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東京コメディー、あるいは「写真都市」の亡霊──荒木経惟の私東京 | 八角聡仁
Tokyo Comedy, or Specters of the "City as Photograph": The I-Tokyo of Araki Nobuyoshi | Akihito Yasumi
掲載『10+1』 No.12 (東京新論, 1998年02月10日発行) pp.99-108

死景から私景へ

「東京はなんの感動もなく、というよりは、都市はなんの感動もなく写っていった。都市は風景であった。都市は写真であった。その頃からである、写真は風景ではないかと思想したのは」★一。一九七二年五月に九年間勤めてきた電通を退職した荒木経惟は、「ヒマだったから、とゆーよりは、初めから写真をやりなおそー、とゆーことで」、三脚を担いで仕事のあてもないまま、まさしく都市の遊歩者フラヌールとなって東京をさまよいはじめる。七二年九月から七三年八月にかけては、退職金で購入した五〇ミリレンズ付きのアサヒペンタックス6×7で『東京は、秋』(八四年刊)と題して撮影、八月一五日(終戦記念日)に写真集『東京』(七〇年撮影)を自費出版すると、翌日からカメラを手持ちのローライフレックスに持ち替えて『終戦後』(九三年刊)、さらに秋からは《私東京》(『過去』と改題して九三年刊)というタイトルで翌七四年の八月まで、あてどもない東京歩きは約二年間にわたって続けられた。荒木が冒頭の言葉を書きつけたのは、その年の暮れのことである。

私は風景にしたくないのだが、カメラは風景にしてしまう。私は、街の中にいた。風景の中でなく、現実の中にいた。街の中でカメラを首にかけ、ピントをあわせファインダーを覗き、シャッターをおしていた。ぶつかりあったり、つまづいたりしながらシャッターをおしていた。私は、たしかに現実の中にいた。フィルムは現像するな、そのままにしておけ。現像してしまえば、現実が風景になってしまう。現像はやめろ。写真になってしまえば、風景なのだ。現実はカメラの中にしまいこんでおけ。カメラからフィルムをとりだしてはいけない。現像してはいけない。でてくるのは死んだ風景なのだ。写真は死んだ風景だけだ。死景なのだ★二。


