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極端な日常 | 桂英史
The Mythology of Tokyo Disneyland 2: Extreme Banality | Katsura Eishi
掲載『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) pp.235-245

東京ディズニーランドの休日

夏休み、年末年始、ゴールデンウィークなど、人々は東京ディズニーランドに殺到する。今日、東京ディズニーランドは、レジャーのシンボル的な存在になっているようである。一九九〇年代を迎えるにあたって、年間の海外渡航者が一千万人を超えることになった(このうち、八〇パーセント以上が観光目的)が、微増だった海外旅行者数が大きく伸びはじめたのは、一九八三年の東京ディズニーランド開園とほぼ時を同じくしている。「海外旅行ブーム」と「東京ディズニーランドの成功」は、一九八〇年代を迎え日本の消費社会が爛熟しはじめたことと、どこか深く関連しているように思える。
一九八三年四月、東京ディズニーランドが鳴り物入りでオープンした当時、日本の人々ははっきりした自覚もないままに、新しいライフスタイルや、突然来航したバブル経済という豪華客船に乗り遅れまいと、争うようにその船に乗り込もうとした。その豪華客船には、誰もが勝ちを約束されているカジノも用意されていた。国内で株式や不動産に投資することに飽きたらず、海外でも傍若無人な投資を繰り返して当地の人々の反発を招いたりした。ニューヨークのロックフェラー・センターやコロンビアピクチャー社の買収が、アメリカ人の強い反発を招いたことも、今となっては「夢の跡」である。
「観光」や「レジャー」あるいは「余暇」への関心は、このころには急速にはじまっていた。投資の対象も当然それらに向かっていた。日本全国に「テーマパーク」が続々と誕生し、地方の経済もゴルフ場やホテルの誘致を中心に動くことになった。毎日のように根こそぎ新しくなる「ライフスタイル」というものが、注目を集めだしていた。この俗に言う「バブル経済」を謳歌する人々は、無限の経済成長を通じてこそ、新しい時代の「豊かさ」が生まれでてくるのだ、と心から信じていた。
では、新しい時代の「豊かさ」を、もっともリアルに実感できるためにはどうしたらよいか。そのマニュアルは、東京湾岸の埋め立て地に浮かぶ東京ディズニーランド周辺にわかりやすくしめされていた。ディズニーランド周辺には、確実に新しい時代の「豊かさ」を実感(あるいは錯覚)させる装置が用意されていたからだ。東京湾に突き出た埋め立て地に、東京ディズニーランドを守るように進出したホテル群は、東京ディズニーランド周辺を一九八〇年代の租界にした。誰もが入ることのできる租界。東京から数十分で行くことのできる租界。人々は「新しい豊かさ」を実感するために、混雑を承知で足を運んでいった。そして、そこで培われたノウハウのほとんどすべてが、日本全国に急速に伝わっていった。
さらに、「観光」や「レジャー」あるいは「余暇」に大きな関心が向きはじめていたころ、同時に高度な科学技術がさらに新たな「未来の豊かさ」をつくるのだという考え方も大きな流れとなりつつあった。一九八五年に筑波研究学園都市近郊で開催された「筑波科学博」を契機として、科学技術はアカデミズムや研究開発の文脈を大きく超えて、新しい潮流が発生する「金の卵」のように考えられるようになった。そして、「この技術が実用化すると、将来〜が実現する」とか「この研究によって、〜といったことが解明できる」といった最先端の科学技術は、近代国家の典型的な知的装置である教育と国家事業としての研究開発の成果を公開する宣伝装置であると同時に、「新しい豊かさ」に賭ける人々を誘惑してやまない独特なカーニバレスクの様相を帯びる。高度な軍事技術と軍事的プレゼンスを誇示するために行なわれる航空ショーは、そうしたショーマンシップの典型的な形態である。ある種の人々には、当時大きな音を立ててうねりはじめていたバブル経済とともに、ショーマンシップを発揮する最先端のテクノロジーは、未来という空に燦然と輝く星に見えていたのである。
外国。ホテル。ショッピング。都市型リゾート。ハイテクを用いたエンタテインメント。家族で過ごす休日。恋人同士のデート……。「遅れてきたブルジョワジー」が競うように通うなれの果てとしての「豊かさ」は、ほとんどすべて、さきの東京ディズニーランドに凝縮されていた。
その実、東京ディズニーランドそのものは、中世の城壁都市のように、きわめて閉鎖的な空間である。高い壁に囲まれていて、園内は外部空間との関係が徹底的に遮断されている。その空間は、排他的であるがゆえに特殊性を帯びている。その特殊性を帯びた空間は、「非日常的な空間」と表現されたりもする。では、「非日常的な空間」とはどういうことを意味するのか。
そもそも、「日常的な空間」とはどんな空間認識なのか。そのことを少し丹念に考えてみようと思っている。科学技術や消費社会がもたらすことになった、世俗的な海外信仰と見世物的な娯楽性を融合させた東京ディズニーランドの分析を通じて、日本人が背負っている「海外」、とりわけアメリカという国に対する精神的外傷(トラウマ)に接近し、観光やレジャーあるいは余暇の「非日常性」について検証してみよう。

