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探偵、バイオメトリクス、広告 『マイノリティ・レポート』にみる都市の時間と空間 | 門林岳史
Detective, Biometrics and Advertisement: Time and Space of the City Represented in Minority Report | Takeshi Kadobayashi
掲載『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) pp.108-117

I-a

世界に一人の予知能力者がいると想定してみよう。彼は未来の出来事すべてを見通すことができ、その点で神のような存在であるが、しかし、ある一点において神から決定的に隔てられている。すなわち、彼は全知の存在ではあるが全能の存在ではない。神において知ることと行なうことが等価であり、いわば神は世界を創造することによって、その世界の知そのものを手に入れているのだとすれば、予知能力者には、未来は知識として与えられているのみで、そこに行動によって介入する術は与えられていない。なぜなら、そうした介入が許されるのだとすれば、彼があらかじめ持っていた未来の知識を覆す可能性を与えることになり、したがって、そもそも彼は予知能力者たりえないからだ。したがって、彼は、世界から隔離された一室で、あるいはデータ解析機に囲まれた椅子に固定され、あるいは羊水の中の胎児のようにプールに身を沈め、未来と過去が現在のうちに溶解した世界を夢のように経験し続けるばかりだろう。
さて、ここにもう二つばかりの想定を付け加えてみよう。まず、予知能力者が一人ではなく複数、例えば──双数的わたしとあなたな関係を超えた多数性を保証すべく──三人与えられていたらどうだろうか。もちろん、彼らはそれぞれ別個に、隔離されてはいるがまったく同一の未来の世界を経験するだけのはずだ。しかし、さらにもうひとつの想定を差し挟んだときに事情が変わってくる。つまり、彼ら以外に(最低限)もう一人、彼らの予知を知る権限を与えられた人間がいるのである。彼はむろんごく普通の人間、神とも予知能力者とも無縁の、半ば知り半ば行動する存在である。したがって、彼はある予知能力者の告げた未来を知り、それに基づいて行動することを許されている。このときに、彼が未来においてなしうる行動が、複数存在する予知能力者が経験する未来に対して及ぼす影響とはどのようなものだろうか──。
フィリップ・K・ディックの短編『マイノリティ・レポート』(一九五六)は、こんな想定の束から演繹されている。主人公ジョン・アリスン・アンダートンは三人のプリコグ(予知能力者)を抱える犯罪予防局の長官、プリコグたちのはじき出すデータに基づき、未来の犯罪者を犯罪が実行に移される前に逮捕する仕事に勤しんでいる。したがって、彼が専心しているのはいわばプリコグの告げる未来を確実に裏切り続けることであり、犯罪予防局は、その活動の理論的な根拠であるプリコグの知識を自ら無効にするというパラドックス的な使命を引き受けているのだ。小説ではこのパラドックスを埋め合わせるために「多重未来説」という仮説が差し挟まれているのだが、プリコグがアンダートン自身の犯罪を予知したときに事態は一層複雑になる。一人のプリコグが予知するアンダートンの未来の殺人行為はあらかじめアンダートンに知らされるので、そのアンダートンが知っているという条件が直ちに別のプリコグの予知にフィードバックされるだろう。しかし、二人目のプリコグが新たなデータをもとにアンダートンが殺人行為を思いとどまると演繹すると、今度はそれが三人目のプリコグにフィードバックされ……。
したがって、ここで三人のプリコグが演じているのは、ジャンケンで相手の手を読み合うようなもの、あるいはジャック・ラカンが描き出した三人の囚人のようなものである。ラカンの三人の囚人は、白三枚、黒二枚の計五枚の円盤からそれぞれ一枚ずつの円盤を背中に貼られ、自分の背中に貼られた円盤の色を当てれば釈放すると約束される。三人とも同じ白い円盤を貼られた囚人たちは、残り二人の背中に貼られた円盤の色から自分の背中に貼られている円盤の色についてそれぞれ別個に同じ推論をし、釈放を求めて同時に歩み出すだろう。自分が黒だったとすれば……/自分が白だったとすれば……。囚人たちが経験するのは複数の仮説と推論が瞬時に折り畳まれた時間である。このような時間性をラカンは「論理的時間」と呼んだ★一。ディックの描き出す三人のプリコグが経験しているのもまさしくこの「論理的時間」であり、彼らの予知のその都度の瞬間のうちに無尽蔵のデータと演繹が反響し振動しあっているのである。

