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空間のレイアウト/情報のレイアウト──有機的建築への筋道 | 塚本由晴+仲隆介 聞き手+中西泰人 聞き手+本江正茂 聞き手
The Layout of Space /The Layout of Information: A Thread to Organic Construction | Tsukamoto Yoshiharu, Ryusuke Naka, Yasuto Nakanishi, Motoe Masashige
掲載『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) pp.65-74

1    映像による展示空間

仲──この度、「建築と情報の新しいかたち」という特集にあたって三人の方にインタヴューをお願いしました。一人は従来の正統派アーキテクトに、次いでインターフェイスの研究者にそれぞれ情報と建築の融合を模索している研究者がインタヴューします。この塚本さんの対談はその建築系と情報系[インターフェイス・デザイン]の間をつなぐものとして位置づけています。建築と情報は融合しつつあるのか、あるいはその接点は何なのか。はじめに塚本さんが関わられている博物館について、情報系のことをどのように意識されているのか、そのあたりからお話を頂きたいと思います。
塚本──この建物は博物館と言えるものかどうかわからない公園内にあって公園の一部をなすような施設です。いわゆる展示物があらかじめあるというよりは、ここでのワークショップなどの活動を通して緑についてのアーカイヴを作っていこうということでした。それでできるだけフリーな場所を残していくために空間の中に映像が浮かんでは消えたり、利用者とのインタラクションを起こしたり、活動の変化にあわせて内容も更新できるものにしたいと思いました。
本江──そういった形式はあらかじめ与えられていたんですか。それとも、設計側の希望?
塚本──施設の委員のなかに、そういうことを考えた人がいたのです。もちろん、僕らもインタラクティヴなメディア・アートへの関心はあります。
中西──映像を展示するという与条件があったというわけですね。そういう与条件や敷地があったとき、映像に満ちあふれた空間を作る場合と、普通にオブジェクトを展示するための美術館を作る場合とでは出来上がってくるものは違うのではと思いますが、今回は、どういった事からあの空間になったんですか?
塚本──「成長する建築」というのが施設の理念としてあって、公園の中央にある芝生広場を囲むように円弧状に建物を建て増していくことが想定されていました。さらに建物の特殊緑化技術を実践する場として、屋上を大々的に緑化したいということで、土を結構載せることになる屋根が前提になった。使い方から考えると、閉じた部屋も必要なので、部屋をシリンダー状にして、大きさ、形を微妙に変えながら適宜配置していき、それを柱にして屋根をかけるということを考えた。シリンダーがプランターボックスのようにもなるから大きな木も植えられる。シリンダーとシリンダーのスパンに応じて屋根の隆起が自然に変わる架構形式とすることで、屋上には自然なアン・デュレーションが現われることになりました。屋根架構はシリンダーから外側に向かって木の枝のように広がり、それが干渉しあってスパイダーネットのようになる。大きな屋根が一つの単位としてあるのではなく、単位としてのストラクチャーが木のようにあって、それが融合して全体になるというイメージです。
本江──部分部分の中にインタラクティヴな映像があるというのはどれくらい想定されているのでしょうか?
塚本──僕らはこの施設の内部空間を、公園の中、森の中を歩いているようにできないだろうかと考えてきた。そういうルーズな空間の中に壁で仕切るのではないテンポラリーな場所を作っていくという方法のひとつとして、シリンダーや床の一部に大きく映像が使われています。余談ですが。屋外の延長なので、エアコン無しで成立させようと温熱シミュレーションも結構やりましたが、梅雨の時期などはかなり厳しいので、じゃあ半分のエリアだけつけましょうということになりました(笑)。
本江──森の中を歩いているような感じにしたいから、シリンダーを樹木のようにズボーっと立てるというのはわかる気がします。冬の森のように葉っぱがない。でも美術館だから花にあたる展示物があるわけでしょう。ほとんどの人は花を見にくるわけじゃないですか。
塚本──もちろん物の展示もやりますが、どちらかというとワークショップや講議、講演会を聞くといった参加する活動が多いですね。展示はどちらかといえば企画展が多い。だから中身が変わっていく。
本江──花に当たるものの違いは、建築の作り方とも関係してくるわけですね?
塚本──展示物が最初から決まっていれば、展示物で空間を作っていけるのですが、映像のためにはかたちというよりは珪藻土などの仕上げのテクスチャーや室内の照度分布などを検討しています。
本江──映画館を作って、なにが上演されるかは知ったことではないと?
塚本──そこまで言うつもりはありません。映画館であればもっと映像を見せる性能を追求しなくてはならないでしょうね。そうではなくて、環境の一部のようなものを作ろうとしているから、見たい人は見ればいいし、見たくない人は木漏れ日かなと感じてくれていればいい。
本江──びっくりしてみんなが目を奪われるような強い映像ではない。
塚本──それ程強くない。だってどうせみんな見ないでしょう(笑)。
本江──しかし、白茶けた柱の周りをウロウロ歩くことが楽しいということも普通はないでしょう(笑)。
塚本──これまでなかった施設なので、なにが決定的なものになるのかずいぶん模索しました。

