RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.40>ARTICLE

>
劇場としてのショウ・ウィンドウ | 蘆田裕史
Show Window as Theater | Hiroshi Ashida
掲載『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) pp.208-217

1 人間の不在/マネキンの現前

士郎正宗の『攻殻機動隊』、あるいは押井守の『イノセンス』における義体─義手や義足のように人間身体を人工物で代置したもの─は、普通の人間身体よりも多くの「穴」を持つ。すなわちそれは、首の後ろにある四つのジャックである[図1]。義体はこのジャックを持つことにより、都市のいたるところでネットワークとの接続が可能となる。この義体を持つ登場人物は、知覚どころか神経それ自体を都市の細部へまで拡張していると言えるだろう。このような現象を身体からの神経の拡張と捉えるのであれば、そのとき都市全体をひとつの身体とみなすことができる。とは言うものの、この義体というサイボーグ的な身体を現代の人間身体へとそのまま当てはめることは不可能であろう。だが、仮定と結論を転倒させ、まず都市を身体であると考えてみるとどうだろうか。その場合に神経とみなせるものとして、都市を駆けめぐる街路が即座に思い浮かべることができる。さらに言えば、神経にはシナプスと呼ばれる間隙が存在するが、これに関しても都市において対比されるべきものがある。それはショウ・ウィンドウである。
なぜショウ・ウィンドウが間隙と言えるのか。それはショウ・ウィンドウが原則として人間の不在を前提としているからである。したがってショウ・ウィンドウは都市において建築と街路とのあいだにあるものの、それらとは決定的に異なっている。なぜなら、言うまでもなく街路や建築は本質的に人間のために作られるものであり、そこに人間が介在することが前提とされているからだ。だからこそ、ヴァルター・ベンヤミンはウジェーヌ・アジェの人影のない写真に興味を抱いたのである。ベンヤミンはアジェの撮影する人影のない都市の姿に違和感を覚え、それが「犯行現場」のようであると評されるのは正しいと述べる★一。だが、ショウ・ウィンドウにおいては、ことはまったく反対である。ショウ・ウィンドウは、人間がその中へと入り込むことによって「犯行現場」のように見られてしまうのだ。たしかにこのような物言いはいささか誇張に過ぎるかもしれない。しかしながら、「犯行現場」とまでは言わなくとも、何かしら不信や不安を感じて目を奪われてしまうことは否めないだろう。このことは、人間が作業をしているショウ・ウィンドウを思い浮かべればすぐさま理解されるはずである。
アジェはパリの街中を撮影して歩いたので、当然のようにショウ・ウィンドウの写真もいくつか残している。そのなかのひとつに男性用のスーツを並べたブティックのショウ・ウィンドウを撮影したものがある[図2]。この写真において、まず右手前に見えるのはスーツを着せられた顔を持たないマネキンであり、その後ろと左側には二体の顔を持つマネキンが立っている。いずれの顔もリアリスティックに作られてはいるものの、明らかに作り物とわかる顔をしており、不気味ささえ感じさせる。さらにその左側にはもう一体のマネキンがやや小さく写っているのが見える。しかしながら、よくよくそのマネキンを観察してみれば、先の二体のマネキンと比べて、顔の作りだけでなく、シャツの襟の折り返し方などいくつかの差異が認められるだろう。そうした後に浮かび上がってくるのは、もしかするとそれはマネキンではなく人間なのではないか、という疑問である。おそらくは街路に立ち止まっている男性が写り込んでいるのだと思われるが、あたかもマネキンと一緒に陳列されているかのように見えるのである。写真で見るかぎりは、人間もマネキンと同様に静止しているがためにそれほど違和感を感じることはない。だが、現実にこのような場面に出くわすことを想像してみるとどうだろうか。どことなく奇妙な感覚を受けるものの、それが人間だと確信することはできないにちがいない。日本では実際、一九二〇年代にショウ・ウィンドウのなかに立つマネキン・ガールと呼ばれる女性たちがいたのだが、道行く人々は、それが人形なのか人間なのか判断しかねることがしばしばあったと言われる★二。
このショウ・ウィンドウのように人間の不在が前提とされる場は、都市空間においてはあまり例を見ない。さらには、しばしばそこに現前するのは人間と類似したフォルムを持つマネキンである。なかば見せ物として、なかば憧れの眼差しで見つめられるマネキンはショウ・ウィンドウという劇場で演じる俳優であり、そこにおいてマネキンは特権的な地位を与えられるのである。では、その舞台からマネキンを引きずり下ろし、ショウ・ウィンドウとは何ら関係のない空間に持ち込むとどうなるのだろうか。実は、一九三〇年代のパリに、まさにそのことを実践した芸術家たちがいた。

