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Parasitical Notation(たとえば、るくー、あるいは、さてぃ、しゅーまん) | 五十嵐太郎
Parasitical Notation | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) pp.172-184

ことによると、夢の連鎖は尽きないかもしれない。
──J・L・ボルヘス『コウルリッジの夢』

しみ──不可視の連続体

一八二五年、晩年を失意のうちに過ごしたある男は、自らの描きためたドローイングをパリの王立図書館に寄贈し、一切の消息を絶った。それからちょうど一〇〇年後、ひげと帽子と眼鏡とコウモリ傘を愛した第二の男は、バレエ《本日休演》の作曲を最後に、一九二五年、パリの聖ジョセフ病院で孤独な死を迎える。その後、彼の部屋にはじめて足を踏みいれた友人が目にしたものは、壊れたピアノ、大量の埃、クモの巣、ゴミや虫、そしてわけのわからぬ言葉を散りばめた紙クズの山であった。
「私はひとりぼっちだ、孤児のように──あるいはさなだ虫のように」と第二の男は告白する。ふたりの独身男はともに貧困に苦しみ、そして夢想の世界に生きた。前者はフランス革命期の建築家(?)ジャン・ジャック・ルクー(LEQUEU)(もっとも実現した作品は極めて少なく、現存するものはない)、そして作曲家である後者の名をエリック・サティ(ERIK SATIE)という(もっとも彼らは署名する際、ときおりDE QUEUX、LE QUEU、SADI といった違う表記を意図的に行なう。またサティのもとの名は ERIC だった)。しかし、ここで前者が後者に影響をあたえかどうかを問うことや、両者にあえて歴史的な因果関係を求めようとすることは無駄であろう。異なる時期を生きた建築家と作曲家は、ともにパリで仕事をしただけなのだから。むしろ彼らはボルヘス的な連関をもつとしか言いようがない。つまり一三世紀の忽必烈クビライ汗が夢で見た設計図に従い宮殿を建て、それが廃墟と化した五世紀の後、イギリスの詩人コウルリッジが偶然、読んだ本から同じ宮殿の詩を夢のなかで授けられたというような超歴史的な夢である。それともサティの楽曲《囚われ人の嘆き》で「数世紀が二人を裂く」、「私は水夫のラテュードだ」というヨナ(鯨に呑まれた旧約聖書の予言者)と「私はフランス人のヨナ」というラテュード(獄中に生きた一八世紀の山師)の関係? ルクーとサティは、個人の同一性を越えた巨大な無意識でつながれたふたりの男であった。
紙のしみ。白紙のうえに落とされたインク。つまり彼らのドローイング、あるいは楽譜が、実は問題なのだ。もし仮に透明な表象=ノーテーションが存在するならば、いや近代のノーテーションとはそもそも純粋な伝達を信仰する方向に突き進んでいたのだが、彼らはそこにノイズを発生させたのである。本来、そこに表象されえぬもの、文字というノイズを(文字も広義のノーテーションなのだが)。古典的な芸術の分類では、それぞれ空間と時間において展開される形式芸術の建築と音楽は、具体的な意味内容を伝達するものではない。そのため建築と音楽のノーテーションも、ナラティヴな言葉が介入する場所をあたえてこなかった。だが、媒介物は過剰を生む(バロックのような実現されたものの過剰ではない)。そして透明なる認識の破壊者たちは、そこに寄生する紙のしみのしみをひたすら増殖させる。つまりノーテーションのしみをはびこらせるのだ。

狩り──中断された表象

「すべての動物は豚の石で出来ている。すなわち、こすると猫のおしっこ、腐った卵……の匂いを放つ硫黄を混ぜた石灰質のもの」。これは《皇太子の狩猟場、快楽園の門》[図1]と題されたルクーによるドローイングの余白、正確には口を開けた猪の左上の書き込みである。                                                                                           

