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実験住宅と発明 個別技術が可能にしたもの | 藤森照信+中谷礼仁
Experimental House and Origination: Individual Art That Enables Things | Fujimori Terunobu, Nakatani Norihito
掲載『10+1』 No.41 (実験住宅) pp.38-51

実験住宅と社会的大儀

中谷──「実験住宅」という特集の企画趣旨を聞いたときに、「実験」なんて誰でもしているじゃないかと思ったんですね。町場の大工のみならず日曜大工中のわれわれが「どうしたらいいか」と試している状況まで含めれば、全部実験でしょう。だからまずは「実験住宅」といわれるものの本質を定義する必要にかられる(笑)。その辺を踏まえてから、二〇世紀の実験住宅と呼びうるものが何であったかを考えるべきではないかと思ったのですね。
藤森──建築界には実験好きな人はずっといて、例えば明治期の伊藤為吉なんかはその代表ですね。実現はしなかったけれど、南極探検隊の白瀬矗しらせのぶさんのために、組み立て式住宅を考えたりしています。発明好きはいつの時代もいたけれど、二〇世紀の実験住宅はほとんど社会改良的な関心からきていますねよね。ル・コルビュジエのドミノもそうだし、トロッケンバウなんかもそう。安く、早く、良好なもの、そして小さいもので、当時の人民の住環境を良くしようという社会主義的な関心が、実験住宅の背後にあった。大きく見ると、近代のなかでどうやって人々の生活レヴェルを上げるかという社会改良的な流れです。土浦亀城さんに、自邸を木造にした理由を聞いたら、「大量に供給するためには、日本では木造以外にありえないと思った」と言っていました。だからコンクリートでやらなかった。木造のほうが安かったこともあるけど、それより木造で乾式構法をとる、ドイツのトロッケンバウですが、普通の人に広げるためにはこれをやらなきゃいけないと土浦さんも思った。だいたい、実験住宅をやった人は、そういう社会的な関心が強くあったはずですね。社会的関心が比較的弱かったミースみたいな人はあまりやってないんじゃないかな。
中谷──するとまずは実験という大きな範疇のなかでも、とりわけ「社会的大義」を必要としているのが実験住宅ということになりますね。
藤森──それ以外は、個人的に変な人の工夫と知恵になるというのが今の僕の考えなんですが(笑)。
中谷──藤森さんはどっちでしょう?
藤森──個人的なほうしかないですね。僕は建築の歴史をやっていますから、実験的な住宅を作る人たちの歩みを見ているけれども、実験をやる人たちは建築家としては大成しない。建築家としての大成を諦めてそっちに行ったのか、そっちへの関心が強いからなかなか名作を作らないんです。例えば、バックミンスター・フラーがその代表です。いろいろな意味でとても面白いけれど、建築を超えたというか建築からずれたでしょう。前川國男さんも、とても実験に興味を持っていた。「テクニカルアプローチ」というのはそういうことですから、実験をやるけど、表現としてはうまくいかない。前川さんのテクニカルアプローチは、日本の建築の弱点を克服しようとか、幅広い関心を持っていた。あるいは彼が開発した量産住宅のプレモスは、戦後の劣悪な住宅に対してちゃんとした大衆的なものとして作られていますが、結果的にマーケットとしてさばけていったのは炭鉱住宅でした。それは彼にとって本望なわけですよね。
技術的なテーマを前面に出してくる建築家は、建築家としては大成しない。丹下さんのように必要だからやらなければならないということでやってる分にはいいんです。技術的情勢と表現的情熱の和は一定だと思います。
中谷──僕の勤務している大学にあったある研究室では、いつだったか、エコロジーをデザインのテーマにして設計をさせられて、論文を書かされていたんです。しかしそれを傍目でみていると、どうもエコロジーやらサステイナブルは建築表現の主題になりえない、と感じました。副題として常に考えるべき問題ではあるけれども。
藤森──なりえない。そういうことを考える必要はありますよ。僕は、エコロジーについて、もし、産業革命以降の近代化の対極にあるものだと考えた場合、重要だと思います。だけど、エコロジカルな世界と、それを表現することとの間にはいくつもいくつもフィルターがあって、ウンと遠いんです。一八世紀の終りに産業革命があって、鉄とガラスとコンクリートなどの近代的生産が確立する。ところが、それが建築の表現になったのは一九二〇年代です。一七〇〇年代の後半から一〇〇年以上かかっている。だから、後世から見て、エコロジー的なテーマが産業革命以降と違う表現をして、完全に近代化路線を打ち倒すことがあるとしても、そのくらい時間がかかると思いますよ。
中谷──昔、大工の田中文男 だ     い     ふ     み さんが、どこかでエコロジー建築について聞かされたときに、「何言ってんだ、日本建築は最初からエコロジーじゃないか」って喝破したそうです。例えばアノニマスな伝統建築における省エネルギーとは、要素と要素との巧妙なアッセンブリーのなかで、その総合的効果として生まれてくるものですね。今風にいうとパッシヴな方法。しかしそれは、長い間かけてできあがったちょっとした知恵、いわば裏側の問題であって、少なくともそれが正面切って住宅の主要課題になることはありえなかった。それのみを今、新しい建築表現としてやるというのはとても嘘くさい。それは設備メーカーの新規開拓物件領域であって、せいぜい「設備建築」的なものにならざるをえないでしよう。
藤森──本気でやればそれより違うレヴェルまでいけると思いますけど、エコロジーの問題はいまのところそういうレヴェルで技術の問題を考えているでしょうね。前川さんが、テクニカルアプローチと言ったようなところと似ています。おそらく技術改良しようみたいなことで、設備系の人がやるでしょうね。
中谷──そうすると実験住宅というのは、巷の人がやっている実験に社会的大義を掲げ、さらにまた設備がアンバランスに拡張していく住宅というような、なにやらどうも否定的な見解にたどり着いてしまいました。
藤森──いまのエコロジーがそうですよね。かつては人民のためでしたが、いまは地球のため(笑)。
中谷──時代のお施主様が違うわけですね。実験と発明とを比べた時に、やはり圧倒的に面白いのは発明です。実験というのは誰がやってもそれを再現できるという前提に成り立っている。つまりは再帰性を持っている。しかし発明というのは、誰かが作っちゃったらそれを受け入れざるをえない。不可逆的でもう後戻りできないわけです。そうすると、そもそも家という形式自体が、原始においてはとてつもない発明だったわけですね。洞窟に住んでいたとすれば。屋根も発明だし、壁も発明です。窓も階段も蔵もそうです。実際竪穴式住居から民家への発展というのはそのようなものでした。またそもそもコンクリート自体は二〇〇〇年前にはすでに使われていましたし、鉄はアショカ王の頃から立派な柱として残っており、ガラスもビザンチン世界のなかでふんだんに使われていたわけです。素材として考えてみれば、それらが産業革命以降、二〇世紀を象徴するものだなどとはとても言えないわけです。実験住宅ではなく、すでに家自体が発明の塊なのですね。そういう時空的に大きな幅のなかで、二〇世紀にどういう実験があったかという小さい発明の幅を見極めていかなければならないという気がしています。いま藤森さんがやられているさまざまな実験を教えてください。