塚本由晴氏

塚本由晴氏

2    「時空間ポエマー」の体験

本江──例えば椅子を提供するのであれば、その空間の中でユーザーの反応がどのように返ってくるかというのは想像がつくと思うんです。そういった場合と、インタラクティヴだとはいえ映像のような寄る辺のない情報が提供されたときとの差、違いは何だと思いますか。
塚本──映像にも即物性はあります。映像によってそこに距離や向きが出来るなら、それは空間に影響している。それは家具と同じことだと思います。家具によって人間の向き、距離を作ることが出来ます。そういった働きは映像にもある。あまりに近付き過ぎると見えないなど、なにかしら距離が出てくる。そのことを使って、展示物を見ている人が展示物の一部になることを考えようとしました。人間の位置関係自体のあり方が面白く思えるのが重要だと思っています。僕らが最近アートの展覧会でやろうとしていることでもありますが、それは人間のレイアウトをどう作っていくかということです。
本江──僕らも六本木のTHINKZONEでやった「時空間ポエマー」では映像を床に映しました。これはGPS付携帯電話から投稿された写真が地図上に出るというものです。この場合は、六本木周辺の地図が出て、ここが六本木の交差点だねとかいいながら、地図の上に写真を貼っていくわけです。街がきゅっと小さくなったその地図の上を歩くというのは面白い体験でした。微妙にうつむいたり、しゃがんだりしている人のレイアウトは結構楽しいものです。この「時空間ポエマー」は五月に仙台でアーケードのある商店街でもやりました。この時は、アーケードの上にプロジェクターを二機つけてやったのですがなにしろ屋外ですから明るくてなかなか辛かった。でもそれなりに人通りがある場所の地面に地図が投影されていて、そこに有名なお店や変な看板が映っていたりするわけです。足下に映像を見るというのは普段あまりないことなので、そこだけ不思議な人の立ち止まり方がされていました。スクリーンの上は踏んで歩いてもいいということにしていたので、自転車も通り抜けて行ったりもしたんです。次に九月にやった多摩ニュータウンでは大きなプラズマ・ディスプレイを用意したんですが、これはただの大きなテレビになってしまって、人の「向き」を変えるという面白さがなくなってしまいました。空間の中に映像や情報をどのように置くかといった「レイアウト」が体験に大きく関係してきますよね。
塚本──人間の距離感や姿勢は、実は空間的なことだから、それが抜けてしまうと違ったものになってしまうんだよね。
中西──同じコンテクストで同じ映像が映っていても、携帯の二インチの画面で見る場合と、一七インチの液晶やプラズマで見るとき、あるいはプラズマが地面にあるとか、二〇〇インチで床に投影した場合では、他人との関係性が違ってきますよね。「時空間ポエマー」はできることなら床面で大きくやりたいと思っています。多摩センターでやったときは、普通の五〇インチのプラズマの無力さを痛感しました(笑)。それは、いま塚本さんがおっしゃられた向きや距離感などと関係があるのだろうと思います。
塚本──MITに小さなビルを改装したような、ささやかなミュージアムがあるんです。そこにあった床に映像を映す作品は、パチンコ玉を穴に落とさないように迷路を辿って最後まで導いていくボードゲームを映像化したもので、体を使って重心をかけると盤が傾いてくれて、それにあわせて玉も動くわけです。とてもよくできていて何度やっても同じところで落ちてしまう(笑)。トリックといった感じではなく、自分が至らないんだと思うくらい凄くリアルだったんです。

