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映画と建築の接線──海洋性をめぐって | 鈴木了二+小林康夫
A Tangent of Cinema and Architecture: On the Oceanic | Suzuki Ryoji, Yasuo Kobayashi
掲載『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) pp.211-219

マラパルテ邸
あるいはスタジオ・マラパルテの謀略?

小林── 今日のテーマは「海洋性」ということですが、この企画全体が建築と映画との接点を見出すという主旨になっていますので、映画と建築とのあいだに海をおいて、そこでいったいどんな接線が結ばれるのか、ということを二人で話してみたいと思っています。われわれはあらかじめ打ち合わせをしておりませんので、最初に海と建築について鈴木さんに話していただいて、それから、私がたぶんそれとは全然違うことを言うことになると思います。お互いに話を噛み合わせようという意志は二人ともほとんどありませんので、それぞれ言いっぱなしで終わるということになってもいいのではないかと思っています。
では、まず海ということから話を切り出しましょう。鈴木さんの建築は、海との関わりをもったものがわりと多いですよね。この《佐木島コテージ》、この島のもうひとつの建築、また、残念ながらコンペの二位に終わり実現はしませんでしたが、横浜の「横浜港国際客船ターミナル案」、それから私はまだ行ってないんですけれども、いま熊本で建築中の《芦北青少年の家》も海のそばです。それから例えばリベラの、海に面して階段が突っ込んでいくような《マラパルテ邸》は鈴木さんの著書の『非建築的考察』(筑摩書房、一九八八)にも登場して詳しく論じられている。しかもあの建物はゴダールの『軽蔑』のなかで使われているわけで、《マラパルテ邸》というのは、鈴木さんにとっては、建築と映画をつなぐ接点を示すひとつの記号であったわけです。そこで鈴木さんが本の中で過激に書いていらっしゃることが、たぶん今回ここにスタジオ・マラパルテという不思議な装置あるいは場が浮上し、生成したひとつのきっかけではないかと思うんですけれど、その辺りも含めて鈴木さんの建築の仕事と海とがどういうふうにクロスしているのかをまず最初にうかがいたいと思います。
鈴木── この建築は僕が設計させていただいたのですが、こういうかたちで人が集まるということは最初まったく考えていませんでした。ここはだいたい三〇人でいっぱいになるプライヴェートな保養所ですから、こういう状態になって戸惑っています。これもきっとスタジオ・マラパルテの力なのでしょう。
僕は映画のほうはよく知りませんし素人ですから、スタジオ・マラパルテの宮岡秀行さんからこの「鷺島ポイエーシスI──映画と建築の接線」を一緒にやりませんかというお話があったときには堅くお断わりしたんです。しかし「あなたがこの建物を作ったんだからそれに関する責任はあなたにある。アドヴァイザーというかたちでもよいから名前を入れて欲しい」と言われ、それなら仕方がないということで関わっている次第です。ですから、ここで建築について喋るということは居心地が悪いというか過剰というか、僕としては喋りたくないというのが正直なところなのです。
まして、あんなところにスクリーンが張られ、これだけの人が中庭に座り、ここが舞台になるなんて最初はまったく考えていなかったわけです。ところがそこに、まるで最初から設計されていたかのように映写機材がピタッと入っています。これについては、対話の前に小林さんも「建物というのは不思議なものだ。建築家がいなくなったあとも、うまい具合に使われていく」とおっしゃっていましたが、それはある種の感動的な出会いですね。ひとつの予期しない出会いとして面白いと思います。僕は、気持ちがいいときはこの場所でお茶でも飲んだらいいという、その程度にしか考えていなかったんですね。
そういうわけで海と建築ということではあまりお話ししたくないと小林さんに言ったんです。「海洋性について」というタイトルは、僕はてっきり小林さんがお考えになったものなのかなと思って訊いたら、「いや、自分は全然そんなことを考えていなかった」とおっしゃるので、これもきっとスタジオ・マラパルテの謀略なのでしょう。それでなんとなく「海洋性」というテーマになったわけですが、僕があまり話したくないと言うと、小林さんのほうから「だったら海に近いところで作った建物がいくつかあるだろうから、それをスライドで見せたらいいんじゃないか。あとはみんな僕が話してあげる」と。
小林── そんなこと言ってない(笑)。
鈴木── そういうことで、最初にスライドを見ていただくのがいいかと思います。この建物とは違う別の建物の写真をこの建物に映すと相互に少しは中和するのではないかという気がします。ではスライドを見てみましょう。