ここでいささか切迫した調子で語られているのは、写真は「死」にほかならないという言い尽くされた命題ではないし、現像を止めて撮影行為だけを続けるべきだという宣言でも、写真がもはや眼前の現実を十全に表象しえないという単純な事実でもない。少なくともそれだけではない。おそらく荒木は現在に至るまで、撮るべき主題というものをほとんど必要としたことも捜し求めたこともない写真家であるだろう。重要なのは「撮ること」そのもの、あるいは「写真を撮る」ことであり、それを一つの身体的経験として維持することだけである。したがって、たとえ主題としての「東京」が不可視の都市へ変貌しようと、写真家としての荒木にとっては必ずしも切実な問題ではないし、そもそも「東京」の全貌を捕捉しようという欲望に駆られていたとも思えない。しかし、「現実」が「風景」として剥落していくとき、同時にそこで生じているのは、「撮ること」を可能にする身体的な場所そのものの崩壊ではなかったか。「私」と「現実」との剥離は、「私」自身へと折れ曲がり、イメージと連結する「私」の身体の存在論的散逸として経験される。「死景」が忌避されるのは、道徳的な理由からではまったくなく、撮る「私」の恐慌においてなのである。
この七四年に荒木は母を喪い、荒木が「日本写真界の親父」と呼んだ木村伊兵衛が死んだ。そして、荒木の「現像はやめろ」という挑発とともに、「暗箱」の比喩で語られる「写真都市」の時代も終わりを告げようとしていたはずである。抒情と叙景との幸福な照応関係は崩壊し、もはや主観的に意味づけようのない「現実」のバラバラの断片だけをカメラは冷酷に切り取っていく。その「現実」をひとまず肯定し、受け入れることにおいて、「私」は絶えず攪乱される。「風景」を拒絶するものとしての「私景」、あるいは「私写真」とは、その記録にほかならない。したがって、それは「私」の孤独や、「内面」の喪失と引き換えられるものであり、単なる日常的些事への拘泥を意味しないのはもちろん、否応なく、共同体的風景とはなりえないような細部や乱雑さやいかがわしさを抱え込むことになるだろう。そしてその荒木の方法論(と言っていいかどうかは問題だが)は、写真が撮影主体を映す「鏡」か、外の世界を認識する「窓」かという、一般的な対立に回収できるものでも、「日本的」な伝統などと結び付けられるべきでもなく、六〇年代後半から七〇年代にかけてのこの時代(それは荒木の個人史においては父の死から母の死までの時間にあたる)の東京において、歴史的に生じたもであることに留意しておきたい。
いささか教科書的に時代背景を参照しつつ荒木のこの時期の足跡を振り返っておけば、六四年の東京オリンピック前後から、高度成長に伴う開発と破壊、建設と解体の同時進行によって、都市の景観は激しい変貌にさらされ、地方から東京へ大量に人口が流入する。下町の三ノ輪生まれの荒木が、近所の三河島に戦前から残るアパートとそこに住む少年たちを自画像のように撮影したデビュー作《さっちん》で第一回太陽賞を受賞したのはまさにオリンピックの年であり、無機的なビルやマンションが乱立し、匿名の群衆で膨れあがっていく都心部の変容から見れば、その下町の情感に溢れた光景と子供たちのヴァイタリティはすでに一種の郷愁を帯びつつあるものだったはずである。そこにはもちろん共同体的な「風景」となるのを拒むような、フレームを無化する躍動感があるとはいえ、それは荒木が自らの「故郷」を撮った最後の作品であったかもしれない。
六〇年代後半に入ると、産業化として進行する「近代」に対して、それがもたらした疎外の克服をめざす動きが激しく衝突する。写真家においても中平卓馬や森山大道は、資本主義の論理に基づいて再編成されていく都市空間と、それとともに「都市化」されていく映像の氾濫のなかにあって、いわば自らの身体をそこに嵌入し、その崩壊を代償にするようにして、写真のリアリティを獲得しようとしていたと言えようか。しかし、七〇年代はじめにかけて一方では公害問題や七二年の田中内閣発足に伴う地価の高騰と翌年のオイル・ショックによって高度経済成長が終息を迎え、他方では大学紛争から七二年の連合赤軍事件にいたる中で新左翼運動も頓挫する(写真の世界でそれに対応していたのは、中平らによる雑誌『プロヴォーク』の創刊から彼らが活動を休止するにいたる軌跡だろう)。昼休みの銀座を歩きながら、そこで働くOLたちを《女囚たち》(一九六五)と見立てていた荒木が、資本の側の中心とも言うべき広告代理店の社員として、中平、森山らの活動を複雑な思いで横目に見ながら、東京が経験した歴史的な断絶を自らの内なる亀裂と重ね合わせていたことは想像に難くない。

「裂け目」への注視

藤田省三は『「写真と社会」小史』の中で、「現代的大都市とは、歴史的連続体に対して『アッチを切り取り、コッチを毀わし』しながら進んでいる『人工的な解体工事の集合体』だから、裂け目で成り立っているものであって、ここで産まれる、芸術は、その裂け目の切り口を眼光鋭く現場感覚をもって表現しなければならない」とし、「その『解体集合体』と裂け目と切断面と切り口との綜合体が現代芸術としての写真なのである。だから解体が終って、超近代的技術や超近代的ビルの無表情だけが劃一的に支配してしまえば写真の芸術性(社会性)は消滅して、写真は私的なアルバム用に帰る。元のモクアミ以下になる。それが八〇年代後半以後の現状である」と述べた後、荒木の写真にも言及している。

東京の「開発的崩壊」を消滅する側から探索的に撮って回った荒木経惟の『東京の秋(ママ)』などは、現代日本の社会的裂け目の在り方に対する鋭い批評眼として取り上げて然るべきであったろう(その後写真の時代が終ると、荒木などはひたすら女性の肉体的裂け目だけへと仕事を収斂させていく)。その場合でさえ、彼は、「裂け目」への注目以外に生きる道のない現代写真の何たるかを自覚していた筈である★三。