1──士郎正宗『攻殻機動隊』より 引用図版=士郎正宗『攻殻機動隊』 (講談社、1991)

1──士郎正宗『攻殻機動隊』より
引用図版=士郎正宗『攻殻機動隊』
(講談社、1991)

2──ウジェーヌ・アジェ 「商店、ゴブラン大通り」(1925) 引用図版=『ウジェーヌ・アジェ写真集』 (岩波書店、2004)

2──ウジェーヌ・アジェ
「商店、ゴブラン大通り」(1925)
引用図版=『ウジェーヌ・アジェ写真集』
(岩波書店、2004)

2 マネキンという驚異

一九三八年一月、パリのギャルリー・ボザールの廊下に十数体のマネキンが並ぶ。それは、アンドレ・ブルトンとポール・エリュアール主催の「シュルレアリスム国際展」(以下、「国際展」と記す)における一幕である。この展覧会では、シュルレアリストたちが思い思いに飾り立てたマネキンが、入口から展示室へとつながる廊下に展示された。だが、なぜいわばモードの象徴ともいえるマネキンが用いられたのだろうか。同時代にイタリアで活動していた未来派であれば、衣服の制作を行ない、衣服やモードに関する宣言も数多く発表し、衣服産業とも積極的に関わろうとしていた。しかしシュルレアリスムにおいては、そうしたことはあまり見られないのである。
ところで、シュルレアリスムにおけるマネキンといえば、すぐさまハンス・ベルメールの人形が思い浮かべられるかもしれない。しかしながら、ベルメールのそれをマネキンと呼ぶことには少なからず抵抗がある。なぜならマネキンとはあくまで、「人間の」衣服を着せるためのものであり、ベルメールの人形の多くはそのようには作られていないからである。たしかにベルメールの人形のなかには、キャミソールを着せたり、パンツやタイツを穿かせたりしているものもあることはある[図3]。だが、そもそもベルメールの人形は衣服を着せられるようには作られてはいないために、窮屈な感じを与えたり、何かしら奇妙な雰囲気を醸し出したりしてしまうのだ。
また、ベルメールの人形であれば、おそらく人間の衣服を着せているのであろうが、一般的に言えば人形の衣装と人間の衣服も異なるのである。そのことは、ベルギー出身のデザイナー、マルタン・マルジェラが一九九四/九五年の秋冬パリ・コレクションにおいて巧みに示してみせた。マルジェラはプロポーションを変えることなく、人形の衣装を人間の衣服へと変換させた[図4]。この試みによって明らかにされるのは、人形の衣装のバランスの悪さであり(袖の付け方など)、全体に比して異様に大きなディテール(ボタンなど)である。つまり、人形とマネキンとの差異は、身につけるものが異なるという事実から生まれると言っても過言ではない。もっと言えば、顔がなかろうが足がなかろうが、人間の衣服を着用し、提示することができればマネキンとして成立するのである。
それでは、ベルメールの人形とマネキンとが異なるものであるのならば、シュルレアリストたちのマネキンに対する関心はどこに由来するのだろうか。実のところ、シュルレアリストたちのテクストにおいて、衣服やモードについての言及は断片的にではあるものの随所に鏤められており、それはマネキンに関しても例外ではない。マネキンに対する言及を探し求めると、まずはブルトンの『シュルレアリスム宣言』(一九二四)まで遡ることができよう。ブルトンはすでにそこで、「現代的なマネキン(mannequin moderne)」を、人間の感性を揺さぶる驚異(le merveilleux)として捉えていたのである★三。よく知られているように、驚異とはシュルレアリスムにおけるキータームのひとつであり、ブルトン自身も強くその重要性を主張している。

私の意図は、一部の人々のあいだにはびこっている「驚異への嫌悪」と、彼らが驚異の上にあびせようとしている嘲笑とを糾弾することだったのである。きっぱり言い切ろう。驚異はつねに美しい、どのような驚異も美しい、それどころか驚異のほかに美しいものはない★四。