映画的? 
あるいは水平線と海の建築

鈴木──僕は意味もなく海が好きで、海のそばで建築がしたいなと思い続けてきたのですが、海辺で建築をやりたいと思っても、そういう仕事は滅多にないわけです。ところが偶然、海のそばの住宅の仕事が入った[図1]。それはこの佐木島の港からちょうど反対側の、歩いて一〇分くらいのところにあるお宅なんですけれども、それが海の前でやった初めての仕事です[図2]。規模が小さいとか、現場が遠いということは全然関係なく、海の前だというだけで喜び勇んでやらせていただいた仕事です。関心のある方はそばを通って見てください。キュービックなものと水平状態に置かれた緩い曲面のようなものとが二つ対照的に出てきていて、海となんの関係があるのかよくわからないけれど、それはなんとなくいまわれわれのいるこちらの建物にもこだましているんじゃないかと思います[図3]。例えば、一階の天井が全部同じ曲率の曲面上にあるとか、フレームを形成するグリッドとか、景観を切断するギャップなどがあってそれらがなぜ海と関連しているのかよくわからないけれども、どうもいつのまにかそうなっている。
「海の建築」というとき、人は建物を見にくるわけではなく海を見にくるわけですね。そして、みんな海を見て「いいなあ」と言う。だからこちらとしてはほかの建物よりも気が楽だという点がありますね。
それからこれはあとで小林さんにうかがいたいと思いますが、海をフレームで切りますと、どこでもそうだというわけではないんでしょうが、なぜか映画っぽい感じがする。それは、水平線があるせいなのか。面白いことに水平線があると、目線が水平線ですから、海が窓に映っているところやフレームによって切り取られた光景の中央を水平線が一直線に貫通する[図4]。無数の映像が水平線に貫かれ連結される、そういった連結性が映画におけるフィルムの連結性と重なっているのかもしれません。
これも同じ建物の写真です[図5]。やはりこの写真を撮ったとき急に映画を作りたいと思いましたね。そのとき描いた絵コンテがこれですけれど、結局まだ撮れていません[図6]。
これは同じ頃「アレクサンドリア図書館」の国際コンペというのがありまして、そのときに僕たちが出した案です[図7]。これも非常にキュービックなマッスと中をえぐり込んだ緩い曲率をもつ垂直の曲面です。
これは書庫にあたる巨大な塊をいろいろな軸線で切っていこうというものです[図8]。切り方のシステムと言いますかダイアグラムのようなものが描いてありますけれども、いろいろな方向から切っていって、その隙間の部分を公共的なスペースとして利用していくようなアイディアでした。
ちょっと大きめの模型を作ってみようということになって、これは「断層建築III」という展覧会で実際にギャラリーに並べてみたものですが、いまの建物の三〇分の一くらいの模型でもあります[図9]。
ここからは、先ほど小林さんからもお話がありました横浜の客船ターミナルの国際コンペになります[図10]。山下公園のすぐそばの大桟橋の上に国際ターミナルを作るというコンペでした。ここでは曲面というよりも球面を考えていたんですね。緩く湾曲した面が見えると思いますが、あれは一定半径の球面の一部を切り抜いて使ったわけです。海にどうして球面が出てくるのかということもよくわからないんですが、ともかくその部分に特に関心があった。
巨大な大理石の球面の広場、長さが約四〇〇メートルくらいの広場を作りたいと思ったんですね[図11]。ただ、実際に大理石のピカピカな球面広場なんて滑って人が歩けませんし、そうなるとコンペはたいがい通りませんので、そこに庭園とか植栽などのいろいろな公共的な使い途を与えて出したわけです。
これは営業用の模型というやつですね[図12]。「デジタルな庭園」とか言っているんですけれども、ほんとうのところはピカピカの大理石の球面で、これはいまでもやってみたい。
これがいま施工中でもうすぐ終わる熊本の仕事です[図13]。これもまた海の前で、横浜の桟橋の次でしたから三つ目になります。「海でしたい」と言い続けていると、やはりそういう仕事が集まってくるのか、不思議な気がしています。
これは単なる倉庫です[図14]。このプロジェクトにはいくつかの施設がありまして、そのうちのひとつです。ただ、この写真がちょっと気に入っているんです。ちょうどクリント・イーストウッドの『ハートブレイク・リッジ』の航空母艦の甲板みたいでしょう。
これは反対の海側ですね[図15]。佐木島のコテージの場合は、「ない」が「ある」という気分でやっておりましたが──ヴォイドみたいな話なんですが──、その次にあたるこの計画では「何もない」ということでやっていたつもりなんです。
これはキャンプのための炊飯棟です[図16]。こういうものがいくつか分散しているわけで、「何もないと言いながらあるじゃないか」と言われると苦しいところです。建築の場合、消えることができないことと、動くことができないことが辛いところです。だから建築のほうから好きなところに行くことはできません。ただ、建築自体は動いていないのに、ここで映画をやるということでみなさんのほうから建築のところまではるばるいらっしゃったわけですから、やはり建築は映画に感謝しなければいけないという気もします。
これはその脇にあるちょっと大きめの建物なんですけれども、海を見るための広場を建設しています[図17]。これも建物自体は何もないようなもので、単にだだっ広い広場のようなものを考えようとしているわけです。
これもちょっと映画っぽくないですか?[図18]。中庭があってその向こうが海になっていて、ちょうど広場から建物越しに海を見ることができるのですが、逆光になっているので建物のフレームがシルエットになりなおさら映画のように見えるわけです。もともと映画というのは、スクリーンの向こうは底が抜けていて何もない、というようなものかもしれません。いずれにせよ、水平線が非常に効果的だろうと思います。
もうひとつ、階段というものがあるんでね[図19]。どうして海に階段なのかよくわかりませんが、この場所を別の次元につなげていくような、空と海とのジョイントみたいな、あるいはあえて言えば此岸と彼岸との閾みたいなものなのかもしれません。この階段の材料はすべて熊本産の檜なんですよ。
これはスタジオ・マラパルテに敬意を表して、《マラパルテ邸》の写真です。似たような写真ですけど。まあ、階段というものは誰が設計しても素材が違うだけで、階段は階段なんですが[図20]。
これは《マラパルテ邸》の屋上です[図21]。
これは地中海です[図22]。遠くから見たところで、建物が岬にへばり付くようになっていますが、そのこちら側と向こう側になぜか二つずつ窓が付いているんですね。その窓がなかなか映画的なんです。その写真を一度モノクロで本に載せたことがあるのですが、やはりカラーで見たいと思いまして、また持ってきました[図23─26]。
イントロはこんなところです。

