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「更地と集合住宅」──多摩丘陵におけるニュータウンと集合住宅の分節 | 塚本由晴
Vacant Lots and Communal Housing | Tsukamoto Yoshiharu
掲載『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) pp.67-75

ニュータウンに行くと感じることがある。それは、これは建築のロマンなのか? 土木のロマンなのか? それとも政治のロマンなのか? ということである。そんな問題のたてかた自体間違っている、それはすべてにとってのロマンなのだと自分に言い聞かせてみるのだが、やはり納得できない何かが残る。特に海浜部の埋立地に建設されるニュータウンなどでは[図1]、インフラストラクチャーが整備されただけの高性能な更地が潜在化させている都市の可能性に、期待とともに感動さえ感じることがある。更地に付された「基盤」という呼び名に対して少し軽蔑的ニュアンスを込めて「上もの」と呼ばれる建築は、ここではただ都市的な密度を作り出すだけの要素であり、計画の出来やデザインなどはもうどうでもよいのではないか? と自問するうちに、建築家や都市計画家の都市を思い描く想像力は、こうした更地を作り出す担保や保証にすぎなくて、われわれが本当にしたいのは新しい都市の建設ではなくて、現実の都市の破壊なのではないか? などと思えてくるのである。

1──幕張の埋立地

1──幕張の埋立地

ニュータウンと集合住宅

何もないところから都市を作り上げていくニュータウンは、その開発の段階によって異なった都市像を結んでしまう。それはおもに都市的な機能の充足度として、具体的には鉄道や道路などのインフラストラクチャーや集合住宅、商業施設、公共施設などのビルディングタイプによって表わされる。その過程は、まず土地が造成され、次に集合住宅団地か戸建て住宅団地が建設され、そこに鉄道が通って都心と結ばれることでベッドタウンになり(住宅と鉄道の前後関係は逆転することがある)、次に学校や商業施設や公共文化施設が、さらには職住接近のための業務施設等が建設されるにいたって、普通の都市になっていくというものである。区画整理された宅地が住宅だけで覆い尽くされ、集合住宅が均質に並ぶ風景は、こうした開発過程の初期にみられる都市的な機能分節の未熟さやアンバランス、つまり都市としての幼年性の現われであり、それは機能的な飽和状態にある普通の都市になれてしまった目には、異様に人工的な、人為的な光景として映るのである。
だからニュータウンには必ず人が住むためのマッスがあり、それがニュータウンの基礎を形成し、その後の発展のなかで都市の地となる。土木的には造成された宅地が、建築的には主に集合住宅というビルディングタイプがこれに対応する[図2]。ニュータウンを評して戦後住宅の変遷史と呼ぶのもこのためである。