1──ルクー〈皇太子の狩猟場〉

1──ルクー〈皇太子の狩猟場〉

そして猟犬の頭上では「先端に装飾が施されたオベリスクを積むピラミッド」と記されている。つまりこれは狩られる対象=雄鹿の頭を中心とし、二匹の猪と四匹の猟犬がオベリスク上に配された、動物と建築の異種複合体なのだ。ルクーは様々な要素を組み合わせる料理人ル・クー(LE QUEUX)である。そのうえ同一図面内で付与された奇妙な文章は、ただでさえ不思議な建築物にさらなる意味の攪乱を引き起こす。そう、文字が侵入している。図面だけでは伝えられない強烈な刺激を喚起する、嗅覚にうったえる建築。それにしても何という匂い!
サティはかわいそうで動物を撃てなかった。気まぐれで、わずか二〇秒(彼の曲にはしばしば小節線がない)ほどの《狩り》[図2]には、「聴こえますか、兎が歌っているのが?……私は、といえば鉄砲をぶっ放してくるみを撃ち落とす」という言葉が付いているからだ。                                                                                                     

2──サティ《狩り》1914

2──サティ《狩り》1914

バロックの時代には、カノンやフーガの構造、すなわち音の追跡や逃走が「狩り」を表わしたことがあったし、以後もホルンなどによる音響的な模写やヴィヴァルディの音の動きによる「狩り」の模写もあった。しかしサティの《狩り》は言葉によって根拠づけられている。しかも、それはいわゆる歌詞でもなく、慣習化された演奏の指示でもない。音符の戯れでしかない純粋なピアノ曲にとって、物語は必要ないにもかかわらず、下段の五線譜では音符の代わりにテクストが重ねられている。これは楽譜に書き込まれた、発話されない絶対的なエクリチュールである。なぜならサティによる《一世紀毎と瞬時の時間》の楽譜の最初のページには、こう記されている。
「関係者各位へ 音楽の演奏中に、これらの文章を大声で読みあげることを禁ずる。この指定に違反するどのような行為も、その不遜なる態度に対しては、わが正義の怒りを招くであろう。どんな例外も許されない」。
では一体、誰のためのテクストなのか?(小声なら読んでもいいのだろうか?)本来、音楽のノーテーションは、作曲者→演奏者→観賞者という伝達を妨害なく遂行するためのものだった。だが、演奏者の指示としては饒舌に過ぎ、歌詞ならば声に出されねばならないはずの異物は、それらのあいだに位置し、作曲者→演奏者の部分で宙に浮いてしまう。中断されたノーテーション。これは古典音楽がもつ記譜法の体系を乱す、外部からの侵入者である。鑑賞者が書き込まれた五線譜をのぞきこまない限り、寄生虫たちは閉ざされた紙のうえで永遠のおしゃべりを続ける。

偽証──抹消された痕跡

かってルクーは、エミール・カウフマン『三人の革命的建築家』★一で、ブレーやルドゥと比較され(そして復活し、有名になっ)たが、彼らのノーテーションの戦略は検討されなかった。確かにいずれも黒い線の枠に囲まれた図面である。しかし、画家になりたがっていたブレー。彼は題目の表示ですら極力排除し、言葉の挿入されない沈黙の作品を描きつつ、純粋な表象の世界を構築した。皮肉にもバベルの塔状の構築物[図3]でさえ失語症なのだ。             

3──ブレーによる螺旋状塔のプロジェクト

3──ブレーによる螺旋状塔のプロジェクト

ルドゥの場合は「物語る建築」でありながら、本の挿絵という体裁をとり、図面の世界を饒舌なテクストから分離した「物語と建築」なのだ。ボザール系の建築図面と同様、かろうじて題目、部屋名や図面形式の表示だけが浸蝕を試みる。とすれば、それが本のように作られながら、ほとんどの文章があらゆる図面の余白に書き込まれ、同じ枠組内で混在しているのがルクーだ。      

4──アポリネールのカリグラム「サティ」

4──アポリネールのカリグラム「サティ」

彼にはむしろ独立したテクスト部分の方が少ない。おそらくカウフマンの『ルドゥーからル・コルビュジエまで』★二が端的に示すように、彼は近代建築につながる自律的形態を一八世紀の建築家に求めたがために、図面表現に寄生する虫たちを無視した。事実、フィリップ・デュボワの指摘によれば★三、一九三九年のブレーに関するモノグラフでは、ルクーの《聖なる都市》[図5・6]や《最も学識あるものたちの墳墓》を紹介しているが、そこでは書き込みがカウフマンにより注意深く消されている。寄生虫は駆除された。そしてルクーの虚構が捏造された。いや、彼は証言台に立たされたのだ、近代建築のために。        

