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富士山と東京ディズニーランド | 桂英史
Mount Fuji and Tokyo Disneyland | Katsura Eishi
掲載『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ, 1997年05月10日発行) pp.207-218

はじめに

これからわれわれは東京ディズニーランドという謎の空間を読み解く作業に着手する。二〇世紀が終わろうとしている今、文明批判や近代批判は、百花繚乱の様相を呈している。環境保護運動やジェンダー論といったフィールドなども、その範疇に入るのかもしれない。メディア・テクノロジーの飛躍的な進化に伴って、「リアリティ」や「身体」あるいは「質感」といった文脈で、文明批判や近代批判が論じられることも少なくない。しかしながら、そのフィールド独自に文明批判や近代批判が論じられ、そこに論理的な妥当性があるにしても、依然として文明批判や近代批判の輪郭はぼんやりとしたまま、われわれの日常に淀んでいる。とりわけ、「日本近代」や「日本文化」などというテーマに近づこうとすればするほど、そこから遠ざかっていく。これまで数多くの人々が敢然と立ち向かい、丹念に分析しようとすればするほど遠ざかっていく疲労感を感じることが少なくない。そこで、いまだ輪郭の見えぬままわれわれの日常に淀んでいる「日本近代」や「日本文化」というテーマを、東京ディズニーランドを通じて追跡してみることにした。東京ディズニーランドという特殊な空間ができあがった背景を通じて、東京という都市を読み解き、さらには日本における文化や消費をめぐっての欲望を解読してみようというわけである。
本稿では、東京ディズニーランドの成功による経済効果を分析するつもりはないし、記号論的な分析や社会学的な方法論に依存して、「日本特殊論」を強調するつもりもない。ここで、わさわざ東京ディズニーランドを対象として明らかにしようとしていることは、東京ディズニーランド誕生の背景にある屈折した近代主義を摘出して、その摘出された近代主義がはらんでいる「日本近代」とか「日本文化」などの茫漠としたテーマの輪郭を少しでも明確にすると同時に、世界でも類を見ない東京という都市の奇妙さについても丹念に解読してみようというわけである。もし「日本近代」や「日本文化」というテーマの解読に依然として意味があるとすれば、東京ディズニーランド誕生の背景となっている「高度経済成長」や「土地神話」という奇妙な「神話」にも直面することになろう。東京ディズニーランドは、単に「ディズニーランド東京支店」ではない。東京ディズニーランドには、単なる都市論の要素を超えた文明批判の要素が集約されているはずだから、そこに接近しない手はない。問題は、「東京」でもなく、「ディズニーランド」でもない。あくまで、本稿は「東京ディズニーランド」を手がかりとして、文明批判や近代批判あるいは日本近代というテーマが陥ってしまいがちな疲労感を乗り越えなければならない。

