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離合集散モデルについての試論──可能態としての住居集合 | 南泰裕
Essay on Collective Decision Model : Gathering of Houses as a Possible Model | Minami Yasuhiro
掲載『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) pp.145-157

「私」の複数性

ここ近年の、メディア・テクノロジーの進展と変容によって、わたしたちのコミニュケーションのかたちは大きく変わったように見える。あまりにも手垢にまみれた記述だが、それはおそらく事実だろう。電話、ファックス、電子メール、携帯電話、携帯メール等々。コミニュケーションのチャンネルが豊富化し、それぞれに異なったコミニュケーションの方法が多様に入り交じって複雑なメディア環境が生み出され、それが日々、常態化しつつある。
しかし、私がここで問題化しようとしているのは、こうしたメディアの多様化の諸状況そのものではない。そうではなく、ここで切り出しておくべきだと思うのは、メディアのさまざまな変容を「コミニケューションの多様化」として、いわば単純化してしまうことによってもたらされる微かな違和感の所在である。この違和感をここで問題化しようとするのは、それこそがまさに、住居集合の基底的な可能性に触れている、と感じ取れるからである。
だが、住居集合の可能性を睨んだうえでこの違和感を切り出すことは、ひどく微妙で高度な手続きを要求してくるだろう。そのことは、十分に予測できる。それは先取りして言えば、原理的なパラドックスを遂行しようとすることと、同じであるからだ。だが、にもかかわらず、それは試行されるべきなのだ、と思える。だから、その試行はおそらく不十分に終わる、という予見を担保しながらも、その内実について、語ってみる。
メディア・テクノロジーの多様化が私たちにもたらす違和感とは、一言で言えば、「私」の複数性と呼ぶべきものが実在性をもってしまう、という現在的事態に対応している。例えば、私たちは電話を使いながら電子メールを利用し、その一方でファックスによって文書を電送する。そのおのおのはチャンネル(次元)が異なるメディアであるため、時制の順序集合という拘束から解放されている。すなわち、複数のコミニュケーションを同時に遂行することができている。「私」という主体が、複数の次元にわたって存在している、という感覚。複数のコミニュケーション手段によるこの同時性の成立は、「私」の複数性という虚構に対して、確かな実在性を与えるように見える。
しかし、このような語り方は、厳密に言えば正確ではない。複数のコミニュケーション手段が成立させているかに見えるこの同時性は、微視的にみれば、やはり成立していない、と言わざるを得ないからである。主体としての「私」は、フィジカルには単一であるため、擬似的なかたちでしかこの同時性を実現することができない。数種類のメディアを同時的に自在に使いこなしてコミニュケーションを行なうことは、非常に困難であるか、または不可能であるかのどちらかである。私たちは複数のコミニュケーション手段を駆使するさいに、その時間の間隔をどこまでも縮めることはできるが、正確に同時遂行ができているわけではない。大きく見れば、それを同時性として近似することはできるものの、その同時性はつねに不十分であるよりほかないのである。だとすれば、この、「私」の複数性と呼ぶべきものは、やはり仮構的な概念でしかないのだろうか。
そうではない。
こうした不十分さを確認したうえで、しかし、「私」の複数性は、厳密に成立する。ただし、この複数性が成立する契機は、私ではなく、他者である。