仲隆介氏

仲隆介氏

3    有機的なものへの筋道

仲──本江さんがやっていることは、ある種のアクティヴィティを作っているわけです。塚本さんも今までの建築作品では、ある種のアクティヴィティを作っている。それは等価と言えるのでしょうか。塚本さんは、彼らがやっていることをどう思われますか。
塚本──僕は最近、特に有機ということが重要だと思っているんです。形が動きと一体化する、それを有機と言うのですが、いまはとにかくそれを目指そうと単純になってきました。有機に至る筋道をいかに見つけていくか。先ほどの迷路はかなり有機的に映像とこちらが繋がっている。こちらの動きがまさに、形、傾き、玉の動きに変換されるわけで、それは十分に有機的な経験でした。でも映像が床に映っているだけでは、有機にはまだ至らない。映像だけだと、やはりこちらの動きとは切れているので、経験として深いものを届けるためには、それをもう一度有機に結び付けるのは有効な作業じゃないか。インターフェイスやトリガーとして日常的なものを利用するというのはうまいやり方ですね。
本江──システム的にはたくさんの仕掛けがあるんでしょうけれど、それが見えないようになっている。
塚本──見えないというのが不思議なところですね。映像で有機を作っていく場合、いろいろな仕掛けがあることを見せないというところに落ちがあるでしょう。建築はその逆を、つまりプロセスそのものが疑似体験されるわけですね。形がどのように決まるか、振る舞いや環境とどんなコミュニケーションをとったのかが、使う人間の中に、作った人間と同じような感じでふっと浮かび上がる。建築ではそこを信じていいと思う。ここで誰かがこういったことを考えたとか、こういった意図をここで持ったとかいうことを、作った人間と使う人間とが共有できる時がある。いい建物にはそういった再現力があって、それを信じられるからこの空間はいいと言えるんだと思います。そこは楽天的に、通じるはずだと思ってやらないとダメですね。それが信じられなくて、自分は快適だと思うけれど人によってそれぞれ快適の概念は違うから、もしかしたら通じないかもしれないと思い始めたら、もう先には進めない。例えば、今、多くの公共建築でパブリック・インヴォルブメントが推進されています。才能のある建築家たちがそういったことを果敢に試みている。その一方で、才能のある建築家たちは、ファッションブティックなども手掛けている。しかし、ブティックと公共建築は、建築のプロセスが見えるか見えないかということにおいて全く逆を向いている。ファッションブティックはプロセスが見えてはダメだと思うんです。ミステリーがないといけない。そこを見せないことが商品を輝かせるわけで、高級な服がアジアの村で汗だくになって作られているといったことが見えてしまうと、魅力が失なわれる。ああいった商品というのは、すっぱりと何事もなかったかのように世の中に現われていないとダメだと思うんですよ。
本江──MITの迷路はシステムも完全に隠蔽されていてインターフェイスも意識されないというようになっていますが、これはブティック系ですか?
塚本──プロセスが見えないという意味では。