I-b

『マイノリティ・レポート』が世界に関してなしている数々の想定から、もうひとつの系列を引き出しておきたい。ただし、今度は約半世紀後の映画版『マイノリティ・レポート』(スティーヴン・スピルバーグ監督、二〇〇二)からである。
原作と同じく映画においても、トム・クルーズ扮するジョン・アンダートンは自分が見当のつかない殺人を犯すと予知され、逃走を図ることになるが、その逃走劇は困難を極める。この作品が描き出す二〇五四年のワシントン D.  C.においては、虹彩のパターンによるID認証が徹底している。オフィスのエントランスで、地下鉄のホームで、ブティックの店頭で、至る所で市民は眼球をスキャンされ、身元を確認される──あるいは eye-dentされる──のである[図1]。こうした虹彩認証システムの用途はセキュリティや課金のみにはとどまらない。逃走中、アーケードを通り抜けるアンダートンに壁面ディスプレイと化した広告が語りかける。「砂漠での分岐点、レクサス……。ジョン・アンダートン、あなたは寂しい道を?」★二、「ジョン・アンダートン!  ギネスを一杯どうだい?」、「旅に出ましょう、ジョン・アンダートン。悩みが消えるわ」[図2]。
虹彩のバイオメトリクス(生体測定法)はその後のストーリー展開にも重要な役割を果たすことになるのだが、ここではそれとの関わりで描き出される都市表象そのものに注目してみたい。プリコグの夢見る未来の映像から、アンダートンの操る複雑な犯罪予防システムのディスプレイ、街路を埋め尽くす広告、さらにはフィルム状のディスプレイに化した新聞紙に至るまで──地下鉄で見知らぬ男性の広げる『USA TODAY』はアンダートンの事件を速報で届ける──、『マイノリティ・レポート』には極薄のイメージが溢れかえっている。それらのイメージは、近未来のワシントン D.  C.をいわば都市の皮膚のように覆っているのである。一方で個人の身体はと言えば、顔立ちや体つきといった外観は、もはやその人物の内面を雄弁に物語るものではなくなっている。虹彩認証が徹底している以上、肉眼で識別可能な個人の身体的特徴はさしたる意味を持たない★三。そこでは個人の身体はID認証のための記号にすぎないのである。実際、後に地下に潜って眼球交換手術を受けたアンダートンは、手術後立ち寄ったブティックで初めて、移植された眼球の身元を知ることになるだろう。ID認証を済ませた彼にエントランスのディスプレイはこう語りかけるのである。「ヤカモト様、GAPへようこそ。先日のタンクトップはいかがでしたか?」。
個人の外面がその内面について語りかけることをやめ、そのかわりに都市の外面を覆うイメージ群が通り過ぎる人たちの潜在的欲望について雄弁に語り始める世界。そこでは都市の身体と個人の身体はトポロジカルに反転している。記憶は個人の身体の内部にはない。それは外化され、集合的身体としての都市の中枢たるコンピュータ・ネットワークにストックされている。そして、充溢した意味を内部から抜き去られた個人の身体は、偶発的な記号と化し、都市がストックするデータへのアクセス権を発行するのみなのだ(ついでながら、仕事から帰宅したアンダートンが、ドラッグを吸引しながら、コンピュータから呼び出した過去の映像データを壁面にホログラフィ投影し、亡くした息子と別れた妻の思い出に耽っていたことを思い出しておこう)。

1──地下鉄ホームの虹彩認証装置 引用出典=『マイノリティ・レポート』(20世紀フォックス)

1──地下鉄ホームの虹彩認証装置
引用出典=『マイノリティ・レポート』(20世紀フォックス)

2──アーケードの都市広告 引用出典=『マイノリティ・レポート』(20世紀フォックス)

2──アーケードの都市広告
引用出典=『マイノリティ・レポート』(20世紀フォックス)

II

ここまでで私は、小説と映画、二つの『マイノリティ・レポート』からそれぞれひとつずつのトポスを引き出してきた。すなわち、一方ではプリコグたちの経験する論理的時間、他方では都市における身体のトポロジカルな反転。それぞれ時間と空間に関わるこれら二つの転位は、都市の経験において密接に絡み合っているのではないだろうか。この問いにイエスと答えてみることがこの論考の賭けである。そして、これら二つのトポス──あるいはむしろトポスのねじれ──の交錯する地点に留まり続けることによって、『マイノリティ・レポート』という作品の理解に貢献するのみならず、近代都市の経験の身体論的な条件にもわずかながらの光を当てることができれば、と考えている。
では、警察都市の中枢、いわばその子宮のような場所でプリコグたちが経験する時間と、広告都市の末梢において都市の身体と個人の身体が日常的にかわすコミュニケーションは、実際のところどのように関わっているのだろうか。それを明らかにするために、以下に探偵、バイオメトリクス、広告の三つのモティーフに即して『マイノリティ・レポート』における近代都市の系譜を描き出してみたい。