「私」の複数性と呼ぶべきものの確実な実在感は、実は他者によって逆光的に生み出されている。主体の単一性はフィジカルに乗り超えることができないが、「私」にとっての他者は、具体的な複数性をともなって立ち現われる可能性のもとにあるからである。実際に、私たちはある人から電話を受け取っている最中に、ある事務所からファックスを送られ、と同時に別の人から電子メールが届き、さらに別の知人からの携帯電話が鳴り出す、という事態に遭遇することが可能な環境のもとにいる。この同時性は、主体の側から組み立てようとする複数性と比較してみれば、はるかに厳密で確実で多大なものである。というのは、そうした同時性に立ち会っている瞬間には、他者の側から見た私は、確かに現実的な複数性を帯びた主体として受け取られているからである。
「私」の複数性はこうして、他者によっていわば構成的に生み出される。この複数性は、主体の側から立ち上げようとする不完全な複数性よりも、より実在的であるのみならず、量的な面でもその不完全さをはるかに凌駕している。というのも、他者によって構成される「私」の複数性は、少なくとも他者の数の分だけ増幅させることがフィジカルに可能だからである。
仮に三人の他者が私に向かって同時にコミニュケーションを取ってきた場合、「私」の複数性は三となる。これは同時に、コミニュケーションのチャンネルが三次元であることをも意味している。しかし、メディア・テクノロジーの次元が十分に多く、無限であると見なせる、という仮定が成立するならば、この「私」の複数性は、原理的には(他者の数を超えるまで)いくらでも増やし続けることができる。他者の側からの複数性は、当の主体の認知にかかわりなく、その数のオーダーをいとも簡単に飛び越えることが可能だからである。その複数性は、一○や一○○という数のレベルを一挙に飛び越え、おそらく認識論的には、無限大に向かって発散する。
こうして他者によって組み上げられる「私」の複数性は、「私が私であること」の同一性に亀裂を与え、それを揺るがすかに見える。その揺らぎが、先に示唆した違和感の手応えであるのだ、とひとまずは考えることができる。
しかしさらに言えば、こうした了解の全体は、「私」の複数性という概念が帯びている本来性のようなものを、巧妙に転覆させてしまっている。「私」の複数性は一見、多様なメディア・テクノロジーによって生み出されているかに見えるが、このメディア・テクノロジーの多様性こそが、「私」の複数性という概念のあやを、不可避的にかき消してしまってもいるのである。私たちがここでなすべきなのは、「私」の複数性をめぐる一般了解の全体を、転倒的に読解することなのだ、と思える。すなわち、「私」の複数性は主体の本来性であって、それが消去されてしまうこと自体が虚構だったのだ、と。
「私」の複数性は、メディア・テクノロジーによってはじめて、虚構として成立するものではない。逆なのだ。「私」を単一的に受け止めようとする了解こそが虚構(制度)であって、それによって複数性はあらかじめ覆い隠されてしまっていたのだ。「私」の複数性は、最初からつねにすでに存立していたのである。だから、この複数性は本当は、主体の本来的な手応えの輪郭であったはずである。それは、確かに近年のメディア・テクノロジーを通して、擬制的に描出されてはいる。しかし、それが擬制的であるがゆえに、そこに内在する本来的な何かが欠け落ちてしまっている。この本来性は、描き出そうとした瞬間に消え去ってしまうような何ものかであり、言語化し得ないものを言語へと射影することによって、取りこぼしてしまう原質のようなものである。この、「私」の複数性の概念をめぐる困難さを、もっとも鮮やかなかたちで切開しているのは、ベルクソンによる多数性をめぐる思考である。
ベルクソンは持続の観念をめぐる思考のなかで、時間がともすれば空間化されてしまうことを執拗に批判している。ベルクソンは、意識の諸状態が認識の過程で切り分けられ、空間の中に数的に配置されることを取り上げ、それが意識の本来性を消去してしまうのだ、ということを繰り返し述べている。その延長で、物質的な不可入性と等質的空間によって表象される量的多数性と、さまざまな意識が同時的に相互浸透するような質的多様性とを厳密に区別する。彼はひとりの人間の自我意識の諸状態について、次のように言っている。

