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「近代都市」 | 西沢大良
"Modern Cities" | Nishizawa Taira
掲載『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) pp.52-58

多摩ニュータウンなどの大規模な郊外ニュータウンについて不可解な点があるとすれば、それは、これらのニュータウンにおいて仮に近代的な都市概念によって説明しきれない何かが生じているように見えたとしても、現実にこれらのニュータウンを構成した計画技法は徹底して近代都市計画のものである、という点である。どの郊外ニュータウンにも多かれ少なかれ共通しているが、例えば多摩ニュータウンには業務・商業センターがあり、文化・レジャー施設があり、緑地に囲まれた住居群があり、歩行者道や自動車道が交通網を形成している。個々の建物の表情はどうあれ、それらを集合させ秩序づけている都市計画ヴォキャブラリーに注目する限り、郊外ニュータウンは確かに近代都市なのだが、しかし総体としてそれとは異なってしまったかのようでもある。
これが一体何であるのかただちにはわからないが、確実なのは、このような郊外ニュータウンについて考えるということが、来たるべき都市について考えることであるよりも、むしろ日本の近代都市についてあらためて検討することになる、という点である。

郊外ニュータウンというものが国内で積極的かつ大規模に計画されだしたのはおおむね一九六〇年代であり、いずれもそれまで都市計画の対象とされなかったような場所(低木農閑地や埋立地や旧軍用地など)に計画されている。例えば多摩ニュータウンは人口約三〇万人の二九〇〇ヘクタール強の規模の街として一九六三年に計画が始められた、かつて低木丘陵地・一部農閑地であった地域に対する計画である。ここでまず驚くべきことは、これだけの規模の街を何ら先行する既成市街地のない場所に突如計画した、ということである。言うまでもなく六〇年代以前、国内において都市計画とは、おもに特定の既成市街地ないし都市部に対する再開発・復興計画として展開されてきた。これは行政上のものに限らず、建築家・都市デザイナーのものについてもほぼ同様である。例えば丹下健三にせよメタボリストたちにせよ、主として六〇年代以前の計画は「本郷文京地区計画/高山英華・丹下健三他、一九四六年」であったり「渋谷総合計画/坂倉準三、一九五二年」であったりしたのだが、六〇年代においては「東京計画一九六〇/東大丹下研究室」が東京湾上の計画であったように、徐々に非既成地を通して都市を構想していくようになる。しかし注目すべき点は、それが既成市街地であろうとなかろうと、常に同じような計画ヴォキャブラリーによって計画されているということである。一見すると前者の既成市街地においては、交通・住環境などのいわゆる都市問題を現実的に解決するべく特定の計画ヴォキャブラリーが用いられているように見え、逆に後者の非既成地においては都市問題を未然に防ぐべく類似の計画ヴォキャブラリーが用いられているように見える。しかし、よく考えてみると、後者において本当に「都市問題」を未然に防いでいるのだ、と言いうるのだろうか。形式化してみれば、そこでは架空の「問題」が抽象的に想定されたうえで、それが擬似的に「解決」されたかのように見えているだけなのではないだろうか。万一そうだとすると、ひるがえって前者において同じ計画ヴォキャブラリーによって現実的に「解決」されてきた「問題」も、その発生期においては、すでに充分抽象的な架空の「問題」であったと考えられないだろうか。
J・ジェイコブスは六〇年代に西洋で実施されていた近代都市計画を批判して、都市計画家たちが個々の計画地の違いを乗りこえて共通して直面し解決している「都市問題」とは、ある歴史的時点で人為的につくりだされた「にせの問題」にすぎないのだと言っている。彼女の言うことを敷衍してみると、例えば「緑地」というものが都市計画ヴォキャブラリーとして積極的に転化されるやいなや、あたかも「緑地」をもたないすべての都市は非「人間的」であり改善されねばならない、というような「問題」設定を生みだし、さらにはそこで想定されている「人間」とはそれ以前にはいなかった架空の「人間」であって、それは「緑地」を計画した結果において不可避的に仮構されてしまわざるを得ない「人間」なのだ、ということになるだろう。彼女によれば、これは歴史的にE・ハワードの《田園都市》に端を発しており、ル・コルビュジエの《輝く都市》もまた「緑地=人間」を仮構したという点で同じ原理下にあり、さらに今日彼らに何の関心をもたない者であっても「完全にこの基礎原理に支配されている」のだという。J・ジェイコブスはこの歴史的に形成された「近代都市」の計画原理を《輝く田園都市》と命名し、それは表象としての都市にすぎないのだとして批判している。
