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東京論の断層──「見えない都市」の十有余年 | 中筋直哉
Dislocated Studies of Tokyo: The "Invisible" City in Recent Decades | Naoya Nakasuji
掲載『10+1』 No.12 (東京新論) pp.168-177

自分には第一の故郷も、第二の故郷も、いやそもそも故郷という意味がわからぬと深く感じたのだ。思い出のないところに故郷はない。確乎たる環境がもたらす確乎たる印象の数々が、つもりつもって作りあげた強い思い出を持った人でなければ故郷という言葉のはらむ健康な感動はわかないのであろう。そういうものも私の何処を捜してもみつからない。
小林秀雄「故郷を失った文学」一九三三


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東京論の断層

一九八〇年代から現在までの出版物のなかに都市東京の現在を捉えるのが本論のテーマである、と書いてみて、この十有余年に現われた東京をめぐる出版物の多さを思い、途方に暮れてしまった。その前半、バブル経済といわれ都市論ブームといわれた期間はもちろん、バブルがはじけ、環境や福祉等どちらかというと反・都市的なテーマが論壇を賑わせるようになった現在でも、まだ「都市と環境」とか「都市社会における福祉」といったサブ・テーマがしぶとく生き残っているのだから、あらためて都市および東京が人々の言葉を吸引する力の強さに驚かずにはいられないし、それをひとまとめに語る困難を覚えずにはいられない。
いま一点私ごとで恐れ入るが、上京して以来ずっと都心に近い街区に住まってきた私は、一年半ほどのあいだ東京の周縁のある町の住民になった。都心の繁華街まで何だかんだで一時間半以上、そのうえ「人身事故」などで頻繁に鉄道が不通になるような町に住んでみると、「都市感覚」とでもいうべき感覚が急速に失われていくような感じがしたのである。かつて私の通っていた大学には、年間一〇〇本だか二〇〇本だかの映画を見ることが履修の条件になっていたゼミナールがあり、天の邪鬼の私は「数じゃないでしょう」と冷笑していたのだが、それがある真実を衝いていることをこのとき思い知らされた。つまり都市とか都市文化といったものは、相当な耽溺を不可欠とするのである。いったん耽溺を離れると、それらは全く空々しい存在となってしまう。都市音痴になりつつある自分に愕然として、あわてて都心近くへ戻ってみたが、未だにリハビリが終わった感じがしない。むさぼるように都市論、東京論を読み漁った、あの感覚が蘇ってこないのである。
しかし、こうした事情を措くとしても、出版物という表われを通してこの十有余年の都市および東京をひとまとめに語る困難をもたらす深い「断層」が存在するように思われる。何よりそれは、その後半期の出版物に多く見られるように、「八〇年代的な都市像・東京像の失墜」というテーマとして表われている。これはしかし、単にバブルがはじけ、それを煽動し、その恩恵に与っていた土木・建設業界が不況になって、専らそこに消費者を求めるような楽観的な内容の本が売れなくなったということではあるまい★一。もっと深刻な、八〇年代的な都市の語り方─東京の見出し方を停止させる、暴力的とでもいうべき「断層」が存在するのではないか。あらためてそう問うてみるとき、私はこの十有余年のあいだに起こった三つの事件を、その彼岸にある八〇年代の都市および東京がまるで蜃気楼であったかのように思わせるほどの鮮烈な印象をもって思い出すのである。

