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オン・オフの彼岸のマイクロ・サーフ──モバイル・メディア論へ向けて | 瀧本雅志
Micro-Surfing the On/Off Equinox: Toward a Theory of Mobile Media | Takimoto Masashi
掲載『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) pp.171-179

仕事と私生活のあいだに明瞭な区別を迫ることはできないのです。ちょうど継ぎ目のない蜘蛛の糸のようなものです。
ビル・クリントン(「政策発表──テクノロジー施策の最重要課題」NII、一九九三)より★一


ジル・ドゥルーズは、「ニーチェの主要登場者辞典」で次のように書いている。「蜘蛛(あるいは舞踏蜘蛛)(…中略…)復讐の精神、または怨恨の精神である。その毒が、蜘蛛の伝染力となっている。蜘蛛の意志とは、処罰しようとする意志、裁こうとする意志である。蜘蛛の武器は、その糸、道徳の糸である。蜘蛛の説く教えは、平等である(全ての者が蜘蛛自身と同類になるように!)」★二。
周知のように、インターネットはワールド・ワイド・ウェブとも呼ばれている。そして、言うまでもなく、ウェブとは、英語で蜘蛛の巣を意味している。それゆえ、次のような疑問が呈されるだろう。電子情報ネットワークは、じっさい「リゾーム」★三を形成するのだろうか? ともすれば、デジタル社会のエバンジョリスト(電子の僧侶?)たちは、ネットの自由と平等を喧伝する際に、したり顔でこの言葉を掲げてみせたりもする。いまや、「リゾーム」は、電子情報社会の護符や符牒となった感さえもある。しかし、ウェブが「リゾーム」というのは本当なのか? むしろ、それは、電子の蜘蛛の巣として世界を覆いつつあると言うべきではないのか?……。
ネット社会について検討しながら、現在しだいに普及しつつあるモバイルにも一瞥を加えること。それが、ここでのわれわれに課せられた論題である。以下では、電子メディア環境という社会野の成立要件を検証しよう。そして、その簡単な分析にあたっては、まさにメディア論的な方法を試みることにしよう。マクルーハンは、「もしメディアのうちにある形成力がメディアそのものであるとするなら、多数の大きな問題が提起されることになる」★四と言っている。「メディアが個人および社会に及ぼす影響を、メディアの『内容』から切り離して研究」★五しないなら、メディアの影響を真に評定することはできないだろう……。たぶん、この指摘は、とりわけ電子メディアの分析において重要な意味をもつはずである。なぜなら、マクルーハンが言うように、モニター上の「電気の光はまったく『内容』を持っていない」★六からである。
情報─記号の意味内容よりも、それがどのような流通形態をとり、いかなる体制が採られるかを考察すること。デジタル社会に対する、記号論的★七かつ唯物論的な分析がわれわれの目標である。むろん、通信網とは、単にケーブル線の交錯のことではない。電子情報社会のインフラをなすのは、むしろ電気的な流れそのものであるだろう。情報の流通とは、電流や電磁波にほかならず、記号とは、ビット列や画面に現われる電光であろう。無線通信にせよ、接続とは、流れの線を引くことオンラインであり、接続の解除とは、線の消去オフラインを意味するはずである。諸々のメディア機械が、ラインのオン・オフ(ライン「への」ではない)を組織しつつ、全体の動作環境を組み立ててゆくこと。ウェブという環境が先在してそこで機械が作動するのではなしに、諸機械によって複数の線がウェブを織り上げてゆくだろう。
おそらく、こうしたことは、テレビにおいて最もシンプルな形で見て取れる。その意味では、これから見るように、コンピュータにせよ、広義のテレビと言えるかもしれないのだ。では、テレビはいかなる記号の体制をどのように組織するのか? そして、それはどのような歴史をもち、モバイル・ツールは新たにいかなる可能性を示すのか?……

1

フロイトは、一九一九年にテレビとニアミスを起こしている。この年に、フロイトは『無気味なもの』を発表しているのである。もちろん、当時はまだテレビと呼ぶべき機械が誕生していない。しかし、まさにその「テレビ」以前という日付が、われわれの目を惹く。このテキストで、フロイトはホフマンの『砂男』を取り上げている。この小説は、フロイトにとって、「無気味な感じ」を考察するための恰好の例であった。小説の主人公ナターナエルは、幼児期に「砂男」に対し恐怖を抱いていた。その不安は青年期に回帰し、彼は「無気味な感じ」に脅かされることになるのである。本来綿密な分析を要する『無気味なもの』を、駆け足で通り過ぎるのは気が引けよう。しかし、あえて手短に言えば、フロイトはここで現実的なものの回帰について述べているのだ。フロイトは、『砂男』のなかの現実的なものに確かに触れている。いつもながら、その分析はオイディプス・コンプレックスへ向かうにしてもである★八。
主人公が幼いときに砂男を怖れたのは、ほかでもない。夜、なかなか寝床に就かない子供のもとへ砂男がやってきて、その眼を失明させるという話を信じていたからである。では、砂男は具体的に何をするのか? その名のとおり、砂男は子どもの眼に砂つぶてを投げかけるのである★九。たぶん、これに近い経験は、われわれも真夜中にするかもしれない。もはや何も見るものがなくなった、あの時刻に?……サンド・ストーム、いわゆる砂の嵐……。テレビ画面上のノイズが、砂塵としてわれわれに浴びせられるだろう。とはいえ当然ながら、こうした体験をわれわれは怖れない。それは、むろん砂粒がイメージに過ぎないからである。現実的なものではなくイメージ……。では、『砂男』と砂の嵐のあいだに、いったい何があるのか?