自我と外的事物との接触面を掘って、有機的で生命の通った知性の深みにまで貫入するならば、多くの観念が重なり合い、あるいはむしろ内的に融合しあっているのを目撃することになるであろう。そしてこれらの観念は、ひとたび分解されてしまうと、お互いに排除し合って、理論的に矛盾し合う諸項という形を呈するようになる。世にも奇妙な夢、二つの像が集まり合って、同時に二人の異なる人間をあらわしながら、しかもそれが一人の人間でしかないような夢が、覚醒の状態における概念の相互浸透について、わずかながらある観念をあたえてくれるだろう★一。


ベルクソンのこうした言葉は、単に「私」の複数性を指摘しているにとどまらない。この言葉は、メディア・テクノロジーが描出する複数性がなぜ擬制的たらざるを得ないか、ということをすでに明らかにしてしまっている。彼は、私たちのあらゆる観念に共通の飛躍エランは、諸観念の相互浸透を考える以外にあり得ない、とはっきり述べている。つまり、ベルクソンの示唆する複数性は、例えば諸々のメディア・テクノロジーによって実現されているような、離散的(相互不可入的)なものではない。それは互いに有機的に交じり合い、浸透するような多数性なのである。そして、それこそが意識の諸状態の本来性であることを語っているのである。
ベルクソンの試行していることは、言ってみれば空間の非空間化、言語の非言語化である。ここで示されている、相互浸透を特質とする質的多数性の概念には、量子力学の知見やリーマン多様体との類縁性を見ることができる★二。が、ここで確認しておかなければならないのは、例えば非ユークリッド幾何学の先で見出されたリーマンのn次元多様体といったものが、単に新しい概念を創出したのだ、と受け取るべきではない点である。リーマンにおける幾何学の試みは、空間認識についてのユークリッド幾何学という虚構(信仰)を脱力させ、その本来性を復興させることに照準が当てられていたのだった。その結果として、非ユークリッド幾何学という発見的な世界観が見出された、というほうが正しい。
このことは、ベルクソンが一貫して示そうとしていた質的多数性という概念においても、同じなのだと言える。言葉にし得ない本来性の、確からしさの手応えが、ベルクソンの思考からは確実に響いてくる。しかしもちろん、これらの思考を正確になぞろうとすることが、ここで目指すべき最終的な境位なのではない。私が、ベルクソンのこうした思考に打たれるのは、それが住居集合という問題系を、あまりに深々と現在的に貫いているように見えるからである。