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三つの事件

一つ目の事件とは、直接的には一九八九年一月の昭和天皇の死去なのだが、その日一日中テレビを見ていたにもかかわらず、この事件についての私の印象は、別の二つの日の印象によって完全に置き換えられている。その一つ目の日の印象とはこうである。それから一カ月余り後の葬儀の日、その墳墓の近くの駅でジュースを求めようとした私は、すべての販売機が発売中止になっていることに気がついた。雨の薄暗いホームの販売機に、「売切」の赤いランプが点々と光っている。その時まで一年余り続いてきた「自粛」という日本人らしいふるまいの集合態、いわば陰性の「集合沸騰」★二とでもいうべき事態とはまったく異なる、冷え冷えとした違和感、むしろ「ゼロ・祝祭」とでもいった方がいいような印象が強く残った。
二つ目の日の印象とはこうである。それから二年余り後の長崎県雲仙普賢岳の大噴火の時、体育館に避難した人々を今上天皇が見舞った際のテレビ映像で、作業着のような服を着た天皇と皇后が、体育館のあちこちに敷かれた畳の間を歩き回り、体育館の床に直にしゃがんで、畳の上に座る被災者の人々に慰めの言葉をかけていた。見ていた私は、とっさに子供の頃からなれ親しんだ「百人一首カルタ」を思い出した。畳の上に座し、秋の田の実りを言祝ぐ天智天皇の図像を。テレビは全く逆の図像を映し出している。そのとき私は、はっきりと天皇の死の質量を測りえたように思った。天皇制という過去よりいやつぎつぎに継がれてきた(と観念されている)人々の観念上の制度の重みに、火山災害という自然的事実、被災した人々の現在の生活事実の集合の重みが勝っている。私たちは永続する観念上の制度、そのうちに保持されてきた唯一の集権的中心の存在について、さも当然のごとくに語ることはもはやできないのではなかろうか。かつてR・バルトは記号の集積としての都市東京には皇居という名の空虚な中心が存在すると述べたが(R・バルト『表徴の帝国』新潮社、一九七四)、もはやそれは記号としてさえも存在しえないのではなかろうか。天皇の死は、私たちが私たちの都市を語り東京を見出すというふるまいに大きな疑問符を刻した。私たちが都市の秩序や東京の伝説を語る際に当然の前提としてきた中枢性や権威・権力の概念の(形式ではなく)内容は、その理念型を喪失したのである。八〇年代の都市像・東京像の失墜に表われた「断層」とは、まず第一に既存の政治学的視線の無効化であると思う★三。もちろん、だからといって現在の都市および東京はあらゆる政治学的視線を寄せ付けないとか、八〇年代以前のそれがまったくの妄想の産物であったとかいうのではない。むしろいまは新しい都市の語り方─東京の見出し方が、人々のふるまいと語りの堆積のうちに結晶していく時期なのではなかろうか。
二つ目の事件とは、一九九五年一月の阪神・淡路大震災である。省みれば、これはまったく八〇年代の東京に勝るとも劣らないほど人々の言葉を引きつける強い力を発揮した。とくに建築環境に目に見える被害を与えたことから、典型的には布野修司が『戦後建築の終焉』の増補版(れんが書房新社、一九九五)の「あとがき」に記したように、建築家・建築評論家たちの多くが戦後的都市像、その極致としての八〇年代都市像の終焉を語った。行政学や行政学に近いところで仕事をしている社会科学者たちもまた、同じように制度の次元での八〇年代的都市像(確かに八〇年代の神戸は臨海開発において東京の先駆けであった)、戦後的都市像の終焉を語った。ここで彼らが、震災を乗り越えて生きていく被災者たちの目前で、都市の死とか都市社会の死といった不謹慎な言辞を弄した「勇み足」には目をつぶることにしよう。しかし、震災後二年がたって、あらためて阪神間および神戸を訪れ、震災前のそれらの町々の印象と比べてみれば、そうした事大主義な語り方とはまったく異なる次元の、簡明で即物的な印象を受けるはずである。すなわち「町が白っぽくなった」と。しかしこれは単なる表層の印象ではない。熱心な建築家や社会学者を加えた住民運動を通して住宅共同化、街区共同化へと進もうとしている地域を除けば、ひとつ一つの家が、否、ひとつ一つの「家族」が各自の限られた資産と情報の中で、建て替え時に明るい風合いのプレファブリックの建築を選択していったことの集合的な表われなのである。それは、かつて冷笑とともに忘れられた戦後建築思想の華、メタボリズムの復活とでもいうべき事態である。