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空隙/ロッジア
あるいは柱の建築家?

小林── どうしてでしょう。鈴木さんの作品とは、いちばん最初の頃の東京の住宅などでもかならずどこかにアールが入っていますでしょう。しかもその曲線の中心が建物の中ではなくて、全然別のところにある。とんでもなく遠いところに中心があって、その影響力が建物を横切っているという感じのアールなんですね。その中にいると、どうしてそこに曲線があるのか理解できない。それで中心を追いかけていくと、家をどんどん離れて行ってしまうわけで、そこにある場所が、全然違うもうひとつの場所との関係においてあるということをつねに意識させるような、建物が建物の内部だけで完結しないことを意図されてきたと思うんです。ですからいま建てていらっしゃる建物とは全然違う。
アールが海と関係あるのかどうかわかりませんけれども、少なくとも鈴木さんのアールが出てくるひとつの在り方は、いま言ったように、ある場所がほかの場所との関係においてあるということだとすると、水平線を見ていてもなんとなく直線に見えないのは、要するに、われわれは水平線を幾何学的な直線としてではなく、初めから膨大な長い長い円弧の一部として受け取っているからという気がします。そのようなことも含めて、鈴木さんに訊いてみたいのですが、ひとつは空隙に関してです。この建物を見てわかるとおり、鈴木さんの建物にはあちこちにスリットが入っている。内を歩いていると、そのスリットを通して光が入ってくるわけです。そういうところは意識して作っていると思うのですが、その際、斜めから光が入ってくるというのが、きわめて映画的なんですね。建物自体、そしてその中を歩いている経験自体、何か一つひとつのイメージが積み重ねられていくイメージの連続体というような感じがします。それはロッジア、つまり回廊とか歩廊といったものにきわめて近いものだと思います。というのも、鈴木さんは建物を完全に閉じたものとして、内で完結したものとしては考えたくない建築家であるわけで、もし完結した建築空間を考えるのが建築家だとしたら、鈴木さんにはどこかふつうの建築家とは違ったところがあると思うんです。
ロッジアというと、ベンヤミンの『ベルリンの幼年時代』の冒頭がロッジアについての話ですね。われわれが幼年時代を想起すると、記憶は全体としてひとつのロッジアを形成している。われわれがその回廊を歩いていくと、そこにはさまざまな記憶のイメージがあるんですが、それはところどころに横から光が射してくるような構造にもなっている。子供のときにもそこにイメージを抱いているのですが、しかしそこに入ってきている光には全然気が付かない。たしかに、大人になって自分の幼年時代──不幸な幼年時代であれ幸福な幼年時代であれ──をひとつの回廊のようなものとして考えてみると、いろんなイメージが積み重なっていて、それは特別な光ではないのですが、ふと横からあんな光が当たっていたと気が付くときがあると思うんですね。そういう私なりの思い入れも含めてですが、ひょっとしたらロッジア的な形式は鈴木さんの建築のひとつの基本ではないかと思うんです。というのは水戸芸術館で行なわれていたジュゼッペ・テラーニというイタリアの合理主義者かつファシストの建築家の展覧会に併せて、『建築文化』がテラーニの特集(一九九八年五月号)を組んだのですが、そこに鈴木さんは五〇枚くらいの、かなりテンションの高い堂々たる論文をお書きになっています。