藤田の言う「写真の時代」の終わりの後、荒木は「私的アルバム用」の写真に帰ったわけでも、「女性の肉体的裂け目だけへと仕事を収斂」したわけでもなかったが、『東京は、秋』には確かにさまざまな社会的「裂け目」がうつしとられている。廃止された都電の線路が残っている新宿ゴールデン街の写真に始まり、やはり都電の線路と敷石が残った上に出現した上野の歩行者天国、戦後の闇市の雰囲気を残す新宿駅南口、取り壊し中の東劇、ラブホテル街に囲まれた湯島の白梅、西陽の当たる渋谷のガード下の家……。自らの故郷としての東京が「近代化」によって破壊され平準化されていく、その最後の軋みに耳を澄ますようにして、荒木は「街のデコボコ、人間のデコボコ」に視線を注ぐ。そこには紛れもない喪失感が漂うが、それはもちろん、近代化によって抑圧された日本的情念といったものとは関係ないし、「古き良き東京」の情緒ばかりが求められているわけでもない。たとえば荒木は、三階の窓枠だけがサッシになっている湯島の古い木造住宅の写真について、「写真家としてはと言っては変だけど、俺はサッシがあるほうがいいね。生活が不便だったらどんどん変えていっちゃう。美観を損なおうが、生活のためにダメにしちゃうという、そういう面白さがあるんだ。その方が生き生きしてるじゃない」と語る★四。この発言を一種のヒューマニズムとして納得するのは簡単だが、むしろそこには「一件括淡としているようにみえながら、じつは現代社会の舟底一枚下の地獄はもうみてしまったのだというようなそんな冷徹な眼」★五を見るべきかもしれない。下町の生活そのものは決してロマンチックなものであるはずはなく、それが懐かしく得がたいものに思われるとすれば、そのこともまた「近代化」の所産にほかならないことを、荒木ははっきりと意識しているように見える。
もっとも、こう語っているのは写真集刊行時の八四年であり、撮影時に本当にこのように考えていたかどうかは定かではない。しかし、むしろ荒木が後に自分の写真を見た結果として「裂け目」の面白さを発見したのだとすれば、そのほうが重要かもしれない。失われていくものへの郷愁があったとしても、もはや写真は別のことを語りはじめる。

『東京は、秋』というのは、秋の感じと「東京は秋だった」という半年間というか一年の間の自分の気持を記録しておこうっていうテクニックですよ。そんな情況じゃないんだけど、そうであったという風に思わせるテクニック。……なんて、口では言っているけど、実際にそんな心情であったかもしれない。そのあたりの記録なんだね★六。


ここには荒木がしばしば口にする「私情」の位相が表われている。写真に託された自らの心情(たとえば会社を辞めたばかりの不安と孤独)は、しかし同時に、写真によって操作され、遡行的に見出された虚構でもある。一度そうした関係が生じてしまえば、もはやどちらが先行していたかは問題ではなく、写真と私情の相互的なはたらきかけ(あるいは、すれちがい)そのものが「記録」されることになる。ア・プリオリに孤独や不安といった感情が自己の「内部」にあるわけではない。主体と対象の「出会い」において初めてそれが現われる。そして重要なのは、逆説的ながら、写真に現われるイメージと自らの心情との乖離、あるいはカメラと眼の乖離においてこそ「他者」と遭遇し、対象との関係性とともに「私情」が生じる(あるいは発見される)ことである。こうした「私写真」の不可能性とパラドックスを、おそらく荒木はそれをこの時期、東京を撮ることを通して、奇妙な現実喪失感とともに改めて感じとっていたにちがいない。

