょうど中ほどには、壁から天井へと連続するガラスをはめ込まれたスリットが開けられており、青い空を臨むことができる。ちょうど訪れる直前には、そのスリットから直射日光が射し込み床などを斜めにさーっと照らし、その一条の日の光が階段のガラスでプリズムのように反射し、それはそれは美しかったらしい。なぜ、もう少しばかり早く到着しなかったのかと、この家のご主人はその見事な光景を見せられなかったことをとても悔しがっていた。
この住宅の、このメインの空間も、一見して単純でシンプルな形をしている。まず住宅の設計をするにあたって、美術品のコレクターでもあるお施主さんは、篠田桃紅をはじめとしたコレクションを飾る壁と棚を要望したと言う。だからこの家にも大きな面積の白い壁があるのだが、ここでもそれらの壁が終わる部分、すなわち開口部に切り替わる部分のディテールに設計のエネルギーが集約されている。素材感を強調しすぎることなく、単純に見付けを小さくするのでもなく、こうあるべきだという的確な細部を持つこと。そういう的確さをよしとする思想。
ある文章の中で、鈴木了二はグレン・グールドの「ゴールドベルグ変奏曲」をフェイバリットなものとして挙げているが、一九八一年にスタジオで録音されたヴァージョンのものは、そのスローな演奏でよく知られている。特にその冒頭。最初の音が弾かれ、しばらく間があり、そして次の音が弾かれる。完璧な按配で音を出すために細心の注意を払って鍵盤にグールドの指が接触するのだが、その音の的確さを際立たせているのが、この二つの音の間にある、聞くたびに耳をそばだてずにはおかれない静寂の間である。見当違いの連想かもしれないが、この住宅の白い壁と開口部の関係は、ひとつのディテールに目を奪われ、そして目を横に滑らすとしばらく豊かなスタッコの壁が続き、そしてまた不意にディテールがあるというそういう具合になっていて、それがグールドの弾くピアノ曲の音とその間の静寂との関係を思い起こさせるのだ(カルロ・スカルパのように、そこにもあそこにも見事に凝ったディテールがあるというのとは、まったく違う)。
鈴木了二の一連の作品には「物質試行」と名づけられているから、それらは試み=実験であることは間違いない。鈴木に限らず、建築をいつ始めたかということを答えるのは、学習や修行の期間があったりで正確に答えることは難しいが、いつ文章を書き始めたかについては、鈴木自身が「藤田さんのこと」という文章のなかで詳しく述べている。

それに、藤田さんは読みすぎるくらい深く読んでしまいます。書いたぼく自身が驚いてしまって「さすがにそこまでは考えていなかったんですけど」と言っても「いや、書いてあるということは考えていたんだよ。」と動じず、そのうちにぼくも「そうかな」という気にさせられてしまう。


これははじめて書いた文章を藤田省三に添削してもらっているときの光景であるが、ここには文章を書いたり、建築を作るといった創造的な行為のなかには、本人も自覚していなかった可能性が常に含まれていることが示されている。
冒頭にも記したように最近の住宅三つは三部作とされていて、そしてもしこのトリロジーが、それぞれ「真・善・美」のどれにあたるのか考えてみるとどうなるであろうか。美しい美術品で埋め尽くされた《池田山の住宅》は間違いなく「美」で問題ないだろう。外観の形状がそのまま内部の空間を規定している《神宮前の住宅》はその倫理的な振る舞いからも「善」ではないか。とすると、今工事中の《西麻布の住宅》は「真」の形式を持って現われるということか。「真」とはずばり「物そのもの」と等価であろうから、《西麻布の住宅》の完成がことさら待ち遠しく思われるのである。

