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ミニマリズム・ラスヴェガス・光の彫刻──「建築的美術」と「美術的建築」の連続と断絶 | 暮沢剛巳
Minimalism/Las Vegas/Light Sculpture: The Continuation and the Rupture of "Architectural Art" and "Artistical Architecture" | Kuresawa Takemi
掲載『10+1』 No.27 (建築的/アート的) pp.132-141

公的領域と私的領域、ポリスの領域と家族の領域、そして共通世界に係わる活動力と生命力の維持に係わる活動力──これらそれぞれ二つのものの間の決定的な区別は、古代の政治思想がすべて自明の公理としていた区別である。    ハンナ・アレント「公的領域と私的領域」


単なる建築の域にとどまらない超建築的、アート的な都市プロジェクトの可能性を多方面から探ること──私の早合点でなければ、今回の特集はおおよそこのような意図の下に企画されたはずであり、またその意図に対して美術の側からアプローチしてほしいというのが、ここで私に与えられた課題のはずである。しかし、強く興味を惹かれて請け合ったはいいものの、これは容易に糸口の見つかりそうにない難題だ。多くの文化のフェーズにおいてジャンルの横断化が叫ばれている昨今、美術や建築もけっしてその例外ではありえず、街のそこかしこに「美術っぽい建築」や「建築っぽい美術」が溢れている。また美術の内側をのぞいてみても、絵画や彫刻はもとより、インスタレーションやパフォーマンスといった比較的新しい表現領域などが渾然一体となっているのが現状であり、すべての表現を「美術」の一語の下に統一的に把握することはおよそ不可能な状態といっていい。必ずしもその境界が明確でない、美術と建築のポストモダン状況を探ろうとする試みは、そこに至る以前に「美術とは何か?」、「建築とは何か?」という原理的な問いに行く手を阻まれてしまうのだ。
だが、ほんの数十年も前には、美術と建築をめぐる状況は今とはまったく異なっていたに違いない。図らずも「ポストモダン」という比喩を持ち出してしまったが、六八年の五月革命に端を発するこの転回以前には、抽象表現主義からミニマリズムへの流れを軸にさまざまな派生関係を描いていた美術と、「インターナショナル・スタイル」や「ユニヴァーサル・スペース」以後を窺っていた建築とは、それぞれまったく異なる文脈の下に展開されていたはずで、それは各々の表現形態の唯一性を強調した「メディウム・スペシフィック」という概念がモダニズム芸術の重要なキーワードとなっていることからも察することができる。にもかかわらず、なぜかくも短期間のうちに状況が一変してしまったのだろうか? それにはいくつもの理由が介在しているが、さしあたりここで重視したいのは、何世紀にもわたって連綿と続いてきた美術と建築の関係にとって、六〇年代というディケイドが画期的な転換点であったという単純な史実である。以下の試論は、その単純な史実をそもそもの出発点とし、なかでも、一、ミニマリズム以後の展開、二、パブリック・アートの台頭という、六〇年代的な二つの現象を分析して、そこに現在にも通底する問題のマトリックスを探っていく。結果として、この二点集中が特集の意図を逸脱することなく展開され、最も今日的な美術であるネットアートとの回路をも開くようなら幸いである。

