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黒の表象──アフリカン・アメリカン・アーキテクトの憂鬱 | 五十嵐太郎
Black Symbols:The Melancholia of African-American Architects | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) pp.220-229

I had to open the bruise blood come out to show them.
黒人暴動を契機に作曲されたスティーヴ・ライヒ「カム・アウト」(一九六六)

Ice cube wishes to acknowledge America's cops for thier systematic and brutal killings of brothers all over the country (Mest of their stories never made it to the camera)
アイス・キューブ「プレデクター」(一九〇二)のジャケットから

黒く、透明な存在

おそらく、以下にとりあげる問題は、現地はもとより、日本における建築の言説という文脈ではなおさらのことだが、あまり言及されなかったことではないだろうか。筆者自身も、ある本を、正確に記すならば一辺が約二八・五センチの正方形の黒い本を手にするまでは、ほとんど想像したことがなかった。その本とは、一九九一年に出版された『アフリカン・アメリカン・アーキテクツ』という三五人の黒人建築家を集めた一冊のモノグラフである★一[図1]。しかし、筆者は彼/彼女らのデザインに驚いたわけではない。デザインについては後でまた述べることになるが、とりたてて目新しいものではなかった。むしろ驚かされたのは、個人的なことになるかもしれないが、それまで建築家といえば、「自然に」西洋人とアジア人の身体だけを想像していた自己を発見したことである。そうした意味において、アフリカン・アメリカン・アーキテクトはまったく透明な存在だったのである。
だが、意外に思われるかもしれないが、すでにメジャーなメディアにおいて黒人建築家を主人公にした作品が発表されている。モダニズムにおける白人男性のマッチョ的な建築家像と言えば、アメリカ映画の『摩天楼』(一九四九)を参照することに相場が決まっているが、間違いなくスパイク・リー監督の『ジャングル・フィーバー』(一九九一)は、ポストモダンな悩める黒人建築家像を代表する映画となろう★二。実は先に紹介した本の編者である黒人建築家のジャック・トラヴィスは、この映画のアドヴァイザーも務めている[図2]。もっとも、映画自体はデザインの問題よりも、建築会社につとめる若き黒人建築家フィリップがその手腕にもかかわらず、白人二人が牛耳る経営陣に参加させてもらえない職場環境や、イタリア系の女性と不倫をしたことが巻き起こす人種間の騒動に力点を置いたものだ。フィリップが業を煮やして退社する際、彼の業績が少しばかり映しだされるものの、いたって凡庸な作品であり、ここに黒人のアイデンティティを求めることはなされない。それよりも愛を通して、映画の登場人物たちは黒人のアイデンティティを語り合い、深く考えるようになるだろう。
なるほど、黒人建築家の作品に黒人のアイデンティティを求める必要はないかもしれない。が、同時に次のような疑問が思い浮かぶ。白人ばかりの業界にさっそうと登場し、ともに若くして亡くなった美術界のバスキア、あるいはロック界のジミ・ヘンドリックスのようなスターが、どうして建築界にはいないのだろうか?[図3]。理由は幾つか考えられる。例えば、他ジャンルの表現媒体に比べて、建築が身体表象と最も離れているかのように見えること。また、二〇世紀の近代美術や音楽がおりにふれて、アフリカを参照していたのに対し、ロースのごとく「パプア人」の刺青を嫌った建築における白のイデオロギーは、もともと親和性がなかったかのように見えること。それでは、白い古典主義、白いモダニズムの前にして、黒人建築家はどこに居場所を見出せばよいのだろうか?