また、例えば文学の領域では、小説のような低俗な作品を実り豊かなものにできるのは驚異だけである、とブルトンは言う★五。『シュルレアリスム宣言』においてブルトンがマネキンを驚異として捉えていたのは、ジョルジョ・デ・キリコの絵画におけるマネキンを念頭に置いたものであるとこれまで言われてきた★六。たしかにそうした側面があることは否めないが、実のところそれだけではない。このことは、『シュルレアリスム宣言』に先立つブルトンとフィリップ・スーポーの共著『磁場』(一九二〇)にまでさらに遡ることで理解されるだろう。この詩集にはきわめて興味深いテクストを見出すことができる。すなわち、そのうちの一章「白い手袋」では、まさにショウ・ウィンドウとマネキンについての言及が見られるのである。

彼ら[二人の旅人]の魂の入口はかつてはいかなる風に対しても開かれていたのに、今ではすっかりふさがってしまい、彼らはもはや不幸がつけこむすきを与えない。彼らは衣服によって判断されるのだが、その衣服は彼らのものではない。多くの場合それは、頭も手もない非常にエレガントな二体のマネキンなのである。お上品ぶりを身につけたいとのぞむ人々はショウ・ウィンドウに出ている彼らの衣服を値切ろうとする。翌日もう一度やってきたときには、モードはもはやそこにはない。これらの貝殻たちのいわば口である付け襟を通って出入りする太い金色のペンチは、誰も見ていないとき、ショウ・ウィンドウのいちばんきれいな照り返しをつかむ。夜になると、ペンチは楽しそうにその小さなラベルを振るのだが、その上には「今シーズンの最新流行品」と書いてあるのが読めた★七。


『磁場』はオートマティスム(自動筆記)によって書かれた最初の例であるとされており、たしかに全体としてはけっして意味を抽出しやすい文章ではない。だが、引用した部分を一読すれば理解されるように、『シュルレアリスム宣言』とともに発表され、やはりオートマティスムで書かれた『溶ける魚』とは異なり、文相互の接続は多少なりとも理解しやすいだろう。
『磁場』においてブルトンとスーポーが言及しているマネキンは、明らかにショウ・ウィンドウのなかのそれであり、そこでは衣服がマネキンと置き換えられている。ロラン・バルトは、「身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではなかろうか」と述べているが★八、バルトにしたがって読むのであれば、「すっかりふさがって」しまった彼らの衣服=マネキンはすでにエロティックなものでもなければ、フェティッシュでもない。それは単なる衣服の支持体としてのマネキンなのである。美術史家のルイス・カチュアは、シュルレアリスムにおけるマネキンが「デ・キリコ的なものからベルメール的なものへとシフト」したと述べているが★九、けっしてそこにのみ注目するべきでないことは、今述べたことからわかるだろう。シュルレアリストたちにとってのマネキンは、あくまでモードの一端をなすマネキンという側面を常に併せ持 っていたのである。このことを踏まえたうえで、「国際展」のマネキン群に話を戻そう。

3──ハンス・ベルメール「人形」 引用図版=『ザ・ドール─ハンス・ベルメール人形写真集』 (トレヴィル、1995)

3──ハンス・ベルメール「人形」
引用図版=『ザ・ドール─ハンス・ベルメール人形写真集』
(トレヴィル、1995)

4──マルタン・マルジェラ「1994/95秋冬コレクション」より 引用図版=『Maison Martin Margiela』(ストリート編集室、1999)

4──マルタン・マルジェラ「1994/95秋冬コレクション」より
引用図版=『Maison Martin Margiela』(ストリート編集室、1999)

3 中性化する身体

この展覧会では、展示室へとつながる廊下にマネキンが並べられている★一〇[図5]。シュルレアリストたちにとって、マネキンが単なるオブジェとして、あるいはフェティシズムの対象としてのみ捉えられるべきものでないことはすでに述べたとおりである。このことを考慮に入れたうえでこのマネキン群を見るのであれば、つまりマネキンだけではなく空間構成にまで目を配るのであれば、それぞれのマネキンの頭上に「通り」の名前が記されたプレートが掲げられていることに注目せざるをえないだろう[図6]。これらのプレートによって、ギャラリーの廊下は単なる建築の内部空間ではなく、街路としての様相を呈することとなる。そのときマネキンの存在がわれわれにショウ・ウィンドウを思い起こさせるということは言わずもがなであろう。つまり、この画廊は都市の縮図、あるいはひとつの疑似都市となるのである。
さて、本稿の冒頭で都市を身体と捉えるのであれば街路が神経の役割をなすと述べたが、ベンヤミンも街路に関して生体とのアナロジーを用いている。