ジャッドとセラ──ミニマリズムからポストミニマリズムへの「建築的」展開

ミニマリズムが、同時代のポップアートと多くの点で対照的であることは広く知られているだろう。工業塗料によって描かれたポップアートのシルクスクリーンが資本主義社会の消費イメージを流用する一方、工業資材によって作られたミニマリズムの物体は資本主義社会の物質性を露呈し、またポップアートが外在的な展開を意図したのに対して、ミニマリズムは内在的な還元を重視するといった具合に、抽象表現主義の批判的継承というルーツを共有するこの両者は、実に多くの点で正対称の関係にある。それはいずれも、ダニエル・ベルが「ポスト産業社会」と呼んだ六〇年代アメリカの兆候的な芸術表現だっただろうし、また絵画や彫刻といった既存の芸術ジャンルを越境し解体する性質を孕んでいる点では、ともに傍系のデュシャンピアンとも言えるだろう。だが、ここでの課題である建築と対比した場合には、多くの点で対照的(またそれゆえに相補的)である両者の関係はけっして対等なものではありえない。その物質性においても構築性においても、あるいは「メディウム・スペシフィック」な性格においても、ミニマリズムのほうがより建築に近い性質を有していることは疑いないからである。なかでも、建築という観点を導入した場合、とりわけ重要なミニマル・アーティストとして挙げるべき存在がドナルド・ジャッドであろう。
一九二八年生まれのジャッドが、大学で哲学を、またアート・ステューデント・リーグで美術を学んだ後に初個展を開催したのは一九五七年のこと。ときあたかも抽象表現主義の最盛期、ジャッドもまたその圧倒的な影響下から出発したのだが、批評活動も並行して行なっていたジャッドは、美術の新しい潮流に目を光らせる一方で自分に固有の問題にも深い省察を加え、その表現は徐々に抽象表現主義の圏域を離れ、独自なものへと変化していく。具体的に言えば、絵画からレリーフ状の作品、さらには立体作品へと移行し、作品の三次元化・巨大化に反してその形態は単純化の一途を辿っていったのである。そして、代表的作品群であるプログレッション(数列=横に長い金属製の立体を壁にかけた作品)やスタック(積み重ね=上面と下面にプレクシガラスを張った金属製の立体を積み重ねた形状で壁に掛けた縦長の作品)が初めて登場した六〇年代の半ば頃には、すでに「ABCアート」や「プライマリー・ストラクチャー」などの議論を経由していたジャッドは、ミニマル・アーティストとしての名声を確固たるものとしていたのだった。
そうしたジャッドのミニマリズム観が最も凝集された概念が、一九六五年に同名の論文で提唱された「スペシフィック・オブジェクト」である。ジャッドの代名詞とも呼ぶべきこの概念は、(特に日本では)「特殊な」とリテラルな訳語を当てはめるしかない翻訳の限界もあって多くの誤解にさらされてきたが、実のところこのspecificとは、「属」(generic)に対置される「種」の優位性を説くために強調されたきわめて形而上学的な由来を持つ概念なのである。絵画でも彫刻でもない「メディウム・スペシフィック」な作品の物体性、巨大化し過ぎた結果、美術館への移送展示に適さなくなり、特定の場所と分ちがたく結びついた「サイト・スペシフィック」な作品の特性、あるいは制作プロセスそのものをも作品のなかへと取り込んだ「シチュエーション・スペシフィック」な制作手法などは、いずれもこの「種」としてのspecificをルーツとするものである。ハル・フォスターによれば、高密度のミニマリズムはフッサールの現象学やソシュールの構造言語学にも比肩する盛期モダニズムの落し子であるという★一。とすれば、ミニマリズムを不倶戴天の敵とみなしていたマイケル・フリードのような例外的批判も存在するにせよ★二、その極限とも言うべきジャッドの「スペシフィック・オブジェクト」に、抽象表現主義が希求してやまなかった純粋知覚の極点を見たとしてもけっして不自然ではないだろう。
もっとも、ジャッドの建築家としての側面を考察するに当たっては、フォーマリズムに立脚したこのような解釈を一旦留保する必要がある。というのも、ジャッドを「メディウム・スペシフィック」な純粋知覚を突き詰めたミニマル・アーティストとして神格化してしまっては、朝鮮戦争で軍務に服していた一〇代の当時、将来の進路を美術にするか建築にするか思い悩んで以来★三、ジャッドが長らく建築へと並々ならぬ関心を寄せ、また作品にも多大な影響を与えていた事実が捨象されてしまうからだ。建築へと寄せられるジャッドの強い関心は、例えばミニマル・アーティストとしての名声を確立した後の一九六八年、ニューヨークのソーホー地区に立つスプリング・ビルを購入、アトリエ兼作品置き場へと改装するという形で顕在化している。またその三年後には、ニューヨークを離れてテキサスの田舎町マーファへと移転してしまうのだが、一歩誤ればアーティストとしての評価の急落に繋がりかねないこの大胆な行動にしても、「よりよい制作環境の確保」だの「人間嫌い」といった当り障りのない理由だけで説明できるものではないだろう。