言うまでもなく、そこには「テレビ」の生誕という事件が生じている。両者の違いは、まさに「テレビ」の前と後とを示している。念のために言えば、ここでは、連想や修辞を弄しているのではない。テレビの光が、イメージである以前に、『砂男』の砂つぶて同様の物理的実在であること。それを、われわれはいま一度確認しているのである。マクルーハンもまた、テレビの電光の唯物論的性格については強調している。テレビ画面上の形象は、「上に当てられる光ライト・オンではなく、その中を通ってくる光ライト・スルーによって存在しているのである」★一〇。光の粒子は、モニター越しにわれわれのほうへと投げかけられる。「テレビの場合、映画のスクリーンにあたるのは視聴者である。視聴者は、光の刺激の砲火を浴びる」のだ★一一。
テレビの技術史を、じっさいに振り返ってみよう。テレビの原型は、ファクシミリの元祖にあたる画像伝送装置にあるとしばしば言われる。一八四三年に、イギリスのアレキサンダー・ペインは、画像を走査して、その画素情報を順次電流化し、そのオン・オフによって、受信側の金属板上の電解紙に描像を行なってゆく機械を発明した★一二。まずは、写真や映画のように、面から面への移送が行なわれてはいない点が注目に値しよう。送信面は、その美学的質にかかわらず、電気的な流れの時間量へと一度分解されているのである。しかし、ペインの装置が、テレビの歴史の嚆矢として登場するのは、そのためだけではなかろう。ここでは、電気的な流れが、受信面にとどまらずそれを通り抜け、さらに進んでゆく運動が認められるのである。この装置は、電池を組み込んだ回路を形成するため、電流は受像面から電池や送信へと還流している。つまりは、電流は、送信面および受像面をいわば垂直に横切るのである。
これは、次のように図式化できよう。(1)電流→(2)送信面→(3)電流→(4)受信面→(5)電流→(6)電池→(1)電流→。なお、送受信それぞれの面の走査は、振り子につけられた金属針で行なわれる。それゆえ、(2)および(4)の面は、各瞬間について見るなら、もはや面の役割をしていないことに注意しよう。この装置において、(2)および(4)のうちで機能しているのは、走査針と接触している部分だけなのである。すなわち、(2)と(4)は、じつは中継「点」としてしか作用していない。したがって、先の図式は以下に書き換えられよう。流れ→点(接続/切断)→流れ→。あるいは、線→点→線→。……つまるところ、テレビとは面ではなく、流れを通し発する点なのである。
テレビは、基本的には上の図式に従う装置である。ペイン以降に大きな技術的進展があったとすれば、それは、テレビがリアルタイムの無線メディアとなり、走査が電子式になったことである。とりわけ重要なのは、一九二六年に高柳健次郎が受像機にブラウン管を採用したことである★一三。受像機側での電子式走査が成功することにより、以来テレビは電光を投げかける機械となった。じっさい、これは以前の装置との大きな切断を示している。今日のテレビの基礎は、ここに至って完成したと言っても過言ではない。ペインの場合には、回路は閉じており、受像面には紙という支持体があらかじめ存在した。また、一度紙に描かれた像はそのまま消えず、リアルタイムで像が変化するということもなかったのだ。ペインに続く大きな技術的転回を示した、ニポーの装置(一八八四年に考案、一九二五年頃にベアードが実験)にせよ、テレビ特有の機制を示してはいない。このときには、受像側では電流が光に変換され発せられたものの、結局それはスクリーンへと投影されたのである★一四。だが、高柳のテレビは投影ではなくて、光のマシンガンよろしく投射を行なう。マクルーハンの言葉どおり、スクリーンがあるとすれば、それはむしろ視聴者なのだ。回路は開かれて、面からは直射光がやってくる。テレビとは、流れを分節し接続する点なのであり、この点からは光の流れが多方向へと発射されてくるのである。