藤森照信氏

藤森照信氏

《高過庵》の実験

藤森──自慢をしろということですね(笑)。僕の場合は、そんなに発明を意識してやってるわけじゃないんです。それに、やりたいと思っている表現を実現するいい技術がない。一番興味があるのは木質パネル構法です。これは、細川護熙さんのところで茶室を作ったときに、短期間に作らなければならないのと、木の上に載せるものだから軽く作らなければならなかったので、俳優座の舞台装置の人たちにアルミを使ってもらった。コスト的にも、高くならないかと聞いたら、一日で建てるために大人数でやらなければならないし、重い木を使って人手をかけるよりも、アルミを使ったほうが安いと。茶室の大きさは三畳ちょっとだったんですが、俳優座の大工場で作ったアルミの骨の上にいろいろ貼り付けてあって、これだったらもっと簡単に作れるだろうと思いました。それで、僕の《高過庵》では、Jパネルという商品名の杉の厚い合板を使っています。
Jパネル、この杉の合板パネルは凄いと思いました。大嶋信道君がどこかで見本を貰って、僕の田舎の村の大工さんに見せたら、彼らが毎日のように使ってる材料だったので、安く買い付けてくれました。一間巾の両端を支持して、人が載っても弛まないだけの強度があるんです。それに一人で持てる。表面がすでに仕上げられていて、それだけでも合板の安っぽさがない。それでこれは良い材料だなぁと思って《高過庵》で使ってみようと思ったわけです。
いろいろ調べてみたら、メーカーは構造体としては使わないって言うんです。仕上げ材だから強度実験もしてない。でもこれは絶対に構造体でいけると思ってJパネルだけのパネル構造で作ってみたら、全く大丈夫だった。
僕が興味を持ったひとつは、見付がすごく薄くて、小空間に使うのにいいこと。《高過庵》の窓枠もこれで作りました。妹島和世が鉄板で作った《梅林の住宅》は素晴らしいものだけど、唯一問題があって、壁の厚さよりサッシのほうが厚くなっている。それは変でしょう。壁の外までサッシが膨らんでるんだから(笑)。壁の見付がその空間の重さ軽さを決めてるんです。狭い空間でも、断面の見付が小さいと圧迫感がなくなる。
もうひとつのJパネルの利点は素人が扱えることです。接合部はパネル構造だから、ビスとボンドとちょっとした補強でやっていける。それで構造ができちゃう。
厚肉鉄板の溶接というのは造船の技術だったんですが、これを石山修武さんが建築に入れたわけです。彼が最初に《リアス・アーク美術館》で使い、その技術を伊東豊雄が《せんだいメディアテーク》で使い、そして妹島和世が住宅のレヴェルまで下ろしたわけです。先駆者である石山さんの位置は大事なんですが、先駆者の常で時にばったり倒れるんですよ(笑)。そういう宿命はありますが、伊東さん、妹島さんみたいな親しい人がどんどん新しい表現をやっていくわけです。
妹島さんがやっている鉄板構造の一番の問題は、厚肉溶接が相当高度な技術であることです。これは造船の技術で、普通の溶接工ができることではない。ちゃんとした一流の溶接の職人がやる。ところが、Jパネルは、素人が使えるんです。あんまり大きなものはできないという制限がありますが、四畳半くらいまでだったらできるんじゃないかと思います。やっててとても面白かった。ただし、それは、誰かが発明したものを僕が建築構造に転用してきたわけですが、さらなる開発と啓蒙に努めようという気はない。ふっとやってみようかなという時もあるけど、そっちのほうは、私の目指してる道じゃないことがわかってるからね。妹島さんがやってる鉄板も、純粋に技術の世界ではローテクですよ。厚肉溶接なんて、何で今頃やってるのかっていう(笑)。建築界が言うハイテクって、バイオだとか電子技術に比べたら、たかが知れてるんだよね。目に見える技術なんて、今は全部ローテク。《高過庵》の床だけは、Jパネルじゃなかったんですが、床、壁、天井すべてを木パネルでやって、立木にちょこっと引っ付く鳥小屋みたいな茶室を今やってます。それで木パネルの構造体としての可能性はわかると思います。

