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施主と建築家──あるいは建築が住宅になるために | 塚本由晴+永江朗 聞き手
The Client and the Architect: Or, How an Architecture Becomes a House | Tsukamoto Yoshiharu, Nagae Akira
掲載『10+1』 No.28 (現代住宅の条件, 2002年06月発行) pp.74-85

アトリエ・ワンと私──最初の出会い

永江朗──私の場合もそうでしたが、施主は設計を依頼するにあたってまず手紙を書くというアプローチが多いと思います。受け取ったとき、まずどう考えられますか?
塚本由晴──それは「やった!」ですよ。内容を見るより先にとりあえずトキメキます。中学生の頃、思ってもみなかった女の子に告白されたときの「エーッ、オレ!?」というような、とりあえずは嬉しい瞬間ですね(笑)。それから条件を見るわけですが、声をかけていただいたというだけで、会ってもいないのにすでに少しばかり感情移入してしまい、予算や敷地の大きさなどに多少の厳しい条件があったとしても「なんとかなる」と思ってしまいます。
永江──敷地が広大で予算は青天井という条件はないでしょう?
塚本──それはないです。でも、施主に会うまでどんな人だろうと想像したりするのは楽しいです。
永江──ミーティングで初めて施主と接するとき、どういうことを見るのですか?
塚本──実は議事録に書けないようなことが重要です。その人のセンスとか、身振り、表情、繊細かどうかとか、人の目を見て話さないとか。一番気になるのは、その人がどういう常識を生きており、建築というものをどういう社会性のなかで考えているのかというところです。僕らのことを直接知らない人が第三者を介して紹介されてくる場合もあり、そのなかには建築家に仕事を頼まないほうがいいのではと思う人もいます。会ってみてすごく面白いと、この施主さんなら結構思い切った提案ができるなと思ったりします。
永江──施主の側に情報開示をどの程度求めますか?
塚本──それは施主によります。こちらからいろいろ投げかけてみても反応がない人に公開を強要しません。いまどんなふうに住んでいるかとか、持っているものをリストアップしなければ設計が始まりませんと言ったことはありません。あまり決まったやりかたというものはありませんね。
永江──私のときは、初回のその場で「じゃあ行きますか」と家に来ていただきました。いきなりそういう話になるとは思っていなかったので、ちょっとびっくりしました。
塚本──この人ならわれわれの考え方をよく理解されているから大丈夫と思ったんです。それに、地域的に近いということもありました。僕はそういう「地元の仕事」という雰囲気が好きなんです。たとえば夕方会って、その足で九時くらいに敷地を見て、一〇時くらいに家まで行ってしまうというのは、地元的な感覚でないとできないし、それを実感するためにもぜひやってみたかったのです。ミーハーですけど。
永江──ああ、それは私たちがアトリエ・ワンにお願いしたいと思ったひとつの動機でもありました。そもそも自由が丘に住み続けるということが先にあり、家を建てようというのは後からついてきたことです。フリーで仕事をしていると、賃貸暮らしはけっこう辛い。引っ越すたびに身元調査をされたり、保証人を探さなくちゃいけない。また、夫婦二人暮らしで、自宅が仕事場で、ある程度の量の資料が必要で、となると、一般的な間取りでは使いにくい。もうひとつ、もともと建築には関心がありましたから、貧乏ライターが手持ちのお金だけで家を入手するというのは、プロジェクトとしても面白いなと思った。そこで最初に自由が丘で一五坪の借地というのを考えたわけです。結果的には二五坪の分譲地になったわけですが。
私は個人住宅の理想はセルフビルドであると考えています。セルフビルドでやれない人は、地元の工務店で顔なじみのおっちゃん、つまり自分の人生をずっと見てきた人に建ててもらうというのが二番目にいいケース。しかし、それでもさまざまな条件を満たすことができないときに、建築家に力を借りる。東工大なら地元の工務店の人に半分近い。それと、私は洋書店に勤めていたころ、篠原一男さんの研究室にときどき本を届けに来ていたので、なんとなく親しみもあります。もちろん以前からアトリエ・ワンの仕事は雑誌などで拝見し、インタヴューや論文も読んでいましたから、「この人とやってみたい」というか、建築に対する考え方に共鳴するところが大いにありました。具体的な作品というのは条件に非常に左右されますから、一〇〇パーセント建築家の作品ではないことが多いですよね。ですから作品を見て決めるというのは非常に危険だなと思っていて、むしろ、どんな考え方をする人なのかということのほうが大切だと思います。
もうひとつ、年齢のことを考えました。とりわけ全共闘世代の人はパワフルですから、こちらのエゴが負けてしまう。対等にやっていくためには、ある程度年齢でカバーするしかないと思いました。また、ある建築書籍の専門店の方が「うちに来る客はほとんど建築のプロか卵なんだけれど、最近は施主が多くて、建築家と論争しても負けない理論武装のために、建築家の事務所に行ったときに並んでいた本を読んでおいて、次の打ち合わせに備えているようです」という話をされていました。建築家はあまり意識しないと思いますが、施主と建築家の関係は医者と患者の関係に近い、ある種のヒエラルキーをもってしまっているんです。そこをなんとか乗り越えるためには年齢も関係がありますね。あとは、こちらがどういうことを考え、何を望んでいて、どういう条件があるかということは、文章でお渡ししてお任せすればいいやと思っていました。
塚本──いただいたメモは素晴らしい企画書で、さまざまな詳細が書かれた最後に「いろいろ書いたけれど自分たちに似合うものにして欲しい」と、そこだけ抽象的なことが書いてあり、その通りだと僕は思いました。僕自身も、永江さんの家に対する考えに共感しました。賃貸でイヤな思いをたくさんされたという話は今日初めて伺いましたが、今まで住んできた自由が丘に住み続けるための拠点をつくりたいというのが、都市部をあきらめて郊外に庭付きの家を買うというパターンとは逆を行っていていいと思いますね。