では、走査線や受像面とは、いったい何か? 走査線について言えば、それは、諸々の光点を対象化した場合に見られる外見上の運動にすぎない。多方向へと投射される流れのうちのいわば横方向、すなわち、光点と隣の光点との接続だけを問題にすること。この場合、光点間では流れの線型的なリレーが認められるが、それが走査線の運動にほかならない。受像面とは、こうした光点どうしの接続のあいだから内在的に形成されてくるものである。それは、光点により分節されない純粋な流れの拡がりとして、諸光点の下にその未分化の姿を現出させるのだ。したがって、受像面は、ア・プリオリに存在するのではなかろう。しかし、この平面は、諸光点の下へと貼りつき、それらを自らに関係づけるのであり、そうなると、運動はこの平面から発するように見えてくるのだ。この平面は、自らの上に光点を登記し、光点を領土化する。光点どうしは差異化されて、今度は互いに離接の関係に入ってゆく。こうして、光点は記号化するのだ。とはいえ、それは、諸々の流れが交わる点なのであり、テレビではやはり「流れ─点」が束として連接しているだろう。
フロイトへと戻るなら、結局、彼は砂つぶてよりも主人公の不安に注目した。無気味な物自体ではなく「無気味な感じ」へと焦点をあて、その感情を抱く個人を分析したのである。フロイトは、ナターナエルの眼球喪失への怖れを指摘し、それを幼児期の去勢不安へと結びつける★一五。しかし、オイディプスの図式内にせよ、フロイトもまた認めていたのは、あの砂つぶてのなかでは、象徴的なものが機能しないということである(じっさい、砂男のせいで主人公は父を喪失するだろう)。シニフィアンを経由しない現実的なもの……。砂男の砂も、テレビの光点も、自らという実在以外は何も示さない。「電気の光というのは、純粋なインフォメーションである」★一六と、マクルーハンは述べている。「流れ─点」が行なうのは、他の「流れ─点」の束とともに特定の布置をつくることであり、たえずそれを崩壊させては、不断にその星座を更新してゆくのである。
「記号─点」(signe-point)、あるいは「記号─微粒子」(signe-particule)★一七。ドゥルーズ=ガタリは、こうした「流れ─点」のことをそう呼んでいる。それは、流れの分節としてあり、諸々の分裂を形成し、特異点として配置の一部をなすだろう。それは、記号だが、シニフィアンには関係しない非記号であり、あるいは同じことだが、非意味作用的な記号なのである★一八。つまりは、ミクロなレベルで個々に考えるなら、それは現実的なものである。そして、それがひとつの集合をなす場合はある配置を形成するのだが、たとえば画面が、そのように「記号─点」を集める役割を果たすことだろう。……「イメージ」が形成されるのは、このときである。そして、画面は、メディア環境という社会野を組織するのだ。「テレビ」とは、やはりこうした平面のことである。そう考えるなら、光のつぶてを投げるテレビは、いまや「テレビ以前」とも言えるかもしれない。しかし、気をつけよう。「イメージ」とは、強度の布置であり、しかも瞬時にして解体され再編され続ける。ここには、それとして同定しうる「形象」はいまだ存在していない。画面にせよ、持続した堅固さをもつとは言えず、たえず構成されなおされる。さらには、この平面は砂塵のように飛散したり、光の投射として炸裂する危険と、常に隣り合わせているだろう。
「テレビ以後」について見る前に、ひとつ確認しておこう。同語反復めくが、電子メディア環境とは、電気的な流れにより作動する体制である。問題は、質に関わりのない流れの束が連接し、強度の勾配を織りなす内在野を形成することである。そして、これは、たぶんテレビ以外のメディア環境についても、やはり言いうることなのだ。とりわけ、マルチメディアと情報のデジタル化という側面で、このことは明瞭に再認できよう。たとえば、日本語と英語の違いも、コンピュータのハードウェア上の電気的流れにおいては、不問とされる。また、文字も音楽も映画も関わりなく、デジタルになって流れてゆくだろう。ネグロポンティは、デジタル・メディア環境で原子にあたるのは、ビットだと言っている★一九。情報野は、ビットを単位として組織され、電気的な流れの数値的な量どうしの差異が、強度の配備を形成するのだ。もっとも、ビット列はコード化されているのだと言われるかもしれない。しかし、ビットは、「イメージ」を解釈する操作が成功するその過程で、良くても「形象」として現われるだけである。キットラーの指摘どおり、解読を行なう「ソフトウェアは実在しない」★二〇。コンピュータにおける現実的なものとは、素子間の電気的な関係、それだけである。