1──『アフリカン・アメリカン・アーキテクツ』の表紙

1──『アフリカン・アメリカン・アーキテクツ』の表紙

2──ジャック・トラヴィスの肖像 “AFRICAN AMERICAN ARCHITECTS  IN CURRENT PRACTICE”, 1991

2──ジャック・トラヴィスの肖像
“AFRICAN AMERICAN ARCHITECTS
IN CURRENT PRACTICE”, 1991

3──ジャン=ミッシェル・バスキア《グンガ・ディン》(1981) 『美術手帖』1997年1月号、美術出版社

3──ジャン=ミッシェル・バスキア《グンガ・ディン》(1981)
『美術手帖』1997年1月号、美術出版社

黒人建築家の歴史

WASP(アングロ・サクソン系プロテスタントの白人)だけがアメリカの建築を築いてきたわけではない。土着だったプエブロ・インディアンとの連続性を示唆するヴィンセント・スカーリーのような試みはあっても、もとはよその土地から連れてこられたアフリカン・アメリカンの建築家についてアメリカ建築の通史はほとんど言及していない★三。ゆえに、ここでそれを紹介することは無意味ではあるまい。以下に主にリチャード・ドジアーの論を参照しつつ概観しよう★四。ちなみに、これは同じく少数派に属する女性建築家の歴史でもそうなのだが、その作品の性格よりも、初めての何々というかたちで記述されることがどうしても多くなる。
まず大工という意味で考えれば、すでにアフリカの奴隷は自然の材料を加工する独自の技術を新大陸に持ち込んでおり、彼らは農園で家具や道具、そして建物をつくりだしていた。逆にそうした奴隷の技能と労働力なしには、アメリカの農園経営は成立しなかったのである。例えば、記録に残されているものとして、一八三六年に奴隷職人のイサイア・ウィムブッシュが設計し建てたジョージア州グリーンヴィルのウィンザーホールでは、急勾配で大きく張り出した屋根、中央の暖炉、土やコケを用いた壁などにアフリカ建築の要素が認められるという。一八、一九世紀には幾人もの奴隷建築家の名前が残されている。元奴隷の息子、ルイス・メトイエーはパリで建築を学び、住宅を手がけるが、一八〇〇年頃に設計したアフリカン・ハウスは純粋なアフリカ・デザインだった。
一九世紀後半には、黒人建築家を養成するために、ツスケジー学校がアラバマに創設され、初期の黒人建築家の多くはここで学ぶ。そして一八九二年、ロバート・テイラーはMITを卒業した初の黒人の一人となり、一八九九年、彼の教え子ジョン・ランクフォードは黒人による最初の建築事務所を開く。一九一九年に南カリフォルニア建築学校を卒業したポール・ウィリアムスは、フランク・シナトラを含む、ハリウッド・スターの邸宅を幾つも設計するほどに成功し、一九二六年に黒人としては初のAIA(アメリカ建築家協会)のメンバーとなる。
第二次世界大戦は、アメリカの黒人建築家の状況に大きな影響をあたえたという。なぜならば、陸軍省が大口の軍事施設の設計契約を黒人の会社と結んだほか、ウィリアムスも多くの戦争関係の仕事を手がけたからだ。さらに、復員軍人はGIの基金のおかげで教育を受ける機会を得て、ホワードやツスケジーのような黒人の大学は、かつてない数の入学者を迎えたのである。
一九六〇年代はアメリカを分断した南北戦争からおよそ一〇〇年後にあたるが、建築界というよりは、社会における黒人革命の一〇年間だった。黒人の公民権闘争は最高潮を迎え、キング牧師の有名な演説「私には夢がある」を経て、一九六四年に公民権法が成立。だが、実際の差別はなくならず、人種暴動が毎夏に勃発する。ラディカルな思想をひっさげて、マルコムXが活躍したのも、この頃である。そして住宅差別も禁止した公民権法は一九六八年に制定された。
六〇年代の後半以降、AIAの黒人建築家は増え、一九七二年にはシカゴでマイノリティ建築家の全国組織が創設された。とはいえ、まだ一九九一年の時点で全米約一〇万人の建築家のうち黒人建築家は八一〇人しかいないし、一九八四年のデータでは四二〇〇人のメンバーがいるAIAに黒人女性はわずか七名である。決してマイノリティでなくなったわけではない。筆者が知り合いに聞いた限りでも、アジアからの留学生も増えているアメリカの建築学校に、黒人の学生はそう多くないという。