永江朗氏

永江朗氏

塚本由晴氏

塚本由晴氏

都市をカスタマイズする住宅

永江──田舎暮らしが流行ったころ、『田舎暮らしの本』(宝島社)の仕事でいろいろ取材したことがあります。たとえば都心から小淵沢に移住している人たちに話を聞いたり、不動産屋に案内してもらって物件を見たりしました。そのとき、「ああ、田舎暮らしはとても無理だ」と実感しました。
塚本──どういうところが?
永江──結局、人は家に住む以前に、まずその土地に住むんです。昔から小淵沢に住んでいる人々は、東京から田舎暮らしに憧れた人々が移住してくるのを心底歓迎しているわけではない。いわば招かれざる客なんです。小淵沢に住めるとしたら、作家の笠井潔が住んでいるような分譲された森の中の別荘地などであって、普通の人が心に抱く、まわりがのどかな畑でというのは無理ですね。私が取材したなかに女性の画家がいました。彼女は猫が好きでいっぱい飼っているんですが、まわりの畑で猫が排便をしたために何匹か殺されたと言っていました。農家の人、特に年寄りはペットとして猫を飼う習慣がない。猫はネズミをとるための道具であって、畑に悪さをする猫は害獣であり殺してもいい。つまりルールが違うわけです。加えて小淵沢というのは特殊なところで、終戦直後に入植した人が多い。だからいま小淵沢で農業をしている人たちは、戦前から住んでいる人からは新参者として冷たい目で見られた経験をもち、都会人に対してはあいつら楽な暮らしをしてという目で見る、非常に複雑な精神構造がある。そこに田舎暮らしの幻想を抱いて入っていき、小綺麗な家だけ建てて住むのは絶対違うでしょ。
塚本──それは家族が幸せにひとつの家で暮らすという新興住宅地の幻想や、都市は美しく住みやすいというような幻想とまったく同じで、田舎は人に優しく温かいところであるはずだというような幻想なんでしょうね。永江さんは取材のおかげでしょうか、あまり家に対する幻想がないですよね。
永江──そうですね。別冊宝島で『家は建つ!』という本を作ったことがあるんですよ。副題は「ローン漬けのマイホーム観を笑い飛ばす転機の書」。八王子の大工に、なぜ建て売り住宅はだめなのかという話を聞いたり、ダムダン空間工作所にいた小須田廣利さんに「一千万円型住宅」の話を聞き、その施主に会ったり。その後も『BRUTUS』の仕事などで建築家と施主の双方に取材し、かつ作品を見るという機会が多いのですが、住宅は建築家の意匠だけでなく、施主の欲望や土地の特性、予算などさまざまな条件によって成立するものだということを実感しました。だから、住宅は「もの」というよりも「こと」に近い。素敵な家を買ったら家族の団欒がついてきます、なんていうのは大嘘ですし、住宅はそれだけで完結しているものでもない。私たちがお願いした家には、客用のスペースはいらないという条件があります。なぜなら、自由が丘だから全部アウトソーシングできる。喫茶店とラブホテルがあれば、客を迎える場所やセックスする場所はいらないわけです。
塚本──ほかの都市施設があって、永江さんの住宅施設もまたあるという感じで、互いに補完しあうような関係が考えられますね。その感覚は、僕も中目黒に引っ越したときに味わいました。それまでは中延に住んで東工大に通って、南平台の事務所にも行っていたんですね。自転車で目黒─品川─渋谷の三角形を移動していたんです。結構しんどかったので、なるべく学校と事務所の間に越そうと思って中目黒を選びました。そうしたら、すごく便利なアプリケーションをコンピュータにインストールしたような感じで、毎日の生活がスムーズに感じられるようになったんです。それで、都市をカスタマイズする住宅という意識で考えると面白いのかなと思っていたところに永江さんからお話があって、まさにそういう考えが共通していた。それは、ある種、東京のような都市に住んでいると、必然的というか自然に出てくる、生活するための戦略なのかなと思います。
やはり、東京の全部というのは生身の人間には大きすぎて住めないんですよ。多分どこかを切り取って住まなくてはならない街なのではないか。だから自分なりに分割していかなくてはならない。分割の一般的な方法は、鉄道や地下鉄の路線とか、徒歩圏内、自転車でいける範囲とか、移動手段とも関係していると思います。家とか交通手段とかいろいろなものを使って東京のある部分を切り取り、自分なりに身の丈に合わせていくというか、そういうことをみんながやっている。
佐々木正人さんが『10+1』二七号で「登山とは山という大きなものを人間の身体に合わせて、数万のステップに分割することだ」ということを書かれていて非常に共感したんですが、家を建てるということも、知らない人には冷たくて堅い、あまりにも巨大な東京のようなものを、自分にとって使いやすいように分割したり変形する行為に近いことだと思っています。
永江──私も以前山登りをしていました。小さなテントひとつ背負って歩くわけです。トイレはキジ場というんですが、ブッシュがあればどこでもキジ場になるし、川が流れていれば水場になるわけで、雨や夜露をしのげるものと寝袋だけを折り畳んで持ち歩いている。生活を山全体に微分してしまう。
塚本──アウトソーシングですね。
永江──そう考えると、最小限住宅とは規模を最小にしたものではなく、機能を最小にするのだ、ということもできるでしょう。
塚本──そうですね。住宅の条件という話でいえば、条件を少し欠いてもいいのかもしれません。ローファイ・ミュージックの方法論というのは、たとえばドラムを叩く奴がいないなら、工夫をして新しいものを生み出そうじゃないかということですよね。それに似た可能性が、小さい家にはあるのではないでしょうか。

