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八〇年代リヴィジョニズム | 日埜直彦
80's Revisionism | Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン, 2003年09月20日発行) pp.78-92

1   なぜ八〇年代なのか


リヴィジョニズム

リヴィジョニズム=re-vision-ism、という言葉を聞いたことがあるだろうか。ちょっと耳慣れない言葉かもしれないが、基本的には「修正主義」ないし「見直し論」を意味する。例えば八〇年代後半から九〇年代初頭にかけて、日本を普通の近代国家と見る認識を「見直し」、日本の社会をどこか異質なものと見る議論があったが、これを指してジャパン・リヴィジョニズムという。そもそもアメリカの外交に関わるシンクタンク周辺から起こった議論だが、ジャパン・リヴィジョニズムは「日本異質論」としてアカデミズムから経済界に至るさまざまな方面においてヴァリエーションを派生させた。偶然かもしれないが、日本の建築・都市の状況を一種独特なものと見る論調が世界的に一般化していったのも、おそらくこの時期ではないだろうか。とんでもないアイディアが建築として実現してしまう(ある意味で恵まれた)日本の状況、西欧的な都市の尺度では測れないカオス的都市としての東京、こうした言説がエキゾティシズムを交えながらあちこちのメディア上に現われた。八〇年代とは、日本がグローバリゼーションのメジャー・プレーヤーとして浮上する一方で、その存在の特異なありかたが盛んに語られた時代であったのだ。しかしとりあえずその問題はいったん脇に置くとして、まずはリヴィジョニズムという言葉のもうひとつの用法、すなわちホロコースト・リヴィジョニズムから本論に入っていきたい。
ホロコースト・リヴィジョニズムとは、要するに「ホロコーストなどなかった」といった類いの歴史修正主義のことである。これについてもまたさまざまなヴァリエーションがあり、「ガス室は存在しなかった」から「アンネの日記は捏造された」まで、ありとあらゆる主張がなされてきた。日本における「南京大虐殺はでっちあげだ」といった主張もこれに類するものだろう。そこで用いられるレトリックはどの場合でもよく似ていて、出所不明の証言や資料などを持ち出し、あるいは問題を矮小化し、都合のよい論旨が組み立てられる。最近も日本の政治家の発言が物議を醸したところだが、「新しい歴史教科書をつくる会」やいわゆる新自由史観のような具体的な運動・政治勢力として、現在の日本がはらむ問題でもある。
もちろんここでそのような歴史的事実について論ずるつもりはない。注目したいのはその背後に横たわる歴史認識という巨大な問題である。歴史的事実はどのように確定され、どのように把握され、どのようにして現在と結びつけられるのか。過去はどのように現在と関わり、どのように位置付けられるのか。それはけっして抽象的な問題ではなく、また歴史学の範疇に限った問題でもない。

歴史認識

一九九〇年代以降、建築に関する議論の目立った論点のひとつとして、八〇年代的、ないし「作家」的な建築家像の乗り越えがあった。かつての建築家像はもはや通用しない、これからの建築家は「……」であらねばならない、といった論法があちこちに見られた。もちろんいつだって時代はそのようにして牽引されるものだと言うことは可能だが、そうした論法において前提とされている八〇年代の建築、建築家の姿は、あまりに抽象的かつ類型的であって、当時の実態を反映したものとは到底思えない。こうした言説が具体的に検証されないまま建築メディア上を流布している状況には違和感を覚える。そうした言説の問題設定やそこにちりばめられる論点は各々に異なるのだが、かつての建築家をひどく俗っぽい水準でカリカチュアライズし、その漫画じみた人物像を否定し遠ざけることにより現在の建築家像を規定する、そんなレトリックだけは奇妙に似通っていた。例えば具体的に誰がそうであるのかあいまいにしたまま「ユニークネスが先鋭化したところのエキセントリックな作家」に対する違和感を表明し、「建築家としての過剰な表現が前面に現われないようにデザインすること」を自分たちの方向性として提示するような例はその典型と言えるだろう。雑誌に掲載されるような論文においてこのようにあからさまに言いつのることは意外に多くはないのだが、しかしどうやらこうした実感はおおむね現実的に妥当なものとしてかなり一般的に共有されているようである。
こうした単純な対比的レトリックは過去に実作の存在しない比較的若い世代にとってはたやすく取りうる選択だったかもしれないが、自身が関わった過去の建物が存在する年長の建築家においては、より複雑な対応が必要と感じられたはずである。つまり同様の実感を持った年長の世代においては、過去を擁護しつつ状況の変化に対応することが必要であり、かつその筋道において単なる状況の反映にとどまらない建築家主体の一貫性を見出す、などというアクロバットをやってのけることが必要になったのである。そうした建築家の示した反応を現象的に見るならば、そうした困難を単にだんまりを決め込みやり過ごしつつ黙って事変に処するか、あるいは目くらましよろしく奇怪な議論をしかけることで面倒な議論をやり過ごすか、そんな反応が主だったところだろうか。
そしてこうした文脈において多少なりとも論議を呼んだ
論文に、評論家飯島洋一の「ユニット派批判—— 『崩壊』の後で」★一がある。飯島はこの論文において特に若手建築家の作風を問題としているわけだが、彼はそれに対する批判を次のように立論した。つまり、若手建築家のうち特に「ユニット派」と名指されたものたちの「非・作家性」への指向の背景には、阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件のような都市の「崩壊」に対する「トラウマ」があり、「非・作家性」への指向は「トラウマ」への受動的な反応でしかなく、しかしその解消は「つくること」への能動的な取り組みによるほかない、と飯島は主張する。要するになにかのテレビ・コマーシャルではないが「闘わなきゃ、現実と」ということだろう。もちろん現実と格闘するのは建築家の常態でありその点で異論はないのだが、ここで違和感を覚えるのは、「カタストロフ」が「トラウマ」を生み、「トラウマ」が建築家を「作家性」の否定へ向かわせた、という一種のモノガタリについてである。こうしたロマンティックなモノガタリに対して、それが正しいとか間違っているとか議論することにさして意味があるとも思えない。しかし敢えて言うならば、建築家にとってのカタストロフが当時存在したとすれば、それは建築家と都市の関わりにおけるある種のバブル——経済的範疇にとどまらない幸福な期待の崩壊をおいてないはずであり、それは「作家性」をどのように引き受けるかとはまったく別次元の、建築家の誰もが我が事として直面せざるをえないはずの問題である。
だがそうした反論を尽くすことよりも、おそらくわれわれは当時の具体的な様相をつぶさに見つめ、偶像と化した「八〇年代」の実相を検証すべきなのだ。そうしたなかから矮小なモノガタリに回収できないような、あるいはモノガタリを喰い破って出てくるようなリアルな建築の問題が現われるはずである。若い建築家の戯画化されたレトリックと、年長の建築家のしばしば不明瞭な過去への意識、そして評論家が語るロマンティックなモノガタリ、こうした状況に囲まれて、結局「八〇年代」はわれわれの歴史意識から脱落し、当時の実情に対する無関心が形成される。当時の具体を抽象化し、ひとつの取っ付きやすいイメージへと追い込むことによって、われわれは「八〇年代」を抹消してきたのかもしれない。こうした状況を一種のリヴィジョニズムだとは言えないだろうか。このリヴィジョニズムは歴史の修正を意図する特定の主体を伴わない。それぞれの立場において自己をアイデンティファイするために要請されたレトリックが、ちょうど折り重なった地点にぽっかり口を開ける陥穽である。
実はこうしたリヴィジョニズムは八〇年代とそれ以降の間にあるのみではない。日本の近代建築史においても、戦中期から戦後期にかけてのプロセスの影にこれと同様の歴史認識の切断があるはずだ。ナショナリズムとモダニズムの関係はこの時期の建築家に問われた身を切るように切実な問題であり、建築家はその思考のあらゆる側面において解答を求められていた。ある建築家はこれを機に第一線から退き、ある建築家はここから躍進した。しかしこれほど大きな問題を正面から捉えた一冊の本がないのはどうしてだろうか。正にその点を掘り下げた著作が準備されていると聞くところではあるが、いずれにしてもこうした深い欠落が歴史においてありうるのである。過去へと投影された歴史認識がある時期のいかなる俗情により支持されるにせよ、この種の欠落は次第にわれわれの無意識の盲点として固着していくだろう。本論はそのような盲点の定着に対するささやかな抵抗の試みでもある。