余暇のポリティクス

余暇は、労働に対立する、あるいは相補する概念として提出されることが一般的である。こうした考え方は、その実太古の昔からあったものではない。「産業者」(=技術者と労働者階級)という人間の集団は、近代産業主義が発展するプロセスで誕生した。産業者は、産業化した都市のなかに新たに誕生し集団化していったのである。
近代産業社会初期における工業化と都市集中の問題は、イギリスはもとより、フランスやドイツなどヨーロッパの広い地域にわたって、深刻なものになっていた。エンゲルスは、当時の工業都市マンチェスターを調査し、その不衛生な環境や貧困にあえぐ労働者階級の生活の現状を明らかにしていた。エンゲルスが「イギリスにおける労働者階級の状態」(一八四五)のなかで(いささか誇大ながら)指摘したように、デカルトが理想化した明晰な秩序としての都市は一九世紀のヨーロッパにあってすでに破綻していた。
そのように近代産業都市の破綻が深刻化していくなかで、都市の蘇生を構想することに産業者の関心が向けられていく。ロバート・オーウェンは、教科書的に言えば、「空想的社会主義者」の草分け的な人物である。オーウェンがスコットランドのニュー・ラナークにある紡績工場跡地に設立した「性格形成学院」(一八一六)は、いわゆるユートピア構想の先駆けとなった施設として名高い。ここでの活動は多岐にわたるが、もっとも大きな特徴は、労働が教育と余暇によって補完されるという考え方を都市計画の中心に据えた点である。この考え方は、その後の都市計画が進められていく上での原型となったことは言うまでもない。
労働が教育と余暇によって補完されるという考え方が示されると同時に、建築には社会的な利害の対立を超越した地位を与えられることになった。つまり、デカルト的な近代都市論の理想は放棄され、建築という物理的な実体は人間の集団を誘導し利害調整の役割を与えられるようになったのである。実体としての建築が社会的な利害の調整器としての役割を果たし、その調整器としての建築を必要条件とする近代都市論は、ユートピアが構想されはじめて以来、常に妥協を余儀なくされる都市をめぐる理想とのズレを隠蔽するようになる。ユートピア構想が「無限の博愛」(フーリエ)という共同主観的な意味を伴って都市計画者や建築家によって迎えられたときから、都市と建築は普遍的な秩序を労働や余暇あるいは人間の集団を誘導する装置に託してきたのである。
近代国家や近代都市をはじめとする近代を契機として誕生した共同体が人間の集団を誘導する装置であるからこそ、抽象的な身体(生理や行動や欲望などが抽象化された形式)という概念のコントロールが、近代科学の客観性や近代社会の合理性などと不可避に関連しつつ積極的に展開されてきたのである。とすれば、余暇は、近代社会における「個人」の成り立ちを考察するなかで、ひとつの重要な関係として理想的な国家を運営する上で重要となる。それと同時に、その理想化を支えるイデオロギー(観念形態)や資本主義経済の交換や労働を基礎におく「個人」のイデオロギーが問題視される。
たとえば、ヴィクトリア・デ・グラツィアによる『柔らかいファシズム』★一では、イタリア・ファシズム時代の大衆組織であったドーポラヴォーロを中心に、その余暇の組織化がファシズムを支えていたことを詳細に分析している。ドーポラヴォーロは、ファシズム時代のイタリアにおける全国的大衆組織であるが、工場や農場あるいは職場での労働を統制するだけでなく、二〇年以上にわたってファシズム政権の基礎を支えることになった。このドーポラヴォーロでは、具体的には、各種スポーツ、文化的なレクリエーションなどがいくつかの下部組織を通じて企画・運営され、「労働」を超えて人間の行動が組織的に編制されていったのである。ポール・ヴィリリオも「三つの八時間の革命(八時間労働、八時間睡眠、八時間余暇)」を重視し、「八時間」が人間の集団化に決定的な意味を与えたことを指摘している★二。また、精神分析学者ヴィルヘルム・ライヒも、「青年男女」といった集団が政治的に組織化されていく上で、そのプロセスを「大衆人間における階級意識の幾つかの具体的要素」という観点から精神分析的に論じている★三。
第二次世界大戦をはさんで、フランクフルト学派の中心的な人物であったホルクハイマーとアドルノにおいては、労働という資本主義経済における重要な要素は、人間がその主体性の確立をめざして自然を支配し共存するための自己実現過程との関連で説明される。その一方で、この人間の主体性が確立するプロセスをもたらす「道具的理性」としての労働は、自然の支配だけでなく、必然的に人間支配に直面せざるを得ないことを説いた。労働が「道具的理性」だとすれば、余暇は、身体を通じて他者との媒介が成立し、自然や社会といった外界に対する自己との相対的な関係を規格化し合理的に人間の集団を誘導するという点で、労働と同様に「道具的理性」であり、その「道具的理性」はもっとも重要なポリティクスのひとつであり続けたのである。