多摩ニュータウンだけとってみても、住宅の標準設計・大量供給時代の寸縮みの団地サイズの住宅(八〇〇ミリをモジュールとした住宅)、寸縮みを解消した九〇〇モジュール住宅、ボックス型高層住宅、2DKメゾネット型高層住宅、七〇年代後半には都市型低層集合住宅「タウンハウス諏訪」[図3]や、準接地住宅「メゾネット永山」、傾斜屋根の高層住宅「グリーンメゾン諏訪」、八〇年代には低層フリープラン・フルメニュー方式、八〇年代後半にはアルファルーム、プラスワン住宅などが、そして九〇年代には「ベルコリーヌ南大沢」「ライブ長池」[図4]「ファインヒル稲城」などの景観重視の街づくりが登場している。そこに見られる計画のテーマは、第二次世界大戦後の都市部への人口集中がもたらした大規模な住宅難、宅地難に対応した大量供給時代のプロトタイプや合理化の提案から、オイルショック以降の社会構造の変化に対応した質の向上、画一化の克服のための間取りの多様性、柔軟性の提案を経て、集合住宅の外観や配置・外構計画による多様性あるまちづくりの提案へ移行し、現在に至っている。これはそのまま日本の集合住宅というビルディングタイプにおける建築的なテーマの推移であることから考えれば、集合住宅に関する建築的な文脈というものも、ニュータウンを実践の場として作られてきたといえるのである。
しかしそのなかで建築的に評価できる、つまり集合住宅の問題を空間構成などの面からラジカルに追及したもの(つまり世界的な評価に値するもの)はごくわずかだということも、一部の建築家の間では語られている。最近では細川現首相が熊本県知事時代に推進した「くまもとアートポリス」での建築家による集合住宅の提案が、マスコミによって盛んに取り上げられ注目されたことが記憶に新しい。しかし一般に獲得されたとされている集合住宅の多様性とは何か。それは単純に言えば、nLDKの間取りによるタイプ数の多さや、表層的な記号の分節、そして架空のコミュニティのための外部空間の演出であったりする。しかし今や民間のディベロッパーにとっても、住戸平面のバリエーションを一つでも多く増やし、「やさしい」「暖かみのある」イメージがするかたちを好み、「アメニティ」「コミュニティ」を夢想することはあたりまえになっている。このどれが、集合住宅の本質的な問題なのかがわかりにくくなっているのが現代ではないだろうか。それを裏付けるように建築家の間ではよく、「外側ができればよし」とか、「住戸プランはがんばれない」といった、建築家が現実の経済性や商業性に屈したかのようなニュアンスや、集合住宅に対するある種の絶望感を含む言葉が聞かれる。
舞台を一九六〇年代後半の多摩田園都市に移そう。オイルショック前のほんの短い期間だけ、建築家が夢に燃えて集合住宅を設計したり計画していた時期があった。そこに、高度成長を背景にした楽観的な、そして能天気とさえいえる未来指向が感じられるのは確かだが、だからこそ現在ニュータウンに建設されている集合住宅とは違う方向性をもっていた。それらは実際に建設されず、プロジェクトに終わったのものがほとんどであるが、わずかながら建設されたものもある。そこで、実際に建設された計画と実現されなかった計画をつなぐ糸を辿ることによって、これらの計画を現実の風景のオルタナティヴとしてとりだしてみようというのが、ここでの試みである。