問題設定

ここであらためて設定されるべき問題とはどのようなものだろう。まずごく普通に考えて八〇年代の建築は六〇年代以来の近代建築批判の流れにおいて見出される。六〇年代に芽生え、七〇年代に派生的に分岐し、八〇年代に展開した、近代建築批判の文脈において八〇年代を捉えることは、第一次接近として妥当な出発点となるだろう。八〇年代の建築は大筋において近代建築批判のプロセスにあったのである。そして後述する比較的マイナーな問題を脇に置くならば、この批判のプロセスは現在へと続く文脈でもある。その意味で、ハーバーマスに抗して敢えて言うならば、近代主義の乗り越えというポストモダンの課題は、八〇年代を経由して現在へと至る、未完のプロジェクトなのである。近代建築批判が具体的なプロセスにおいてどのように連なり過去から現在に至るのか、そしてともすると否定的対象として切断され、現在と隔てられているかのように思われている八〇年代とどれほどわれわれが通底しているか、こうした文脈を可能な限り具体的に辿り、改めて検証してみたい。

2   近代主義批判——六八年以降という構図


近代主義の動揺

戦後日本が近代化と経済成長を目指して一直線に進み、行き着いた六〇年代において、近代化の負の側面が露呈し始めた。エネルギー問題が無限の成長を前提とした近代主義に影を落とし、公害問題の噴出が環境問題と経済発展の矛盾を露呈した。経済成長下における貧富の差の拡大がマイノリティの問題を浮き彫りにし、労働人口の移動に伴う核家族化が社会生活に軋轢をもたらした。こうした近代化の矛盾が露になるのと並行して、戦後近代化を推進してきた進歩派知識人に動揺が広がる。伝統的に日本の文化人は左翼勢力と一定の関係を持っていたが、一九五六年のスターリン批判をきっかけとして共産党を中心とした左翼組織の意思決定機能に混乱が生じた。当時の進歩派知識人にとって左翼の理念とは、理性によって社会を合理的にコントロールすることが社会の幸福への最善の手段である、というものであったが、スターリン批判はこうした理知主義の理想を根底から揺さぶった。これは狭義の左翼、共産党組織の問題というよりも、広く進歩主義全般に突き付けられた深刻な問題として受け止められた。六〇年代に立て続けに噴出してきたこうした問題が、近代主義の理念、合理主義の理念、あるいはヒューマニズムの理念に疑念を突きつけ、理性の行使によって漸進的に人間は幸福へと接近できるという近代主義を掘り崩したのである。
建築においても、近代の都市計画のもたらした都市環境の貧しさ、近代建築のスタイルと化した画一性に対して批判が起こった。ジェーン・ジェイコブズによる一九六一年の『アメリカ大都市の死と生』(黒川紀章訳、SD選書、一九七七)と、ロバート・ヴェンチューリによる一九六六年の『建築の多様性と対立性』(伊藤公文訳、SD選書、一九八二)にそれぞれ代表される近代主義への批判は、社会一般の近代主義への批判と軌を一にし、建築における近代主義への批判的取り組みを要求した。