5・6──ルクー《聖なる都市》(オリジナルと書き込みを消されたもの)

5・6──ルクー《聖なる都市》(オリジナルと書き込みを消されたもの)

もうひとつの違いがある。それは各プロジェクトの図面表現が、ルドゥは必ず平面図も含むのに対し、ルクーはもっぱら立面図のみで終わっていることだ。次の例がそれを象徴的に示すだろう。ともに男根を模した作品でありながら、ルドゥは《オイケマ》で平面、ルクーは《最高存在者、神に捧げられた場所……》[図7]で立面を使用している。     

7──ルクー《神に捧げられた場所》

7──ルクー《神に捧げられた場所》

少なくともルドゥは社会的プログラムのひとつとして愛の家を構想しているが、ルクーのは立っているだけだ。たぶん立面の方が時代の理性から逃れ、個人の感情を表出するのに相応しい方法だったのだ。ところで他にもルクーは女性化した自画像[図8]、男根を鼻につけた彫象がのった《庭園の神のゴシック風聖遺物匣》、二羽の鳩の下に男女の性交を描いた《最も心地いい快楽の小庭にある愛のハンモック》、そして男女の性器の描写、バッカス神の享楽的風景などの「淫らな図版」を数多く描いた。(多木浩二が本誌創刊号で指摘したように)おそらくルクーほどに性的な妄想を図面にもたらした建築家は少ない(マニエリスム期のジュリオ・ロマーノも好色画を描いているが、建築化されたものではない)。それについてジャック・ギイルメの論文「ルクーと悪趣味の創意」では、エロティクなインスピレーションが大胆な曲線をもたらし、彼の嗅覚の過敏症や学術的列挙への強迫観念はサド・アナル的徴候を示すものだと指摘する★四。ルクーの建築の枠組を突き抜ける過剰な表象、個人の感情や性的妄想が不透明さを生みだしているのだ。                                                   

8──ルクーによる倒錯した自画像

8──ルクーによる倒錯した自画像

ジャン・ジャック・ルクー/ルソー/ル・フー──混乱と完全の論理

ルクーが自ら編纂した図面集『市民建築』に、統一的なヴィジョンを見出すのは難しい。あらゆることが建築化されていながら、あらゆる統語法を拒否しているからだ。例えば、四三番の図版。同一紙面上に並ぶ、上の《その扉が栄誉の神殿にと導く、美徳の神殿の入口》と下の《大きな火薬庫》にいかなる関連があるのだろうか?[図9]