このことがここで示唆的なのは、まさに郊外ニュータウンを生みだした日本の「近代都市」計画の形成においても、E・ハワード/ル・コルビュジエを通して同じことが生じたのだと考えられるためである。そうすると、例えば今日都市計画家たちが多摩ニュータウンの住居棟周辺をみて、国内でも他に類を見ないほど良好な住環境であると評価しているのが、他ならぬあの「緑地」なのだと言いうるのであり、さらにもしかするとこの「緑地」が、まさにあの抽象的な「人間」を実際に生みだしているとさえ、言いうるかも知れないのである。むろんもし人が多摩ニュータウンを訪れるならば、あたかも広大な公園のなかに住居が点在するかのようにつくられた「緑地」を見て、何か無条件に「快適」であると感じるかも知れない。しかしそれは決して、いついかなる時点でも普遍的に「快適」であった訳ではない。歴史的に考えればすぐわかることだが、東京の都心部に古くからある「緑地」のうち、例えば日比谷公園はかつて江戸時代には武家地であり、上野公園などは寺社境内地だったのであり、いずれも江戸を「近代都市」化する過程で「緑地」として転用されたものである。当時すでにそこは緑におおわれていたのだが、江戸の人々にとってそれらはまずなによりも社会階層別に分割/排除される場所を意味していたはずであり、今日われわれが都心を訪れてそこに見出すような「快適さ」を、彼らも同じように感じとっていたとは、まず言えないのである。するとむしろ、「緑地」に「快適さ」を感じてしまうわれわれのような「人間」こそ、ある歴史的な時点で出現してきた存在なのだと言わざるを得ないのである。またそのことと、「緑地」が近代の都市計画ヴォキャブラリーとして活用されてきたこととは、決して切り離すことができないのである。そしてこれらのことこそが、まさに「緑地」「快適さ」「人間」「都市問題」などという事柄によっておおいかくされた、「近代都市」がもつ生まの歴史的条件である。
しかし何もこのようなことは「緑地」に限った話ではない。およそ近代の都市計画ヴォキャブラリーが有効に「都市問題」を「解決」しているように見えれば見えるほど、そこには前述のような歴史的な問題がひそんでいる可能性がある。多摩ニュータウンをはじめとする郊外ニュータウンは一見ささいな対象に見えるかもしれないが、「緑地」をはじめとしてここに集中している計画ヴォキャブラリーが、まさに国内の「都市問題」を「解決」してきたものである以上、ここから同様の「近代都市」の歴史性をふりかえって発見できるはずである。したがってこの視点から、次に多摩ニュータウンの都心計画である「多摩センター計画/一九六三──一九七七年」を検討してみることにする。この計画チームには大高正人が加わっているが、晩年のS・ギーディオンが彼にあてた私信で述べた通り、メタボリストのなかで間違いなく良心的かつ実践的だったこの近代建築家/都市計画家は、まさにそうであるがゆえに《輝く田園都市》の支配下にあった。

1──多摩ニュータウン内の「緑地」 撮影:大高隆

1──多摩ニュータウン内の「緑地」 撮影:大高隆

2──多摩ニュータウン内の区画整理地域 撮影:西沢大良

2──多摩ニュータウン内の区画整理地域 撮影:西沢大良


3──多摩センター地域 撮影:西沢大良

3──多摩センター地域 撮影:西沢大良

4──「多摩センター計画/1967年、第八次」マッス模型 『多摩ニュータウン計画—中心施設計画の研究・要旨』(日本住宅公団南多摩開発局編、1967)

4──「多摩センター計画/1967年、第八次」マッス模型
『多摩ニュータウン計画—中心施設計画の研究・要旨』(日本住宅公団南多摩開発局編、1967)

「多摩センター計画/一九六三──一九七七年」は十数次にわたって計画が練り続けられているが、ほぼすべてに共通し、したがってまた現状の多摩センターに見られる特徴として、以下の点があげられる。