2──開発当初の多摩ニュータウン

2──開発当初の多摩ニュータウン

3──タウンハウス諏訪

3──タウンハウス諏訪

4──ライブ長池

4──ライブ長池

多摩田園都市一九六五

一九五〇年代のはじめから準備が進められ、一九六一年に最初の宅地の販売によって幕を開けた多摩田園都市は、東急と地元の地権者が組合をつくり、土地区画整理事業によって宅地造成を行なう開発方式をとっている。土地区画整理事業は一般的にいって、多大な時間と住民説得の努力によって進んでいく事業である。東急は鉄道の敷設と前後して土地を取得し、鉄道の開通によって土地の価格を上昇させ、それを宅地化して販売するのであるが、この地価の上昇が逆に開通後の土地取得を困難にしたこともあって、大規模な面開発を前提とした都市計画は不可能であった。そこで、いかに人口を定着させ街づくりをするか、そのヴィジョンを模索するために、一九六五年から東急の開発事業部とメタボリストの大スターである菊竹清訓による東急開発ヴィジョン研究会がもたれた。当時は田園都市線敷設に伴い虫食状に四つの地域が開発されており、各ブロックごとに土地区画整理事業が行なわれ、すでに土地の形状や道路網はほとんど決定したあとであった。そこで、上ものである建築物の配置により、地域の自然発生的な開発の力を刺激し、誘導しようとという構想がたてられ、集積効果の高い拠点とそれを結ぶネットワークによる拠点開発方式(チャンネル開発方式)の「ペアシティ計画一九六五」がまとめられた。これは白木屋(現東急本店)での「多摩田園都市展」にも出展され、「都市の最終像は示せない」という認識にもとづいた、メタボリックな発展を目指すものであった。拠点は集積の度合によって三段階のスケールに分けられ、これらを緑道(グリーンネットワーク)と道路レヴェルに設けられた商店街(ショッピング・ネットワーク)がつなげるという提案であった。第一段階の拠点は生活道路の辻一〇〇〇メートルごとに、店舗、案内掲示板、電話、ポスト、街灯、バス停などと住戸数五〇戸以下を設置するクロスポイント、第二段階の拠点は三〇〇戸の住居を上部に、商業施設や公的な性格を持った施設を下部に配した集合住宅であるヴィレジ、第三段階の拠点はペアシティを縦貫する東急田園都市線の各駅に建設される三〇〇戸以上の住戸を含む駅複合ビルであるプラザである。最初のプラザである青葉台駅複合ビルは、日本住宅公団の市街地住宅の適用で下部を駅舎・ショッピング、屋上を広場・パーキングとし、上部に六〇〇戸の住居を持つ形で、このときすでに建設されつつあった。
このヴィレジ計画として一九六〇年代後半から一九七〇年代初めにかけて、桜台ヴィレジ(一九六九、店舗+集会施設+一二四戸)、桜台コートヴィレジ(一九七〇、四〇戸)、そして宮崎台ヴィレジ(一九七一、一一四戸)という三つの集合住宅が建設された[図5〜7]。設計者は菊竹清訓事務所でペアシティを担当した後、退所して自らの事務所を設立したばかりの内井昭蔵で、このうち桜台コートヴィレジは、彼の事務所の最初の仕事であった。その敷地はともに平均勾配が二〇度を超える北側急斜面であり、通常の宅地造成という土木的な方法で雛壇状の開発をしたとしてもとても商品にはならないような、区画整理事業で残った保留地であった。東急内部でも何度か案を作ったが採算があわず、自然の斜面のままに放置されていたという。当時すでに多摩田園都市のほとんどは雛段状にブルドーザーで均されており、自然の地形は破壊されつつあったのだが、ここだけはわずかであるが多摩丘陵の自然な面影が残っていた。この悪条件こそが創造的な住宅を作る絶好のチャンスだと、桜台コートヴィレジの敷地を見た内井昭蔵は興奮したという。こうしてこの三つの集合住宅は、斜面を克服し、住むための良好な環境を組織するという大きな共通の目標を持つことになった。
三つの集合住宅の計画を比較して見ると、敷地の条件以外にもいくつかの共通点が見られる。それらは、敷地中央に住棟によって囲まれた中庭あるいは通路を設けてコモンスペースにし、グリーン・ネットワークの一部とすることや、さらに日照やプライバシーに対する配慮からファサードを雁行させることなどである。しかし斜面に対する接地性に注目すると、桜台コートヴィレジだけが他の二つの計画から異なっていることがわかる。宮崎台ヴィレジでは塔状の住棟を構成する壁が斜面から突き出したように立ち上がっており、桜台ヴィレジでも大きなバルコニーの張り出しがその見えがかりを弱めてはいるものの、やはり壁が斜面から突き出したように立ち上がっている[図8]。この二つでは斜面に対する壁による接地性が強調されているのに対して、桜台コートヴィレジでは斜面に張り出したスラブが、上下で平面的にずれながら全体を覆っており、斜面に対するスラブによる接地性が強調されている[図9]。もちろんこの差異には各計画に盛り込まれた住戸数や一住戸の規模といった条件の違いが影響していると思われるが、それでかたずけてしまうわけにはいかないような、建築家にとっては決定的に異なる二つの想像力が示差されているように思われる。そしてこの違いが、その後多摩丘陵のニュータウンに建設された集合住宅の方向性を予言することになる。