中谷礼仁氏

中谷礼仁氏

工場の技術、個人の技術

中谷──いま凄く面白かったのは、鉄板構造も、Jパネル構造も、ひとつのパネル構造として同じものだけど、決定的に違う側面があるという点です。それは、木板のパネルが人ひとりで持てるということですね。それは本質的に、家というか建築の構法に関わってくる大きな問題だと思います。
ちょっと教科書的に戻ると、建築の基本二大構法は、ギリシャ建築の柱梁式とローマ建築が完成させたアーチ、ドーム構造です。日本建築もギリシャ建築と同じ柱梁式ですよね。日本の木造建築式のほうが貧乏っぽいんだけど、あれをギリシャのように大規模空間でやろうと思ったら、相当の権力者が無尽蔵の資本を以てようやく実現できるわけです。
藤森──材料がない。石造で五メートルの大理石の梁なんてありえないよ。
中谷──一方で、アーチ、ドームというのは高級技術と思われがちではあるけれども、実は人間一人が持てる煉瓦を積んでいくことによって、すさまじく大きなものができる。だからダマスカスでもイスラムでも何千年も前からああいうドームができる。
藤森──イスラムのドーム、どうやって作ったか知ってる?
中谷──教えてください。
藤森──イランからの留学生に聞いたんだけど、信じられないくらい簡単。竹や雑木でかごを作る。そこの上にずっとレンガを積んでいく。リング状に一段一段積んでいく限り安定してますからね。それから、仕上げをやる。そこでおかしかったのは、内側は、竹を入れ込んだまま壁を塗る。だから竹小舞ですよ(笑)。これにはおーっと思った。だから君の言うとおり、ほとんどのその辺の素人の技術で大空間を作っちゃう。
中谷──僕は、吉村作治さんの調査隊でエジプトに行ったときに、先輩につれられてラムセス葬祭殿の跡地を見に行ったんです。昔、足場なしで日干し煉瓦のドームを作る方法があったというので、本当かどうか知りたかったんです。二〇世紀においてエジプトの建築家ハッサン・ファタフィがその構法を復元して、新グルナ村というルクソール近辺の町づくりに実際に用いてセルフビルドを行なった。実際に泥を固めただけの煉瓦でアーチができているので怖くて仕方なかった。
藤森──ヘェー。
中谷──壁を三方に作っておいて、そこに傾けるようにドームを作っていく。そうするとボールトができるんですよ。
藤森──絵で見たことある。。
中谷──その構法が、四〇〇〇年くらい前からある。それで学生に、柱梁式とアーチ、ドーム式とそのコンポジット式(複合様式)以外に考えられる構法があったら挙げてみよって言ったけど、どんなにしても考えつかない。建築の基本はそのくらい変わりようがない。で、二〇世紀で一番大きかったのは鉄筋コンクリートですよね。形態的にも柱梁式の部分と、ドーム式の部分を併せ持ってしまった。
藤森──何でもできてしまうからね。
中谷──それで世界最強構法になってしまってるわけですよね。
藤森──なるほど。
中谷──鉄筋コンクリートは高度な技術がなくても頑丈な空間を作ることができるわけだけど、その結果最終的には、アジアの木造が駆逐されてしまって、今ひどいことになっている。日本も大正期以来の防災都市づくりでかなりやられましたね。もちろん戦争という非常時も考慮に入っていましたから、誰でも、早く、頑丈につくれる鉄筋コンクリートが国是として推奨されていったのですね。構造家かつ政治家でもあった佐野利器の方向性にもそれは明らかでしたね。
藤森 ──コンクリートはたしかに誰でもできるけれども、しかし、原料まで自分たちでできるわけじゃない。セメントは自分で作ることはできないし鉄筋の加工は結構重いから大変ですよ。だから、そういう点では、木造の厚肉パネルを使った構法というのは、大変な利点がある。また、こうしたパネル構法の利点を大々的にコンクリートパネルで使ったのがソヴィエトなんですよ。でもそれが最近、ジョイント部が曖昧だったために最悪の状態なんです。ジョイント部分がしっかりしていればいい構造なんですが、その部分が弱いから水が入って劣化して、突然集合住宅が崩れてしまうんですね。
僕は大量生産できる材料はあんまり好きじゃないんです。工場の技術じゃなくて個人の技術が好きなんですよ。工場の技術のなかにも大量生産とは別に個別な技術がある。この工場の個別技術が石山さんは好きなんだね。《せんだいメディアテーク》の鉄骨は全部、仮組みして現地で組み立てる。これは工場を使った個別技術ですよ。僕は工場を使った個別技術も好きですけど、工場を使わない個人の個別技術のほうがもっと好きなんです。妹島さんがやった厚肉鉄板系は、工場を使った個別技術です。だけど、それに対抗できるのは、規模はちょっと小さくなりますけど、厚肉木質パネルで、それは個人の個別技術です。別に対抗意識を持ってるわけじゃないんだけど、同世代の先端の連中がやってる技術と、私が一人でやってる技術とが似てくるのは面白い。