9──ルクー《美徳の神殿》と《火薬庫》

9──ルクー《美徳の神殿》と《火薬庫》

新古典主義風の神殿と尖頭アーチをもつユーモラスな顔(?)である。三六番の図版をみよう。左上にロージエが提唱した「原始の小屋」風のエルミタージュ、右上にパラディオ風の開口部と無装飾な窓をもつ工場、下側に西洋的な彫像を屋根にのせた中国風のキオスク。すべては一八世紀終わりのフランスに流行った新古典主義、自然への回帰、異国趣味などの、何々風なのであり、だからといってそれらを秩序づけて配置し、全体を理想都市化する欲望すら萎えてしまっている。いわばこれは奇妙な題目が並ぶ、ルクーによる歪んだ当世の夢の百科事典なのだ(デュボワの本では、ボルヘス、フーコーの議論をふまえ、「ある中国の百科事典」を章のタイトルにしている)。
しかし百科事典に意味不明な書き込みがあるからといって、それがただの落書きであったり、稚拙なお絵描きなわけではない。むしろ彼が非常に優れたドラフトマンであったことは、その経歴からも充分裏付けられる。彼は地元ルーアンの美術学校で優秀な成績を修め、一七七九年からパリのJ・J・スフロの事務所などでドローイングを制作するかたわら、建築教育にも献身していた。また『市民建築』の導入部は陰影表現の作図法の解説なのだが、図版にはルーアン滞在時の年代や一七八二年パリの署名が左下になされており、それらが教育のために制作されたことが推定できる。ルクーが図法にかけた情熱のほどは、一七八九年のエッチング教育の概説や一七九二年の論文『新方法、各種の幾何学的図法により人頭図を完全にするための描画の基本的原理』からもうかがわれる。『新方法』は、人間の頭部の各部分、目、鼻、口、耳などを幾何学的な作図法で描くための説明文と図版から構成され、最後にはその新しい方法で再現された完全なる人頭[図10]が示されている(実際、ルクーはこの方法を幾度か使用している)。だが、ルクーの理想的な人頭は、あまりに鼻筋がどっしりと通り、丸い目に卵形の輪郭であり、いささか不自然な印象は拭えない。(それはコールハースの『デリリアス・ニューヨーク』に登場する、人間を完全にするための流線形化された人頭にも似たおかしさをもつ)これは解剖学的な人体観察や比例による人体分析がもつ不気味さとも違う。ノーテーションのシステムだけが暴走する、突然変異体なのだ。そして完全なノーテーションのためには、オリジナル自体が変容せねばならないという転倒? 『新方法』は彼の職人気質と一八世紀フランスの合理主義が混成した、まとも(過ぎるよう)な図面表現である。ギイルメが説明するように、性的なオブセッションを昇華させるための反動として、ルクーは精密なドローイングの制作に打ち込んだのかもしれない。いずれにせよ彼は決して技量不足なのではなく、むしろ充分すぎる技術を持っていたうえで書き込みを行なっていた。だが、その技術は表象の限界を超えるためにこそ必要であったのだ。

10──ルクー《新方法》1792

10──ルクー《新方法》1792

ところで彼と一文字違いの男(もちろん日本語表記で)、ジャン = ジャック・ルソーは孤独な晩年を音楽の写譜で生計をたてていた。そして膨大な写譜、つまり楽譜を書き写す作業から、ルソーはもっと合理的な数字記譜法を考えだす。すべての音の高さと音の長さは五線譜なしに数字だけ表記され、誰にでもわかりやすい普遍的なシステムとして提唱される。ルクーと同様、完全なノーテーションのための新方法であり、一八世紀のフランス思想の産物だった。だが、これは作曲家、ラモーによって徹底的に反駁されてしまう。
ルクーに戻ろう。彼の書き込みは図面の余白だけではない。建築物のうえにも文字は刻みつけられる。モニュメントの碑文、銘句、プレートや看板の文字……、いたるところから建築は語りかける。彼は文字そのものに強い関心を寄せていたのだろう。異国の文字も多い。例えば、おそらく漢字で「杏雨風」や「木九里」と書かれた《中国風の家と呼ばれる庭師の住居》[図11]や《光の神殿の卵円門に面する、中国風の家のサロン》、そして《入口が大瀑布に向かい合うエジプト風の小住宅》、《水門を設置したエジプト風の橋》では象形文字らしきもの、《大きな岩の下、祭壇画をもつ小さなシナゴーグ》ではアラビア風の文字なのだ(ピラネージも象形文字を使用している。リベスキンドだって文字が好きである)。その他、判別不能なものやフランス語を含めれば、百科事典は無数の文字に覆われている。やはりルクーは『新方法』で本の恩恵に触れているように、図書館をこよなく愛した人物であり、自らも数作の戯曲を書いたらしい(残念ながらそれは失われている)。

11──ルクー《庭師の住居》

11──ルクー《庭師の住居》

あのルイス・キャロルが好きだったサティも、古本屋で「本を売ったり、買ったりする……。これは何という愉しみなことだろう」と述べ、「なんと不思議な誘惑だろう!」と本屋を賞賛する。ルクーとサティはともに本の虫だったわけだ。
パラジットは主人公たりえるのだろうか? ひたすらカミをむさぼり食っていた、ジュリアン・バーンズ『10章で書かれた世界の歴史』の木くい虫はそうだった。そして文字化した建築、A・バソリ考案の『アルファベット建築図集』(一八三九)、Bの文字によるバベルの塔[図13]。しかし「各単体アルファベットで始まる主題を描き込んだ図の集成」なのだから、あまりにも整然としたバベルだ。                                                                                                                            