それゆえ、電子メディア環境は、すべて「テレビ」である。そして、なぜ電気であり、水や蒸気の流れでないかといえば、それは、たぶん電気が脱コード化した流れそのものを実現するからだろう。電子の社会野を縦横する流れは、コードの限定を受けない。そこに拡がる「イメージ」が即自的に存在し、何かについての「形象」ではないのも、そのためなのだ。「イメージ」を構成する諸々の「記号─点」は、限定された意味─方向をとらず、多義的─多方向的である。そして、それらが次々と編成してゆく配備とは、強度のそれであるだろう。……しかし、考えてみよう。まさにこの点に、危うさもまた孕まれてはいないだろうか? というのも、電子メディア環境に接続すれば、われわれはその内在野の全体へと溶融することになるからである。マクルーハンの言う、グローバルな感覚の拡張。ここには、人間と機械の関係をめぐる問題が生じているはずである。
じっさい、「テレビ」では、自身が流れの一部となり、その他の流れと交錯してしまう。マクルーハンの指摘どおり、「モザイク」形式のイメージは「過程への参加」を余儀なくし、「対象から距離を置く態度を許さ」★二一ないのだ。「電気が視覚的であったり聴覚的であったりするのは、まったく付随的にすぎず、第一義的には触覚的である」★二二。こうした「テレビ」への関与の状態は、「接触融合的ハプティック」★二三と呼ぶことができよう。ことによると、テクノなナルキッソスなら、疑問を呈さずにいられるのだろうか。マクルーハンは、神話のナルキッソスは「自分以外のものへと拡張された自分自身にたちまちに魅せられてしま」★二四ったのだと言っているが、まさにそのように電子メディア環境に魅了され、その自由さに溺れてしまうこと? だが、ここでは人間は流れや線となり、メディア機械の部品にして全体となってしまっている。「機械状隷属」……。ドゥルーズ=ガタリは、接触融合的な情報社会のそうした体制を、隷属的な「人間─機械」のシステムに過ぎないと評している★二五。
では、電子メディア環境と接 触 す るゲット・イン・タッチことをやめ、そこから距離を置くデタッチトべきなのだろうか? しかし、それにしても、いったいどのようにして? たしかに、接続を解除するというのは、機械状隷属を避けるひとつの手段であろう。しかし、残念ながら、単に個的に接続を切断するだけでは、問題は解決されないだろう。いまや、身のまわりには「テレビ」が遍在している。そして、「テレビ」とは、そこから「記号─点」が逃走する閾であり、「イメージ」が現実的なものへと生成変化する間─環境ミリューでもあるのだ。電子メディア環境の「外」へと出るとは、いったいいかなることなのか? 都市のパサージュでは、可動性を持った「テレビ」、すなわちモバイルの群れが無気味に遊歩している……。

2

電子メディア環境と都市空間。この両者は、モバイルによって危機的=批判的な交錯を閃かせている。ヴァーチュアルなサイバースペースに対して、都市がリアルであるわけではもはやなかろう。モバイルは、電子メディア環境の「外」としての都市の意味を新たに再編しつつある。この再編がさらに進行したとき、モバイルがいかなるレベルで作動するかは、覆い隠されてしまうかもしれない。しかし、移動型のテレビであるモバイルは、いまのところまだ増殖の緒についたばかりである。それは、「テレビ」の生誕を再び反復し、「テレビ以後」の状況では見えない現実を開示してくれる。それゆえ、今度はモバイルの作動する都市空間へと考察を移動させてみよう。
携帯電話が、病院や電車の中での使用を禁じられていること……。それは、いったいなぜなのだろうか? もちろん、とりあえずの理由は明白であろう。携帯電話は、電磁波を発し、医療機器の誤動作を引き起こす。そして、電車の中の携帯電話の利用は、周囲の人間を不快にするからである。しかし、ここでいささか不思議なのは、病院が直接的に心配しているのは人体ではないらしいという点である。じじつ、携帯電話による電磁波が人体にとって影響がないわけはなかろうが★二六、病院がまず気にかけているのは、それが有害かどうかということではなく、病院というシステムの運行を失調させる電磁波が生じては困るという、そちらの問題であるようなのだ。じっさい、昨今では、テレビやコンピュータが病院で利用されることも少なくはない。しかし、言うまでもなく、テレビやコンピュータからも、やはり(有害な)電磁波は発生するのだ。人体への現実的な影響よりむしろ、それぞれの電磁波が既存のシステムと整合するかどうかという、社会野の政治が働いていること。言い換えるなら、携帯電話については、それが発する「記号─点」をめぐって、記号の管理の問題が生起しているだろう(いくつかのメディアは、医療の制度に合わないマッサージなのだ)。おそらく、電車での携帯電話による不快も、利用者の大きくなりがちな声量によるだけではなく、記号の作動状況に関係している。そして、逆にメディア環境のレベルにのみ目が向かうことによって、電車では、携帯電話の現実的な電磁波の作用が失念されているようでもある。ともあれ、メディア機械の評価は、いまのところこうであろう。テレビやコンピュータはもはや危険ではない。しかし、携帯電話は事件をこれから生じさせかねない……。
