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『ラ・ロッシュのアルバム』:ル・コルビュジエ──一九二〇−一九二二 | 岩谷洋子
"Album La Roche": Le Corbusier 1920─1922 | Iwaya Yoko
掲載『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) pp.123-128

『ラ・ロッシュのアルバム』は、ル・コルビュジエの『全作品集』の一部であるともいわれている★一。実際それは、『全作品集』と同じような装丁であり、サイズも横長の長方形と似通ったもので、全八巻のこれら作品集のためのイントロダクションともいえるものである。特に、一九一〇年から二九年の作品を扱う第一巻の内容についての構想が、この画帳には示されているのである。この画帳が『ラ・ロッシュのアルバム』と呼ばれるのは、所有者の名前に由来するのだが、これまでラ・ロッシュの名は、この画帳に関してよりもむしろコルビュジエがパリのオトゥイユに設計した住宅、「ラ・ロッシュージャンヌレ邸」によって今まで多く取り上げられてきたのではなかろうか。
ラウル・ラ・ロッシュ(Raul La Roche 一八八九ー一九六五年)は、コルビュジエと同年代で出身もスイスと同国であり、コルビュジエはパリでの創作活動を開始して間もなくの一九一八年にラ・ロッシュと知り合いになって以来、絵画制作や住宅の設計から雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』の刊行にいたるまで、ラ・ロッシュから常に厚意ある支援を受けていた。それに対する謝礼の意味を込めて、コルビュジエがラ・ロッシュに贈呈した一冊の画帳が『ラ・ロッシュのアルバム』と呼ばれることになるのである。銀行家ラ・ロッシュは絵画の収集家でもあり、以前は保守的な絵画ばかりを収集していたのだが、コルビュジエやそのパートナーである画家アメデ・オザンファンと知り合ってからは、キュビスムなどのアヴァンギャルドな絵画に関心を移し、コルビュジエらが『キュビスム以後』を著わし、キュビスムと対立する姿勢をとるためピュリスムを確立してからも、常に理解を示していた。このように、ラ・ロッシュは、単に収集家としてコルビュジエやオザンファンの絵画を購入したばかりでなく、彼らを支持したがゆえにラ・ロッシュにとってはあまり有り難くない評判を受けてしまうようなときでさえ、強固な態度ではないにしても彼らに対する信頼を変えることなく、ピュリスムを受け入れていた。
ところで、コルビュジエがこの画帳をラ・ロッシュに贈呈したのは一九二四年の末のことであろう。なぜなら、ラ・ロッシュが一九二五年一月初めに、これに対する礼状をコルビュジエに送っているからである。その礼状の中でラ・ロッシュは、コルビュジエに大変嬉しい気持ちを率直に伝えると同時に、画帳を他人に手渡すコルビュジエの辛い気持ちを気遣っている。というのもラ・ロッシュが述べるように、建築家にとって自己のスケッチや構想を描きとめた画帳を手放すというのは、並大抵のことではないだろうし、それどころか、その仕事を進める上でも支障をきたしかねないことだからだ。しかし見方を変えると、コルビュジエが自らの画帳を贈呈したのは、ラ・ロッシュに対する感謝の意もさることながら、一九二四年の終わりまでにはコルビュジエはそれを手放すことができた、すなわち、そこに記した事柄についてはすでに十分な検討を済ませ、さらに新たな段階へと構想をまとめていた、と解釈することも可能ではなかろうか。
全部で四五枚のこの画帳に綴られた数々のスケッチからは、スタニスラウス・フォン・モースが指摘するように、「ピュリスム」、「小さな家」、「三〇〇万人のための現代都市」、「パッラーディオを巡るヴェネツィア・ヴィチェンツァ旅行」という四つのテーマが浮かび上がってくる★二。スケッチはいずれも一九二〇年から二二年にかけて描かれたものである。この一九二〇年代前半は、コルビュジエが、オーギュスト・ペレやドイツ工作連盟、P・ベーレンスといった当時の前衛的な建築家たちとひととおり接触した後、東方への旅を終え、アグレッシヴに社会に働きかけるべく自らの拠点をパリに据え、画家・建築家としての活動を開始した時期に相当する。この頃までにはコルビュジエは、先にあげた四つのテーマについての構想を何らかの形でまとめあげていたのであろうか。各々のテーマに即して考えてみたい。
さて、まず初めに取り上げられるものとしては、やはり画家ル・コルビュジエ(はじめは本名ジャンヌレの他幾つかのペンネームを用いていたが、一九二〇年以降にはル・コルビュジエと名乗るようになった)による鉛筆のデッサンであろう。一九一八年、コルビュジエはオザンファンとともに『キュビスム以後』を著わし、それまで同調してきたキュビストたちとは決別し、立場を異にすることを宣言した。四次元性やアフリカの原始芸術に関心をもつキュビストたちが選んだ方向に対し、コルビュジエとオザンファンは、理性的で構成的な絵画表現をめざし、ピュリスムをもって反撃したのである。
パリでピュリスムを提唱する以前にも、コルビュジエは建築や人物を鮮やかな色彩によって豊かな表情をもたせて描いていた。それに対してピュリスム絵画の研究をはじめてからのコルビュジエは、明確な輪郭線によって画面を構成し、色彩も抑えたものを選ぶようになった。しかし、この画帳の中の多くの鉛筆によるスケッチ[図1]が示しているのは、こうした差異ではなく、ピュリスト・コルビュジエにおける変化、すなわち、コルビュジエが一九一七年から一九二〇年頃までに描いたピュリスムの絵と、それ以降にこれらのスケッチに基づきながら描いたピュリスムの絵との違いである。明らかに、後者は前者とは異なる着眼点によって描かれたものである。コルビュジエがピュリスムの研究を始めた一九一七年から二〇年頃までの絵画においては、グラスやギターなどが単純化されながらも、なおありのままの形態が具体的に表現され、複数の対象が重なり合うにしても、それらには透明性が与えられていないため、輪郭線が重なり合うことはない。これをいっそう突き進めていくと、やがてはオザンファンが一九二〇年代半ばになっても依然として描き続けていた表現まで到達するのであろうが、コルビュジエがそうした方向を選び取らなかったことは、これらのスケッチによって一目瞭然である。

