1 軸線と権力
一九八〇年から続けられているダニ・カラヴァンのプロジェクト「大都市軸」[図1]は、パリの西北に位置する町セルジ・ポントワーズに設置された一二の滞留地点からなる、大地への全長三キロに及ぶ直線の書き込みである。夜間にはこの滞留地点の端と端がレーザー光線で結ばれ、パリに向けて延びる軸の存在を可視化する。このような軸ないし直線のモチーフは、一九六〇年代にイスラエルの砂漠に作られたカラヴァンの最初の大規模な野外作品《ネゲヴ記念碑》以来、彼の作品に繰り返し現われている。その直線はオブジェクトに刻まれた裂け目によって示されたり、あるいはケルン大聖堂に隣接する作品《マアロット》[図2]のように、地表に埋め込まれたレールや水路などによって表わされる。線に対して左右対称に配置された柱や軸線上の塔がその直線性を強調することも多い。
《マアロット》の塔を垂直に二分する隙間は、太陽の運行を観測する窓とも見なしうる。カラヴァン作品がもつ天文学的な装置にも似たこうした性格は、太古の巨石文化の遺跡を連想させる。ソウルに建造された《光の道》の作品名が端的に示しているように、カラヴァンの軸とは光の行路である。それは大地を貫いてどこまでも走る。直線的な軸は現実には線分の形態しかとりえないが、直線の表象は想像のなかでさらに延長され、ついには大地を二分する子午線に類似したものにいたるだろう。部分において無限な全体を喚起するこの力は直線に固有のものである。
だからこそ直線軸は権力の表象であり続けているのだ。参道と呼ばれる軸の終点には聖なる場所ないし宗教的な祭祀の建築が位置して、直線の無限性を宗教的権力の無限性へと変換する。あるいは、国家の首都を横断する都市軸は、例えばパリの《ルーヴル》や《チュイルリー》のような政治権力を表象する建造物に発して一直線に延びていく。フランス革命二〇〇年にあたってミッテラン政権が選んだ都市改造もまた、この都市軸を延長することによって、それが表象する権力の継承者であることを誇示するものだった。
さらにいっそう典型的なのはヒトラーとアルベルト・シュペーアによるベルリン改造計画の南北軸である[図3─5]。幅員一五六メートルのこの軸の北端には一五万人以上を収容可能な、メガロマニアックなドーム型の大会堂が計画されていた。既存の道路を延長しただけの東西軸に対して、南北軸はナチス・ドイツの首都ベルリンの背骨となるべき新たな直線だった。帝国が崩壊し、建築物が廃墟になった時点の都市の姿をヒトラーはあらかじめ思い描いていたと伝えられる。もしそうだとすれば、田園地帯を貫くアウトバーンとともに、ベルリンの軸線道路は、大会堂をはじめとする個々の建築物にもまして、彼の帝国を後世に残すものとなったはずである。ローマ帝国が建造物の遺跡よりも、ローマへと通じる〈すべての道〉においてはるかにその痕跡を数多く残しているように。
シュペーアが参加する以前に、ヒトラーは大会堂や凱旋門のデザインなどをはじめとする首都改造の大枠を自ら決定していた。官庁街を貫く南北軸の道路上には凱旋門の南にベルリン南駅が配置され、この駅に到着した訪問者は凱旋門を通して大会堂の巨大なドームまでをも一挙に目にすることになるはずだった。こうした軸線への執着は単体の建築物にも反映している。シュペーアの設計になる異様に細長い形態をした新総統官邸では、入り口からヒトラーの執務室にいたる内部動線が二〇〇メートルに達していた。小山明はこの官邸を「建物の形をした軸線道路」★一と呼んでいる。
しかしいずれの場合も、大会堂あるいはヒトラーの執務室において軸線は断ち切られてしまう。権力は軸線を都市に刻み込むと同時に、その切断によって自らに表象の場を与えるのである。直交するグリッド状の道路網がこの全体主義的権力の選び取る都市形態でなかったことはもちろんだが、円や正方形の中心から放射状に走る複数の道という理想都市の形態にそれが近づくこともない。権力にいたる道はここではただひとつである。そして、カール・シュミットがいうように(『権力および権力者への接近に関する対話』)、権力は権力の行使者に接近する通行権に還元されるのであり、この権利をめぐる闘いが行なわれる控えの間や回廊を伴わない権力は存在しないのだとすれば、ナチス・ドイツの首都や建築に引かれた力強い軸線とは、総統へといたるただひとつに限定された道であり、権力への通行権を求めて闘われる激しい闘争の場ではなかっただろうか。ベルリン改造計画の模型は総統自身にとって、この権力構造を表象した世界模型でもあったのではないか。南端に人口二一万の住居都市をもつ南北軸は、群衆が一斉にこの軸線道路を北上して大会堂に集合するスペクタクルな〈総動員〉の舞台である。ここでは交通空間が集団的な祝祭の場として視覚化されていた。