こうした認知が生じるのは、テレビやコンピュータが、「テレビ」の次元からわれわれを遠ざけていることと無縁ではない。それらは、いわば「テレビ以後」を保証し、そのせいで「テレビ」のレベルを見えなくしているのだ。テレビは、メディアである限り、「形象」へと交換されうる「イメージ」の編成をまずは行なわないといけない。もっとも、テレビでは、砂の嵐という「イメージ」が生じるから、その場合に限れば「形象」は再認されないだろう。しかし、コンピュータにおいては、ソフトウェアが「形象」化への任を担っており、われわれがそのなかに「形象」を認識しうるよう、強度の配備に過ぎないイメージを二次的イメージあるいはn次的イメージへと、次々に変換している★二七。ソフトウェアとは、ヴァーチュアルなものではなく可能的なものである。それは、「形象」を認識するわれわれの能力を予めカテゴライズし、プログラムとしてコンピュータにア・プリオリに内蔵させたものだからである。コンピュータは、そうしたプログラムの複合によって、われわれに「テレビ以後」の面しか見せることがない。テレビもまた、砂の嵐を除いては「形象」化されうるのであり、こちらも「テレビ」のレベルにわれわれを直面させたりはしない。おそらく、テレビやコンピュータがもはや危険でないとすれば、それは「テレビ以後」であるからである。「テレビ」の次元では、現実的なものが作用し、砂つぶてや電光の投射や電磁波の衝撃、等々が常に生じかねないだろう……。
もっとも、そうした危険を制御しながら巧みに活用しているのが、まさに「テレビ」だとも言える。「記号─点」が「テレビ」から逃走し、流れが「イメージ」から漏出する運動に依拠しつつも、それらの運動を管理下に収めること。電磁波をコードから自由に運動させながらも、「テレビ」はそれが「イメージ」の配備をなすよう、脱走させかけては捕獲する。ある「イメージ」の布置からの「記号─点」の逸脱が、新たなる「イメージ」の再編につながるよう、「テレビ」では追走して統御がなされているのだ。約言すれば、「テレビ」は、「テレビ以前」を「テレビ」へと回収し内在化させてゆく。そして、そうすることで、「テレビ以後」を動態化しているのである。ドゥルーズ=ガタリが、コードと峻別し公理系★二八と呼んだ、資本主義の記号のシステム……。そこでは、接続のオン・オフさえもが、メディア環境に内在化されてゆく。
それゆえ、超越的なシニフィアンが存在しないとしても、電子情報社会が自由とは限らない。逆に言えば、それは、資本主義とせいぜい同じ程度までが自由である。それでも、ネット・サーフの類に楽しみを見出せるとすれば、それは機械状隷属に自足するナルシシズムではないのか疑ってみる必要がある。ある種のメディア・アクティヴィストたちが、(一次的な)ナルシストかもしれないこと?……確かに、ネット内を動き回ることで、ネットはその全体の強度的な配置を変えてゆくだろう。だが、環境と一体化する快楽に留まる者は、やはりナルキッソス的と言わざるをえない。あるいは、機械状隷属から逃れ、接続のオン・オフを司る主体として自らを立てること? しかし、その場合にしても、公理系に奉仕こそすれ、その域内から出ることはできないだろう(二次的なナルシスト?)。また、ほかの流れとの連接の状態が変わるなか、同一の画面に留まろうとしても、それは、流れに対する島の保守にしかなるまい。それに、じつをいえば、ソフトウェアなしでは、島など存在しないかもしれないのだ。常に同じ群島の配備が目の前に拡がって見える者は、流れからすっかり上がって再領土化─再土地化した、陸サーファーと呼ぶべきかもしれない。たぶん、電子メディア環境の批判は、そう簡単にはゆかないことだろう……。