1──「サイフォンのある静物」鉛筆、1921(『ラ・ロッシュのアルバム』6葉表)

1──「サイフォンのある静物」鉛筆、1921(『ラ・ロッシュのアルバム』6葉表)

一九二二年頃から後にも、コルビュジエが日常的なものを対象とした静物画を描き続けていたことには変わりがない。しかし、そこでは幾何学的な形態にまで還元された物体が透明であるかのように、その輪郭線が幾つも重ね合わされ、そうして囲いとられたそれぞれの部分は微妙な色調によって塗り分けられているのである。以前にはコルビュジエは、たとえばバイオリンには独特のカーブをもった輪郭線が得られるまで形態の単純化を図ったが、そこに四本の弦や具体的な曲線を描いているうちは、どれほど単純化をすすめたところで、物自体がもつ、直感的にそれが認識されるところの固有のフォルムを引き出すことはできない。こうした表現方法を獲得しようとして、コルビュジエが絵画の全体の構図や色彩について幾度も案を練り直し検討を重ねた様子が、『ラ・ロッシュのアルバム』の中のこれらの鉛筆画から窺うことができる。そこには、コルビュジエの中での新たなピュリスムの始まりが記されている。それらはまた、一九二五年の来たるべきオザンファンとの決裂を暗示しているかのように、絵画における彼らの考え方の違いを明確に示しているのである。
コルビュジエ、オザンファンとラ・ロッシュとのつき合いは、単にラ・ロッシュが彼らの絵を購入することにとどまるものではなかった。ラ・ロッシュは有名な画商カーンヴァイラーが競売をした際に(一九二一ー二三)、絵画の購入をコルビュジエとオザンファンにまかせて、彼らをそこに遣わせたのである。コルビュジエはこれを機に、ラ・ロッシュにある進言をした。キュビスムの絵画や、コルビュジエ、オザンファンによるピュリスムの絵画を飾るのには、これまでどおりのラ・ロッシュのコンスタンティーヌ通りのアパートではふさわしくないと。こうしてコルビュジエは、現在ル・コルビュジエ財団のおかれるパリのオトゥイユに、ラ・ロッシュのコレクションにふさわしい住宅を設計することになったのである。
このラ・ロッシュの住宅は、コルビュジエの兄アルベール・ジャンヌレの住宅とL字形に一体化されて設計されている[図2a・2b]。白く単純な形態をもつこの住宅においては、ピロティや連続する横長の窓、屋上庭園といった、コルビュジエの住宅における建築言語が読み取れる。吹き抜けをもちスロープが配されたラ・ロッシュ邸の〈建築的プロムナード〉の空間構成についてはこれまでにも論じられているので★三、その内部空間については特に取り上げないが、むしろここではコルビュジエが、当初そこに計画していた集合住宅のうちの一つとしてこの住宅を構想していたことについて触れておきたい。一九二三年に、オトゥイユの袋小路をコルビュジエの知人や親戚を含めて六件の個人住宅で囲む集合住宅を建設する予定であった。結局、一九二五年に実現されたのは、そのうちのコルビュジエの兄アルベールとラ・ロッシュの住宅二件のみであった。
こうして絵画における「ピュリスム」に呼応するかのように、建築においても、コルビュジエは一九二〇年代前半には白い箱のような住宅を建てている。この時期は、いわゆる「白の時代」の始まりに相当する。この画帳の中に残されている住宅のスケッチとしては、「シトロアン住宅」についてのインクによるスタディが一枚ある。これはコルビュジエが、材料やコストの点についても検討し、量産化が容易であるように提案したものである。