カラヴァンの軸線もまた道を作る。しかしその道は宮殿や官邸、大会堂といった特定の建築物によっては断ち切られない。そしてその光の道は、人がただ一人で脚下にそれを確認しながら歩くしかない、あまりにか細い線であり、隊列を組んだ集団の行進はそこでは不可能だ。カラヴァンの軸線は幾度も途切れながら続く。砂漠によって、森によって、あるいは湖、川、海によって、それは断ち切られる。ポルト・ボウにある、この地で自殺したヴァルター・ベンヤミン[図6]へのオマージュ《パサージュ》[図7─10]では、コールテン鋼製のトンネルが海辺の断崖に突き刺さり、その軸線は波打つ海面上へと消えていく。切れ切れとなり、途絶え、姿を消すことによって、直線はその切断と消失をもたらした出来事を記録するとともに、一方では不可視化した軸線をそのまま延ばしていく。デュッセルドルフにおける一九九〇年の作品《無題》[図11]では、展示場となった部屋の端から端まで敷かれた鉄道線路によってひとつの軸線が引かれている。建物の壁で断ち切られながらも、この鉄路はその壁の向こう側で、第二次世界大戦下のドイツから東方の強制収容所にユダヤ人たちを輸送した鉄路の記憶に連結しているのである。
途切れることによって歴史の〈句切り〉を露呈する線は、ダニエル・リベスキンドの《ユダヤ博物館》が描き出しているものでもある。ベルリンという都市とユダヤ人の歴史を表わす二本の線がこの建物では交叉する。ジグザグ形の博物館を貫いて寸断されながら走る一本の直線は、ベルリンにリベスキンドが書き込む不可視の軸線道路にほかならない。だが、リベスキンドの引く二つの線はいずれも内部に無数の亀裂を抱えて、それ自体として複数的な線である。そのような複数的な線としての建築を彼は同じくベルリンのプロジェクト「シティ・エッジ」[図12]や「ユーバー・デン・リンデン」[図13]で提案している。あるいは初期のドローイング集『チェンバー・ワークス』では、破線、点線、不定形の曲線など、さまざまな線の断片が圧縮されることによって直線が生成するプロセスが描かれていた。《ユダヤ博物館》の壁に刻まれた無数の亀裂から射し込む光は、つねにすでに破砕されている直線内部の裂け目であり、歴史の連続を断ち切る危機とそれゆえの希望の痕跡、「ザクセンハウゼン強制収容所跡地計画」[図14]に予定される建築の名称を借りれば、〈希望の刻み目〉にほかならない。
小林康夫との対談でリベスキンドは、〈線をめぐるイデオロギー〉において支配的な〈偉大な線〉に対して、線とはむしろはるかに傷つきやすく脆いものであり、「線はどこにも行くことができない」と述べている★二。線はエンドにある。そして建築はデッド・エンドに向かう線のシステムからできている。しかし、それは線がエンドに向かって進んでいくということではない。
建築における〈メシア的なもの〉と関わるこのようなエンドについて、リベスキンドは他の場所でも繰り返し言及している。エンドとは
そう、あなたはまさに、歴史の二つの性質、つまりパラノイア的性質とスキゾフレニー的性質に触れているのだと思う。歴史というのは一連の偶然的な非・決定的な出来事の全体なので、それを事後的にわれわれはひとつの線としてつかまえるのです。だから、まったく異なった仕方で歴史の線を切り出すということがある★三。
リベスキンドはここで〈ひとつの線〉と述べているが、〈偉大な線〉がパラノイア的な大きな物語としての歴史であるとすれば、彼の線が示している歴史はむしろ、スキゾフレニー的な分裂状態に置かれたままの、非連続的な切断された線の集積である。これに対してカラヴァンの線は、確かに〈偉大な線〉に対して強力な対抗軸をなすものではあっても、別のパラノイア的物語を語っているのではないだろうか。それは線を無数に破砕するスキゾフレニー的な力を受け入れようとはしない。希望という光は、《ユダヤ博物館》のように断片化した無数の線分から射し込むのではなく、それ自体が一本の道となって大地を横断する。そして、その線の切断は、例えば「パサージュ」のように、ひとつの悲劇を演出してしまうのである。それが言葉を奪うほどに劇的であり、衝撃的な切断であることは否定できないにしても、このような切断の見事さがその根底では、ベルリンの都市軸に表象されたパラノイア的な権力の演劇性と通じ合うものなのではないか、という印象は捨てきれない。
1──ダニ・カラヴァン「大都市軸」
2──同《マアロット》
3──ベルリン改造計画南北軸、模型
4──同、プラン
5──同、模型
6──ヴァルター・ベンヤミン、死亡証明書のポートレート
7──ダニ・カラヴァン《パサージュ──ヴァルター・ベンヤミンへのオマージュ》
8
9──ダニ・カラヴァン《パサージュ──ヴァルター・ベンヤミンへのオマージュ》
ガラス面に「有名な人々よりも、名もない人々の記憶に敬意を払うほうが難しい。歴史の構築は、名もない人々の記憶に捧げられている」というベンヤミンのテクストが刻まれている。
10
11──ダニ・カラヴァン《無題》
12──ダニエル・リベスキンド「シティ・エッジ」プランおよび模型
13──同、「ユーバー・デン・リンデン」模型