東京ディズニーランドはなぜ浦安にあるか

誰でも知っていることであるが、東京ディズニーランドは、正確には千葉県浦安市美浜の六〇万平方メートルの埋め立て地に位置し、驚異的なことにオープン以来、年間一千万人以上の来場者数を維持している。この浦安という場所に東京ディズニーランドが進出しその事業が一応の成功を収めている理由は、すでに多くの指摘がある。簡単にまとめると、東京圏あるいは首都圏という大消費地が控えている上に、千葉県成田市にある新東京国際空港ともアクセスがよく、商圏と交通アクセスとを同時に兼ね備えた立地であることが、大きな経済効果をもたらしたことにあるとされる。そもそも、三井不動産、オリエンタルランド、京成電鉄によるディズニーランド誘致も、その集客の可能性を最大の根拠としていた。
もともとディズニーランドは、ウォルト・ディズニーの発案によって一九五五年「魔法の王国(マジック・キングダム)」遊園地として実現した。入場者数は開園七週間で一〇〇万人を突破し、その後は後期資本主義の速度感覚に呼応するかのように、ディズニーランドは単なる遊園地としての役割をはるかに超えて、新たな娯楽空間としての役割を拡大してきた。もちろん、ディズニーの開発したオーディオ・アニマトロニクスなどのテクノロジーは、一九六四年のニューヨーク世界博覧会でも活躍し、テクノロジーそのものがショーマンシップを備えていることを具体的に示したのも、ディズニーランドであった。その点で、一九八三年一一月に開園した東京ディズニーランドは、急速な高度成長が一段落した大都市東京に一連の「民間活力導入」を引き継いで誕生し、一九八〇年代に日本各地に拡がった「テーマパーク」や「メセナ」といった大量消費型イベントの先駆けにもなった。
一般的に、東京ディズニーランドは、後期資本主義に顕著なマネーゲームと快楽的な消費社会に陶酔する一九八〇年代の象徴として語られることが多い。しかしながら、東京ディズニーランドは、一九八〇年代へ接続する一〇〇年以上に及ぶ社会状況に応じて誕生したという推移を考慮して語られることは少ない。事実、東京ディズニーランドの誘致そのものが、オイルショック以前からはじまっていた。その辺りの事情は、東京ディズニーランド建設のプロジェクトも指揮していた当時の三井不動産社長江戸英雄の述懐に詳しい★一。とりあえず、簡単に振り返っておこう。
一九七〇年代に入った当時から、東京近郊の大型レジャーランド開発を見込んだ「開発」に興味を示した企業は多くなりつつあった。大阪万博とその経済効果も、大きな引き金になったはずである。もちろん、ディズニーランド誘致をねらう企業も、少なくはなかった。中でも、三菱と三井はそれぞれの事情で、ディズニーランド誘致を本格的に進めた。三菱地所が富士スピードウェイ周辺の土地をディズニーランド用地として提案したのに対して、三井不動産はすでに千葉県との間で昭和三〇年代から進めていた浦安の六〇万平方メートルの土地を東京ディズニーランドの用地としてディズニー側に示した。この三菱と三井の誘致合戦に応じて、アメリカから調査に訪れ、この二箇所を同時に視察したディズニー首脳は、先にもあげた経済効果の期待値がきわめて大きいという理由で、浦安での建設に同意したとされている。しかしながら、少し考えてみると、このディズニー側の意志決定にはいささか不自然さが伴う。都市に近接したウォーターフロントが、ブルジョアジーのリゾート感覚を高揚させることは、アメリカのリゾート開発でもコニーアイランド・プロジェクト★二 以来の伝統になっているが、アナハイムも、オーランドも、大都市周辺の湾岸沿いに立地しているわけではない。本場のカリフォルニア州アナハイムにあるディズニーランド周辺は、典型的なカリフォルニアの農業地帯であり、ロサンゼルスという大都市とそれほど遠くないとはいえ、浦安ほど大都市に近接していない。フロリダ州オーランドのディズニーワールドになると、大都市周辺の消費地から近いという点を考えると立地はもっと悪い。「ちょっとついでに行く」なんてことは、とてもできない。フロリダ最大の都市マイアミからも決して近くない。
大都市や海に近接した立地という点からすれば、ディズニー側は東京ディズニーランドの建設候補地として、富士山麓を選んでも浦安を選んでも大差はなかったはずである。事実、その当時の状況から言って、いくら東京に近接しているとはいえ、浦安は日本でも知名度も低く、後に「都市型リゾート」とよばれるレジャー産業が日本に定着する保証もどこにもなかったはずである。にもかかわらず、ディズニー側が東京に近接した浦安の候補地を手放しで絶賛し、その足で合意書に署名するほどの経営判断を下した根拠は何だったのだろうか。これは、もちろん、潜在的な交通アクセスや商圏拡大などの可能性を見込んでいたとしても、いささか乱暴とも言える意志決定の裏にはもっと深い理由があると考えるのが妥当であろう。
輸入元であるアメリカにおける二つのディズニーランド(アナハイムとオーランド)の立地とその観客の獲得に関しては、「近代的ツーリズム」や「ユートピア観」あるいは「家族」といったいささか伝統的な社会学的観点を含めて、「二〇世紀のディズニー」という点からより広く論じなければならないので、別稿で改めて詳細に論じる予定である。
東京ディズニーランドの立地が成功の背景となっているのだとすれば、まずは東京(江戸)という空間について論じなければならない。東京に伝統的な都市論は通用しない。特殊性が際立つだけである。東京を都市として把握しない方が、東京ディズニーランドという文化装置に接近できるし、東京という空間をより正確に把握することにもなろう。そこで、まず東京(江戸)にあって、人間の集団とその集団化した背景がどのように人々の生活様式を変容させていったか、あるいは変容を余儀なくされたか、という点について論じるための準備として、ここでは二つほど仮説を立ててみることにした。その一つは、「富士山」の存在である。もう一つは、日本の高度成長を支え現在に到るまで続いている「土地神話」というテクノクラシーである。