近代主義批判

こうした状況下でニューレフトと呼ばれる勢力が学生運動を主な舞台として社会前面に登場し、ヴェトナム戦争に対する反戦運動が市民運動として活発な活動を始めた。〈右翼対左翼〉あるいは〈保守対革新〉という制度化された既存政治構造の外部に、批判的勢力がオルタナティヴとして急速に形成されていく。国内に限らず世界的に見ても、七〇年代は既存体制とそれが掲げる理念に対する異議申し立ての時代であり、硬直化した既存のイデオロギーとその理念が色褪せて見えた時代であった。
社会学者大澤真幸は『虚構の時代の果て』において、戦後社会の精神性を、六〇年代に至る理想の時代、七〇年代以来の虚構の時代、に区分して論じている。理想の時代とはここで理想的な時代という意味ではなく、理想を掲げ理想に向けて現実がドライヴされる時代を意味する。

理想の時代とは、社会が全体として理想へと疎外されている時代である。このような時代において、最大の不幸とは、理想から永続的に疎外されること、つまり理想との関係において二重に疎外されることである★二。


そうした「最大の不幸」、知性による理想の達成が懐疑にさらされたのが六〇年代だと言ってよい。理想の追求の結果において幻滅するほかない現実が露呈したとき、理想は色褪せ、地に堕ちる。こうして七〇年前後を境に、時代は虚構の時代へと転じ、単純な近代化から社会のベクトルは逸れ始める。

虚構の時代とは、情報化され記号化された疑似現実(虚構)を構成し、差異化し、豊饒化し、さらに維持することへと人々の行為が方向づけられているような段階である★三。


この書物において大澤は、おそらく厄介なコノテーションが付着して議論が煩雑になることを避けるため、前者を近代、後者をポストモダンと対応させることを避けている。しかし本論において、理想の時代と虚構の時代という二つの概念が、イデオロギーそのものではなく時代の精神性の次元に主眼を置いていることを念頭に置いたうえで、敢えて各々を対応させて考えることは可能だろう。理想の時代=近代が生産の拡大と量的豊かさといういわば垂直の軸を指向したとするならば、虚構の時代=ポストモダンは消費の豊かさと多様性の追及という水平方向の広がりを指向する。超越的な価値評価軸が急速に陳腐化し、多様化した状況のランドスケープがポストモダンの世界像となる。求められていたのは、近代主義に変わる新たな価値基準ではなく、多様性に踏み込み、享受し、実践する、オルタナティヴな可能性を追求することであった。

近代建築批判

近代主義のオルタナティヴを求める機運と呼応するように、六〇年代から近代建築においてもオルタナティヴな指向が模索されていた。公式的近代建築を牽引してきたCIAMチームXにより解散に追い込まれて以来、一九六一年以降のアーキグラムの活動など近代建築への批判的修正への動きが世界各地で同時多発的に胎動を始める。国内的な文脈ではメタボリズムの活動がこれに相当するだろう。結果論的な近代建築への異議申し立ての段階を経て、近代建築の規範そのものが次第に疑うべき対象となっていく。建築の構想にあたって根拠とすべき基底面の崩壊が誰の目にも明らかな事実となるなかで、その崩壊の過程においていかにして建築を実現していけばいいのか、オルタナティヴな規範を提示していくことが必要であった。立ち止まって考えるわけにいかない以上、批判は同時に実践的処方となる必要があり、批判的実践として近代建築への批判は行なわれる。
一九七三年に磯崎新の「建築の解体——一九六八年の建築情況 」が『美術手帖』に連載され始める。近代建築批判の文脈を日本に定着させ、その指向を根付かせた意味で、「建築の解体」は国内状況において特筆すべき出来事であった。当時現われつつあった近代建築批判のイデオローグたちの動向が的確にサーヴェイされており、若い世代を中心として熱狂的な支持を受けた。ここで取り上げられているのは、ハンス・ホライン、アーキグラム、チャールズ・ムーア、セドリック・プライス、クリストファー・アレグザンダー、ロバート・ヴェンチューリ、スーパースタジオ。幸いにして磯崎という紹介者自身がこうした傾向に近い指向を持っていたこともあり、単なる表面的な紹介に終わらない影響を与えた。これをきっかけとして日本の建築の動向と国際的な建築の足並みが揃ってきたようにも見える。
ヴェンチューリによる『建築の多様性と対立性』は確かに画一的な近代建築に対する批判となっているが、他方で近代建築を修正するための処方箋として読むことも可能である。これに対して明確に多様性を指向し、モダニズムとは一線を画す新しい傾向=ポストモダニズムを規定し、一般に広めたのは一九七七年のチャールズ・ジェンクスの『ポスト・モダニズムの建築言語』(竹山実訳、『a+u』別冊、一九七八)の功績であった。基本的には意味論とコミュニケーション論から近代建築の貧しさを批判し、当時散発的に現われていた多様な試みを文脈として整理し、近代建築の規範を根本的に批判した。モダニズムの修正ではなくパラダイムのラディカルな更新が求められているという意識を一般化させた点はけっして過小評価できない。理論的にはポストモダニズムと総称される思想とほとんど接点がないにも関わらず、ポストモダニズムの解説と言えば彼の名を欠くことがまずないのはこの一点に尽きる。世界的にも大きな反響を呼び、翻訳も翌年刊行され日本の建築の潮流にも多大なる影響を及ぼした。理論的な粗さについてしばしばその影響に負の側面を見る向きもあるが、むしろここで留意したいのは、建築を計画する建築家と、建築をその社会的受容の面から考えていたジェンクスの視点のズレが、ジェンクスの議論をプラグマティックなコミュニケーション論へと偏重させ、そのことが結果的にポストモダンの建築をポピュリズムあるいはコンシューマリズムへとリードした点である。このことはポストモダンの建築の帰趨に多大なる影響を与えた。