「新しい家」としてのディズニーランド

ディズニーランドの空間経験をめぐって、ダニエル・ブーアスティンの提出した「擬似イヴェント」がしばしば引用される。「擬似イヴェント」とは、ある空間の演出やメディア・テクノロジーをもちいた表現が、「どこか他の場所、どこか他の時代」の擬似的な経験を与えるというものである。「世界のいま」を広く紹介しようとする万国博覧会は、「擬似イヴェント」の典型的な例とされる。そのような擬似イヴェントとして、テーマパークとしてのディズニーランドは学問上の対象となっていくわけである。ディズニーランドが一九世紀半ばの南部都市や西部開拓時代の町などを表現しているからと言って、ディズニーランドの成功を「擬似イヴェント」という概念で説明しようとすることは、いささか乱暴と言わざるを得ない。
そもそも、ウォルト・ディズニーは、ディズニーランドを「擬似イヴェント」による「非日常的な空間」の演出を目的として構想したものではない。アナハイムのディズニーランドで構想した際にウォルトが頭で思い描いたことは、まずは自らの故郷であるミズーリ州マーセリーンの街並みをできるだけ忠実に再現することであった。自分が子どもだったころの町並みを再現するために、蒸気機関車も当時使っていたものを買い取って走らせようとしたほどである。このようなウォルトの故郷へのこだわりをどのように説明することができるであろうか。もちろん、彼自身が健康不安を抱えた晩年を迎え、「郷愁」を感じたこととは無縁ではなかったであろう。でも、それだけではないはずである。ウォルトが故郷の街並みの再現にこだわった理由は、アメリカ人ならば誰もがもっている「家(=ブルジョワジー的な血統)」に対するコンプレックスや「新しい家(=フロンティアとしてのアメリカ)」に対する希望を直接的に引き出して、ディズニー流のアメリカの原風景を永久保存しようとしたとも考えられる。その原風景があってこそ、家族そろってアメリカ人たちはディズニー家の招待客として、ディズニーランドへ何度も足を運ぶはずだ。ウォルトはそのように考えていた。
アメリカの原風景。アメリカ人にとっては、究極とも言えるこのテーマを追究する歴史は、一九世紀にひとつの頂点を迎えていた。ニュー・ラナークでの実験に失敗したロバート・オーウェンは、一八二六年インディアナ州に移住し、「ニュー・ハーモニー」という理想郷を構想した。これと前後して、アメリカでは、知的エリートを中心にシャルル・フーリエの思想を受け継ぐフーリエ主義者たちが実験的な農場を経営し、数多くの人々がその実験を歓迎した。アメリカのフーリエ主義のもっとも大きな特徴は、ヨーロッパでの「旧  体  制アンシヤンレジーム」の壁に直面したユートピア建設が、ピューリタンが新天地を求めてアメリカに渡ったように、アメリカに新たな可能性を求めていった点にある。それらの多くが、進行する資本主義体制のダイナミズムに巻き込まれ、資金難から消えていくことになった。ただ、そこでの実験は、アメリカの二〇世紀を確実に準備していたのである。
アメリカに渡ったフーリエ主義のなかでも、一八四一年ジョージ・リプリがはじめたブルック農場は、もっとも有名なもののひとつである。ブルック農場で踏襲されたフーリエ主義は、当時の文学者たちにも大きな影響を与えた。なかでも、『緋文字』(一八五〇)などの作品で一九世紀のアメリカ文学の代表的な作家であるナサニエル・ホーソンは、実際にブルック農場で農作業に従事し、『緋文字』の序章「税関」でブルック農場の体験に触れている。
ホーソンは、アメリカを理想的なエデン的世界とみなす「庭園の神話」を創生し、アメリカの神話を築いた作家のひとりとして位置づけられることが多い★四。ホーソンがフーリエ主義に基づくユートピア建設に立ち会い、自らの作品にその経験を反映させていったことは、ウォルトが固執したアメリカの原風景というテーマに接続している。