私はこのジャッドの「蟄居」を、まさに建築の問題として考えることができるように思う。すなわち、巨大化の一途を辿っていた立体作品にふさわしい制作・展示環境の確保のみならず、自らの居住空間や周辺の環境をも自分の納得のいくものとして作り込もうとした、言うなればある種の総合芸術的な志向が作用していた、ということだ★四。「理想郷ユートピア」という形容が相応しいこの実践は、「私は未遂に終わった首尾一貫性を考えている。それはデ・スティルやバウハウス、そして構成主義の一貫性よりも溌剌とした、普通の、そして抑圧的ではない、より幅の広いものである」★五というジャッド本人の言葉とも深くシンクロしている。ジャッドが関与した現存の建築作品は、マーファのチナティ財団諸施設[図1]のほかには《アイヒホルテーレン》と《バーゼル東駅コンプレックス》の二つのみで、建築家ジャッドを検証しようにも、その作品数はあまりに僅少だ。だがこれらの作例は、絶対数に乏しいながらも、純粋知覚の追求の結果、絵画から「スペシフィック・オブジェクト」へと移行し、さらには独自の空間の構築にまで触手を伸ばしたジャッドの軌跡との一致を示しているように思われる。作品が受容される空間との関係を重視したミニマル・アーティストのもう一方の雄、ロバート・モリスの「ユニタリー・フォーム」とも一致するその軌跡は、ジャッド個人の関心を超えてミニマリズム全体の「建築的」な問題として認識されることになるだろう。
では、ジャッドの「スペシフィック・オブジェクト」で極点に達したミニマリズムの問題系は、次代のポストミニマリズムへといかに継承されていったのだろうか? ここではその展開を、主に世代的な要因によって、典型的なポストミニマル・アーティストとみなされることの最も多いリチャード・セラの諸作品に探ってみよう。
一九六八年の冬に発表され、まだ二〇代だったセラの名を広く知らしめるきっかけとなった《スプラッシュ》は、ニューヨークのレオ・キャステリ画廊の一角で、溶かした鉛をそのまま床に放置した作品であった★六。七一年にロ・ジュディウス画廊で展示された《ストライク》は、巨大なスチールのプレートをそのままギャラリーへと持ち込んだ作品であり、七二年のドクメンタに出品した《サーキット》もまた、まったく同趣旨の作品だった。また、フェデラル・プラザからの移設が決定されたときに、セラ本人が「作品を動かすことは壊すことと同じだ」★七と強い抗議の意志を示したエピソードによって知られる《傾いた弧》も、もともとは野外展示用の金属彫刻だった。ダグラス・クリンプが「贅沢な消費には該当しない重工業製品と、商業画廊や美術館といった展示会場との間の葛藤は、セラが《ストライク》の含意を、ギャラリー空間の通常の機能を全面的に否定する方向へと展開することで、さらに強化されたのである。(…中略…)セラの彫刻作品は、これらの空間のために、あるいは空間に対してではなく、これらの空間に反して作用したのだ」★八と適切に指摘しているように、セラの作品はいずれも、重工業(および消費資本主義)に対する批評性と「サイト・スペシフィック」な作品の在り様において通底したものなのである。
もちろん、この具体例に即して挙げた二つの要素そのものは、ジャッドをはじめとする、先行のミニマル・アートとも共通するものではある。だが、静穏なマーファへと「蟄居」し、周囲の環境をも律しながらシャープな覚醒感に溢れる立体を制作したジャッドと、猥雑な都会に留まりながら、覚醒感とは無縁の重厚長大な立体[図2]★九を制作したセラの間には、作品そのものの性質はもとより、作品が受容される空間との関係においても決定的な差異が潜んでいることは確かである。
ミニマリズムとポストミニマリズムの間には時代的にも様式的にもはっきりとした境界が存在しないし、そもそもポストミニマリズム自体、独立した動向とみなせるかどうかさえ実は疑わしい。だが、例えばある概説書では「古典的となった調和が、その内面的な要素とは正反対のものに道を譲り、最初は厳密に、そしてやがて過剰なものになってゆく」★一〇プロセスとして説明されている前者から後者への移行を、「知覚の純粋化によって失われた触覚性を回復する試み」とでも反フォーマリスティックにパラフレーズすれば、それは一応両者を別個に隔て、またジャッドとセラの差異をも説明する定義になりうるはずである。「芸術の自律性」に忠実なジャッドが、諸々の条件を確保して賢明に作品と環境との予定調和な関係、純粋で均質な知覚を実現しようとするのに対して、セラはそれをあっさりと拒絶し、猥雑かつ不均質な知覚へと舞い戻ろうとする。言うなれば、セラはジャッドが排除しようとした他律的な視点を回復しようとするのである。そしてこの視点こそ、セラがしばしばパブリック・アートの文脈で取りざたされる所以であり、クリンプはセラに特有なその視点を「ポリティカル・スペシフィティ」と命名した★一一。その有無がミニマリズムとポストミニマリズムの区別へとシフトするかどうかは明らかではないが、少なくともパブリック・アートを考えるに当たって重要なキーとなることは確かなように思われる。