2a──「ラ・ロッシュージャンヌレ邸」現在の絵画展示室、パリ

2a──「ラ・ロッシュージャンヌレ邸」現在の絵画展示室、パリ

2b──「ラ・ロッシュージャンヌレ邸」1923

2b──「ラ・ロッシュージャンヌレ邸」1923

しかし、この画帳の多くのページにおいてコルビュジエが考えを巡らせていたのは、住宅自体のスタディこそ残されていないものの、彼の両親のための住宅であろう。その敷地として選んだレマン湖の眺望について、コルビュジエは多くのスケッチを残しており、それらは淡い色調を用いたピュリスム絵画からは想像ができないほど鮮明に、パステルや水彩で豊かに彩色されているのである[図3]。
一九二五年に完成されたコルビュジエの両親の家の計画[図4a・4b]については、後に出版された『小さな家』(一九五四)というコルビュジェ自身の著作によっても窺うことができる。コルビュジエが敷地の選定を後まわしにして、まずは住宅を別個に設計していたとしても、プランニングの中心に据えられていたのは、やはり人間の生活の場としての住宅とそれを取りまく自然との関係であったに違いない。敷地として選んだヴェヴェイが、いかに観光産業によって人口が増加し、そこにホテルが建ち並び環境が乱されようとも、そうしたことはコルビュジエの敷地選定においては注視されていない★四。コルビュジエにとってヴェヴェイはレマン湖の眺望を得られる地として重要だったのだ。

3──「レマン高原の眺望」鉛筆・パステル、1922(『ラ・ロッシュのアルバム』18葉表)

3──「レマン高原の眺望」鉛筆・パステル、1922(『ラ・ロッシュのアルバム』18葉表)

4a──レマン湖畔の「小さな家」湖からの外観

4a──レマン湖畔の「小さな家」湖からの外観

4b──「小さな家」の平面図、FCL 9376: Type L, Dessin d'éude, plan avec améagemant intieur.

4b──「小さな家」の平面図、FCL 9376: Type L, Dessin d'éude, plan avec améagemant intieur.