むしろ、批判の契機として、日常における些細な事態のほうに注目してみよう。むろん、小さな出来事を大袈裟に取り上げるのはバカげているから、ほんのユーモアとしてである。たとえば、電車の中での携帯電話の使用は、いかなる出来事を引き起こすのか? あるいは、モバイルを使う際のタイプ音や、いそいそと作業に励む身振りは、その隣人たちにどんな作用を及ぼすのか?……ある種の音がなると、それは、たぶん即座に携帯電話の着信音として再認されよう。この音は、呼び出しの効果を持つ言表行為であり、ひとつの場を生起させている。このとき、その音は「呼び出し」という言表の内容として「再認」される。それゆえ、その電話が誰のものかにかかわらず、われわれはこの言表行為の現場の中に置かれてしまうことになるのだ。つまりは、すでにメディア環境へと内在させられてしまっていること。そして、われわれは、それぞれが言表内容をめぐる主体として人称化されるだろう。おそらく、携帯電話への不快のひとつの理由(?)は、その際自分に割り当てられる人称への不満によっている。じっさい、呼び出し音がした一瞬には何かが期待されたのであり、にもかかわらず自分が傍聴者(あるいは会話の内容さえ全く聞きとれない者)として主体化されたことに、失意のこもった小さな怒りが沸々とこみ上げてくるのだろう。
さらに愚かなる分析を続けてみよう。他人がモバイル・コンピュータを使用しているケースで、嫌な気分がするとしたら、それは、そこでどんな言表が発せられているのか、その内容によるのではなかろう。緊急の仕事かゲームなのかは、その際あまり関係がない。いちばん感情を害するのは、キーボードを叩く音や警告音や話し声そのもの、そして妙に間が空いたときの沈黙の空気だろう。自分は、そのメディア環境では決して言表行為の主体にはなれないことを、それらの音は告げる。それは、傍観者という言表内容の主体に甘んじるか、「テレビ以前」のノイズを黙って受けとめるかの、落ち着き先のない気分でわれわれを揺さぶるのだ。非人称的な音がして、どうやらメディア環境では領土化が行なわれているらしい気配がすること。しかし、こうした言表行為の主体と言表内容の主体との切断は、他の電子メディア機械でも生じているはずなのであり、モバイルや携帯電話においては、「テレビ以前」と「テレビ」とのこうした裂け目が、いくぶんより顕著だということなのかもしれない。メディア・ツールを自分でオン・オフするときには感じにくいだろうが、言表行為は、メディア環境の「外」から到来するだろう。ここでは、資本主義とは不即不離の、いわば否定神学的なシステムが作動しているのだ。それは、自分の知らない間にシャッター音がして、写真という平面内に収められた際の不快にも似ているかもしれない。しかし、われわれは、写真と違って、いつ始まるとも終わるともわからぬままメディア環境ミリューというミリューに(少なくとも潜在的に)関与させられ続けるのであり、たとえば誰かの携帯電話での会話やモバイルの作業が済んだとき何か奇妙な安堵を覚えたりするのも、あるいはそのためなのかもしれない……。
前言と矛盾しつつ、どうやら仰々しさが増してきたようである。しかし、だとしたら、それはこうした問題にわざわざ触れるのが一層いまさらめいて見えてくるだろう時勢からの、ズレが目指されているからでもある。おそらく、モバイルは、ますます普及するだろうし、われわれがメディア環境の管理から絶対的にオフでいられる時空の間は、どんどん減少するだろう。あるいは、そうした間がまだ多少あると思うこと自体が、もはや楽観に過ぎるのかもしれない。ともあれ、自分が接続をオフにしていても、メディア環境への動員がいつでもかけられかねないこと。これは、オンのまま呼び出しや着信を待機するのとほとんど変わるところがなく、絶対のオフとは言えないのだ。モバイルでは、都市へ離散した遊歩者たちに指令を出し、総動員モバライズをかけることが可能なだけではない。それは、オフの者までをも、時にその意志にかかわらず動員モバライズしてしまうだろう。
呼び出しや着信の音といった指令の記号に加えて、電子メディア環境では、パス・ワードが重要になってきている。パス・ワードは、環境内での領土化を促進するために有効であるからなのだろう。エリアを分割しその間に壁を設けることで、参加したくもない(させたくはない)場に内在してしまうというケースは減ってゆくのかもしれない。その意味では、先に述べたトラブルの類は解消されてゆくとも言えよう。しかし、パス・ワードとは、ネットやアプリケーションへのログオンだけに関わるものではない。たとえば、携帯電話では、現実の土地を移動するときに、エリア変更を連絡する電波を発信している。それゆえ、モバイルを伴っての遊歩とは、まさに言語行為となる。そして、同時に、それは都市の現実におけるリアルな行為にもなっているのだ。