1──マーファのチナティ財団 この倉庫には、ジャッドのアルミ製ミニマル作品100点が恒久展示されている 出典=『Donald Judd selected works 1960-1991』、埼玉県立近代美術館/滋賀県立近代美術館、1999

1──マーファのチナティ財団
この倉庫には、ジャッドのアルミ製ミニマル作品100点が恒久展示されている
出典=『Donald Judd selected works 1960-1991』、埼玉県立近代美術館/滋賀県立近代美術館、1999

2──旧西ドイツCDU(キリスト教民主同盟)が79年に制作したキャンペーン・ポスター 右下のモノリシックな物体がセラの《ターミナル》である 出典=Douglas Crimp with photographs by Louise Lawler, On the Museum's Ruins,1993.

2──旧西ドイツCDU(キリスト教民主同盟)が79年に制作したキャンペーン・ポスター
右下のモノリシックな物体がセラの《ターミナル》である
出典=Douglas Crimp with photographs by Louise Lawler, On the Museum's Ruins,1993.

ラスヴェガス──「商業的ヴァナキュラー」が開いた可能性

パブリック・アートと言えば、一般には「都市の公共空間の中に展開されるアートおよびその計画の総称」とでも定義すべきものであろうか。その歴史は古くは古代ギリシアのアゴラにまで遡り、また一六世紀にミケランジェロが整備を手がけたローマのカンピドリオ広場も、今日で言うパブリック・アートの範疇に含まれるだろう。だがそれが公的なプログラムとして登場したのは、カントの「公共の合意」やヘーゲルの「公論」などの議論を経た二〇世紀、それもおそらく恐慌に見舞われた一九三〇年代のアメリカで、ニューディール政策の一端として展開された連邦美術計画(FAP)をもって嚆矢とするはずである。公共事業促進局(WPA)の所轄事業だったこの計画は、大規模な壁画や野外彫刻の設営計画をアーティストの失業対策として展開しようとしたもので、後年フランスをはじめとする各国で実施される「一パーセント法案」の呼び水となった。また、メキシコ壁画運動の中心を担っていたオロスコやリベラが職を求めて参画したことが、やはりこの運動に参加して壁画を描いていたポロックやデ・クーニングらを触発して、戦後の抽象表現主義へと発展するきっかけとなるなど、美術史的にも重要な意味を持っている。そのような経緯を踏まえれば「サイト・スペシフィック」や「アースワーク」などの言葉で呼ばれる、美術館の外に展開の場を求めた作品が数多く登場した一九六〇年代は、ニューディール政策から第二次世界大戦という時代の流れを経て、戦後世界におけるパブリック・アートの意義がどのように変質したのかが問われた時代だったとも言えるだろう。
この時代のパブリック・アート観が最も端的に表われた書物としてしばしば参照されるのが、ロバート・ヴェンチューリらの『ラスベガス』である。前著『建築の多様性と対立性』において、画一的なモダニズム建築観への手厳しい批判という論点を提出していたヴェンチューリは、その具体的実践編とも呼ぶべきこの書物で、今度はラスヴェガスの市街を毒々しく彩る看板やネオンサイン、また折衷様式の建築に共通する「悪趣味」で「俗悪」な性質のなかに、一義的なモダニズム建築とは異質な、その土地に見合った機能性や合理性を見出して高く評価したのだった。そして、発表当時建築界で激しい反発を受けたこの議論は、その後の状況の変化により、原著の副題でもある「建築における忘れられた象徴主義」をいちはやく再発見した書物として、今や古典にも挙げられるようになったのである。
この鮮やかな評価の反転は、七〇年代後半以降のポストモダニズムに対する関心の高まりによってもたらされたものであった。言うまでもないことだが、ル・コルビュジエやミースによって代表されるモダニズムの建築言語は、合理性や普遍性を最優先した機能や構造によって成り立っている。要するに、それは地域性などを一切考慮しない一義的で閉鎖的なシステムなのである。ヴェンチューリらが注目したのもこの盲点、すなわち、従来のモダニズム建築観に従う限りは蔑視されるしかないラスヴェガスの「悪趣味」で「俗悪」な要素だった。これらの諸要素を介した新たなコミュニケーションの可能性は、チャールズ・ジェンクス以降のポストモダン論で決まって俎上に載せられる話題でもあり、『ラスベガス』の指摘はその先駆性もあって大いに注目を集めたのである。
なかでも、ここでの主題であるパブリック・アートの問題へと引き寄せた場合、「商業的ヴァナキュラー」という指摘はひときわ示唆に富むものである。一般的な英和辞典などではまず「その土地に特有の〜」「現地の〜」といった説明を与えられているvernacularだが★一二、ヴェンチューリらはこの言葉にさらに、アカデミックで構造的なモダニズムの建築言語と対置されるべき性格を付け加えて用いている。とどのつまり、その「悪趣味」で「俗悪」な建築言語は、これといったアカデミックな裏づけなしに、ネヴァダ州の砂漠の真ん中という過酷な環境下で、同業者同士で激しく客を奪い合うという商業上の必然性によって促され、成立した点で「その土地に固有の」言語であるというわけだ。加えてヴェンチューリらは「芸術家にとって、新しいものを創ることと既存のものから選択することが同義である場合がある」★一三とも述べ、必ずしもまったくの独創(これもまたモダニズムが至上のものとして奉る価値観だ)に拠らなくとも、所与の環境にちょっとした工夫を加えることで、既存のものと異なる新しい建築言語を導入することができるのだと示唆している。その土地の固有性を学び、その固有性との対話によって新たな建築言語を発見して共同性を表現すること。「商業的ヴァナキュラー」が切り開いたこの──後にポストモダンと呼ばれることになる──可能性は、まさしくコミュニケーションの問題として考えられるべきものである。その可能性は、もちろんラスヴェガス以外の他の地域にも当てはまることだし、また必ずしも景観という視覚的な領域だけではなく、マリー・シェーファーが「サウンドスケープ」と呼んだ都市の音環境においても探ることのできるものだろう★一四。
もっとも『ラスベガス』の読解に当たっては、留意しなければならない点もある。確かに、同書が具体的に紹介する「商業的ヴァナキュラー」に裏打ちされた建築言語は、機能や構造など多くの点でモダニズムの建築言語と鋭く対立する。だがそこに、一義的なモダニズムへの破壊衝動、あるいはモダンからポストモダンへの単純な移行を見て取って済ますのではあまりも粗雑かつ性急な態度だろう。ヴェンチューリの次の一言は、あたかもそうした皮相な解釈を戒めるかのようである。

アンリ・ベルクソンは無秩序を目に見えぬ秩序と呼んだ。〈ストリップ〉における秩序は混沌としている。それは、都市再開発計画とか流行のメガストラクチャーの「トータル・デザイン」に見られるような、分かり易く厳密な秩序とは異なるものであり、逆に建築の理論上は反対方向の表われであると考えられる。(…中略…)〈ストリップ〉の秩序はすべてを包含してしまう秩序だと言える。それは何もかも受け入れてしまう★一五。


浅学にして私は、ベルクソンがいつ・どこで目に見えぬ秩序を語ったのかを知らない。だが不幸中の幸いで、それをある時空の中で諸々の意識が同時に相互浸透していく質的多様性の問題とみなすことによって、ここでの主題である都市空間論の問題にシフトしうることならば辛うじてわかる。若林幹夫は、この「ストリップ」[図3・4]を(モダニズムの典型?でもある)万国博覧会やデパートなどが現出するパノラマ的な世界観と比較し、「前者が透明で均質な広がりの中に対象の全体的な像を浮かび上がらせようとするのに対して、後者は複数の断片的なイメージの組み合わせとして(…中略…)環境空間を新たに構成しようとする」★一六とその差異を分析し、加えて「ラスヴェガス的な商業的ヴァナキュラーの風景の根底には、パノラマ的な知覚が文字通り深層構造として作動している」★一七ことを指摘している。「商業的ヴァナキュラー」の建築言語が、単にモダニズムと対立し離脱・破壊しようとしているのではなく、実は一方でモダニズムの機能性・合理性を利用しながら、もう一方ではポストモダンなコミュニケーションの可能性をも追究する「二重性」を帯びたものであることを思えば、この指摘はこのうえなく適切なものと言えるだろう。そして今までに検討してきた「商業的ヴァナキュラー」の可能性は、ここでの主題であるパブリック・アートの問題にもほとんどそのまま当てはまる。一九八〇年代にはクシシトフ・ウディチコのメディアアートやマーサ・ロスラーのパフォーマンスのような先鋭的なアート作品を通じて問われ★一八、インターネットの普及した現在まで連綿と引き続くパブリック・アートの議論──おそらくその図式は、「サイト・スペシフィック」や「アースワーク」に代表される美術館外美術が台頭した一九六〇年代に、言わばそれらの表現のマトリックスとして登場した「商業的ヴァナキュラー」によって、すでに問われていたものだったのである。