《高過庵》

《高過庵》

トタン問題

中谷──パネルの話は面白いんですけど、例えばトタンという問題は……。今日は、生産研に来るのに代々木上原から歩いてきたんですけど、その町並みは鉄筋コンクリート、ALC造か、もしくは波板トタンを貼ったぼろぼろの木造住宅によって構成されていますね。僕はこのトタン(亜鉛鉄板)が二〇世紀の木造を救った、少なくとも延命させたと思うんです。トタンは一九世紀のイギリスで開発されたらしいですが、日本でも明治ぐらいから用いられ、大正震災後の応急装置、防火材料として爆発的に利用される。その意味では二〇世紀最大のハイテク材料はトタンであったと声を大にして言いたい(笑)。
藤森──トタン問題は、何とも複雑で……(笑)。
中谷──先生の看板建築の流れを見ても、トタンは、究極的に個別的な材だと思うんですけど、どうでしょう。
藤森──あのね、トタンというのは、日本の初期の洋館ではそれほどではないですけど、オーストラリアの初期の洋館、コロニアルの屋根は全部トタンなんです。日本ではナマコ鉄板と呼んでいる、割と大きい波の厚いトタンで、防水性があって、軽いし、持ってくるのに凄くいい。素人が使える。適当に切ればいいので大量に使える。明治初期に日本はなぜトタンを使わなかったかというと瓦があったからです。トタンと瓦って並べるとえらい違うけど、君が言った性能では似てるんです(笑)。
中谷──確かに断面形状は、丸瓦が連続して小さくなったみた
いな。
藤森──個別に現場でチョコチョコやれる。トタンの究極の表現はタール塗りトタンです。僕らが子供のときは自分で塗りましたからね。タールというのは廃液、産業廃棄物ですから、輸送費だけでほとんどただです。タール塗りトタンは、僕にとって大きなテーマですけど、まだ実践する踏ん切りがつかない。やっぱりあれは施主に伝わらない。そこは石山さんと違って施主に伝わらないことはやらないほうがいいと思ってる。でもやってみたいんですよ。路上観察で南伸坊と一緒に深谷を歩いていた時に、感動したことがあった。町家って横の家が潰れちゃうと、妻壁を保護しなきゃならないから、京都だと杉皮なんかを貼るんだけど、杉皮のようにしてトタンが使われる。トタンのタール塗りが大量に貼ってあって、見てたら変なとこがある。僕は、トタンの究極は波板だと思っていて、その波板が貼ってあるんですけど、ちょっと一部が乱れてるようで変なんですよ。そばへ行ったら、手作りだった(笑)。おそらく穴が開いて、そのために全部替えるのが嫌で、一生懸命波板状に曲げたんだよ。笑って笑ってさ。これだと思った。《高過庵》の銅板の屋根は、そこから来ているんです。鉄板の欠点はすぐ錆びることで、どうにかしなきゃいけないんですけど、やっぱり方法がない。ガルバリウムのようなものもありますが、あんまり鍍金なんかして良くするのは、ちょっと本来の意味からするとおかしい。それで《高過庵》では、手で曲げた手作り波板というのを銅板で作って、貼っていって、良い感じだった。どういう風に良い感じかというと、プロの建築家が「あれは何だ」って言うんですよ。銅板を手で曲げたとは思わない。銅板を手で曲げたって言うと呆れます。乱反射するときれいで、茅葺き的に見えてあれは成功しました。
中谷──なるほど。
藤森──これは、深谷の親父が開発したトタン板の手曲げ。人間てふつう波板を手で作るとは考えないですよ。その親父が窮してやったんですよ(笑)。波がバラバラで波と波が絶対重ならない。そこに隙ができて良い具合に影の筋をつけてくれるんですが、ああいう素人が窮してしてやったことも、しかるべくやれば使える。実際には銅板の波板というのはないんですが、作るのは簡単です。まだ未発表ですけど、大分でやった温泉ではそれを大量に作りました。工場に行って、鉄の代わりに銅板を入れればいいんだから作るのは簡単よ。トタンは安物だと思ってるから、銅板を使って、そんな安物やる人はいないって、工場の人には言われましたけどね。
中谷──いいなぁ、そんなことやってたなんて。
藤森──俺はやんないけど、あなた、トタンで一度やってみなさいよ。銅板はもうちょっとやってみようかなと思ってます。
中谷──木造トタン貼りとか、波板の手作業的なものを除去してしまったら、東京の町並みは変わってしまう。いい感じの下北沢とか中央線沿線とか、やばすぎる。
藤森──トタンには不思議な魅力があるよね。鉄という近代建築のテーマがあって、トタンはその鉄の究極の姿なんだ。薄く、均質に圧延するっていうのはでかい鉄の橋を作るよりずっと大変で、凄く高度な技術なんですが、できたものは鉄骨と違って、軽いし、安いし、それに変な味がある。
中谷──工業製品が朽ちていく感じですか。
藤森──そう、茅葺とかと通ずるものがある。茅は最低の自然素材です。そこら辺に生えてるのを切ってきて、丁寧に葺くと瓦にないいい味がでるけれど、それと通ずるものがあるかもしれない。
トタン板の表現というものに深く惹かれたのは今和次郎が最初です。今さんの観察で写真も残ってますけど、関東大震災後のバラックに、被災者が焼けたトタン板を貼って、少ししかないけどトタンを保護するためにコールタールやペンキを塗ろうとするわけですね。だけどタールは全体に塗るだけ手持ちがない。そこでどうしたかというと、タールをトタンに点々と塗るんですよ(笑)。専門家であれば、どこか弱いところだけ塗りますよね。ところが点々と塗るんです。今和次郎がそういうこと書いてるんですが、面白いと思った。ペンキを点々と塗るなんて塗り方としては最低ですよね。
中谷──意味ないですから!(笑)
藤森──そういう普通の人の変な想像力を引き出す力がトタン板にはあるんです。その辺を建築家がうまく引き出して使えば、良いものできますよ。