鈴木了二《神宮前の住宅》写真提供=鈴木了二建築計画事務所

鈴木了二《神宮前の住宅》写真提供=鈴木了二建築計画事務所

藤本壮介《T─house》

JR の駅からしばらく歩くと、特にこれといって特徴のない住宅地のなかに、《T─house》を見つける。住宅を見学に行くとよくあることだが、こちらの期待からくる心の昂ぶりとは裏腹に、何だかあっけなくその住宅は建っていた。《T─house》は、周辺の住宅とは異なり一層であり、その全面がガルバリウム鋼板で覆われている。その寡黙な佇まいには、上端には天端押さえのために水平に細い線が一本走り、足元にはコンクリートが幅木のように見えているが、おそらく作家である藤本壮介は、このファサードを完璧に均質にしたかったであろうことは想像に難くない。まるですべてがダーク・グレーに塗られたオブジェがそこに置かれているように。かといって、リチャード・セラの彫刻のような、強い存在を示すわけでもない。それが、藤本の好みなのだろう。
玄関に向かって、駐車スペースのある中庭に入ると、そこに面する外壁はみなまっ白に塗られている。通りから見るこの家は、ダーク・グレー一色。庭から見るこの家は、白一色。こうした際立った対比は、室内でも反復されていることを後で知ることになる。
玄関ドアを開けて中に入れていただくと、そこはリビングのスペースで、その奥に和室が見える。それは、この玄関からの視線であるが、実はこの住宅ではすべての部屋がつながっている。という言い方は少し相応しくない。部屋というよりも、たまりのようないくつかの場があって、それらがそれぞれ家の中心方向に向かって開いているのである。
平面を見てみよう。敷地は五角形で、そのうちどの辺同士も水平、垂直の関係にない。建物は九角形、うち四辺が敷地と平行であり、また直角の関係が一カ所だけ認められる。室内においては、各部屋を間仕切るための壁が、一部の収納や水周りの箇所を除いて、外壁の角度とは無関係に置かれており、つまりこの住宅は約二〇ほどの壁がみなばらばらの角度を持っている。
平面を一瞥してわかるように、この住宅はきわめてオリジナルな平面形式を持っている。『建築文化』二〇〇四年一二月号に掲載されていた写真を見ると、この形式になってからもいくつもの模型が作られ、さまざまな可能性が検討されたようだが、このように新しくかつ明快な形式を発見した段階で、おそらく藤本は「いける!」との感触を得たに間違いない。壁の角度や長さや数が多少変わったとしても、この建物の持つ形式制はけっして壊れることがない。そのような形式を見つけることは多くの建築家が望むことだが、とりわけ藤本はそのことに意識的だ。そして、図式を優先させる設計では、往々にして立ち上がった空間が貧弱となりがちであるが、この住宅のほかの部屋が部分的に伺えながら全部がつながっている空間はかなり魅力的だ。この形式性の問題は、後でもう一度考えるとして、引き続き建物をもう少し観察してみよう。
この平屋建ての住宅の構造は、構造家佐藤淳による、これもまたこれまでに例を見ないものだ。四五角の木の柱に一二ミリの構造合板を片面に貼り、それをランダムに並べている、それだけである。通常の木構造の架構といったものはなく、そうした常識を知るものにとっては、ほんとうに持っているのかといぶかしく思われるところだが、実際に見てみると何の問題もなさそうだ。壁の端部は一二ミリの薄さのままに終わっているので、壁の向こう側のシーンが切り取られて手前の部屋に貼りつけられていてまるでコラージュされているかのような、不思議な見え方を提供している。
そうして作られた壁の、柱が取り付く側はそのまま素地表わしとし、反対側は白く塗られている。そして高さが同じく家全体に広がる天井も白く塗られ、床はフローリングが施されている。天井と床の面積は同じであるし、壁も片面ずつが白と木の色となっているから、つまり白と木の割合はまったく同じ。試しに内観写真をひっくり返してみると(例えば『新建築』二〇〇五年五月号、九五頁の写真)、白と木の色が入れ替わった、しかしもとの写真とまったく同じ構成の空間を見てとれる。もちろん、白く塗られた面は抽象的な感じがし、木が表わしとなっている面は素材感があるというような違いはあるのだが、この仕上がりの使い分けというのが、この住宅において藤本が生み出した二つめの形式である。
『建築文化』の「U─35のポテンシャル」という特集(二〇〇三年八月号)において、藤本はパルテノン神殿やローマのコロッセウムといった古典建築からル・コルビュジエルイス・カーンの住宅といった現代建築のいくつかの平面を、単純に模式化した図を作り、またそれらに混ぜるように、自らの建築のプランを同じ表記法で作成し掲載している。ここでの藤本の主張は、歴史に残るような建物は、省略し単純化できる平面構成を持ち、またそれが一見してなんの建物なのか認知できるとしている。そして、そのようなクオリティを持つような形式を自らの建築にも与えたいと言うのである。
このように、歴史上の傑作とされる建築群と自らの建築を同等に扱うというのは、かなり大胆で驚かされるが、これもまた藤本の資質といってよいだろう。『新建築』(二〇〇五年八月号)に掲載された論考においても、「自分はミケランジェロのように建築を作りたいのだ」という発言をしており、これは天然キャラのようでありながら、一方で緻密な戦略家でもある藤本においては、素直な内面の吐露と受け取るべきか、それとも意図的な宣言と取るのか難しいところであるが、しかし同世代がおとなしいなかにおいて、この勇敢さはまずは特筆に価するだろう。
藤本が「弱い建築」を提唱していることはよく知られていることであり、彼のデビューの仕方は、青森の美術館のコンペで「僕は弱い建築を作りたい」といって、審査員一同に強烈な印象を与えたという伊東豊雄の証言もあり、なかば伝説化している。そして先にもあげた新建築の論考のなかで自らが認めているように、「弱い建築」とはどういうものかについては、藤本本人も当初はよくわかっておらず、それがこのモチーフのもとに思考を重ねることにより、少しずつわかってきたのだという。これもまた重要なことであって、ある言葉を投げかけて、それについてしつこく考え続けるということは最近はあまり行なわれていないし、もしかしたら時代の趨勢からは分が悪い行為なのかもしれない。しかし、かつて篠原一男が「住宅は芸術である」とか、原広司が「住居に都市を埋蔵する」などと述べたように、言葉がイメージを喚起して、建築の新たな展開を促した時期があったように、藤本はそのような言葉の使い方をする数少ない若手建築家なのである。そして、今回の《T─house》においても、彼の「弱い建築」がどのように立ち現われてくるのかが、建築家本人にとっても終始課題であっただろうし、でき上がった建築を訪問すれば、確かにがっしりとした存在を感じさせない、とても軽やかで自在な空気を持つ空間が出現しており、彼の唱える「弱い建築」の現われ方のひとつがこういうものなのかと、ひどく納得してしまったのである。
もちろん、この《T─house》は、きわめてユニークな構成となっているから、では実際ここに住まわれる家族はどう思っているのかは、読者はみな気になるところであろう。ありきたりの家はいやだといっても、そもそも生活とは保守的なものであるから、でたらめに新しいものに人は住めるはずはない。実際に訪れて、住み主の方にお話を伺ったことに基づいて証言すると、この家はとても仲のよい、夫婦と二人の子供たちが、きわめて自然に日々の生活を行なっている家だということである。
「弱い建築」を探求し続けるプロセスには、実験精神が不可欠であるが、それは住まいが仲よくそして自然に暮らすための器を用意するための試行錯誤だということが、この住宅においては言えるのである。