3──ラスヴェガスのストリップ(写真)

3──ラスヴェガスのストリップ(写真)

4──同(図面)出典=R・ヴェンチューリほか『ラスベ ガス』

4──同(図面)出典=R・ヴェンチューリほか『ラスベ
ガス』

公共空間と私有空間──インターネット時代におけるその様相

パブリック・アートをめぐる最大の逆説、それは何と言っても「パブリック」の二重性にあるだろう。古代の洞窟壁画や宗教芸術を例に出すまでもなく、アートとは本来パブリックな性質を帯びたものであって、たとえどんなプライヴェートな表現であっても、原理上その本質は変わるものではない。ところが「パブリック・アート」は、あたかも屋上屋を架すかのように、本来「パブリック」であるはずのアートに対して、さらに「パブリック」な価値を付与しようとする。ひとたび(ときに脱社会的・反社会的な表現が為されることもある)アートの特権性を保証しながら、それを既存の制度のなかであらためて社会的に認知させようとする「パブリック・アート」は、それ自体きわめてパラドキシカルな捩れを孕んだ概念だと言うべきであろう。
ではなぜこのようなパラドキシカルな事態が起こるのだろうか? その最大の原因として挙げられるのが美術館の存在である。端的に言って、美術館とはアートの公的価値を保証するための装置である。レディ・メイドの便器を持ち込んで《泉》と命名したデュシャンの行動が如実に示す通り、原理上は「美術館に展示されれば、なんだって芸術になる」ことになる。ところが、一見ニュートラルな美術館の空間には、その実きわめて閉鎖的な側面がある。美術館の根幹をなすアーカイヴァルな機能、すなわち分類と収集という機能は言い換えれば選択と排除の機能でもあって、その都度その都度任意の基準によって、「アート」と「アートならざるもの」とが区分けされてしまうし、またひとたび美術館に収集されたアートは、今度はそのなかに隔離され、国家や社会との接触を妨げられてしまう。美術館の外部で展開されるアートが「パブリック・アート」と呼ばれている事態は、その意味では、アートの公的価値を保証する美術館機能の矛盾と限界に対応しているとも考えられるだろう。
この逆説に最も本質的な水準で対応した議論のひとつが、ユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』である。同書では、ごく大まかには一八世紀の半ばにおいて成立した近代的な公共性が、一九世紀を通じて民主化され、そして二〇世紀には衰退していくという仮説の下に、それをいかにして再建するのかという議論を展開し、またそのプロセスで「公共圏(⑼fentlichkeit/英訳ではpublic sphere)」という概念の重要性を説くハーバーマスは、アートの問題をも議論の射程に含めて次のように述べている。

芸術は、社会的具現の機能から解除されて、自由な選好と移り変わる好尚の対象となる。それ以来、芸術は「趣味」に即し、これが機能にこだわらぬ素人の批評において表明されるようになる。というのは、公衆の中では、だれでもその資格を言い立てることができるからである。(…中略…)美術館は、演奏会や劇場とおなじように、芸術についてのアマチュア批評を制度化するのである★一九(傍点は引用者)。


一部の王侯貴族による専有から解放された美術作品が、美術館で広く一般に公開されること──それがディドロ以降の美術批評の誕生を促したことは美術史上の常識だが、そんな初歩的な常識を知らぬはずもないハーバーマスは、加えてここに「制度化」という視点を導入し、中世末期に家族的な親和性のもとに成立し、やがて文芸や政治へと広がり、ついにはリベラルな国家統治の組織的原理にまで発展した「公共圏」の圏域に、アートをも位置付けるのである。とすれば、アートの公的価値を制度化してしまう美術館の存在が、ハーバーマス的視点から批判の対象とされるのは当然のことだ。そしてその批判の鉾先は、美術館ばかりではなく、まだ未成熟な景観事業や失業対策の域を出なかった初期(一九六〇年代以前?)のパブリック・アートにも及んでいく。
もっとも、この「公共圏」という視点によって示された美術館批判は、当の美術館による新たな制度化をも生むことになった。一九六〇年代以降のアートシーンは、すでに分析を加えたミニマリズム/ポストミニマリズムや「商業的ヴァナキュラー」をはじめ、インスタレーションやアースワーク、あるいはCoBrAをはじめとするシチュアシオニスト・インターナショナルの「漂流」や最新のメディア・テクノロジーを利用した活動など、さまざまな美術館外美術を生み出したのだが、これらのことごとくは比較的早期に美術館のプログラムとして取り込まれることになったのである。アメリカに数多く登場した「コミュニティ・ミュージアム」も、あるいは最近の「ヴァーチュアル・ミュージアム」も、そうした制度化の一環と考えられるだろう。仮にパブリック・アートの本質が公共空間と私有空間との対比で考えられるのだとすると、新たな美術館外美術の台頭による公共空間の拡張と、すぐさまその後を追いかけてアーカイヴの中に収めようとする美術館の私有空間化の関係、およそいたちごっこのような観を呈しているわけである。
だが果たして、パブリック・アートの本質は公共空間と私有空間の対比によって理解されうるものなのだろうか? 少なくとも、屋内が私有空間で屋外が公共空間、家庭は私有空間で学校や職場は公共空間といった粗雑な二項対立では、この難解な問題に到底太刀打ちできないことは明らかだ。冒頭に記したハンナ・アレントの一文は、この堅固な二項対立が古代ギリシアの昔にまで遡ることを示しているのだが、アレントはまた別の場所で、公共空間と私有空間の区別以前に、公共空間そのものの意味を二つに分けて考える必要性を説いている。
 