○自動車道・上下水道・通信網などのインフラストラクチャー整備を先行し、それらの集中しうる場所に多摩センターの敷地を設定する。
○このセンター地域を多摩ニュータウン全体の都心とするべく業務・商業・娯楽施設を集中配置する。
○センター地域にペデストリアン・デッキを設けて歩行者・自動車を分離する。

まず第一点のインフラストラクチャー整備とは、いわゆる都市活動を根本的に成りたたせるものであり、したがってかつて計画された国内の都市計画は、それが行政上のものであれ表現的なものであれ、常にこれに対する何らかの提案として理解しうるものとなっている。例えば顕著に表現的な例とみなされている「東京計画一九六〇」において、東京湾上に図として浮かび上がって全体を秩序づけているのは、自動車道をはじめとするインフラストラクチャー施設であるし、この計画発表当時に行政者や開発者から質疑が集中したのもそれをめぐってである。さらにこれがメタボリズムにいたって、建築構造から社会組織にわたるあらゆる比喩として拡張されたことは、例えば菊竹清訓が述べた、六〇年代は流通・コミュニケーション社会になる、という当時の発言などにもうかがえよう。
ここでインフラストラクチャー整備手法について具体的に説明しておくと、ある既成市街地に後から道路整備などを行なう際に最も多く用いられてきたのは、いわゆる区画整理を制度上適用するというものである。これは住民の敷地を削除/変形することによって道路などの敷設用地を得るために、彼らの反対によって計画規模や期間がおびやかされがちな手法である。したがって多摩ニュータウンおよびセンターの計画に際し、このような障害の少ない非既成地を、いわゆる新住地法によって対象地としえた以上、区画整理の制約をはなれてインフラストラクチャー整備計画を徹底し、またこの視点から多摩センターの敷地設定についても検討を重ねていることは、充分納得がいくだろう。しかし多摩センター外周の部分は、多摩ニュータウン内であるにもかかわらず、旧農地所有者の反対運動によって再び区画整理によるインフラストラクチャー整備事業のみに計画を限定せざるを得なくなった地域である。その結果ここでは彼らによる個別の建物の建設をコントロールすることが不可能となり、いわゆる郊外スプロールに近い光景が多摩ニュータウン内に忍び込んでしまっている。多摩ニュータウンに関わったある計画家によると、それが当時の政治的判断と経済的現実においては致しかたなかったとしても、この地域とこれに隣接する多摩センター地域とを比較するにつけ、都市景観上悔やまれるものと映るようである。必ずしもそのような意味ではないにしても、われわれにとってもこの二種類の地域が異質であるように感じられるのは確かである。
インフラストラクチャー整備は、都市経済流通活動やこのような住民運動(また前述の表現活動すら)をも含めて、いわゆる都市問題のほぼすべてがこれをめぐっていると言ってよいほどであり、「近代都市」の根幹をなすことは疑いを容れない。しかしまさにそうであることが、先の文脈上この「インフラストラクチャー」なるものに疑問を投げかけてくるのである。よく都市計画家が主張しまたわれわれもそう考えてしまいがちなこととして、「インフラストラクチャー」というものが不十分である地域、例えば東京都心部のいわゆる木賃ベルト地帯は、都市災害の原因となりうる地域なのだ、仮に火災時においては消防車の出入りすらできない危険な地帯なのだ、よってこのような危険性を「インフラストラクチャー」などによって解消すべきなのだ、というものがある。しかしまずここで、このようにしてある地域が「危険」であるという価値判断を可能にしているものこそ、先述の「緑地」同様、歴史的に特殊な「問題」設定によることは容易に理解しうるだろう。極端な例だが歴史家の推定によると、現在の東神田(旧神田橋本町)などはかつて明治以前、人工密度一五〇〇人/ヘクタール強という驚くべき高密度な地域であり家屋はすべて木造棟割長屋だった。当時消防車などなかったにせよ、これは今日の木賃ベルト地帯などとは比較にならないほど「危険」だったはずである。確かにほぼ三年毎にどの家屋も全焼に見舞われたが、しかしそれだけでは決してわれわれの考える「都市問題」を形成しなかった。むろん当時これを「解決」する方法もあったが、それはわれわれの持っているものとははっきりと異質である。