II-a 探偵

まず、二つの『マイノリティ・レポート』は、いずれもある種の推理ものであることを確認しておこう。すなわち、両作品はともに、主人公ジョン・アンダートンが自分の未来の殺人の動機を探ることをその明白な主題としているのである。映画版はフィルム・ノワールを喚起させる映像で彩られているのだが、両作品はそのプロットにおいても、巻き込まれ型の探偵ものというフィルム・ノワールにおいて反復された主題を継承している。すなわち、アンダートンは、自分が未来に殺人を犯すと予知されることによって事件へと巻き込まれていくのである。もちろん、名誉と大義にかられて行動するアンダートンは、幾多の困難を鍛えられた肉体によってくぐり抜けるハードボイルドではあるが、オーギュスト・デュパンやシャーロック・ホームズのような古典的な探偵像からは程遠い。彼には事件の核心を瞬時に見通す隻眼は与えられておらず、むしろその点においてこそ、フィリップ・マーロウやサム・スペードといったハードボイルド探偵の継承者と見なすことができるのだ。その代わりに本作品には、古典的な探偵をその核心において体現する形象が与えられている。それが、人知を越えた能力を与えられたプリコグであり、それに対してアンダートンはむしろワトソンの位置にいる★四。
したがって、ここには古典的探偵とフィルム・ノワール型探偵の二つの形象が導入されている。これら二つの形象は、前節で描き出した都市の時間と空間の二つのトポスにそれぞれ照応していないだろうか。例えば田中純は、ジョアン・コプチェクに沿いながら、古典的推理小説の空間とフィルム・ノワールの空間を以下のように分節化している。

[古典的推理小説の]屍体の残された密室というアレゴリーによって表わされる一九世紀的室内が、痕跡の際限のない解釈へと差し向けられ、ついに最後の言葉に辿り着くことのない、欲望に支配された不完全な空間であるのに対して、フィルム・ノワールの遺棄された都市は、そんな痕跡を残すことが不可能な、享楽の場当たり的論理に従ってブリコラージュされた断片的空間からなる、矛盾して一貫性を欠いたパッチワーク状の空間である★五。


ここで田中の述べる一九世紀的室内とは、屍体の残された密室とともに、デュパンやホームズの住まう親密な室内によっても例証されるような私的空間である。あるいはむしろ、両者の通底ぶりこそが、古典的推理小説の隠された論理を正確に言い当てているのではないだろうか。すなわち、屍体の残された密室は、その私的性格ゆえに人を無際限な解釈へと誘うのであるが、古典的探偵がそうした解釈に長けているのは、彼が親密な室内に身を潜め、外部の空間に渦まく欲望と転移の連鎖から自らを切り離す術を心得ているがゆえなのである。そして、この私的空間に展開された他者の欲望を解釈する時間こそが、前節で言及した「論理的時間」である。「論理的時間」とは、密室という私的空間へと展開された欲望の連鎖のように、換喩的に展開される時間の総体を空間的に把握する経験にほかならない。ラカンがエドガー・アラン・ポーの短編『盗まれた手紙』の読解を通して示そうとしたのはこうした事柄であった★六。
『盗まれた手紙』には、デュパンの技法を例証するものとして、「丁半遊び」で相手の裏をかくことに長けた子供の逸話が挿入されている。この子供の方法とは「相手の賢さを観察し推し量る」ことであり、この推量の時間はもちろん、背中に円盤を貼られる三人の囚人の経験する時間と厳密に同じ時間性である。そのトリックは、突き詰めてみれば、時間的な連鎖を空間的に展開し、そのことによって一瞬のうちに連鎖の総体を把握する術にかかっている。すでに述べたように、プリコグの予知の時間性も、このようにして瞬時に連鎖の総体が振動する時間である。