むしろ私たちはここに戦後的都市像の勝利を宣するべきではないのか。もちろんプレファブを選んだ人々の事情はさまざまであったろう。新しい生活を一日でも早く開始するために。暗い喪失の記憶を明るい色で覆い隠すために。マスコミがプレファブの耐久性を宣伝していたから等々。しかし、いずれにせよあの白っぽく無機質なプレファブ住宅が沢山のそうした被災者の生活事実のひとつ一つの受け皿たりえたことを、私たちはまず冷静に評価しなければならないように思われる。それをせず、相変わらず戦後的都市像の終焉を語り続けるのは、語る者が戦後的な都市の語り方から自由になっていないからだ。そしてその枠の中で語りうる範囲でしか事実を見ないからだ。八〇年代の都市像・東京像の失墜に表われた「断層」とは、第二に戦後的都市「論」の事実からの剥離とその自閉化であると思う。もちろん、だからといって戦後的都市像を手放しで賞賛しようというのではない。むしろいまは言説の拡大再生産によってではなく、事実の冷静な観察によってこそ、新しい都市の語り方─東京の見出し方が整えられていく時期なのではなかろうか。例えば、八〇年代に喧伝された「路上観察学」の始祖今和次郎の仕事も(藤森照信編『考現学入門』ちくま文庫、一九八七。ちなみに彼の柳田民俗学からの離陸もまた関東大震災の焼け跡ではじまった)、「東京銀座街風俗記録」に記されたような、それ自体やや自己陶酔的な路上観察というふるまいにおいてではなく、「ブリキ屋の仕事」や「焼トタンの家」の、静かにものに惹かれていくような事実認識のまなざしにおいてこそ、いま読み直されるべきなのかもしれない★四。
第三の事件は、同じ一九九五年三月の地下鉄サリン事件である。事件からちょうど二年後の一九九七年三月、作家村上春樹による事件被害者のインタビュー・アンソロジー『アンダーグラウンド』(講談社)が刊行された。この作品の結語において村上は、この事件を阪神大震災とならべ、ともに日本の戦後史を画するきわめて重要な事件であるという。さらに村上は、この作品の制作動機を「日本」について深く知りたくなったからだと述べる。ところで、素人ルポライターとしての慎重かつ誠意ある筆運びと、流行作家らしい物語性を同居させた佳作であるにもかかわらず、この作品が結果としてたどり着いた「日本」は、私にはいわゆる紋切り型を超えるものではなかったように思われる。紋切り型の「日本」を語ってはいけないというのではない。あの事件は、紋切り型の「日本」に還元しえない内容をもっていたのではなかろうか。少なくとも私自身の体験からはそう思われるのである。あの日、東京の周縁の町から都心の職場に遅めの出勤をした私は、JR御茶ノ水駅を出たところで交差点に止められた何台かの救急車を見、何か事故があったことを知った。しかし、それは車の玉突き事故程度にしか見えなかったので、そのまま日常通り都バスに乗って職場に向かった。事件を知ったのは職場についてからである。省みれば、家を出た時点ですでに事件は起こっていたのだが、当時テレビのない生活をしていたためにそれを知ることができず、また通勤の途上でも何の情報にも触れえずに(救急車のような何らかの標があったのかもしれないが気づかなかった)、現場のごく近傍を(村上のいい方を真似れば「地上」を)日常通りに通り過ぎたことになる。私の場合若干のタイム・ラグがあるが、時間からみて、私と同様日常のふるまいとしてあの事件の近傍を通り過ぎた人はきわめて多かったのではなかろうか。
人々のそうした体験は、被害者でさえそうであったように、前後の多用な日常のあいだに埋没していったことであろう。あるいはマスコミの紋切り型の報道に掬い取られてしまったかもしれない★五。しかし、そうした体験は、何かの折にひやりとした触感をもって蘇ってくるほどの質量をもって、偶々被害に遭わなかった多くの人々の身体にまで刻み込まれているのではなかろうか。巨大な犯罪のごく近傍を、それに巻き込まれるのとまったく同じ形態をもって、しかし間一髪のところで通り過ぎていく。その並行感と微妙な距離感が、身体化された記憶にひやりとした触感を与えるのだ。荷物の放置されることの少なくなった地下鉄の網棚が、そうした記憶の質量を指し示しているように思われる。
