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フリーズフレームス──写真と建築の横断線 | 福屋粧子
Freezeframes: Intersections of Photography and Architecture | Fukuya Shoko
掲載『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) pp.230-241

あなたは寝室の天井の色を覚えている?

白、だと思う。グレーかもしれない。ベージュかな。紫がかっていたかも……。

写真的記憶という言葉がある。何かの事物を言葉としては思い出すことができなくとも、場面を思い浮かべ、その映像の一部分を拡大していくことによって、細部を思い出すことができるというようなものだ。しかし多くの場合、想起はそのような道筋ではやってこない、なぜなら、気づいていなかったものを思い出すことはできないからだ。
しかし、例えば現在刊行されている建築雑誌に掲載される建築写真だけを見ていると、このことに気づくことはできない。そこにあるのは記憶的写真とでもいうべき、言葉で表わされるモノだけが存在する世界のように見える。そのような苛立ちを出発点として、既存のインテリアや建築のスタイルを痛烈に批判することを目的とした写真集は、次のような宣    言マニフェストで始められた。

豪華な写真集や分厚い雑誌に出てくるようなインテリアに、いったい僕らのうち何人が暮らしているのだろう。でも小さい部屋にごちゃごちゃと、気持ちよく暮らしている人間ならたくさん知っている。そして「スタイル」という言葉を使うとき、それはたくさん、どこにでもあるから「スタイル」と言えるのであって、自分のまわりにひとつも見つからないようなものを「スタイル」と呼ぶことはできない。マスコミが垂れ流す美しき日本空間のイメージで外国人を騙すのはもうやめにしよう。僕らが実際に住み、生活する本当の「トウキョウ・スタイル」とはこんなものだと見せたくて、僕はこの本を作った。狭いと憐れむのもいい、乱雑だと哂うのもいい。だけどこれが現実だ。そしてこの現実は、僕らにとって、はたから思うほど不快なものでもない。コタツの上にみかんとリモコンがあって、座布団の横には本が積んであって、ティッシュを丸めて放り投げて届く距離に屑カゴがあって……そんな「コックピット」感覚の居心地の良さを、僕らは愛している★一。


都築響一撮影による『TOKYO STYLE』は一九九三年に出版され、東京に暮らす若者たちの「リアルな」生活を表現した写真集という高い評価を得た[図1]。その大判の写真集の表現は、出版のみならず、建築に関わるものにとってもショッキングなものだった。それは確かに、部屋の内部という「空間」をうつした写真からなっていたが、建築雑誌やインテリア雑誌などで見慣れた室内写真とはまるで違っていたからだ。そこにはモノしかなかった。大量の洗濯物、大量の雑誌、大量の服、大量のぬいぐるみ……東京という都市に暮らす都市生活者の多くにとって、住居とは空間の広がりではなく倉庫に過ぎないということを、『TOKYO STYLE』は奥行きの浅く感じられる画面で的確に表現していた。そして『TOKYO STYLE』は写真集として高い評価を得たにもかかわらず、モノの表現が的確であった分、都築の当初の目的であった「コックピット感覚の居心地の良さ」の表現からは遠のいてしまったという印象も拭えない。
『TOKYO STYLE』の続作である『デジタル版 TOKYO STYLE ver.2』は★二、前作と同様に生活臭のある部屋の表現を目的としているが、その印象は大きく異なる。『TOKYO STYLE』は大判でカラーのフラットな写真集であったのに対して、『デジタル版〜』はipixのヴュアーを利用した★三、天地左右三六〇度どの方向にも向けて拡大縮小することができる、可動のパノラマ画面になっている。画面の中のポインタを目を向けたい方向へ移動させることによって、上を向いたり左下を見たりすることができるが、その感覚は部屋の中で小型のヴィデオカメラを持って見回しているのに近い。そしてヴィデオカメラを抱えているときと同様、ぐるぐる回りすぎると目が回るのだが、天井と床が奇妙に近く感じられる。そして『TOKYO STYLE』のときとは逆に、ここではモノの存在感は薄くなり、どの方向の視界も等価に扱われ、等価な情報量を持つ「コックピット」感覚が浮かび上がる。
『デジタル版 TOKYO STYLE ver.2』と『TOKYO STYLE』を比較することで分かるように、同様の対象を表現する場合でも、表現の(スタイルだけではなく、原理的な)「方法」によって、その印象を大きく変えることができる。表現方法による内容の振幅は、建築写真のスペクトルにまで拡張して考えることができるだろう。
バート・ルーツマは『イメージとヴィジュアル』で、建築写真の可能性について以下のように述べている。

建設的な建築写真の使用法とは、意識的に目に見える形で建築を写真的存在に〈翻訳〉することにある。つまり、建築の特定の側面に強くフォーカスをあてた主体的な写真は、(…中略…)建築がいま写真に見えているもの以上であると示唆することが可能である。そのような写真だけが建築の複雑さと潜在的な豊かさを十分に表現することができる。したがって、異なる建築雑誌が同じ建物を全く違ったもののように表現するという可能性も起きることになる。
興味深いことには、これを理解したのは主として建築家たちだった★四。