かくしてプリコグの経験する「論理的時間」が古典的探偵の推理の時間とも同形であるならば、彼らの住まう都市の子宮めいた場所こそ、古典的推理小説の空間をもっとも純粋に形象化しているのだ、とまで言いたくなる。なぜなら、プリコグの住まう空間は、『マイノリティ・レポート』の描く近未来都市においてもっとも厳格に公共空間から切り離された私的空間であり、かつ、そこは都市のトラウマとしての殺人事件があらかじめプリコグによって夢見られる空間でもあるからだ。したがって、プリコグの住まう空間とは、探偵の住まう室内と屍体の残された密室という古典的推理小説において通底しあう二つの空間を厳密に一致させたものであり、そのことによって『マイノリティ・レポート』は古典的探偵の抱えるパラドックスを根本的に解決しているようにも思われるのだ。
繰り返し指摘されてきたように、古典的探偵が、トラウマ的な殺人事件を並外れた知性によって解決し、都市空間の象徴秩序のほころびを埋め合わせる存在だとすれば★七、プリコグとは、都市のトラウマを自らの身体のうちにあらかじめ受肉し、それを夢によって告げる存在である。古典的探偵の技法は、事件の構成する欲望の連鎖の把握にかかっているのだが、であるがゆえに、そうした連鎖に自ら転移してしまうことから身を守る術が彼には必要とされる。彼が捜査の報酬として金銭を要求するのはそのためであり、それは、精神分析家が治療の報酬として金銭を受け取るのとまったく同じ理由である。探偵は、都市のトラウマにもっとも深く転移する術をもっているが故に、そこから身を引き離すことも心得ていなければならないのである。プリコグはこうした古典的探偵のノウハウをさらに一歩進めている。彼らは都市のトラウマを全面的に自らの身に引き受け、そして、同時に空間的にはそこから徹底的に遮断されている。あるいはむしろ、プリコグの住まう空間こそが、数々の殺人現場をすべて凝縮しているトポスなので、彼らは実際の事件の現場には足を運ぶ必要すらないのだ。その役回りは、フィルム・ノワール的な探偵たるアンダートンが引き受けることになっている。
さて、ここまでで『マイノリティ・レポート』にみる古典的推理小説の空間(にして時間)を分析してきたのだが、一方でフィルム・ノワールの空間のほうはどうだろうか。いままでに分析してきたことを振り返るならば、これに関しては多言を要さないだろう。屍体の残された密室という古典的推理小説の空間が、都市空間の象徴秩序のほころびをそれ自体として形象化したトポスであるとスラヴォイ・ジジェク風に理解するならば、フィルム・ノワールの場当たり的でブリコラージュ的な都市空間においては、そうしたトポスが一所に安定して場を占めることをやめ、辺りかまわず遍在している。だからこそフィルム・ノワールの数々のヒーローは、そんな多孔性の空間をあてどなく彷徨わなくてはならないのであり、それはアンダートンに関しても同じことである。したがって、『マイノリティ・レポート』の都市空間とは、フィルム・ノワールの空間を古典的推理小説の空間にトポロジカルに重ね合わせたものであると言うことができるだろう。フィルム・ノワール的に遍在し、換喩的に連鎖する数々の都市のトラウマは、プリコグの空間によって束ねられ、隠喩的に埋め合わされる。フィルム・ノワールのブリコラージュ的空間はそのようにして秩序だった公共空間へと回復させられるのだが、それこそが古典的探偵小説が取り戻そうと試みたものであった。プリコグはこうした埋め合わせの代償として産み落とされた存在であり、映画において彼らが都市の子宮に浮かぶ胎児のように形象化されているのも、このような方向性で理解しなければならない[図3・4]。