富士山という遠近法

まずは第一の仮説、富士山と東京ディズニーランドといういささか意表をついた関係論に東京ディズニーランド成功をめぐるひとつの論の道筋を求めるのは、一歩間違えば暴論になるかもしれない。しかしながら、先にも述べたように、富士山麓が候補地のひとつとなっていて、それをディズニー側が排除したことには、東京ディズニーランドが成功した背景としてやはり一定の解答を与えておく必要があるだろう。また、富士山という山の存在が江戸時代後期以降、東京の日々の生活やツーリズムと深く関係していることに関して多くの指摘があることを考えても、富士山の存在は避けて通れないように思う。
とりあえず、富士山麓に東京ディズニーランドがあって、多くの人々が集まっていることを想像してみるとよい。もちろん中央ゲートから園内に入ると、シンデレラ城がキッチュな威容を誇っているはずだ。ジャングル・クルーズも賑わっているに違いない。ところが、ふと目を上げると、園内のどこからかは必ず富士山が見えるに違いない。この美しいコニーデ型火山である富士山は、われわれはもとより、日本を訪れる観光客も必ず目を奪われるだろう。どんな高い「城壁」を作ったとしても、富士山はどうあっても、富士山麓に立地している以上人々の視覚に入ってくるに違いない。富士山がディズニーランドと共鳴し合うことによって、アメリカ文化の「王国」であるディズニーランドと富士山が共存するレジャーランドとなるわけである。もし三菱地所がディズニー側と富士山麓での建設に同意していれば、その相乗効果を期待したに違いない。ディズニーランドを訪れる人々が富士山を目の当たりにすることは、ディズニー側にとってはデメリットであるに違いない。シンデレラ城に富士山を眺望するために登ることは、「魔法の王国」の陶酔感を薄めてしまいかねない。これは、ディズニー側にとってあってはならない状況なのである。
もしディズニーが富士山を嫌って浦安にディズニーランド建設の意志決定をくだしたとすれば、やはりディズニー側の調査は、誘致する日本側の予想をはるかに超えた綿密な調査と分析の結果という以外ない。経済効果だけに気を取られていて、三井も三菱も富士山の表象としての強度にそれほど神経質ではなかったはずである。ディズニー側が経済効果と同じぐらい重視していたとしても、誘致する側にはまるで関心を示さなかったに違いない。後に述べるように、誘致する側にしてみれば、土地を獲得しその土地を運用することだけがもっとも重要な問題であったのである。
「魔法の王国」の陶酔感を薄めてしまいかねない霊峰「富士」の存在は、明治以降のツーリズムだけでなく、日本の近代化が背負ってきた政治神学を考える上でも、重要な問題をはらんでいる。富士山は、その霊峰としての役割のほとんどを江戸時代に獲得したと言って過言ではない。葛飾北斎や安藤広重が富士山を積極的に描こうとしたのも、無理はない[図1・2]。庶民たちのほとんどが、その信仰心を「霊峰」富士に向けていたのだから、富士山はあらゆる図像(イコン)を超える突出した位置を獲得していたのである★三。富士山は、江戸の人々に畏敬され、そのイコンとしての役割を急速に大きくしていったのである。江戸八百八講と呼ばれるほど、富士信仰の講社は一八世紀に入るとさらに広がっていた。「安産の神様」や「火災除けの神様」として圧倒的な支持を得ていた。乳幼児死亡率が高く、火事による火災被害が心配な江戸の庶民たちは、富士山に住むとされ山神として奉られている木花咲耶姫への深い信仰心を寄せた。木花咲耶姫は、全国各地に点在する浅間神社の祭神となっている。さらには、富士山への畏敬の念を身体的に表現する集団として富士講が生まれたことも、富士山信仰のネットワークを拡大した。江戸に住む人々は、はるか遠くに美しい姿を見せる富士山に自らが生活する空間との遠近感を感じざるを得なかったのである。