そして建築家と写真家の共同関係として、初期のニューヨーク・ファイブとジュディス・ターナー、ヴェネツィアの建築ビエンナーレでのヘルツォーク&ド・ムーロンとバルタザール・ブルクハルト、ハンナ・フィリガー、トーマス・ルフ、マルゲリータ・スピルッティーニ、レム・コールハースとハンス・ヴェルレマン、ヴィール・アレッツとキム・ツヴァルツ、後にアグレイア・コンラッド、ピーター・ズントーとハンス・ダヌーザー、ラウル・ブンショッテンとヘレン・ビネット、または彼とジョン・ヘイダックやダニエル・リベスキンドといった名前の組み合わせを挙げ、建築家と写真家の親密な協力関係は数多くあり、建築家が写真家を起用するのが「標準」というわけではないと言いつつも、「これらの多くの場合確かに、写真家は建築家に雇われ、見覚えのあるメディア・イメージを創りだすため、または正確にイメージをパースにするため、またはごまかすために働いている」と表現している。ルーツマがここで言及している建築写真とは、主に建築雑誌などの建築ジャーナリズムに建築の紹介の一部分(大部分?)として掲載される職業的な写真を指している。しかし建物を主な被写体に選んだ写真は、前述の『TOKYO STYLE』をはじめ、ベルント&ヒラ・ベッヒャーのタイポロジーシリーズ、ハイナー・シリングのスーパーマーケット、ホンマ・タカシの郊外写真など、建築雑誌以外の場所で発表される場合も多く、都市を被写体とした写真も含めると、建築写真というジャンルを区分することが不可能なほどの広がりをみせる。そして現在も境界線上にある写真に、建築写真の新しい空間感覚を感じることもある。
本稿では、そのような建築の周辺の写真も含めた建築写真の歴史的推移を概観し、写真表現によって建築デザインはどのような影響を受けてきたかということについて考えてみたい。

1──都築響一『TOKYO STYLE』文庫版表紙

1──都築響一『TOKYO STYLE』文庫版表紙

フリーズフレームとしての写真

友人の話だ。昔話。ある日、彼の家はハーフのカメラを買った。そこに三六枚撮りの新しいフィルムを装填したのは、彼が学校に入る前のことだったらしい。よくあるように、家族に何か行事があるときに、そして何事もなく幸せなときに、彼らはスナップ写真を撮りためていった。少しずつ。ある日、とうとうフィルムを使い切っていたことに気づいた家族は、フィルムを巻き戻して現像に出した。何がうつっているのか、もうまるで思い出せなかった。帰ってきた七二枚のプリントは、幼稚園時代の彼の姿から始まり、同様に幼い姉と若々しい両親から彼が高校生二年の現在までの、十数年のあいだの家族行事をうつし出していた。そのネガフィルムには、左から右へと、まるで映画のロールフィルムのように、ゆっくりと流れる彼の家族の十年分の時間が収まっていた。
フリーズフレーム(freezeframe)とは、文字通り「凍り付いた一コマ」つまり、映画のフィルムの一コマを写真と同じ手順で焼き付けしたスチール写真のように、映画の画面を静止させる操作や静止した画面を指す。映画の資料としてスチール写真を見ているときに奇妙な感じを受けることは、資料として本に印刷されたそれらが、ほとんどの場合動いているものの一部だという印象を与えず、その名の通り静止して、単なる一枚の写真のように見えることだ。逆に、映画をヴィデオで見ながら、前から知っているスチール写真の場面を探しても、やはり「いつ」がそうなのか分からないことが多い。極端な場合には、スチール写真と見比べながらコマ送りにしてみても、正確には見つけだせないこともある★五。
主にアンディ・ウォーホルや自身の旅の記録映画の作者として知られるジョナス・メカスは、自分の映画作品について「私の映画はシングル・フレームで写真を撮るように、コマ刻みで短く撮っています。ですから、一コマごとに独立したイメージとして考えれば、私はいま生きているどんな写真家よりも多くの写真を撮っていることになる。私が撮った映画の一コマ一コマを写真作品として換算すると、この三〇年間に私は八百万枚以上の写真を撮ったことになるのです」★六と笑い、近年では映画と写真の中間体として、自身のフィルムの数コマを焼き付けたプリント作品を作成しているが、それらはやはりその元のフィルムとは異なるものだ[図2]。
ビアトリス・コロミーナは、『マスメディアとしての近代建築』の都市の章で、写真を同時期に急速に発展した鉄道と比較して、「写真は場所の『無視』を、鉄道と共有している。そしてこれはカメラが被写体に及ぼすのとよく似た影響を、鉄道の到達する地点に及ぼすのである。つまり、そこからものとしての特性を奪うのだ」と述べ、どちらもコンテクストから引き離された空間という概念の形成に関わっていると指摘している★七。実際に、撮影機材の小型化と現像の手順の簡易化によって、写真技術がポータブルになるのを待ちかねるように、旅行写真家は彼らにとっての辺境へと向かい、絵はがきのようなイメージを都市の人々へと運んできた。
同時に、写真はそれと同様の意味で「時間の無視」の技術でもあった。
冬の五番街の降りしきる吹雪の中、撮るべき一瞬のために数時間も待ち続けたスティーグリッツの言葉を挙げるまでもなく、写真を撮影するということは、時間を切断することだとも言えるだろう。写真家はピントグラスに投影された変化しつづける映像を活き〆にする。写真の誕生にまつわる決定的な瞬間のひとつは、光の強さによって変色してはもとに戻る物質の斑を定着し、時間が経っても消えないように耐久性を持たせることに成功したことであった。
映画とフリーズフレームのあいだの奇妙な距離は、時間と写真の関係を非常に単純化したモデルともなりうる。写真的なものと時間は、互いを否定しあうような側面を持っている。そしてまた写真のこの非─時間的な性質こそが、建築と写真の結びついた一点である建築写真を、静止したものにしている原動力となっている。