公 的パブリック」という用語は、密接に関連してはいるが完全に同じではないある二つの現象を意味している。第一にそれは、公に現れるものはすべて、万人によって見られ、聞かれ、可能な限り最も広く公示されるということを意味する。(…中略…)第二に、「公 的パブリック」という用語は、世界そのものを意味している。なぜなら、世界とは、私たちすべての者に共通するものであり、私たちが私的に所有している場所とは異なるからである★二〇。


そこかしこに存在はしているが、誰に対しても所与のものとして開かれているわけでなく、積極的な介入によって、はじめて分有されるべき共同性を帯びた世界として出現する公共空間──古代ギリシアのポリスの政体を範と仰いだアレントの「公 共パブリック」観は、きわめてインタラクティヴなものである。そして、ハーバーマスなら「公共圏」と、また(ここで検討する余裕はないが)レヴィ=ブリュールなら「融即」と呼んだものともほぼ一致するこの性格は、実はパブリック・アートといった場合の「パブリック」にも当てはまるものではないだろうか? その「パブリック」な性質とは、ただ漫然と都市空間の中に存在するのではなく、観客=市民の積極的な関与によってはじめて共同性を獲得し、分有されるべきものではないのだろうか? 今回検討を加えてみたいくつかの事例は、いずれもそうした共同性と分有の在り方を示すもののように思われる。
ところで、今しがた「そこかしこに……」という定義を与えたばかりの公共空間の性質は、今やわれわれにも馴染み深いある新しいメディアのことを彷彿させるだろう。そう、原理上誰に対しても開かれているが、観客の積極的参加なしにはけっしてその共同性が明らかにならない新しいメディアとは、どう考えてみてもインターネットのことではないか! 本来は軍事目的で開発されたインターネットが、www、HTMLそしてブラウザの登場によって商用を開始したのは一九九二年のこと。この常に更新およびアクセス可能で、またグローバルなネットワーク機能を持った新しいメディアはたちまち数多くのアーティストを虜にし、わずか一〇年のうちに膨大な「ヴァーチュアル・ミュージアム」や「ネットアート」が構築されるにいたっている。明確な基準が確立されていないため、個別のアーティストや作品の評価は未だ難しいものの、今やインターネットは「メディウム・スペシフィック」な表現にとって格好の展開の場となっているのだ。そしてそのようなインターネットというメディアは、当然ながらパブリック・アートに対しても重大な示唆をもたらすはずなのである。

「モダン・アート」が出現した時代に「古典的」と言われた芸術の歴史が加速した。そして現在、「現代的」と言われる芸術の現実が加速している。われわれは「サイバーカルチャー」の時代を迎えたわけだが、まもなく到来するであろうヴァーチュアル芸術に対抗してアクチュアル芸術が出現した。(…中略…)一方で役者や観客という存在が問い直され、他方で作家と鑑賞者について問いかけが行なわれる。演劇の舞台の再検討についで、芸術の場所の再検討が行なわれる。こうしたことすべては前例のない変化の兆しにほかならない。サイバーカルチャーが出現する時代になって、文化の時間性の秩序が根本的に変化しつつあるのだ★二一(強調は原文/傍点は引用者)。