14──同、「ザクセンハウゼン強制収容所跡地計画」
2 線を越えて
〈歴史の力〉は線にあるのか、それともその切断にあるのかという問いをめぐって、第二次世界大戦後、ナチのパラノイア的権力と両義的な関係をもったエルンスト・ユンガーとマルティン・ハイデガーの二人の思想家が、線という形象を主題としたニヒリズム論を交わしている。一九五〇年、ハイデガーの六〇歳記念論文集に寄稿されたユンガーの「線を越えて(Üer die Linie)」は、第二次世界大戦後の社会に過去の価値の全面的な還元過程、すなわちニヒリズムを認め、このニヒリズムは完成の最終局面にいたったと診断している。われわれは〈零度子午線〉という〈臨界線〉を通過しようとしているところであり、すべての価値が溶解するこの〈線〉を越えるとともに、新しい意味と形態がそこに結晶するであろう、とユンガーはいう。彼にとって歴史の力はあくまで線を切断する側にある。
これに対してハイデガーはその五年後、ユンガー六〇歳記念の論文集において「〈線〉について(Üer “die Linie”)」で応えた。ユンガー論文のタイトルとの差は線という単語につけられた引用符だけであるが、この引用符の存在によって、ユンガーの場合にはあった〈越えて〉という意味が回避されている。ハイデガーの批判が向けられるのは、この〈越えて〉という横断あるいは超克の運動である。
ハイデガーから見れば、線の横断という試みは、存在を忘却した形而上学の表象作用のもとにとどまっている。存在はそれ独自で存立していて、それから人間のほうへ立ち寄ってくるような何かではない。人間が存在から排除されているかのようなこうした表象を避けるためには、存在×と書き記すべきであるとハイデガーはいう。同様に、人間はニヒリズムによって襲われているのみではなく、むしろニヒリズムに参与しているのであり、人間の本質はニヒリズムの本質に帰属している。従って、人間はただ単に線の臨界領域のなかに立っているのではなく、人間存在そのものがニヒリズムの〈零度子午線〉にほかならない。こうして、人間が線を横断する可能性は原理的にありえないことになる。ハイデガーが書き記す存在×の十字に交叉した記号は、単に否定的な抹消を意味するものではない。それは講演「建てること、住むこと、考えること」で語られている、〈大地〉、〈天空〉、〈神々〉、そして〈死すべきもの〉という四者が出会う場所を示している。この講演ではその場所が橋という形象によって表わされていた。さらにこの×印は、これら四者の争いを表わす〈裂け目(Riß)〉の形象であり、人間存在が線にほかならないとすれば、人間という〈二重襞(Zwiefalt)〉の形象でもあるにちがいない。「〈線〉について」は文字通りに、ハイデガー哲学の鍵となる概念を形象化しているこの交叉する二本の線、デリダが「記号の観念そのものを自身に目撃させながら自身を破壊する」「あるひとつの時代の最後のエクリチュール」★四と呼んだ線をめぐる思索であったということができる。この×印は、存在忘却の形而上学を終わらせる記号であると同時に、存在の真理を表わす最初のエクリチュールでもあるがゆえに、それ自体が歴史の臨界状態を表わしている。
ハイデガーにおいて支配的な線の表象は森の〈杣径(Holzwege)〉をはじめとする道の形象である。×印の抹消記号や橋の形象もまた、その変奏といえるだろう。だが、こうしたハイデガーの道とはあくまで、大地のうえ、天空のもとにあり、人間がその足で歩む
これに対して、ニヒリズムを超克しようとするユンガーは「線を越えて」において、ハイデガーのいう〈杣径〉はわれわれが「堅い街路」から遠ざかっていることを暗示する「美しい、ソクラテス的な言葉である」★五ものの、そこには挫折の可能性が含まれている、と批判していた。ユンガー自身のたどる「堅い街路」は、「総動員」や「労働者」をはじめとするヴァイマール時代の論文が示すように、価値破壊的なテクノロジーと深く結びついている。ユンガーのロマン主義はテクノロジーという第二の自然に神秘を求める。彼によれば、第一次世界大戦とともに歴史の動向として顕在化した〈総動員〉とは、現代という大衆と機械の時代に人間を従属させる神秘的で強制的な要求の表現にほかならない。そしてこの時代の戦士の形象が〈労働者〉である。〈総動員〉は自動展開する過程であって、それゆえその展開の結果は時には国家の自壊にいたることもあるとユンガーはいう。