4    発見の共有──空間の使い方/情報の使い方

中西──リアルタイムでのインタラクションが実現されていて、そのインタラクションのデザインがナチュラルで、それが意識されないから一体感があるのだと思います。ゲームにはそういったところがあって、ボタンを押してから一秒後にジャンプするスーパーマリオなんて誰もやらない。さらに、スーパーマリオをただ単にやっている人と、ゲームを作ろうとしてやっている人とでは、そのゲームがどういう意図で作られたのかということに関する感じ方のレヴェルが違う。例えば、飛び方のデザインに関して、作ろうとしている人、追体験しようとしている人は、飛び方、キャラの動きを凄いと思える。一方で、コンシューマーマーケットには、単純に楽しんでくれる人、面白いという感覚だけ味わってくれる人もいる。建築を追体験することに関しても、ある程度、建築のこと、空間の作り方を知っている人はいるわけです。例えば、建築を勉強している学生が名建築に行ったとき、きっと感動するわけですよね。作った経験があったり、意図を読み取る能力があったりする場合は追体験はスムーズにいくと思うんです。これは名建築ですから味わってくださいといったとき、背景知識の有無で追体験、読み取れる能力が大分変わってくると思うんですね。その辺りはどう思いますか。
塚本──確かに作り手の方が、作り方の理解度は高いですね。ただ、作る人間と使う人間が同じ視点に立てる場所もあるのではないでしょうか。特に、空間の使い方を発見することに関しては、作り手と使い手との間に全く差はない。例えば、鎌倉の入り江、山、神社、家のある風景を実際に見ると、その作り方になるほどと思うわけです。一方、埋め立て地に忽然と現われた町などには、なんでだろうと疑問を抱くわけです。場所、空間の使い方に関して発見的に作られている場合、使う人もその発見を共有してその中に入っている。僕はそれを凄く大事だと思っています。
本江──壁に映像を映すような方法を用いて、鎌倉の集落のような空間を作るときのキーは何でしょう?
塚本──先ほどの博物館では、それぞれ大きさの違ういくつものシリンダーが並んで、空間にはいろいろな距離、奥行き、透明性があるわけです。それにはフレキシブルで発見的に使える余地を用意することなんだけど、シリンダーや家具のレイアウトは、やはり相当考えないといけない。こちらの意図を示し、それを持続させるのはレイアウトしかないわけだから。
中西──柱の大きさや配置が、行為を促すきっかけになるわけですね。
塚本──それぞれのシリンダーには別の意図がある。そうした複数の意図が競合する場と、意図が一つしかない場とではやはり違うだろうと考えています。
中西──博物館のオープン当初、プロジェクターで映像を映す場所を初期値のようなものとして決めますよね。コンテンツによってはプロジェクターの位置を変えることになると思うんですが、変えた後に、アクティヴィティ、行為を喚起するトリガーというのは変わってくるわけですよね。どういったときに、最初のシリンダーの配置が良かったと思えるのでしょうか。さらに博物館を作るとした場合、同じ考え方でシリンダーを配置するのか、最初に作ったもののその時点での状態を見て、やはりこうだったと変える可能性があるのか。なにをもって、今の配置、地形的なものを与えているようなイメージをうまくいったと思えて、どういったときにそう思えないのでしょうか?
塚本──それはやってみないとわからない。
本江──住宅ではどうですか。普通の住宅でも考えていることはあるわけじゃないですか。引き渡してからしばらく経ってみて、思っても見なかった状態になっていて面白かったということはありますか。それとも従順なお客さんが多い?
塚本──住宅の場合、打ち合わせはたくさんするので出鱈目にずれるということはないですね。ただ、別荘として作ったのに気に入ってしまって、そちらが本宅になったということが一回だけありました。
中西──住宅の場合、実際に使う人と打ち合わせが出来ますよね。博物館の場合、使う人とは打ち合わせをしにくいですよね。
塚本──だから、空間のユーザビリティを開発するような発見的な作り方、力強い働きかけというのが必要になります。
仲──塚本さんは有機に興味があるということでした。映像は有機には成り得ないと。一方で、先ほどのMITの迷路にはなにか可能性を感じたということでした。しかし、まだ僕は関係ないというスタンスです。それで伺いたいのですが、塚本さんにとって映像が有機になる可能性はまだほんの数パーセントなのでしょうか。それとも真面目に考えればどうにかなるというレベルなのでしょうか。今後の可能性を考えたときに、建築と映像が絡むことに可能性を感じるのか、たいしたことはないと考えていらっしゃるのか。
塚本──今のところ、あの体験を通しても、建築を考え直さなくてはならないという感じを受けたわけではありません。まだ抽象的な感じがします。少しは有機的な経験になりつつはありますが、どこか具体性に欠ける。それは、僕が映像と一体化することがそこで起こっているやり方の全てではないからだと思います。空間を表象するものとの一体化はうまくとれているのかもしれないけれど、維持管理して続けていくやり方の経験にまではいかないんですよね。先程のプロセスが隠されているといったことと関係するかもしれませんが、建築においては、そこでの人間のやり方を建築空間を通して感じるわけじゃないですか。そこに関心がある限り、表象とシンクロするだけではうまくいかない。有機が完成されない気がします。