藤本壮介《T-house》撮影=藤本壮介

藤本壮介《T-house》撮影=藤本壮介

藤本壮介《T-house》ダイアグラム 提供=藤本壮介

藤本壮介《T-house》ダイアグラム
提供=藤本壮介

藤本壮介《T-house》平面図 提供=藤本壮介

藤本壮介《T-house》平面図
提供=藤本壮介

藤本壮介《T-house》藤本による模式図 提供=藤本壮介

藤本壮介《T-house》藤本による模式図
提供=藤本壮介

石山修武《世田谷村》

小田急線沿線の、特にこれといって特徴もない、少しまったりとした雰囲気を持つ住宅地のなかに、《世田谷村》はいくぶん唐突にその姿を見せている。前面にはちょうど生産緑地があり、それは幸いにもここ数十年はそのまま残るのだというが、その畑の向こう側から眺めると、緑のなかに《世田谷村》が浮いているさまを認めることができる。建物を宙に持ち上げたのは、その下に木造家屋があったためとされているが、敷地には余裕がありそうなので、既存の建物に並べるような配置も可能であったかもしれない。そう考えると、既存の建物とは関係なく、もしくはそれをアリバイとして、空に浮く船のような住居を作りたかったのではないか。
石山修武は、たびたびバックミンスター・フラーのヴィジョンへの共感を表明しているが、フラーの主著である『宇宙船「地球号」操縦マニュアル』には、よく知られている「大海賊」の話が出てくる。

わたしは、これらの海を支配した人々を「偉大なアウトロー」あるいは「大海賊」と名づけよう。なぜなら陸地の人間によって制定あるいは布告された恣意的な法律を、岸辺を離れ海上までに及ぼして、人間を有効に規制することは出来ない相談だったからである。したがって海上に生活していた世界人たちは本質的に法律の埒外(アウトロー)の住人であり、彼らを支配しえた法律とは、ただ、自然の法律だけだった。