〈零度子午線〉を横断する総動員の道は大地を分割して秩序づける線を、すなわち〈大地のノモス〉(シュミット)を引き裂く。シュミットは『大地のノモス』で「子午線が真理を決定する」というパスカルの言葉を引いている★六。この子午線とはパスカルにとって、当時の世界分割の政治的境界線である〈友誼線(Amity Line)〉にほかならなかった。それは法とその彼方の奈落を分け隔てる線であった。この真理決定の子午線は無法地帯を設定することによって、法の支配する空間を生み出していた。こうした空間分割の線が資本主義的国際市場の成立によって消失したことは国際法秩序の最終的な崩壊をもたらした。シュミットはこうした動向を〈脱場所化〉と呼ぶ。「自由への全般的な動き、伝統的な場所化の止揚とこの意味におけるもっともインテンシヴな種類の総動員、全面的な脱場所化は、ヨーロッパ中心的な世界を根本から変え、それを他の動向へと突き落としたのである」★七。総動員下の交通空間は純粋な非場所の自動展開としてこうした脱場所化をよりいっそう過激に進行させていく。世界大戦という戦場のグローバル化もこの脱場所化の帰結にほかならない。
〈総動員(die totale Mobilmachung)〉とは文字通りには全面的な可動化を意味する。完成されることなく、つねに完成への途上で自動展開するこの可動化の運動は
総動員の
「Der Bau」とは小動物の〈巣穴〉のほか、〈建設・建築〉を意味する。この物語では不安に怯える小動物が、敵の侵入に備えて巣穴を絶えず作り変えながら、シューシューという音のほかには正体のわからない敵のことをあれこれと空想して延々と独白を続ける。ここでは、塹壕戦における兵士の経験と戦場を直接知らないプラハの一市民による小動物の巣穴建造の記述とが無媒介に直結してしまっていた。そのときすでに作家という主体ではなく、戦争そのものが集団的な言説を再生産しはじめていた。戦争がもたらしたこの新たな記号体制はフロイトの「快感原則の彼岸」というテクストにも表われているとキットラーはいう。小動物のパラノイア的なモノローグはフロイトが反復強迫と死の欲動を見出した戦争神経症に呼応し、巣穴といういくつもの枝道をもった地下の迷宮は、ジグザグを描いて延びる前線の無数の塹壕に通じているのである。
カフカは第一次世界大戦を、いままでのいかなる戦争とも比較にならない〈神経の戦争〉ととらえていた★一〇。この神経戦によってフロイトのテクストが被った記号体制上の変化は、例えば「快感原則の彼岸」における〈通道(Bahnung)〉という概念の復活に認めることができる。この概念は一八九五年のいわゆる「科学的心理学草稿」で体系化を試みられた心的装置の神経学的モデルに用いられている。通道とは、知覚をつかさどる透過性ニューロン(φニューロン)と記憶の担い手である非透過性ニューロン(ψニューロン)からなる神経系システムにおいて、フロイトが〈量(Q'η)〉と呼ぶ心的興奮の通過によってψニューロンの接触防壁が変化し、その非透過性を減少させることをさす。興奮はできるだけ抵抗の少ない経路を流れるから、興奮通過の経路選択を決定づけるものが記憶であるとすれば、記憶はψニューロン間の通道の差異によって表わされることになる。ニューロンを一定の興奮量が満たすことを意味する〈備給(Besetzung)〉の概念がその後も隠喩として用いられ続けたのに対し、通道の概念と神経学的モデルはその後、「快感原則の彼岸」でフロイトが死の欲動を導入した新たなモデルを立てるまで、長く抑圧されていた。
「科学的心理学草稿」の執筆当時、ヴィルヘルム・フリースに対する強い転移関係にあったフロイトは、一八九五年九月四日にベルリンのフリースを訪問した帰途、ウィーンへと向かう鉄道列車のなかでこの「草稿」をメモしている。すでに以前から構想はあったものの、このメモを契機に執筆は一気に進み、一〇月八日には現存するテクストすべてを収めた二冊のノートがフリースに送られた。そしてその後、前進と後退をしばらく繰り返したのち、この著作の計画は未完のまま放り出されてしまう。
九月二五日付けのフリース宛の手紙でフロイトはウィーンへの車中で起こった出来事を詳しく報告している。──フロイトのコンパートメントには感じの悪いユダヤ人が乗車してきて、フロイトはいったん自分の坐っていた席を横取りされてしまうものの、隙を見てまたそれを奪い返す。鞄のなかを引っかき回しているとき、フロイトは自分がそこに入れた覚えのない本を見つける。税関の役人に良心の咎めなしに「すべて自分の持ち物です」と申告することはできないかもしれない、などという不安にしばしの間フロイトがとらわれていたとき、頼りなげなその表情を目にした隣りの客が「本をしっかり手にもって。そうすれば彼はあなたがそれを読んでいると思いますよ」と突然声をかける。「それで私には十分すぎるほどでした。ヘヴェシの滑稽小説のミス・ミックスのように、非常用の紐を引いて列車を停車させ運転手を通じて感謝の気持ちを表わすことはせず、私は直接彼に感謝し、自分はまったく困ってはいないと保証しました。それから私は休みました」★一一。