建築のスタイルと美的規範

永江──抽象的であれ具体的であれ、施主はいくつかの条件を建築家に提示します。そのときに建築家はどういう思考のし方をするんですか?
塚本──それは施主にとっての住宅の条件なわけですよね。僕は建築にとっての住宅の条件をそこで出していって、もみ合わせます。つまり施主がABCDEというように言ったら、僕はより良い生活の場をそこに見つけていくためには、こういう住み方とかこういう位置取りとか周囲との間の取り方がいいですよということを、FGHIJのような形でさらに足して言うんです。それらにもみ合ってもらううちに、施主の言っていたAとこちらのFが少しずつ反応しはじめたり、施主が言っていることは解決済みだったりして、その人の住宅のなかのプライオリティがディスカッションによって決まっていく。ですから僕はわりと、自分の思い描いていたものが施主の不理解によって実現できなかったという恨み言を言わないほうだと思います。
永江──建築家としては、デザイン上のやりたいこととか、実験的に試みてみたいということもありますよね。
塚本──それはありますが、僕はすべてが素材であるかのような取り組み方があると思っています。施主の言うことの一つひとつが、かなりざらざらした素材なんです。だから教育によってそれを矯正するのはあまり面白くない。それよりは、素材が提示されたなら、それを読み込み、理解することによってそこからできてくる建築の面白さというのを考えたいんです。
ほとんど笑い話のような例を挙げると、ある施主のために別荘を建てたんです。これは超ローコストのわりには大きくてなかなかうまくいっている。その施主は同じ斜面に五つ建てる計画を持っていて、順次設計していく予定だったのですが、一軒目が建ったところで「カナダのログキャビンを個人輸入したから、次は基礎を設計して現場管理までやってくれないか」と依頼された。僕もさすがに最初は戸惑いました。最初に作ったものが気に入らなかったのかなと思いましたが、きわめてビジネスライクなところがある方なので、特にそういう意味ではないらしい。ログキャビンもわれわれの作ったものもあまり違いがなくて、どちらかというとログキャビンのほうが安心感があって好きなんじゃないかな。たしかにログキャビンというのは、日本の現代の木造住宅を見慣れた目からすると、吹き出してしまうくらいふんだんに木を使っていて、なんだかおかしいんです。そういうものに僕も少し絡んでみたいなという気持ちはあったので、それをなんとかして、創作の材料にするやり方があるだろうと思って引き受けた。
そこは斜面地なので、おもしろいことにコンクリートで作る基礎がサイトスペシフィックになって、一見リージョナルな表現のログキャビンのほうがユニバーサルになるという転倒がおこる。斜面高低差を吸収しようとすると、基礎だけで一層分になってしまいますが、それにうまく手を加えれば、アトリエ・ワンの建築の上にログキャビンが載っかったような形になるだろう。ログキャビンの下敷きになるのも悪くない(笑)。そのうちにバルコニーやワインセラーといったいろいろな要求が出てきたので、基礎の周りが二層のバルコニーになって、ルーバーで囲われたものを提案しています。ルーバーに覆われたスマートな建築の上に、ごっついカナダのログキャビンが載っていておもしろいんですよ。
そんな例もあるから、僕はイチローの、あらゆる球をヒットにするために打撃技術を磨くという言い方に共感するんです。あらゆる条件の仕事を建築にするために設計技術を磨くみたいなね。
永江──ただ、造形作家としては、目に見える特徴があるとセールスポイントになるわけでしょう? 英雄的なアトリエ派などと呼ばれる人たちはそうだった。安藤忠雄ならコンクリート打ち放しで、フランク・ゲーリーならグニョグニョリボンとか。スタイルの反復がある。しかし、アトリエ・ワンや塚本さんなりのやり方は必ずしもそうではない。
塚本──早く英雄的にやれる条件を整えたいですね(笑)。《ミニハウス》などのああいう小さな住宅をつくるということは、外国の常識から見ればクレイジーなことになると思うんですが、そういうものに足をからめ取られて、一度倒れて、そこからどう立ち上がるかが勝負みたいな、ちょっと屈折した感覚もあるんです。こけないように品良く渡り歩くという手も、くだらなく思える条件と付き合わないという手もあるんだろうけれど、環境の紛らわしさに躓いてこけちゃって、そこから立ち上がるときに思いがけず何かをつかんじゃってるというような面白さも、表現のうちかなと思っています。
永江──私は素人なのでよくわからないのですが、アトリエ派の英雄たちは、施主とか立地条件は違うはずなのに、ひとりの作家がつくるものにある種同型性があるわけですよね。妹島さんには妹島節を感じるし、長谷川逸子さんなら彼女なりのことがあるわけですね。それはなぜなんでしょうか? クセが出るというようなことなんでしょうか。