1──他者によって構成される「私」の複数性

1──他者によって構成される「私」の複数性

「距離」の複数化

あらゆるすべてのメディア・テクノロジーは、その初源的な目標を、近接性の実現においている。距離の零化(およびそれに対応する速度の追求)が、メディア・テクノロジーの進展を揺るぎなく支える統一目標である。こうした志向は、例えば都市といった大規模な物理的対象を組み替える際にも、そのままに射影される。都市において住居を集合させるという方法は、そうした志向の残滓として生み出されているのだ、と見ることもできるだろう。物理的な近接性を住居へと射影したときに、空間の高度利用としての住居集合が生み出される。この形式はそれゆえ、都市が都市としてあることと対になって成立している。
だが、私たちが実現させている住居集合の現実態は、近接性の実現というよりはむしろ、密着位相と呼ぶほうが正しいような状況のもとにある。住居集合においては、個々の住居がぎりぎりにまで密着し合っているからだ。私たちの希望にかかわりなく、それらは空間の高度利用のために、一枚の壁のみでおのおのの住居が隣接し、ひしめきあっている。私たちは都市におけるこうした住居集合のかたちを、つねに否定的なかたちで受け止めてしまうだろう。それは、都市において仕方なく受認すべき居住形式であるのだ、と。この否定的な認識を私たちは、どのようにしても拭い去ることができない。しかし、こうした現実態が組み上がる条件を、あらためて洗い出してみるならば、私たちは住居集合の諸概念を書き換える可能性に、わずかでも触れることができるのではないだろうか。
私たちが日常的に見取っている住居集合の、現実態を組み上げている条件は何だろうか。それは、空間の高度利用から導き出された、住居空間の最近隣化である。これは、近接性を超えて否定的たらざるを得ない密着位相を生み出している。そして、この際に前提とされているのは、「おのおのの住居は、他の隣接する住居に越境してはならない」という常識的な所有と占有のルールである。これは言い換えれば、ベルクソンが語っていたような、「物質の相互不加入性」に対応していると言える。
この占有のルールに依拠するかぎり、住居集合をなす個々の住居を、密着の位相から引き離すことはきわめて困難である。個々の住居を引き離すことは、空間の高度利用という都市的命題に反するからだ。だから、そこでは各住居による密着位相を保持したうえで、それぞれの住居を肥大化させる、というかたちに進むほかない。すなわち、占有の度合いを大きくすることでしか、住居集合がもたらす否定性を低減させることはできない。ひとつの居住単位がひとつの住居に一対一対応している、という相互不可入性を疑わない限り、住居集合はいつまでもこの位相にとどまる。
例えば、ある住居集合のパブリックなスペースを豊富化することでその否定性を消去しようとしてみても、現実的な実効力をもつことはできない。語るまでもなく、そのことは数多くの事例がすでに明らかにしてしまっている。謳い文句とはうらはらに、現実には形骸化してしまっているパブリック・スペースの事例を、私たちは日頃どれほど多く見ていることだろう。占有を旨とする条件のもとで組み上げられる住居集合において、「パブリック・スペースの豊富化」という謂いは、ほとんど効力をもたないのだ。
こうした、現実態としての住居集合に対し、その前提条件そのものから離脱したような、可能態としての住居集合を思い描くことは可能だろうか。つまり、ある住居が別の住居に浸透・侵入してはならない、という住居の相互不可入性の条件を、取り外した住居集合は思念することができるだろうか。
こうした問い方は、フィジカルな空間を対象とするうえでは、きわめてクリティカルな水準をなぞっている。それは一歩間違えば、ほとんど無意味な夢想を描写することで終わってしまう危険性がある。どのようにラディカルに見える思考やイメージも、具体的な空間へと落とし込んだとたんに、その思考のもっとも肝要な核質が見事に削り落とされてしまうということを、私たちは誰知らず幾度も経験するからだ。ラディカリズムが目的化してしまっては、いずれそうした思考の失墜へと導かれてしまうだろう。例えば、ノマディズムの概念を居住空間へと落とし込むことは、そうした危険性のもとにあると言える。
しかし、上記のような可能態としての住居集合を思念することは、ラディカルか否かという問題とは無関係に、私たちの居住の本来性を呼び戻す可能性がある。少なくとも私にはそう直観される。さらに、そうした可能態としての住居集合を、現在のメディア・テクノロジーが補完するかもしれないという予測もほのみえる。革新性の追求に依るのではなしに、本来性を取り戻そうとする志向が、住居集合の手応えを更新するかもしれない。そう感じられるのだ。
ここで取り出そうとしている可能態としての住居は、近接性に覆われた現実態としての住居集合に対し、離散性を重ね合わせたものとして描出できる。言い換えれば、「集う」という表記によって特徴づけられる住居集合に向かって、「離れる」という志向を上書きしたものである。さしあたり、この可能態としての住居集合のイメージを、ここでは〈離合集散モデル〉として描き出しておく。人々が、集いつつ離れる、という相互に離反する状態を、同時に体現できるようなモデル。