アメリカの産業革命は、一八三〇年から六〇年にかけて急激に進行した。一九世紀後半の南北戦争や拡張主義を契機に、イギリスやフランスとは比較にならないほどの規模と速度をもって、アメリカの産業革命は進行していった。それとともに、アメリカに新たな可能性を求めるフーリエ主義者たちのユートピア建設は頓挫し、ホーソンの「庭園の神話」はすでに過去の遺物になったかのような印象をアメリカ史はわれわれに与えている。たしかに、アメリカで展開されたユートピア建設やホーソンの「庭園の神話」は、アメリカ史の表舞台では、自由や民主主義あるいは産業革命を論理的に記述する枠組みには至らなかった。
しかし、アメリカ史の単なるひとつのエピソードとして片づけられているユートピア建設や「庭園の神話」が、その実二〇世紀末に至るまでアメリカ人の、いや結果的に世界中の人々の文化や消費に影響をあたえていることは、少なからず注意を向けておく必要がある。たとえば、一九六〇年代にはいって、ウォルト・ディズニーがディズニーランド建設にあたってこだわった「故郷」は、単なる幼少への回帰ではない。ウォルトは、一映画人としてハリウッドで「ニューフロンティア」としての地位を獲得したことを超えて、第二次世界大戦中は『空軍の勝利』(一九四〇)というプロパガンダ映画を制作し、戦後の米ソ冷戦をきっかけとして起こったマッカシーの「赤狩り」をハリウッドの内部にあって積極的に支援し、フルシチョフ訪米の際にはディズニーランドに招待してアメリカ文化の成熟度を本気で鼓舞した人物である。ウォルトは、それほどまでに徹底的に開拓者であり政治家であり愛国者であろうとした人物なのである。ここでの執念にまで近い「アメリカ」に対するこだわりは、ディズニーが映画産業を起点に事業を世界規模で展開しようとする拡張主義と密接に関連するが、それを帝国主義的と言って分析するだけでは十分ではない。ウォルトにとって、「アメリカ」とは「旧  体  制アンシヤンレジーム」に対するルサンチマンであり、帰る所を見出せないままやっと築いた「新しい家」なのである。その「新しい家」の鼓舞は、ブルジョワジーが血統を根拠として執拗に維持しようとする「旧  体  制アンシヤンレジーム」に格闘しつつも「新しさ」を達成することのできないヨーロッパ市民社会への苛立ちであると同時に、「新しさ=未来の可能性」に対して愚鈍なまでに純粋であることを宣言している。ホーソンが立ち会ったフーリエ主義にしろ、サン=シモン主義にしろ、この「未来への可能性」と「旧  体  制アンシヤンレジーム」の対立は、ユートピアという社会体制を構想させた強い動機となっている。
ウォルトにとって、「未来への可能性」は「美徳」にあふれた「新しい家」を信じることであった。つまり、ディズニーランドは「新しい家」の永久保存版であった。「美徳」にあふれた「新しい家」を執拗なまでに信じるウォルトが、積極的に戦争を正当化したり政治操作に加担したりする一方で、「新しい家」としてのディズニーランド建設にこだわったことを見るにつけ、「国家的な利己主義が無限の博愛である」というメルヴィルの言葉を、思いださざるを得ない。「無限の博愛」は、オーウェルやフーリエ、そしてサン=シモンが、駆使した用語の違いこそあれ、もっとも重視していた観念でもあった。ここからきわめて興味ぶかいテーマが浮上する。つまり、そのようなフーリエ主義者でもあったホーソンの「庭園の神話」が、共産主義を目の敵にしていたウォルト・ディズニーという今世紀最大のタカ派にしてプロパガンダ的存在であった人物が建設したディズニーランドにも認められる点である。