3──都市の胎児としてのプリコグ 引用出典=『マイノリティ・レポート』(20世紀フォックス)

3──都市の胎児としてのプリコグ
引用出典=『マイノリティ・レポート』(20世紀フォックス)

4──都市の胎児としてのプリコグ 引用出典=『マイノリティ・レポート』(20世紀フォックス)

4──都市の胎児としてのプリコグ
引用出典=『マイノリティ・レポート』(20世紀フォックス)

II-b バイオメトリクス

映画に登場する虹彩認証システムは、『すばらしい新世界』(オルダス・ハクスリー、一九三二)や『一九八四年』(ジョージ・オーウェル、一九四九)以来反復されてきた近未来のディストピア的な管理社会を現代的に演出しなおす小道具のひとつである。もっとも、眼球のスキャンによるID認証は、『マイノリティ・レポート』におけるほど包括的に空間を覆い尽くしているわけではないけれども、八〇年代頃から『スター・トレック』や『007』などで反復的に表象されてきたモティーフである。それは、現実世界のほうでも今となってはまだ実現を見ていないSF的なテクノロジーというわけではない。虹彩パターンの固有性は一九三〇年代頃から注目され始めたとされるが、一九八七年に二人の眼科医アラン・サフィールとレオナルド・フロムが虹彩パターンのID認証への利用を特許取得したときから事態は急速に進み始める。一九八九年に二人はコンピュータ科学者ジョン・ドーグマンに虹彩認証のアルゴリズムの製作を依頼し、それを受けてドーグマンは虹彩パターンを五一二バイトのコードに書き換えるアルゴリズムを開発、その特許を一九九四年に取得する(現在はイリディアン・テクノロジー社が保持)。虹彩認証が初めて実用化されたのは、一九九六年に米国ペンシルヴァニア州ランカスター郡立刑務所に設置されたときである。その後、二〇〇一年の米国同時多発テロ事件を受けて、二〇〇二年頃から世界中の空港や政府機関、病院などで試験的な運用が始まっている。現在、虹彩認証システムはイリディアン・テクノロジー社のライセンスのもと、LG電子、沖電気、松下電器などが製造しており、二〇〇五年に特許の期限が切れるのを受けて、装置の低価格化に伴い一気に普及が進むと予測されている★八[図5]。
個体の特定にあたって人体の偶発的な細部に着目するこうした技術の系譜は、虹彩認証に限定しなければもう少し遡ることが可能だ。よく知られるように、フランスの犯罪学者アルフォンス・ベルティヨンは、人体各部の寸法計測と司法写真によって個体を識別する「ベルティヨン方式」と呼ばれる手法を考案し、それは一八八二年にパリ警察庁に採用された。これが近代におけるバイオメトリクスの起源とされている。しかし、より重要なステップは、一八九七年、当時のイギリス植民地ベンガル警視庁監視官エドワード・ヘンリーによって完成され、その後ロンドンやパリを初め世界中の警察に取り入れられるようになる指紋捜査法である。
一八五八年に現地住民との雇用契約書にサインの代わりに手形を使い始めたベンガルの行政官ウィリアム・ハーシェルや、一八七四年に来日して布教活動と医療活動に携わる傍ら、大森貝塚から出土した土器の研究から指紋に関心を持ち始めたヘンリー・フォールズなど、先行する例はあるものの、指紋が生涯不変の身元特定の指標であると主張し、その体系的な分類法を初めて提示したのは、一八九二年に『指紋』を著した遺伝学者フランシス・ゴルトンであるとされる★九。前述のヘンリーによる分類法もゴルトンの方法を改良したものである。ゴルトンの提唱した指紋識別法がベルティヨン方式の人体計測に対して持つ優位性はひとえに、人体各部の寸法や形状が生涯にわたって変化し続けるのに対して、指紋の形状はそうした変化を免れ、終始一定であり続ける点にかかっている。ベルティヨン方式は、人体をその細部にわたって計測し、そのことによっていわば個人をその全体性において表象することを目指すものであった。その点においてベルティヨン方式は、顔貌の外面的な特徴からその背後にある不変の内面的な資質を読み解くヨハン・カスパル・ラヴァター以来の観相学の伝統を引き継いでいる。ベルティヨン方式の失墜とそれに代わって台頭する指紋捜査法は、このような内面と外面、あるいは精神と身体の幸福な一致が不可能となった時代の到来を告げている。このとき以来、身体は、その全体において精神を表象する記号であることをやめ、その代わりに浮上した新たな記号の体制においては、偶発的な細部こそが雄弁に何事かを物語り始めるのだ。
耳たぶや爪、手足の指の形といった些末な細部に着目するジョヴァンニ・モレッリの贋作鑑定方法が、精神分析の方法に、そしてホームズの方法に範例を与えているというカルロ・ギンズブルグの主張は、今ではよく知られている★一〇。一八七〇年代に偽名で掲載された一連の論文により公にされたこの方法は、ギンズブルグが述べる通り、明らかに指紋鑑定法をベルティヨン方式から分け隔てるものと同じ転位を被っている。細部とは意識を逃れるものであり、だからこそそれは、精神分析家にとって、そして探偵にとって、重要な手がかりとなる。それは患者や犯人の意識が隠しても隠しきれない何事かを告げているのであり、精神分析家と探偵とはそうした徴候を読解する知を持っている存在なのだ。それは、意識が精神の全体を表象することをやめ、その隙間から無意識と呼ばれる領域が漏れ始める時代に初めて可能となった知であり、したがって、身体がその全体において精神をもはや表象しないことを告げる指紋鑑定法と同じ位相にある。徴候がもはや意識とは名指されえないある領域に合図を送るのと同様に、指紋もまた、もはや精神と照応しその受苦を表象することのない肉の塊を特定するばかりなのだ。
しかしながら、指紋や虹彩が特定する身体が送り返す記号の体制は、徴候が開示している、現実界と呼ばれたりもする領域と同一というわけではない。バイオメトリクスによって身体から送り返される領域は、純粋な登記の領域、その個体の犯罪者としての来歴その他にすぎない。精神分析の知や探偵の知が、その際限のない解釈によって原光景を明るみに出し、そのことによってかろうじて主体らしきものを回復させるのだとすれば、バイオメトリクスの知はそうした想像的な主体の回復すら望んではいない。バイオメトリクスが身体と照合する領域は断片的なデータの集積でしかなく、それはむしろフィルム・ノワールの都市空間に似ている。ダーウィンの従弟であり、優生学の名付け親として悪名高いフランシス・ゴルトンは、個体を越えてまで継承される人間の高貴な質への信念に駆られていたはずであり、そんな彼がバイオメトリクスの知を切り開いたのは皮肉な事態であったと言わなければならないだろう。