1──『東京は、秋』

1──『東京は、秋』

2──『東京は、秋』

2──『東京は、秋』

実在と不在の間

たとえば『東京は、秋』に、銀行のシャッターの向こうに富士山の絵が見えている写真がある。その富士山のように、眼前に見えている都市がどこか自分から隔てられ、現実感を失っていく。あるいはまた一方では、魚屋の看板に描かれた魚が都市の中を泳いでいるような奇妙なリアリティをもって現われる。生物と無生物、人間と非人間的なもの、そうした区別がカメラの視線において消え去っていき、ついにはすべてが無関心=無差異な「風景」へと化していく。
都市が「人間」を超えていくようなその断絶は、六七年から七二年にかけて撮影された『写真劇場 東京エレジー』(八一年刊)と、その直後の『東京は、秋』との間に読み取ることができるだろう。父の葬儀を中心に、さまざまな「死」をめぐるイメージを自らの構成・レイアウトによって織り上げた『東京エレジー』が、儀式化された死と、映画的な(と言っていいかどうか少し躊躇を感じるが)モンタージュの断続的リズムの残酷さによって、現実と虚構、実在と不在の最後の差異を悲劇化したものだとすれば、『東京は、秋』はもはやそうしたすべてが平準化、同一化していくなかで、細部への注視において微小な「劇」を、いわば東京という都市の膚に残された悲劇の痕跡から浮かび上がる血の滲みのようにして際立たせていくものではなかったか。もはや「劇場」は崩壊し、その断片だけが都市のなかに散らばっている。半ば剥がれ落ちて紙ペラのような建物の壁、何度も剥がされた後にまた貼り重ねられたポスター、罅の入った敷石と濡れたマンホール、そして街に書かれた/掻かれた様々な文字……、『東京は、秋』に頻出するそうしたきわめて触覚的なイメージはどこか痛々しい。写真家はいまや実在する都市をイメージとして再現するのではなく、自らの身体をそれが文字であるかのように書きつけることで都市を現出させるのである。

実在と不在の間というか、何だかよくわからない。そういう空間をフレーミングしてるじゃない。三脚つけたって、そんなに見ないで、ステッキがわりに支えるくらいな感じで撮る。「決まりすぎてきたなあ、いけない」と思うと、も一度ポンと三脚を立てる。最初のぞいた時と違うなあ、という感じがあっても、そこで撮る。フレーミングするな、もっと漠然とやれ。……だから、少し傾いてる写真は、ワザと傾けたんじゃなくて、ポンと置いたときの三脚の位置を尊重してる。街がデコボコしてる、つまづいているっていう自分の感じを出すには、撮るときに自分の佇いを正しちゃいけない。ボタンが一つはずれてる、靴ひもがとれかけてる、それで撮っちゃう。これはそういう記録なんだ★七。


すなわち、そこでは撮影者の身体が都市空間に対してとる位相そのものが問題となってくる。「つまずく」ことによって写真家は、いわば「不感症」になった都市に自らの身体を貸し与え、都市が都市自身を鼓舞するかのような「関係」を迫る。『終戦後』では三脚を捨て、二眼レフのローライを首にかけて、フレームを攪乱するように動きながら撮ってまわる。さらに刊行時には、古いコンタクトブックを剥がした痕をそのまま印刷し、《私東京》では隣りのフィルムや間の黒い枠まで入れてプリントする。そしてまた一方で、路上に落ちているコーラやジュースの潰れた空き缶を、都市の「遺骨」であるかのように拾い集め、《ペッチャンコーラ》と名付けて丁寧に複写する。つまり、フレームの抑圧に対する抵抗や、写真の物質性の露呈によって、「風景」に抗い、写真=都市の死体を無理にでも起き上がらせるような試みが始まるのである。