塚本──やはり作家というのは、自己の建築家としての文脈で考えているので、ここまでいったらあれはできないとか、こういうことをやったらこれはできないというようなことが人によってはあるわけです。面白いと思った案でも、それは自分の文脈ではないといって却下することもあると思いますよ。やはり、何を規範として自分の建築観なりを描いていくかだと思うんです。その規範の種類として一番オーソドックスというか真っ正面なのはヴィジュアルな美的規範だと思うんですね。建築のなかのヴィジュアルな媒体にプライオリティをおいて美意識を投影していくことが、その建築家ならではの材料の選択や納め方などのディテールを生み、反復されることによってひとつのスキルとして固まっていくわけです。
永江──モダニストは思想と形態、あるいは機能と形態というものが必然的に一体化するという表現をしてきたわけですね。そういうのはいったん崩壊したはずじゃないですか。でも今だと安藤風というのが『BRUTUS』のような雑誌では一番わかりやすいと思うんですが、それは意地悪な言い方をすれば自己模倣じゃないかという感じがしないでもない。
塚本──近代主義建築というのは規範を公開性の高いもの、個人のものではなく社会のものとして描こうとしたわけですね。その前提には、社会が一枚岩的に考えられるという幻想があったと思うんですが、それが崩れてきた時に道は二つあったと思うんです。ひとつは、もう一度、誰でも共有できる別種の規範を打ち立てていくというやり方で、もうひとつは規範を個人化していくという道です。「野武士」と呼ばれた建築家たちは規範を徹底的に個人化していったと思うんです。建築家の表現というのがどんどんパーソナライズされていく時代だったんでしょうね。今からみると、日本の社会が消費社会化してどんどん細分化されていく過程と一致すると思います。最近では難波和彦さんの《箱の家》はそういう個人化した規範を目指すのではなく、かなり意識的に、みんながある種の目標とするような規範性をもう一回デザインできるか、という試みなのだろうと思います。難波さんはそのためにはできたものがカッコよくなくてはならないと言うんですが、それは規範の内側に人を呼び込むための切実な思いみたいです。
永江──それは商品性ということもあるのですか?
塚本──それもあるだろうけれど、これからはこういう条件をそろえていかなければ二一世紀の建築とは言えないぞ、というある種の規範を作りたいわけですよね。その規範は最初は限られた人々にしか共有されないのだけれど、それが社会性を獲得していく段階では、賛同者を集めていかなくてはなりません。共感を形成していかなくてはならないですよね。建築の場合には、カッコいいということが共感を生むんだということを、難波さんは骨の髄からわかっている。だから「エコロジー建築はどうしてカッコ悪いのか」という問いをたてて議論していくのだと思います。
永江──様式、機能、形態という三つのモメントを考えたとき、モダニズムは様式からの解放だった、ポストモダニズムは機能からの解放だったと捉えられるのではないかと思います。だとすると「観察と定着」という塚本さんの方法論や、特定のスタイルを反復しないアトリエ・ワンのデザインは、モダニズムへの回帰ではないかとも受け取られかねない。おそらくユニット派に反発する人には、そうした印象があるのでしょう。
塚本──それはどうでしょう。僕は機能性というものを否定するつもりはありませんが、そのことによって建築の全てが説明されうるとは思いませんし、それほどのプライオリティをそこにおいてはいません。機能性も、建築が何らかの規範を組み立てようとするときの一構成要素に過ぎないと思います。もし僕らが機能を問題にしているように見えるのなら、それは僕らが使用に関心があるからだと思います。しかし、形態との関係でいうとモダニズムにおける〈機能─形態〉のセットは強い、閉じた因果関係をそこに仮定することを建築全体を統制する原理にしていましたが、〈形態─使用〉のセットは、それが置かれている環境を巻き込みながら多様に発見、展開されるものだと思っています。そこに見出されるまとまりは必ず身体をその構成要素の一部に組み込むことになります。形態の決定はそのことを十分にフィードバックした上で行なわれるのです。また「観察と定着」という方法論は使い方や、環境と物質の性質や形式の独特の結びつきを媒体であるモノの方を指摘し、利用していこうとするものです。だから、〈形態─使用〉も「観察と定着」もともに、部分部分が勝手にそのものの性質としてつくりあげてしまう、ある意味生態学的なまとまりや、結びつきを楽しみ、受け入れていくことなので、機能─形態の因果を全体を統制するために守っていくモダニズムの責任感とは無縁なのです。