メディアは休むことなく、同じイメージでわれわれを爆撃する。建築雑誌は例外なく、同じ都市の、同じ建物の、同じ写真を見せ続けている。われわれは建物や都市の個々のエレメントを忘れてしまうという危機に瀕しているわけだ。それだけがそれらを価値あるものにしていると言うのに★八。


『ダイダロス』誌の建築写真の特集号でルーツマが、ジム・ジャームッシュの『ミステリー・トレイン』の少年の台詞を引いて述べているこの言葉は★九、継続的に建築雑誌に目を通しているものにとっては、実感から大きく離れたものではないだろう。数多くそれらを見れば見るほど、すべて同じに見えてくる。まるで超高速で撮影したフィルムの連続したコマのように。
しかし逆に考えてみれば、すべての写真は一種のフリーズフレームなのかもしれない。つまりメカスが自分の映画を複数の写真に解体して、全く異なった作品をつくり出したように、一枚一枚の類似した写真を連続したフリーズフレームと見なすことは、新しい映画をつくりだす可能性を秘めている。同じように見える写真の一枚一枚を手に取り、『スモーク』の作家のようにぱらぱらとめくってみせることで★一〇、いまある時間とは別の動きを呼び戻すことができるかもしれない。家族の一〇年間の時間をネガロールに見つけだすように、膨大な数の建築写真のなかにもいくつかの連続を見つけだすことはできるのではないだろうか。建築写真の静止した世界に、再び動きを与えるanimateすることが。

2──ジョナス・メカス《ソーホーの冬、1997年12月》 ジョナス・メカス『フローズン・フィルム・フレームス──静止した映画』

2──ジョナス・メカス《ソーホーの冬、1997年12月》
ジョナス・メカス『フローズン・フィルム・フレームス──静止した映画』

「写真の最初の理想的な被写体は、建築であった」

個々の動きに言及するまえに、写真と建築についての一般的に了解されている事項を整理しておこう。
建築は有史以来、人間とともにあり、写真は近代の産物である★一一。よって、建築にとって写真は副次的な存在である、と信じられている。そのためだろうか、建築と写真を結びつけようとする著述はたいてい、写真にとっての建築の存在の重要性を確かめる「写真の最初の理想的な被写体は、建築であった」という言葉から始められる★一二。何をもって「写真」であるとみなすかという解決されえない疑問のために、どれが「最初の写真」かという問題は残っているにせよ★一三、一八三〇年代から四〇年代初頭に撮影された最初期の写真の多くには、確かに建物がうつっている。例えば最も先駆的な例のひとつに数えられる、一八二四年のJ・N・ニエプスの『家の窓からの眺め』には、窓の外の建物の姿が見える。しかしそれは積極的に建物にカメラを向けていたというよりは、「建物しかうつらなかった」というほうが適切だろう。例えば、少し時代は下るが一八七五年にアドルフ・ブラウンが撮影したパリ・オペラ座の写真には、建物の前にふたつの滲みが残っている[図3・4]。おぼろな形から、これは二台の荷車、しかも同一の荷車だと推測される。荷車が建物の前に何回か止まっていたのだが、建物よりはじっとしている時間が短かったため、形がほとんど消えてしまったのだろう。そのことから推測すると、全くひとけがなく静止して見えるこの写真の撮影時には、実際は多くの人間が歩き馬車が走る賑やかな町並みであったということも考えられる。ただ、それらは写真には写らなかったのだ。最初期の感光剤の性能では、屋外の晴天においても数時間の露光時間を必要としたため、雲や人間など多少とも動くものを撮影するのは難しかった。この状態は、湿式コロディオン法の普及によって、撮影時間が秒単位にまで短縮される一八五一年以降まで続いた。つまり、写真発明初期の一〇年間の写真には、必然的に建物の(多くの場合は外観の)写真が大部分を占めることとなった。
ただし、建物が写真に多く写されたのは、撮影の容易さだけが理由なのではない。