この可能態としての住居集合において、各住居の相互不加入性というルールが取り外され、おのおのの相互浸透を現実了解的なレベルで組み込んだものだとしたら、どうだろうか。離散性と相互浸透は、互いに呼応する概念として、住居集合のかたちを書き換えることになりはしないだろうか。
この段階で、現実態としての住居集合と、可能態としての住居集合の差異は、次のように記述することができる。
●現実態:近接性、密着位相、住居の相互不可入、占有と所有
●可能態:離散性、相互浸透、集合と離散の同時体現、複数性
こうして、可能態としての住居集合を思念するうえで、さしあたって離散性と相互浸透という言葉が抽出された。次に、これら二つの言葉を接続する概念が引き出されなければならない。すなわち、距離の概念である。
近接性に対する離散性は、距離によって定義づけられる。一方で、その離散性に呼応させられる相互浸透も、距離の関数として受け取ることができる。メディア・テクノロジーはこの距離の零化を実現し続けてきたのだし、住居集合における近接性も、距離を廃棄することの裏返った表現であった。しかし、近さに対して遠さが価値をもつようなモデルが提示できるのならば、現実態としての住居集合が抱える否定性を、どうにか反転させられるのではないか。そのためには、一元論的な距離の近接性を志向するのではなしに、「距離」の複数化が要請されるのではないか。近さと遠さが、同時に存在しているようなモデルが、求められるのではないか。
こうした居住空間に連なるイメージとして、私はかつて、「内在立方モデル」という概念を提示したことがある★三。これは、約言するならば、内部の拡張と外部の凝縮が同時存在しているような空間体のモデルである。拡張と凝縮の同時存在は、言い換えれば「距離」の複数化にほかならないが、そうしたイメージを現実的なかたちに翻訳することが、まったく不可能なわけではない。私たちはすでに、リアルな空間とヴァーチュアルな空間の両義性を生きているのだから。ただ、こうしたイメージを具体的な住居集合へと映し込むのには、多くのデバイスと技術が必要となってくるように思われる。離れていることの心地よさと、集うことの楽しさと、つながることの重要さ。これらを住居集合において同時に体現するためには、それを確実に支えることのできる高度な空間的手続きが、おそらくは要求される。そのときにさしあたって言えるのは、ここで切りだそうとしている〈離合集散モデル〉が、距離の組み込みを要請してきている、ということである。
現実態としての住居集合においては、占有の肥大化=空間の増幅というかたちによって住居が差異化されていた。しかし、可能態としての住居集合の中に離散性を重ね書くためには、空間の増幅ではなしに、住居の中に距離を組み込むことの方が核心的になってくる。言い換えれば、住居を距離化することが焦点となる。
距離の概念をめぐっては、これまでの多くの思考がその廃棄の方法にのみ照準され続けてきた。例えばハイデガーは、世界内存在の空間的なあり方をめぐって、「距離を取り去ること」と「方向を見定めること」という二つの特徴を取り上げていた。ハイデガーが道具的連関との関わりのなかでこうした思考を展開したことを、近年のメディア・テクノロジーはほぼ正確にトレースしているかにも見える。あるいは、ライプニッツのモナド論においても、距離という概念に限って見るならば、モナドが距離を飛び越える、という距離の廃棄論についての記述があるのみである。距離は、つねに克服されるべき距たり障害として見取られていたのだ。
しかし、可能態としての住居集合においては、おのおのの住居を距離化することが現実的な効力を持ち始める。ただし、この距離化は、個々の住居における私的な空間増幅へと転化させられてはならない。そうなれば、それは占有という前提を強化することしか結果しないからだ。この、住居の距離化は、占有を前提とするものであってはならず、フィジカルな成立可能性を有しているのでなければならない。と同時に、「私」の複数性が潜在させていたはずの本来性へと、行き届くものでなければならない。それは、居住をなす主体にとって、硬化したラディカリズムを強いるものであってはならない。そうではなくて、それは「私」という主体を、その本来性へと向けてリリースしていくようなものでなければならない。
そうしたことを考えるのならば、住居に距離を含み込ませることは、すなわち住居の単一性を溶解させ、主体を細やかに微分することにも結びついていていいはずである。住居の単一性は「私」の複数性に対する抑圧を、もっとも分かりやすいかたちで可視化しているのだから。
ある住居がひとつの居住に対応している、という前提は、「私」の複数性に対する抑圧を空間によって表象している。その抑圧が虚構であるとするならば、例えば空間の占有という事態もまったき虚構である、と考え得ることに何ら不可思議さはない。「私」を単一化しようとする虚構こそが、単一な住居の正当性を保証してしまう。その虚構に、近接性という概念が強力に貼り付いている。けれども、繰り返して言うが、近代の思考が強迫反復的に思考し続けてきた近接性に対し、ただ単に遠隔的な離散性を対置するだけでは、不十分である。それは、都市内存在としての私たちの、本来性を呼び戻す契機にはなり得ない。
距離は、これまでの近接性を抹消することのないかたちで、複数的に書き換えられるべきである。そして、それによってようやく見えてくるのは、住居集合という形式がおのずと照らし出す、住居単位についての基本的な疑義である。