施主の変化

永江──建築家の方は、施主の進化というか変化をどう考えているんでしょうか。私は例えば美術史のなかでもパトロンについての研究がまだ足りないような気がして、建築の場合だと、特に日本の住宅建築──五〇年で見るか一〇〇年でみるか、一五〇年でみるかで違うとは思いますが──における施主の変化はものすごく激しいと思うんです。もしかすると、ここ二五年くらいは建築家の変化より施主の変化のほうが激しいように思いますが、そのへんはどうお考えですか。
塚本──建築家はそのことを十分認識していて、以前にもまして建築家は施主というものはかなり一回性の素材のようなものであると考えはじめているんじゃないかと思うんですよ。この施主だからこそできたとか、この施主の考え方に共鳴してここまでいけたとかいうことは、建築家がそれぞれに経験していることだと思います。施主とコラボレートするみたいな感じ、という言い方を多くの建築家がしていますが、そういう考え方も変化に敏感であるからだと思うんですね。ただ僕は施主の変化にも質というものがあると思っていて、苦手なのは建築のデザインを商品としてとらえている人です。そういう人と仕事をするのは心がささくれだつというか、ザラつきます。
永江──建築ってそれだけ特別なんでしょうね。
塚本──ええ、誰かに選ばれないと仕事が始まらないという側面を建築はもっていて、いまやソフトな左翼的な発想なのかもしれないけれど、人を選ぶ建築とか、クラスを表現する建築には荷担したくないと思っている建築家はけっこういると思うんです。僕の先生の坂本一成さんにはそういうところがあって、僕はそのことを先生から学んだような気がしています。でも誰かに選ばれることによって仕事が始まるというのが建築なので、人を選ばないデザインというのは、どこかで矛盾につきあたるんです。これは、自分にとっても結構大変な問題だなと思っています。
永江──私は自分の家について『東京人』のコラムに一度書いただけなのに、何人もの同業者から言われます。先日、個人情報保護法案反対集会があって四〇〇人くらい同業者が集まったときに、一〇年くらい会っていない人から「家建てているんだって」って言われた。塚本さんが打ち合わせのとき「家より高い車を買ってはだめですよ」とおっしゃったことがあって、それは建築家としての本音なんだろうなと思ったんですが、マセラッティだのなんだのって下手すると家より高いじゃないですか。でも車なら「マセラッティ買ったんだって」なんて言われないだろう。ライター風情が家を建ててというのは、階級的裏切り者だというのがそこに当然あるでしょ。家のもつ意味の重みというものから、建築家って絶対逃れられないですよね。ドラマに出てくる建築家像というのも、キムタクが演じようが誰が演じようが、そういうのがこびりついていますよね。
塚本──一般誌での最近の建築、住宅ブームによって広く知ってもらえるのはいいことです。でも気になるのは、建築家もだいたい中流出身、施主もだいたい中流出身となると、「中流による中流のための中流美学の称揚」というのが、現代の建築家がデザインする戸建て住宅に結構匂いたってしまう。その匂いがだんだん強くなっている気がします。僕としては警戒するというか、ちょっといかがなものかなという感じです。先日平等院に行ってパンフレットを見ていたら「この建物は藤原氏が当時、貴族の美意識を称揚するために作った建物である」と書いてあって、「建築というのはある層の人々の意識を称揚するためのものなのか」と改めて思い出しました。昔はそうだったかもしれないですよね、お金持ちの層のための建築。なるほどなー、これはぴったり一般誌の住宅ブームにあてはまるなーと、そのときから思っています。
自分も当然そのプロセスに巻き込まれて、絶対に荷担していると思うんです。自分は違うなんて誰も言えない。でも、そんなことには付き合いきれないという意識はどこかにあります。ヴィジュアルな価値だけで規範を描こうとすると、やはりそういうところへ陥りやすいと思いますね。だから、マスメディアを通してある種の規範性をもった内側ができ、そこで建築家がつくられ、しかも重用されるのとほとんど似たような規模・予算・シチュエーションでやりながら、しかし違うということを考えないと、と思ってはいます。
永江──そこではメディアの問題も大きい。メディアはマスだからすべての人が対象であるかのようなふりをしていますが、じつは四大卒の編集者が四大卒のライターやカメラマンと一緒に四大卒の人向けにつくっている。偏差値四〇未満は読者にあらず、というのがメディア、とりわけ出版メディアに関わる人間たちが無意識に前提としているところでしょう。そこは厳しい目で見る必要がある。かつて暴走族の取材をしたことがありますが、「中学は途中でやめちゃったし〜」とか言う彼らはマスメディアの埒外の人たちになってしまっている。『STUDIO VOICE』で石山修武さんが連載をやっていますが、三─四〇年前に書いたバラック浄土をまたやっているわけでしょ。またバラックか、とも思うけれど、でもあれは建築にとって必要なことだという気もしますね。
塚本──そうですね。建築デザインの歯の浮くような受容のされ方に対するカウンターになるものですよね。そんなのとは全然違う存在としての建築があるんだぞと言っているわけです。
僕は、美意識の称揚みたいなプロセスには違和感があるんです。「メイド・イン・トーキョー」とか「ペット・アーキテクチャー」とか、そういうプロセスからみればクズみたいな存在に、むしろ都市と建築の真実があるみたいなことを強弁しているわけです。
永江──ペット・アーキテクチャーを建ててくださいという施主はいますか?
塚本──あれは美術界からの反響が大きいんです。韓国の光州ビエンナーレでもペット・アーキテクチャーをひとつつくったし、ミネアポリスでも全体の会場を構成する壁のようなペット・アーキテクチャーをつくってくれという話もあります。いまのところ、ある種の身体性や世界観を伴った三次元表現として捉えられているようです。あと、建物の幅が二・九メートルしかないんですが、長さと高さが一三メートルある、床より壁面積のほうが全然大きくて、「これ、向きが違うんじゃないの」と思うような角地の建物を建設中です(笑)[図1]。本当にペット建築ですね。