中西泰人氏

中西泰人氏

5    愚かさ、だらしなさを受け止めるシステム

中西──インターネットや電子メールや携帯電話など地球上を覆い尽すようなネットワークがあります。先ほどの迷路は一人だけの体験ですが、一〇人、一〇〇人、一〇〇〇人のスケールまでにそれが普及して、ネットワーク化されている状態となり、グループとかコミュニティ、ソサイエティなどの関係性が変わってきて、それを支える容器としての建築が微妙に変化しつつあると思うんですよ。例えばオフィスであったり、せんだいメディアテークであったり。学校においても、これまで黒板を見て授業をしていたのが、パソコンを使うようになって、遠隔授業が可能になりつつあります。学び方、働き方自体が変わってきたとともに、実空間の役割が変化してきていると思うんです。そこには先ほどのMITの迷路システムの情報技術の使い方とは違う話があると思うんです。そういったことには塚本さんは興味はありませんか。
塚本──ありますよ。社会の編成に関わってきますね。空間の編成と社会関係の編成は相互依存的に行なわれてきたわけです。そこに食い込んできますね。社会関係の変化がいわゆる物理的な意味での空間のあり方の変化にもなっていくはずです。ただ一方で、そこで考えられているメディアは賢すぎる人間を前提にしているんですよ。愚かさに欠ける気がする。
中西──ITという言葉は声高に叫ばれることが多いですが、本江さんはあれは頑張る人のためのシステムであると言いますよね。これからは頑張らない人のためのシステムも必要なのではないかと。
本江──そう、頑張らなくて、だらしない人のためのシステムが必要です。
塚本──僕も、愚かさを受け止めるためのシステムとしてのITがあれば格段と変わっていくと思います。人間は愚かであるとして、その愚かさを受け止められる器、鈍さが、建築にはあると思うんです。
本江──逆に人の方が変わってきていて、システムのぎくしゃくしたところを面白がるところがあるのではないでしょうか。映画『マトリックス』を見て素朴に感動している人はいなくて、皆なんだか阿呆らしいことやっているなぁと思うわけですよね。カメラを操作しているところを想像したり、どのくらいの合成をしたのだろうなどと考えてしまう。僕はそういうシステムのぎくしゃくとどう付き合っていくのかに興味があるので、塚本さんが有機だとか、しっくりと一体となっているのがいいなどと言っているのを字面だけで見ると、すごくレトロな現実逃避のように聞こえなくもないんですよ。
塚本──レトロではないですよ。
本江──ぎくしゃく系にうんざりしているという感じですか。
塚本──ぎくしゃくに関しては、コントロールできない部分が自分たちの中にあるという意味で、自然の一部とみなしているんでしょう。そこにある種の自然性というのが入っているわけでしょう。
本江──メタレベルに行くわけですね。
中西──僕や本江さんのなんとなくの共通の意識に、大それた新技術を使いたいという要求があまりないということがあります。例えば携帯電話とかはある意味で枯れている技術を使っています。日常生活が頼るところまで落ちてきている。そういった普段使われている技術を普通とは違う使い方をして、それらと実空間、未来の空間とを合わせることで、違うバランス、体験を提供できるんじゃないかという意識があります。だから、例えば映像をアート化する美術館が出来たとして、衝撃的な一〇〇メートル級のスクリーンだけが全面にあるよりも、先程おっしゃった木漏れ日のような映像と魅力的な空間がうまくバランスをとることで、これまでにないちょっといいものが出来上がるというほうが面白いと思いますね。
本江──MITの迷路は二、三人のるともう成立しなくなるでしょう。メディア・アートというのはそういったものばかりで、人が大勢いると途端に動作しなくなる。建築はもっと大勢の人が勝手に振る舞うのを引き受けなくてはいけない。その違いがありますね。インタラクションの仕組みをどうするかということに関しては、「時空間ポエマー」の時に考えたんですが、実現に関しては、大勢で一気にやったことに対して反応するというアイディアが技術的に思い付かなかったんですね。しかし、誰か一人が操作するというのでは僕らが考えていたのとは全く違ってしまう。システム的な言い方をすると、マルチユーザー、大勢で一緒にというユーザー体験を作れることに関しては、建築はわりと特別なものではないかと思います。