自然は、それが持っている構図ゆえに求められたのである。眼前に広がる世界は整序されて存在しているのであり、単なる事物の連続体ではなかった。自然自身が持つ構図の構成力を利用することで、写真家たちは自分たちの表現媒体がただちにあらわにしてしまう、事物は無作為にころがっているという見解を否定しようとしていた。
他ならぬこの点に探求の目を向けたのであって見れば、写真家たちが絶えず建築という構成物と関わり続けてきたことの説明もつく。建築物はいつも芸術的模様・対称性を高度に表現している。写真が垣間見せた事物の混沌性という隠れた意味とは反対の立場にある、構図と意義を幅広く刺激する喚起力を建築は持っていたのだ★一四。


この本来の明晰さという魅力から、写真家にとってその後も、建築は写真の主要な被写体のひとつでありつづけた。

3──アドルフ・ブラウン《パリ・オペラ座》1875

3──アドルフ・ブラウン《パリ・オペラ座》1875

4──同上(拡大)

4──同上(拡大)

建築ジャーナリズムと建築写真

それらの写真の流れと並行して、建築デザインの伝達としての建築写真という分野が登場したのは、一八八〇年代のイギリスにおいてであった。ただし、それらはドローイングや図面などのそれ以前のメディアから断絶したものとして、登場したわけではない。全く逆に、建築写真の出発点はそれら以前のメディアを継承したところにあった★一五。
最初の建築雑誌の歴史は一八三〇年代まで遡ることができる★一六。例えば、一九世紀を通じて最も活動的であった建築雑誌『ビルダー』は一八四二年に創刊されている。写真の公式な発明が一八三九年であることを思い起こせば、建築ジャーナリズムと建築写真のスタートはほぼ同時に切られたと言ってよいだろう。だが意外なことに、初期の建築雑誌には、写真は掲載されていない。階調のあるスケッチも少なく、多くは線画で、文章とは別のページに片面印刷されたものが差し込まれて製本されている。当時は文字は活字の組み合わせによる活版印刷、挿絵はリトグラフィ(石版印刷)によって、別々の工程で印刷されていたためだ。
大まかに、写真の掲載の程度によって、初期の建築雑誌の発展は次の四段階に区分される。はじめに、雑誌の創刊と写真発明直後の一八三〇年代から一八六〇年にかけての写真の掲載を意図しない時期、次に一八六一年から一八八四年までの写真を掲載したいが印刷技術に限界がある時期、一八八五年から一八九〇年の短い時期には写真が特別なものとして差し込みで製本され、その後網版印刷が可能になったことを受けて、一八九一年から一九二〇年代、そしてそれ以降にかけては写真が本文中に文字と並列してレイアウトされるようになった。その後にも一九七〇年代のカラー化などの転機はあるが、現在の建築雑誌の原型となり、建築デザインの流れを変える主要な存在としての建築ジャーナリズムは、写真が印刷物として大量に出回り始めた一八九一年から一九二〇年代にほぼ完成していたと言えるだろう★一七。
現在の建築写真の大きな特徴となっている無人性と垂直性について、大辻清司は次のように述べている。

初期の建築写真では、このように他の記録写真と同じく、素朴だが厳密で正確な現実再現的記録手段、という観点からのアプローチで撮られていたのに間違いはないのだが、ただ二つの点で現代の建築写真にも受け継がれている、一種の様式といってもいい特徴がみられる。その一つはタブーのように守られている垂直線の維持である。建物の垂直線が注意深く垂直に撮られているだけで、その写真は建築写真として撮られているのだという信号になる。もう一つは日常の生活臭が写り込んでいないこと。まず人が写っていてはいけないのである。(…中略…)生活の痕跡を拭い去った建築物の写真は、建築写真という立派な表札を掲げていることになる★一八。


これらの建築写真の原型が形づくられたのは、実は一八三〇年代から一八八〇年までの、写真という存在が建築ジャーナリズムからはまだ遠かった時期のことであった。
建築写真は、建築ジャーナリズムへの登場以前にそのかたちを定められていたのだ。そしてそこから、ゆっくりと建築写真は変化を始める。