「劇場」から「小説」へ

東京は荒木にとって(そして誰にとっても)もはや「故郷」ではなくなった。七八年には、荒木は三七年間暮らした下町の三ノ輪を去り、東京の西のはずれである狛江に引っ越している。両親の死後は弟夫婦の住んでいた三ノ輪の生家が空き家になったという事情もあるにせよ、まったく正反対とも言うべき土地への転居は、一つの決意を示していると思わずにはいられない。産業化とそれに対するロマン主義的な反近代との対立を飲み込む形で都市の記号化、情報化が進んでいったとき、荒木は、近代化を否定して江戸情緒や下町情緒へと退行したわけでも、社会に背を向けて淡々と私的日記やノスタルジックな物語を綴りはじめたわけでもなかった(だから荒木を永井荷風に擬して「戯作者」などと呼ぶのは間違っている)。ノスタルジアや私的フェティシズムのなかに自閉していく方向をはっきりと切断し、もはやどこにも「故郷」をもたない、つまり自らの内に再現=表象すべきモデルをもたないまま、孤独な「流謫」のなかに生きる「余所者」としての写真家になること。その決意において、その後の荒木の果敢な試みが展開していくことになる。
たとえば、それまでは稀少だったカラー写真の急増によって、現実から色を奪ったモノクロームの死せる風景を「景色」へと染め上げ、さらに両者を混合することで生と死を交歓させ、その境をなし崩しにすること。あるいはまた、静止した写真に動きと音を与える「アラキネマ」と名付けたスライド・ショー。コンパクト・カメラの使用による動態と軽さの獲得と「日付」による異化。そして「アラーキー」としての写真家自身の作品やメディアへの露出は、いわば「私」を虚構化し、複数化すると同時に、見るものと見られるものの関係を攪乱することになる。あるいはまた女性ヌードを並置することで風景を「発情」させ、ヌードそのものが風景になっていくと、さらに「緊縛」写真が加わって「情」を引き出す。新しい作品になるほど緊縛された女性が都市の風景に挿入されることが多くなっているのは、ますます都市が無機化、衛生化している徴候かもしれない。荒木はあの女性の身体を縛り上げている縄を、「書き文字」なのだと説明したことがある★八。
こうした展開をたとえば、共同体の悲劇が演じられる「劇場」から、都市の錯綜した交通としての「小説」へ、と跡付けることができるかもしれない。「風景」をつくりだすプロセニアム・アーチを無化し、舞台と客席の境を攪乱すると同時に、そこには風俗的なものやスキャンダルが導入され、物語の断片化が進み、作品は、複数性、雑色性、多方向性、無方向性などによって特徴づけられる。そしてそれは内部と外部を分割する思考を退け、生と死を溶融させることへと繋がっていく。写真が「死体」であることはひとまず受け入れるほかないとしても、それを生の側から「支配」するのではなく、モノとコト、生と死のあいだにある不気味なもの、あるいは固有性と無名性が重なり合うパラドキシカルな場所として維持することは可能なのだ。たとえば藤田省三の言う「女性の肉体的裂け目」は、荒木の写真においてそのような不可思議な裂け目や陥没点として写されていなかっただろうか。