江戸時代後期から明治初期にかけて、富士山をめぐっての透視図法が定着した。つまり、江戸時代後期から東京という都市観や自然観は、富士山を消失点とする遠近法によって認識されることになった。明治初期の東京がきわめて荒廃していたことを考慮しても★四、東京と富士山との関係はきわめて重要である。東方の都である東京は、読んで字の如く「ひがしのみやこ」であるが、みやことは「聖なる(み)」+「家(や)」+「場所(こ)」なのである。ところが、「みやこ」は一朝一夕にはできない。東京が「みやこ」として確立するまでには、明治維新から数十年の時間を要した。このあたりの経緯に関しては、藤森照信が『明治の東京計画』で明晰に論じている★五。また、都市計画以前に考慮されなければならないのは、視覚的な表象の役割である。多木浩二が指摘しているように、東京は明治維新から首都として機能していたわけでなく、「巡幸」のトランジット・スペースであった★六。「神の視覚化」つまり「巡幸」が描かれた絵はがきや「御真影」が登場したり、「日の丸」が定着するまでは、表象としての富士山の役割はもっとも大きな位置を占めていたと言えよう[図3・4]。
富士山をめぐる透視図法に基づく江戸の生活が「家」を感じることになったと言っても過言ではないであろう。江戸(東京)に住む人々にとって実際に生活する空間を理想化していたわけではない。富士山との関係を理想化し、そこにひとつの「生きられた家」を実感することになったのである。江戸や東京に住む人々にとって、あくまで、表象としての富士山との距離感が常に自然観であると同時に、「家」であり「場所」であり続けたのである。
型・形式の導入によって、均質な空間を認識する祖型が生じ都市という認識もそこから生まれるといった近代批判は、それはそれで論理的である。ただ、無限遠の地点からデカルト的空間を俯瞰することが、均質な空間を保証することになるのか。そのことは、経験的な記憶の範疇に属するもので、その実きわめて心理的である。その記憶の心理的な相互作用に基づくものだとすれば、富士山と江戸(東京)をめぐって重要であることは、富士山という消失点である。富士山に観念的な情念が回収され消失することによって、江戸(東京)は均質的な空間として、すなわち「家」や「場所」として認識される。
それを典型的に示す例が、一八世紀の安政年間から各地で爆発的に流行した「富士塚」という富士山のミニチュアである[図5]。その流行に富士講の活発な活動とその祭事が関係していることは言うまでもないが、自らの居住地域周辺に富士山のミニチュアを作成し、模造品の富士山から広がる自らの生活空間を眺望し、「住む」ことを実感することになった。その「富士塚」のような富士山の擬似体験は、明治以降も東京の人々に広まっていく。明治二〇年、浅草六区に登場した「富士縦覧所」は、その典型である。明治期から大正期にかけて、塔の形態を備えた建築物が数多く建てられたことも、富士山をめぐる深層と関連するとの指摘もある★七。もちろん、そのような擬似的な富士山体験は、全国的にも数多く誕生し、そして世俗化していくことになる。この世俗化のプロセスで、日本のツーリズムが確立していくのである。
この富士山をめぐる擬似的な体験への欲望は、裏を返せば、均質な空間を富士山との関係に見出さなければ、富士山という観念の消失点を認識できず、「家」という居住空間も実感することもできないということになる。富士山を情念の消失点として認識することが、江戸時代後期から信仰として急速に定着することになり、それが明治維新以後の「家」を支えることになったのである。東京は富士山という消失点に支えられてきたと同時に、「巨大な家」としての空間認識によって成り立っていたのである。
文明に対する批判的な根拠として機能する「自然」は、絶対的な規範として避け難く外部的かつ他者的な存在として位置づけられなければならない。山を情念の消失点とする遠近法は、まさに外部的かつ他者的な存在としてじゅうぶんに機能する「霊峰」としての役割をすでに確立していた。それは天理教や大本教などにも共通するこの時期に特徴的な自然観であり、それは攘夷思想と接続していくと同時に、山を情念の消失点とする遠近法は、「聖」と「俗」との境界を一手に引き受ける表象としての役割を担ったのである。富士山は、それを顕著に示すひとつの例に過ぎない。もちろん、明治期にもさまざまな人々がこのことに着目し、東京の都市計画を進めていった。東京(あるいは東京近県)に「富士見町」や「富士見台」あるいは「富士見通り」といった地名が今でも数多く使われていることは、何よりも東京に住む人々の「家」が富士山との関係によって成立してきたことを物語っている。
映画的シーンの復元と反復をめざすディズニーランドをはじめて外国で実現しようとする東京ディズニーランド建設というプロジェクトにあって、強いイコンとしての富士山が見える「家」に置かれた家具となることをディズニー側が嫌ったのは、当然と言えば当然なのである。