石山は、自邸を構想するにあたって、大地から自由となった船を自分の住まいとした。《世田谷村》に限らず、これまでにも《リアス・アーク美術館》など、船を連想させる造形をたびたびものにしている。そしてそうした海(もしくは空)への憧れと並行して、地面と深く関わる地形に埋め込まれたような空間への希求も継続して行なっている。それが、この《世田谷村》では、宙に浮かんだ住居と、地下に設けられたスタッフの仕事部屋という、二つの空間に分離しているのである。
《世田谷村》の足元に近づくと、かつてあったという木造家屋はすでに解体され、それらの部材が積み上げられている。将来的には、ここにギャラリーか何かをつくる予定だとの話であったが、いまはただがらんとしたスペースとなっている。奥にある大きな木製の扉を開けていただき、中に入り、靴を脱いで鉄製のきれいなカーブを描いた階段を上がり、二階の居間へと通される。二階と三階とが住居部分となっているのだが、この居間の部分は吹き抜けとなっており、鉢植えの植物が大きく育ち、気持ちのよい空間が広がっている。と言ってもありがちな吹き抜けのモダンリビングが快適だというものとはぜんぜん違う質の、開放的な場である。南に向かって大きくガラス面の開口部がもうけられていて、さんさんと日が射し込むとともに、遠くへと視線が抜けることもまた、こちらの気分を開放的なものとする。しかし、この開放感は、空間構成だけから導かれているのではなく、そこここに充満する、この家の思想によっていることは間違いない。
このように住宅を宙に浮かせるにあたっては、構造家の梅沢良三がユニークな構造形式を提案した。既存の家屋を避けるように四本の鉄骨の柱を立て(これらも船のマストのメタファーに読めてしまう)、そこから二階と三階の床を吊り、それだけではもちろん不安定なので、水平方向と垂直方向に斜めのテンション鋼材を配することで安定するようになっている。木村俊彦門下の多くの構造家が、構造のシステムに理論的整合性を付与しようとするのに対し、同じ木村門下でも梅沢はもっと自在にかつ柔軟に構造的課題に対処する。よって、造形がしばしば暴れる石山と梅沢とは、これまでにもたびたび見事なチームワークを披露してきた。ただし、ここ《世田谷村》においては、奔放な造形に寄与するために構造家が協力したというのではなく、与条件をクリアしつつ、最小限の部材で目的を達するという目的への回答が、このユニークな構造方式なのである。こうした姿勢というものは、石山が初期に繰り返し試みていた、コルゲートを用いた一連の住宅を思い起こさせる。もちろん形態的には、まったく異なる。しかし、極薄の金属性波板を丸めて地面に転がし、その両端をふさぐだけで住宅にするという潔さが、今回の住宅においても再現されていると思えるのだ。それは、単に柱を細くしたり、壁を薄くすることで、構造を切り詰めたなどといっている凡百の経済設計とは、まったく別の次元での試みとなっている。石山には、《伊豆長八美術館》や《リアス・アーク美術館》といった構造を表に出さない別の系もあるのだが、《世田谷村》は、《幻庵》や《開拓者の家》といった最小の部材で最大の効果を生み出すという思考の系に乗るものだ(そして、このスタンスは再びフラーの唱えていたものでもある)。
露出しているのは、構造だけではない。ありとあらゆる住宅のパーツが、隠れるところなく見て取れるようになっている。構造の鉄骨の組立は、これまでにも付き合いのある宮城県の造船業者によってなされているのだが、それ以外の部分の多くが石山自身とスタッフによるセルフビルドで組み立てられている。そうして自分たちの力で家具や建具を製作し、世の中に流通するさまざまな工業製品を転用して住宅の一部とするのは、自らの手で住宅を作るという通常のセルフビルドの精神のみならず、住宅ができるまでのマネージメントを自分たちの手元に取り戻すという試みでもある。であるから、石山がこれまでにもたびたび、自ら計画した住宅をすべてパーツ化し、それらのコストも一覧表として提示したように、この住宅においてもその組成ともいえるあらゆるパーツが露出されることで、すべてが意識的に公開されているのである。
訪問して話をうかがったその冒頭において、石山は「これは作品じゃないんだぞ」と念を押した。それはこの住宅は、石山の思想や試みが直裁に形になったものであって、けっして審美的に、もしくは趣味的に語ってくれるなということだったのかもしれない。明らかにこの過激な住宅は、のんびりとした住宅街にあって異彩を放っている。屋上からあたりを見回して、ステレオタイプ化された今時の家型の住宅群を奇妙なものだと石山は言ったが、住民のほうは《世田谷村》の出現に、おかしなものができたと話題にした。
かつて石山は、槇文彦が名づけた「野武士」というレーベルのもとで、同じ世代の建築家と同じく主人を持たない荒くれ者というグループに入れられた。ただしほかの建築家たちが個人の美学を磨くのに励んだのに対して、石山は自分の行ないが社会のなかでどのような意味を持つのかという問題を一貫して問い続けてきた。住宅を作ることは実験であるのかという問いに対して、「そうだ」と即答した石山の建物は、そのように普遍的な問題を扱っているにもかかわらず、石山の造形力もあいまって、非常に個性的な相貌を持っていた。そのことが結局、個人的な表現を追求しているとの理解に留まってしまうことはままあって、しかしこのところの石山はそのことにきわめて自覚的になっている。例えば、彼のHPに公開されている「開放系技術・デザイン・ノート」のなかには次のような記述がある。