私は以前、鈴木さんの「テラーニは天才だ」という一言でテラーニに興味をもち、その建築を見にイタリアまで行ったという経緯があって、そこでひとつエッセイを書きました(『建築のポエティクス』[彰国社、一九九七]所収)。そのとき私は、テラーニを「枠と線の建築家」として考えてみたんです。それで鈴木さんがテラーニについて書いたものを読むと、壁と柱という建築における二つの異なった根本的なシステムがそこで二重に共鳴していると書いてあるわけです。「世界二重共鳴」なんて恐ろしい言葉ですよね。あんなことを言ってしまっていいのですか。
鈴木── 物理学者はよく名前を付けるんですよね。第一発見者ということだろうと思います。発見にウェイトがある。じつはスーパーストリングスの理論のなかで「ヴェネチアーノ/二重共鳴モデル」というものがあるんだそうです。内容は全然よくわからないんですけれど(笑)。超弦理論というのは、中身はわからなくても結構いろいろおかしいんですよね。あのジャンルはてんやわんやの割にはあまり成果がなかったらしいんですけれど、ただそのなかでヴェネチアーノというイタリア人がある統一理論の帳尻を合わせるために、一九六〇年代の頃、何か適当な関数でもないものかと古い数式を探してみたらしいんですよ、式ひとつで決まってしまうような都合のよい数式はないかと。そうしたら、ほとんど偶然だと思いますが、オイラーのベータ関数という数式が見つかって、それを使うと驚くほどすべてに関してうまくはまった。それを物理学者は「ヴェネチアーノ/二重共鳴」と名付けているんです。僕は建築も発見的なものと思っているので、この慣習を建築の世界に適用してもいいと思いました。そしてうまくは説明できないけれど、明らかにテラーニは建築の根源的な現象を発見している。そこでそのヴェネチアーノのところにテラーニを入れると「テラーニ/二重共鳴」となって、これは言葉のひびきとしても格好いいと思ったわけです(笑)。
小林── なるほど。とすると、柱と壁という、ひょっとしたら相容れない考え方が二重に共鳴しているのがテラーニだとしたら、もうちょっといくと鈴木了二になるということは言えますよね。熊本の仕事など見ていると、あれは柱のほうに振れています。明らかに、建物は柱と階段だけあればほかはいらない、壁も屋根もいらないという過激なところにいこうとしていて、あれは一種のパルテノン神殿のようなものになっている。なるほどパルテノン神殿では、柱をエンタシスか何かにしないかぎりは、確かにアールは消えるかなとか、少々皮肉に思っていたんですけれども。その意味では、われわれがいるこの建物がいい例だと思うんですが、周りのところを見ていくと、柱が中心になってできています。もともとロッジアというのは、外側が柱になっていて内側が壁になっているわけですね。それもまた「二重共鳴」だと思うんです。そこでこの建物は「了二/二重共鳴」と呼んでもいいような(笑)、一種の回廊建築としてできていて、その回廊に少しずついろんな傾きがあって、それが全部海との関係で決定されているように思われます。私は以前は鈴木さんを「空隙の人」と受け取っていましたし、私の大学に来て講演していただいたときも空隙ということで話していただいたわけですね。しかし、空隙というのは柱と柱のあいだに隙間があるんですけれども、そのうちだんだん割合が変わっていって、いまは柱だけという方向に進みつつあるのかなという気もします。安藤忠雄さんは「壁の建築家」なのだそうで、そういう本が出ていますが、鈴木さんは将来「柱の建築家」と呼ばれることになるのかしらと思いました。