5──宮崎台ヴィレジ

5──宮崎台ヴィレジ

6──桜台コートヴィレジ

6──桜台コートヴィレジ

7──桜台ヴィレジ

7──桜台ヴィレジ

8──桜台ヴィレジの中庭

8──桜台ヴィレジの中庭

9──桜台コートヴィレジの中庭

9──桜台コートヴィレジの中庭

「都市住宅の再構築」一九七一/菊竹清訓

このころ、ペアシティ一九六五を計画した菊竹清訓事務所でも、クロスポイント、ヴィレジ、プラザの三種類の拠点それぞれについて、多摩田園都市内の現実の敷地を前提にスタディが続けられていた。これらは多摩田園都市に構想されたが最終的な実現にはひとつも至らなかった集合住宅のプロジェクトであり、集合住宅によって作られた現実のニュータウンの風景に対するひとつのオルタナティヴと言いうるものである。菊竹清訓はこれらの集合住宅を、自身の方法論である「か」「かた」「かたち」の「かた」として位置づけ、「都市住宅の再構築」(『新建築』一九七一年一一月号)と題して雑誌の特集にまとめている。ここで「かた」とは、建築のプロトタイプやシステムを指し、現実の設計作業である「かたち」はこの「かた」を立地条件や機能的要求に対応するように変形、修正することに置き換えられる(実際にいくつかの「かた」は特許もとったようである)。この特集の副題である──集合住宅を真に人間的な環境にするための〈セミパブリック・スペース〉の提案──が示すように、この一連の「かた」は集合住宅の住民にとっての共用空間である〈セミパブリック・スペース〉(最近はコモンスペースと言う)を中心課題として据え、それを個的空間と公共的空間の中間にいかに挿入するかという問いに対する解答として考えられたものであった。この個と公共の対立を調停する共用空間という問題のたてかた自体は、桜台コートヴィレジを計画した内井昭蔵を含めて当時から建築家の間で共有されてきたし、いまだに集合住宅を計画する際の建築家側からのアプローチの主流を形成し、その有効性をとく建築家はあとを絶たない。しかしここで問題にしたいのはこの問題構制そのものではなく、それがいかなる想像力のなかで思考されていたのかということである。
これらの「かた」は、樹状住居が南町田駅周辺に、板状住居が宮前平駅前にプラザとして、塔状住居が宮崎台駅前にプラザとして、段状住居が藤が丘にヴィレジとして、網状住居が桜台にクロスポイントとして、多摩田園都市の実際の地区をモデルに構想された[図10〜14]。これらの「かた」に共通しているのは、建築の設備や動線に当たる部分を、技術的には構造として、そして意味的にはインフラストラクチャーを含む街路として捉えて空中や斜面に展開し、そこに共用の広場と、パッケージ化された住戸ユニットを取り付けていくという、まさに当時のメタボリズムの手法そのものである。その空間の序列はまさにツリーであり、合理化、集約化、システム化が叫ばれた時代の牽引車のようである。しかし、もうひとつの共通性は、どの計画もスラブの構成に還元できるという、菊竹清訓のスラブに対するこだわりである。同じくメタボリストの黒川紀章がカプセルの建築家ならば、菊竹清訓はスラブの建築家なのだ。
このなかでも規模、技術、ともに現実性が高いと思われる段状住居は、藤が丘以外の地区でも多くのプロジェクトが計画され、それらのほとんどが傾斜地を敷地とするものであった。いや正確に言えば、多摩田園都市の丘陵地という地形が、菊竹清訓に段状住居という「かた」を発見させたと言えるのではないだろうか。丘陵を雛段状に造成してインフラストラクチャーを整備し、戸建て住宅を並べるという土木と建築にまたがった開発プロセスの土木的な部分をできるだけ建築的な分節にとりこみ、建築によって一挙に環境を組織することのダイナミズムを発見したのだ。そこには土木=「基盤」、建築=「上もの」という図式が前提となったヒエラルキーに対する、空間の設計による抵抗というモメントが含まれている。

10──樹状住居…「樹状住居のセミパブリックは、自然の住居を一つの装置モジュールとして捉え、それになぞらえて日常的機能および成長や変化に対応する空間装置をつくろうとするものである。五層分、二〇〜五〇戸を一つの単位としてその共有空間をつくり、その単位に必要なパブリックの要素をそこに設備してコミュニティの物的側面を形成する。また災害時の非難階としての機能をもたせる、その空間を軸として新しい社会的人間関係の可能性を拡げようとしている」。

10──樹状住居…「樹状住居のセミパブリックは、自然の住居を一つの装置モジュールとして捉え、それになぞらえて日常的機能および成長や変化に対応する空間装置をつくろうとするものである。五層分、二〇〜五〇戸を一つの単位としてその共有空間をつくり、その単位に必要なパブリックの要素をそこに設備してコミュニティの物的側面を形成する。また災害時の非難階としての機能をもたせる、その空間を軸として新しい社会的人間関係の可能性を拡げようとしている」。

11──板状住居…「板状住居は三層で一つの単位を形成し、中央にセミパブリック階がとられ、各住戸は上に置かれあるいは下に吊り下げられる。また棟の中央には設備の壁が縦にとられ、設備と構造を受持っている。いわば横のセミパブリックはソフトウエア、縦の設備の壁がハードウエアであり、両者の結合によって集合住宅としての有機性を確保しようというものである」。