「集合」の複数系

〈離合集散モデル〉を光源として描き出される可能態としての住居集合は、「私」の複数性をめぐる思考を通して、相互浸透・離散性・距離、という概念を浮かび上がらせた。しかし、こうした概念を導出するはるか以前に、本当はまずもって考えておかなければならないことがあった。それは、住居集合における集合の概念がいかなる審級のもとにあるのか、ということである。
私たちが見取っている住居集合においては、居住の単位についての疑いがはじめに消し去られてしまっている。集合という言葉の使用は、その単位についての疑いを許容し得ないのだ。集合という概念の使用が可能となるためには、その集合をなす要素の不可侵性(相互独立性)が前提になっているからである。そこでは、おのおのの住居単位が相互に独立した空間を占有し、おのおのは他を決して侵犯せず、互いに独立した主体を表象している。ベルクソンが示唆し続けていたような、「私」の複数性がはらむポリフォニックな有機性は、現実態としての住居集合において、何重にもわたって消去されている。だが、私たちの居住様態は、本当は、そのようにして固着的に個別化し得るものではないはずである。ひとつの居住空間においても複数の居住が内包されていると言えるし、独立性の高い住居にも、複数の居住の主体が混交して活動を営んでいることは言うまでもない。
ある独立住居と、複数の住居が寄り集まった住居集合を弁別的に切り分けることは、だから、本当は、集合の概念を正確に使い切っているわけではない。可能態としての住居集合を考えるうえでは、はじめに、単位についての考察が不可欠である。ル・コルビュジエが、自ら考案した住居集合モデルをユニテ(単位)と名付けていたことを、ここで想起してみてもいい。あるいは、ベルクソンが相互浸透のイメージを析出する前に、単位についての検証を行なっていたことを鑑みてみてもいい。住居についての単位を集合論の視角から読み直すならば、私たちはむしろ、次のように言うべきだろう。すなわち、「すべての住居は集合住居である」、と。
居住様態の全体には、どのようなかたちであっても、すでに集合的ななにものかが滲み込んでいる。そして、その集合的ななにものかは、独立した諸要素の直和によって全体を記述できるものではない。それらは、相互に浸透しながら動的に揺らぎ、移り変わっていく多数の素子の集まりなのだ。ベルクソンが何度も強調していたように、こうしたイメージの全体を空間によって完全翻訳することは、ほとんど不可能である。空間こそが、そうしたイメージの豊かさを凝固させてしまう当事者でもあるのだから。しかし、そのイメージの断片を空間的にかすめ取ってみることは、不可能ではない。居住単位についての前提を溶解し、「集合」そのものの複数系として組み直されるようなイメージの断片が、ここにいたってようやく、見えてくる。
「集う」という基本概念に対して、「離れる」という対概念を重ね書きした〈離合集散モデル〉は、住居集合において、次のような基本形として草案することができる。まず、互いに異なった居住空間が、一定の残余スペースを媒介として接続しつつ分離している諸状態を想定する。この残余スペースは、住居間の間隙を環流するヴォイド・フレームとして、全体を規定つつも新しく利用される可能性を有している。また、この残余スペースは住居の境界の固定化を、脱力させるための機縁ともなる。それはおのおのの私的な居住空間からにじみ出てきた、文字通りの残余スペースの総和である。私的とも公的とも言えないこれらの残余スペースが住居の境界にめぐりわたされ、住居集合の離接形態を輪郭づける。その残余スペースは、ときにある住居によって部分的に呑み込まれるかもしれないし、ときにはまったくの虚空となるかもしれない。それなので、それぞれの住居は、ここにおいて互いに他の住居と重合し、相互浸透を起こすかもしれない。
この残余スペースは、例えばサイバースペースといったようにメタフォリカルに読解することも可能だが、フィジカルに読み込むことも不可能ではない。例えば、現実態としての住居集合になぞらえて言えば、そこではパイプ・スペースや収納空間、中庭、バルコニー、空中庭園といったものを立体的に構築する部分となる。それによって境界はゆらぎ、住居間の外的距離が高次元化される。おのおのの住居は浸透可能なスキンをまとうことによって、密着位相から離脱する。おのおのの住居は互いに分離して、初期条件としての離散性を僅かずつ自らのうちに囲い込む。