夢にも似た印象を与える記述である。「Bahnung」とは文字通りには道を開くことだ。「Bahn」とは切り開かれた道、軌道、そして「Eisenbahn」の同義語として鉄道を意味する。一方、「Besetzung」とは場所や座席の確保、土地の占領をさす。「科学的心理学草稿」の執筆開始が鉄道列車の車中であったことは単なる偶然だろうか。これから書かれようとしているテクストの中心概念をあらかじめ上演するようにして、そこでは〈鉄道(Bahn)〉内における座席の〈占領(Besetzung)〉が主題となっているのである。さらに「草稿」でフロイトはひとつのニューロンから別のニューロンへの量の通過を〈転移(Übertragung)〉と呼んでいる。精神分析の核心をなすこの言葉も文字通りには、中継、伝送、伝染の意味である。隣りの客がフロイトに言った言葉は、意識的なコミュニケーションなしに伝送=転移されたフロイト自身の不安の表出ではないだろうか。こうしてこの白日夢めいた一連の出来事はあたかも、「草稿」における心的現象の神経系モデルを、ひいては無意識の構造そのものをすでに予告しているかのようなのだ。
「草稿」においてこのようにいわば鉄道的なものとして見出された心的装置の神経系モデルは、第一次世界大戦というかつてない〈神経の戦争〉を経て再びフロイトによって取り上げられる。しかしそのとき、フロイトはいわば〈線を越えて〉、このモデルに死の欲動という〈彼岸〉の力を導入するのである。それによって心的装置のなかに新たな
ベンヤミンが「ボードレールにおけるいくつかのモチーフについて」において、一九世紀のパリの路上におけるショック体験を分析するときに依拠したものもまた、「快感原則の彼岸」のこのモデルだった。ベンヤミンは、テクノロジーの破壊的な力をそれまでの束縛から陶酔とともに解放した第一次世界大戦という外傷的衝撃の前史を、前世紀のパリにおける遊歩者の経験に求めたのである。大都市のショック体験に翻弄されながら、その機械的なリズム──死の欲動が刻む二進法のリズム──に酔い、永遠回帰の夢を見ていた遊歩者の系譜上で、一九世紀よりもはるかに加速化された交通空間において、神話化されたテクノロジーの夢を見ている同時代人がほかならないユンガーであった。ベンヤミンにとってユンガーは、一九世紀がテクノロジーに託したユートピアの夢が世界大戦によって明らかに破綻したのちになお、意図的にテクノロジーを再神話化し、審美化された第二の自然の夢を見続けようとしている点において批判されねばならない対象だった。ユンガーのようにテクノロジーが切り開く
3 形象 への道
カラヴァンやリベスキンドの作品が、パサージュや軸線を用いて大地や都市から歴史を析出する装置であるとすれば、それは近代の根源的歴史をパリのパサージュのなかにたどったベンヤミンの思想をいわば反転させるようにして、都市という記憶の場を切開する線であるといえよう。歴史を街路の線上において思考しようとしたベンヤミンと、大地に引かれた線によって歴史を表象するカラヴァンやリベスキンドは、都市のこの切開線の上で出会う。
ベンヤミンの都市論は、都市の記憶、都市生活の経験を単に分析の対象とするばかりではなく、例えば『一方通行路』や『パサージュ論』の断章形式によって、テクストそのもののなかに都市の空間構造とリズムを写し取っていた。一九二〇年代に書かれた『一方通行路』は短文をモンタージュしたエッセイ集であり、「ガソリンスタンド」や「建設現場」、「一三番地」などといったタイトルが示すように、都市の街路を彷徨い歩くうちに出会った建築物、店、看板広告などのさまざまな物象や、その出会いとともに喚起された回想・連想を、スナップショットにも似た〈思考像〉として定着している。
『一方通行路』の献辞には「この道の名はアーシャ・ラツィス通り。この道を著者のなかに技師として切り開いた女性の名に因んで」と書かれている★一三。ベンヤミンを共産主義へと導いたとされるラツィスが〈技師〉として切り開いたこの 〈一方通行路〉とは、歴史の必然的な展開の線を示すもののようにも見える。この道路標識はそこが自動車道路であることを表わしてもいる。だが、骨董品や文房具といった商品に目を奪われ、拾得物保管所に迷い込んでいくベンヤミンの歩みそのものは決して自動車の速度で進むものではなく、遊歩者のぶらぶら歩きにほかならない。ベンヤミンのなかにラツィスによって切り開かれた歴史の線は、遊歩者の彷徨う無数の横道へと分岐しているのである。そしてその枝道は個人史的であると同時に歴史的な過去へと通じている。同じ頃に執筆作業が開始された『パサージュ論』でベンヤミンは、パサージュとは外部をもたない内部、純粋な室内であり、そして、それは夢の構造に似ている、と述べている。パサージュのなかで人は、系統発生にも似て、両親や祖父母の生を繰り返し夢のように生きている。「こうした空間のなかの生活は、特に何のアクセントもなく、夢のなかのできごとのように流れていく。遊歩こそはこのような半睡状態のリズムである。一八三九年パリで亀が流行した。粋な連中にとって、大通りでよりパサージュでの方が、この生物の歩行テンポを真似しやすかったことは、十分に想像できる」★一四。パサージュは街路という交通空間でありながら、すでに往来は滞り、商品世界の眩惑が消費者たちを捕らえて離そうとしない。フェティッシュの磁力が速度の支配を弛緩させてしまう。この夢の空間のなかにおける緩慢な歩みのリズムとともに、遊歩者には都市の系統発生的な記憶と彼自身の幼年時代とが二重写しになって立ち現われてくる。