こうした体験の質量とその時間的拡がり、集合性は、当時東京にいなかったことから、事件の全体の外側にいたという立場を堅持したうえで、被害者の事後の声のみから事件を追体験しようとする村上には、いわば構造的に見出せないものである。それは、たとえていうなら主役のクローズ・アップのみによって撮られた映画のごとくである。観客たちは、クローズ・アップされた主役たちに、彼らを主役たらしめる構造すなわち加害者に対峙するがゆえに加害者に主体的に対応する被害者を見出す他はない。加害者対被害者という、加害者を起点に置く語りの構図から映像がはみ出ることはけっしてないのだ。吉本隆明が、それならばやはりまず加害者を語るべきだといってこの作品を批判するのは、半分の理がある。吉本が言説の徹底的解読というかたちで事実の外側に立つ立場を堅持しつつ、加害者に紋切り型の「日本」を見出そうとするのと同様に、村上もまたこの構造のうちにある限り、吉本より屈折的にではあるが、結局紋切り型の「日本」に逢着せざるをえないのである。しかし、一旦クローズ・アップを止めれば、主役たちは彼らを動かす加害者に連なる系から離れて、彼らと相同の容貌を持ち、彼らの近傍を通り過ぎていった脇役たち、すなわちその場の群衆に連なる系に位置づけ直される。事件全体もまた、事実に投企し事実を理解する観念の体系側から、事実そのものの集合性の側に読み換えられるのである。
「つねに危険と隣り合わせの生活」といってしまえば身もふたもないが、そうした生活事実が、一方で加害者のような観念の体系の暴力的な介入に端を発しつつも、もう一方で村上や吉本のような観念の体系の側への暴力的な回収を被りつつも、しかしそれからはみ出してあくまで事実の集合として存在し、かつ多くの人がそれを事実の集合の一要素として体験する他ないところに、この事件の内容はあったのではなかろうか。そこで危険は何らかの意味を指示するのではなく、ただ危険なのである。そうした危険が引き出す知識や観念も、事実の外側にある不磨の世界観や運命といったものでなく、事実に後続し、不断に生成され続ける処世術や技術といったものとなる★六。八〇年代の都市像・東京像の失墜に表われた「断層」とは、第三に私たちの生活世界への事実の生々しい帰還と体系的観念の退場であると思う。もちろん、だからといって都市について東京について考えることが無意味だというのではない。むしろいまは私たちの思考が、考えることではなく、一旦考えることを停止することによって事実が私たちひとり一人に与えていく痕跡を見分けることのほうに働いていく時期なのかも知れない。例えば、一九九三年に出版された都築響一の写真集『東京スタイル』(京都書院)は、饒舌なキャプションと被写体の偏った選択が示すとおり、まだ写す側が思考の先行から自由になっていないように思われるけれども、これを荒木経惟の『東京物語』(平凡社一九八九)や篠山紀信の『TOKYO未来世紀』(小学館、一九九二)と比べてみれば、そこに集められた東京人たちの居室の写真の厖大な集積のなかに、写真という都市の語り方─東京の見出し方の、「私写真」や「シノラマ」とはまったく次元の異なるもう一つの可能性が秘められていることにあらためて気づかされる。それはいろいろなものがあっという間に写ってしまうということ、写す側の観念に対する被写体の事実としての優越である。
永続性・集権性に固執するような政治的視線の無効化、戦後的都市論の事実からの乖離と自閉化、生活世界への事実の生々しい帰還と体系的観念の退場、これら三つの「断層」は、もちろん上記の三つの事件によってはじめて作り出されたものではない。もしそうなら、事件を体験しなかった人々の間には依然として八〇年代的都市像・東京像が流通しているはずだからである。おそらく事の本態はこうなのだ。既存の都市の語り方─東京の見出し方が、不断に生成する事実の流れから徐々に遅滞し、乖離していく。しかしそれは語るものであり見出すものでなければならない以上ますます精緻化し、自閉化せざるをえない。逆にそれが語り見出す領域の外側に裸の事実、裸の体験が堆積していく★七。三つの事件は、そうした裸の事実、裸の体験を一時に大量に産出するがゆえにそれらの存在を顕示し、既存の都市の語り方─東京の見出し方の無効化をはっきりと宣するものとなったのである。とすれば、八〇年代の都市論・東京論は、あらゆる精緻化と戦線拡張の努力にもかかわらず次第に事実に触れえなくなる、その困難という点においてこそ、いまあらためて読み直すことができるのではなかろうか。それでは、一体どのようにして八〇年代の都市論・東京論は事実から遅滞し、乖離していったのか。この問いの答えは、他ならぬその最良の成果の中に自ずと表われているはずである。