6    有機の建築

塚本──「時空間ポエマー」と建築とを比較して話していますが、それはかなり違う。いま、僕が住宅を多く設計していることにも関係するのでしょうけれど、湧いてくるどうしようもないものをなんとかしようという感覚が建築の中にはあって、それが面白いんですよね。髪の毛や髭が湧くようにのびてくるように、ただ後から後から湧いてくる生を、建築はある種の繰り返しに持ち込んでいる。ただ湧いて、だらだらと流れていってしまうのを、うまく繰り返しに持ち込んで形を少しずつ作ってあげるということを建築はやっている。だからテラスみたいなところで飯を食べているとき、あるいはお酒を飲んでばか笑いしているとき、ふと昔の人もこうだったかなとか思ったりするわけです。そういった繰り返されていることに、建築が強さを与えていると思うんです。映像に関しては、昔、人間が泉を覗き込んでいたときと似ているのかもしれませんね(笑)。
本江──時空間ポエマーでは電話のカメラを使って、写真を撮って送るわけです。電気仕掛けではあるけれど、あれは素朴な魂の現われなんですよ。綺麗な花や珍しい犬を見て、誰かに見せたいと思うことと同じだと思うんですよ。面白いものを撮ったから、みんなに見てほしいと思ったとき、隣の人に見せてもいいけれど、見せたい人が遠くにいるから写真を送る。僕らはもうおじさんだからわからないけれど、もう少し若い人たちは途方もなくつまらないものを撮って、みんなに送っているんですよね。しかし、みんなに見せたいという思いはすごくあるわけです。写真を見てほしいというのはとても素朴なことだと思ったので、ただ一対一で送り合うのではなく、みんなで見せ合えればと考えました。ポエマーという名前に関してですが、松島のように歌に詠まれる名所がありますね。そのように場所に名前をつけることで、場所の価値が見つかるということがあると思うんです。花などに名前をつけて送ることは、芭蕉ほどの洗練はないにしても、心根は同じようなことをしているんだと思います。だから、それを共有する仕組みを作る、固い言葉ですが、環境の中から情報を取り出して共有する。飯を食べる話よりはもう少し文化的な水準で、「湧いてきた」ことと言えるんじゃないでしょうか。面白いものをみんなに知らしめたいということは、そのレベルではわりと素朴な、湧いて出た魂の発露である気がしていて、それを支える仕組みを作りたいというのがもともとの開発の動機なのです。
塚本──環境から情報を取り出すとおっしゃいましたが、それは大変重要なことだと思うんです。ただ問題なのは、その際に、自らの変型を伴う取り出し方というのがあるということです。こちらのあり方を変えないと取り出せない情報というのがあって、そこには必ず相手、環境の持っている素材性とのストラグルがある。佐々木正人さんがアフォーダンスについて書いている本に、僕がすごく気に入っている有機の動きの説明があります。両足を切断した人がリハビリをするために泳ぐ話です。最初は両足があったときの記憶に基づいて足を蹴ってしまうから、全然前に進まないそうなんです。しかしもがいているうちに、徐々に腰をくねくねと捻らすことで泳げることを見つけだすそうなんです。佐々木さんが言うには、水という環境に埋め込まれている泳ぐという意味を見出すときには、腰をくねらせるというこちら側の動きが伴われると。つまり、環境から有意義な情報を取り出すときには、こちら側も変わっているわけです。こちらの動きと環境から取り出される情報は完全に一体的であって、一方がなければもう一方もない。相互依存的な関係にあって、それを有機の動きだと言う。僕はこれはかなり究極的な話だと思っています。これくらい深い環境との結びつきというのが、快楽、よろこび、面白いことではないかと思います。例えば釣りをするときにも、魚、水辺、風、道具と、なかなかまままならないものを組み合わせて魚を捕まえていくわけですが、最初はうまくいかなくても、段々こつやつながりがわかってくるというのが面白いわけです。
中西──ポエットとせずにポエマーと名付けたんですが、詩人の英語ってポエットですよ、間違ってますよと言ってくれる人もいます(笑)。わざとそうしたのは、普通の人が携帯で写真を撮る時には詩人ほどには環境との結びつきを意識できていないかも、ということなんです。先程、ダメな人たちのITという話がありましたが、やはり写真家によって一眼レフでちゃんと光をはかって撮られる写真と携帯でぱっと撮った写真とでは大きなレベルの差があります。しかし、普通の人が少し心が動いた瞬間を共有するには、パッと撮れてサッと送れないといけない。フィルムで撮った時代には、写真を撮った後、三六枚を撮り切って、現像屋に出してさらに一週間、と相当時間が経ってからでないと相手に見せられなかった。そういった意味では、ちょっとした心の動きを共有できる術が大きく違ってきたんじゃないかと思うんです。アフォーダンスの泳ぎと格闘している瞬間は、自分と環境との結びつきだと思うんですが、遠くに誰かがいると、もう少し違った結びつきがあるのではないかと思うんですね。
本江──のっぺりとした現代的な日常生活のすごく浅いコントラストを問題にしているので、芭蕉のように命がけで旅をしてるような人とは比べるべくもないでしょうけれど、パッと思ったことや感じたことも増幅すれば芭蕉になる。足がなくなった人のことを思えばと考えればそうなんですが。大きく見ればどうでもいい話なんですが、そのデリケートなところを問題にしたいというのがあります。
塚本──写真を撮って送ること自体、ある種の公共空間がそこに現出するわけですよね。ただそのとき想定されている一人ひとりというのが、結構エンプティじゃないですか。僕は一人公共空間という考え方もあると思う。外に出たらこのように振る舞うというある種の規範をびしっと内面化している人間は、何百人の中にいなくても公共空間にいるわけです。だから、公共というのは人数ではなくて、どういった規範、精神を内面化しているかということだと思うんです。どうやったら、人間をそのように扱えるかということを考えた方がいいと僕は思っています。この人だって規範をきっと持っているはずだ。そう扱えるような、技術、環境、空間の構成、作り方をしていった方がいい。住宅の設計をしていると、少しずつ違うけれど、施主はみんなちょっとした変な癖をもっています。でもそれも、彼らなりの規範であり、それなりに一理あるわけです。そういったことが、輝かしく、正々堂々としたものに思えるような家の作り方というのがあるはずですね。
本江──また立場が変わってしまいますが、技がある人しかなにかに到達できないというのは民主的ではないから、誰でもaと打てばaと出る、ITとは根からそういうものでした。有機の建築というのはそういったものではなくて、aと書きたければこう書くんだというスキルを要求して、スキルを持っている人は一体感が感じられるというものなんでしょうか。
塚本──違いますよ。有機の建築というのは、佐々木さんがおっしゃっていたように物事のつながりがふっと再現される。人を選ばないものだと思いますよ。
本江──塚本さんが言われているように、こちらに変化がないようではいけないというシビアなことも、確かにそうなんですが、薄いコントラストがつくようなことも、あるのではないかと思うんですよ。
塚本──こちら側に変化が起こると言ったとき、僕の場合、こちら側は建築にすり変わっているんですね。建築と環境の関係に限らず、建築がある環境の中では独特な形になることが有機ですね。そこに体をふっと置くと、自分の中にも環境との応答が再現されるということです。