5──LG電子の虹彩認証装置 引用出典=http://www.iridiantech.com/

5──LG電子の虹彩認証装置
引用出典=http://www.iridiantech.com/

II-c 広告

虹彩認証によって特定された個人に向けて呼びかけてくる路上広告。これもまた、映画『マイノリティ・レポート』において近未来都市を演出する豊かな小道具である。作品内で取り立てて説明が加えられることはないが、こうした広告システムがどのように機能しているのか想像力を膨らましてみることは容易である。すなわち、虹彩認証システムが広告の前にいる個人を特定すると、データベースにアクセスしてその個人の性別、年齢、嗜好、購買歴、その他諸々の情報を引き出し、それにふさわしい広告を発信する、といった具合だろう。しかし、こうした広告のあり方は、現在私たちがインターネットの商用サイトを開くたびに経験していることではないだろうか。例えば試みにAmazon.co.jpを開くとそこにはこんなメッセージが表示される。「こんにちは、門林岳史さん。おすすめ商品があります」。多くの商用サイトやそこに埋め込まれたバナー広告は、ブラウザにユーザのアクセスしたサイトやその頻度などを記録させるCookieの技術を用いており、Cookieに記録された情報をもとに、そのユーザに「適した」情報を発信しているのである。したがって、『マイノリティ・レポート』において個人の身体が虹彩のランダムなパターンに還元されているように、商用サイトは個人をCookieファイルの文字列に還元してしまう。しかし、『マイノリティ・レポート』における都市広告の表象が現代のインターネット社会を反映していると言うだけではおそらく不十分だろう。広告と身体の関係はもっと根が深い。そのことを確認するためには近代広告の歴史を一瞥する必要がある。
論者によって若干のずれはあるものの、近代的な広告のスタイルはおよそ一九世紀末から二〇世紀前半にかけて成立したとされる。ここで「近代的」とされる広告をそれに先行する広告から分かつものは、一九二〇年代から三〇年代にかけてのアメリカにおける広告の変遷を辿ったローランド・マーチャンドの言葉を借りるなら、その焦点の「商品」から「消費者」へのシフトとして要約することができる★一一。すなわち、近代的広告は、もはや商品の特徴や利点、経済性などを訴えることをやめ、その商品を所有し消費する生活そのものをパッケージし始めるのである。例えば米国の代表的な広告代理店のひとつ、J・ウォルター・トンプソン社は、一九二六年一一月一一日付けの社報でそうした広告の技法を次のように要約する。「商品を売るには言葉を売らなければならない。実際、われわれはさらに先に進んで、生活を売らねばならないのだ」★一二。広告が表象しているのは、このようにしてパッケージされた近代都市の生活である。「社会の鏡」としての広告というクリシェもこの意味で理解することができるが、それは正確な表現ではない。なぜなら、広告において表象されているのは、現実の都市生活ではなく、そこに向けて消費者の欲望が駆り立てられることが狙われた理想的な近代都市の姿だからだ。消費者は、そのようにして広告が提示する都市生活の夢を享受することで、現実の都市社会における不安と軋轢を想像的に乗り越える。
このように広告が近代都市において持つようになった治癒的な効果に伴い、広告業の社会的地位も向上を見ることになった。サーカス王P・T・バーナムに代表されるような一九世紀のアントレプレナー文化から育成されてきた広告業は、今や人も羨むスマートなインテリの業種となる。雑誌の広告スペースのブローカーに過ぎなかった一九世紀の草分け的な広告代理店から、新たな価値を生産する匿名の商業芸術家としてのコピーライターが登場する。かくして、近代都市を彩る形象として探偵にも比肩する、シティスリッカーとしての広告マンが誕生するのである。
ところで、先に私は、都市の病理を想像的に埋め合わせる形象としての探偵について論じたのだったが、広告がもたらす治癒効果もそれと同様、想像的なものである。広告は、消費者がその内面において抱える病理を根本的に解決するわけではない。その代わりに広告は理想の生活を描き出し、それを選択することを消費者に提案するのだ。広告におけるそうした都市生活の表象を選択することにおいて、消費者は、そのような生活に対する欲望をも選択する。つまるところ広告において提示されているのは、さまざまなオプションを備えた欲望キットである。消費者に促されているのは、そうしたオプションから一連の欲望を選びとり、それに自分の身体を一致させることなのだ。今日インターネットの商用サイトにおいて私たちが日々経験していることも、こうした近代的広告のメカニズムの延長上にある。ボタンをクリックしページをめくるたびに、私たちは身体にさまざまな欲望をインストールしていく。Cookieに残されたデータとはそんな身体加工の痕跡にほかならない。
したがって、近代広告における身体のトポロジカルな反転は、バイオメトリクスにおけるそれと厳密にパラレルな関係にあることがわかるだろう。バイオメトリクスにおけるのと同様、広告が生産するのもまた、内面を欠いた身体である。内面を満たすと信じられている欲望は、実際のところ外から備給されている。身体は、精神を世界とつなぎ止める繋留点であることを止め、都市空間を浮遊し始める。ここから『マイノリティ・レポート』におけるバイオメトリクスと広告の相補的な関係が的確に理解されるだろう。すでに見たように、バイオメトリクスにおける身体性とは、内なる精神を表象することを止め、偶発的な細部と化した身体である。虹彩認証で特定された身体に語りかけてくる都市広告は、そんな空っぽの身体に欲望を充填する。バイオメトリクスは、その代補として広告を必要としている。