消費社会の醸成

建築における近代主義批判の展開の一方で、日本の高度成長が一段落した一九七五年にひとつの目立たない事件が起こっている。「スト権スト」と呼ばれる労働運動が敗退したことを契機として、公式の左翼の中核であった労働組合がこれ以降むしろ資本主義的な枠組みに包摂されていく。他方で学生運動の誰の目にも明らかな挫折とともに、オルタナティヴを求めるニューレフトや市民運動の試みは停滞を余儀なくされていた。こうして国内のポスト・フォーディズム的状況とカウンター・パワーの停滞が、大文字のイデオロギーによって牽引される社会を変質させ、漫然とした不活性な雰囲気が社会を包摂したかのような状況が生じた。同様の状況は海外でも起きている。一九六八年のパリ五月革命以降フランスの思想界では、政治運動への主体的参加をやみくもに求める実存主義が支持を失い、構造分析から要素を記述し、記号論に代表される手法により複雑な文化的振る舞いを社会の内部構造から記述しようとする構造主義が台頭した。一九七三年以降の東西冷戦構造の緊張緩和の流れもあいまって、世界的にもあいまいな和解ムードが醸成されていく。右翼対左翼という旧来の対立的枠組みが形式的にも存在意義を失い、単なる立場の違いにおける対話的枠組みへと社会が移行し、中流意識が曖昧に蔓延していった。こうした状況下において、日本にフランスの構造主義の理論が導入されていく。一種のオートマチズムとして俗解されがちな構造主義と、左翼オルタナティヴが捉えられなかった「大衆」を語る、吉本隆明の『共同幻想論』に代表される論調が支配的になっていく。停滞した空気の下で経済状況は大きく下ブレすることなく安定しており、大都市・高学歴・高収入があいまいに指向されるいわゆる大衆消費社会のモードが定着していった。社会を一種の共同性において語るレトリックが社会を記述する理論として一般化していき、「虚構」に対する冷めた意識のかたわらで大衆消費社会の極限としてのバブル経済へと状況はなだれ込んでいく。

3   八〇年代


野武士」の時代——多様性の発散

国内が曖昧な和解ムードに閉塞していくなかで、槇文彦が論文「平和な時代の野武士たち」を『新建築』に発表する。当時既に近代主義の規範を逸脱する傾向があちこちに見られるようになっていたが、その成果は基本的に散発的な住宅に限定され、未だ社会に対するアクチュアリティを問う段階にはなかった。五期会(辰野金吾—佐野利器・内田祥三—岸田日出刀・前川國男丹下健三・大江宏に続く第五の世代という意識から命名された)を継ぐメタボリズム・グループ以降、それまでの建築家の組織が多かれ少なかれ建築家という立場を代表し、公に対して発言する指向があったのに対して、当時はむしろ同人的とでも言うべき小グループが数多く生まれ、それぞれの問題設定から次の時流を虎視眈々と狙うという状況があった。「平和な時代の野武士たち」が対象としているのは、当時頭角を現わしつつあった新人建築家たちである。正確に言えば実作をいくつか訪ねその印象を記す体裁を取った論文であるため文中にその名が見えるのは数人に過ぎないが、当時の若手建築家達を総称するのにちょうどよい代名詞として、「野武士」という言葉は一般に受け入れられた。「関西三奇人」などと称された渡辺豊和・安藤忠雄毛綱毅曠石山修武・石井和絋・毛綱毅曠・六角鬼丈の「婆娑羅の会」、早稲田の吉坂隆正の教え子から派生し国内各地で設計に取り組んでいたチームZOO、あるいは伊東豊雄坂本一成・長谷川逸子・富永譲らを総称して「エピステーメー派」などと呼ぶ向きもあったようだ(『エピステーメー』は思想におけるポストモダニズムの中心的雑誌のひとつ。一九七五—七九年刊行。当時の鈴木博之の論文によると、そこから抜き書きしたような建築論を振り回す作家たちという意味らしい)、これら錚々たる面々がおおむねその視野に入っていたと言ってよいだろう。
若手建築家が競って状況に突入していった当時の状況を、槇は「平和な時代の野武士たち」で見事に活写している。「少々おかしなものができ上がってもその意気込みは買わねばならないだろう」などという微妙な表現が用いられるように、多かれ少なかれ無理が通れば道理が引っ込む的破天荒さを隠さぬ彼らの建築は、いずれにせよあまりに多様であり、その多様さこそが時代に受け入れられたのだろう。差異のゲームこそが生産的であると言われた時代のことである。

彼らの背後にふと戦国時代の野武士の像を見たような気がした。野武士は主を持たない。したがって権力も求めない。(…中略…)この野武士たちはどこへ行くのだろうか。それは私にもわからない。おそらく当分の間彼らは二本の刀を差して日本の建築原野を走り回るに違いない★四。