13──バソリ『アルファベット建築図集』

13──バソリ『アルファベット建築図集』

エリック = サティリック──音楽と言葉の臨界点

サティの《大きな階段の行進曲》でも、バベル的な、千段以上もある象牙製の大階段が登場するが、これは《狩り》のように楽譜の余白に書き込まれた詩の世界である。サティは無数のパラジットを生みだした。《梨の形をした三つの小曲》、《乾からびた胎児》、《あらゆる意味にでっちあげられた数章》、《  》(「新子供の音楽集」の第二曲は無題)……、どれも奇妙なピアノ曲の題名である。「食べ過ぎないように」、「遠くから自分をみつめて」、「口に出さないで」、「まじめに、でも涙なしに」……、どれも奇妙な演奏の指示である。そして「二六七回繰り返し」や「八四〇回繰り返し」という《いやがらせ》。誰もが理解に苦しむ、ノイズの数々。またサティが「雑音を私は作曲した」と言う、《パラード》ではタイプやサイレンなどの音=ノイズを加えるよう言葉で指示されていたし、彼の提唱した《家具の音楽》とは、まさに現実のノイズをひきたてるための音楽だったはずだ。他にはイラストも五線譜[図12]に登場する。ときにサティの不思議な言葉は、音楽と直接関係ないとして退けられたり、音楽の構造と一致するからといって正当化されたりもした★五。また言葉の多義性や、彼が皮肉屋サテイリツク(SATIERIKER)であることも多く指摘されてきた。だが、こうも言えるはずだ。ノーテーションの制度化こそが言葉を孕むのだ、と。しっかりとした本体に言葉は寄生するのだから。

12──サティの手稿 《ナザレ人の第一前奏曲》

12──サティの手稿 《ナザレ人の第一前奏曲》

音楽と言葉の闘争。かってテクストに曲をつけていた音楽は、少なくとも中世後期には立場を逆転させる。記譜法の確立、作曲技法の進化。音楽は言語を服従させる。そして純粋な器楽は音の自律的運動を生む。特に鍵盤楽器のもとで育まれた近代記譜法は、透明なノーテーションを促進する。

14──サティの建築的スケッチ

14──サティの建築的スケッチ

演奏の指示においてもマイナーな言葉は駆逐され、イタリア語起源のものばかりが制度化される。しかし一九世紀にとりわけ流行した標題音楽、ロマン派の詩との接近から問いかけが起る。積極的な音楽批評を行ない、作家志望でもあった、シューマンによる「幻想小曲集」作品一二第三曲の《なぜ》や《謎》である。彼は小さな囁き「フモールをもって」を何度も繰り返す(ドイツ語だ)。他にも「狂おしく」、「さらに苦しげに」、「遠くからの声」といった普通ではない指示。どの言葉も音にはならない。しかも書き込まれた音でさえ演奏されないのだ。とりわけ《フモレスケ》作品二〇の中段の動機[図15]は「内部の声」(Innere Stimme)と記され、音に出してはいけないメロディになっている。

15──サティの手稿《フモレスケ》作品20

15──サティの手稿《フモレスケ》作品20

また「謝肉祭」に挿入された《スフィンクス》[図16]は四つの音名がaschの文字を代理する曲なのだが、それが休符で示されるため、鳴ることを拒否するエクリチュールとなる。