鈴木了二氏

鈴木了二氏

幽霊?
あるいは向こう側からの浸透

小林── そこで海と映画に関してなのですが、建築というのは建ち上げなくてはいけないものですし、鈴木さんがおっしゃったように動かないし堅いものなんですけれども、ロッジア形式を歩いていくと、その形式全体がイメージの経験に似通ってくることがある。ところが、映画も同じように建築と似ているところがひとつだけあって、それは垂直に立たなければ仕方がない。ヴィデオのように小さな箱のなかで見る映像ではなく、スクリーンで映画を見るという最も原型的なシチュエーションを考えてみると、映画もやはり立っているものなんです。スクリーンは建築ではなく壁ですらもないペラペラのものですけれども、しかしそれはやはり垂直に立てざるをえない。しかも自分の身の丈よりも大きいものを立てないと映画にならないのではないか。映画をヴィデオで見てもヴィデオで見たにすぎず、それは映画ではないと私は堅く信じています。その最大の理由は、自分の身丈よりも大きく映るか映らないかという点が決定的な違いとしてあるからです。つまり映画は、──子供が世界を見るように──絶対に自分の身の丈よりも大きくなくてはならず、屹立させなくてはならないが故に、映画と建築は根本条件を同じくしているのではないか。もちろん両者は全然違うものですが、もしわれわれがスクリーンのような、裏がないその裏を建築を通じて感知することができれば、ひょっとしたら建築と映画は似てくるかもしれないということです。問題なのは、壁のように二つのものを分け隔てるということではなくて、そこでは何かが浸透してくるということだと思います。
この間も『早稲田文学』(九八年五月号)で前田英樹さんと対談をやったんですが、それはとても奇妙な映画論でした。つまりその対談で私は、映画は幽霊的だから面白いということをしきりに主張し、前田さんは映画が中枢的であるかどうかということをベルクソンから引いてきて問題にしたわけです。映画が幽霊的であるとはどういうことかといいますと、それは向こう側にあるわけではないのに、向こう側の世界からいろいろなものがこちらにひゅっと出てくる、あるいは投影されてくるということなんです。仮に建築が、われわれが普通考えているような「住む」ということから離れて、イマージュのロッジアを歩いていくようなものになっていくのだとすれば、それは向こう側から浸透圧を感じるようなものになっていくのじゃないかと思うんです。あるいは、ドゥルーズはかつて「ふるいのような身体」と言っていますが、われわれの身体がそうであるように、建物も──壁があろうがなかろうが──穴が開いていて、その穴の網目を、物質性を通して、向こう側から何かが浸透圧的に滲み出てきたり光が射し込んでくるような経験を与えてくれるものであるかもしれません。向こう側をどこに想定するかは文化によって違うでしょうが、建築がそうした浸透性を受けとめる装置だったのだとすると、ひょっとしたら建築と映画の距離はそう遠くはないのかもしれないなと思うのです。
鈴木── すごく面白いですね。海に面した場所で建築をやってきて気が付いたことをひとつ言いますと、そのような場所での仕事の場合、陸地での仕事とは違って、海によって立地面がいきなりちょん切れてしまうわけですね。そうするといったいどこまでが建築なのかということを考えざるをえなくなるんです。建築というのはその外壁までを言うのか、あるいは敷地全体に及ぶのか、あるいは道路の向こうまでを指すのかということですね。これが陸地だとなんとなく無自覚にすんでしまう。ところが海というと、何もかもともかくそこで終わってしまうわけですから、切断感というのが必ずある。それがいちばん強烈に出ているのが先ほどお見せした《マラパルテ邸》です。その切断の先はどうなっているのかと言いますと、海は一枚だと言わんばかりに全部同じなんです。実際、海は地球上で一枚になって連続しているわけでしょう。イメージとしてはこの辺の海を引っ張ると地中海まで動くという、引っ張ると全部動くシーツのようなものです。しかもそれがそこまで迫っている、でもけっしてこちら側ではないという感じがすごいわけです。もう少しわかりやすく言うと、海についての記述でピタッときたものがいくつかあるんですが、そのひとつで、ヨシフ・ブロツキーの「ウォーターマーク」という──邦訳では「ヴェネツィア」というタイトルになっている──小さいエッセイがあって、それがなかなかいいんです。彼は、神の霊のようなものが海の上を通ったらそれは海に映るだろうと言っている。それで海は空間ではなく時間だと言うわけです。そして時こそは神ではないのかと。