1──大喪の礼(1989年2月24日)。沿道に弔旗、交通量も少ない銀座。 デパートのウインドウに昭和天皇の遺影 写真提供=PANA通信社

1──大喪の礼(1989年2月24日)。沿道に弔旗、交通量も少ない銀座。
デパートのウインドウに昭和天皇の遺影
写真提供=PANA通信社

2──雲仙普賢岳大噴火。 中学校の体育館に避難民を見舞った天皇・皇后(1991年7月10日) 写真提供=PANA通信社

2──雲仙普賢岳大噴火。
中学校の体育館に避難民を見舞った天皇・皇后(1991年7月10日)
写真提供=PANA通信社

3──阪神・淡路大震災(1995年1月) 写真提供=PANA通信社

3──阪神・淡路大震災(1995年1月)
写真提供=PANA通信社

4──地下鉄サリン事件(1995年3月20日)。 営団地下鉄日比谷線神谷町駅。救急車の到着を待つ被害者 写真提供=PANA通信社

4──地下鉄サリン事件(1995年3月20日)。
営団地下鉄日比谷線神谷町駅。救急車の到着を待つ被害者
写真提供=PANA通信社

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都市空間のなかの文学──前田愛の作品に見る八〇年代的都市論の困難

八〇年代の都市論・東京論の最良の成果のひとつが前田愛や磯田光一らによる文学作品の都市空間論的再解釈であったことは、誰もが認めるところであろう。いまあらためてそれらを読み返すとき、それらを導きの糸として東京中を歩き、それぞれの文学作品と東京という町をともながらに見知っていった学生時代が懐かしく思い出され、それらの魅力が初読の時そのままに蘇ってくるような気がするのである。しかしその一方で、それらが描き出す世界がひどく作りものじみて見え、またそれに耽溺していた過去の自分もひどく幼稚に見えてしまうことも、また否定することができない。
二つの感覚の懸隔を解く鍵を前田の作品に探ってみよう。いま書店に行き、当時の前田の作品が廉価版として売られているのを書架に見出す。書名は『文学の街』(小学館ライブラリー、一九九一)。あれ、そんな作品があったかしら、と思って、奥付を覗いてみる。すると、それが前田の死後再版されるにあたって改題されたものであり、原題は『幻景の街』(小学館、一九八六)であることが分かる。しかし、これは容易に看過ごすことのできない重大な改変ではなかろうか。前田は自覚的に「幻景」あるいは「仮象」の語をテーマに用いているのである。いくら著者が亡くなったからといってこれはひど過ぎると思った途端、逆に自分が前田の作品をその点に注意して読んできたかどうか、怪しくなってしまった。前田が幻景として描き出した街を、私もまた実際の文学散歩の途中でタウンガイドをめくるように読みとっていたようだ。もっとも、それは必ずしも私および廉価版の編集者の誤読ではないのではなかろうか。テクストに描き出された幻景の街と読者の現実の街とを自らの街歩きの身体感覚を媒介にして結びつけることこそは、前田独特のレトリックではなかったか。つまり前田は、まるでバスガイドのように正確に現在の東京のあちこちを連れ回すことによって、私たち読者にきわめてリアルなかたちで「幻景の街」(『幻景の明治』朝日選書、一九七八、所収)を疑似体験させるのである。近頃「バーチャル明治」と評されている人気少年漫画があるらしいが、前田の作品こそ最も手の込んだ「バーチャル明治」であったといえよう。例えば『都市空間のなかの文学』(筑摩書房、一九八二)の中の「獄舎のユートピア」の章で、前田は松原岩五郎の『最暗黒之東京』(民友社、一八九三)から明治の貧民窟における食べることの豊穣さと氾濫を取り出してみせる。そして、それとほとんど同じ筆致で、『幻景の街』の「夫婦善哉」の章では、現在の大阪法善寺横町の店々の「喰い倒れ」の情景を描き出してみせるのである。この「重ね焼き」の効果として、読者の私たちは、貧民窟に漂うさまざまな食べ物の匂いを実際に嗅いだようなリアリティを与えられるのである。しかし、このレトリックの問題は、幻景と現実を往還させられた読者が結局は幻景の方に回収されるところにある。極端ないい方をすれば、ここで現実は幻景をリアルなものに感受させる限りにおいて体験されるばかりだ。逆に幻景は何ほどか現実と照合可能な限りにおいて想念されるばかりだ。このレトリックは、たしかに現実と幻景のそれぞれおよび相互を意味づけるひとつの思考の方法ではある。しかし逆にそれは、現実をその現実らしさのままに体験させるものでもなければ、幻景をその幻景らしさのままに想念させるものでもない。
さらにこのレトリックは、それを可能にしている前田自身の身体図式のコピーを、描かれた幻景の都市の中にばらまいてしまう。つまり前田が現実の都市空間を移動しつつそこにふんだんに意味を汲み取り、自らの幻景の養分としていくのと同じように、そこに登場する作家たちあるいは作品の主人公たちもまた、現実によって粉飾された幻景の街からふんだんに意味を汲み取り、彼らの作品や作品世界の養分にしていくように描かれるのである。こうしたレトリックをすべて剥ぎ取った時に残るものは、まるで母胎の中の胎児のように、空間の中で意味的に充足した前田の身体図式である。もっとも、それは特権的な存在としては設定されていないから★八、読者である私たちは、いつでも彼の身体図式を借りることができ、そうすることで現実と幻景がともに調和し意味的に充足した世界にいつまでも耽溺することができるのである。
例えば前田は、一九〇五年の「日比谷焼打事件」を歴史家たちのように社会運動史の前史として語るのではなく、当時の東京の近代都市空間としての形成過程に関連づけて語り直そうとする。

漱石が『吾輩は猫である』を書き、小説家としてのスタートを切った明治三八年は、近代におけるさいしょの大規模な都市の反乱、日比谷焼打事件が起こった都市であった。この事件は、ポーツマス条約に不満をもった都市大衆の自然発生的な暴動であったとされているが、日露戦争直前の明治三六年に日比谷公園が開設され、市電が東京の市街を走りはじめたことが、その予備状況をつくりだしていたことは意外に見すごされている。東京の中心部に誕生した日比谷公園は、日露戦争中から戦勝祝賀会をはじめとする大衆行動のいれものとして有効に機能していたし、近代的な都市交通機関としての市電は、短時間に群衆の集散を可能にする条件を用意した。
「仮象の街」前掲『都市空間のなかの文学』所収