商売と交通は街路の二大構成要素である。ところで、パサージュにおいては後者の要素は死に絶えてしまった。交通はパサージュに痕跡としてしか残っていない。街路は商売に対してのみ色目を使い、欲望をかきたてることにしか向いていない。こうした街路では交通という体内循環が滞っているため、商品がパサージュの両側の縁にはみ出し、ちょうど潰瘍にかかった生体のように独特な結びつきを示しているのである。─遊歩者は交通を滞らせる。彼はまた買い手でもない。彼は商品なのだ★一一。


ショウ・ウィンドウの前で立ち止まり、あるいは立ち止まらなくとも歩みの速度をゆるめ、ウィンドウの中の商品へと眼差しを向ける遊歩者は、往来を妨げるだけではなく、ほかの遊歩者によってもマネキンと同様に眼差しを向けられることにもなる。それによって商品に眼差しを向けていたはずの主体が、途端に客体へと転じる。そして彼/彼女は、ベンヤミンの指摘するとおり、商品として扱われることとなる。こうしてショウ・ウィンドウの前では主客の転移が頻繁に起こるのである。しかしながら、交通が痕跡としてしか残っていないというのはいささか言い過ぎではないだろうか。というのは、ミシェル・ド・セルトーが指摘するように、ショウ・ウィンドウを冷やかしたりする行為を点や線に置き換えることは時間性を無視することになるからである★一二。街路においてはあくまで時間は流れているのであり、むしろガラス一枚隔てたショウ・ウィンドウの向こう側こそ時間性を持たない空間なのである。ド・セルトーはさらに空間と場所を区別している★一三。彼によれば、場所は諸々の要素が並列的に配置されている秩序であり、空間は場所に方向、速度、時間を取り入れたもの、すなわち運動によって活気づけられる「実践された場所」と捉えられる。この観点から見るのであれば、ショウ・ウィンドウの内部は「空間」ではなく「場所」であると言えるだろう。ガラスで仕切られているがために、ショウ・ウィンドウと街路とのあいだには断絶があり、時間も速度も方向もすべて失ってしまっている。そこに時間が流れるのは唯一誰も見ていないとき、すなわち、ブルトンとスーポーが指摘するように、人の目を盗んで金色のペンチが動き出すときだけなのである。
それでは「国際展」の場合はどうだろうか。ここにおいては、観者がマネキンに眼差しを向けると同時に他の観者に眼差しを向けられるという主客の転換は起こらなくなる。それは、マネキンを飾り立てているものが商品ではないという事実に起因する。この展覧会における観者はけっして商品を眼差しているわけではない。彼らが見つめるのはあくまで作品であり、そのかぎりにおいて観者が商品になることはないのである。
ここから理解されるのは、商品を身につけたマネキンとそれを眼差す人間との同一化である。すなわち、彼/彼女はショウ・ウィンドウの中の商品を見つめる際、マネキンに自己を投影し、重ね合わせることによってマネキンと同一化する。別の言い方をすれば、マネキンに主体性を委ねてしまうのである。それだからこそ、先にも述べたような、さらなる主客の転移が起こるのである。
さらには、この現象が引き起こされるためには「窓」の存在が必要不可欠であるように思われる。ショウ・ウィンドウはその名の通り、「窓」を街路との境界に持つ。ショウ・ウィンドウは、この窓という一枚のガラスによって街路と完全に隔てられており、それはけっして開け放たれることがない。そしてこの空間の切断によって絶対的な距離が保たれる。すなわち、商品に手が届かないという感覚を抱かせるのであり、そのために眼差しに含まれる憧憬の念がどうしても強くなってしまうのである。美術史家のユベール・ダミッシュは都市における「窓」の役割について次のように語っている。