11──板状住居…「板状住居は三層で一つの単位を形成し、中央にセミパブリック階がとられ、各住戸は上に置かれあるいは下に吊り下げられる。また棟の中央には設備の壁が縦にとられ、設備と構造を受持っている。いわば横のセミパブリックはソフトウエア、縦の設備の壁がハードウエアであり、両者の結合によって集合住宅としての有機性を確保しようというものである」。

12──塔状住居…「塔状住居においては垂直交通が主なサーキュレーションを構成するが、ここでの提案は垂直交通であるエレベーター、階段と各住戸を結ぶ通路を取囲むスペースを“風穴”と呼び、そこにセミパブリック・スペースを想定している。すなわちエレベーター停止階を中心にその上下各二層ずつの五層が一一単位となり、ここに各五〇〜六〇戸の住戸部分と共用サービス部分を設定する。各住戸では個室が外周・外気に面し、居間が“風穴”に面する塔状都市は“風穴”底部にあるプラットフォームとさらにその下にあるサービス避難階によって分節された空間単位の積層というシステムであり、そのシステムを有効に活動させるためセミパブリックとしての“風穴”が用意される」。

12──塔状住居…「塔状住居においては垂直交通が主なサーキュレーションを構成するが、ここでの提案は垂直交通であるエレベーター、階段と各住戸を結ぶ通路を取囲むスペースを“風穴”と呼び、そこにセミパブリック・スペースを想定している。すなわちエレベーター停止階を中心にその上下各二層ずつの五層が一一単位となり、ここに各五〇〜六〇戸の住戸部分と共用サービス部分を設定する。各住戸では個室が外周・外気に面し、居間が“風穴”に面する塔状都市は“風穴”底部にあるプラットフォームとさらにその下にあるサービス避難階によって分節された空間単位の積層というシステムであり、そのシステムを有効に活動させるためセミパブリックとしての“風穴”が用意される」。

13──段状住居…「段状住居ではネットワーク(横通路・縦階段など)を中心に公共施設と住戸の一部分をセミパブリック・スペースとして構成している。すなわち個室以外のすべての空間がセミパブリック・スペースとなるわけである。これらは段状に住戸を構成していくに従い、公共施設・ネットワーク・庭・居間という順にそのパブリックな性格を弱めて行く。そして個室はもっとも北側に配置される。その北側はオーバーハングしていて、ここにはパーキングやショッピング施設を配し、都市性をもたせている。段状住居はこの北側の都市性と南側の太陽や緑の接点として設定されるのである」。

13──段状住居…「段状住居ではネットワーク(横通路・縦階段など)を中心に公共施設と住戸の一部分をセミパブリック・スペースとして構成している。すなわち個室以外のすべての空間がセミパブリック・スペースとなるわけである。これらは段状に住戸を構成していくに従い、公共施設・ネットワーク・庭・居間という順にそのパブリックな性格を弱めて行く。そして個室はもっとも北側に配置される。その北側はオーバーハングしていて、ここにはパーキングやショッピング施設を配し、都市性をもたせている。段状住居はこの北側の都市性と南側の太陽や緑の接点として設定されるのである」。

14──網状住居…網状セミパブリックは低中層集合住居に適用される。ホール・通路・ピロティなどを網の目状に連続させ、パブリック広場までを内包していくものである。網状の長所として、このセミパブリックは比較的少数世帯の共有が容易で、共有する人達の選択や意思決定に適応しやすい」。

14──網状住居…網状セミパブリックは低中層集合住居に適用される。ホール・通路・ピロティなどを網の目状に連続させ、パブリック広場までを内包していくものである。網状の長所として、このセミパブリックは比較的少数世帯の共有が容易で、共有する人達の選択や意思決定に適応しやすい」。