movement 1
動かない垂直がつくりだした動き

一八四二年の建築雑誌のひとつを手に取ると、そこには、アクソノメトリック図がある[図5]。縦・横・高さの三つの次元を表わす線すべてが、それぞれ平行を保っているアクソノメトリック図が建築写真の理想であったように思えてならない。ジョエル・ハーシュマンは、建築写真がそれまでのドローイングを置換する過程で、建築写真に二つの役割があったと指摘する。ひとつは、建物のエレヴェーションの代わり。もうひとつは、建物のスケールや使用状況を示すパースペクティヴ・スケッチの代替品である[図6・7]。
だが、このどちらにも共通する特性がある。それはどちらも垂直方向には傾斜がついていないという点だ。もちろんこの場合、それによって写真が不自然に見えるわけではない。全く逆に、写真や絵画における垂直を保持するそれらの技法は、画面を自然に見せるために用いられていた。
これらの特徴はもちろん、ハーシュマンが指摘するように、一九世紀以前の建築ドローイングからの影響だろう。初期の写真家たちの多くは元画家であり、写真カメラを手にする前は、小型のカメラ・オブスキュラを携帯してスケッチを試みていたからだ。カメラ・オブスキュラが建築ドローイングに使用されていた時点で、斜めに傾いた垂直線を人為的に補正する、いわゆる「アオリ」の技法は一般的に知られていたのではないかと推測される。しかしアオリを使わずとも、建物の垂直を保持した画面を作る方法はある。視点が建物の縦横に対してほぼ中央に来るよう、視点を十分に高くするか、または視点の偏りが画面に対して相対的に小さくなるように視点を対象から遠ざけるかである。建物が石造でほとんど同じ高さの町並みである場合には、多層の建物を対象とするときも、向かいの建物の窓から撮影することで歪みを避けることができたし、そうでなくとも建物を遠くから見るような空地が残されている(引きが取れる)場合には、建物の垂直を保持することができた。例えばノートル・ダムを撮影するにあたってバルデュスは、向かいの建物の窓から、上下左右のほぼ中央から撮影することで、パースの歪みを避けている。また広角レンズを使用することで、さまざまな大きさの空間に対応できるようになり一枚の写真にさまざまな情報を入れることが可能になってくる。
しかしながらその均衡も長くは続かない。
一九世紀末の鉄骨構造の発展に伴い、建物は急速に高層化し始める。一九〇六年に建築雑誌に掲載されたアメリカの鉄骨造ビルの紹介記事では、高くなりすぎたビルの全景をとらえることは大変困難なこととなる。土木建設現場のように、工事現場は部分的に撮影することしかできない[図8]。工事中の建物の全景は向かいの建物の屋上から件の手法で、垂直方向の歪みを避ける写真が撮影されているが、広角によって引き伸ばされた姿は、もはや元の建物からは大きく離れている[図9]。
アメリカ中に巡回された展覧会を元にし、近代建築の代名詞ともなった「インターナショナル・スタイル」の図版集においても、この種の歪みが現われている。インターナショナル・スタイル初の高層建築PSFSビルでは、撮影位置が十分に高く取れなかったにもかかわらず、ビルの垂直性を保持しようとする努力の成果から、頂部は極度に歪み、まるで新しい一種のスタイルのようにさえ見える[図10]。初版の刊行から六〇年以上経った現在この図版集を眺めると、「インターナショナル・スタイル」とは、ヒッチコック&ジョンソンによって定義された装飾忌避などの原理によって規定されるものではなく、これらの歪みを含んだ「写真のスタイル」によって規定されたのではないかと思えてしまうほどだ。
垂直を保持することは、建物や人間の姿の写真による歪みを否定する自然主義に基づいたものだったのだが、さまざまな技法を駆使して垂直を保持することは、結局、もっとも人間の知覚から遠い形をスタイルとして作りだしてしまう結果となった。それらの鋭角的な形態はまた、パースやレイアウトの平面構成を経由して、最も遠い表現に見える、垂直を打破するニュー・フォトグラフィへと結びつく。

5──1842年の『R.I.B.A.年鑑』掲載の ヴォールトのアクソノメトリック図

5──1842年の『R.I.B.A.年鑑』掲載の
ヴォールトのアクソノメトリック図

6(右)──建築ドローイング(エレヴェーション) Joseph Hansom (?), The Bilder, September 23, 1843.

6(右)──建築ドローイング(エレヴェーション) Joseph Hansom (?), The Bilder, September 23, 1843.

7──ほぼ正面から撮影された建築写真 Edouard-Denis Baldus, 1856. 建築写真はドローイングの代替品として現われた 2点ともCervin Rovinson & Joel Herschman, Architecture Transformed:  AHistory of the Photography of Building from 1839 to the Present, The MIT Press,1987. より

7──ほぼ正面から撮影された建築写真
Edouard-Denis Baldus, 1856. 建築写真はドローイングの代替品として現われた
2点ともCervin Rovinson & Joel Herschman, Architecture Transformed:
AHistory of the Photography of Building from 1839 to the Present, The MIT Press,1987. より

8──1906年の『R.I.B.A.年鑑』に 鉄骨造ビルの建設方法の紹介として 掲載された図版

8──1906年の『R.I.B.A.年鑑』に
鉄骨造ビルの建設方法の紹介として
掲載された図版

9──同上。密集した都市で高層ビルの全景を撮影するには、 広角レンズとアオリによる補正が必須となり、 屋根やスラブのラインには目に見えて傾斜がついている

9──同上。密集した都市で高層ビルの全景を撮影するには、
広角レンズとアオリによる補正が必須となり、
屋根やスラブのラインには目に見えて傾斜がついている

10──《PSFSビル》 スラブのラインはアオリによって極度に傾斜している 1931年撮影

10──《PSFSビル》
スラブのラインはアオリによって極度に傾斜している
1931年撮影

movement 2
登場と退場(無言で)