当時三〇代から四〇代であった彼らは高度成長期の飽和的雰囲気のまっただ中に、まさしく野武士よろしく飛び込んでいった。

現代思想ブーム——ニューアカデミズム

当時の建築家の思考と知識人の言説には密接な関係がある。こう改めて書くとなにやら滑稽な感じもするのだが、要するに当時現代思想はブームだったのだ。中流意識に象徴されるようなあいまいな消費社会の雰囲気において、差異の表層性を肯定し絶対的理念の崩壊以降の世界観を展開する現代思想が、なにかの免罪符になるかのように受け取られたのかもしれない。おそらく筆者はこうした状況に影響された最後の世代であり、当時の活況を懐かしく思う部分もあるのだが、膨大な量のごく知的なテクストが常態として流通していた。ニューアカデミズムと呼ばれた知的状況の一方で、当時流行のマニュアル本の体裁を取って現代思想入門書の類いも書店にあふれていた。現在からは想像できないほどに、現代思想は一種の素養として考えられていたのである。
ともかく、言論の活況は多種多彩な知識人を輩出した。多少なりとも建築の状況と関係がありそうな主要な人物を挙げると、例えば文化人類学者(と呼ばれる人たちがかつてたくさんいたのだが)山口昌男は「中心と周縁」や「トリックスター」論などによって、共同体内部の構造を分析することから構造主義的議論を展開していた。しばしば演劇や文学、映画などの批評も行ない当時はかなり主要な知識人の一人とされていた。具体的な経緯はわからないが、おそらく原広司の集落論はこうした議論に負うところがあったと思われる。柄谷行人は文芸批評の文脈から出発し、知識人の左翼的文脈と文学における主体分析の交点で、骨太の理論展開を行なった。一九八三年の『隠喩としての建築』(講談社、一九八三)はフランスの哲学者ジャック・デリダの脱構築概念を単純化しつつ理論的に日本の文脈と関係付け、建築におけるデコンストラクショニズムの日本における受容への影響も少なくなかった。その他、丸山圭三郎を筆頭とする記号論の議論を参照する建築家も少なくなかったし、ニューアカデミズムの寵児と呼ばれた浅田彰や中沢新一などの著書も相当読まれていたはずだ。
読者におもねることなく先鋭化していく当時の知的言説のあり方は、ある意味でブームが許したものであったかもしれない。こうした思想と消費資本主義の奇妙な結合について、そうした傾向に抵抗し続けたフランスの哲学者ジル・ドゥルーズは次のように書いている。

試練につぐ試練で、哲学が立ち向かうようになるのは、ますます傲慢になり、ますます厄介になった対抗者たちであろう。(…中略…)最後には、情報科学、マーケティング、デザイン、広告など、コミュニケーションのすべての分野が、概念という言葉そのものを奪い取って、「それはわれわれの問題だ、創造的人間とはわれわれのことだ、われわれこそコンセプトゥール[概念立案者]だ」と言いだし、恥辱はそのどん底にまで達したのである★五。


こうした状況の進行を伴いながら、しかし当時の知のいわば治外法権的な状況はきわめて豊かであった。そうした活性化した知的状況に建築家も多かれ少なかれ影響を受ける。ある場合には建築家はドゥルーズが抵抗したコンセプトの簒奪者のひとりであったかもしれない。しかしまた建築的思考と現代思想の交配から生み出されたアイディアが当時の多様性の源泉のひとつだったことは確かである。

バブル経済——バブル建築と建築家の困難

産業構造の変化により都市周辺からの大規模工場の転出が起こり、八〇年代になると世界の大都市がこぞって都市のリストラクチャリングに向かった。その流行をフォローするように、国内でも巨大な再開発プロジェクトが動き始める。新宿西口の副都心建設もそのひとつであり、一九九〇年の丹下健三による新都庁は当時を象徴するプロジェクトであった。一九八五年には臨海副都心開発が開始され、当時の「都市改造」ブームに風を受けた都市博には、バブルの崩壊とともに青島都知事により九五年中止決定されるまで、多くの建築家が取り組んでいた。東京以外でも大阪の「OBP」(一九八〇)、横浜の「みなとみらい21」(一九八三)、神戸の「ハーバーランド」(一九八五)等、主要都市が遊休地の開発に取り組む。こうした巨大プロジェクトに参加する建築家は必ずしも多くはなかったが、官民こぞって再開発に向かう状況であった。
こうした再開発プロジェクトが引き金となって不動産投資の活性化を招いたのか、あるいは地価の上昇が再開発プロジェクトにリアリティを与えたのか、どちらが先とも言いにくいが、一九八五年から一九九一年までに都市圏の地価はほぼ三倍となり、場所によっては数十倍に跳ね上がるという異常な地価高騰が発生した。この地価の上昇は土地の担保価値の急激な増大をもたらし、経済面から建築に影響を与えた。当時の超低金利政策による運用難からだぶついた金融機関の資金は民間セクターへの融資へと向けられ、土地所有者に貸し込まれた「アブク銭」が不動産投資へと向けられた。バブル景気下で建設費のインフレーションはあったものの狂乱地価に対して言えば微々たるもので、土地に対する融資の年間利子と建設費がほぼ同額となるというような異常な事態がしばしば起きていた。
年間利子が建設費と等しいということは、プロジェクトが動き始めてから完成するまでの期間が仮に一年だとして、その間の貸付に対する金利負担額で建物がまるごと一棟建ってしまうことを意味する。時間をかけて設計を練り上げ建築の質を上げることよりも、端的に竣工までの期間を短かくすることが、クライアントの少なくとも名目上の利益にかなうという論理がここに成立する。こうした状況下にあっては、デリケートなスタディを積み重ね時間をかけて建築を作り上げることよりも、一発芸的に勢いにまかせデッチ上げられる建築が望まれてもある意味で不思議ではない。そこまで極端ではないにせよ、多かれ少なかれそれに類する状況がむしろ当時の常態であった。こうした状況を原因として粗製濫造的な事態が起こった、と短絡することはけっしてできないが、当時の建築家が置かれた困難な状況はけっして単純なものではない。
こうした状況から基本的に距離を取っていた磯崎新は、「イメージゲーム」と題するエッセイにおいて次のように述べている。