1──三代広重作《東京名所寿留賀町三ツ井店西側富嶽眺望之図》(都立中央図書館所蔵)

1──三代広重作《東京名所寿留賀町三ツ井店西側富嶽眺望之図》(都立中央図書館所蔵)

2──歌川広重《する賀てふ》(『名所江戸百景』より)

2──歌川広重《する賀てふ》(『名所江戸百景』より)

3──梅堂小国政《憲法発布式桜田之景》(神奈川県立博物館蔵)

3──梅堂小国政《憲法発布式桜田之景》(神奈川県立博物館蔵)

4──《北海道御巡幸之図》(部分、神奈川県立博物館蔵)

4──《北海道御巡幸之図》(部分、神奈川県立博物館蔵)

5──《高田富士》(『江戸名所図会』より)

5──《高田富士》(『江戸名所図会』より)

「山殺し」というテクノロジー

近代都市論のほとんどがイギリス中小生産者が機械技術を導入することによって達成した産業革命との関係で議論されてきた。近代化が産業化と商業化をもたらし、産業化と商業化の進行に従って近代化が完成していく。そのような近代都市論の素朴な規範を中心に、東京の近代化や近代都市論も展開されてきた。ところが、ヨーロッパでも「近代化─産業化─商業化」や「中心コア周  辺ペリフエリー」といった図式は、微妙な揺れを経験しながら近代化へ向かっていった。イギリスの機械技術がフランスやドイツに波及すると、それぞれの国で独自な反動をもたらした。反動は伝統的な政治構造や社会構造に直接波及したわけでなく、農村部出身の人々の集団とその行動に大きな影響を与えたのである。
日本にも、「文明開化」というイデオロギーに導かれて、集中的に生産技術や金融制度や交通・通信などのネットワーク技術が導入された。そのようなテクノロジーの導入をめぐる反動は、富士山をめぐる自然観があまりにも特異な表象の機能を発揮しているがために、その反動の根拠は常に自然観が背景となる。ただ、反動の根拠となると同時に、そのような自然観は社会構想の絶対的な規範として、あるいは外部的・他者的な存在として、政治的なイデオロギーに利用されることにもなり得る。ここから第二の仮説、「土地神話」というテクノクラシーの問題に接続していく。
工業用地が太平洋岸に集中したことは、国家ぐるみの政策であったにしろ、その深層に「海」をめぐる地政学があることが指摘されなければならない。「海」は地理的に諸外国との距離感を感じさせる一種のトラウマ(精神的外傷)となっていた。それは、攘夷思想が海防策との関連で論として体系化されないまま唱えられていた江戸時代後期の頃から続いている、トラウマとも言える。つまり、「海」は「外国」のメタファーであり続けている。だからこそ、日本の造船業が、その技術的な裏付けと共に、世界のシェアを占有していた時期があったことを考えても、近代主義へシフトして行くプロセスにおいても、「海」は「外国」のメタファーであり続けた。現在でも、「海外進出」というジャーナリズム用語がはらむある種気負った語感は、日本近代にとって「海」はきわめて特殊な意味を背負わされてきたからである。
「海」を偏重することは明治維新以降の政策に一貫したものであるが、明治政府による国家神道の徹底も、日本近代の自然観を根本から変革したことも同時に指摘しておく必要があろう。明治維新の廃仏毀釈令を発端とする「山」や「森」の役割の限定は、日本近代の「自然観」そのものを大きく変容させた。富士山の「霊峰」としての地位が民衆に定着する一方で、各地域にあった山や森の多様さは国家神道の統制へ抽象化されたのである。もちろん、結果的に特異な表象としての機能を発揮する富士山も、結果的に「山殺し」に加担することになったのである。この「山殺し」とも言える自然観の統合化は、人々がそれまで「山」や「森」に抱いていた畏敬の念を、拡散するにあまりある効果を示した。
国家神道による統治を背景に進んでいった「山殺し」は、「海」をメタファーとする近代世界を純化されたモデルとして表象していく空間として、少なくとも第二次世界大戦の前あたりまで、時代のイデオロギーや人々の意識と深く結びつきながら発展していった。もともと「山殺し」は、江戸時代の後期に明らかになりつつあった自然観を引き継いで利用し、明治・大正期を通じて全国各地に拡がった精神の形式である。文明開化といった文化の側面においても、殖産興業や富国強兵といった近代産業主義と新たに台頭しつつあったナショナリズム(国家主義)が政治神学的祝祭のなかで制度化されていった。「山殺し」の進展と東京を中心とする湾岸の発展は、同一のイデオロギーがもつ二面性だったのである。近代主義を宙づりにし、ナショナリズムだけを突出させる方法で、明治以降の政治神学は発展していったのである。
松方財政の強行、八幡製鉄所や三菱重工長崎造船所などを契機とする殖産興業や富国強兵といった近代産業主義へのシフトは、「富士山」の表象化と「山殺し」という二面性によって、大きく進行していくことになり、この実に奇妙な合理性は二度の世界大戦を経過しても依然として「日本近代」の核心として、政治や経済はもちろんのこと、社会や文化のあらゆる局面でも、大きな影響力を発揮しているのである。