一例をあげるとこの家屋焼失を補うために、一方では職人組織が改変されまた他方では家屋の架構が変化することによって、火災後に多量の家屋を短期間に建設しうるようになり、またほぼ三年毎にあったこの多量建設と火災救恤金を前提として職人においても家主や借家人においてもその経済生活が成りたつようになり、ついにはむしろ火災という「危険」がなくなることの方が彼らの生活を破綻させかねないという意味で「問題」とされたのである。したがってそこには、今日われわれをとりまいているのとは異なる「問題」と「解決」があったのであり、「火事は江戸の華である」などと言われていたという現実世界は、そこに住んでいた「人間」や「生活」をも含めて、われわれのものとは根本的に異質なものだったことは疑いを容れない。われわれが考える「危険」なるものは、それを排除しうるという可能性が「インフラストラクチャー」というテクノロジーによってもたらされた時点ではじめて形成されたものであって、それと同時に「危険」であることがたまたま負の価値を帯びたものである。確かに今日この「インフラストラクチャー」を抜きにして都市活動は一日たりとも立ち行かないために、何かそれが普遍的な現実であるかに見えがちである。だがそれは、そのような「都市の改良」があたかも万人に妥当するかのごとく積み重ねられてきた結果においてそうであるに過ぎない。「近代都市」の発生期において「インフラストラクチャー」なるテクノロジーが、例えば庶民レベルで頑なに拒絶されたという事例をみても、この「問題」設定が決して万人に妥当するものではない危ういものであったことが理解できるだろう。そしてこのことは、今日においても住民の抵抗に直面した計画家ならば、その実践において繰り返し経験しているはずのものである。
するとそれは、あのスプロール的光景が多摩ニュータウン内に忍び込んできたという事実を、根本から説明するものとなるのである。確かにスプロールというものはいわゆる都市問題の徴候であるし、それは計画家が理想とするあの「現実」──「近代都市」の発生とともに仮構されたあの「にせの現実」──とは区別されてもよい。しかし両者はそれぞれの形成において密接につながっている。先の例で言えば、「インフラストラクチャー」なるテクノロジーの出現により、それ以前の人々にとって例えば経済生活の基盤をすら意味していたものが、はじめてそのテクノロジーの働きかけうる対象へと転化され、かつ同時に今日のわれわれにそれを「危険」視させるような「都市問題」へとまで反転させてしまったのだ。そうすると、これらの「都市問題」を「近代都市」において解消できるのだ、という考えにはおそらく盲点がある。むしろ原理的には「近代都市」こそが「都市問題」を生みだす原因である。言い換えると、多摩ニュータウンに忍び込んだような「スプロール」的光景を、多摩センター地域のような「近代都市」計画によって完全に抹消することは、原理的には不可能である。われわれが今日多摩センターとその周辺を比較するときに目撃しているのは、まさにこのようにして形成された「都市問題」の原理的/歴史的現実である。
しかしいま述べたことは、いわゆる都市問題にあふれた東京のような都市を称揚しようとするものではない。好むと好まざるとにかかわらず、われわれの「現実」が常に都市計画内の諸テクノロジーによって事前に予期しえないような結末へと反転していかざるを得ないのだ、という「近代都市」の歴史性のことである。さらにまた、われわれが普段何ら疑いをもたずに都市の「現実」に対して抱いている考え方自体が、かつてある時点で根底からくつがえされて形成されたものなのだ、というわれわれ自身の歴史的現実のことである。そしてこのことを、われわれはそれらの諸テクノロジーを歴史的に検討することによって、はじめて見出しうるのである。例えば計画家がよく指摘する次のような近年の出来事においても、明らかにそれが生じている。すなわち「緑地」と「インフラストラクチャー」という計画ヴォキャブラリーが最重要視された大正期以降において、「帝都復興計画/一九二三年」や「東京緑地計画/一九三九年」などで実現された公園および街路緑地帯や河川緑地帯などは、いわば「緑地のインフラストラクチャー」と呼びうるほど良好な環境例を生みだしたにもかかわらず、その後一九六〇年代に「オリンピック事業」で実現された多くの公共建築や首都高速道路が、まさにかつての「緑地のインフラストラクチャー」をあらためてその建設用地とせざるを得なかった、という事例である。