《川合健二邸》の衝撃

藤森──コルゲートの起源であるトタンの波板は誰が発明したかのかな。おそらくイギリスだと思いますが、鉄骨構造研究の人も、意外とトタンは研究してないんじゃないかな。トタンは圧延技術だけど、これはものすごく高度な技術ですよ。
中谷──軽くて、波にすれば強度も飛躍的に増して、一定方向は柔らかいけどそれと直角する方向は硬い。
藤森──そう。波があるから、継ぎ合わせのときの雨漏りが少ない。あれだけの薄い板を作るの、当時は大変だと思いますよ。鉄はどんどん冷えていくわけでしょう。鉄が冷える前に延ばせばいいんだからスピードさえ速ければ問題はないんだけれども。
亜鉛鉄板会っていうトタンの協会があるからそこに聞けばわかると思いますよ。ただ、トタンは今でも使っているし、放っといても自然に帰っていくでしょう(笑)。あれはどんどん海に捨てたらいいんですよ。ペンキ塗ってあると困るけど、海は鉄不足ですから一年で消滅して、全部役に立ちます。
中谷──一番エコロジカルですよね。
藤森──亜鉛も悪いことないです。いま、古トタンが高い値段で売買されているのを知っていますか?
中谷──それは意匠用ですか。
藤森──インテリア。屋台小屋みたいなのによく使っているでしょう。だから、古い小屋を壊してると一生懸命丁寧に集めてる人がいる。高く売れるんだって。
中谷──先ほどトタン板が変な想像力を引っ張り出すとおっしゃいましたが、トタン板の親玉ともいうべきコルゲート鉄板を使ったその第一号が、やっぱり《川合健二邸》ですか。そういう意味から言えば、あれが二〇世紀最大の発明であり実験住宅ですね。
藤森──そうです。僕と石山修武は同志とも言えるし、《幻庵》は凄いと思ったけど、見た時のショックは《川合邸》のほうが大きい。僕は《川合邸》のドラム缶がどうやって発生したかを奥さんのはなさんに聞いたことがあるんです。川合さんが丹下事務所を去り、家を作ることになって二人で晴海に建材の見本市に行った時に、下水管の地下工事用のコルゲートの展示を見て、川合さんが、これで家を作ろうって言ったらしいんだな。コルゲートは土木の世界の波板だと思えばいい。地中の波板みたいなもんですよね。それで川合さんは自宅を作った。実際に工事したのは誰なの?
中谷──石山さんの《幻庵》の場合、鉄板の溶接は、及部春雄さんという老練な鍛治師がしたようですね。
藤森──はなさんに聞いたら、川合健二さんは一切技術的な能力はなくて、エンジンすらかけられなかったそうです。ポルシェのエンジンは素晴らしいって散々理屈こねて、持ってきて、かけようと思ってもかけることもできない。相当変わった人なんです。手の人ではない、思想家なんですよ。誰が手を支えたか、探してインタヴューしておいたほうがいいですよ。
中谷──そうですね。
藤森──《川合邸》は、フラーの《ダイマクションハウス》よりも衝撃は強いと思う。フラーのなかには、いかにも未来主義的なところがあるんです。
中谷──大工業だいこうぎょうとは切っても切れないものがありますよね。
藤森──そう、アルミやジュラルミンは最先端ですよ。本当は、モリスは川合さんの位置を目指す可能性があった人なんです。産業革命、つまり近代技術と人間のあり方を考えたときに、モリスは、結局近代は駄目だってことで、中世のほうに行きますよね。それに対して、ドイツ工作連盟のムテジウスなんかは近代技術をそのまま近代的に使っていくんだけれど、近代技術を個別に使うというやり方を、モリスがやってもよかったんです。結局それは日本では川合さんがやり、石山修武に継がれる。ブリコラージュというか、違う目的で作られた近代技術を自分の都合で、いろいろ寄せ集めて作っていくっていう点では、《イームズ邸》ともちょっと似てるんですが、《川合邸》のほうが迫力あるし衝撃力は圧倒的です。「ハウルの動く城」が現実にあるようなものです。でも川合さん、表現のことは何にも考えてなかったらしいね。
中谷──《川合邸》を初めて拝見したときに僕は洞窟だと思いました。つまり《川合邸》は「家以前」に戻ってしまっているなと。つまり家以前に戻ってもう一回別の家を組み上げたんだ、発明したんだと思った。先ほど言いましたように、家というのは発明だから、できてしまったら戻れない強い磁場が働く。《川合邸》はそれを超えた。
藤森──旧石器時代ですよ。しかも露出した洞窟。
中谷──そういえば、以前藤森先生と、石山さんの《幻庵》と《川合邸》、どっちが国宝かっていう話をしたことがありますね。藤森先生が、それは絶対《川合邸》だとおっしゃられたのに対して、僕は、《幻庵》じゃないかって言いましたよね。今のお話の文脈からすれば、《川合邸》は原始の国宝で、《幻庵》は中世の国宝だと言うことで手を打ちたいと思います。
藤森──圧倒的に《川合邸》ですよ。《幻庵》と並べてみたらわかるんですが、《川合邸》はいまだに歴史のなかへの収まりが悪い。変な力があるんですよ。よくああいう人がいたなと思います。最近、遠藤秀平さんがコルゲートを使っているけれど、僕らの世代には遠藤さんみたいなことはできないと思いますね。コルゲートは、川合健二と石山修武っていうとんでもない人たちのハンコが押してあるから(笑)。使うとそこにはトタンの月星マークみたいに、印が押してあるわけですからね(笑)。でも若い人は、平気でそれをやる。コルゲートを既知のものだと思ってるんでしょうね。僕らは、既知ではなくて個人のものだということを生々しく記憶しているので、とても使えないです。