永遠の復興経済

共産主義を目の敵にしていたウォルト・ディズニーと同様に、アメリカ人は「自由の敵」として共産主義者を極端にきらう。もちろん、その偏見は主に第二次世界大戦直後からの米ソ冷戦において培われたものであるが、その実、二〇世紀のアメリカを象徴するアメリカニズムは、リベラルでもなければ、民主的でもなく、きわめてサン=シモン主義に近い。
一九世紀半ばに産業革命を迎えたアメリカは急速にその規模と速度を拡大していくが、サン=シモンが新しい階級として着目した「産業者」(技術者と労働者)の役割については、ヨーロッパの産業革命がそうであったように、アメリカでも大きな問題となっていた。二〇世紀になってつぎつぎと登場してきたアンドリュー・カーネギーのような富豪たちも、ウォルト・ディズニーがそうであったように、一度ならず「労働組合つぶし」に画策している。そして、二〇世紀に入ってアメリカの産業界は、労務管理による労使協調路線を維持しようとするテーラー主義と、その結果として生産力を高め労働者の最低限の生活を約束するフォード主義(生産力主義)を学習することになった。このテーラー主義とフォード主義を合体させたアメリカニズムは、労働の合理的な組織化をめざし、生産力を向上させ、労働力の安定した確保を労働者の階層秩序によって実現しようとしたものである。その意味で、アメリカニズムも、サン=シモン主義の変種なのである。サン=シモン主義は、「空想的社会主義」といった思想の遺物ではなく、むしろ、「産業主義」といってもいいような思想であり、産業社会の組織化と階層化を促す思想として、二〇世紀に出現した「パックス・アメリカーナ」に接続しているのである。
「社会科学」という言葉を使いはじめた人としても知られるサン=シモンのユートピア思想は、フーリエやオーウェンのものとは異なり、きわめて「現実路線」を歩むものであった。アルジェリアの植民地経営や「大工事」といったサン=シモンの試みは、その継承者たちに軍事技術が公共技術の最重要課題であるとの口実を与えることになった。
軍事技術は、フランス革命・ナポレオン戦争以降のフランスで国民皆兵と徴兵制を基礎とした国家運営のプログラムとして制度化した。傭兵時代からフランスには軍事技術の養成学校は徐々に整備されていたが、一般的にはテルミドール期に創設された軍の士官養成機関エコール・ポリテクニクは、軍事技術の高等教育機関としてはじめて国家運営の屋台骨を支える役割を担った。と同時に、エコール・ポリテクニクは近代工学教育の起源と言えるであろう。
このように、特定の分野に専門知識をもつ技術官僚が、政治的な意思決定に大きな影響力をもつきっかけを与えたのも、サン=シモン主義の大きな特徴である。軍事技術者は、平時にあってはシビル・エンジニアリングと称して、都市計画や土木事業など都市生活の基盤づくりに従事した。サン=シモン主義者やエコール・ポリテクニク出身の技術官僚たちは議会制民主主義を必ずしも信じていなかった。エンジニアが橋を架け道路をつくるように社会も設計すべきである、とある種独善的に信じていたからである。「テクノクラシー」という用語そのものは技術者集団による社会的なコントロールという意味で、一九三〇年代のアメリカで用いられたが、歴史的には、一九世紀フランスのサン=シモン主義者やポリテクニシャン(エコール・ポリテクニク出身者)に由来する。そのテクノクラシーは、軍事技術による要塞化をめざす近代国家が産業化を進めていく上で、重要な政治的装置となったのである。
このように、国家運営のプログラムに技術が組み込まれたのは、軍事技術をきっかけとしている。そして、テクノクラシーとは「産業者」の思想、すなわちサン=シモン主義そのものであった。そして、二〇世紀にはいると、サン=シモン主義は、全面戦争の経済的な根拠を与えることになった。とりわけ、多くの労働組合を戦時体制へ協力させ、あらゆる生産システムが国家によって掌握される戦時体制は、サン=シモン主義的なテクノクラシーが思想的な原動力となっていた。「産業主義」が近代国家のイデオロギーとして利用されるとき、それは一般的に「国益」と呼ばれる。この産業主義的な「国益」は、思想や文化を国家が統制し、国家利益に反する意見の抑圧(否定的側面)と国民的熱狂の組織化(肯定的側面)を生んだ「国家総動員」の大義名分にもなり得るのである。
さらに、「戦後復興」もまた、サン=シモン主義的な傾向を帯びるが、第一次世界大戦と第二次世界大戦とのいわゆる「戦間期」において、そこでも、サン=シモン主義的なテクノクラシーは大きな役割を担い、その戦時体制を起源とした「復興経済」という経済体制を導いた★五。この「戦後」にあっては、「全体主義」と「社会主義」の区別はほとんど無意味である。共通する傾向と言えば、サン=シモン主義的なテクノクラシーが突出して強まるということである。このような「戦後復興」のプログラムにあって、「技術移転」や「技術支援」は重要なプログラムであるが、その移転や支援の方法論はフランス型のテクノクラシーに由来する。レッセ・フェール的に登場した私技術を公共事業体でいったん移転すべき技術として受け入れ、その後国内の私企業にさらに移転するプロセスは、「技術移転」や「技術支援」のモデルとなったのである。