「かた」から「かたち」へ

段状住居がその床による斜面への接地性を特徴とすること、そして段状住居の最初のケーススタディとなった藤が丘の計画のデザインチーフが内井昭蔵であったことから、桜台コートヴィレジが段状住居の「かた」の連続にあったことは想像に難くない。この想像は桜台コートヴィレジの計画案(『新建築』一九六八年三月号)を見るにいたって確信にかわる[図15]。この計画案では住戸プランは四五度に振られておらず、壁が雁行するファサードのかわりにスラブと壁が作る棚状の開口部全面にガラスがはめられているだけなので、段状住居の「かた」により近い姿となっている。しかし段状住居は南斜面を前提に構想されているので、それを北側斜面という敷地の条件にあわせる必要があった。それに加えて段状住居の「かた」に変形を加えたのが、集合住宅を戸建て住宅に近づけたいとする内井昭蔵の願望であった。内井昭蔵は戸建て住宅のもつプライバシーと日照を段状住居で成立させるために、プランを四五度振ったのである。その結果生じたファサードは、スラブによる接地性を残しながら屏風のような壁が斜面に対比されるこの建物のロマンチックな外観をつくりだした。また、斜面から迫り出したスラブの裏側には、その土木的な直接性を和らげるかのように、化粧目地による装飾的なパターンが刻まれている。こうしたことが、その後の二つの集合住宅での壁による接地性につながっていったのではないだろうか。
このように桜台コートヴィレジはまさに段状住居の「かた」に発して、これを現実の条件によって変形、修正してゆく「かたち」の設計だったのである。こうして内井昭蔵による桜台コートヴィレジは、段状住居の「かた」の最初の実現として一九七〇年の多摩田園都市に建設された。一方、菊竹清訓自身による段状住居の実現は、一九七五年に熱海に建設されたパサディナハイツを待たねばならなかった[図16]。
ここで注目したいのが集合住宅を戸建て住宅に近づけようという発想が、菊竹清訓にはまったくみられないということである。樹状住居、板状住居、塔状住居では住宅はコンテナのようなユニットに還元されているし、戸建ての住宅が持つ庭のようなものが考えられている段状住居にしても、その庭は集合全体のために供出されたかたちになっていて、決して垣根を高くして内側の独立性を高める庭ではない。段状住居の解説によれば「段状住居では、パブリックの性格の強い順に(南側の)マウンドに近くなるように構成されている。公共施設—ネットワーク—庭—居間の順序で(…中略…)逆に個室というプライベート空間はいちばん北側に配置されている。段状住居では、個室以外のすべてを総称して、セミパブリックと呼んでいる」。(出典「都市住宅の再構築」(『新建築』一九七一年一一月号)むしろ段状住居ではその他の「かた」に比べて、住居単位そのものが解体されかかっているとさえ言える。これが菊竹清訓のラジカリズムなのだ。一二〇戸の集合であるパサディナハイツではこの「かた」がかなり忠実に実現されている。これは、詳しくはわからないのだが、入居者としてパサディナクラブというある特定のコミュニティが前提となっていたことによるところが大きいと思われる。普通の民間マンションのように、前提とするコミュニティなどもたない桜台コートヴィレジにおける「かたち」設計とは、「かた」の変形を通してこのラジカリズムを修正することだったのではないだろうか。スラブによる接地性から壁による接地性への変化は、内井昭蔵による菊竹清訓のラジカリズムからの穏やかな逃走の始まりのように思えてくる。

15──桜台コートヴィレジ・計画案の模型とシステム図

15──桜台コートヴィレジ・計画案の模型とシステム図

16──パサディナハイツ

16──パサディナハイツ

多摩ニュータウン一九九〇

舞台は一九九〇年代の多摩ニュータウンに変わる。この年ベルコリーヌ南大沢の一部が、マスターアーキテクト方式という新しい試みを採用し、イタリアの山岳都市をデザインモチーフとして完成した[図17]。この試みは、団地全体のデザインを調整するマスターアーキテクトと呼ばれる建築家のもと、複数の建築家がそれぞれ別の住棟を共通のデザインコードに基づいて設計し、全体としてのデザインを統一性と多様性を兼ね備えたものにすることによって、「良好な」住環境を創り出すことを目的としたものである[図18]。このマスターアーキテクトを務めたのが内井昭蔵である。ここは新住法による大規模な面開発なので、多摩田園都市とは簡単に比較することはできないが、斜面を利用した集合住宅であることには変わりはない。そこに見られる斜面に対する接地性は、段状住居のようなスラブによる接地性ではなく、桜台ヴィレジと宮崎台ヴィレジに見られた壁による接地性である。ポピュリズムの積極的な表現としてのイタリアの山岳都市というデザインモチーフ自体は住都公団の積極的リーダーシップのもとに導入されたものであり、内井昭蔵と直接の関係性を指摘することはできないが、スラブによる接地性から壁による接地性への移行の先を、南大沢のイタリア風山岳都市にまでつなげるのは容易だろう。