永江──それは住宅なんですか?
塚本──そうです。戸建て住宅です。すごいですよ、角地にあって。すごいインパクトですよ。全然建築のデザインに関心のない施主さんなんですけれど(笑)。
永江──豪邸といいますか、規模の大きいものもやりたいですか?
塚本──もちろんです。今、内部空間だけで二五〇平方メートルくらいあるやつをつくっています。敷地もゆったりしているので、最初に形式を想定してその中で作るのではなく、好きなものを好きなところに好きなだけ置く、即物的に欲しいものを欲しいところにどんどん置いていくことを考えています。
永江──私は予算がありすぎるのはいけないと思っていました。建築家には苦労をしてもらわなくてはいけないという考えがあって(笑)。施主としてはノーを出し続けたいけど、言葉としてノーというのは難しい。でも、「予算はこれきりよ」という、何か手かせ足かせをつけないと面白いものはできないんじゃないかと思うんです。
塚本──でもその時にはたっぷり協力してもらわないとつらいですね。こっちは人の家をつくっているので、一般的なあり方をなかなか崩せないときがあるんですよ。駐車場をつくるのであれば、これくらい広さがないとという線がある。ミニクーパーしか止められないような駐車場をつくって駐車場とは言えないだろうというようなところがあるんです。そういう時に具体的な使い方を想定して、そんな余裕がなくてもいいとか、そこまで考えなくてもいいと助け船を出してくれると、常識的な作り方というのをはずしやすくなるんです。《ミニハウス》[図2]の施主さんは非常にそういうのがうまかった。僕らが、ここもうちょっとスペースが欲しいんですが、という感じで悩んでいると、そこはどうせこういうふうにしか使わないからもっと小さくてもいいとか、車輪が半分はみ出してもいいじゃないとか言ってくれる。誰が見ても一〇〇パーセント満足するようなやり方だととても収まっていかないものが、全部八〇パーセントでいいよと、使い方でそれをフォローできるよというふうにしてもらえると、意外といろいろなものが吸収できるんです。
永江──私は塚本さんへの注文のひとつとして、完成した家ではなくプロセスであるような、一〇年後か二〇年後にカッコよくなればいいというようなことを言ったのですが、建築雑誌には、完成されたパッケージとして載りますね。ああいうのは建築家はどういうふうに考えるんですか?
塚本──建築雑誌による発表が、どうしても完成という意識に結びついてしまうのは、工事が終わって施主に引き渡し、メディアに引き渡すことによって、ひとまず建物が建築家の手を離れるからだと思います。建築家という主体の側から建物を見るとそうなるだけであって、実際には建物の担当者が住み手、使い手に替わっただけのことで、建物はその後も微妙に変化し続けるはずです。だからつねに完成は先延ばしになっている。それはわれわれの肉体が変化し続けるのと似ています。
だから建築家にできるのは、使いながらその場が変化していくことに対して余地を残しておくとか、カスタマイズしやすくしておくことだと思います。そういうふうに思っている建築家は少なくないでしょうが、でも、建築の仕事というのは、社会的な体裁とかメンツをすごく気にするので、ここまでやらないとみっともないとかっていう意識がけっこう邪魔するわけです。
施主の協力が得られれば、そういう体裁とかにどれだけ意味があるのかを考えて、できるだけゆるくしていくようにしています。使われているゆえに美しい状態っていっぱいあるじゃないですか。例えばアーティストのスタジオや職人の工房のように、使っているからこそ出てくる美しさみたいなもの、乱雑だけれど美しいというもの。そこに住み込んで、その人の思考なりを身体の外に出してものに定着させていったところにでてくる、空間とか世界にすごくあこがれがあります。それは体裁とは全く関係ない。
永江──洋服だって、新品でおろし立てがベストでだんだん価値が半減していくというよりも、川久保玲のように、着てヨレヨレになっていくことを含めて洋服だという考え方ですよね。車にもタイヤがこれくらい減ったところが一番美味しいというのがあるのと同じで、住宅だって新車状態を良しとするのもなんだかなって感じですよね。
塚本──デザインの範囲がどこまでなのかを考え直さないといけないんじゃないかと思うんです。二〇世紀というのはものをつくる論理が優先されすぎたので、単体のオブジェクトに意識が集中してしまったのではないか。もっと使うという側面をデザインの範囲に含めていきたいですね。
僕には子どもの頃の昆虫採集とか、磯でのカニ取りとか釣りの体験がすごく深く体の隅々に浸透しているんです。そういうことをするときの環境への没入感がとても好きなのです。今になって思えば、そういう経験はひとつの生物と環境とが一体になったものを採集というか、見つけに行くということですよね。カブトムシがどういうところに住むのを好むかという知識のない人は採ることができない。カブトムシの存在さえ見ることができない。子供の僕はカブトムシを探しているつもりだったけれど、実際にはカブトムシのいそうなところを探していたわけですよね。それは生態学的な条件を見つけることだと思うのですが、人間の住む所もそういう見方で問題ないじゃないですか。そのなかで建築がどういう役割を果たしていくかを考えればいいんじゃないかと思います。
僕にとっては、放っておけばてんでバラバラにある、こっちの次元とあっちの次元を面白く結びつけることがデザインです。結びつきを見つけることといってもいいかもしれません。それを結びつける道具が、建築の場合は物理的な構造をもった部位だと思うんですね。普通に考えれば食事をすることと敷地が傾いていることは違う次元の話だけれど、ひょんなことからそれらが床によって結びつけられて、それぞれの良さを引き出すことになれば、つまり斜面で食事をすることが互いの楽しさを引き出すということになればすごく面白い。僕は建築のデザインというのは、そういうふうにまったく関係ないと思われていたことに構造を与えて関係づけてあげることだと思っています。ですからデザインは建築の条件のプライオリティには入ってきません。それらを交通整理して「ここ組合わさるね」とやっていく作業が大半だと思います。