III

これまでに私は、『マイノリティ・レポート』を時間と空間の二つの主題、そして探偵、バイオメトリクス、広告の三つのモティーフに沿って読解してきた。もちろん、このようにして作品を複数の主題とモティーフに拡散させることがこの論考の目的ではないのだから、最後にそれらのモティーフ群の布置がどのように近代都市における時間と空間という主題を描き出しているのか簡潔にスケッチしておきたい。
まず、バイオメトリクスと広告という二つのモティーフの連関を確認しておこう。それらがそれぞれ、管理社会としての都市表象と消費社会としての都市表象に対応しているのは明白である。そして、それらが都市における身体の経験において相補的な機能を果たしているのはすでに見た通りであった。このようにして映画『マイノリティ・レポート』においては、管理社会と消費社会がコインの裏表のようにぴったりと貼り付いている。だとするならば、管理社会と消費社会の両者をつなぎ止める蝶番、あるいはそれらを縫い合わせる糸として、プリコグという形象を考えることはできないだろうか。
そこで、古典的推理小説の私的空間とフィルム・ノワールのブリコラージュ的空間という着想をもう一度思い出しておきたい。バイオメトリクスと広告が相補的に紡ぎ出す都市空間が、フィルム・ノワールの空間に対応していることを見て取るのは容易である。都市はいまやそれ自体が巨大なコンピュータ・ネットワークと化していて、中身を失った身体は、そうしたパッチワーク状の都市空間の内部を通り抜けることで、常に新たにパッケージされ続けるのである。プリコグの経験する論理的時間は、探偵の推理の時間によっても例証されるけれども、それと同時に、都市の身体としてのコンピュータ・ネットワークが演算を遂行する時間の隠喩としても捉えられる(実際、小説において、三人のプリコグのシステムはコンピュータによる検証システムに喩えられている)。
そのように考えるとき、映画でプリコグが薬物中毒者によって産み落とされたミュータントとして描き出されていることは意味深長である★一三。近代都市の生んだ聖なるアブジェクトとしてのプリコグは、文字通り都市の公共空間から排除された密室──映画中、それは「寺院(temple)」とも呼ばれている──に閉じ込められ、しかし、そのことによって都市空間を縫合するマスター・シニフィアンとなる。また、ミュータントとしてのプリコグという設定は、薬物中毒者の産む統合失調症の幼児をも想起させるだろう。ディックは一九六五年の「分裂病と易経」と題されたエッセイにおいて、分裂病とLSD、易経の占いの経験を、シンクロニシティという時間性にまとめあげている★一四。自らの創作活動に応用するほどに易経に傾倒していたディックだが、彼の作品に繰り返し登場するプリコグたちもまた、易経の時間と同じシンクロニシティのうちにいるというのである。ディックは『ジョーンズの世界』(一九五六)に登場するプリコグについてこう述べる。「プリコグであることによって、最終的にジョーンズは行動する力を完全に失ってしまう。彼の才能によって解放される代わりに、麻痺させられてしまうんだ。分かる?」。ディックのこの言葉は、『ジョーンズの世界』にもまして、密室に閉じ込められた『マイノリティ・レポート』のプリコグたちに当てはまる。このように六〇年代アメリカのカウンターカルチャーへと想像を膨らましてみることで、プリコグの経験する時間について本論考とは別の線を描き出すことができるに違いない(そう考えてみれば、映画でプリコグたちの世話をするネリー[ダニエル・ロンドン]の、時にはアロハ・シャツとショートパンツ、時には白衣で現われる姿は、イルカを飼育するニュー・サイエンティストに似てはいないだろうか)。
しかし、それは示唆するにとどめておきたい。いずれにせよ、与えられたモティーフを網羅し作品の真実を告げることは本論考の目的ではないのだから、作品に表象されるいくつかのモティーフの読解に即して近代都市の身体論的条件を幾分でも照らし出すことができればそれで十分だ。そこで、最後に結論にかえてもうひとつだけ観察を付け加えておこう。都市の身体を束ねるマスター・シニフィアンとして聖別されたプリコグの身体に加えて、多孔性の都市空間を代理表象するもうひとつの場所を付け加えることをこの映画は忘れていない。それは、「ハロ(光輪)」と呼ばれる器具を頭部につけられて不能にされた未来の殺人者の収容所である。カプセル状の容器に直立不動のまま閉じ込められた彼らの身体は、正確にプリコグの身体のネガである[図6・7]。都市において身体が経験する時間と空間は、これら両極の不具の身体の間にある。