写真における人間と建築の関係を考えようとするとき、いつも心から離れない一群の写真がある。アウグスト・ザンダーの『我らの時代の顔』のシリーズの中の、都市を背景とした人々の写真である。このシリーズは基本的にはポートレイト(肖像写真)であり、中心にたたずむ人間の背景は、写真ごとに異なっている。しかし社会的背景の中での人間をとらえようとしたザンダーは、被写体がなじんだ風景を背にして撮影することを好んだ[図11]。従って、屋内で日中の時間を過ごす人間は、室内の壁を背景にして座り、『画家アントン・レーダーシャイト』のように、街中を仕事の場とする人間は街路に立って撮影されている。またいくつかの写真において、ザンダーは農夫同士やボクサー同士のような、似た人々を同時に撮影している。これは似ているものを同時に画面に登場させることで、それらの類似性と相違点に着目させ、より深く写真を読ませるためではないかと、イアン・ジェフリーは『写真の歴史』で述べている。画家レーダーシャイトと街路も、似たもの同士、そのような対比をなしているのかもしれない。『画家アントン・レーダーシャイト』にも見られるように、ザンダーが街路で撮影した作品の多くは、通りの見通しの利く場所を背景にしている。それらの写真は被写体の他には人っ子ひとりうつっておらず、それゆえに建築写真を思い起こさせる。「もしもこの人物がいなければ?」無人の街路の風景を、われわれは容易に想像することができる。このパースペクティヴから人影が消えた写真、それは建築写真である。
前述のように、初期の写真においては、露出時間の制限という技術的な問題から人影はなかった。雲もなく、車もなく、水面には波が立たなかった。世界はすでに死に絶え、建物だけが悠久の時を超えて建っているように見えた。しかし、そうした無人のイメージが技術の限界によって裏付けられている期間は実は短く、写真の存在が公になった一八三〇年代後半から一八四一年までであった。一八四一年には、当時優勢だったダゲレオタイプ(銀板写真と呼ばれ、複製不可能なもの)で露出時間は最高一〇秒程度にまで短縮され、意図的に消し去ろうとしない限り、人相は分からなくとも人影程度は風景にうつりこむようになる。
その過渡期を示した珍しい写真がある。一八五一年にロンドンで開催された大博覧会は、市民に世界各国の珍しい品々という見せ物を提供しただけではなく、博覧会場それ自体が巨大な観光資源となった。展覧会場であったクリスタルパレスは、当時の技術の粋を集めた鉄とガラスの構築物であり、橋などの土木構築物の力強さに目を向けつつあった写真家たちにとって格好の素材となった。多くのアマチュア写真家がこぞってクリスタルパレスを撮影した。ここに示した写真では建物の中に多くの滲みが見える[図12]。これらの滲みは、鉄骨の構造体が力強いパースペクティヴの表現を獲得するまで露出された結果、幽霊のような滲みとなった人間の姿である。もしもこれだけ多くの人間の姿がはっきりとこの写真にうつっていたとしたら、写真の印象は大きく変わってしまっただろう。そして無人だった建築写真には、はじめはぼんやりとしていた幽霊のような人間の姿が、明瞭に浮かび上がるようになる。
このような写真技術の発展を反映してか、一八四二年の建築雑誌に掲載されたリトグラフには、建物の手前に後ろ向きの人影が描かれている。アノニマスな人々の姿を積極的に建物の写真に取り入れるようになった契機としては、オリエントへの旅行写真があるだろう。一八六〇年代初頭に活躍した地誌写真家のひとりであるフランシス・ベドフォードは、『エジプト、聖地、シリアの写真画像』のなかで、ピラミッドの手前に何人かの住民を配し、風景にスケール感と親密さを持たせている。それと同時に、この写真が建物の形の記録だけを目的としたものではなく、民族や風俗の記録という側面も持っていたためであろう★一九。これらの異国の旅行記録ブームと、建築雑誌は無関係ではなかった。一八六〇年代の初めから、建築雑誌にも東方の建築のスケッチが掲載されるようになる。それらがそれまでの挿し絵と大きく異なる点は、図面とスケッチの割合である。スケッチ的なものの割合が増え、人影も小さく描かれている。
写真の歴史で言えば、これらの時代はボードレールが「このとき以来、われわれのさもしい社会は、ナルシスからひとりの男にいたるまで一片の金属に写った己のけちな姿を見ようと押し寄せた。狂気と異常な狂信が人びとにとりついたのである」と嘲った、集団肖像写真の時代である★二〇。乾板が高価であった時代には、集団で肖像を撮ることは、安価に自分の肖像写真を手に入れる方法として広く行なわれていた。この業務によって写真家というプロフェッションが成立し、写真撮影が機械的作業として行なわれるようになったために、一八六〇年代から一八七〇年代にかけて写真表現の革新は沈滞したと言われている。
これらの流れを受けて一八七〇年代には、建築雑誌に掲載されるロンドンの都市や建物の中を描いた挿絵にも、大量の人物の姿が入り始めた。それと同時に、オリエントの挿絵はますます緻密なものになり、目を近づけて見なければ写真と区別がつかないまでになる。これらの挿絵は、おそらくは写真を下敷きにしてリトグラフに描き起こしたものであろう。写真を人間の手でトレースすること無しに印刷した建築写真が建築雑誌に掲載されたのは、一八八六年の日本の建築レポートの中であった。ここでも人影はうつっている。
建築雑誌においてはこの時期、人間の活躍する範囲はますます広くなり、現在から見ると不必要と思われる場面にも、不思議なほど堂々と現われている。一八九六年に発表された煉瓦の強度実験の記録においても、なぜか複数の記録者が姿を見せている[図13]。しかし二年後に発表された同種の写真では、人影は僅かである[図14]。彼らはどこにいってしまったのだろう? カメラのこちら側だろうか?
そして、この時期だけが始まりではないが、写真に奇妙な静けさが戻ってくる。冒頭に書いた、全てが終わってしまったかのようなあの感覚だ。同時期に撮影された家族写真はテラスで撮影されたもので、食卓に並んだ家族をとらえているが、一点透視のほぼ正対称の構図で撮影された彼らの表情は堅くこわばり、画面の中心に向かって吸い込まれている。病院の写真では、そこには人々がいるのに、奇妙に静まり返っている。一点透視のパースペクティヴの強烈な磁場がすべてを静寂に導いているかのようだ。パリ万博機械館の写真においても、人影は小さく、パースペクティヴに支配されている[図15]。屋外で撮影された写真においても、さらにその感覚は強まる[図16]。橋の橋脚における写真の中に、ぽつりとたたずんだ人影が、かろうじてそこが人間のいる空間だと暗示している[図17]。
これらの人影はまるで、一六世紀の壁のだまし絵に描かれた人物のようでもある。奥行きのある空間をつくりだすという共通の目的を持っているからだ。ただし、その方法は異なっている。だまし絵の人の姿は奥行きの浅い空間に深みを持たせるために使用され、駅舎や橋脚や大型構築物における遠くの人型は、ここまでが連続した空間であると宣言するための証拠として使われている。人影はまた垂直方向にも空間を延長させる。
しかし小さな人影の活躍も長くは続かない。かつて写真が発明されたころ、人間の姿が縮寸されるのは現実と異なると論議した人々がすぐにステレオスコープに夢中になったのと同様に、小さな人影などなくとも空間を連続したものとしてとらえることができるようになったためだ。小さな人影の登場と退場は、空っぽな細長い部屋を空間として見るようになるまでの、写真上に見える変化であったと言えるだろう。
人影はますます小さくなり、パースの消失点に向かって遠のいていく。見知らぬ人物はゆっくりと廊下の奥に姿を消し、建築写真には再び奇妙な静寂が甦った。この沈黙が再び破られるのは、四〇年後のことになる。