3──『東京コメディー』

3──『東京コメディー』

「死につつあるもの」へ

八〇年代の東京は、周知のように、中曾根内閣による「民間活力導入」を契機とするバブル経済と都市の「再開発」によって、暴力的な変容にさらされ、再び「裂け目」を露出する。バブルの崩壊とともにそれが休止し、そして「昭和」が終わった八九年に、荒木が『東京物語』や『東京ヌード』といった傑作写真集を上梓したのは、もちろん偶然ではあるまい。
『東京物語』には、地上げによって生じた空き地や、解体中の建物がいくつも現われる。しかし、それは決して「廃墟」ではなく、「変化」もしくは「生成」の位相の中にある。荒木は月島や浅草といった「古い東京」と、お台場や新宿西口などの「新しい東京」に、やや距離をとった同じ視線を投げかける。どちらかを強調してみせるわけでも、これみよがしに対比するわけでもない。失われた「故郷」と、それを破壊した近代都市が両極に存在するといった対立の構図こそが都市の「均質化」のメカニズムとして働き、「生き物」としての都市を見失わせる虚構にすぎないのだから。街も人も、すべては現在進行形で失われつつあるもの、死につつあるものとして捉えられる。いわば、そこでは「裂け目」が、「リアルタイム」の都市=イメージと、写真という「近過去」の間に、写真そのものの「情」とも言うべきものとともに、つねに見出されるのである。
そして、雪に覆われた自宅のバルコニーから始まり、冬から春、夏、秋へと移ろっていく時間の流れのなかに、「東京アリス」と呼ばれる一人の少女が天皇誕生日に日の丸を持って皇居(空虚な中心!)に行くという物語が組み込まれる。もはや虚構と現実の差異など写真においては存在しない。ヤラセの写真もあれば、コマーシャル写真も含まれ、風景も接写も、愛猫チロも妻もセルフ・ポートレイトも雑多なまでに取り込まれている。『東京は、秋』の当時とほとんど変わらない新宿南口の個室ヌードの小屋が都市の記憶を喚起し、霊柩車や葬儀の写真とともに、昭和天皇に似た老人の後ろ姿(この写真集は当時の天皇誕生日に刊行されている)があからさまに死を連想させる。現われる人物のほとんどが、笑顔を向けているか、後ろ姿であり、厳しい緊張感がない代わりに、ゆるやかな時の移ろいとともに写真家が幽霊のように都市を過っていき、写真がそれ自身のフレームを次第に忘却していくような印象が残る。そして、動物の模像やマネキンや人形といった生命を持たないはずのものたちが、人間のいないところで、ひっそりと息づいている。
一方の『東京ヌード』は、すべて縦位置で左頁に女性のヌード、右頁に東京の風景が並置され、その見開きの二点でそれぞれ完結する、小さな物語の集積である。横位置の『東京物語』が時間と変化において叙述されていたのに対して、ここでは文字どおり裸にされた都市と女が、触覚的な、しかしどこか厳しい視線に晒されている。女の後ろの窓から建築中の都庁が見えている一点を除けば、ヌードは街から切り離され、左頁と右頁の「風景」は決して同化することがない。それぞれの写真が記憶を、物語を持ちながら、そこには埋めがたい裂け目が生じているのである。そして視線が二つの距離を行き来することで、「物語」と「風景」は宙づりになる。そしてそこでも奇妙に強い印象を与えるのは、生と死の境にあるような無機的な「生き物」たちである。
同じ写真点数、そしていずれも「天皇」のイメージで終わっているこの同時期の二つの写真集は、まったく異なる方法で東京を物語る。そして、もはや明らかなように、荒木が視線を注ぐ対象そのものは七〇年代からほとんど変化していない。変わったのは、あるいは多様化したのは、それを物語る方法なのである。もはや決定的な東京のイメージなど存在しないのと同様に、さまざまなカメラを使い、多様な撮り方を駆使しながら、荒木は決定的なやり方を求めているわけではない。方法自体もまた「変化」と「生成」のなかで、執拗に反復され、拡散していく。
「撮ること」を身体的経験として維持しつつ、私的フェティシズムから写真を解放するために、荒木は「写真そのもの」を迂回して、写真によって(そして同時に写真を)「物語る」ことへと向かった。しかし、そのことは必ずしも「死景」としての写真からの背走を意味しない。むしろそれは、死を口実に生き延びる写真の自家撞着を断ち切ると同時に、「東京」を、主題としてではなく、「私」を繋留するもうひとつの肉体として持続していくという選択であり、都市についての写真ではなく、都市としての写真へと転回することで、死につつあるものの生成を反復する行為にほかならない。

4 4、5──『東京物語』

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4、5──『東京物語』

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6──『東京ヌード』

6──『東京ヌード』

分子状の喜劇

クリムトを中心にウィーン・セセッションが設立されてから一〇〇周年にあたる一九九七年、その記念展としてセセッション会館で開催された大規模な個展に、荒木は『東京コメディー』というタイトルを与えた。もちろん特に何か「笑い」のイメージがあるわけではない。荒木はこのタイトルがダンテの『神曲(ディヴィナ・コメディア)』、バルザックの『人間喜劇(コメディ・ユメーヌ)』に(半ば批判的に)連なるものであることを明言している。ひとまず、まさに「流謫」の詩人であったダンテが、地獄から煉獄を経て天国へと昇っていく過程をハイブリッドな言語で綴った長大な詩を自ら「喜劇」と名付けた理由について、ジョージ・スタイナーの『悲劇の死』から引いておこう。

ダンテはカン・グランデに宛てた手紙の中で、悲劇と喜劇はちょうど逆の方向に進むと述べている。暗黒から天上の光へ、恐れにみちた疑いから恩寵の歓びと確信へと、魂が上昇して行く動きを扱ったものであるという理由から、後人が『神   曲ディヴィナ・コメディア』と呼ぶようになった詩に、ダンテは『喜 劇コメディア』という題をつけたのだった。悲劇の動きは、繁栄から苦しみへ、そして破滅へと、たえず下降線を辿る。──それは「終局においては屍臭を放ち、身の毛のよだつ」ものなのである★九。