窓は都市が自らに向けた様々な眼差しのひとつに過ぎない。しかしながら、それは特権的な眼差しである。というのも、それは特異な、個人的、「私的」な眼差しであり、それを通して、街路のみならず都市の迷宮までもが、主体が位置している空間に干渉してくるのだ★一四。


ダミッシュが念頭に置いているのは、個人の住宅における窓である。しかし、これはショウ・ウィンドウの窓にも十分敷衍できると思われる。というのは、ショウ・ウィンドウの窓も、ダミッシュが論じているのと同様、そこに眼差しを向ける主体に干渉するからである。しかし、住宅の窓における主体─都市の位置関係とショウ・ウィンドウの窓における主体─都市の位置関係はまったく逆であるという事実に注意せねばならない。というのは、前者が窓を境界にして主体と都市が反対側にあるのに対して、後者においては同じ側にあるからである。つまり、前者においては街路を含む都市空間が主体を取り囲む空間に作用するのに対して、後者においてはショウ・ウィンドウが主体を取り囲む空間、つまり都市空間に作用するのである。
「国際展」のギャラリーの通路においては、ショウ・ウィンドウ的な様相が呈されてはいるものの、窓の欠如により空間が切断されることがなく、観者とマネキンとは同一の空間に存する。そのために、干渉する力の作用点がはっきりしないどころか、そもそもマネキンが観者に何かしらの力でもって働きかけるということがほとんど見られなくなるのである。
ところで、この展覧会のマネキン群にはまだほかにも注目すべき点がある。それは、出品されたマネキンのほとんどが帽子(あるいはその類似物)を被っていることである。このことは何を意味するのだろうか。カチュアは「[展覧会に出品された]マネキンはすべて女性であり、このことは、シュルレアリストが女性の身体を長年のあいだフェティッシュ化し続けていることを確認するものである」と述べているのだが★一五、女性のマネキンを用いつつも、一見して女性服とわかるものを着せたものはほとんどなく、むしろ帽子を被らせているという事実はどのように考えればよいのだろうか。
帽子は衣服よりもユニセックスなものである割合が高い。衣服であれば、シャツのようにフォルムがほとんど同じであっても、ボタンのかけ方が違うなど、男性用/女性用という枠組みが比較的はっきりしている。しかしながら帽子にはそれほどの差異はない。さらに言えば、これらのマネキンはその身体以外に女性的なところを持たない。だとすれば、女性服を着せずに帽子を被せるという行為は、セクシュアリティを無化し、女性の身体を持つマネキンを中性化していると言えるのではないだろうか。
このことが顕著に見られるものとしては、まずデ ュシャンのマネキンを挙げることができる[図7]。それは、同じく「国際展」にマネキンを出品していたマン・レイによれば、「ただ単に自分の上着と帽子を脱いで、マネキンがまるでハンガーででもあるかのごとくに掛けただけ」のものであったという★一六。しかしながら、カチュアが指摘するように、きちんと止められたベストのボタンやわざわざネクタイまで結んであるのを見れば★一七、デ ュシャンが自身の衣服をただ適当に掛けただけではないことは容易にわかるはずである。カチュアはデュシャンのマネキンの行為を異性装と捉え、その意味においてデュシャンの女性人格と言えるローズ・セラヴィとの関連を見出しているのだが★一八、化粧によって顔も女性らしくしているローズ・セラヴィに比べると、あくまで「男装」の範疇にとどまっているデュシャンのマネキンは、セクシュアリティを反転するまでには至らない。完全に男性になることもなく、女性のままでいるわけでもない。すなわちセクシュアリティが中性化されたものであると言えるだろう。
また、デュシャンのマネキン以外では、多少極端ではあるものの、ジャン・アルプの袋を被ったマネキンが顕著な例として挙げられるだろう[図8]。アルプのマネキンに至っては、帽子どころか黒い袋を被せ★一九、上半身をすっかり覆ってしまっている。この覆い隠されたマネキンにフェティシズムを見出すのはいささか無理があるのではないだろうか。むしろ、女性の身体を隠蔽することでこのマネキンのセクシュアリティを中性化していると考えるほうがやはり適切であろう。実は、こうしたマネキンの中性化は現代においてしばしば見られる現象なのである。

5──「シュルレアリスム国際展」展示風景 引用図版=Lewis Kachur, Displaying the Marvelous, MIT Press, 2001.