1──《シャローハウス》 (c)アトリエ・ワン

1──《シャローハウス》
(c)アトリエ・ワン

2──《ミニハウス》 (c)アトリエ・ワン

2──《ミニハウス》
(c)アトリエ・ワン

アトリエ・ワンの住宅建築──《アニ・ハウス》から《ダス・ハウス》へ

永江──塚本さん自身の住宅観のようなものは変わってきましたか?
塚本──僕は茅ヶ崎で育ったので、住宅地といってもわりと古い、農地や松林が混じった場所には愛着があります。でもその一方で、街の喧噪のなかに住むというのにも魅力を感じているのは、やはりパリのアパート住まいの経験からだと思います。いまは毎日の生活のベースが都市だから、都市のなかにどうしても住みたいなと思います。だから郊外に行くことはめったにないんです。昔は神奈川の実家から電車で東工大に通ってましたから、郊外と東京の間を毎日往復していて、一日の生活に郊外と東京の異なる密度感が両方ありました。でも最近は郊外に行くことがあまりないので、ときどき行くとびっくりしますね。最近初めて、家が目立つのはみっともないかもしれないと思うようになってきました(笑)。
永江──アトリエ・ワンは今年で一〇年ですよね? 一〇年で住宅設計観は変わりました?
塚本──そうですね。建築の空間に対する関心以上に、存在のし方、あり方そのものに関心が移ってきて、そういう水準を問題にすることが設計のやるべきことだと思うようになってきたと思います。言い換えれば、住宅における表現というものが、どういう文化的基盤の上にのっているのかを問題にするようになってきたのかな。うまくできているかどうかはわかりませんが。住宅の存在のし方というのは、例えばこういうことです。
三〜四年前に、横浜の港北ニュータウンにある建築家の作品を見に行ったのですが、同じ宅地に同じ規模の建物が大差ないデザインで建っているんですね。それを見て「うわー、受験会場みたいだな」と思ったんです。机を均等に並べて、同じ試験をやって、その答えだけが差異だというような状況にものすごく似ているなと。僕はそのころ品川区の中延に住んでいたのですが、大きい家もあれば小さい家もあるし、マンションもあれば商店もあるというような本当にグチャグチャなところで、だから住宅もお互いがお互いを比較しあっているという感じにならない。新興住宅地に行ったときに、住宅に住むということをお互いに比較しあっているような状態だな、そういう存在のし方はしんどい、と思ったんです。住むということをそんなに意識したくないというのが正直なところです。
永江──クリスマス時期なんかたいへんだって言っていましたよ。デコレーションで隣に負けちゃいけないとか、微妙な差異をめぐる壮絶な闘いがあるらしい。
塚本──そうでしょうね、それが新興住宅地ならではの社会性ですね。個人的には、尾行者が後をつけていても、角を曲がったなと思ったらもういない、あの人はあの角を曲がるところまでは追えるんだけれど、その後どの家に住んでいるかがわからない、というのがやってみたい。
永江──建築家の文脈というお話がありましたが、アトリエ・ワンの住宅建築はどのような文脈で現在に至っているんですか?
塚本──戸建住宅としては《アニハウス》[図3]が最初で、敷地の中央に建物を置いて、隣との隙間をこれまでのものと変えるとともに建築内部の条件も変えようとしました。そのことを「建ち方」という言葉で説明していました。それは要するに、建物の敷地に対する配置のし方の見直しだったのですが、そこをいじると建物だけでなく、できあがってくる住宅地の質も変わるはずだ、というのが僕らの主張でした。都市内の住宅はその後《ミニハウス》、《モカ・ハウス》[図4]と続きますが、そこでもやはり「建ち方」を通して住宅から都市空間にどんなコメントができるかというのが問題でした。
それからいくつかの別荘をやるのですが、そこでは屋根や窓といったごくあたりまえな要素、習慣的な要素を、記号ではなく、物事を有機的に関係づけるものとして見直すことをやっていました。屋根や壁にあけた窓などは、住宅にとってはクリシェなわけですが、それをもう一度新鮮な部位として使えるようなやり方を考える。クリシェを一度受け入れた理由は、そこに別荘地、寒冷地でつくるうえでの合理性を感じたのと、建築というものがこれまでに培ってきた文化資本が畳み込まれているからで、そういう資本に対してどんなコメントができるかが問題でした。でも、もっと現実的な理由は、施主のタイプがそれまでとは違っていたからです。アトリエ・ワンの作品を直接知らない、紹介された施主と仕事をするうえでは、了解されやすいクリシェから始めるのは、有効なコミュニケーションの手段でした。