11──アウグスト・ザンダー  《画家アントン・レーダーシャイト》1927

11──アウグスト・ザンダー
 《画家アントン・レーダーシャイト》1927

12──C・M・フェリエ《クリスタル・パレス内陣および北交差廊》1851 床に見える滲みは人間の残像である

12──C・M・フェリエ《クリスタル・パレス内陣および北交差廊》1851
床に見える滲みは人間の残像である

13──煉瓦の強度実験写真、1896

13──煉瓦の強度実験写真、1896

14──同、1898 1896年にははっきりと見えていた人間の姿が、その2年後には消えている

14──同、1898
1896年にははっきりと見えていた人間の姿が、その2年後には消えている

15(右)──パリ万博機械館 屋根裏

15(右)──パリ万博機械館 屋根裏

16──アルベルト・レンゲル・パッチュ  《エッセンの鉄道堰堤》1930

16──アルベルト・レンゲル・パッチュ
 《エッセンの鉄道堰堤》1930

17──アルフォンス・テーパロー  《キュブザック橋》1876

17──アルフォンス・テーパロー
 《キュブザック橋》1876


★一──都築響一『TOKYO STYLE』(京都書院、一九九三、および、同文庫版、一九九七)序文より抜粋。
★二──『デジタル版 TOKYO STYLE ver.2』は、インターネット上の『週刊アスキー』のサイトで連載中である。
URL=http://wam.ascii.co.jp/regular/ts/
★三──ipixのヴュアーであるが、基本的な操作感覚はQTVR(Quick Time Virtual Reality)に類似している。『デジタル版 TOKYO STYLE ver.2』では、魚眼レンズ撮影した映像を貼り合わせる形で作成しているらしい。
★四──Bart Lootsma, “The Image and the Visual - A Plea for Unrestricted Architectual Photography”, in Daidalos, 1997/12
★五──映画と写真の相違点については、写真について論じている多くの論者が取り上げている。例えば、ロラン・バルトは「映画の素材は写真であるが、しかし映画の中では、写真はこうした自己完結性を失ってしまう(映画にとっては、これは幸いなことである)。それはなぜか? 映画では、ひとつの流れに巻き込まれた写真が、たえず他の画面の方へ押し流され、引き寄せられていくからである。なるほど映画の中においても、写真の指向対象は依然として存在しているが、しかしその指向対象は、横すべりし、自己の現実性を認めさせようとつとめはせず、自己のかつての存在を主張しない。(…中略…)「写真」には、いかなる未来志向(プロタンシオン)も含まれていないが、これに対して映画は、未来指向的であり、したがっていささかもメランコリックではない」と述べている。(Roland Barthes, La chamble claire: Notes sur la photographie, Cahiers du Cinema, Gallimard, Seuil, 1980.[邦訳=『明るい部屋──写真についての覚書』(花輪光訳、みすず書房、一九八五)]。  また、スーザン・ソンタグは『メランコリーな対象』の中で、映画の中のスチール画面の働きを死の兆しと関連させて論じている。Susan Sontag, ON PHOTOGRAPHY, Farrar, Straus and Giroux, Inc., N.Y., 1977.[邦訳=『写真論』近藤耕人訳、晶文社、一九七九)]。
★六──ジョナス・メカス『フローズン・フィルム・フレームス──静止した映画』(フォトプラネット編、木下哲夫訳、河出書房新社、一九九七)。
★七──Beatriz Colomina, PRIVACY AND PUBLICITY: Modern Architecture as Mass Media, The MIT Press,1994.[邦訳=『マスメディアとしての近代建築──アドルフ・ロースとル・コルビュジェ』(松畑強訳、鹿島出版会、一九九六)]。
★八──Bart Lootsma,  ibid.
★九──ジム・ジャームッシュ監督の映画『ミステリー・トレイン』で、メンフィスを旅する日本人の少年と少女のホテルでの会話で、なぜ他のものでなくホテルの部屋や空港でばかり写真を撮るのかと聞かれた少年は、こう答える。「そういうのは記憶に残るさ。だけどホテルの部屋とか空港とか意外に忘れちゃうだろ」。
★一〇──映画『スモーク』、「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」のタイトルで『ニューヨーク・タイムズ』に掲載されたポール・オースターの小説が原作。