5──「シュルレアリスム国際展」展示風景
引用図版=Lewis Kachur, Displaying the Marvelous, MIT Press, 2001.

6──「シュルレアリスム国際展」展示風景 引用図版=Lewis Kachur, Displaying the Marvelous.

6──「シュルレアリスム国際展」展示風景
引用図版=Lewis Kachur, Displaying the Marvelous.

7──デュシャンによるマネキン 引用図版=Lewis Kachur,Displaying the Marvelous,MIT Press, 2001.

7──デュシャンによるマネキン
引用図版=Lewis Kachur,Displaying the Marvelous,MIT Press, 2001.

8──アルプによるマネキン 引用図版=Lewis Kachur,Displaying the Marvelous,MIT Press, 2001.

8──アルプによるマネキン
引用図版=Lewis Kachur,Displaying the Marvelous,MIT Press, 2001.

4 身体=衣服

まず、先にとりあげたアジェの写真におけるマネキンを思い起こしてもらいたい。すでに述べたように、われわれにはこのマネキンの顔はいささか不気味なものであるように思われる。さらに言えば、「国際展」におけるマネキンの顔も同様であろう。それは、単純にわれわれがこのようなリアリスティックなマネキンを見慣れていないからである。すなわち、現代においてわれわれが普段目にするマネキンの多くは、衣服やしぐさによって性の区別はつくものの、顔のパーツそのものや表情を失っており、シュルレアリストたちによって作為を受けるまでもなく、すでに中性化していると言えるのである[図9・10]。
ショウ・ウィンドウのなかのマネキンは、見るものが自己をそこに投影しやすくするためにできるかぎり非個性的であることが望まれる。また、憧憬の眼差しを集めやすくするためにその時代が理想とするプロポーションが望まれることもある。だとすれば、この中性化されたマネキンは、現代におけるアクチュアルな人間身体、あるいは理想の人間身体を描き出しているはずである。この中性的なマネキンが映し出す、現代における現実/理想の身体は、イタリアの美学者マリオ・ペルニオーラにならって言えば、モノと化しつつある人間身体と捉えることもできるだろう。ペルニオーラは、現代において人間がモノに似てくると同時に、モノが人間的な性格を帯びつつあると述べる★二〇。さらに彼は、自身の見解とベンヤミンがモードの核心であるとみなす「無機的なもののセックス・アピール」という概念とを接続し、中性的セクシュアリティへと議論を展開させる。ペルニオーラはモノと化す人間を無機的なものと捉え、人間がそこに至るための重要な契機として、この中性的セクシュアリティが必要だと言うのである。つまり、「中性的セクシュアリティがモノという時間なき地平を切り開く」のである★二一。時間性の欠如したモノは、同じく時間性の欠如した場所であるショウ・ウィンドウにふさわしいだろう。さらに「中性的セクシュアリティという経験を持つ身体は機械ではなく、衣服であり、モノである」とペルニオーラは言う★二二。人間身体がモノと化すとき、それは衣服と同一化するのである。ここにおいて、ショウ・ウィンドウのなかのマネキンという無機的な存在の重要性が増してくる。

無機的なもののセックス・アピールとモードとの関連はヴァルター・ベンヤミンに由来するものである。しかし、無機的な中性的セクシュアリティの経験は、モードというもはや廃れて時代がかった概念よりもルックにふさわしい。このルックとはオート・クチュールの順応主義からも、アンチ・モードの主観主義からも完全に解放された身体=衣服の文化として理解されるものである。事実、ルックにおいては、身体としての衣服の経験は衣服としての身体への経験と延長され、広げられ、急進化される★二三。