「緑地」と対極的なものとみなされる首都高速さえも、ある意味では「緑地」というテクノロジーによってもたらされた一つの現実効果なのであり、同時にこの首都高速周辺の光景が、東京に対するわれわれの見方をどれほど特殊なものにしてしまったかは、あらためて言うまでもない。そもそも「緑地」が都市計画用語として導入された大正期において、当初英語でいうOPEN SPACEの訳語にあてられたのは自由空地だった。その後に再訳された「緑地」にもとづく実施例が、六〇年代になって都市施設をそこに設置しうる「空地」としてみなされたことは、決して計画者の力量に帰すことはできない。それらのことこそが、「近代都市」の発生期以来われわれがもちつづけざるを得ない、あの歴史的現実に他ならないからだ。
にもかかわらず人の考える「緑地」とは、常に計画家が理想とするあの「快適」な「緑地」だけである。しかもそれは都市自体についての考えにまで拡張される。つまりわれわれが「都市」というときにイメージするのは、いつも「都心」なのである。そうして現に「多摩センター計画」でなされているように、いかにして「都心」をつくりうるかを検討させ、「郊外」においてさえ今日みられるようなそれを実現させるのみならず、さらにこれが再び「都市」についてのわれわれのイメージを再強化する。例えば一九六七年の「多摩センター計画/第八次」によると、計画チームは当時の社会学データにもとづいて「日本は大量生産時代から大量消費時代に移った」とみなし、それにふさわしいものとしてこの「都心」を構想して、かつてIFHPやCIAMでは労働(業務地区)や余暇(文化地区)に比べて軽視されてきた消費(商業/娯楽地区)を重視して事実そのような多摩センターをつくった。したがってわれわれが今日そこを訪れて、いわゆる消費社会を象徴する好例であるかのように考えるのは当然すぎるのであるが、そのような考えが再び類似の消費社会にふさわしい「都心」を生むことに貢献してしまうのである。これがまさにJ・ジェイコブスの言う「にせの現実/にせの都心」の悪循環である。また他方で多摩ニュータウンに関して計画開始以来常になされてきた、次のような近代的な批判も的はずれである。「多摩ニュータウンは都市ではなく巨大なベッドタウンにすぎない、なぜならば母都市から独立しうるだけの要素つまり充分な職場を多摩センターに持っていないからだ、業務施設を商業施設におきかえてはならない」。事実この批判を考慮して、計画終了時点の「多摩センター計画/一九七七年」においては施設建設用地とされていなかった場所に、八〇年代になってさらにいくつかの中心施設が追加され、異様な「にせの都心」を生みだした。いずれにしても先の文脈上言うならば、もし多摩ニュータウンが都市でないとすれば、それはむしろ多摩センターがまさしく「都心」をめざしているからだ、となるだろう。
そうすると「本当の都心」とは何なのかという疑問を抱かざるを得ないが、この疑問にただちに接近することには慎重であるべきだ。「にせの現実」が相乗されて「もっとにせの現実」を生みだすことになるかも知れないからである。ただし最低限できることは、それらを幻想だとか表象だとして破棄するのでなく、いわゆる都心域ではどのような諸テクノロジーの現実効果が生じてきたのか注目することである。すると次のような姿を指摘できる。それは今日の計画家をして、かつての計画実現例と比べてはるかに引き下がったものであるとして慨嘆させているタイプの都市整備、六〇年代から郊外ニュータウンのかたわらで徐々に主流となってしまった都市事業、すなわちそれらを見る限り統一した理念や相互の脈絡があるとは信じ難いような、いわゆる駅前再開発が個々に分散して展開され、また局所的な道路整備が断続的に積み重ねられていくようなタイプの、街中で日常化してさえいるインフラ整備/路線整備事業、これらがまず、今日のいくつもの都心域を形成してきたものだ。重要なことは、ここでも「インフラストラクチャー」「緑地」「ペデストリアン・デッキ」などが個々の都心域を形成するテクノロジーとして事前に予期しえなかった効果を累積させつつあるということであり、さらに別種類のテクノロジーの効果をもあわせて発見できることである。すなわち、かつて大正初年にスプロール防止のためドイツ/プロシヤから導入された建築線制度が(警察権によっていたため)戦後民主化政策において廃止されたという出来事や、一九五三年に導入されたガソリン税が区画整理の財源にあてられたという出来事などが、いわゆる都市計画道路や駅前広場などに事業を偏向させることに帰結したことである。したがってこのような個々の都心域は、先行する非中心状態に対して必ず「遅れて」分散しつつ形成されている。現在わかっているのはここまでである。