なぜ黒人の大建築家は現われないのか?★五

前述のモノグラフには、各建築家のコメントも一緒に掲載されており、なかでも一九五〇年に初の黒人としてテキサス大学に入ったジョン・S・チェイスのそれはとりわけ印象に残るものだ[図4]。彼は在学中、たくさんの悪意の手紙をもらい(幾つかは今でも持っているという)、また身の安全を保証するために警察から派遣された数人の男がいつもとりまいていたのである。卒業後はヒューストンの二〇以上の会社で採用を断られ、結局、彼は自ら事務所をおこすが、AIAのメンバーになる際も、普通は一カ月で済むのに五年もかかったという。確かに、これは一九六〇年代の黒人革命以前の出来事であり、その後、事態はかなり改善されたかもしれない。それゆえ、「一九六〇年代に登場した世代こそが、黒人建築家にとって最初の希望の礎になる」とみなす考えもあるようだ★六。
ポール・ウィリアムスはそれなりに成功を収めたが(しかし、彼がよく知られているとは言いがたい)、「偉大な」黒人建築家がいないのはなぜだろうか? 単純に黒人が優秀ではないかとか、建築に向いていないから、大建築家がいないというのではあるまい。この問題が黒人をめぐる社会状況と密接に関わっていることは、容易に想像がつくはずだ。これまで黒人の大建築家が輩出されなかった社会的な構造があるとすれば、おおむね次のような原因が推定されるだろう。
まず第一に、著名な黒人のミュージシャンやスポーツ選手はいたとしても、黒人の建築家が極く少数であることから、黒人の若者にその職業モデルを提示できない悪循環。これでは建築家になろうと思いつくことさえない。次に、たとえそう思いたったとしても、建築教育を受ける施設があまりなかったこと。例えば、一九五〇年代のサウス・カロライナでは、黒人青年が建築を学ぶ場所が存在しなかった。おそらくゲットーに住む黒人はさらに状況が悪いだろう。そして無事に建築家となっても、ドラフトマンとして雇われ、図面をかくばかりで、直接に施主と会ったりする機会がなかなか得られないこと。その結果、高い地位の人物を友人にもてなくなり、パトロンを要する建築家としては苦戦を強いられることになる。むろん、黒人というだけで、白人に比べて裕福な友人は少ないのかもしれない。
だが、アファーマティヴ・アクション(公民権推進・差別撤廃運動)は、こうした状況を変えた。これによって公共の仕事には、一定数のマイノリティが参加することになり、黒人建築家の参加する道が開かれたのである。もっとも、アファーマティヴ・アクションが、逆に黒人建築家が少数しかいないことへのエクスキューズになるかもしれないし、かえって黒人の自立を阻害するという批判もなくはない★七。『アフリカン・アメリカン・アーキテクツ』に収録された建築家では、主に内装を手がけるルー・スウィツァーだけが、個人や私企業からの仕事のみで運営しており、他は少なくとも半分以上、たいていは八割以上が公企業からの注文に頼っているという。
A・コーンのように、白のイデオロギーに対抗し、黒人建築家にスパイク・リーが示したような「強さ」を求める意見もある一方で、黒人であり女性であるという二重のマイノリティを刻印されたS・E・スットンは、大学で教鞭をとりつつ異なる戦略を提示している★八[図5]。彼女は、ブラック・フェミニストのパトリシア・フィル・コリンズのユーモアとリアリズムを併せ持つ黒人女性観を紹介しながら、黒人の女性こそが社会の多様な現実に対処していく術を熟知しているという。つまり、制限の課せられたマイノリティの極から包括的な文化多元主義への反転が目指されているのだ。これは女性という外部から建築にアプローチするD・アグレストの戦略にも似ていよう。少し話は脱線するが、D・ハイデンが近著で元奴隷の黒人女性を軸にロサンゼルスの都市史の断片を記述しようと試みたことは、まさに彼女を通して都市の多様な現実を明るみに出そうとしたからではなかったか★九。とはいえ、現実にマイノリティや女性の建築家が国際的な舞台ではほとんど起用されず、活躍していないことは、気鋭の女性論客、M・マクレオードやD・ジラードも嘆いているとおりである★一〇。

4──ジョン・S・チェイス《ダラス連邦準備銀行》1992  “AFRICAN AMERICAN ARCHITECTS IN CURRENT PRACTICE”, 1991

4──ジョン・S・チェイス《ダラス連邦準備銀行》1992
 “AFRICAN AMERICAN ARCHITECTS IN CURRENT PRACTICE”, 1991

5──S・E・スットン《アーバンネットワーク・ビデオの背景》1989  “AFRICAN AMERICAN ARCHITECTS IN CURRENT PRACTICE”, 1991