たしかにこれは歴史の紋切り型を免れる魅力的な再解釈の試みである。しかし、この試みは、最初から公園や市電を自在に使いこなすような主体像、身体像の成立を前提にしてしまっており、また結論としても(詳細は『幻景の明治』所収の「日比谷焼打ちの『仕掛人』」を参照)、後世の諸言説が創り出した一元的で紋切り型の大衆暴動像を傍証するに留まっている。市電で市内を往来したこともなく、紋切り型の大衆暴動像にリアリティを感じたこともない人から見れば、それは前田の身体と観念の中にしか存在しえない「幻景の暴動」でしかない★九。
ここで私は前田の作品が虚偽であるとか、文芸評論として破産しているとかいうのではない。『幻景の街』において「よりよく都市を生きるための、ものを見つめる習慣の復権」を主張する前田が採用した方法が、ものを見つめる習慣であるどころか、もの、すなわち現実を幻景に置き換え、さらにその幻景の中でのみ都市を語り東京を見出そうとしたところに、八〇年代の都市像・東京像の困難を見出そうとしているのである。

4
都市のドラマトゥルギー──吉見俊哉の作品に見る八〇年代的都市論の困難

次に採り上げたいのは、私の専攻する社会学の都市論である。この分野における八〇年代の都市論─東京論の最高峰が吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』(弘文堂、一九八七)であることは、誰もが認めるところであろう。ところで私は、初読以来ずっとこの作品の圧倒的な魅力に強く引きつけられつつも、一方で何か割り切れないものを感じ続けてきた。それがすこしわかったような気がしたのは、吉見の第二作『博覧会の政治学』(中公新書、一九九二)が出版された際、著名な近代政治史家の伊藤隆が与えた書評を読んだときである。そこで伊藤は、M・フーコーの所論より導き入れた近代社会批判の理論的文脈を意図的に読み飛ばした上で、実に面白い博覧会の歴史書であるとの好評を与えた。政治学と銘打った作品が、その政治学的な論理において政治史家の(批判ではなく)無視を被るとは一体どうしたことか。私の見るところ、伊藤は吉見が「政治学」と呼ぶ理論的文脈を敢えて無理解を装うことによって批判したのであり、その意味でやはりこの作品の第一の争点はその理論的文脈にあるといえる。このことを踏まえて省みれば、『都市のドラマトゥルギー』もまた、その多彩な史実の展示とは別に第一の争点としてその理論的文脈があり、私はそこに割り切れないものを感じていたことが理解されるのである。では、その理論的文脈とは何か。それは序章の端緒に「問題──都市論ブーム再考」という題のもと凝縮的に示されている。吉見はそこで八〇年代の都市論とりわけ記号論的な都市解読の試みを批判して、一見記号としてしか理解できないような些細な諸事実もまた都市という権力の系を構成するひとつのアクターに他ならないとする。つまり吉見は都市を自らの最も微細な要素までも動員してゆく政治的実践の体系として読み解こうとしたのである。こうした細部を全体へと編み上げていくまなざしが、この作品の、さらには吉見の政治学のもつ圧倒的な魅力の源泉に他ならない。社会学─人類学の学説史系譜に立ち戻っていうなら、ドラマトゥルギーという彼の戦略的概念は、社会学者E・ゴフマンのそれ(『行為と演技』誠信書房、一九七六)から立ち上がり、人類学者C・ギアツの「劇場国家」論(『ヌガラ』みすず書房、一九八九)に行き着く、長距離の射程を持つものなのである。
問題は、このまなざしがそれが語り見出す都市の体系と相同の構造をもつことにある。言い換えると、吉見が都市は政治学的対象だというのは、彼が政治学的視線において都市を語り東京を見出そうとするからに他ならないということである。ここには見たいようにしか見ないという、機能主義的言説が必ず伴ってしまう思考の罠が露わになっている。伊藤があえて吉見の理論的文脈を無視したのは、この罠に対する警鐘ではなかったろうか。事実、吉見は『都市のドラマトゥルギー』において、些細な事実に注目することによって新たに都市を語り東京を見出すのではなく、彼の師見田宗介がすでに二〇年以上も前に歌謡曲の歌詞の分析から描き出した都市の論理、東京の論理にそれら些細な事実をひとつ一つ当てはめていくことに終始したのである。
例えば吉見が最も深い思い入れをもって記す一九二〇年代の盛り場、「浅草」という事実の集合は、結論では、見田が「新しい望郷の歌」(初出一九六五、『現代日本の心情と論理』筑摩書房、一九七一、所収)において流行歌の歌詞の「言説分析」から導き出した、「幻想としての〈家郷〉」という観念の一元的論理に還元されてしまう。

人びとはこの盛り場のなかに、もうひとつの幻想としての〈家郷〉を求め、それが醸成する磁場に共振していったのであり、「浅草」を、東京の生活から逃れ、帰っていくべき場所として感じ取っていたのだ。「浅草」へ行くとは、東京の生活からの〈脱出〉を意味しただけではない。それはまた東京の生活からの〈帰郷〉でもあったのである。
吉見『都市のドラマトゥルギー』