本江正茂氏

本江正茂氏

7    使い方のデザインとDOの規範

本江──同じように、普通のカメラ、オートフォーカスであっても何であっとても、その使い方や方法は変えられると思うんですよ。
塚本──使い方と技術のあり方がせめぎあうようなやり方があるということですね。
本江──その通りです。技術のあり方そのものが、ユーザーを幼稚だという前提で作られているという批判はもちろんあたっているとは思うんですが、そういった使い方しかしていないユーザーのほうも怠慢だと思います。
塚本──ポエマーは写真機付き携帯の使い方の提案でもありますね。
本江──そうですね。このようにも使ってほしいという提案です。いろいろな人に写真を撮ってもらうと、割と類型的な写真になってしまうんですよね。仙台の時は写真部の人たちに頼んでやってもらったんですよ。いつもは普通の写真を撮っている人たちなんですが、今回は携帯を使ってやりましょうと。どんな写真を撮っているのか気になって見にいくと、自分の写真とみんなの写真にそれ程差がない。それが彼らなりにフォトグラファーとしてのアイデンティティの危機だったんでしょう。何日かかけてやるわけですが、徐々に変わった写真を撮らなくてはと思い始め、特に名前が出るわけじゃないので、何人かはこれが自分の作品であることをわかるようにするにはどうすればいいかを問題にしていました。例えば、黄色いスーパーカブのハンドル周りを画面の下に必ず入れる、靴を入れて撮るといったことをしていました。そうすると、ただ珍しいものを撮るだけではなくなる。こいつと自分とを如何に画面の中に押し込めて一度に捕まえるかということが主題になってくる。ピンでたてる自分がどう構成されるか、非常に貧しい情報の中でどう自分をたてるのかが主題となる。
塚本──情報を物に落とすのは物凄く難しい。それをやり始めると答えが出なくなる。だから、物が情報を拾うとか、物が語り出すようなレイアウト、やり方を考えようとするんです。物を作る場合は物の方から始めた方が楽というのがあって、情報を物に移しかえる際には絶望的なギャップがある。
本江──物を作るというのは、物を通じてなんらかの行為なり行動なりを支えるとか、引き起こすところがあるわけじゃないですか。別に物を経由させなくても、音でも光でも記号を示すのでもいいのですが、直接情報を与えるといったことはできますよね。ゴールが物だと思うと難しくて、それを通じて誰かになにかをさせたいといったことなどを目標に置くなら、そういったことは情報にもできるんじゃないですか。
中西──位置情報をつけた写真を撮って街を歩いて下さいとしたとき、カメラを持って街を歩く場合と同じですから、みんな歩くスピードが急に遅くなる。辺りを見回すようになる。そういう意味では制約を与えることで、その人の行動が変わっている。先程のレイアウトの話でも、体を向けるなど、身体的な行為に対してなにかしらの制約を与えている。建築というのはそうした制約をうまくデザインすることによって、人と人の対話がうまく発生するように空間をデザインされていると思うんです。この建物に窓を一個あけるとする。どの位置にどの大きさにあけるかということは、どういった制約を与えたいのかということと近いことだと思うんです。今、本江さんと見知らぬカゾクというプロジェクトをやっています。そこでは、朝八時、昼一四時、夜二〇時にPHSで位置情報をとります。ハンドル名とその位置情報だけが書かれたをメールを送り合うのですが、相手は誰なのかはわからないけど、七人でお互いの居場所をひたすら毎日三回送りあっています。もう三年間ずっと送りあってます(笑)。珍しい所に行くとなったら、なるべくその位置情報をみんなに伝えたい。夜二〇時に飲みに行くとなったら、位置情報がとられないような地下は嫌だなぁと思うのです。だから、僕はあまり地下の店に行かないんですよ。
本江──居場所自慢をしたい。