5──S・E・スットン《アーバンネットワーク・ビデオの背景》1989
 “AFRICAN AMERICAN ARCHITECTS IN CURRENT PRACTICE”, 1991

黒の表象というアポリア

さて、ここまで筆者は(肝心の?)黒人建築のデザインについて多くを語らなかった。いや、語れなかったのだ。何故か。写真で見る限り、ほとんどの作品は一九七〇年代、八〇年代のアメリカ現代建築の流行に、おおむね追従していたからである。なるほど、キング牧師にちなんだ施設、黒人大学の施設、アフリカン・アメリカの歴史博物館、そしておそらく黒人教会の建物など、幾つかの作品はプログ
ラムの性格において黒人との関連が認められる[図6・7・8]。しかし、それらも理知的に抑制のきいたモダニズム風や、おとなしめのポストモダン的なデザインだったりするのだ。安易に想像されるような黒人のアイデンティティをここに見いだすことは不可能に近い。その点、なんとなくミニマリズムというだけで、日本的だと外国の論者が勝手に誤読したり、それを意識的に演じていた日本の建築家はなんと幸せだったことか。一方、遠いルーツをアフリカにもつアメリカ人、すなわちアフリカン・アメリカの建築家たちは、こうした日本の日本人建築家とは違い、アフリカから、そしてアメリカからという二重の疎外を受けた存在なのである。
だが、これはもともと建築という形式にまつわるアポリアでもあったのではないか。レゲエ、ヒップホップ、ニグロ・ドローイングを題材として刺激的な論考は書かれているというのに、まるで建築界はそのことに関係ないかのようだ★一一。確かに、これは前述したように、文学、音楽、美術の方が建築よりも言葉や図像によって直接に人間を表象したり、より身体に近い表現形式であるからなのだろう。そしてある程度の高等教育を受けたはずである黒人の建築家は、すでに白人化してしまっているということなのか? ともあれ、黒人建築家の存在が忘れ去られてしまいがちになる理由は、こうしたアイデンティティのおぼつかなさにあるといえるだろう(誤解を招かないよう記しておくが、筆者は黒人のアイデンティティを表現すべきだといっているのではない)。どうしたら、黒人建築家の作品を豊かに論じられるのだろうか? しかし、これに対して早急に答えを出す必要はない。他者を真に理解したと結論づけてしまうこともまた危険なのだから。それゆえ、思考を続けることが大事なのだ★一二。
以上の議論は同時に、都市に対しても幾つかの問題系をひらくだろう。とりわけ居住に関わる問題は大きい。例えば、都心に住まう貧困な黒人たちのゲットー(この外部を「白いドーナッツ現象」と呼ばれる白人の郊外住宅地が
囲む)。そこにはアメリカ社会の様々なもうひとつの現実が交差するだ
ろう★一三[図9]。仮にゲットーを脱出できるような黒人中産階級にも、空間の隔離は試みられるし、黒人女性はさらなる住宅差別を受けてい
る★一四。こうした都市の現実は見えにくい。だが、ヒューストンにおける荒廃した二〇世紀初頭の黒人労働者住宅を地域コミュニティの核に変える、リック・ロウの再生プログラムは、消されていくことが多いマイノリティの都市の記憶を残す試みといえよう★一五[図10]。アメリカの内部には幾つもの見えない境界線が引かれている。そして、これはグローバル化していく世界の都市において、主に植民地時代の遺産として生まれる移民街でも、指摘されることなのだ★一六。
『ジャングル・フィーバー』で黒人建築家のフィリップは、こう語っていた。ディズニー映画のように愛がすべてに勝つなんてことはないから、ディズニー映画は嫌いだ、と。おそらくフィリップが嫌ったのは、そのリアリズムの欠如なのである。『ジャングル・フィーバー』の最後も、不倫騒動の後にもはや同じ関係には戻れない夫婦の新しい生活を暗示させるし、妙に生々しく唐突な終わりを迎えるだろう。アフリカン・アメリカン・アーキテクトの憂鬱。ディズニーランドのようなどこかの国の建築界の言説。繰り返して言うが、これは決してアメリカだけの問題ではない。