ヴェネツィアには、レースのようなものを大理石に彫り込んでいく建物があるわけです。それはたとえばパラッツォ・ドゥ・カーレのような美しいレース状の建物ですが、それは石という非時間的なもののなかに海のリズムで時間をなんとか入れようとする努力だったんじゃないかというようなことも言っている。まさに海面は時間の霊が、あるいは神の霊が映っている面なんでしょうね。その面は真っ平らな鏡ではないわけですから、ガラス状の物質をえぐり取っていくような、「揺らめき」などという呑気なものではなく、硬質でもっと鋭いものなのでしょう、そういうものがどこまでもつながっているという状態、それが海と建築とが出会ったときにとりわけ強いものとして残っている点です。
もうひとつ、陸でやるのと全然違う点は空なんです。これはプルーストが書いていたんだけれど、水平線のあたりでは互いに溶け合ってしまい、海と空との区別が付かないというんですね。陸にいれば明快に空と陸とは分かれるわけですが、海に出れば空に連続してそのままひとつになっていくという状態です。となると結局、海が周りを取り巻いていて、その中にわれわれの場所だけがポコッとあるという気さえしてくる。これも誰かが言っていたことなんですが、例えばイタリア半島は、イタリアという半島があって、その周りに水がたまっているというものでは実はなくて、海のほうを鋳型にしてそこに土を流し込んだらイタリア半島ができたという解釈だってありうる。つまり、海が逆に陸を創り出しているということさえありうるかもしれない。そうなってくると、境界線上というのは特別緊迫している場所なんだろうなと思えてきます。陸では何も起こらないし、だからといって海の中でも何が起こっているのか、われわれにはよくわからない。でも、ともかく境界線上に立っていれば明らかにそこではなにかが起こっており、それに立ち会うこともできる。いまそこでバシャバシャと波の音がしていますけれども、まさにそうしたことがここで起きていると思うんです。
先ほども言ったとおり、僕はこの建物を作るときに、まさかここにスクリーンを掛けて映画を上映するような人が出てくるなんて考えもしませんでしたが、海のそばということでおそらく信じられない事態が起こっているのではないかという気がします。いま僕が座っているところからゲートの穴を通してちょうど海が見えるんですけれども、「ひょっとしてあれは映画なのだろうか、そうなるとこっちも映画なのか」という感じで映画と海が接近してきて、先ほど小林さんがおっしゃった幽霊的なものにも思えてくるわけです。
映画の幽霊的側面に関しては僕も以前からすごく関心がありました。僕の映画の判定基準は明快で二つです。ひとつは面白いかつまらないかです。ただ、面白ければ完全かというとそうではなくて、もうひとつ、そこに幽霊性があるかないかということです。この二つを満たせば、僕はもういい。でもまあ、いまの大半の映画は面白くないから片方を満たせば十分ですね。だから幽霊的であれば退屈でもいいです。映画の幽霊的な側面は僕たちに強く働きかけますからね。僕はときどきカメラを廻すこともあるんですが、ラッシュフィルムを編集卓に掛けてつないでいくときに、リワインダーを廻さずに止めておくといまお見せしたスライドのようにスティール写真になっているわけです。ところがちょっと廻し始めると少しずつ画像が動き出す、その瞬間の瞬く感じに僕はゾクッとくるんです。映像の質がまるで変わります。でも予想に反してそれは像が前に出るというよりもむしろ遠ざかる印象なんです。これは普段みなさんも同じように感じていると思うんですが、ブラウン管のようにTV的なものの場合、必ずしもアトラクティヴというわけではないのに必ず前に出てくる感じがします。ところが編集卓で見る映画の画像というのは、これとは反対に遠ざかっていく印象をつねに与えるわけです。日常においてそうした現象が起こるということは、幽霊的な側面の不吉さをある意味で物語っていると思うんです。ですから、映画はむしろそうした側面を消そうとしてきた。トーキーが発明されてカラー写真になって、なんとか幽霊的な部分を消そうとすることで映画は進化してきたと思うんです──そういう意味ではやはりモノクロのサイレント映画に惹かれるわけです──が、それでも幽霊的な側面を残している映画というのもいまだにあって、それがわれわれを惹きつけてやまないわけです。具体例を挙げればソクーロフなどがそうだと思いますし、ゴダールにしても退屈して半分くらいは眠ってしまったりするときもあるのですが、それでも惹きつけられるのはそうした面があるからだと思います。