街路はこの遊歩者を遙か遠くに消え去った時間へと連れて行く。遊歩者にとってはどんな街路も急な下り坂なのだ。この坂は彼を下へ下へと連れていく。母たちのところというわけではなくとも、ある過去へと連れて行く。この過去は、それが彼自身の個人的なそれでないだけにいっそう魅惑的なものとなりうるのだ。にもかかわらず、この過去はつねにある幼年時代の時間のままである。それがしかしよりによって彼自身が生きた人生の幼年時代の時間であるのはどうしてであろうか? アスファルトの上を彼が歩くとその足音が驚くべき反響を引き起こす。タイルの上に降り注ぐガス灯の光は、この二重になった地面の上に不可解な[両義的な]光を投げかけるのだ★一五。
〈アスファルト〉は自然から遊離した場所としての近代的な大都会を暗示する言葉である。『一方通行路』には「広告をこれほどまでに批評よりも優れたものにしているのは、結局のところ何か。赤く流れる電光文字が語る内容ではない。──アスファルトの上でそれらの文字を映して、火のように輝いている水溜まりなのだ」という一節がある★一六。『一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代』では「彼がアスファルト道を歩めば、その足音は谺を呼び起こした」と書かれていた★一七。アスファルトの街路は歩みとともに虚ろな谺を響かせる二重になった道である。ベンヤミンは〈
〈一方通行路〉として表象された歴史の線は、その矢印を逆行する遊歩のなかで、このようにして外部のない室内というモナド的な夢の空間に無限に細分化されていく。そこは商品経済の循環からこぼれ落ちたフェティッシュたちで満たされた交通空間の死骸である。未来へと延びる線ではなく、分岐しながら過去へとひたすら下っていく道として、それは歴史の根源/根源の歴史の形象を、アスファルトの帯という二重の道の水溜まりのなかに浮かび上がらせる。一九世紀という夢からの目覚めは、陶酔とともに経験される無数の襞の生成と展開によって、そしてそこに立ち現われるさまざまな弁証法的形象を通じてのみありえるものとベンヤミンは考えた。なぜなら夢は外部をもたないからだ。ベンヤミンの夢のトポロジーとは、何重にも入れ子になった襞の内奥に、〈
ベンヤミンは『パサージュ論』における数少ないハイデガーへの言及のひとつで次のように述べている。「形象を現象学における〈本質性〉と区別する点は、形象がもっている歴史的な指標である。(ハイデガーは歴史を、抽象的に〈歴史性〉なるものによって現象学のために救い出そうと試みたものの、それは徒労に終わった)」★二一。逆にハイデガーの側からすれば、このようなベンヤミンの方法は、形象を前に置く(vor-stellen)という近代的表象作用の圏内にあるものとして批判されることだろう。
存在×というハイデガーの表記は、この近代的表象作用を前提としながら、その表象作用を禁止している。それは形象のない思考とでも呼ぶべきものを要求する二重拘束的な命令の記号である。しかし、ベンヤミンにとっては、表象作用のもとにおける形象のただなかに近代という時代の指標を見出すことこそが課題だった。自己言及的な形式的構造に還元されうるハイデガーの〈二重襞〉とは異なり、ベンヤミンにおける襞としての形象は、抽象概念にも形式的構造にも還元されない両義性=曖昧さこそを本質としている。この指標的形象において、現在と過去が、近代と古代がアナクロニックに出会う。このような形象とは、過去という地層を掘り進むようにして発見されなければならない何か、「それが認識可能となる刹那に一瞬ひらめきもう二度と立ち現れはしない」★二二何ものかにほかならない。
子午線としての人間存在というハイデガーの表象を脱構築するような、もう一本の、ベンヤミン的な〈形象〉としての子午線を、われわれはパウル・ツェランに発見することができる。ゲオルク・ビューヒナー賞受賞講演「子午線」でツェランは詩を、他者へと遠ざかりながら、自分自身へと回帰する営みとして語っている。彼はこの詩という出会いの道を子供用の地図帖のうえに探し求め、そして、「結びつけるもの、詩のように出会いへと導くもの」としてのこの「不可能な道」をそこに見つける。
私は見つけます、何か──言葉のように ──非物質的な、だが地上のもの、何か円い、二つの極を通って自己に回帰しているもの、そしてその際──愉快なことに──
熱帯地方=比喩 (die Tropen)を横切っているものを。つまり私は見つけるのです……一本の子午線を★二三。