ポール・ヴィリリオは、インターネットを背景とした昨今の芸術の変化についてこのように述べている。ここで言う時間性とはインターネットによって接続され、グローバル・アクセスによって一元化された「世界時間」のことであるが、今や日本でも著名なこのカトリックのメディア論者が、公共性の表現は映像メディアが産み出す「パブリック・イメージ」へと委ねられるプロセスを辿っている★二二という持論の主であることを思えば、この一文もまた、美術の公共性は今後(インターネットが象徴する)「ヴァーチュアル芸術」へと委ねられるという主張として理解しうるかもしれない。だがあくまでも「ヴァーチュアル芸術」と「アクチュアル芸術」とを対置し、そしてそれを止揚する形で問いかけがなされているこの一文の構造には注意しておく必要があるだろう。もちろん、すでに述べた通りインターネットは公共性という観点において画期的なメディアであるし、ヴィリリオの議論がそうした前提を踏まえていないはずもない。だが「芸術の場所」の再検討を説くヴィリリオの主張の核心は、ヴァーチュアル芸術へと一切の公共性を委ねてしまうことではなく、「グローバル」と「ローカル」、「場所」と「非場所」、「世界時間」と「地域時間」といった具合に、どこまでも対比的な「ヴァーチュアル芸術」と「アクチュアル芸術」の関係を止揚した上で公共性を探ろうとすることにあるのではないだろうか?
何とも興味深い問題であり、またここまできてようやく公共性のマトリックスに触れたかすかな手ごたえも感じられるのだが、残念ながらそれをさらに展開するだけの余裕はない。その代わりに、この一文を締めくくるに当たって、「ヴァーチュアル芸術」における公共性の問題を象徴的に示し、さらには「美術と建築」というここでの主旨にも適った画期的なアートプロジェクトとして、《ヴェクトリアル・エレヴェーション》★二三のことを紹介しておきたい。日本の文化庁主催のメディア芸術祭で優秀賞を受賞した作品★二四としても知られるこの《ヴェクトリアル・エレヴェーション》は、メキシコ系カナダ人のメディア・アーティストであるラファエル・ロサノ=ヘメルを中心に多くのプログラマーが参加して、一九九九年末—二〇〇〇年初頭の約二週間メキシコ・シティのゾカロ広場を舞台に展開されたプロジェクトである。具体的には、広場の四辺に位置するナショナルパレス、シティホール、大聖堂、アステカ寺院から放射される一八本のサーチライトによって、広場の上空に巨大な光のインスタレーションを実現する壮大なものであった[図5]。ちなみに、webのユーザーは光源に接続されているインターフェイスへとアクセスすることで自分のデザインを伝達することができ、多くのユーザーからデザインを伝達された光のインスタレーションは、絶えずその様相を変化させていくほか、その変化のプロセスもまたウェブカメラを通じて伝達されていく。かつてアルベルト・シュペーアが演出したナチス党大会のスペクタクルを彷彿させるその「光の建築」の光景が、しかしそのインタラクティヴな本質においてまったく異なっていることは言うまでもないだろう。
メディア芸術祭での受賞に際して、ロサノ=ヘメルは「ヴェクトリアル・エレヴェーションは地理的な制約から解き放たれた世界の、文化的な相互依存を表わすインスタレーション作品です」と述べている★二五。さしあたりは、グローバル・アクセスを可能とするインターネットの「メディウム・スペシフィック」な性質を考慮した無難なコメントだ。だが注意すべきなのは、ロサノ=ヘメルの言う「文化的な相互依存」には、おそらく空間ばかりでなく時間の拡がりも含まれていることである。周知のように、メキシコはかつてのアステカ帝国の栄光からスペインによる植民地統治を経て現在に至る歴史を持っており、プロジェクトの会場でもあったゾカロ広場やその四辺のモニュメンタルな建築物は、いずれもそうした歴史の堆積を象徴している。広場上空の光のインスタレーションは、そうした過去と現在との交錯した感情移入、言うなれば相互浸透をも可能にするものなのである。そしてそれは、「グローバル」と「ローカル」、「場所」と「非場所」、「世界時間」と「地域時間」といった、先に挙げた「ヴァーチュアル芸術」と「アクチュアル芸術」の間の相互浸透でもあるだろう。このヴァーチュアルなものとアクチュアルなものとの相互浸透こそが、ここで《ヴェクトリアル・エレヴェーション》を画期的なプロジェクトとして参照した所以なのである。
かつて六〇年代のミニマリズムや「商業的ヴァナキュラー」が都市空間の中に求めた公共性──本格的なサイバーカルチャー時代を迎えた二一世紀、それは当時予測もしえなかった表現形態の中に探られようとしている。ジャッドやヴェンチューリらとこの《ヴェクトリアル・エレヴェーション》は表現としてはあまりにも隔たっているし、両者の間にもちろん直接の因果関係は存在しない。しかしこの両者は、ともにそれぞれの時代の文化的な諸条件を背景に、また公共性という概念を軸に、美術と建築の対比的にして類比的な関係に対応している点では紛れもなく通底している。そして美術と建築の連綿とした関係は、今後もまたさまざまな軌跡を描き出すのに違いない。