虚構しか受け付けなくなったこの都市がマネーゲームに蹂躙されたあげくに生み落とさねばならない鬼子として宿命づけられた建物の貌にむかって、しかも娼婦とたわむれるようにそれを楽しんでいる私たち自身にむかって、それでも虚構の中で、その一部を構成する仕事をせねばならないときに、いかなる視点を組みたてて対処すべきか★六。


この屈折したテクストの向こうに、当時の建築家の追いやられた位置をうかがうことはできないだろうか。

八〇年代建築の帰趨

八〇年代の建築を取り囲む状況をひととおり描出してきたが、このあたりで当時の建築をいくつかの傾向に分けたうえでまとめてみるべきだろう。
ポストモダンの建築と言ってまず思い浮かぶのは、歴史的意匠が断片的に取り入れられ、あるいは表面において模倣されたような様式主義的リヴァイヴァリズムの傾向だろう。歴史的な建築様式の要素をちりばめることで、冷たい近代建築から脱却し、共同性に根を下ろした建築を実現することが説かれた。歴史的コンテクストや伝統のストレートな踏襲が急速な変化を遂げた現在においてどれほど意味をなすのか、個々のケースで冷静に検討されねばならなかったのだろうが、装飾的意匠の付加は短期間にファッション化し、ブームに支えられて次々に実現されていく。チャールズ・ジェンクスの『ポスト・モダニズムの建築言語』がこの種の「ポモ」(歴史的意匠をちりばめた建築に対する当時の蔑称)を喧伝したこともあいまって、マイケル・グレイヴスらを筆頭に世界中にこの種の類型が現われた。歴史的ボキャブラリーの何の根拠もない付加が横行し、ともすると木に竹を接いだような光景を各地にもたらした。
「ポモ」は歴史にコンテクストを求めたが、むしろ現在時においてコンテクストを見出そうという傾向が六〇年代から徐々に形成されていた。主に都市論を参照しつつ、周囲の物理的・文化的コンテクストと呼応することで、一義的硬直に陥りがちな近代建築に対して両義的な水準を得ることに関心が払われるようになる。コンテクストに対する応答自体は古典建築にさえ見られるごく一般的な建築的配慮であり、これのみで自立するスタイルというわけではなく、近代建築の規範に追加的修正を加えるという程度のインパクトしかなかったかもしれない。しかしこうしたコンテクスチュアリズムの系統から派生した実践は、この時期の新しい傾向として評価されるべきだろう。またこの傾向と併せて考えるのは適当ではないかもしれないが、ヨーロッパ独特の歴史的都市の文脈を強く意識したアルド・ロッシの都市論も特筆すべき影響を与えた。
コンテクストへの注目は国内においては都市論の隆盛をもたらした。国文学者前田愛が『都市空間のなかの文学』(筑摩書房、一九八二)において文学に現われた都市の姿を手掛かりとした都市論を試み、これをきっかけとして記号が埋蔵されたアーカイヴとして都市を見る視点が一般化する。経済論理から一方的に遂行される再開発を横目に見ながら、そこで取りこぼされるものとしての歴史の堆積としての都市の文脈への関心が高まる。歴史上の文脈を視野とするいわゆる江戸・東京論ブームから、マイナーな歴史性へ関心を寄せる路上観察学まで、さまざまな展開が見られた。
建築における記号論の影響は、日本の場合には周囲に参照し得る固有の記号が少なかった事情もあり、記号の意味に注目するセマンティクスよりも、むしろ記号と記号を結びつける様式に注目するシンタクス的傾向が主流となる。抽象的なオブジェを記号と見なし、アノニマスなイコン(モルフェーム)を建築に変化を与える因子として考える手法や、八〇年代前半に流行したハイ・テック・スタイルから譲り受けたような機械のメタファーを用いるいわゆるメタル・テック、工業的素材をシンボリックに扱うインダストリアル・ヴァナキュラーのようなスタイルもこの類に含まれるだろう。特定の要素にある種のイメージやコノテーションを託していたという意味において、表象論的枠組みから建築を組み立てる傾向と言ってよいだろう。
以上の傾向は総じて形態デザインに関する水準にあったが、デリダたちの複雑なテクスト論や脱構築の議論に対応するようなピーター・アイゼンマンらの試みは、もちろん建築であるかぎり具体的形態はあるにせよ、むしろ理論的な追求に主眼があった点で意味合いがかなり異なる。もともと彼は言語学者ノーム・チョムスキーの普遍文法の理論を参照しつつ、与えられたヴォリュームと柱梁のような基本的構造に対する形式的操作により、建築の空間構造のシンタクスを限界まで追い込むようなプロジェクトで知られていた。フランスの哲学者ジャック・デリダの脱構築の議論を参照しつつ、さまざまな変換・操作における理論的展開が行なわれ、デコンストラクティヴィズムと称されていた。近代的空間概念を批判的に解体することへの指向、建築という形式に内在する伝統的枠組みを懐疑する試みである。
他方で近代建築の規範の理論的な破綻に注目する傾向もすでに八〇年代に現われていた。機能主義の規範の下では、与件としてのプログラムを収容する容器として建築は存在する。しかし現実の建物においてはプログラムが想定するような行為だけが行なわれるわけではなく、予期せぬイヴェントは絶えず起きており、かつそれは建築を活性化する積極的に評価すべきファクターであるという意識が現われ、イヴェントを誘発し交差させる場としての建築のあり方が模索された。他方でプログラムをただひたすらストレートに解くことにより、近代建築は機能主義が想定しなかったような異様な存在になりうるという意識も現われた。前者の典型としてベルナール・チュミ、後者の典型としてレム・コールハースの名を挙げられるだろう。どちらもいわゆるポストモダンの建築家というイメージはあまりないかもしれないが、すでに八〇年当時から彼らの建築に対する批判的試みの戦略的アイディアは出揃っていたと言ってよい。