「土地神話」という土地の情報化

第二次世界大戦後の高度成長でも「山殺し」は、さらに加速していく。その「山殺し」に加担し成長していったのが、建設業や不動産業である。第二次世界大戦後の高度成長では、重工業が「基幹産業」と呼ばれ、外貨の獲得と雇用の創出をもたらした。その一方で、建設業や不動産業は、文字どおり「後方支援」を続けてきた。最終的に、その後方支援が、オイルショック以後の「民間活力導入」や「産業構造転換」といった経済政策を契機として前線へと押し出され、七〇年代後半から経済の主役に躍り出るようになる。
無限に続くとも信じられてきたような高度成長を支えてきたのは、土地の有効利用を大義名分とした工業用地や商業地域の確保であった。われわれが社会科の教科書で学んだ「太平洋ベルト地帯」は、太平洋沿岸に工業用地を確保し、製鉄業や石油化学コンビナートなどの重工業を振興するための政策でもあった。いわゆる「四全総」は、そうした太平洋沿岸への工業用地拡大を後方支援する政策でもあった。もちろん、太平洋沿岸に陣取った重工業の工場群は、一九七〇年代のオイルショックまで右肩上がりの成長の原動力となった。
この高度成長期を通じて、建設業や不動産業が主導する「開発」は、まず何よりも土地の確保とその運用に重点を置く社会改良主義であった。それは田中角栄の「日本列島改造論」に象徴されるが、そうした社会改良に根拠を与えたとも言える。丹下健三「東京計画一九六〇」プロジェクト案や菊竹清訓「海上都市一九六〇」プロジェクト案は、建築家が技術官僚として「山殺し」に加担した典型である。
八〇年代に顕著となり現在でも多くの日本人の深層となっているいわゆる「土地神話」は、一種の屈折したテクノクラシーなのである。テクノクラシーは、元来政治的意志決定が産業社会において技術的専門家によって掌握されている事態を意味する。本来、テクノクラシーとは、アメリカがそうであるように、大統領の科学顧問のような科学者が重要な政治的意志決定に重要な役割を果たすことを意味する。いわゆる軍産学による「鉄の三角形」は、そうしたテクノクラシーと連携した経済政策であり戦略防衛計画である。ところが、日本で発揮されるテクノクラシーのほとんどが、系列会社(銀行などを含む関連企業)を数多く統率する旧財閥系企業と許認可権を独占する官僚機構との合意にもとづく社会改良計画であった。このような政官財による日本版「鉄の三角形」による開発独裁が、「開発」を大きく促してきたのである。たとえば、東京ディズニーランドを誕生させた「千葉方式」★八 と呼ばれる京葉地域の埋め立て事業と宅地開発や企業誘致も、そうした開発独裁のひとつと言える。
「千葉方式」を簡単に復習しておくと、埋め立て工事の費用を調達できない行政側に代わって企業がその費用を負担する。もちろん、必要とされる技術や機器なども企業側が独自に負担する。その肩代わりした埋め立て費用以上の収益が出るように、土地利用に関する各種規制を行政側が緩和するものである。東京ディズニーランドは、その「千葉方式」に盛り込まれた六〇万平方メートル以上のレジャー施設という規制に対応したものだったのである。
東京ディズニーランド誕生を主導した三井不動産は、霞ヶ関ビルや新宿三井ビルなどの高層建築のプロジェクトを成功させ、三菱地所など競合他社との距離を急速に縮めていったが、海岸埋め立て技術、竣工船(埋め立てのための専用工事船)の自主建造(現在の三井不動産建設による)、そして海外での派手な不動産投資に至るまで、戦後五〇年を通じて、「土地神話」をめぐる三井の全社をあげた取り組みは、何よりも「戦後五〇年」が「土地」の時代であり、そうした「土地」をめぐる技術主義的管理社会を推進する日本独自のテクノクラシーが垂直状の未来感覚を投影していった時代であったことと深くかかわっている。一九八三年に開園した東京ディズニーランドとそれと呼応するように到来したバブル経済の勃興が、その政財官という鉄の三角形による開発独裁というテクノクラシーのひとつの「なれの果て」であることは、言うまでもない。
一九七〇年には大阪で約六千万人の入場者を集めた日本で最初の万国博覧会が開催される。この大阪万博は、いくつかの点で当時の日本の経済力と政治的な安定を世界に誇るものであった。そして、民衆を巻き込んだ大量の移動手段の方式として、鉄道や地下鉄などの整備が進んでいき、跡地利用として千里ニュータウンという宅地造成が行なわれたこともひとつの大きな特徴である。
一九七〇年の時点で、大阪万博はまず何よりも新しい技術のディスプレイ装置であった点で、きわめて伝統的な万博のスタイルを踏襲していた。それと同時に、あるイベントが劇的な社会改良をもたらすことを学習した空間であった。国土利用を大義名分とした土木技術(もちろん、埋め立て技術を含む)、行政による規制緩和、地下鉄などの都市交通ネットワークに至るまで、これら「開発」がもたらす利害が「土地」に抽象化されている。そうした「土地」をめぐる利害が操作可能な社会形式であることを、経験として学習してしまった。この「土地の情報化」とも呼ぶべき形式化に人々の「景気」や「経済効果」といった通俗的な経済感覚が投影されていった時代であったことと大阪万博は深くかかわっていたのだ。
土地は「ある」ものではない。土地を作り出し、それを用地として運用することが、きわめて効果の高い経済行為となる。土地そのものが情報化したのである。これはとりわけ、「山殺し」と「土地の情報化」が極端に進行した東京を発火点として、日本全国に飛び火していった。
土地は特定の場所を意味するわけでも、空間の剰余を指示するわけでもない。ましてや、交換可能な商品ではない。その点、本来土地とは「行為」である。そして、行為に触発されて「環境」と「リズム」が資本主義のダイナミズムに回収される。土地神話は、すべての「環境」と「リズム」を情報化した結果として生まれたのである。