次に、住居集合における各住居を分離させるという手続きをさらに進めて、住居内空間をもそれぞれ分離させる。すなわち、内的距離の導入である。そのもっとも基本的なかたちは、各住居の空間を二つに分離させた場合である。住居空間を二つに分離することによって、ひとつの住居は空間A、空間B、経路Lという三つの要素をワンセットとする、緩やかな枠組みを持ったまとまりとなる。これは同時に、住居の単一性を踏み破り、集合の概念を複数的に捉え直す足がかりともなる。
このかたちに準拠した既存の事例としては、住居集合におけるアネックス・スペースやトランクルーム、あるいはSOHOなどの計画が挙げられる。また、職住近接型の形態や二世帯住宅といったスタイルもこの圏域に入ってくる。しかし何よりも確認しておくべきなのは、こうしたかたちによって、単一の主体が必ずしも単一の空間に対応するのではない、という状況が常態化し得る点である。それがイメージの不完全な射影であるのだとしても、「私」の複数性は、それによってわずかに復権させられる。さらにこの形式においては、ひとつの住居内に経路Lが付加されることで、住居集合における近隣の意味づけが豊富化される。各住居空間の近隣の数は離散しながらも増加し、かつ近隣を自主選択し得る自由度が高くなる。主体は微分され、住居の境界は動的に膨らみをもち、占有と非占有の境は曖昧化する。
これらの形式を組み合わせることによって、各住居、および住居内空間は連続的に微分されていく。内的距離と外的距離が同時的に落とし込まれることで、多様な空間が星座のようにちりばめられた住居集合のイメージが、少しずつ彫琢されてゆく。
この、「集いつつ離れて」構成された住居集合の輪郭は、「共に暮らしていても、少しは離れていた方が互いによい」といったような一般的な了解を、空間的に代弁してもいる。しかも、「少しは離れていた方が」という微妙な距離の想定は、住居集合というスケールにおいて強いリアリティをもつに違いない。さらに、現在のさまざまなメディア・テクノロジーは、その程度に離れた空間を接続することを容易なものとしている。
ここで、ある住居と他の住居の関係を考えてみる。各住居はそれぞれ自らの経路を含んでいるが、この経路は住居にとっての外部でもある。だから、住居集合内の非居住スペース/残余スペースは、住居にとって内部であると同時に外部でもある、という両義性をもつことになる。この経路群は、外廊下のような、住居集合における最短経路=通過交通路として機能するだけのものではなくなる。内部=外部としての経路空間を豊富化することが、それぞれの住居にとって大きな意味をもってくる。独立住居には持ち込めなかった距離がそれぞれの住居に導入され、動的なスペースとしての経路が、それぞれの居住者によって編み上げられる。それらは互いに隣接し、交差し、離反しながら、それぞれ独自の空間の濃度を作り上げていく。
内部が分離され、緩やかなまとまりとなったおのおのの住居は、それによって外部のスペースと緩やかに交わる。各住居へとアクセスする交通も複線化され、内部が外部に滲み出すことによってパブリック/プライベート/コモンの分節が変容する。と同時に、ひとつの住居内においてもその居住者の所在が一意に決定されることはない。一人の居住者は、その居住空間の中に、いると同時にいない。各住居どうしも、ヴォイド・フレームとしての残余スペースによって隣接しつつ離れている。離合集散の諸状態に覆われて細かく微分された空間の総体は、「シュレーディンガーの猫」のように、「存在しつつ存在しない」という量子論的なモデルにどこまでも漸近し、居住者たちはその空間の中を多様に行き交う。
この、可能態としての住居集合は、ベルクソンが切り出していた多数性のイメージのかけらを、わずかでも映し込んでいる、と言えるだろうか。

2──ゆるやかなまとまりをなす住居セットの集合

2──ゆるやかなまとまりをなす住居セットの集合


★一──ベルクソン『時間と自由』(平井啓之訳、白水社、一九九○)、一二七─一二八頁。
★二──守永直幹「ベルクソンのシンボル多様体論」(『数学の思考・現代思想、臨時増刊』青土社、二○○○年一○月号、二六一─二六五頁)。
★三──拙論「弧絶的な共同の彼岸」(『建築文化』二○○○年一○月号、彰国社、一三一─一三五頁、「住居はいかに可能か」連載第九回)。

>南泰裕(ミナミ・ヤスヒロ)

1967年生
アトリエ・アンプレックス主宰、国士舘大学理工学部准教授。建築家。

>『10+1』 No.26

特集=都市集住スタディ

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>住居はいかに可能か

2002年11月1日