6──J・マックスボンドJr 《非暴力社会改革マーティン・ルーサー・キング Jr センター》 アトタランタ、1981

6──J・マックスボンドJr
《非暴力社会改革マーティン・ルーサー・キング Jr センター》
アトタランタ、1981

7──H・F・シムス&H・R・ヴァーナー 《アフリカン・アメリカン歴史博物館》デトロイト、1986

7──H・F・シムス&H・R・ヴァーナー
《アフリカン・アメリカン歴史博物館》デトロイト、1986

8──チャールズ&チェリル・マカフィー 《カルバリー・バプテスト教会》カンサス、1980  “AFRICAN AMERICAN ARCHITECTS  IN CURRENT PRACTICE”, 1991(3点とも)

8──チャールズ&チェリル・マカフィー
《カルバリー・バプテスト教会》カンサス、1980
 “AFRICAN AMERICAN ARCHITECTS
IN CURRENT PRACTICE”, 1991(3点とも)

9──1920年のシカゴにおける黒人労働者の朝の通勤経路 黒人ゲットーから食肉産業の職場に大量の人間が移動する 『シカゴ黒人ゲトー成立の社会史』1995

9──1920年のシカゴにおける黒人労働者の朝の通勤経路
黒人ゲットーから食肉産業の職場に大量の人間が移動する
『シカゴ黒人ゲトー成立の社会史』1995

10──プロジェクト・ロウ・ハウジズ(1992─94)修復後のイベントの風景 『ソフト・アーバニズム』1996

10──プロジェクト・ロウ・ハウジズ(1992─94)修復後のイベントの風景
『ソフト・アーバニズム』1996


★一──J. Travis, ed., African American Architects in Current Practice, Princeton Architectural Press, 1991.
★二──「摩天楼」は、Film Architecture(Prestel, 1996)や、D・アルブレヒト『デザイニング・ドリームス』(荻正勝訳、鹿島出版会、一九九五)などがとりあげている。特にジェンダー絡みの視点では、J. Sanders, ed., Stud: Architectures of Masculinity (Princeton Architectural Press, 1996)を参照されたい。
★三──V・スカーリー『アメリカの建築とアーバニズム』(香山壽夫訳、鹿島研究所出版会、一九七三)。
★四──★一の文献を参照。
★五──有名なフェミニズム美術史の論文、リンダ・ノックリン「なぜ女性の大芸術家は現れないのか?」(『美術手帖──芸術家としての女性』一九七六年五月号)の題名からとったものである。
★六──★一の文献におけるH. L. Overstreetの発言。
★七──S・スティール『黒い憂鬱』(李隆訳、五月書房、一九九四)。
★八──★一の文献を参照。
★九──D. Hayden, The Power of Place, The MIT Press, 1995.
★一〇──D. Ghirardo, Architecture after Modernism (Thames and Hudson, 1996)を参照されたい。
★一一──例えば、『現代思想──ブラックカルチャー』(一九九七年一〇月号)や『STUDIO VOICE──RADICAL X』(一九九三年三月号)をみると、黒人の建築家は分析の対象にもならないし、ブラック・パワーとも関係ない。
★一二──学生によるアフリカン・アーキテクトのホームページも参照されたい。
URL=http://web.mit.edu/ydenise/www/blackarchitects.html
★一三──T&M・エドソール『争うアメリカ』(飛田茂雄訳、みすず書房、一九九五)や、包括的な研究書である、竹中興慈『シカゴ黒人ゲトー成立の社会史』(明石書店、一九九五)を参照されたい。
★一四──P. Dhillom-Kashyap, “Black Women and Housing”, Housing Woman (Routledge, 1994)はイギリスのケーススタディであるが、こうした事例は他国でも認められるのではないか。
★一五──『ソフト・アーバニズム』(INAX出版、一九九六)。
★一六──例えば、G. Boudimbou, Habitat et Modes de Vie des Immigrés Africains en France (L’Harmattan, 1991)は、フランスにおけるコンゴからの移民の居住形態を研究する。そしてミッシェル・ド・セルトーは、こうした移民による文化の翻訳システムに注目している。

*この原稿は加筆訂正を施し、『建築はいかに社会と回路をつなぐのか』として単行本化されています。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.14

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>ミニマリズム

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