抵抗のポストモダニズムと反動のポストモダニズム

批評家ハル・フォスターは一九八三年に編んだアンソロジー『反美学』の序論において、ポストモダニズムについて次のような重要な指摘をしている。

今日の文化の政治情勢において、モダニズムを脱構築し、現状に抵抗しようとしているポストモダニズムと、モダニズムを拒絶し現状を讚える反動のポストモダニズムとの間の根本的な対立が存在している。いわば、抵抗のポストモダニズムと反動のポストモダニズムの対立である。(…中略…)抵抗のポストモダニズムはモダニズムの公的な文化だけではなく、反動的なポストモダニズムの「虚偽の規範性」に対しても、対抗的実践として現れてくる。(…中略…)それは、起源に回帰するのではなく起源の批判となるような行為である。要するに、それは文化コードを利用するのではなく、問題化するのであり、また社会的、政治的帰属関係を隠蔽するのではなく、探求しようとするのだ★七。


これはポストモダニズムには、真のポストモダニズムと偽のポストモダニズムがあるというような月並みな話ではない。ハル・フォスターが指摘する抵抗のポストモダニズムとはモダニズムに対する批判の試みであり、モダニズムに対するオルタナティヴな理論に向けた実践である。これに対して、反動のポストモダニズムはしばしばモダニズムのもたらした負の側面を強調し、その批判を介してモダニズム自体を否定する。モダニズムのイデオロギーをそのスタイルと混同したあげく、その相方を文化的誤謬として非難し、それによって失われた人間性の回復といったスローガンが連呼される。モダニズムに対する態度ひとつとっても正反対のこうしたベクトルが、ひと括りにされてポストモダニズムと呼ばれる状況があった。ポストモダンという状況はこのように錯綜した様相全体である。
一般的に言って記号論や表象論、歴史的意匠の引用はその背景に、その意味を読み取る認識の基底面を前提とする。この前提が暗黙裏にある種の共同性を設定し、そうした手法は結局その共同性に依存する。こうした共同性が希薄になったとき、その種の形態はただナンセンスな異物と化すだろう。一般に流布しているポストモダン建築に対する批判の多くは、こうしたナンセンスにしか見えなくなった建築に向けられているのではないだろうか。結局のところ、さまざまな水準で多様化し、それゆえ他者の根本的に相容れない基底面が存在することを前提せざるをえない現在において、反動のポストモダニズムが一時的なスタイルを越えることがなかったことは、ある意味で当然であったかもしれない。
これに対して、アイゼンマン、チュミ、コールハースが当時提起した問題は、建築というディシプリンに内在する規範、あるいは一種の形而上学に対するラディカルな批判であった。それらは確かに近代建築に対する批判に出発する問題であったが、その問題設定は近代主義の範疇にとどまるものではなく、建築というディシプリンの伝統的な枠組みを問題とせざるをえないところにまで拡張している。「それは文化コードを利用するのではなく、問題化する」のである。彼らが取り組んだ課題を抽象的に言えば、近代的空間概念の批判、近代主義の規範に対する批判、そしてそれらの問題を追及する過程で浮かび上がってきた建築という形式全般に対する批判である。これらは建築というディシプリンに特殊な問題設定であり、安易に共感の回路を設定しようとする反動のポストモダニズムの指向に比較して、見方によってはむしろ建築の論理に閉塞しているかもしれない。しかし現状から見れば、ラディカルで批判的なこれらの取り組みこそ色褪せないリアリティがあり、彼等は先鋭的であり続けているのである。こうした状況は「ポモ」に代表される傾向の現状と比べれば明らかだろう。その意味で彼らの実践を、現在へと連続する近代建築批判の文脈としてみることができるのである。

4   九〇年代以降


第三者の審級の崩壊

九〇年代以降のことについては、そう遠くない過去のことでもあり特に細かく解説するまでもないだろう。長らく続いた政治的停滞は、冷戦構造の崩壊とともに、グローバルな資本主義へと底が抜け、ホッブス的世界観がリアリティーを持つに至る。この停滞にある意味で支えられていた日本経済もこの不安定化した状況による変調を被る。一九八九年末に日経平均株価四〇〇〇〇円を目前にして金融バブルの急速な崩壊が始まり、地価も一九九三年以降その後を追うように暴落する。こうして「失われた一〇年」と呼ばれる九〇年代に日本は突入していく。バブル崩壊以降の一〇年間に失われた日本の総資産は国富全体の一五パーセント、第二次世界大戦における損失とほぼ等しいとも言われる。こうした巨大な経済的損失が建築にのしかかっている現状については、誰もが日々体感しているところだろう。
大澤真幸の『虚構の時代の果て』は一九九五年のオウム真理教による地下鉄サリン事件を受けて、「虚構の時代」という社会のフェーズが限界に達した状況を論じている。虚構は現実を意味付けるフレームとして機能するものであり、そのフレームを介して人々は意味付けられた現実に向き合う。自分自身でも、対面している現実でもないなにか、という意味においてこうしたフレームを、大澤は第三者の審級と呼んでいる。近代社会とは理想という第三者の審級によってフレームされた現実であり、理想の権威が失墜していくのと入れ替わるように、虚構という第三者の審級によって現実が意味付けられるようになったという見方である。オウム真理教による一連の事件を、大澤はこの虚構という第三者の審級が衰退している状況の徴候として読み取っている。虚構としてのオウムの教義が教祖という具体的な存在に重ねられたとき、虚構は現実と一致することによってもはや虚構として機能しえぬことになる。それと同様に虚構として機能した例えば各種のメディアは、現実を意味付ける仕組みの実態を露呈させるとともに、第三者の審級としての機能を失う。第三者の審級が機能不全に陥った後に現われるのは、あらゆる第三者の審級に対するシニカリズムの台頭であり、分断化した私性への内向という事態である。