★一一──フランス政府の認定した、写真の公式な発明は一八三九年八月一九日であるが、感光剤と定着材の改良を主とする、写真発明のためのさまざまな試みは一八二〇年代から一八四〇年代初頭まで連続して行なわれている。
★一二──Cervin Rovinson & Joel Herschman, Architecture Transformed: AHistory of the Photography of Building from 1839 to the Present, The MIT Press,1987. およびAndreas Haus, メPhotogenic Architectureモ, in Daidalos 1997/ 12.  など。
★一三──写真の撮影装置、カメラの原型であるカメラ・オブスキュラの原理は、少なくとも千年以上前から知られ、絵画制作に利用されていた。フィルムの原型である感光物質の不思議な振る舞いも一九世紀には一般に知られていた。一八二二年に絵画を複写することに成功した時点で、写真の発明と主張する発明家もいれば、柄谷行人のように 、大量複製が可能となるネガ=ポジ法に至って初めて写真として扱うという論者もある。
★一四──Ian Jeffrey, Photography: A Concise History, Oxford UniversityPress,1981.[邦訳=『写真の歴史──表現の歴史をたどる』(伊藤俊治+石井康史訳、岩波書店、一九八七)一八七頁]。
★一五──写真そのものが、絵画の歴史との連続性において語られるべきだという意見もある。Peter Galassi, Before Photography, MOMA, 1981. [邦訳=「写真以前」、『美術手帖』(美術出版社、一九九三)]。
★一六──一八四二年から一九〇五年までの建築写真の掲載の推移については、特に但し書きの無い場合は、英国王立建築家協会の機関誌『Transactions of the Royal Institute of British Architects of London』(『R.I.B.A.年鑑』)を資料としている。
★一七──これ以外の年代区分としては、前掲書  Rovinson&Herschman, Architecture Transformed での、一八三九─一八八〇、一八八〇─一九三〇、一九三〇─一九七〇 、一九七〇から現在という区分が挙げられる。
★一八──大辻清司『昔から垂直線、今も人影無し』「写真──映像の建築と都市」『SD』一九八六年六月号。
★一九──Jeffrey, op.cit.
★二〇──伊藤俊治『〈写真と絵画〉のアルケオロジー』(白水社、一九八七)。
図版出典一覧
[図1]都築響一『TOKYO STYLE』(京都書院、一九九七、文庫版)。
[図2]ジョナス・メカス『フローズン・フィルム・フレームス
──静止した映画』(フォトプラネット編、木下哲夫訳、河出書房新社、一九九七)。
[図3・4・6・7]Cervin Rovinson & Joel Herschman, Architecture Transformed: A History of the Photography of Buildingfrom 1839 to the Present, The MIT Press, 1987.
[図5]『R.I.B.A.年鑑』一八四二年号。
[図8・9]「American Methods of Erecting Buildings」『R.I.B.A.年鑑』一九〇六年号。
[図10]Henry-Russell Hitchcock and Philip Johnson, The International Style, W.W. Norton, 1966.
[図11]飯沢耕太郎『Photographers』(作品社、一九九六)。
[図12]PHOTOGRAPHY AND ARCHITECTURE 1839-1939, CENTRE CANADIEN D'ARCHITECTURE, 1984.
[図13]『R.I.B.A.年鑑』一八九六年号。
[図14]『R.I.B.A.年鑑』一八九八年号。
[図15・17]Centre National de la Photo Graphie: Photo Poche.
[図16]Albert Renger-Patzsch, Spate Industriephotographie.

>福屋粧子(フクヤ・ショウコ)

1971年生
福屋粧子建築設計事務所代表、東北工業大学工学部建築学科講師。建築家。

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