第二次世界大戦後の日本は、それまでの「鬼畜米英」を突然ひるがえして、アメリカの占領をむしろ歓迎するように、アメリカの政治や経済あるいは教育制度に至るまで、社会生活のあらゆる局面を決定するシステムを、ほとんど無批判と言ってよいほど受け入れた。ここで展開された「戦後復興」は、政治的にはアメリカに主導されたものであったが、方法としてはフランス型のテクノクラシーに基づく「技術移転」や「技術指導」に依存していた。その意味で、日本の「戦後」もまた、サン=シモン主義的なテクノクラシーを踏襲している。
間接的にフーリエ主義を踏襲するアメリカニズムも、当然ながら「戦後復興」のプログラムに組み込まれた。それを「戦後復興」という点から論じるとすれば、第二次世界大戦後の日本に進められた「戦後復興」の特殊性について論じなければならない。思想的に拠るべきものがなくなった「戦後復興」がはじまった時から、アメリカニズムとその起源であるサン=シモン主義は、異教の地で新たな実験をはじめたのである。なるほど、敗戦は、戦後の日本に、既成の権威を否定した、新しい社会システムを生み出した。ところが、混乱を懸念するGHQ(連合国総司令部)が温存した、天皇制をはじめとする父権主義的な制度は、政治的に骨抜きになっただけで、責任のありかを問わないまま、官僚制度のなかであらゆる局面に生き残った。戦後の「高度経済成長」から「バブル経済」、そして現在の「バブル経済清算期」に至るまで、「戦後復興」の体制は依然として続いているとも言える。
このような「戦時経済」を特徴づけていたのは、サン=シモン主義的なアメリカニズムとしての復興であった。経済的にみれば、あらゆる生産、分配、交換手段をまずは戦勝国である連合国が握った。これが、日本政府の独立とともにそっくりそのまま委譲された。そして、戦後の労働組合組織も、アメリカ(GHQ)からもたらされたわけであるが、当然ながら、ここではテイラー主義が前提となっていた。あらかじめあらゆる経済的なポテンシャルが統制されているという点においては、「戦後復興」は「戦時経済」の持続なのである。日本の産業や経済の閉鎖性が国際的に指摘されて久しいが、保護育成することを名目として官僚主導で産業政策を実践していくある種社会主義的な傾向は、日本人の国民性といったありふれた理由によるものではない。当時のアメリカやヨーロッパがイデオロギーを超えて「産業主義」の傾向を強めていたことを考慮に入れると、「戦時経済」の持続としての「戦後復興」は、歴史的に必然であったのである。その結果、リベラルでもなく、民主的でもない経済体制ができあがったのは、当然の結果であった。全体主義的な「戦時経済」がアメリカニズムを内蔵する社会主義的な様相を帯びた「復興経済」に変わっただけなのである。それは、官僚指導の産業政策による技術的発展という意味で、テクノクラシーのアジア的発展のひとつとも言えるかもしれない。
日本の「戦後復興」は、計画や管理を尊重し技術を重視したサン=シモン主義的な面が強かったが、レーニン的社会主義、ファシズム、ニューディール政策、第二次大戦後のアメリカで顕著となった軍産学複合体といった体制とは大きく異なっている。そのもっとも顕著な違いは、軍事技術や戦略防衛構想を経済政策(あるいは産業政策)や政治的なプログラムに持ち得なかったことにある。結果として、「戦後復興」に自らの生活を委ねた戦後の日本人は、サン=シモンが理想化した「産業者」という人間の集団そのものだったのである。「復興経済」は東京を中心として展開されていったことは言うまでもないが、軍事技術や戦略防衛構想を経済政策(あるいは産業政策)や政治的なプログラムに持ち得なかったため、都市という空間の理想化を支えるイデオロギー(観念形態)や資本主義経済の交換や労働を基礎におくはずの「個人」のイデオロギーが問題視されなかった。東京は「戦後復興」によって再生したが、都市として復興したのではなく、「産業者・東京」として世界中どこにもないような人間の集団となったのである。
大規模な公共事業に基づく「土地神話」が「戦後復興」を支えてきたことからいっても、戦後日本の高度成長を促した「永遠の復興経済」は、軍事技術の参加が禁止され、「個人」のイデオロギー化を許さないような旧体制の温存によって、世界に類を見ないような「永遠の復興経済」というサン=シモン主義を進行させていったのである。