中谷──《川合邸》が持っていた洞窟のような重さ──ホントは軽いのに重い感じは、遠藤さんの建築にはない。
藤森──《川合邸》はだんだん錆び始めてきているでしょう。錆びた謎の昆虫が土を掻き分けてズズーッと動き出しそうなんだよね。ああいうものも滅多にない。不思議なもんですよ。
中谷──遠藤さんの場合は柔軟な波板の形態が基礎のプレートに固定されてる感じですよね。でも《川合邸》は完璧に大地から自立してる。単に砂利で安定させているだけだから、引きずられてもどこへも行けるみたいな感じがします。やはり従来の家を超えている。
藤森──将来あれを移す必要がうまれたら、みんなで引きずってみたいね。
中谷──川合健二の書いた文章もある程度まとめといたほうがよいですね。
藤森──そう。あと、先ほども言ったように作った人がいるはずだし、いろいろなところも計っておいたほうがいいですよ。でもね、あれはほとんど外国で知られてない。ひとつは技術の問題で、僕は「石山の悲劇」って言ってる。世界で、近代技術が個人と幸せな関係にあったのは、近代技術の創立期の産業革命の頃です。当時はそこら辺の鍛冶屋のオヤジが機関車作ったり、個人が近代技術を作れた時代であり、その成果を個人が活用できた時代です。その精神はずっとアメリカの西海岸で生き残った。東海岸がエスタブリッシュ化してきますから、エジソンは西海岸に移ります。つまり、スチーブンソンとか産業革命を支えた職人たちが大技術を開発する状況は、アメリカ開拓精神に乗り移って東海岸じゃなくて西海岸に行くんです。フラーも、最後は西海岸で支えられて、『ホール・アース・カタログ』も西海岸でヒッピーたちが作ったりした。世界でアメリカ西海岸だけがそういう状況になったわけです。
中谷──伊藤為吉が行ったのも西海岸、サンフランシスコでしたよね。
藤森──結局、西海岸には、ビル・ゲイツみたいなのが出てくる。IBMに対抗して個人がやるわけですね。建築ではフランク・ゲーリーを生む。それはアメリカ西海岸というバックグラウンドがあったからです。その点、日本はどうだったかというと、発明家的な人たちの器である町工場が大企業の下請けに入ってしまったんですね。ものすごくみんな高い技術を持っていたけれど、その町工場の発明家的な情熱は大企業の下請けとして入っていってしまった。だから個別技術として顔を出さない。そのなかに石山修武が出てくるんだけれども、彼や川合さんの周りには個人的な近代技術に養分を供給する土壌がない。石山の不幸は、生まれた場所と時代を間違ったことです。彼が活動するに相応しい時代は、イギリスの産業革命の頃、現代なら西海岸ですよ。
中谷──日本だと擬洋風の頃ですね。あのころは発明家みたいな大工がいっぱいいるから、非常に面
白い。
藤森──そう。明治時代はよい。現代だったら西海岸に生まれればよかった。だけど不幸にも、現代日本のような湿ったところに生まれてしまった。
中谷──これ、話全然違うかもしれないんですが、最近、アメリカのシェーカー・ヴィレッジを見に行きました。藤森説によると、大工の市川代治郎が擬洋風の名作のひとつである中込学校(長野県佐久市)を作ったときのひな形は、アメリカで発行された小学校の教本だったらしいですが、僕は市川はシェーカーを訪れたのではないかという気がした。擬洋風のなかで中込学校だけ異様に清楚な感じがするのも不思議である。
藤森──シェーカーは西海岸にあるの?
中谷──いや、東海岸に発達したのですが、印象がそれぐらい似ていたんですね。中込学校の平面は全く左右対称で、真ん中の通路の行く先に丸いステンド・ガラスがあった。あの厳密な左右対称性は、非常にシェーカー的な感じがしました。それから中込学校の真ん中にある塔屋の中に螺旋階段がありますよね。あれは多角形で、その綺麗さはほかにはないぐらいだと僕は思うのですが、シェーカーの、回転する円形プランをもつ牛小屋があるのですが、それを支える心棒と似ています。私たちが考える以上に、一九世紀にアメリカに渡った大工たちがいます。そう考えると今よりもむしろ実験精神があった可能性だって否定できないです。
藤森──確かに半分発明家みたいな人たちも行ってたでしょうね。市川代治郎の建築は中込学校一作だけで、その後は発明家になって、最後死んだ時は静岡でみかん酒作って結構成功したらしいです。彼はアメリカ流の吊橋も考えたし、言ってみれば発明家なんです。金沢の尾山神社の洋風の神門を作った棟梁の津田吉之助も発明家で、金沢の地元の人たちの期待を背負って、富岡製糸場の技術を盗みにいく。ところが富岡製糸場では図面を写したりすることを認めないんです。彼は働きながらじっと見て、夜帰っては図化して、そのシステムを理解して、鉄を使わずに木造に変えてやるんです。それで金沢の製糸工場が興った。彼の会社は今でも続いているちゃんとした機械会社ですよ。結局彼も発明家のほうへ行っちゃうんですよね。
中谷──家ひいては建築という枠組みに押し込められていた技術が、その枷から解かれたみたいに急速に広がったときがあったんですね。トヨタの創業者も木工大工ですし。
藤森──日本の建築界で層として発明家が出たのは、あの時期でしょうね。為吉さんだって建築は擬洋風的な変なもんですからね。それ以降で言えば、ただ一人横河民輔だけだろうね。
中谷──その後は、だんだん《二笑亭にしょうてい》みたいな、面白いけれども閉鎖的な感じになってくる。
藤森──そう。