16──シューマン《スフィンクス》1835

16──シューマン《スフィンクス》1835

つまり想像されるだけの音! 「幻影音」なのだ。そして《踊る文字》。「シューマンの音楽には何と数多くの記号が満ち溢れていることか」と、シュネーデルの限りなく美しいシューマン論★六は指摘し、精神分析的な考察を行なう。バルトやドゥルーズは、シューマンの絶えざる動き、そして彼のインテルメッツォを讃えた。だが、シューマンはその挙句、不断の音楽に悩まされることになる。以前は内部の声が夢のお告げのごとく、彼に作品をもたらしたが、もはや頭の中で誰にも聴かれることがないノイズは大きくなるばかり。やがてアルファベット最初の文字、A音しか聞こえなくなったシューマンは自らのノイズに押しつぶされてしまう。狂気の果てに……。
ノーテーションと言葉の接触。シューマン、サティの音楽はそれゆえ不純物があまりにも多すぎて、美しく凍らせること=建築化はできない。しばしばルクーはシュルレアリスム的建築の先駆けと指摘されたが、それはコラージュ的技法や奇妙な物語の内容だけでなく、言葉と図面の新しい関係性によっても評価されるべきなのだ(デイヴィッド・ハーヴェイは『ポストモダニティの条件』で、相互に関係性が薄い、存在論的に異なる世界を重ねあわせる技法を挙げている)。
つまり彼らの作品は同時に表象の臨界点を示唆する行為であり、コルビュジエよりはむしろ、ダダやシュルレアリスム以降の運動に複数の線を引く(マグリットによる一連の《これはパイプではない》、「これは音楽でない」とわめきたてる松平頼暁の《ザ・ミュージック》、研究書『これはマグリットではない』、《これはTシャツではない》というTシャツ★七。そして、ジョセフ・コスースの辞書を引用した作品《ひとつと三つの椅子》など)サティとダダは関係を持っていたし、ジョン・ケージがサティの愛好家だったのは有名である。そしてマルセル・デュシャン夫人は、ルクー研究家のデュボワにこう語ったという。「夫はふたりに夢中だったのです。会ったことのあるレイモン・ルーセルと全く知らなかったジャン = ジャック・ルクーにです」。

エゾテリィク・サティ──夜の思考

もの静かなノクターンが流れる。ときおりそんな雰囲気をルクーの作品は感じさせる、ギュンター・メトケンの『ルクーと夢想の建築』★八も指摘するように。確かに「穏やかなひかり、月光、あるいは陰鬱な空」のもとの《占いの神殿》[図17]、「神秘的な森の真中の」《神託の洞窟》や《石造り/フリーメーソンによる、海上の古城》などは、幻想的な情景のもとに建築物を置き、輪郭を曖昧にぼかす闇の力が支配的である。実際、明るい思考に対抗する、もうひとつの思考に強く魅せられていたのが、ルクーだった。彼はフリーメーソンと関わりをもち、《ゴシック住宅の地下》はモーツァルトの《魔笛》と同じく、火と水と土と空気により清められる入会の儀式を表わし、《新方法》や《賢知の神殿》の独特な言葉遣いにも思想が反映している。ルクーは秘教的エゾテリツク(ESOTERIK)である。そして秘教的な場面には、かすかに調和のとれた音楽が聞こえてくるはずだ。

17──ルクー《占いの神殿》

17──ルクー《占いの神殿》

それはジャンケレヴィッチが、思考のメタファーとしても論じた『夜の音楽/ノクターン』★九に他ならない。パスカルの「明晰さの欠如」は夜の闇のなかに始まり、ロマン主義は「混じったもの」へ向うという『夜の音楽』は、アンチ・デカルトの書だ。夢の時間にふさわしい音楽。サティもまた夜の芸術家であった。ただしシューマンが狂おしい夜ならば、サティは朝靄に近づく夜なのだが。もともとサティは中世の神秘主義に興味を持っており、その頃《オジーヴ》を作曲する。そして一八九〇年、彼はモンマルトルの酒場「黒猫」で知り合った作家の誘いで、薔薇十字教団の公認作曲家となり、《薔薇十字教団の最初の思想》や《薔薇十字教団のファンファーレ》をつくる。しかし薔薇十字教団とはわずか二年で訣別、その後、自分の部屋を礼拝堂とし、ひとりで秘教的な思索を深める。サティは蚊を退治しながら、こんなことをつぶやいたらしい。「おまえたちは、フリーメーソンの回し者じゃないのか?」