アメリカニズムの実験室

東京ディズニーランドは、アメリカニズムの実験という点からも、いくつかの重要な側面をもっている。それらは「永遠の復興経済」と関連しつつ、二〇世紀末の世界に、これまでどこにも出現したことのない、ユニークな空間を登場させ、かつてなかったような消費文化を演出している。
さしあってまず重要なことは、(当たり前のことであるが)ディズニーランドが「産業」であるという点である。ディズニーランドは、ハリウッドの映画産業の世界から生まれた。ハリウッドの映画産業の延長線上で進化をとげ、その進化の過程から東京ディズニーランドが誕生して一五年になる現在に至るまで、産業としての性格を維持・強化し続けている。ディズニーランドにとって、文化的に位置づけられることは、二次的な意味しかもっていない。それは、何はともあれまず産業であり、産業であることによって、われわれの生活の領域にユニークな現象をつくりだしえたのだ。
ディズニーランドで演出される「娯楽」が、歴史を対象としたものであれ、あたかも芸術作品のような形態で人々の知覚を支配しているものであれ、あるいはSF(サイエンス・フィクション)的な未来への希望を啓蒙するものであるにせよ、産業としてのディズニーランドは、欲望によって誘導された生き生きとした人間の集団に、さらなる欲望を働きかける。そのために産業者は、市場経済がはらんでいる「欲望」に、自らの想像力や技術や演出方法などを、適応させていかなければならない。産業者は、激しい市場経済の流れのなかから、欲望に見合う「何か」を取り出して来なければならない。ここから産業者のもつ無機的な非個人性の特徴をわれわれは見出すことができる。産業者は、いわば自分は市場経済という巨大な機械の一部品にすぎないという自覚をもって、その市場経済がもたらす欲望をデザインする。そのために、産業がもたらす速度と規模を重視するアメリカニズムにあって、芸術や文化が重視する歴史性や人間性は、あまり大きな意味をもたない。ディズニーランドは、誕生から現在に至るまで、このような産業者の自覚を失っていない。二〇世紀後半の、このような産業者がもつ影響力に、新しい時代の技術と経済のメカニズムが流れ込み、そこからディズニーランドは生まれたのである。市場経済における産業者としての自覚が、ディズニーランドの第二の源泉となっているのだ。
二〇世紀のアメリカの産業者たちは、不定形で手で触れることのできない「富」を重視した。そこでは、社会や文化は、あらかじめできあがってしまっている歴史観を描写したり、表現したりするものではなく、むしろ市場の見えざる力がもたらす「富」のなかから、意味や形態を立ち上がらせるものでなければならない、と考えられていた。そもそも、アメリカの精神世界にあって神は主役ではなかった。その神のかわりに、二〇世紀のアメリカの産業者たちは、市場経済の海に飛び込み、その「富」がはらんでいる速度や規模の力を魔法のように駆使して、「魔法の王国」という「新しい家」を追求しようとしていたのである。
そのような「新しい家」の創造は、「知的エリート集団」の自覚を促すことによって、一九世紀のアメリカで準備されていた。ロータリー主義(アメリカのロータリー・クラブを支えるエリート思想)は、現在まで継承されているサン=シモン主義右派と言える★六。
アメリカニズムは、サン=シモン主義の理想に寄り添うように進化してきた。そして、サン=シモン主義右派としてアメリカニズムは、二〇世紀の世界に、大きな影響力を与えつづけた。マンフレッド・タフーリは、ヘンリー・フォードの「知識人論」を参照しながら、生産・消費モデルのイデオロギー化について次のように述べている★七。

フォードは知識人が、直接生産サイクルのコントロールに参加することを想定しているのではない。知識人の助力が、このサイクルに対して、紛れもなく《意味を付与する》ことを考えているのだ。知識人が労働の領域に参加することで、生産および製品へのイデオロギー的な意味づけが可能になる。こうして、イデオロギーを含みこめるような生産・消費のモデルを新たに生み出すことが求められてくる。そしてその新しいモデルは、生産サイクルの再組織化のためにも、商品流通のためにも、その時点での社会のニーズに照応するものでなくてはならない。すなわち「生産」のイデオロギー的な意味づけによって消費の大衆化が同時に促されることを期待しているのだ。