モバイルが他の電子メディアにない効果を持つとすれば、それは都市に現実的なものを撒き散らすことである。それは、端的にいって、電磁波を振り撒いて移動するのだ。そして、われわれの可聴閾内では様々なノイズを立てる。もっとも、われわれは都市の電磁波のことなどさほど気にかけないし、ノイズはすぐに電子メディア音として再認されてしまうだろう。心臓にペースメーカーをつけた人たちや、補聴器を使う人たちや、送電線の近隣に住む人たち、等々……。彼らの切実な不安と被害にもかかわらず、電子メディア環境の管理はなぜか信頼されている。あるいは、われわれは、「テレビ以後」の再土地化された人工的大地に定住し、現実的なものを忘却しつつある。それだけに、携帯電話への不快感が持つ、あの情動の現実性が、小さな意味を持つように思われてくるのだ。
ノイズから音へと変わる、日常的な意味ではほとんど時間とさえ言えない一瞬の間……。そのとき、オン・オフの彼岸が開けている。そして、その開けの間に、ノイズとの接続やノイズからの触発が起きる。ノイズへの不快感はたぶん持続せず、音への不快に変わってしまうのだが、この情 動アフェクトは確かに現実的なものに触れており、あるいは、情動とは触 発アフェクトの間そのものとも言えるのだ。モバイルの可能性とは、それが事件を起こすかもしれないこと、これである。それは、他のメディア・ツールの場合にはいまや認められにくい現実的なものの存在を、示唆したり回帰させたりする余地をまだ残している。モバイルは、電子メディア環境に回収されない知覚・感情・思考を触発する遊撃手になりうるだろう。そして、運がよければ、都市に新たなる創造的な接続を生起させるだろう。
もちろん、そうも簡単にいかないのは目にみえている。電子メディア環境の管理下から逃走するものはといえば、むろん電磁波もそれにほかならないからである。携帯電話では、現在マイクロ波が使われている。そして、いまやこの周波数帯は飽和しているため、さらに短いミリ単位の波さえ使われようとしている。ミリ波は、より生体へのダメージを大きくするに違いない。無線電信網を全廃するのでもない限り、マイクロ波やミリ波という蜘蛛の毒が、日々オフであるわれわれをも侵してゆくだろう。
それゆえ、現実的なものの逃走や漏出に伴走しつつも、それから決定的な害を被らないこと。身体や都市を癌化させる触発者イニシエイターたる電磁波と、創造的に(?)つきあってゆくこと。ネット・サーフよりも、むしろマイクロ波やミリ波をサーフし、ノイズに座礁しないサーフの方法が問われているだろう。そして、これはたぶん、真正なる意味での技術の問題なのである……。


★一──アルバート・ゴア・ジュニアほか『情報スーパーハイウェイ』(浜野保樹+門馬淳子訳、電通、一九九四)一〇九頁。
★二──Gilles Deleuze, Nietzsche, P.U.F. 1965, p.44.[邦訳=『ニーチェ』(湯浅博雄訳、朝日出版社、一九八五)八〇─八一頁]。
★三──リゾームがツリーと単純な二項対立をなすものではないこと、網の目型の形象を指すものではないことについては、Gilles Deleuze et Felix Guattari, Mille Plataux, Éditions de Minuit, 1980.[邦訳=『千のプラトー』(宇野邦一+小沢秋広+田中敏彦+豊崎光一+宮林寛+守中高明訳、河出書房新社、一九九四)]の第一章を参照せよ。
★四──Marshall Mcluhan, Understanding Media, 1964 (1994, Routledge), p.21.[邦訳=『メディア論』(栗原裕+河本仲聖訳、みすず書房、一九八七)二一頁]。
★五──Ibid., p.323.[同書、三三六頁]。
★六──Ibid., p.9.[同書、九頁]。
★七──ここでの記号に対する考察は、フェリックス・ガタリ「記号学」とは異なるものとして定めた「記号論」的な方向をとっている。両者の違いについては、Felix Guattari, L'inconscient machinique, Recherches, 1979.[邦訳=『機械状無意識──スキゾ分析』(高岡幸一訳、法政大学出版局、一九九〇)]の第一章、あるいは、ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「制度の中におけるシニフィアンの位置」、『政治と精神分析』(杉村昌昭訳、法政大学出版局、一九九四)を参照せよ。