小林康夫氏

小林康夫氏

ポエジー?
建築/映画/海をつなぐもの

小林── 建築が海で切れているということは、別の言い方をすると、どんな建築でも海の中に突っ込んでいるということだと思うんです。すべての建築は海の中に沈み込んで、そのまま続いているという感じがする。つまり海では建築は不可能である。そこには痕跡はないし、流れている時間にしてもけっして「われわれ」の時間ではない。括弧付きの「われわれ」、この人間の存在というのは、大地をほじくり返して、そこに意味だとか国家というものを作り上げてきたわけです。それがわれわれにとっては重要なものなのですが、しかし海というのは──プルーストの言っていることですが──、そうした人間的な区別としての意味をすべて溶かし込んでいて、そうしたものがまったく意味をなさないかのようにして存在している、と。今日では、そこにゴミなどが浮いていたりしますが、海そのものを考えてみると、五万年前も五万年後も変わらず、人間の悲しみも歴史も関係なく、そこに波打ち、佇んでいるに違いない。そういう意味で海はこちら側に愛想も振りまいてくれない、とても嫌なやつでもある。だからこそ、われわれの最も壮大な建築の営みも文化の営みもこの境界面だけは越えられないし、越えられないからこそ一種の鏡のような操作で全部が向こう側に影のように落ちていっているわけです。鈴木さんのお作りになったプランにしても、向こう側に続いていっているわけでしょう。結局、断ち切れているということは向こう側に続いているということなんですね。
鈴木── 空も海ですね。
小林── そう。その点に関してはやはりプルーストに、夕陽の最後の残滓が残っているときに、大地のほうは真っ暗になってなんの区別も差異も見えないのに、海はまだ空の微かな光をたたえていて、それがまるで聖遺物のようにきらきらと光っているという、美しいパッセージがありますね。そしてそこから海は非人間的であるからこそ人間の心にとって本当の慰めだという驚くべき結論が引き出されるのです。しかも、それはまた音楽であり、非人間的な海、音楽それこそ人間の魂の本質だと言うんですね。つまり人間の魂の本質は少しも人間的ではない。われわれは文化や歴史や意味のなかに生きているわけですが、人間の魂の本質は非人間的ですらあるという驚くべきテーゼにプルーストはたどり着いてしまう。それは海を見ていて出てきたポエジーであって、海というのは少なくとも、ひとりの作家にそういったことを夢見させる力をもっているんだなと思います。たぶんそれが建築と映像と海とをつなぐポイントなのかなという気がします。

[一九九八年五月三日、佐木島コテージ中庭にて]
※掲載にあたってはスタジオ・マラパルテの好意を得た。

訂正とお詫び
本誌一四号の、小林康夫、鈴木了二氏の対談中に以下の誤記がありました。
二一一頁下段の鈴木了二氏の発言「鷺島ポイエーシスI〜」とあるのを「鷺ポイエーシスI〜」と訂正させていただくと同時にお詫びいたします。

>鈴木了二(スズキ・リョウジ)

1944年生
早稲田大学教授(芸術学校校長)。鈴木了二建築計画事務所主宰。建築家。

>小林康夫(コバヤシ・ヤスオ)

1950年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、現代哲学、フランス現代文学。

>『10+1』 No.14

特集=現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築

>安藤忠雄(アンドウ・タダオ)

1941年 -
建築家。安藤忠雄建築研究所主宰。