ペルニオーラによれば、この「ルック」とは外見の言語が自律化していくプロセスのことであり、衣服の文化において古典的なモード─例えばオート・クチュールから初期のプレタ・ポルテまでといったもの─から、アンチ・モード─例えばコム・デ・ギャルソンやマルタン・マルジェラなど─を経てたどり着いた状況のことである。モードやアンチ・モードが時間に支配されていたのとは反対に、ルックは時間から解放され、ひとつの空間を打ち出すとペルニオーラは述べる★二四。つまり、モードは流行という現象の持続する時間を収縮しようと努め、アンチ・モードは逆にそうした時間を延長しようと努める。しかしながらルックは、もはやそうした時間の概念には囚われない。そうではなく、ルックにおいては「モノとして在ること」が重要であり、その存在空間を生産することに努めるのである。
このことは現代の衣服を鑑みればすぐさま理解されるだろう。現代のモードには支配的な趨勢というものはもはや存在しない。例えば日本であれば、コギャルからゴシック・ロリータまで多種多様な衣服が細分化された集団を形成する。それはシーズン毎に目まぐるしく移り変わるようなエフェメラルなものではなく、モードの流動性はもはや問題とはならない。そうではなく、都市において同種の衣服を身につけた集団が構成する空間が問題なのだ。つまり、都市空間における経験の主体となるのは身体ではなく衣服そのものなのである。そのとき、身体と都市とは直截的な関係を持ちえなくなる。いまや都市と直截的な関係を持ちうるのは衣服なのである。それを安部公房はいちはやく見てとっていた。安部は短編「飢えた皮膚」において、人間と衣服との関係に関して次のように主人公に語らせている。

衣裳は本当に魔術です。人間が生きているのではなく、衣裳が生活しているのではないかとさえ思われます。(…中略…)つまり、人間は、自分の皮膚が社会の発展にとても追いつけなくなったので、代用の衣裳でもってその補いをつけようとしているわけなのです★二五。


衣服は皮膚の延長でもなければ、第二の皮膚でもない。そうではなく、いまや衣服は安部が語るように皮膚に代置されるべきものなのである。すなわち都市空間に溶け込むことができるのはもはや人間身体ではなく、それが可能なのは衣服のみである。極端な例を挙げれば、冒頭で触れた『攻殻機動隊』での光学迷彩を思い浮かべることもできるだろう。この光学迷彩という手段によれば、文字通り衣服によって身体を抹消することもできるのである。そこまではいかなくとも、現代においても衣服によって都市空間に溶け込むことはまったく難しいことではない。そこにおいてショウ・ウィンドウが担う役割は小さくない。都市の間隙たるショウ・ウィンドウは、そのなかでマネキンが人間身体を演じることによって、都市のなかにさまざまな空間を作り出していく。そうして身体=衣服が都市に溶け出していく空間が生成し、その空間が都市の結節点となるのである。

9──バーニーズ(ニューヨーク)のショウ・ウィンドウ 引用図版=Shonquis Moreno et al., Forefront,  Frame Publishers/ Birkhäuser, 2005.

9──バーニーズ(ニューヨーク)のショウ・ウィンドウ
引用図版=Shonquis Moreno et al., Forefront,
Frame Publishers/ Birkhäuser, 2005.

10──バーグドルフ・グッドマン(ニューヨーク)のショウ・ウィンドウ 引用図版=Shonquis Moreno et al., Forefront,  Frame Publishers/ Birkhäuser, 2005.

10──バーグドルフ・グッドマン(ニューヨーク)のショウ・ウィンドウ
引用図版=Shonquis Moreno et al., Forefront,
Frame Publishers/ Birkhäuser, 2005.