★八──S・フロイト「無気味なもの」、『フロイト著作集3』(高橋義孝訳、人文書院、一九六九)所収。
★九──E・T・A・ホフマン「砂男」、『ホフマン全集3』(深田甫訳、創土社、一九七一)所収。
★一〇──Mcluhan, op. cit., p.129.[前掲書、一三〇頁]。
★一一──Ibid., p.313.[同書、三二五頁]。
★一二──直川一也『電気の歴史』(東京電機大学出版局、一九九四)二〇四頁。
★一三──Ibid., p.205. また、桜井哲夫『TV 魔法のメディア』第二章(ちくま新書、一九九四)を参照せよ。
★一四──Ibid., p.205. マクルーハンによれば、スクリーンとプロジェクターは外爆発の時代の機制である。内爆発の時代のテレビは、それと全く異なるメディアであるだろう。Mcluhan, op. cit., p.292..[前掲書、三〇二頁]を参照せよ。
★一五──S・フロイト「無気味なもの」三三八─三四一頁。
★一六──Mcluhan, op. cit., p.8.[前掲書、八頁]。
★一七──また、分節子(particle)という言葉も使われている。Gilles Deleuze et Felix Guattari, L'anti-Œdipe, Éditions de minuit, 1972, p.91/133/422.[邦訳=『アンチ・オイディプス』(市倉宏祐訳、河出書房新社、一九八六)九九、一四一、四一九頁]、Deleuze et Guattari, Mille Plataux, p.90/178.[前掲書、九一、一六四頁]。
★一八──テレビが「面」を表象しているのでないことに関しては、以下の思考実験を示しておこう。すなわち、時刻1から2にかけて「塹」の字の上半分が撮影カメラにより水平走査され、時刻2の時点でそれが瞬時に「昔」の字に交替され、時刻2から3にかけて「昔」の字の下半分が走査されたとする。そのとき、時刻3の時点で受像機側に映るのは、「塹」でも「昔」でもなく「暫」の字である。詳しくは、拙論「イマージュ流通環境批判論」(東京大学大学院総合文化研究科修士論文)九七頁を参照。
★一九──Nicholas Negroponte, Being Digital, Alfred A. Knopf, Inc., 1995.[邦訳=『ビーイング・デジタル』(福岡洋一訳、アスキー出版局、一九九五)]の第一章を参照
せよ。
★二〇──フリードリヒ・キットラー「ソフトウェアは存在しない」、『InterCommunication』No.12.(福岡洋一訳、NTT出版、一九九五)。
★二一──Mcluhan, op. cit., p.210, 334.[前掲書、二一四、三四九頁]。
★二二──Ibid., p.249.[同書、二五五頁]。
★二三──Ibid., p.107.[同書、一〇八頁]。 Deleuze et Guattari, Mille Plataux, p.615.[前掲書、五四九頁]。
★二四──Mcluhan, op. cit. 第一章第四節の「メカ好き感覚麻痺を起こしたナルキッソス」は、テクノロジーとナルシシズムの関係に対し、刺激的な視点を示している。
★二五──Deleuze et Guattari, Mille Plateaux, pp.570-73.[前掲書、五一二─一四頁]。
★二六──以下、電磁波による影響については、天笠啓祐『電磁波汚染』(日本実業出版社、一九九六)等を参考にした。
★二七──キットラー「ソフトウェアは存在しない」、七二頁を参照せよ。
★二八──資本主義と公理系の関係、公理系とコードの相違については、たとえば、Deleuze et Guattari, L'anti-Œdipeの第三章第九節、第一〇節を参照せよ。

>瀧本雅志(タキモト・マサシ)

1963年生
岡山県立大学デザイン学部准教授。表象文化論、哲学。

>『10+1』 No.15

特集=交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール

>パサージュ

Passages。路地や横丁、街路、小路など表わすフランス語。「通過」する「以降...