東京のカーニバレスク

民活を背景に東京湾岸に出現した東京ディズニーランドは、近代世界を純化したモデルとして表象していく空間として、一九八〇年代のバブル経済の状況や生活様式の変容と深く結びつきながら発展していった。
オギュスタン・ベルクは日本にそもそも2009.06.05備わっていた「ポスト近代性」を強調しつつ、東京ディズニーランドの存在について「東京ディズニーランドには、アジアの……そしてアメリカの観光客も数多く訪れる。その目的が、変わらぬ日本の姿を知ろうというのであれば、彼らがここへ来るのも、もっともな話である」と述べている★九。日本がそもそも「ポストモダン」をはらんでいたことを議論してもまるで意味はない。そこで述べられている「ポスト近代性」は、近代の輪郭がはっきりとしないのだから。それより、「日本」を知るために東京ディズニーランドを訪れるという指摘そのものは、東京ディズニーランドにとってかなり核心的な指摘である。
「山殺し」と「土地の情報化」は、「遅れてきたブルジョワジー」という特異な社会集団をもたらした。「遅れてきたブルジョワジー」は、一九世紀にヨーロッパに登場したブルジョワジーという社会階級が日本にも登場したという意味ではない。「遅れてきたブルジョワジー」とは、「山殺し」と「土地の情報化」というテクノクラシーによって祝祭的な伝統を必然的に骨抜きにされてしまった社会集団であると理解しておくとよいであろう。「遅れてきたブルジョワジー」は、祝祭的な伝統から救済された回復の見込みがほとんどない儀式の断片を演出しようとする。形骸化し虚飾化した冠婚葬祭は、その典型である。「遅れてきたブルジョワジー」は、自らが背負う「家」にまつわる習俗を抑圧する言語や行動を持ち得ていない。それが、一九世紀に登場したブルジョワジーと根本的に異なる点である。ブルジョワジーは、精神の発露としての祝祭の抑圧を言語や行動によって勝ち誇ることを近代的自我として追究したからこそ、ヨーロッパの近代でリーダーシップを発揮した★一〇。その点、「遅れてきたブルジョワジー」は、きわめて神経症的である。「家」を同定していたはずの祝祭的な伝統から自ら逸脱すること以外に、「遅れてきたブルジョワジー」の神経症の症状を癒すことはできない。
「遅れてきたブルジョワジー」がその欲望を奔放に発散させることのできる、消費の「結晶体」の住居としての東京ディズニーランド、この徹頭徹尾神経症的で集団的な特性は、歴史の排除という点で、「家」といった共同体的な特性を呑み込んでしまうほど、ラディカルでスリリングなのだ。ラディカルであればあるほど、スリリングであればあるほど、どこにもないような虚構性と観念性を帯びる。とりわけ、「山殺し」と「土地の情報化」を完膚なきまでに実現した東京ディズニーランドのその虚構性と観念性は、ディズニーによる映画的なパノラマと連携して、さらに虚構性と観念性を備えた「東京のカーニバレスク」を高める。ディズニーが擁するキャラクターとのミメーシスを実感する空間に身を置く「遅れてきたブルジョワジー」は、観念的自己と情念的な自我を引き裂かれた状態をどこかで癒そうと格闘している。「空間性」として継承された時間の連続性が、「観念的自己」と「情念的自己」と葛藤することによって、「遅れてきたブルジョワジー」の神経症の言語は、「家」にまつわる祝祭の実践を否認すると同時に保留しておくのである。この永遠に回復する見込みのない「遅れてきたブルジョワジー」の神経症の対症療法が、「外国」と「消費」を連携させた東京ディズニーランドのカーニバレスクなのである。東京ディズニーランドは単に「技術」や「商品」のディスプレイ装置であるのみならず、「アメリカ文化」のプロパガンダ装置として機能するはずであった。ところが、東京ディズニーランドは年を経るごとに、その独特なカーニバレスクを発揮しはじめることになったのである。