モダン・リヴァイヴァリズム

長期化する不況は建築に大きな影響を与えている。厳しい制限下で要求されるプログラムを解決することが強いられる状況がいたるところにあるだろう。このことは構想における判断を抑圧し、可能性を狭め、自由度を乏しくする。一般に好況下の建築に比べて、こうした時代に見かけの上で近代建築に類似した経済合理的解決が迫られるのは自然かもしれない。そしてまた、状況の変化を背景としてバブル期の建築に対する先入観から過去に対して単に否定的な認識しか持ちえず、それゆえその実態を知る糸口を見失い、そのことが近代建築批判の継続的な試みの文脈を見えにくいものにしているという状況があるとすれば、その二つの状況の折り重なる点において、近代建築に対する批判的意識そのものが見失われる事態が懸念される。
実際、モダン・リヴァイヴァル的な傾向は現在の主流と言って過言ではない。もちろんその内実はさまざまであり問題設定もけっして一様ではない。しかしそれでもきわめてナイーヴな「ぷちナショナリズム」ならぬ「ぷちモダニズム」的現象、ほとんど開き直りとでも言うべき実感主義と近代建築的スタイルの折衷が多々見られるのは事実である。「建築」にせよ「近代建築」にせよ、第三者の審級が次第に失効していくということは、あるいはこういうことなのかもしれない。しかしここでの問題は要するに、なるほど近代建築のメソッドの適用範囲は広いだろうが、それに多少時流に乗ったデザイン・ソースをスパイスのように振りかけたところで、理屈のうえでは結局「ポモ」とたいして変わらないということである。一定の期間それは面白く見えるかもしれないが、果たしてそれ以上何が残るだろう。「ポモ」の視覚的デザインに目をとられ、ポストモダンの建築とはあのようなものだと短絡し、むしろ近代建築への回帰になんらかの正当性、あるいは穏当さを仮想してはいないだろうか。こうした倒錯に反して、近代建築批判の文脈において「ポモ」は端的に分岐したひとつの隘路に過ぎないし、現在先鋭的に挑戦を続ける建築家の意識の在り処は「ポモ」とまったく無関係なところのポストモダン建築から連なる文脈にあるのである。こうした構図において、自己をアイデンティファイするために否定的対象として召喚される「八〇年代」とは、むしろ彼らの内面の投影ではないだろうか。目を背けたいような自己のある側面に対する違和感を介して自己をアイデンティファイする一種の内向に対して、批判を差し挟むことにどれほど意味があるかは疑問だが、その内向がさらにそのよって立つ文脈を隠蔽する循環を為しているとすれば望みがないと言う他ない。
八〇年代の異常に過熱したバブル期の建築ラッシュは、グローバルな傾向からすれば確かにある意味で「異質」であった。「いったい日本ではマネーがどんな役割をしているんだい。全く勘が狂っちまうな」。これは先に引いた磯崎のエッセイにおいてコールハースが思わずつぶやく言葉である。¥€$と開き直った現在のコールハースも当時はまだウブだったのかもしれない。しかしこうした「異質」さについて、それを日本のバブル経済の帰結と言うこともできなくはないだろう。これに対して、現在のナイーヴなモダン・リヴァイヴァルの傾向は、苦闘を続けながらも批判的姿勢を崩さない先鋭的建築家の動向に比して、端的に「異質」ではないだろうか。その「異質」さは建築以外の状況に帰することはできない。建築家自身にその根があるのだ。こうした「リヴィジョニズム」への抵抗を、「第三者の審級の失墜」や「私性への内向」といった状況において、どのようにして堅持しうるだろうか。まずは現在へといたるコンテクストを直視することによって、そしてそこに見出されるさまざまな事実をケーススタディとすることによって、その一歩とすべきではないだろうか。

近代建築批判の連続性

八〇年代以降一貫して批判的取り組みを持続した建築家たちは、現在においても重要な実践を継続しているが、彼らの水準だけが突出していると言えば言い過ぎだろう。彼らの試みが手法として一般化し、さまざまな事例に応用されている。例えばチュミやコールハースの影響を受けて、日本でもプログラムに対する関心は大変高くなった。住宅から公共施設に至るあらゆるスケールでプログラムを操作子と考える意識が定着し、プランニングと建築的構成に関する操作的な意識が一般化した。制度的なプログラムの分節に対して、プログラムを構想する段階から建築家が参加していく取り組みも、こうした意識の高まりから派生した重要な実践だろう。単なるデザイン上の創意工夫と、批判的問題設定に由来する真にラディカルな挑戦は、このような波及性において射程距離に大きな差が出てくるものだ。九〇年代以降の建築の動向が全て八〇年代に由来するというわけではもちろんない。しかし八〇年代と九〇年代の間には、断絶というよりも連続があり、それを意識するしないにかかわらず、そのような歴史的文脈の末端において現に建築家は建築を構想しているのである。こうした情景において、八〇年代の歴史性が改めて評価されるべきではないだろうか。


★一——『住宅特集』(二〇〇〇年八月号、新建築社)。
★二——大澤真幸『虚構の時代の果て——オウムと世界最終戦争』(ちくま新書、一九九六)四三頁。
★三——同書、四四頁。
★四——『新建築』(一九七九年一〇月号、新建築社)。
★五——ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』(財津理訳、河出書房新社、一九九七、[原書、一九九一])一七頁。
★六——磯崎新『《建築》という形式 I 』(新建築社、一九九一)一八〇頁。
★七——ハル・フォスター編『反美学——ポストモダンの諸相』(室井尚+吉岡洋訳、勁草書房、一九八七)七頁。

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