6──未来殺人者の収容所 引用出典=『マイノリティ・レポート』(20世紀フォックス)

6──未来殺人者の収容所
引用出典=『マイノリティ・レポート』(20世紀フォックス)

7──未来殺人者の収容所 引用出典=『マイノリティ・レポート』(20世紀フォックス)

7──未来殺人者の収容所
引用出典=『マイノリティ・レポート』(20世紀フォックス)


★一──ジャック・ラカン「論理的時間と予期される確実性の断言」(『エクリI』宮本忠雄ほか訳、弘文堂、一九七二、二六一─二八六頁)、およびジャック・ラカン、ジャック=アラン・ミレール編『フロイト理論と精神分析技法における自我(下)』(小出浩之ほか訳、岩波書店、一九九八、一七一─二〇四頁)参照。
★二──レクサスは北米を中心に市場展開しているトヨタの高級車ブランド。
★三──『ガタカ』(アンドリュー・ニコル監督、一九九七)の描く、遺伝子のバイオメトリクスの浸透した世界において、主人公ヴィンセント(イーサン・ホーク)はけっして似ているとは言えないユージーン(ジュード・ロウ)に成りすます。ヴィンセントはユージーンの身体の痕跡を体中にまとっており、そこから抽出される遺伝情報の照合は、ID認証の度にディスプレイに映し出される顔写真の照合よりも信頼度の高い身元の保証を与えるのである。
★四──もちろん、プリコグの能力は、推理に超自然的な能力を導入してはならないとする、多くの推理小説の定義に反している。ここで問題にしたいのはそうした説話論的規則ではなく、推理の時間の論理構造における類似性である。
★五──田中純「逆説都市──室内の幻像からノワールの宇宙へ」(『都市表象分析I』INAX出版、二〇〇〇、一八五─二一〇頁)。引用箇所は二〇四─二〇五頁。
★六──ラカン「盗まれた手紙についてのゼミナール」『エクリI』五─四七頁、および『フロイト理論と精神分析技法における自我(下)』三─五四頁参照。
★七──スラヴォイ・ジジェク「欲望の〈現実界〉を避ける二つの方法」(『斜めから見る──大衆文化を通してラカン理論へ』鈴木晶訳、青土社、一九九五、九七─一二九頁)、ジョアン・コプチェク「密室/わびしい部屋──フィルム・ノワールにおける私的空間」(『わたしの欲望を読みなさい──ラカン理論によるフーコー批判』梶理和子ほか訳、青土社、一九九八、一九九─二四〇頁)、田中前掲論文など。
★八──以下のホームページなどを参照。John G. Daugman,
”High Confidence Visual Recognition of Persons by a Test of Statistical Independence,” IEEE Transactions on Pattern Analysis and Machine Intelligence 15, 1993, pp.1148-1161 (available at http://www.cl.cam.ac.uk/users/jgd1000/iris_recognition.html); http://ctl.ncsc.dni.us/biomet%20web/BMIndex.html; http://www.iridiantech.com/index.php.
★九──橋本一径「個を表象すること──一九世紀ヨーロッパにおけるアイデンティティを宿す身体の誕生」(『表象文化論研究』一、二〇〇三、一八─四三頁)。
★一〇──カルロ・ギンズブルグ『神話・寓意・徴候』(竹山博英訳、せりか書房、一九八八)一七七─二二六頁。
★一一──Roland Marchand, Advertising the American Dream: Making Way for Modernity, 1900-1940, University of California Press, 1985. Jackson Lears, Fables of Abundance: A Cultural History of Advertising in America, Basic Books, 1994. 北田暁大『広告の誕生──近代メディア文化の歴史社会学』(岩波書店、二〇〇〇)も参照。
★一二──Marchand, P.20.に引用、強調は原文による。
★一三──原作においてもプリコグはミュータントであるが、その原因ははっきりとは描写されていない。もっとも、ディックのほかの多くの作品と同じく、描かれるのは世界戦争後の未来世界であり、そうしたコンテクストでは核爆弾によって産み落とされたミュータントと推測することができる。
★一四──Philip K. Dick, ”Schizophrenia and the Book of Changes,” Niekas 11, 1965 (available at http://www.geo cities.com/pkdlw/schizo.html).

>門林岳史(カドバヤシ・タケシ)

1974年生
関西大学准教授。表象文化論・メディア論。

>『10+1』 No.40

特集=神経系都市論 身体・都市・クライシス

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年 -
表象文化論、思想史。東京大学大学院総合文化研究科教授。

>アルゴリズム

コンピュータによって問題を解くための計算の手順・算法。建築の分野でも、伊東豊雄な...

>北田暁大(キタダアキヒロ)

1971年 -
東京大学大学院情報学環准教授/社会学。