《川合健二邸》 撮影=中谷礼仁

《川合健二邸》 撮影=中谷礼仁

《幻庵》 提供=石山修武研究室

《幻庵》 提供=石山修武研究室

シャムコン論争、あるいは表皮への関心

中谷──昨日、先生が看板建築について書いていた頃の神田あたりを、大判カメラで撮った高梨豊の『町』という写真集を見ていたんですが、昭和四〇年代まで、東京が「町」だった頃の風景が活写されていて、すばらしかった。下町+谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」という感じなのですが、木造住宅の奥行き深い影のなかでキラキラ錆が輝いてる。それはとても美しい。そういうものに美しさを見出す人は、全人口の一〇パーセント程度はどんな世のなかになってもいると思うんですね。ではなぜ《川合邸》が一般的な住宅として広がらないかについてですが、繰り返しになりますが、それはアッセンブリーとして、やはり従来の家型を外しすぎてしまって、洞窟までいったん戻ってしまったからじゃないですかね。そうしたらあの錆は美しいとか言っていられなくなりますからね。
藤森──石山の《幻庵》も広がらないよ。
中谷──どちらも洞窟型で、要するに「家」じゃないからじゃないですか。二つとも、家という発明物以前まで戻っちゃったから広がらない。家の格好をしてたらもう少し広がったと思いますね。部分的に用いた波板トタンだったらそこら辺にいっぱいあるでしょう。
藤森──家の格好をしていると面白くない。あれを構造として利用しようとしたところが、特殊化してしまったのかな。だけど一方で、波板があれだけ一般化したのにね。おそらく本当に広がるためには、君が言ったように、家のイメージにならなければいけないっていうのはあるかもしれない。だけど、まぁ、《幻庵》にしても《川合邸》にしても、二人のハンコが押してあるようなもんだから(笑)。
中谷──あんまりイメージが強すぎて流布しない。悪い意味ではなく、そこまで行ってしまったという驚異ですね。
藤森──そうですね。やっぱり家のイメージっていうのは、一番保守的なものですから。今でもプレハブって全部屋根つけるでしょ。あれは合理的というだけじゃなくて、家のイメージが大切なんです。屋根なしのコンクリートでピンッて軒切って立ち上がってやると、国分寺の辺でも、今でも建築家がやったって感じしますから(笑)。
中谷──うろ覚えで申し訳ないのですが、学生の頃、終戦直後の『建築文化』か『新建築』を読んでいたら、前川國男の《紀伊國屋書店》についての座談会記事があった。シャム(虚偽)コンストラクションじゃないかと、ほかの建築家たちがみな前川國男を攻撃していたんですが……。
藤森──それは、木の柱にペンキを塗ったことに対して?
中谷──いや、木造であるにもかかわらず陸屋根だったことに対してです。勾配が少しついてますけど陸屋根的な表現だと。
藤森──シャムコン論争っていうのは、昔、大正期にあった論争で、今で言うと木造モルタルですが、あれがシャムコンストラクション、要するに恥ずべき虚偽の構造ではないかってことですね。看板建築もそうですけど、仕上げとしては組石造的な表情をしていながら、一枚皮の下は木造だということで批判される。《紀伊國屋書店》はそんなにシャムには見えないし、批判されると思わないけどね。それに、木造の陸屋根は戦前に土浦さんとかバウハウス系の人たちはみんなやってます。
中谷──おそらく前川國男の立ち直りが早かったから、みんなやっかみ半分に言ったのかな。唯一擁護している人がいて、これは木造にアスファルトルーフィングが引いてある。アスファルトルーフィングだったら、下地は何だっていいんだからシャムじゃないんだと言っている。それは確かにそうだと思います。
藤森──シャムコンストラクション問題というのは、厳密に言うとほとんどの構造はシャムコン化します。鉄骨構造ってペンキを塗るでしょう。誰も鉄なんて見てなくて、鉄の形をしたペンキ見てるんですよ。でもそれを誰も言わない。何で言わないかって言うと、ペンキを鉄っぽく塗ってるからです。ペンキで鉄の真似してる、シャムの代表です。それを疑う人は、ミースの《レイクショア・ドライヴ・アパーメント》の鉄骨に黄色のペンキをまだらに塗ってみろって(笑)。阪神タイガースだ(大笑)。モダニズム的には良いほうにシャムをしてますが。建築の場合、必然的に仕上げの問題があります。その一番極端な例は、打ち放しコンクリートで、構造自体を表現したとして高く評価されているけど、あれに対して林昌二は「あれはコンクリートの表現ではない。型枠の表現だ」と言った。型枠の表現というのはその通りなんで、あれはコンクリート自体ではない。コンクリート自体というのは自分の形がないから、固まったらどんな形にでもなる。実は、表皮の問題というのは、モダニズムの理論が落としたところなんです。表皮の問題で、一番モダニズムに近いのは、仕上げをしてないガラスです。モダニズムは表皮を考えなかった。塗りをちょっと厚めにするとシャムコンストラクションって言われて、薄くすると大丈夫、構造表現だって言われる。それは逆に弱点ではあるわけです。
中谷──それで、先生は今、表皮を追求してる。
藤森──表皮への関心は凄くあるんです。建築家たちは表皮のことを視覚的な世界だと思ってるんです。例えば、打ち放しのコンクリートの表面はザラッとして見えるでしょ。あれは触ったことがあるからなんです。だから、宇宙人が来たら、われわれが感じてるようには見えない。打ち放しコンクリートに、肌をこすろうって思うやつはいないですよね。何故かというと触ったことがあるから。表皮を見る時の視覚は常に、触覚的に見てる。そこの複雑さをテクスチャーという言い方をしてるわけですよね。二つの感覚で見ているんですよ。これが説明しづらいので、人間は、独特の、テクスチャーとか肌理という言葉を使ってるんだけれど、あれは触覚的な視覚なんですよ。人間には嗅覚とか触覚とか聴覚とか視覚とかいろいろあるけれど、一番原始的な感覚は触覚です。赤ん坊が本能で母親の乳首を探しますが、あれは目がまだ見えませんから、触覚なわけですよ。
中谷──乳首だけ飛び出ているから。
藤森──飛び出て、ふにゃあっとしてる。触覚の後、視覚が始まる。触覚のほうが古い感覚です。だから本質的な感覚ではあるんです。表皮の問題は、奥の深い問題です。