東京ディズニーランドは、「遅れてきたブルジョワジー」にとって、「土地」の情報化と大量消費社会とが幸福に衝突した場所でもあった。その意味でも、東京ディズニーランドが一九八三年に誕生したのは、またとないタイミングであったと言ってよい。東京ディズニーランドには、消費をめぐるメッセージがすべて集約されていた。テレビ番組のようなバラエティもあるし、雑誌のように話題性を追ったアトラクションのヴァリエーションもある。また、ディズニーのキャラクターに溢れたショッピングモールもあり、デパートのように見て回り買うこともできる。これらは、都市のなかにすでにデパートとして常設化され、またメディアのなかに広告として日常化されているが、東京ディズニーランドはそれらを集約し、「東京のカーニバレスク」を保証しているのである。
このように、東京ディズニーランドはその誕生そのものを通じ、科学技術や消費社会、それに技術に対する世俗的な信仰と見世物的な娯楽性を融合させてきた。それは、「山殺し」と「土地の情報化」を宣言する宣伝装置であると同時に、「遅れてきたブルジョワジー」を誘惑してやまない独自のカーニバレスクの形態なのである。


★一──江戸英雄『三井と歩んだ七十年』(朝日文庫、一九九四年)。
★二──Kasson, J., AmusingThe Millions: Coney Island at the a Turn of the Century, Hill & Wang, New York, 1978.
★三── 陣内秀信『東京の空間人類学』(筑摩書房、一九八五年)、一七二頁。
★四──小木新造『東京庶民史研究』(NHKブックス、一九七九年)。
★五──藤森照信『明治の東京計画』(岩波書店、一九八二年)。
★六──多木浩二『天皇の肖像』(岩波新書、一九八八年)。
★七──武田信明『〈個室〉と〈まなざし〉──菊富士ホテルから見る「大正空間」』(講談社叢書メチエ、一九九五年)、六一─六六頁。
★八──粟田房穂・高成田亨『ディズニーランドの経済学』(朝日文庫、一九八七年)。
★九──オギュスタン・ベルク『都市の日本──所作から共同体へ』(宮原信・荒木亨訳、講談社現代新書、一九九六年)、一九三頁。
★一〇── Stallybrss, P. and White, A. "Bourgeois Hysteria and the Carnivalesque", in Simon, D.(ed.) A Cultual Studies Reader, Longman, New York, 1993.

>桂英史(カツラ・エイシ)

1959年生
東京藝術大学大学院映像研究科教授。メディア研究。

>『10+1』 No.09

特集=風景/ランドスケープ

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>多木浩二(タキ・コウジ)

1928年 -
美術評論家。

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...