17──南大沢のデザインコードの一例

17──南大沢のデザインコードの一例

18──ベルコリーヌ南大沢

18──ベルコリーヌ南大沢

多摩丘陵集合住宅の想像力

内井昭蔵の計画によって多摩田園都市に建設された三つの集合住宅の計画のテーマは斜面をいかに良好な住環境として組織するかということだった。このうち桜台コートヴィレジだけが、菊竹清訓が「かた」として提案した段状住居の「かたち」設計として計画・建設され、この「かた」から「かたち」への移行課程で加えられた修正にすでに他の二つの集合住宅で展開された方法とはむしろ南大沢のイタリアの山岳都市が、予告されていた。一方、段状住居での菊竹清訓の問題意識は、その後集合住宅という枠組みからより建築一般の枠組みへと移され、斜面建築として連続していく(『新建築』一九七九年七月号『斜面の構築』)[図19]。それは海上都市や空中都市などとともに菊竹清訓が取り組んでいたテーマの一つである庭園都市という構想と、丘陵地の多い日本の地勢的条件が交差する地点として考えられたものであった。段状住居/斜面建築は海上/空中都市のような未来的なユートピア指向というよりは現実的ではあるが、人の住めないところを住めるようにするという居住空間の生産という点では共通しており、それを物的に示しているのがスラブなのだ。こうした一種のフロンティア精神は、海を埋め立て山を切り崩して更地を生産するという、一般には土木的な技術が分節する欲望に極めて接近している(多摩センターにあるパルテノン多摩は、まさに斜面建築といえる。ニュータウンには土木的な欲望をはらんだ建築が多い)。
段状住居は一般には建築と土木というそれぞれ別の水準でニュータウンを成立させている分節を集合住宅によって一挙に分節する「計画」であり、それは新都市建設にまつわる技術的であるからこそ社会的な分節の初源的なあり方を集合住宅というビルディングタイプを通して問うことであった。それはニュータウンの更地に、現実の裏返しとして潜んだ可能性であり、時代も非常に短い期間ではあるが、それを支持していた。同じく斜面に建つ集合住宅であるベルコリーヌ南大沢は、壁による接地性を持つ塔状の住棟を集合させ、その壁面の強さをヒューマンスケールにあわせて砕くことによって、その斜面をイタリアの山岳都市という景観的なモデルにそうかたちに分節する「計画」であり、それは結果的には消費社会がいつのまにか自縄自縛式につくりあげたイメージコードを確認することに他ならず、建築と土木のあいだにひかれた技術的な分節線はこのコードによって覆いかくされていく。
土木的な想像力と修景的な想像力の上に展開したこの二つの「計画」の間に、多摩丘陵のニュータウンの集合住宅がこれまで辿ってきた振幅が示されているのである。われわれは、この振幅の中で、ニュータウンと消費社会のある種の成熟を確認するとともに現実の都市を問い直す可能性を失ったことにも気がつくべきではないだろうか。この可能性こそが埋立地などの更地に立った時にからだに流れ込んでくる骨太な何かの正体なのだと私には思えるのだが。

19──斜面建築の例。大津ショッピング・センター

19──斜面建築の例。大津ショッピング・センター

20──斜面建築の原型

20──斜面建築の原型

■図版解説は全て『新建築』一九七一年一一月号「都市住宅の再構築」から抜粋。

>塚本由晴(ツカモト・ヨシハル)

1965年生
アトリエ・ワン共同主宰、東京工業大学大学院准教授、UCLA客員准教授。建築家。

>『10+1』 No.01

特集=ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容

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「新陳代謝(metabolism)」を理念として1960年代に展開された建築運動...