そこで見出されたものは子午線という大地上の不可視の線であると同時に、〈子午線〉という比喩、言葉、形象である。それはもろもろの比喩を横断する線を表わす比喩なのだから、いわば自分自身を横切る線として、襞の構造をなしている。ツェランは、この子午線と比喩との交点に位置するものは〈日付〉であるという。ビューヒナーの『狂っていくレンツ』の「一月二〇日、山に行った」という記述をとらえて彼は、「恐らくすべての詩にはその〈一月二〇日〉が書き込まれて残っている、といってよいのではないでしょうか」と問いかける★二四。詩人は皆、自分自身の〈一月二〇日〉から出発して書く。同じひとつの日付がさまざまに異なる出来事を記しづけるものであるがゆえに、逆に言えば、それらの出来事はこの日付において出会う。それが他者との出会いであり、子午線の発見にほかならない。ツェランの日付はベンヤミンのこんな言葉と呼応する。「一つの暦が始まるその最初の一日は、歴史の低速度撮影という意味合いを担っている。そして、祝祭の日──それは
デリダはツェラン論『シボレート』で、ツェランの詩における名や日付とは〈灰〉にほかならないと指摘している。しかし、灰としての日付が存在するとはいえない。「おそらく、けれども一つとして灰は
われわれはここで、リベスキンドもまたこの線の分割という主題を共有していることを確認しておこう。リベスキンドの作品集には、「殺戮され、空に黒く立った陰茎と睾丸」をめぐるツェランの詩「陽根、子宮(Radix, Matrix)」と同じ題名が与えられている[図15]。ツェランの、そしてリベスキンドの子午線は、あらゆる比喩を横断して走る、消尽されつくした存在の残り滓であり、不可視の空虚な亀裂である。それは西欧形而上学の歴史の臨界線などといったものではなく、同一の日付のもとに反復されつつ、しかし、つねにその都度ただ一度の、唯一無二なものとして見出される〈
一度だけ、繰り返し一度だけ、そしてただいまここにおいてのみ感じ取られたもの、感じ取られるであろうもの。そして詩とは従って、あらゆる比喩や隠喩が不条理ニマデ(ad absurdum)導かれたいと望む、そんな場所であるのでしょう★三〇。
このような
われわれがたどってきたのは、二〇世紀の歴史を表象する、あるいはそれを切り裂くさまざまな〈線〉の系譜とその抗争であった。〈線〉というひとつの表象によって建築と思想と詩を横断するパサージュがこのように切り開かれうること自体が、今まであげてきた固有名が示すように、ナチス・ドイツとユダヤ人という二本の線の歴史的な交錯と密接に関わっている。建築と哲学、そして詩という異なるジャンルがまずあって、それが線によって結ばれるのではない。恐らくは、そのような領域の境界線を引き裂いて横切る歴史の線、ひとつの亀裂がある時点で暴力的に地平を貫いて走ったのであり、建築、哲学、詩は、この外傷的な経験ゆえに、その裂開の線をめぐる思考の反復を強いられているのであろう。
ひとつの世紀が終わりつつある今、二千年紀の終わりという時間の零度子午線を前にしたこの日付において、二〇世紀という悪夢のなかになお、目覚めへの道を宿した弁証法的形象は見出しうるのだろうか。アウトバーンからインフォバーンへと変容しつつある交通の回路は、神経系モデルにどのような通道をもたらし、どのような伝送=転移の可能性を生み出しつつあるのだろうか。テクノロジーの再神話化によるいっそう深い眠りにわれわれは陥りつつあるのではないのか。パラノイア的な歴史の力が弛緩し、それが歴史の終わりととらえられている一方で、スキゾフレニー的に分散したマイクロ・ファシズムの権力が、局地化した内戦とテロルを繰り返しているこの日付において、どのような政治的決断の線が大地に引かれるべきなのか。──ベンヤミンにとってパリやベルリンがそうであったように、こうした問いが向かうべき場所は依然として、リアルあるいはヴァーチュアルな都市以外にはない。あるいは逆に、線をめぐる抗争としてここで描いてきたようなきわめて政治的な闘争が、建築と言説の両者を横断して展開されるこの場こそを〈都市〉と呼ぶこととしよう。〈歴史〉とほとんど同義語であるようなこの場所の、薄汚れ、ぼろぼろになった幼年時代の〈
15──ダニエル・リベスキンド作品集『radix-matrix』表紙
16──パリのパサージュ、1927─28年頃
17──同、1905年頃
註
★一──八束はじめ+小山明『未完の帝国 ナチス・ドイツの建築と都市』(福武書店、一九九一)二五八頁。
★二──小林康夫「インファンスはジグザグの線を引く──ダニエル・リベスキンドとの対談」、『建築のポエティクス』(彰国社、一九九七)一六二頁。
★三──同、一六三頁。
★四──ジャック・デリダ『根源の彼方に──グラマトロジーについて(上)』(足立和浩訳、現代思潮社、一九七二)五四頁。ただし、訳語表記を若干変えた。
★五──Ernst Jünger: Über die Linie. In: ders.: Werke. Bd.5. Essays I. Stuttgart ?, S.287.