動物──異様な生成変化

サティの遺作《本日休演》の副題は「映画による《幕間》と『犬の尻尾』付きの二幕の瞬間主義バレエ」であったが、今もって犬の尻尾が何なのかを誰もわからない。ただしサティは「人間を知れば知るほど、私は犬が好きになる」といい、《(犬のための)ぶよぶよした前奏曲》を作曲し、犬のためのオペラも企画したがっていた(個人的にはネパールで犬に噛まれ、狂犬病の注射を続けながらのインド旅行をして以来、僕は犬が嫌いである)。一九一六年に『音楽における動物』の講演を行ない、一九一九年の『音楽と動物』の草稿には、「そう、私は動物たちが好きなのです。……絵画と彫刻はよく動物を表現する。……(だが)彼ら、動物たちは造形芸術には見向きもしないようだ。……二つの芸術はお好みでないのです。……それに対して建築と音楽は彼らを引き付ける」と記し、それはうさぎや鳥が巣穴をつくり、動物が彼らのやり方で音楽をするからだと述べている★一〇。当然、サティの音楽は動物があふれんばかりだ。演奏者への「けだもののように」という指示に始まり、猿の王様、歯の痛い鶯鷲うぐいす、ふくろう、猪、馬、豚、猫、ねずみ、蛇、ヒキガエル、夢みる魚、蛸、蟹、ナマコ……。彼らは近代化とともに自らの場所を失い、動物園に追いやられたものたちなのだ。サティの音楽は寄食者たちへの賛歌である。
動物への偏愛では、ルクーも負けない。ある時には部分の装飾として、蛇のねじれ柱、東洋の象鼻風の突出、ライオンの頭飾り、アーチ上に飾られた七匹の鹿、ふくろう、鷲、猫、蛾……、そして怪獣が寄生する。ある時は動物を主題とし、てっぺんに鳩をのせた《田舎の飼育場にたつ鳩小屋》、鶏がのる《ひなを熱で孵化させるオーブンに近い、小作地の鶏小屋》、牛のレリーフを中央上部に掲げ、扉に牛頭のノッカーと牛の乳房模様、両脇の柱上に牛頭をのせた《乳製品加工場》がある。そして究極の動物建築が、全体が牛の形をした《新鮮な牧草地にたつ牛小屋》なのだ(以上の順番が制作年代通りならば、これはフォークトがブレーに試みた、球体に帰結する至高の還元作業のパロディである)。建築は脆くも崩壊を続け、動物に変化していく。鶏や牛の鳴き声が純粋な形態を蝕み、理性の建築を掻き乱す。これは動物と建築によるサーカス、見世物としての巡回動物園だ。フーコーが古典主義時代のエピステーメーと指摘した「タブロー」のかたちを決してとらない、無秩序な動物たちの行列ラ・クー(LA QUEUE)である。ひょっとするとサティが残した謎の犬の尻尾とは、尻尾ラ・クー(LA QUEUE)のことなのかもしれない。