中西──沖縄に行ったら、沖縄にいると絶対に知らせたい(笑)。これもある意味ではその人に制約が与えられていると言えると思うんです。マテリアルとかオブジェクト的な制約条件でなくても、人の行動に規範を与えるようなことはできるんじゃないかと思うんですが。
塚本──誰にでも降り掛かってくるものの取扱いならば、規範となり得ると思うんですよ。雪国だったら大雪の取扱いをみんなで考えておかなければならないわけですが、その中の建物は急勾配の屋根を持つようになる。そういった共有のものが、二〇世紀、近代化によって失なわれてきたわけだけれど、携帯電話などがそういう取扱いの対象になれるかということです。例えば、東横線の中では携帯電話を使うなと取扱いに関してのルールを敷いたりしていますが、それは建物の空間を変容させるものではない。それと、その中の規範はDO NOTであって、DOの規範ではない。中学校の校則で髪をのばしてはいけないとか、スカートの長さを揃えなくてはいけないとか、「DON'T, DON'T」ばかりなのは息苦しくてつまらない。だけど、DOの規範にはまだ可能性がある。建築はDOの規範を作れる面白さがあると思うんですよ。そうなれば日本の住環境はもっと良くなるはずなんだけれど、なっていないですよね。
中西──授業中は携帯のメール禁止というのが今は当然多いと思うんですね。しかし逆に、授業中に携帯でwebにアクセスしてわからない点があったら質問を書きこめる、その画面がずっとプロジェクターで大きく教室に映されているとなったら、違った授業の仕方が出来ると思うんです。今は使い方をデザインできていないから、するなという規範が多いのかもしれないけれど、もう少し違う視点を使えば、ITを使っても何かをしようぜということができるんじゃないかと思います。
本江──エッセンシャルな内在的な要因でそうなるのではなくて、使い方がうまくない。ダメだという規範の方が容易ですからね。建築の方でも見逃されることは多いじゃないですか。ダメという禁止事項が多い建築は有機的ではなくて、失敗しているんですよね。
塚本──装飾を禁止するということが最も浸透した例として挙げられますが、それは息苦しかったわけですよね。
本江──それらのマネージメントですよね。建築であれシステムデザインであれ、ポジティヴな運用をやっていけるデザインがあるはずです。建築は時間をかけてやってきて事例もあるしすぐにわかりますけれど、情報システムでそういったことをやろうとしてもなかなかピンとこない。そのくらい経験不足で、生な感じでしか作れていないというか、使う方もまだ慣れていない。そういった意味では幼稚なもので、使う方も作る方も大人な、有機的な使い方ができるように作っていけるようにしたいし、使えるようにもなりたいですよね。
[二〇〇三年一〇月二四日 東京にて]

>塚本由晴(ツカモト・ヨシハル)

1965年生
アトリエ・ワン共同主宰、東京工業大学大学院准教授、UCLA客員准教授。建築家。

>仲隆介(ナカ・リュウスケ)

1957年生
京都工芸繊維大学大学院デザイン経営工学専攻教授。ワークプレイスデザイン。

>中西泰人(ナカニシ・ヤスト)

1970年生
慶應義塾大学環境情報学部准教授。

>本江正茂(モトエ・マサシゲ)

1966年生
東北大学大学院。東北大学大学院准教授/都市・建築デザイン、環境情報デザイン。

>『10+1』 No.33

特集=建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア

>佐々木正人(ササキ・マサト)

1952年 -
心理学者、東京大学大学院教育学研究科教授。東京大学大学院教育学研究科。

>アフォーダンス

アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンが創出した造語で生態心理学の基底的...