今日なおできることがあるとすれば、「近代都市」におけるあらゆるテクノロジーのもつ歴史性を、検討しつづけることから始められるより他にない。この点で多摩センター駅前のペデストリアン・デッキは一つの証言を残している。「多摩センター計画/一九六七年、第八次」にうかがえる原案は、計画メンバーであった大高正人がこの時期に「坂出人工土地/一九六八年、第一期」で用いた、人工土地という計画ヴォキャブラリーを想起させるものである。坂出においてスラム・クリアランスに対する計画を求められた彼は、この地域が将来どのように近代化されるのかについて、建築および住環境のみならず行政手法・税制度・資本投下・土地所有その他について検討した結果、とうてい予測しきれないことに行きついた。そこで彼は、地上約六メートルの高さに計画面積一万平方メートル強の人工の土地をRC造で設定し、この上に住居棟や集会場などを配置する一方、開放された地上を基本的に何にでも転用できる施設用地としてとらえようとした。今日過密する坂出において、この地上部分は都市駐車場や歓楽店街などとして機能しているようである。ここで試みられたことは、それがどのようなテクノロジーであっても事前に予測できない結末をもたらしてしまうという「近代都市」のあの現実自体を、何とか対象化しようとするものだったと言える。ただし、あらゆる不測の事態にたえうる計画ヴォキャブラリーを開発して不確定な現実を乗りこえようとすることは、究極的にはそのテクノロジーがもたらす一定効果の予測すら放棄することになりかねないという点で、これは両義的なものであった。この開放された地上の光景が、どこかしら先述の東京首都高下のあの「空地/緑地」に似ていたことは偶然ではない。が、まさしく諸テクノロジーが空前の規模でさまざまな効果を予想外の範囲にまで決定的に及ぼしていた六〇年代において、その事実自体をとらえようとした実践例が少なかったという点からすると、これは貴重な試みだった。
この人工土地が仮に「ペデストリアン・デッキ」に反転し、多摩センターの「にせの現実」を形成してしまっているからといって、われわれはこれを嘲笑することはできない。そのような姿勢は必ず「近代都市」の諸テクノロジー以前の世界を回復しようとする動きに帰結する。諸テクノロジーのもたらす効果が累積するなかにしかわれわれの現実はありえないし、それらのテクノロジーの歴史的出現によってわれわれ自身すらも形成されてしまっている以上、それ以前のものを回復しようとすることは反動的でしかない。残念なことに、これはすでに後の大高正人の建築に、あるかたちで生じてしまったことである。だが一方で、近代都市における実践を無条件に擁護することもまた不可能である。いままで述べてきたような「近代都市」についての諸問題を理解せずにモダニズムを標榜することは、われわれ自身の歴史的条件に対して盲目であることになる。むろんそれを意識したところでこの現実条件を超えられるわけではないが、六〇年代以降他国に類をみないほど大規模に近代化がなされつつもたらされた現在において、もはや「近代都市」について他人事のように語ることはできない。つまりわれわれは、もはや素朴にモダニズムをとなえることはできず、なおかつ事実上モダニストであらざるを得ないのである。そのような実践が何であるか、予測することはできない。
郊外ニュータウンからふりかえって発見できる「近代都市」の歴史的諸条件は、現在でもなおわれわれ自身の「現実」でありつづけているのである。

5──「坂出人工土──地/1968年、第一期」鳥瞰

5──「坂出人工土──地/1968年、第一期」鳥瞰

6──「坂出人工土地/1968年、第一期」開放された地上部分 (『新建築』1968年3月号)

6──「坂出人工土地/1968年、第一期」開放された地上部分
(『新建築』1968年3月号)

>西沢大良(ニシザワ・タイラ)

1964年生
西沢大良建築設計事務所主宰、東京芸術大学非常勤講師、東京理科大学非常勤講師。建築家。

>『10+1』 No.01

特集=ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>輝く都市

1968年

>メタボリズム

「新陳代謝(metabolism)」を理念として1960年代に展開された建築運動...