5──《ヴェクトリアル・エレヴェーション》によってライトアップされたゾカロ広場上空 URL=http://www.alzado.net/efotos.html

5──《ヴェクトリアル・エレヴェーション》によってライトアップされたゾカロ広場上空
URL=http://www.alzado.net/efotos.html


★一──Hal Foster, Return of the Real:The Avant-Garde at the End of Century, The MIT Press, 1996, p.43.
★二──フリードはミニマリズムを構成する特質として、人体的スケール、場に依存し、観者に所有される作品の経験、作品を享受するために必要な現実の持続的な時間などを挙げ、これらの特質がきわめて演劇的なものだと批判を加える。「リテラリズムの芸術」という批判の要諦は、ミニマリズムがモダニズムにふさわしからぬ不純な表現形態だということに尽きるのだ。詳細は「芸術と客体性」(川田都樹子+藤枝晃雄訳、浅田彰ほか編『モダニズムのハードコア』、太田出版、一九九五年に所収)を参照のこと。
★三──ドナルド・ジャッド『建築』(大島哲蔵訳、ギャラリー・ヤマグチ、二〇〇〇)、一三三—一三四頁。ちなみに、ジャッドが最終的に美術を選択したのは「建築の場合は顧客や一般大衆を相手にする必要があった」からというきわめて世俗的な理由によるものだったらしい。
★四──実際にマーファを訪れた者のレポートは、そろって周囲の環境を自分好みのものに手なずけようとしたジャッドの強い欲望を指摘している。例えば大島哲蔵「ミニマリズムとアーバニズム Donald Judd in Marfa」(『SD』一九九七年三月号)、尾佐智子「作品の場をめぐって──ドナルド・ジャッドの実践を中心に」(『SD』一九九九年四月号)、梅津元「経験の純粋化──ドナルド・ジャッドの芸術について」(「Donald Judd」展カタログ、埼玉県立近代美術館、一九九九)などを参照のこと。
★五──ジャッド、前掲書、一三五頁。
★六──この作品に関するもう少し詳しい記述としては、拙稿「場に住む・サイト・スペシフィック」(川俣正ほか編『PRACTICA1──セルフ・エデュケーション時代』、フィルムアート社、二〇〇一)を参照のこと。
★七──Clara Weyergraf-Serra and Martha Buskirk(eds.), The Deconstruction of Tilted Arc: Documents , The MIT Press 1991,  p.67.
★八──Douglas Crimp, On the Museum’s Ruin,The MIT Press, 1993, p.160.
★九──旧西ドイツのキリスト教民主同盟(CDU)は、セラの作品のそうした性格に注目して、彼の彫刻作品《ターミナル》をそのまま重工業のイメージとして流用したキャンペーン・ポスターを制作したことがある。詳細はCrimp, op,cit., pp.169-171. を参照のこと。
★一〇──H・H・アーナスン『現代美術の歴史』(上田高弘ほか訳、美術出版社、一九九五)五六〇頁。
★一一──Crimp, op.cit., p.182.
★一二──イヴァン・イリイチよれば、vernacularの語源はラテン語のvernaculumであり、それは「家で育て、家で紡いだ、自家産、自家製のものすべてにかんして使用されたのであり、交換形式によって入手したものと対立する」という意味で用いられる言葉だったという。『シャドウ・ワーク』(玉野井芳郎+栗原彬訳、岩波書店、一九九〇)一二七頁。
★一三──ロバート・ヴェンチューリほか『ラスベガス』(石井和絃+伊藤公文訳、鹿島出版会、一九七八)二八頁。
★一四──R・マリー・シェーファー『世界の調律──サウンドスケープとはなにか』(鳥越けい子ほか訳、平凡社、一九八六)を参照のこと。
★一五──ヴェンチューリ、前掲書、八九頁。
★一六──若林幹夫『都市のアレゴリー』(INAX出版、一九九九)二七八頁。
★一七──同書、二七九頁。
★一八──奇しくもこの両者は、一九八七年にニューヨークで開かれた公開シンポジウムに参加、ニューヨーク下町の地上げに反対する一方で、パブリック・アートによる公共空間の積極的な活用を提言している。その記録は、Hal Foster(eds.), Disucssions in Contemporary Culture, Bay Press, 1987.を参照のこと。
★一九──ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換──市民社会の一カテゴリーについての探究』(細谷貞雄+山田正行訳、未來社、一九九四)六〇—六一頁。
★二〇──ハンナ・アレント『人間の条件』(志水速雄訳、ちくま学芸文庫、一九九四)七五—七九頁。
★二一──ポール・ヴィリリオ『情報化爆弾』(丸岡高弘訳、産業図書、一九九九)一六八—一六九頁。
★二二──これと同趣旨の主張は、例えばフランスにおけるパブリック・イメージの変遷を検討した“L’image-publique” in La Machine de Vision, Galilée,1988, pp.75-99のなかに窺われる。またこの問題に着目した議論としては、上野俊哉「スペクタクル、キャンプ、ヴェクトル」(『現代思想』二〇〇二年一月号所収)が挙げられる。
★二三──作品の正式名称はVectorial Elevation, Relational Architecture #4、公式URLはhttp://www.alzado.net/で、ロサノ=ヘメルのホームページURLはhttp://lozano-hemmer.com。なお同作の紹介には、四方幸子「コネクティヴ・プロセスとして──ネット上の美術館」(太田泰人ほか編『美術館は生まれ変わる──二一世紀の現代美術館』、鹿島出版会、二〇〇〇に所収)を参照した。
★二四──同作品が授賞したのは二〇〇〇年度のデジタルアート(インタラクティヴ部門)の優秀賞。ちなみに同部門の大賞を受賞した作品はゲームソフト「ドラゴンクエストVII──エデンの戦士たち」である。
★二五──http://www.cgarts.or.jp/festival2000/winning/int/vectorial.html

>暮沢剛巳(クレサワ・タケミ)

1966年生
東京工科大学デザイン学部。東京工科大学デザイン学部准教授/美術批評、文化批評。

>『10+1』 No.27

特集=建築的/アート的

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>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>若林幹夫(ワカバヤシ・ミキオ)

1962年 -
社会学。早稲田大学教育・総合科学学術院教授。

>大島哲蔵(オオシマ・テツゾウ)

1948年 - 2002年
批評家。スクウォッター(建築情報)主宰。

>上野俊哉(ウエノ・トシヤ)

1962年 -
社会思想史、メディア研究。和光大学教授。

>四方幸子(シカタ・ユキコ)

キュレーティング、批評。東京造形大学特任教授、多摩美術大学客員教授、IAMAS(国際情報科学アカデミー)非常勤講師。