地図──表象の限界

サティの《官僚的なソナチネ》では「さあ出かけよう 彼は楽しそうに役所にむかう」と付記されているが、革命後、ルクーは建築家としてのの道を絶たれ、一七九三年より地籍調査局で働き、一八〇二年からは内務省でパリの地図、そして後にフランス帝国の地図作成に携わる。すでに当時は啓蒙思想が地図の合理化をうながしていたのを考えると、おそらく彼は昼間、カルテジアン的な地図を製作していたかもしれない。だが、その一方で夜(あるいは晩年?)はサン = ドニ街のいかがわしい宿に住み、夢のドローイングを描いていたのだ。空間を計る快楽とパラジットの快楽、矛盾した論理が地図製作者のなかで同居する。
やはりカフェよりも、キャバレーを好んだサティ。彼は音を聴くよりも音を測定することが愉しいといい、音を容易に記譜できる音響測定器フオノメートルに強い興味を示した。また芸術家は生活を規則正しくすべきだと述べ、七時一八分の起床から二二時三七分の就寝まで、異常な正確さを要求する自分の時間表を『健忘症患者の回想録』で披露する。音高を計ること、時間を計ること、いずれもノーテーションの快楽に他ならない。
シューマンの金銭管理もそうだった。彼はどんな細かな支出入も、小さな手帳に書き込んでいた。しかし、計算することの秩序は壊れる。死の直前、弟子のブラームスが精神病院を訪れたとき、シューマンはひたすら世界地図だけを見ていたという。他者とのコミュニケーションが不能になった彼は、地図から名前を拾い出し、地名の交換に没頭していた。ある町の名は山の名となり、ある山の名は河の名となる。そして最後はでたらめに収集した膨大な地名をアルファベット順に整理する。解体された言語の意味作用は、地図の辞書化にむかう。『夜の音楽』とは、陽光のもとに可視的な空間の分節を溶解させるものであり、視覚的な共存状態=地図は音楽の流れの中に流れ去るのだ。
そしてボルヘスの怪奇譚集では、完璧な地図作成の技術を獲得した帝国が、ついにはあらゆる細部が帝国と一致した一分の一地図、つまり帝国と同じ大きさの地図を作ってしまう話を収録している。この「学問の厳密さ」と題された短い文章こそが、ノーテーションの最終的な姿を的確に示しつつ、同時にその限界もあらわにする。実はこの典拠の刊行年代は一六五八年、奇しくもフーコーが『言葉と物』で示した表象の時代の始まり、すなわち一六五六年のベラスケス《侍女たち》や一六五七年のヨンストンス『四足獣の博物誌』と数年も違わない。そこで動物にまつわる伝説や物語というノイズを切り捨てたことが、例えばリンネのノーテーションを可能ならしめたとすれば、建築と音楽の古典的表記を支持したのも言葉の欠如であったはずだ。しかしサドやキュビィエ以前に、透明なる表象の空間は誕生したその瞬間から危機を迎えていた。すでに「学問の厳密さ」の結末が、寄生者たちの出現を予見しているからである。
「地図作成にそれほど身を入れなくなったのちの世代は、この膨脹した地図が無用だと考え、不敬にも、それを太陽と冬のきびしさにさらしてしまった。西部の砂漠地帯にはこの地図の残骸が断片的に残っており、そこに動物たちや乞食たちが住んでいる。これ以外、国中には地図作成法のいかなる痕跡も残されていない」。

18──ヴァイオリニスト、ヨアヒムに献呈された絵。シューマン《黒猫の隊列》による。

18──ヴァイオリニスト、ヨアヒムに献呈された絵。シューマン《黒猫の隊列》による。


★一──E・カウフマン『三人の革命的建築家』(白井秀和訳、中央口論美術出版、一九九三)。
★二──E・カウフマン『ルドゥーからル・コルビュジエまで』(白井秀和訳、中央口論美術出版、一九九二)。
★三──P. Duboy, Lequeu; an Architectural Enigma, MIT Press, 1987, p.70.
★四──J. Guillerme, "Lequeu et L'Invention du Mauvais Gout", Gazette des Beax-Arts, 1965. また、A・ヴィドラー「サド、フーリエ、ルクー」鈴木圭介訳(『季刊都市II』、都市デザイン研究所、一九八九)はリベルタンとしてのルクーを論じている。
★五──秋山邦晴『エリック・サティ 覚え書』(青土社、一九九〇)。
★六──M・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』(千葉文夫訳、筑摩書房、一九九三)。
★七──J. Odenthai, "Lequeu Architecture Civile und der Kosmos Alexander Von Humboldts", DAIDALOS, 1989, p.41
★八──G. Metken, "J. J. Lequeu et L'Architecture Revee", Gazette des Beax-Arts, 1965, pp.220-221.
★九──V・ジャンケレヴィッチ『夜の音楽』(千葉文夫訳、シンフォニア、一九九三)。
★一〇──O.Volta, Erik Satie: Ecrits, Editions Champ Libre, 1977, pp.72-75.
なお本論で引用したサティの言葉の多くは、秋山邦晴や藤富保男の訳に従った。またボルヘスについては、それぞれ中村健二と柳瀬尚紀の訳を使用した。

図版出典
1・5〜11・17──P. Duboy, Lequeu; an Architectural Enigma, MIT Press, 1987.
2──『エリック・サティ詩集』(藤富保男編訳、思潮社、一九九四)。
3──Jemi Mari

*この原稿は加筆訂正を施し、『建築と音楽』として単行本化されています。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.03

特集=ノーテーション/カルトグラフィ

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>多木浩二(タキ・コウジ)

1928年 -
美術評論家。

>建築と音楽

2008年9月29日