ここで興味深いのは、フォードが、「生産」のイデオロギー化と消費の大衆化を同一視していることを指摘している点である。つまり、消費の大衆化は、アメリカニズムにとって、もっとも重要なイデオロギーである。前述したヴィクトリア・デ・グラツィアの『柔らかなファシズム』においても、アメリカニズムに注目しており、アメリカの産業化とイタリア・ファシズムとを対比させつつ、その比較を試みようとしている。
このようなアメリカニズムのイデオロギーが映画産業のダイナニズムに流れ込んだとき、これまでにない消費の大衆化が起こって、ディズニーランドが出現した。そのとき、アメリカニズムのイデオロギーは、ディズニーランドという娯楽産業のなかに、アメリカニズムの理想的な実験室を発見したのである。ディズニーランドは、手で触れることのできない「富」のなかから、世界中に数え切れないほどある歴史や神話をデフォルメすることによって、「新しい家」を内蔵したひとつの世界観を追求しようとしていた。それこそ、アメリカの産業者たちが、普遍的に絶対化できる「新しい家」であった。その普遍化と絶対化の意志は、「新しい家」を自覚するにつれて、大地と自然のなかから、さまざまな「風景」や「故郷」をとりだそうとしていたフーリエ主義者やホーソン、あるいはソローなどの思想そのものにほかならない。その実ウォルトは、動物や植物といった自然界を構成するメンバーを徹底的に擬人化することによって、そこから構成できる物語を映画というメディアを用いて、特異な「時間」として生産することに没頭した。それは、ウォルト自身が聞いたら激怒するかもしれないが、ドーポラヴォーロにも通じるような全体主義や生産のイデオロギー化が必要条件となるレーニン型の社会主義のエッセンスを含んでいたのである。
アメリカニズムは、近代社会の明晰さからの影響を陰に陽に受けつつ、ヨーロッパ人が否応なく背負っている個人主義の神話からも限りなく自由な立場で、ディズニーという産業者のアメリカニズムを、ぬいぐるみやポスターあるいは時計やアクセサリーといった市民生活に密着した工業生産品をとおして発揮しようとした。ディズニーランドは、生産のイデオロギー的な意味づけを与えられることによって、アメリカニズムの精神を、広く生活の底辺にまで広げ、そこからあの欲望に忠実な「新しい家」を追求する実験室でもあったのだ。
さらに、ディズニーランドは「永遠の復興経済」が進行している「産業者・東京」と出会うことによって、その世界をいっそう拡大する実験に着手した。ヨーロッパ的な都市の成り立ちから自由な産業者の集団である東京は、ディズニーランドが成長するための、三つ目の重要な要素となったのである。言うまでもなく、東京ディズニーランドは、「産業者・東京」が内蔵しているアメリカニズムと浅からぬ関係をもっている。ディズニーランドは、日本からもたらされた、ヨーロッパ的な近代産業主義とは大きく異なるユニークな経済現象のなかに、自分たちの「アメリカニズム」の先行者のひとりを発見したのである。
高度経済成長や「奇跡の復興」として表現される、日本の経済成長で特徴的なのは、そこに前提となっているはずの「個人」や「主体」といったイデオロギーの希薄さである。そこでは、西洋的な経済成長のように、その成長のイメージには明晰な歴史性がない。「個人」のなかに、力づよく富が生まれるという資本主義社会としての全体像がない。社会のなかの人間は、「永遠の復興経済」においては、常に曖昧なまま棚上げにされている。そこでは、人間の個体性や主体性といったイデオロギーよりも、「仕事」そのものがイデオロギー化している。日本語で用いられる「仕事」がもっているニュアンスは、論理的な説明が困難であると言ってよい。「仕事」は「労働」とは異なる概念であり、「労働」とその補完関係にある「教育」や「余暇」を隠蔽した。
西洋的な伝統からすれば、宗教性が極端に希薄で異教的とも言えるような「産業者・東京」は、あきらかに、アメリカニズムのイデオロギーにとって魅力的な実験室であった。「産業者・東京」での成功は、アメリカ国外でディズニーランド事業を拡大していくための試金石となるはずだからだ。記号化したディズニーのキャラクターは文化的に成熟していない人々を対象としていようとも、アメリカ以外の国では、けっして文化として扱われるものではない。異教的な「産業者・東京」も、その例外ではない。だからこそ、産業者としてのディズニーは、ディズニーのアメリカニズムが地球規模で永続化することを検証する上で、もっともスリリングな実験の可能性を「産業者・東京」という人間の集団に発見したのだ。こうして東京ディズニーランドは、アメリカニズムのイデオロギーを吹き込まれた産業として、ディズニーが発揮するアメリカニズムを通して、消費の大衆化という二〇世紀最大の実験を引き受けることができたのだ。
二〇世紀末の日本人が、東京ディズニーランドに深い共感を見出すのは、「極端な日常」が効率よく演出されているためである。なぜなら、日本人はこれまで一度たりとも、自分たちの思考で「無限の博愛」に基づくユートピア建設を構想したことのない国民であり、そこでは娯楽はつねにイデオロギー化した「仕事」とともにあって、「仕事」によらない余暇や娯楽などが、楽しいと感じられるはずはなかったからだ。東京ディズニーランドの「極端な日常」は、「産業者・東京」のもっとも象徴的な二〇世紀末的状況であり、その状況はまたわれわれ日本人のものであることも確かである。


★一──ヴィクトリア・デ・グラツィア『柔らかいファシズム』(豊下楢彦・高橋進・後房雄・森川貞夫訳、有斐閣、一九八九年)。
★二──ポール・ヴィリリオ『速度と政治』(市田良彦訳、平凡社、一九八九年)、四三─四五頁。
★三──ヴィルヘルム・ライヒ『階級意織とは何か』(久野収訳・解題、三一新書、一九七四年)、四三─八八頁。
★四──大井浩二『ナサニエル・ホーソン論──アメリカ神話と想像力』(南雲堂、一九七四年)。
★五──桜井哲夫『メシアニズムの終焉──社会主義とは何であったのか』(筑摩書房、一九九一年)、一三三─一三八頁。
★六──ロバート・N・フラー『心の習慣──アメリカ個人主義のゆくえ』(島薗進・中村圭志訳、みすず書房、一九九一年)、二〇六─二一四頁。
★七──マンフレッド・タフーリ『建築神話の崩壊』(藤井博巳・峰尾雅彦訳、彰国社、一九八一年)、七九頁。

>桂英史(カツラ・エイシ)

1959年生
東京藝術大学大学院映像研究科教授。メディア研究。

>『10+1』 No.10

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>マンフレッド・タフーリ

1935年 - 1994年
建築批評家、歴史家。