★六──Carl Schmitt: Der Nomos der Erde. Berlin 1988, S.63.
★七──Ibid., S.210.
★八──フリードリヒ・キットラー「アウトバーン」、本号、(三本松倫代訳)一二八頁。
★九──次を参照。Wolf Kittler: Grabenkrieg - Nervenkrieg - Medienkrieg. Franz Kafka und der 1. Weltkrieg. In: Jochen Hörisch u. Michael Wetzel (Hg.), Armaturen der Sinne. Literarische und technische Medien 1870 bis 1920. München 1990, S.289-309.
★一〇──次を参照。Franz Kafka: Deutscher Verein zur Errichtung und Erhaltung einer Krieger- und Volksnervenheilanstalt in Deutschböhmen in Prag - Prag, im November 1916. 引用は次に従う。Wolf Kittler, ibid., S.299.
★一一──Sigmund Freud: Briefe an Wilhelm Fliess 1887 - 1904. Ungekürzte Ausgabe. Hrsg. von Jeffrey Moussaieff Masson. Frankfurt am Main 1986, S.142.
★一二──ノルベルト・ボルツ『批判理論の系譜学──両大戦間の哲学的過激主義』(山本尤+大貫敦子訳、法政大学出版局、一九九七)一四二頁。
★一三──ヴァルター・ベンヤミン「一方通行路」、『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』(浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、一九九七)一八頁。
★一四──ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論V』(三島憲一ほか訳、岩波書店、一九九五)一五頁。[断章番号D2a─1]。
★一五──ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論III』(三島憲一ほか訳、岩波書店、一九九四)六九─七〇頁。[断章番号M1─2]。
★一六──ベンヤミン「一方通行路」、一一〇頁。
★一七──ヴァルター・ベンヤミン「一九九〇年頃のベルリンの幼年時代」、『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』四九七頁。
★一八──ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論III』、二一九頁。[断章番号P2─ 1]。
★一九──〈アスファルト〉という単語とベンヤミンにおける〈固有名〉をめぐっては、次を参照。Thomas Schestag, Asphalt. Walter Benjamin. Klaus Boer Verlag 1992.
★二〇──ヴァルター・ベンヤミン「パリ ──一九世紀の首都[ドイツ語草稿]」、『パサージュ論I』(三島憲一ほか訳、岩波書店、一九九三)、二一頁。
★二一──ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論IV』(三島憲一ほか訳、岩波書店、一九九三)一八頁。[断章番号N3─1]。
★二二──ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」、『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』(浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、一九九五)六四八頁。
★二三──Paul Celan: Der Meridian. In: ders.: Gesammelte Werke. Bd.3. Frankfurt am Main 1986, S.202.
★二四──Ibid., S. 196.
★二五──ベンヤミン「歴史の概念について」、『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』六六〇頁。
★二六──ジャック・デリダ『シボレート──パウル・ツェランのために』(飯吉光夫+小林康夫+守中高明訳、岩波書店、一九九〇)一三四頁。
★二七──同、一九六─一九七頁。
★二八──同、二二一─二二二頁。
★二九──次を参照。浅田彰+小林康夫+平野嘉彦「カーネーションに捧げられた人間──ツェランの遺したもの」、『ユリイカ』一九九二年一月号(青土社)一七六─二〇三頁。
★三〇──Celan, op.cit., S. 199.
なお、特に註としてあげることはしなかったが、本論のいくつかの論点は東浩紀氏との対話から示唆を得ている。