「実験住宅」の歴史的経験へ

中谷──『昭和住宅物語』で、先生は、白井晟一の《歓帰荘》を下手だと書いていました。一番印象に残ってるのは「床が良くない」という部分です。床が薄かったんですね。
藤森──あれは壁や天井や窓にかけてる異常な情熱に比べて、信じられないくらい安易ですよ。窓が嵌め殺しになっているので通風をどうするかというと、窓のひとつの桟の中だけひょっと開くのよ。工芸品的な作り。白井晟一ってどういうやつかと思った(笑)。
中谷──現在はもうないんですよね。
藤森──息子さんは移築するって話してたけどどうしたんだろう。どこかにあるという話もある。《歓帰荘》は床が弱点だった。彼があれを作るときに手本にしたのは、《江川邸》です。《江川邸》の土間は人が踏みしめて凹凸になって、そこに苔が生えて、そこに太い柱が立つ。彼の関心はあの柱と小屋組なんですよ。何で床にこだわらなかったのか。作ったのは普通の床ですよ。
中谷──エントランスを落としてまでやってるんですからね。もう土間にしろって感じ。
藤森──土間にしなくてもいいけど、もうちょっと床板を荒く削ればいいんです。せめて乱尺にして欲しい。白井晟一はもとは京都工芸繊維大のグラフィックを出た人ですからね。縄文的なるものっていうのを、日本で最初に言って、最初に作品でやった人だし、縄文的なものが存在する意味を考えてた人ですよ。なのに、彼のなかではあんまり、地面とか大地とかの問題が出てなかった。やっぱり京都の人というのか都市的な人なんだな。京都って、大地から一番遠い伝統ですからね。
中谷──堀口捨己の《岡田邸》は、結局、その後入られたんですか。
藤森──入ってます。《岡田邸》の見学会、君行ってないの。
中谷──解体中に行きました。で、藤森さん、『昭和住宅物語』に書いてますけど、実際の平面が、堀口捨己発表の平面図と違うっていうのは、あれは、そうですよね。違ってましたよね。
藤森──現物は、いったんできた後、堀口さんが大改修したんです。それで、直せないところがある。お妾さんの家だからほとんど機能がないんです。堀口さんは、すでにあるプランが嫌だったものだから、現物と違うプランを発表しているんです。
中谷──中期モンドリアンみたいな凄いかっこいい平面ですね。でも、行ってみればごく普通の中庭があって。
藤森──もしも最初からやらせてくれたら、おれはこうしたっていう(笑)。
中谷──いわゆるアンビルトだ。今、実験住宅っていうのを考えるときに、僕なんかは今日藤森さんの話を聞いて思ったのは、実験の五感に触覚まで含め、時空間的には基本構法である柱梁式やアーチ、ドーム式から始まって、そういうのを全部含めたところでやっていかないといけないということです。
藤森──ふつうの現在のセルフビルド系の人たちって、いろいろ実験やってるわけですけど、何も踏まえてないでしょう。僕はああいうことはやる気がない。
中谷──むしろセルフビルドはどんどんやって欲しいけれど、歴史とか発明としての家とか、そこから生まれる美学をふまえる、きちんとつかまえてやろうという気持ちでやってもらわないと迷惑。雑誌発表する必要はありません。
「ふまえる」っていうと、非常に建築史家っぽく聞こえるけど、建築家が経験を積めば積むほどそういうことを考えざるをえなくなるのではないかという気がします。みんなふまえたくなるんですよ。それが歴史的態度というもののひとつですね。そうするといわゆる「歴史」というモダニストが一番嫌いな領域を、モダニストたちも無意識のうちに溜め込んでいるわけです。だから「シロ派」の人々は、素直に歴史的な身振りができない分かわいそうだし、しんどいなあと思います。歴史的になるなんて彼らにとってみれば「転向」ですからね。
藤森──あのまま、グッグッと狭い道を行く。
中谷──ああ、若年寄になって。
藤森──あれはあれでよいと思いますけど、それは漸近線を行くわけですよね。絶対目標には近づけない漸近線。あれはあれで大事な面白いことですが、ただ、建築はもうちょっと広いもんだよね。
中谷──特に家は。
藤森──そうそう。
中谷──「実験建築」って言うとね、なんか非常に形のないものです。でも、「実験住宅」って言うと何かワクワクします。なにか深いんですよ。今日は、触るっていうところまでいかないと実験できないっていうお話がありましたが、閑谷しずたに学黌の床を歩いたときに、やっぱり僕は、感動しました。
藤森──そうそうそう。あれは、あの感動は、まだわれわれは本当の感動は味わえない。あれを本当に味わおうと思ったら、毎日拭き掃除をしなくちゃならない。江戸時代の青少年は、拭き掃除をした後、一生懸命四書五経を読んだんですから。現在の人でも剣道やってる人たちがあの閑谷学校の床を見たら、われわれより、もっと深く理解すると思う。
中谷──総合的な体験なんですね、実験というのは。少なくともCADの画面だけではできない。
[一〇月三一日、東京大学藤森研究室にて]

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年生
工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。建築史、建築家。

>中谷礼仁(ナカタニ・ノリヒト)

1965年生
早稲田大学創造理工学部准教授、編集出版組織体アセテート主宰。歴史工学家。

>『10+1』 No.41

特集=実験住宅

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>バックミンスター・フラー

1895年 - 1983年
思想家、発明家。

>前川國男(マエカワ・クニオ)

1905年 - 1986年
建築家。前川國男建築設計事務所設立。

>サステイナブル

現在の環境を維持すると同時に、人や環境に対する負荷を押さえ、将来の環境や次世代の...

>妹島和世(セジマ・カズヨ)

1956年 -
建築家。慶應義塾大学理工学部客員教授、SANAA共同主宰。

>石山修武(イシヤマ・オサム)

1944年 -
建築家。早稲田大学理工学術院教授。

>伊東豊雄(イトウ・トヨオ)

1941年 -
建築家。伊東豊雄建築設計事務所代表。

>セルフビルド

専門家に頼らず自らの手で住居や生活空間をつくること、あるいはその姿勢。Do It...

>バウハウス

1919年、ドイツのワイマール市に開校された、芸術学校。初代校長は建築家のW・グ...

>林昌二(ハヤシ・ショウジ)

1928年 -
建築家。日建設計名誉顧問。