3──《アニハウス》 (c)アトリエ・ワン

3──《アニハウス》
(c)アトリエ・ワン

4──《モカ・ハウス》 (c)アトリエ・ワン

4──《モカ・ハウス》
(c)アトリエ・ワン

最新作である《ダス・ハウス》[図5・6]や永江さんの家[図7]では、先にも言いましたが、これだけ大きい街をパーツに分解して使いこなし、楽しんでいくとなると、住宅はそういう分割のための道具になり、そのために住宅はいかに設計されるべきかということを考えています。東京をカスタマイズする家です。《ダス・ハウス》の施主は子供のいないカップルで、夫が競馬が大好きで、初台に仕事場がある。であれば京王線に住むべきだ(笑)。競馬場より仕事場のほうが行く機会が多いから、京王線の初台寄りかなという決まり方なんです。自分の生活をシンプルにやりやすくするために家があるという感じで、個室なんかはほとんどなく、棚を装備した小さな場所が連続しているのがよいと。その発想が面白いなと思った。これは設計の材料になると。《ダス・ハウス》は、ローコストだから木造になってしまったというのもあるんですが、ならば木造ならではの加工しやすさを利用して、身体と建物のインタラクションをできるだけ形に定着させていこうとしました。床、壁、天井、窓、柱……といった、部位、部材がそれぞれのやり方で生活を観察するなら、どういう内容を観察するだろうかと考えるのです。たとえば、隣の庭が借景できるようないい窓があったら、その窓台はほかより少し大きくして座れるようにしようとか、同じ壁でも、キッチンの前の壁と居間の前の壁は意味が違うから設えも変わっていいだろうとか、窓も自分と地面を結びつけるのか、空を結びつけるのか、あるいは隣の庭を結びつけるのかというように、あらゆる建築の部位の前に生身の身体が立ったときをイメージして、そこでどんなことが起きたら面白いかを考えるんです。振り返ってみると、それは建物を生身の人間が生活することに合わせて分割するやり方だったのではないかと思います。そういう関わりがあらゆるところにできていくと、どんどん建物が柔らかく、なじんだものになっていくと思うんです。それが、個室に分けていくというこれまでの分割のし方ではなく、物を住宅にしていく、住む場所にしていく方法なのではないかと考えています。だからものごとをどの水準で分割していけるかということに今まで以上に関心を持つようになりました。
そういう関心から見ると、全てというわけではありませんが、最近雑誌をよく賑わしているデザイナーズマンションなんかが、かなり醜く感じられるようになってきました。なんというか、中流の意識の内側が過剰に吐露されている感じとでも言いましょうか。家を新たに求めようとする立場として、永江さんはデザイナーズマンションに関心はありますか?
永江──私はあれを八〇年代のショートケーキ住宅症候群と同じことをまたやっているという感じで受けとめています。デザイナーズならまだいいですが、「なんちゃってデザイナーズ」とか「デザイナーズ風」とか、人造イクラみたいな話が多すぎます。生活のデザインなくして形態のデザインだけでデザイナーズマンションって言うなよ、と。デザイナーズマンションって言葉からして矛盾しているわけですよ。最終的に住まい手がどういう生活形態をとるかわからないのにお仕着せでつくっていくのですから。最初から論理的に矛盾しているのに、そこを隠蔽したまま、きれいに見せましたということですから、あれは「商品化住宅のちょっと変わったふうに見える版」という程度でしょ? 建築の本質にはまったく関係ないことですよね。
塚本──ケレンみだけでできているような。「ユニークなマンションが増えています」みたいなコピーを見かけると、じゃあオレはなんでもないマンションでもやろうかなと思ったりします。
永江──オーナーとしての施主の気持ちは満足させるんですよ。俺はこんな変わったマンションのオーナーなんだぞっていう感じで。私は『BRUTUS』の集合住宅特集で何度か建築家やオーナー、住まい手に取材をしましたが、みなさんそれぞれ満足していました。ただ『BRUTUS』が取り上げた頃のものはまだ良かったですよ。山本理顕の緑園都市なんてとてもよく考えられていたし、塚本さんが坂本一成さんのアシスタントとして参加された幕張のパティオスもおもしろかった。しかも、住んでいる人はそんなことは考えてもいなくて、その微妙なズレがこれまた面白かったりしましたが。いまもてはやされているデザイナーズマンションは、それらの上にトレーシング・ペーパーを載せてなぞったような話ですから。塚本さんがやるならそれをどういうふうに破壊するか、見所ですよね。
塚本──建築家というのは作り手だと考えられているし、作り手の論理を語ってきましたが、そういう連続性から考えると、建築家自身が生活者であるということは、建築家自身がすでに他者性をはらんでいるということですよね。その部分に目を向けることによって、作る論理を相対化することができると思うんです。先ほどローカルな感じはすごくノレルと言いました。地元だからできる、会ってすぐ見に行ってしまうというようなことは、自分がその場所で生きている生活者でもあるということで、それは僕にとって面白い条件だなと。その延長線上で「建築のJOY」はどこから来るのかと、あるときから考えています。建築の場合は、かなり単純化すると、〈環境〉と〈行為〉と〈時間〉の三つを構造化する。うまく構造化したときにJOYがワーッと出てくる感じがするんです。別々の次元にあるものを結ぶためにはまずはそれらを隔てるための空間が必要で、その空間こそが建築の空間だと思うのです。だからJOYというものがたんに快楽の追求みたいな話になってしまっていた今までの語られ方を見直して、むしろそこから建築の空間を語ることが重要だと考えています。
ちょっと住宅の話からずれてしまいますが、日本の建築家の多くが東京に集中しているけれども、代表作が東京にないという図式にはすごく違和感をもっていました。東京に住んでいる以上東京に代表作があってほしい。友達がよそから来たらすぐ案内できるとか、そういう感じがいいと思って、代官山あたりの小さいストリート系のブティックで低予算であっても、これは地元の仕事だからやらなきゃと思ってやっています。自分は作り手であると同時に生活者であることは建築家がデザインを決めるときのひとつの審査基準になるはずです。自分で考えておきながら、「お前、本当にここに住みたいか」とか、「こんな場所にいたいか」とかいうことを自問するわけです。ごくあたりまえの話ではありますが。
[二〇〇二年四月二四日 東京工業大学塚本研究室にて]

5──《ダスハウス》 (c)アトリエ・ワン

5──《ダスハウス》
(c)アトリエ・ワン

6──《ダスハウス》 (c)アトリエ・ワン

6──《ダスハウス》
(c)アトリエ・ワン

7──《ガエハウス》 (c)アトリエ・ワン

7──《ガエハウス》
(c)アトリエ・ワン

>塚本由晴(ツカモト・ヨシハル)

1965年生
アトリエ・ワン共同主宰、東京工業大学大学院准教授、UCLA客員准教授。建築家。

>永江朗(ナガエ・アキラ)

1958年生
フリーライター。

>『10+1』 No.28

特集=現代住宅の条件

>アトリエ・ワン

1991年 -
建築設計事務所。

>セルフビルド

専門家に頼らず自らの手で住居や生活空間をつくること、あるいはその姿勢。Do It...

>篠原一男(シノハラ・カズオ)

1925年 - 2006年
建築家。東京工業大学名誉教授。

>安藤忠雄(アンドウ・タダオ)

1941年 -
建築家。安藤忠雄建築研究所主宰。

>野武士

槇文彦によって「野武士」と呼ばれた日本のポストモダン世代。1970年代、住宅建築...

>難波和彦(ナンバ・カズヒコ)

1947年 -
建築家。東京大学名誉教授。(株)難波和彦・界工作舍主宰。

>ユニット派

建築批評家・飯島洋一が、世界に対する理念や「作家性」のなさ、日常世界に拘泥する若...

>石山修武(イシヤマ・オサム)

1944年 -
建築家。早稲田大学理工学術院教授。

>バラック浄土

1982年2月1日

>アニ・ハウス

神奈川県茅ケ崎市 住宅 1998年