安来節や浅草オペラの流行が、どのような意味において、制度としてのイエとムラの代補として「群化社会」(神島二郎)からの避難所アジールたりえたといえるのか。この重大な社会学的問題を、吉見はすべて見田に委ねてしまっている。その結果吉見は、彼が浅草に集散する人びとの社会的性格を示すために引用した中川清の『日本の都市下層』(勁草書房、一九八五)の、下層社会の小家族こそが出郷者たちの事実としての新しい〈家郷〉であったという結論を読み飛ばしてしまう★一〇。
私が感じた割り切れなさは、どうやらこうした当の事実に起源を持たない観念が事実を専制していくところに原因があったようである。ここにもまた八〇年代の都市像・東京像の逢着した困難を見出すことができるように思われる★一一。

5
結びにかえて

小林秀雄は一九三三年に「故郷を失った文学」という時評を書いた(『小林秀雄初期文芸論集』岩波文庫、一九八〇)。これは表面的には谷崎潤一郎の古典回帰論を批評しながら、裏面ではマルクス主義文学を批判するという、きわめて政治的な評論である。小林ファンでない私には、マルクス主義批判の「ためにする」臭みが少々強すぎるように思われる。だが、観念をめぐる観念の争いの中にあって、争うに値するだけの事実の基盤をもった観念などもうないのだ、たとえ何らかの観念があるとしても、それは事実のあとに、事実に即して立ち現われてくるものでしかないのだという小林の論理には、時代状況を超えてまだ教えられるところがある。
八〇年代の都市の語り方─東京の見出し方とは、結局かつて小林が立ち向かったのと同じ観念をめぐる観念の争いでしかなかったのかもしれない。政治にしろ建築にしろ社会にしろ文学にしろ、肯定するにしろ否定するにしろ、私たちが語ろうとした都市─見出そうとした東京は、どれもすでに事実の基盤を失いつつあったのかもしれない。いざ事実の基盤を見出せないとなると、私たちはそれが見出せたような気がするまでどんどん歴史を後退し、その分だけ観念の自閉度を深めていった。そうして築き上げられた「幻景の街」では、空間とそこに内属する主体がつねに意味的に調和していたり、中心から仕掛けられた権力が末端の隅々まで行き届いていたりした。さらにそうした概念は、それと並存する事実の集合をそれに適うよう整形しようとしさえした。この状況の下、少なくとも私は、観念の争いに参加することはあっても、事実に回帰することはなかったのである。三つの事件があって、事件を経験した多くの人がそうであったように、私もまた自ずと観念の争いから脱落した。私はいまもそして将来も都市を語るし東京を見出すであろう。しかしそれはかつてのような観念への奉仕ではなく、事実からの感受である。
ここで私が述べようとしたことは、いわばやや遅きに失した「故郷を失った都市論・東京論」に他ならなかった。