この一小住宅を、横長の連続窓をもちフラットルーフの白い箱のような形態をした、コルビュジエの住宅の早期の例として解釈するならば、それを取りまく環境に対する独立性といった類似点も考え合わせて、それは後の一九二九年のサヴォア邸にいたる方向性を指し示しているとも言えよう。また一方で、自然を生活に採りこんだ住宅という観点からみると、そこにはコルビュジエが都市にまで持ち込んだひとつのテーマが指し示されている。工業化が急速に進みつつある都市には自然がない。失われつつある人間と自然との関係を再構築しながら都市に生活するには、住宅には人工的に自然を採りこまねばならない。こうしたコルビュジエの考えは、広場や空中庭園が配置された一九二二年の「イムーブル・ヴィラ」の案を通して、さらにこの『ラ・ロッシュのアルバム』で第三のテーマとして取り上げた「三〇〇万人のための現代都市」(一九二二)や「レスプリ・ヌーヴォー館」(一九二四ー二五)を経て、一九二五年には、工場で働く労働者のための住宅としての「ペサックの集合住宅」に結実する。実際にコルビュジエが集合住宅を計画する機会に恵まれたのは、先述したように、小規模ながらパリのオトゥイユの六件の住宅を構想した際の一九二三年のことであり、結果として実現されたのは兄アルベールとラ・ロッシュの住宅の二件のみであったが、そうした個人住宅においてもやはり、都市生活に緑を採り入れようと、コルビュジエは屋上庭園を設けているのである。
一九二二年、コルビュジエはサロン・ドートンヌにおいて「三〇〇万人のための現代都市」という計画を提案した。ここではコルビュジエは緑と太陽の溢れる環境と、都市施設やオフィス・ビル、都市交通との併存を図りながら、全体を幾何学的に計画した。『ラ・ロッシュのアルバム』においては、鉛筆によるメモ書きやスケッチ、図によって、その構想が四一枚目から四三枚目まで、表裏合わせて計八ページにわたって記されている[図5]。この「現代都市」案においてコルビュジエは、先のシトロアン型住宅を集合住宅に応用した「イムーブル・ヴィラ」を、機能にしたがって峻別した都市の中での住宅区に適用させている。
最後にあげるテーマは、「パッラーディオを巡るヴェネツィア・ヴィチェンツァ旅行」である。コルビュジエがパッラーディオの建築を見にヴェネツィアやヴィチェンツァを旅行したのは、おそらく雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』の記事で取り上げようとしていたためと考えられている★五。この画帳の中に描かれているのは、パッラーディオの建築についての綿密なスケッチではなく、水の都ヴェネツィアにパッラーディオが設計したイル・レデントーレ聖堂やサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂を遠くから眺めた水彩画、およびヴィチェンツァにおけるパッラーディオのヴィッラやバシリカについての鉛筆でのスケッチである。ヴィチェンツァにおけるスケッチについては、モースは写真を撮った時のメモであるとしているが、そう考えると、平面や立面の構成よりも、ここでは見た目の様子がすばやく描きとめられている様子が納得できる。それでは、ヴェネツィアの場合はどうであろうか。
コルビュジエが両親の「小さな家」を設計した際には、住宅のプランニングが敷地設定に先行したため、住宅がヴェヴェイに〈パラシュート降下〉することになったが★六、それと同様に、これらの水彩画においては、ヴェネツィアという都市環境の中にパッラーディオの建築が〈パラシュート降下〉したかのようにスケッチされている[図6]。ヴェネツィアの中世の街並みは、コルビュジエのスケッチの中では自然に溶け込んでいる。長い歴史の中で人間が築きあげた歴史的な街並みさえも、イル・レデントーレ聖堂やサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂をとりまく自然と化している。ここでは、建築と環境の二方向から考察される関係のうちの一方、すなわち、住宅で考えられるような建物の内側からの眺めは問題ではない。他の一方、すなわち揺らぐ水に映し出される絵画的な環境の中に浮かぶ、クーポラを掲げたマッシヴな聖堂の眺めが重要なのである。コルビュジエはこれらの聖堂のスケッチを何枚も重ねながら、自然の中に確固として存在し、もはやそれなしにはその場のアイデンティティが失われてしまうほどの建築と環境との一体性を読みとったに違いない。
『ラ・ロッシュのアルバム』に描かれたスケッチは、初めのところで述べたように、パリでの活動を開始してからしばらく後の、一九二〇年から二二年にかけての短い期間に描かれたものであるが、コルビュジエが抱えていた幾つかの基本的構想はその頃までにはまとまりつつあったと言うことができよう。後の作品にはそれらの発展した形や多くの共通項をもつ計画が認められるのである。

5──「300万人のための現代都市」の準備スタディ、鉛筆、1922(『ラ・ロッシュのアルバム』40葉表

5──「300万人のための現代都市」の準備スタディ、鉛筆、1922(『ラ・ロッシュのアルバム』40葉表

6──「イル・レデントーレ聖堂の眺め」鉛筆・水彩、1922(『ラ・ロッシュのアルバム』32葉表)

6──「イル・レデントーレ聖堂の眺め」鉛筆・水彩、1922(『ラ・ロッシュのアルバム』32葉表)


★一──スタニスラウス・フォン・モース『ル・コルビュジエの画帳 ラ・ロッシュのアルバム』の解説書、同朋舎出版、一九九七年、九一頁。
★二──同、八ー九頁。
★三──富永譲『ル・コルビュジエ 幾何学と人間の尺度』[建築巡礼12]、(丸善株式会社、一九八八年)。
★四──モース、前掲書、六七ー六九頁。
★五──同、二四頁。
★六──同、六三ー六五頁。

>岩谷洋子(イワヤ・ヨウコ)

1964年生
東京理科大学工学部建築学科助手。建築史。

>『10+1』 No.10

特集=ル・コルビュジエを発見する

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>小さな家

1980年

>東方への旅

1979年

>サヴォア邸

パリ 住宅 1931年