引用文に関しては、訳文を適宜変更させていただいたことをあらかじめお断りしておく。
★一──Walter Benjamin,”Das Kunstwerk im Zeitalter Seiner Technischen Reproduzierbarkeit, “ Gesammelte Schriften VII-I, Suhrkamp Verlag, 1989, p.361.  邦訳=ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」(『ベンヤミン・コレクション1  近代の意味』浅井健二郎編訳、筑摩書房、一九九五、六〇〇頁)。
★二──井上章一『人形の誘惑──招き猫からカーネル・サンダースまで』(三省堂、一九九八)。
★三──André Breton,”Manifeste du Surréalisme,” Œuvres Complètes I, Édition Établie par Marguerite Bonnet, Éditions Gallimard, 1988, p.321. 邦訳=アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」(『シュルレアリスム宣言──溶ける魚』巖谷國士訳、岩波書店、一九九二、二九頁)。
★四 ──Ibid., p.319. 同、二六頁。
★五──Ibid., p.320. 同、二七頁。
★六──例えば、以下のものを参照。 Ibid., p.1350,”Notes et Vari- antes par Marguerite Bonnet.,” Lewis Kachur, Displaying the Marvelous, MIT Press, 2001, p.38.
★七──André Breton, Philippe Soupault,”Les ChampsMag-nétiques,” Œuvres Complètes I,Édition Établie par Margue-rite Bonnet, Éditions Gallimard, 1988, p.92. 邦訳=アンドレ・ブルトン+フィリップ・スーポー「磁場」(『アンドレ・ブルトン集成3』、大岡信ほか訳、人文書院、一九七六)二四五頁。ショウ・ウィンドウの中で人目を盗んで動き始める金色のペンチはショウ・ウィンドウの特殊な時間性を示す。つまり、後で詳しく触れることであるが、ショウ・ウィンドウの中では基本的に時間が流れないのである。これに関してはイジィ・バルタの人形アニメ『見捨てられたクラブ』を思い起こすとよいかもしれない。ただし、この映画では人目を避けて動き出すのはマネキンたち自身であり、舞台はショウ・ウィンドウではなく廃屋であるという違いはあるが。
★八──Roland Barthes, Le Plaisir du Texte, Éditions du Seuil, 1973, p.19. 邦訳=ロラン・バルト『テクストの快楽』(沢崎浩平訳、みすず書房、一九七七)一八頁。
★九──Kachur, op. cit, p.38.
★ 一〇──展覧会の様子については以下のものを参照。Kachur, op. cit,. José Pierre,”Le Surréalisme en 1938,” La Planète Affolée, Éditions Flammarion, 1986. Alyce Mahon,  “Staging Desire,” Jennifer Mundy ed., Surrealism: Desire Unbound, Tate Pub- lishing, 2001.
★一一──Walter Benjamin, ”Das Passagen-Werk,” Gesammelte Schriften V-I, Suhrkamp Verlag, 1989, p.93. 邦訳=ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論I』(今村仁司ほか訳、岩波書店、一九九 三)八一頁。
★一二 ──Michel de Certeau, L’invention du Quotidien I: Arts de Faire, Éditions Gallimard, 1990 (1980), pp.147-148. 邦訳=ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』(山田登世子訳、国文社、一九八七)二〇九──二一〇頁。
★一三──Ibid., pp.172-173. (同、二四二──二四三頁)。
★一四──Hubert Damisch, Skyline: La Ville Narcisse, Éditions du Seuil, 1996 (1963), p.32. 邦訳=ユベール・ダミッシュ『スカイライン』(松岡新一郎訳、青土社、一九九八)三九頁。
★一五 ──Kachur, op. cit., p.38.
★一六──Man Ray, Self-Portrait, New York Graphic Society, 1988, p.191. 邦訳=マン・レイ『マン・レイ自伝──セルフ ポートレイト』(千葉成夫訳、美術公論社、一九八一)二四二──二四三頁。
★一七──Kachur, op. cit., p.47.
★一八 ──Ibid., p.47.
★一九──この袋には 「papapillon」という文字がプリントされている。この単語を「papa+papillon」と分解すれば、袋を男性服の代理=表象とみなすこともできるだろう。
★二〇──Mario Perniola, Enigmi: Il Momento Egizio Nella Societaè Nell’arte, Costa & Nolan, 1990. 邦訳=マリオ・ペルニオーラ『エニグマ──エジプト・バロック・千年終末』(岡田温司ほか訳、ありな書房、一九九九)五四頁。
★二一──Mario Perniola, Il Sex Appeal dell’inorganico, Giulio Einaudi Editore, 2004 (1994), p.14.
★二二──Ibid., p.13.
★二三──Ibid., p.59.
★二四──Mario Perniola, Enigmi. 『エニグマ』六二──六三頁。
★二五──安部公房「飢えた皮膚」(『安部公房全集3』新潮社、一九 九七、六四頁)。

>蘆田裕史(アシダ ヒロシ)

1978年生
日本学術振興会特別研究員PD。服飾史・美術史。

>『10+1』 No.40

特集=神経系都市論 身体・都市・クライシス

>ヴァルター・ベンヤミン

1892年 - 1940年
ドイツの文芸評論家。思想家。

>パサージュ

Passages。路地や横丁、街路、小路など表わすフランス語。「通過」する「以降...

>安部公房(アベ・コウボウ)

1924年3月7日 - 1993年1月22日
小説家、劇作家、演出家。

>複製技術時代の芸術

1965年11月1日

>パサージュ論I

2003年6月1日

>松岡新一郎(マツオカ・シンイチロウ)

1964年 -
美術史、表象文化論。駿河台大学、放送大学非常勤講師。