正直に言えばそれらは極端すぎる私のデザイン、つまり私の表現欲によって、沢山の人々の理解をさまたげるきらいがあった。私のデザインが理解を歪めやすい事が多かった。
それ故、私は私の極端さからも自由になる必要を感じていた。私の表現つまりデザインのこれまでの歪みは修正しようと思う。そのことで、問題がより明快になるならば、敢えてそうしようと思う。


であるから、《世田谷村》では石山のこれまでの造形はかなり抑えられているものの、それでもこのようにインパクトのある造形は、人々の関心を呼び、結果方法論を広く知ってもらうには役に立っている。
石山は、住宅を取り巻く価格の構造はまったくいびつに構築されており、そのシステムを暴き、オルタナティヴを示すことを長年に渡って試みているのだが、そうした行為はドン・キ・ホーテのようなものだとの評価もあった。しかし、近年のネット社会の発達は、個人個人が直接情報にアクセスしたり、流通に関与する可能性を開き始めたのだと言う。そして、こうした価格の構造が戦後日本が築き上げてきた堅牢な社会システムであるとすれば、そうした社会システムが疲弊し現状に合わなくなっていると指摘される最近の潮流は、石山の唱える改革を強く後押しするのではないか。今年は、橋梁の分野で談合が大きな話題となり、世論がそうした既得権構造を許さないという構図が明確になってきたが、たびたび談合問題で話題となる落札価格の不自然さにしても、そもそも予定工事価格というものが、根拠のない予定調和的な存在である。建設業界においては、すべてに渡って二重価格が常識となっていることを石山はこれまでずっと指摘してきたのだが、そうしたこれまでの常識が通用しなくなる可能性が見えてきた現在にあって、石山の試みを再度見直すことが重要なのは間違いないだろう。


石山修武《世田谷村》提供=石山修武研究室

石山修武《世田谷村》提供=石山修武研究室

>今村創平(イマムラ・ソウヘイ)

1966年生
atelier imamu主宰、ブリティッシュ・コロンビア大学大学院非常勤講師、芝浦工業大学非常勤講師、工学院大学非常勤講師、桑沢デザイン研究所非常勤講師。建築家。

>『10+1』 No.41

特集=実験住宅

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>セルフビルド

専門家に頼らず自らの手で住居や生活空間をつくること、あるいはその姿勢。Do It...

>谷口吉生(タニグチ・ヨシオ)

1937年 -
建築家。谷口建築設計研究所主宰、東京藝術大学美術学部建築学科客員教授。

>神宮前の住宅

東京都渋谷区 住宅 2003年

>麻布エッジ

東京都港区 商業施設 1987年

>藤本壮介(フジモト・ソウスケ)

1971年 -
建築家。京都大学非常勤講師、東京理科大学非常勤講師、昭和女子大学非常勤講師。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>ルイス・カーン

1901年 - 1974年
建築家。

>伊東豊雄(イトウ・トヨオ)

1941年 -
建築家。伊東豊雄建築設計事務所代表。

>篠原一男(シノハラ・カズオ)

1925年 - 2006年
建築家。東京工業大学名誉教授。

>原広司(ハラ・ヒロシ)

1936年 -
建築家。原広司+アトリエファイ建築研究所主宰。

>石山修武(イシヤマ・オサム)

1944年 -
建築家。早稲田大学理工学術院教授。

>バックミンスター・フラー

1895年 - 1983年
思想家、発明家。

>梅沢良三(ウメザワ・リョウゾウ)

1944年 -
構造家。梅沢建築構造研究所主宰。

>開拓者の家

長野県上田市 住宅 1986年

>槇文彦(マキ・フミヒコ)

1928年 -
建築家。槇総合計画事務所代表取締役。

>野武士

槇文彦によって「野武士」と呼ばれた日本のポストモダン世代。1970年代、住宅建築...