写真がすでにして「死体」、それも生々しい死体である以上、荒木もまた「屍臭を放ち、身の毛のよだつ」終局から出発し、「天国」へと向かう(この展覧会のオープニングでは『東京パラダイス』と題したアラキネマが上映された)。しかしもちろん、荒木にはダンテにおけるような段階構造はない。一方には精神性を剥奪されたモノの世界である「地獄」があり、もう一方には物質性を欠いた純粋な光の世界である「天国」があるとすれば、その対立を無化しようとする荒木の写真は、「情」を写しこむことにおいてモノの世界が浮上し、モノを突き詰めていくことによって「情」が分泌されるような循環を多方向的に続けることになるだろう(やはりダンテを意識していたジョイスのように)。当然、そこには「終わり」はない。また、バルザックの『人間喜劇』のように、同一の「登場人物」がいくつもの作品に跨がって現われ、さまざまなスタイルを用いられながら、刻々と変容していく都市そのものが主人公となるが、都市の「全体」といった観念とも無縁である。
ところで、ヨーロッパにおける悲劇の衰退は、有機的な世界観や神話的、象徴的な意味体系の崩壊と対応している。言うまでもなく、ヒエラルキーを形成しながら中心から周縁へと延びていくヨーロッパの都市の構造も、そうした世界観や意味体系と結びついたものであり、「東京コメディー」とは荒木の写真がまさしくそうした悲劇の構造と不可分な都市空間を解体する契機となりうることを示唆しているようにも読める。
写真展「東京コメディー」に展示された数百点の作品には、もはやこれまで荒木の写真において特権的な中心を占めていた亡き妻、陽子の写真は含まれていない。そして、陽子夫人の不在の肉体に代わるようにして、あるいは、写真自身の身代わりとして、「生きても、死んでもいない」ものたち、ヤモリンスキー(ヤモリのミイラ)やミニチュアの動物や怪獣たちがこれまで以上に頻繁に現われる。もはやそうした「生きている死体」は風景の中に発見されるのではなく、「象徴」となることを拒みつつ挿入されるのである。九〇年代以降の作品で中心の一つとなっている花の写真もそれらとどこか似ているかもしれない。そしてこれも最近の作品の多くの部分を占めるカラー・コピーによるプリントは、やはり撮影時の「現実」の温度や湿度を保つかのような中間的な触感をたたえている。そして何より、圧倒的な量の写真と、ポラロイド写真からスライド・ショーにまで及ぶ多様なスタイルの組み合わせによって、多方向的で複雑なテキストが織り上げられる。「東京コメディー」とは、「分子状の喜劇」とでも言うべきものだ。それはまさしく東京のドキュメンタリーであると同時に、その表象の枠組みそのものを問い直す。そこでは東京はイメージとして再現されるでのはなく、まさにその物語る身体と叙述の形式を通して反復されるのである。そしてその表象批判、都市論批判としての強度は、荒木の写真が海外で展観される機会が増えるにつれて、いっそうアクチュアルなものとなりつつある。

7──『東京コメディー』

7──『東京コメディー』


★一──「私現実──あるいは風景写真術入門」、初出『WORK SHOP』三号、一九七五年。
★二──同右。
★三──藤田省三『「写真と社会」小史』(みすず書房、一九九七)。
★四──荒木経惟『東京は、秋』(三省堂、一九八四)。
★五──吉増剛造「繊細な神経と優しい眼と」、荒木経惟『男と女の間に写真機がある』(白夜書房、一九七八)所収。
★六──同、『東京は、秋』。
★七──同、『東京は、秋』。
★八──荒木経惟インタヴュー、『デジャ=ヴュ』二〇号、一九九五年。
★九──ジョージ・スタイナー『悲劇の死』(喜志哲雄・蜂谷昭雄訳、筑摩書房、一九七九)。

>八角聡仁(ヤスミ・アキヒト)

1963年生
近畿大学文芸学部教授。批評家。

>『10+1』 No.12

特集=東京新論