歴史はいつも否応なく伝統を壊すように働く。個人はつねに否応なく伝統のほんとうの発見に近づくように成熟する。
「故郷を失った文学」結語



★一──現在でも大型書店の土木建築の書架だけには変わらず楽観的な内容の書物が相当数ならんでいる。事情あってそうした書店のひとつに高齢者介護用の住宅改造のアンチョコを求めようとした私は、麗々しい(もちろん高価な)高齢者向け住宅プランのならぶ本の多さに失望した。
★二──「共同の情熱に温められた集合の中で、われわれは単なる自身の力に減殺されたときには不可能である感情と行為とに刺戟される。しかも、その集合が解散され、われわれが単独の自身に帰ると、再び平常の水準に落ち、このときに、かつてわれわれが自身の彼方に高揚された高みを計ることができるのである。」(E・デュルケム『宗教生活の原初形態 上』岩波文庫、一九四一)。
★三──ここに「政治学」という言葉を用いることに若干の躊躇がある。本来の政治学書の多くは、限られた文脈の中ではあるが多様に輻輳しつつ、ある時は均衡しある時は角逐する、複数の交渉行為の予測不能な展開を解読し、分析してきた(例えば、テツオ・ナジタ『原敬──政治技術の巨匠』読売新聞社、一九七四)。むしろここでの意味には「支配の社会学」とか「社会体制論」といった言葉を充てる方が適切であるように思われる。ただ、後に挙げる吉見の著作のように、ここでの意味で用いることも少なくないので、「政治学」という言葉を充てておく。
★四──中井久夫編『一九九五年一月・神戸』(みすず書房、一九九五)は、こうした展開を強く感じさせる。そこに収録された中井の震災当時の回顧録は、たしかに彼固有の好みらしい軍隊組織についての知識に強く導かれてはいるが、それ以上に、そうした知識に覆い隠されることのない事実の観察、事実に引き出された言葉に満ちている。
★五──先の震災にしろ、この事件にしろ、マスコミの報道はいつも私たちの体験を事件の外側にある傍観者のそれに置き換えてしまう。けれどもいかなる事件も、主役(被災者、被害者そして加害者)と観客のみによっては構成されない。主役からの距離の大小はとにかく、私たちは数多くの脇役のひとりとして事件を体験することが意外と多いはずである。例えば、私は震災から一週間後にはじめて神戸市東灘区の実家を訪れ、祖父母を東京の親戚に避難させる手伝いをしたが、二日後帰京したとき、どうにもたまらなくなって、その足で近所の理髪店に駆け込んだ。小さな理髪店の店員たちは、髪を洗われながら異常に興奮して破壊された郷土のことを話し続けるひとりの青年の存在を体験したはずである。
★六──「このことは魔法からの世界解放エントツアウベルンク・デア・ウェルトということにほかならない。こんにち、われわれはもはやこうした神秘的な力を信じた未開人のように呪術に訴えて精霊を鎮めたり、祈ったりする必要はない。技術と予測がそのかわりをつとめるのである。」(M・ウェーバー『職業としての学問』邦訳改訂岩波文庫、一九八〇)。
★七──こうしたプロセスに「日本」を見出そうとしたR・ベネディクトの議論にあらためて注目したい。「またラジオの報道によれば、アメリカ軍がマニラ市中に突入した時、山下将軍は『ニッコリ笑って、敵はいまや我が腹中にあり、と言った……』『敵がリンガエン湾に上陸した後まもなく、たちまちのうちにマニラをおとすことができたのは、これひとえに山下将軍の戦術の結果であり、将軍の計画通りに事が運ばれたのである。山下将軍の作戦は目下引き続き進行中である』。いいかえれば、負ければ負けるほど事はうまく進んでゆく、というのである」(R・ベネディクト『菊と刀』教養文庫、一九六七)。
★八──特権的な設定とは、例えば、「群衆の中の批評家」(阿部良雄)C・ボードレエルの精神のありようがそうである。「詩人は好むままに自己みずからでありまた他人であるという、この比類ない特権を愉しむ。肉体を求めてさ迷う魂のように、望む時に、人々の人格の中へはいる。彼にだけはすべての人は空席である」(C・ボードレエル「群集」、『パリの憂愁』岩波文庫、一九五七)。
★九──前田の「幻景の街」を導きの糸にしつつ、歴史上の「社会的事実」としていま一度描き直す試みとして、拙稿「群衆の居場所」(吉見俊哉編『都市の空間 都市の身体』勁草書房,一九九六年)を参照されたい。
★一〇──もっとも、私たちは吉見のこのような徹底した都市の語り方─東京の見出し方を学んだからこそ、逆に、次のようなザッハリッヒな都市の語り方─東京の見出し方の可能性を再発見できるようになったのかもしれない。

小学生のときに特別に十銭玉なんか一つもらって、両国から一銭蒸汽に乗って、吾妻橋でおりる、あるいはそれを倹約して歩いて浅草までいって映画館に入る。あの頃三館共通なんていうのがございましたね(…中略…)一度どっかの映画館へ入ると、三つの館を見られるわけです。それでラムネかなんか一本飲んで、適当に遊んで、十銭で足りるわけですよね。そんな小っちゃいときの記憶があるでしょう。そのあとで高見順や川端康成に、ものものしく浅草ってものを、一つの何がしか深い意味があるような世界として描かれると、何いってやんだいというような気になっちゃってね。
(池波正太郎『私の歳月』講談社文庫、一九八四、所収の
対談における社会学者清水幾太郎の発言)


★一一──この困難は、吉見より若い、私たちの世代の社会学者にも共有されるものである。例えば西澤晃彦『隠蔽された外部』(彩流社、一九九五)は、都市社会学における都市下層研究の近年の傑作のひとつといえる作品だが、そこでもイデオロギー分析という体系性への志向(その帰結は紋切り型の繰り返しである)とエスノグラフィという事実性への志向(その帰結は新たな意味に開かれている)が分裂したままに盛り合わされている。

>中筋直哉(ナカスジナオヤ)

1966年生
法政大学社会学部。法政大学社会学部教授/都市社会学、歴史社会学。

>『10+1』 No.12

特集=東京新論

>メタボリズム

「新陳代謝(metabolism)」を理念として1960年代に展開された建築運動...

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>都築響一(ツヅキ・キョウイチ)

1956年 -
写真家、編集者。

>吉見俊哉(ヨシミ・シュンヤ)

1957年 -
都市論、文化社会学。東京大学大学院学際情報学府学際情報学教授。